ロシアのサハリンは、妻の最後の任地だった。
2001年、私たちは、北アフリカのチュニジアに住んでいた。私が糖尿病の合併症で心筋梗塞であることがわかった。チュニジアの医師に心臓バイパス手術を受けるよう勧められた。手術室まで案内された。しかし妻と話し合って日本でバイパス手術を受けると決めた。妻を任地に残して、私は一人で帰国した。日本の病院で手術を受けることになった。運悪くその病院の手術室の改装工事が重なり、手術は3カ月延期になった。病院から手術までの間、自宅で待機するように言われた。日本に家はなかった。友人に頼んで小さな病院に入院できることになった。ユーゴスラビアにいた時、NATOの空爆で避難して6カ月日本に帰国していた。どんな家でも自分の家程良い所はない。避難しても直後は、みな親切で良くしてくれる。それも2週間くらい過ぎるとギクシャクし始めた。その経験から、私は妻の実家にも私の実家にも滞在することをあきらめた。3カ月が終わり心臓バイパス手術を受けた。退院してチュニジアに戻った。
戻ってすぐ転勤の話がきた。私は、地図上の距離だけでロシアのサハリンへの転勤を妻に懇願した。もし私の心臓に何か異変があっても、サハリンなら、すぐ日本へ戻ることができると思った。チュニジアから手術を受けるために一人で日本に戻るとき、航空会社の手違いでパリの空港の待合室で一日明かした。チュニスを出て、成田に到着したのが50時間後だった。そのことが大きく影響した。
北海道の千歳空港からサハリンへ飛行機で行った。乗った飛行機は、世界でアフガニスタンとサハリンでしか飛んでいない、アントノフ24機だった。40席ぐらいの機内の半分は、貨物を積んでいた。乗客は、20名くらい。恐かった。座席シートは、グラグラ。窓の枠のネジは、抜けている。内装もあちこち剥げ落ちていて、直す予定はなさそうだった。飛行中の機内の音は、耳を塞ぎたいくらいだった。
サハリンは、決して住み良い所ではなかった。人々の生活も社会主義の理想とは程遠いものだった。年金の不払いが続いていた。本来不自由ない快適な日常生活を保障されているはずなのに、極寒地の命綱である地域暖房プラントは、止まったまま。マイナス30度40度まで下がる冬の生活は、想像を絶する。チェーホフが1890年に3カ月滞在して『サハリン島』を書き上げている。サハリンは、あの時代とあまり変わっていないと私は、住んでみて思った。
ロシアは、今度の侵略でドネツク州マリウポリを包囲して1万5千人を強制移住させると発表した。その行先にサハリンが含まれていた。現在、ウクライナ国内がどういう状況であるかはテレビのニュースだけでは計り知れない。NHKでさえ同じ映像を繰り返し使っている。サハリンで暮らしたことがある私は、絶対にマリウポリの人々が、行って暮らして喜ぶ場所でないと容易に想像がつく。住めば都、とは、自分の意志で移ればこそ言えることだ。“強制”という足かせは、住めば地獄になる。
人間は戦争するために存在するのではない。戦争を回避するために存在して欲しい。