団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ボケの所作 重鎮の所作

2013年01月31日 | Weblog

  高島明彦著『アルツハイマー病は今すぐ予防しなさい』(産経新聞出版 1400円+税)を読んだ。私は本に書かれていた「本人が気づく『10の症例』」を早速検証してみた。

1.新聞の内容が頭に入らない。

  これはあまり意識していないが、気になるニュースや論説があれば、妻に話したいと思うし、その日のうちにその目的は果たしていることが多いので、合格。

 

2.昨日観た映画の内容が思い出せない。

  脚本に興味があるので、映画を観るとその構成を観た後メモするので内容を把握できている。合格。

 

3.読んだ本の内容を忘れる

  子供の頃から暗記力はからきしダメだった。読む本の数は多いが、映画のように画像で見たことの記憶ができても、文字文章から理解分析しての記憶能力は劣っている。特に要約ができない。内容をしっかり忘れるので、同じ本を何度でも読めるのは嬉しい。不合格。

 

4.電話の相手の名前を忘れる

  電話がかかってくることは一週間に数回であり、かかってくる相手もほとんど同じなのでまだ大丈夫だと思う。合格。

 

5.「あれ、これ、それ」を連発する

  もう自分でもあきれるくらい毎日の当たり前になっている。時々自分さえ分らないで「ここはどこ、私はだあれ」と思う瞬間がある。不合格。

 

6.言葉が出てこない

  客を迎え楽しく話している最中、どれほどの回数、妻の“横ヤリ”介入で出かかった言葉を先に言われ、悔しい思いをしていることか。あと0.1秒早く出ればと思うのだが。不合格。

 

7.物を置き忘れる。

  頻繁ではないが、メガネ、携帯電話がどこか探すことは月に数回ある。ただ妻が整理整頓好きで私の物も勝手に片付けてしまうので、置き忘れるというよりは、隠されているという被害妄想を持つ。ドイツ人男性学者が書いた本から学んで「歳をとったら、何でも首からぶら下げておく」を実践するようになってから改善している。合格。

 

8.仕事の約束を忘れる

  仕事をしていないプー太郎なので約束は年に数回しかない。カレンダーに朱書きで大きくメモしている。それでも数年に一回のわりで大ポカをして約束をすっぽかすことはある。合格。

 

9.新しいことを憶えられない

  学生の時から公式、定義、年号など暗記モノはすべて苦手。脳のその機能が欠落しているとしか思えないほど劣っている。生まれた時からボケていた。不合格。

 

10.     チケット、本の二重買い

  チケットを買うことがないから二重買いのしようがない。本が問題だ。一年に数冊二重買いをする。二重買いを知ると、気分の落ち込みから回復するのに数日かかってしまう。合格。

 

  以上10点満点の6点である。老化現象とかアルツハイマー発症の前兆というより、私に生まれてからずっと変わらず備わっていた天性であろう。幼い頃からずっとなじんできたので、この先、前兆が悪化しても、私はそれを受け入れ、なじむことができそうに思う。老いてきて、自分の劣等感がやっと和らぎ始めてきた。若い時は自分が他人より劣っていると悲しんだが、過去と現在の能力格差が小さいのもいいものだ。アルツハイマーの可能性は誰にでもある。避けて通れないなら、受け入れるしかない。

  ナンシー関が森繁久弥について書いていた。「重鎮らしい所作とボケの所作は重なる。①他人を意に介さない②自分のペースを崩さない③他人の言うことをきかない④質問されても、そういちいちはこたえない⑤でも急に思ったことを言う⑥ゆっくりとしか動かない」 

  私もきっと自分では気がついていないが、上記の6項目すべての域に踏み込んでいる。それでも尚、私は老いに盾つく。自分の居場所のせめて3メートル範囲内だけに集中して、自覚と自制を我が身に強いていくつもりである。目の前にいてくれる妻をいとおしみ、わざわざ私を訪ね、文書、電話、メールで連絡をとってくれる人々から頂く思い遣りを大切にしながら、これから先、私の責任が及ぶ縄張りを大切にして頑張る。


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零下46℃

2013年01月29日 | Weblog

 

 2006年5月に亡くなったロシア語通訳であり随筆家の米原万理が出版した最初の本は『マイナス50℃の世界』だった。私の最初の本『サハリン 旅のはじまり』と同じ清流出版が版元である。米原万理に会ったことはない。私はただロシア語圏に住んだ、マイナス50℃に近い厳寒を知っている、同じ出版社から本が出たというだけの勝手な親近感を持っている。それが原因で米原万理の本はすべて読んだ。どの本も好きだが、『マイナス50℃の世界』は特別な思い入れがある。壮絶な厳寒経験が書いてある。

  温度は数学嫌いな私にとって不可解な数字の表示である。妻が外務省を辞める前の最後の赴任地はロシアのサハリンだった。マイナス50℃は経験できなかった。しかし十代後半に留学したカナダのアルバータ州でマイナス46℃を経験した。映画『八甲田山死の彷徨』『デルス・ウザーラ』を観て、共通するのは、寒さの厳しさ中で生きる人々の自然に対する正当なわきまえである。2つの映画とも地元の猟師や住民が軍隊を案内する場面がある。軍隊という上下関係で成り立つ組織と権力と武器を手にする軍人の傲慢さが、ともすれば一般住民を見下し、彼らの進言に耳を貸さない。軍人の中にも一般庶民の中から案内人を選び絶大な信頼を置き、厳寒の地での進軍を成功させてしまう優れた指導者もいた。民間人に協力を懇願できる謙虚さを持つか、権力を笠に着て驕り偉ぶることにより、生死をわけた違いを描いたのが『八甲田山死の彷徨』であり『デルス・ウザーラ』である。

  今年の寒さは尋常ではない。と言っても温度計を見ると2度とか3度で零下にはなっていない。私が今住む町を終の棲家として選んだのは、私が抱える心臓病が理由である。主治医から「心臓の負担を軽くするためには温暖な気候の地で暮らすことをお薦めします」と言われた。サハリンの寒さは、確かに私を苦しめた。体だけでなく気持ちを落ち込ませた。そんな時に今住むマンションの新聞広告を妻が見つけた。

  私たち夫婦が生まれ育った信州よりも温かい。天気予報で示される最高最低気温、信州と今住む地では、5℃から10℃の差が出る。にもかかわらず住む家の中が寒いと感じる。老化の所為なのかもしれない。暖房器具の使用を極力控えているのも理由である。石油ストーブは、頭痛を引き起こすので使わない。信州のすきま風が吹きこむ家の造りと違い、2重サッシの家である。自分が住んでいるのは、信州と違う本来暖かい場所という思い込みがある。私の脳は勝手に数字だけで寒暖を察知評価してしまうようだ。マイナス50℃近くまでの低温を経験しているにもかかわらず、0℃近辺の温度でなぜこれほど寒さを感じるのかわからない。下着だって南極対応を謳う優れたモノを着用している。

  去年の夏は暑いといって家に閉じこもった。冬になったら、今度は寒いからと外に出なくなっている。家の中でやらなければならない仕事は山ほどある。読みたい本もたくさんある。書かなければならない原稿もある。

  昨日の日中、南側から今年初めて陽が差し込んだ。(写真参照)洗面所のブラインドの横に重なるブラインドの羽一枚一枚のすき間からやわらかな光が床に達した。そう春がこちらに向って歩み始めた。同じ町でも、北の窓から見る南斜面の日あたりの良さへのやっかみがこれから日毎に減る。


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鎮静・鎮痛剤

2013年01月25日 | Weblog

  夢みることもなく覚醒した。「何も異常ありません」白衣に使い捨ての手術帽と大きなカナディアンロッキーの氷河のような薄いブルーのマスク、出ているのは黒縁のメガネだけの男性が言った。ここがどこで自分がどうしてここにいるのか途方に暮れていた。悪い時間ではなかった。心配、痛み、悩み、妄想、恐怖すべてが消されていた。

  1月4日に膵臓のCT検査を受けた。昨日の24日には胃カメラ検査を受けた。12月に妻が腸閉塞で緊急入院した。それまでの2ヶ月間11月30日締め切りのある文学賞の小説を書くことに集中していた。資料原稿整理を手伝ってもらっていた女性から400字詰め原稿の枚数による報酬を時間給に変える要求があり、話し合いの結果、経費捻出のメドがたたず、女性とは縁が切れた。私の本の電子書籍化を依頼している会社の担当者と意見が対立していた。

  ストレスは私の意志薄弱な精神面にポイント攻撃をかけてきた。腹痛が続いた。12月28日に受診した。年末年始の休院と予約がいっぱいで検査の日程が離れて遅くなった。膵臓の検査はCTだったので横になっているだけで終わった。父親が膵臓癌で亡くなったので遺伝による罹病の可能性が高い。主治医の薦めで数年おきに検査を受けている。結果に問題はなかった。昨日の「上部消化管内視鏡検査」つまり胃カメラ検査は、心臓カテーテル検査に次いで苦手な検査である。いくら内視鏡が進化して細く小さくなったとはいえ、食物でない物体が喉を通る不快感には抵抗できない。最近では鎮静・鎮痛剤を使っての検査が受けられるようになった。私は迷わず使用を決めた。

  点滴のために左腕の肘に注射針が挿入された。「では薬を注入します。少しもうろうとするかも・・・」と主治医が言った。数秒後、私は意識を失っていた。覚醒すると、すでにすべてが終了していた。蛇のような内視鏡、管が口に入れられ、食道を抜け、胃の中をくまなく探り、ついでに十二指腸まで探査された。私はまったく自覚がなかった。

  この胃カメラ検査が終って意識が戻った時、アルジェリアで殺された方々の恐怖を思った。ぬくぬくと至れり尽くせりの医療検査を受けている私自身に腹がたった。

  アルジェリアの人質事件で安否不明だった人質にされた日本人10人の死亡がとうとう確認された。無常焦燥が、痒みのように私にまとわりついた。今朝7時のNHKテレビのニュースで政府専用機が9人の遺体と7人の生存者を乗せて羽田空港に到着したと伝える。外務省の大使館に配置されている医務官の仕事のひとつは、日本人の遺体の本人確認である。私の妻も飛行機事故の遺体の中から家族から聞いた靴下で特定をした事例があった。今回の安否確認に時間がかかった理由のひとつは遺体の損傷があまりにも酷かったかららしい。むごい。残虐。野蛮。殺された人質にされた方々のその瞬間の恐怖、怒、無念はいかばかりであったか。これから先、残された家族が生きている限り抱く悲しみ、不条理、割り切れなさ、怒り、憎しみへの償いなき長い時間に絶句し同情する。

 殺人者よ、テロリストよ、私を殺すなら、虫けらのようになぶり殺すのではなく、せめて鎮静・鎮痛剤か麻酔か睡眠薬を与えてから殺す科学と慈悲を持ってくれ。武士の情けをみせてくれ。情けは人の為ならず。武士でありえるはずもないオマエたちにわかるわけないか。せつねえーない。


 (情けは人の為ならず:広辞苑‐情けを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが来る。人に親切にしておけば、必ずよい報いがある。注:人に情けをかけるのは自立の妨げになりその人のためにならない、の意に解するのは誤り)


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大鵬

2013年01月23日 | Weblog

  第四十八代横綱の大鵬(本名:納谷幸喜)は1940年5月29日旧樺太の敷香郡敷香町(現在のポロナイスク)で生まれた。

  敷香は(しすか)とも(しくか)とも読む。私はこの敷香を2003年に訪れた。拙著『サハリン 旅のはじまり』(電子書籍版が私のホームページから購入可能)http://book.geocities.jp/junnaichimai13/index.htmで書いたリンさんと一緒にサハリン島の北へ釣りに行くときだった。住んでいたユジノサハリンスクから288キロ離れている。道路であることが信じられない悪路を7時間くらいかけて敷香に到着した。私の内臓すべてが上下左右の間断ない揺れでバラバラになりかけていた。

   リンさんは優秀な旅の案内人である。地理に関する解説だけでなく、自分がくぐりぬけた歴史、自然科学、日本の歌謡曲、相撲と話題に事欠かない。車が悪路で跳ねようが沈み込もうが、案内を止めず、時々観光バスのガイドのように日本の歌謡曲まで歌ってくれた。忘れないのは大鵬に関する話だった。リンさんは直接会ったこともない大鵬に思い入れが強かった。大鵬の父親がロシア人で母親が日本人だと初めて知った。リンさんの説明のおかげでポロナイスクと大鵬が私の頭の中で強く結びついた。

   リンさんがポロナイスクから30キロあまり離れた炭鉱で働く父を追って朝鮮から家族と樺太に来たのは、大鵬が生まれる2年前の1938年だった。1933年生まれのリンさんは大鵬より7歳年上である。そして1945年8月ロシア軍が北緯50度の国境を超えて攻め入った。5歳の大鵬は母親と日本へ引き揚げた。リンさん一家は引き揚げる日本人のバスに日本軍の臨検により乗せてもらえず、そのまま樺太に残らざるをえなかった。リンさんの父親は、1944年単身で常磐炭鉱に移動させられていた。リンさん母子も大鵬母子も、夫、父親と引き裂かれ、それぞれ壮絶な戦後を生き抜いた。


  大鵬が1月19日に亡くなった。享年72歳で私より7歳年上だ。16歳で初土俵、21歳で横綱になった。大鵬21歳の時、私は14歳の中学2年生だった。私は大鵬を好きと言わなかった。あまりに周りが大鵬、大鵬と騒ぐのが面白くなかった。天邪鬼の性格からわざと違う力士を応援しているフリをしていた。そうは言ってもあまりに強い大鵬が気になって仕方がなかった。白黒テレビに映る大鵬の肌は他のどの力士より白かった。顔立ちも日本人離れしていた。


   リンさんとポロナイスクへ行ってから大鵬を見直した。申し訳なく反省した。自分の天邪鬼を悔いる。リンさんを通して大鵬を深く知った。遅まきながら大鵬の足跡や言動を調べた。大鵬を知れば知るほど尊敬するようになった。「巨人 大鵬 玉子焼き」と言われていることに関して、大鵬は「私は巨人とは違う。私はひとりで裸一貫でここまで来た。巨人と一緒にされては困る」と言い切っている。大鵬でなければ出てこない重い言葉である。

  大鵬の訃報に接し、私はポロナイスクの景色を鮮明に思い出す。鉛色の自然に押しつぶされそうな町を圧、抑、疎、哀、孤、貧が仲良く絡んで吹き抜ける中、大鵬がそのすべてを切り裂きはねのけるように横綱の土俵入りを熱く仕切る光景が浮かぶ。大鵬もリンさんも私の英雄である。

 

 

 

 


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アルジェリア人質事件

2013年01月21日 | Weblog

  アルジェリアの隣国チュニジアに2年8ヶ月暮らした。アルジェリアとの国境に立ったことがある。国境といっても砂漠や山岳地帯に線が引かれているわけでもなく、万里の長城のような壁や塀があるのでもない。主要道路には検問所があるが、砂漠にはない。国境といってもその気にさえなれば、合法的でなくても行き来することはできる。

 アルジェリアのイナメナスにある天然ガス関連施設がイスラム過激派武装勢力に襲撃された。このイナメナスという町は、ちょうどチュニジアの南端国境からそれほど離れていない。チュニジア側の砂漠の高台からアルジェリアを見渡したことがある。人が住む気配は、目視でもまったく確認できなかった。赤茶けた大地が地平線まで拡がり、常に砂ぼこりが空中に舞う。太陽を直視できない強烈な陽ざしが肌を焼く。石油、天然ガス、地下資源がなければ、観光以外で外国人が訪れることもない。植物が育たなければ、動物は住めない。人はそんなところに住めない。不毛の地であっても地下資源があれば、農業も牧畜もかなわぬ荒地に近代的な石油や天然ガスのプラントが建設される。

  日揮は日本のプラント建設会社である。日揮の日本人社員17名が襲撃時、このプラントに派遣され駐在していた。7名の無事が確認されたが、残る10名の消息は依然不明である。21日未明アルジェリアのテレビ局は日本人9名が殺害されたと放送したという。日本政府は未だ確認されていていないと言っている。情報は錯綜している。

 世界はテロで満ちている。特にイスラム過激派などによる宗教がらみのテロは、私にとって一番恐ろしい。なぜなら私のような神の存在を信じられない者は、神が存在すると断言し、その上教義だけを生活の根幹にできる人々がいることをどうしても肯定できない。イスラム教の国に2回計5年間住んだ。アフリカのセネガル、北アフリカのチュニジア。同じ地、環境に暮らしていても、精神感情面でイスラム教徒とは肝心な時に水と油のようにはじきあっていた気がする。異教徒は彼らと同じ人間として認められていないと感じたこともある。文明の衝突と言っても過言でない。

 
日本に暮らしていて、宗教のことで不愉快な思いをすることも、差別されることも現在のところほとんどない。日本人の特異性は、宗教の教義に忠実に生きようとする態度が極端に薄いことである。八百万の神がいるといわれる日本では、神々も和を尊ぶ。その宗教色の違いが今回の事件の日本政府とやはり人質を取られた他の国々の対策対応の上に色濃く反映されている。日本政府は「人命は地球より重い」と平和的に人命救出を第一にかざす。理想である。理性ある誰もが心ではそう思う。一方イスラム過激派もそれを取り締まり攻めるアルジェリアの政府軍も双方が、自分たちはイスラムの正義のための聖戦の行動を取っていて、たとえ殺されても天国に召され英雄として扱われると心底信じている。異教徒や神に逆らうイスラム教徒であっても異端とみなせば、それを征伐することは、彼らの絶対主なる神の意に適う。決して「人類 みな兄弟」などとは露ほども思っていない。異教徒の国々が立ち入ることはできない。これからも自らが信仰する神のために献身して世界征服を目指して突き進むであろう。

 海外において、危険を伴う土地で働く日本人と知り合いになり、家に招いて話をする機会を多く持てた。その多くの方々が、いざという時の覚悟を持っている、と聞かされ、私は驚いた。まず覚悟があり、海外赴任するというその心構えに感心した。それは「武士道とは死ぬことと見つけたり」に通ずるのかもしれない。誰だって自ら死ぬことを殺されることを望む者はいない。だが日本人海外駐在員の多くは、日本を離れ任地に向かう前、ありとあらゆる危険があるであろうと納得して覚悟したと話す。安全基準や規制が日本とは異なり、たとえ事故事件に巻き込まれても賠償金や補償金は期待できない。それでも覚悟して赴任するのは、自分の職業を自分の命の一部として受け入れているからに違いない。

  私自身も旧ユーゴスラビアのベオグラードに住んでいた時、NATO軍の空爆から避難した経験以後、海外で暮らすには、日本国の救出や庇護を期待せず、その時その時できるだけの危機管理を自ら施し、後は運を天にまかせ最悪の事態を覚悟する以外ないと腹を決めた。

 私は覚悟を持って企業戦士となって海外に展開する人々を誇りに思う。企業戦士や仕事で海外駐在する人々や共に暮らすその家族が海外で危険な目に会っても確固たる支援、救援の手を敏速に差し伸べられない日本政府の邦人保護の方式も仕組みも人的能力も不甲斐ないと思う。

  覚悟を持っている限り、民間は政府より海外での危機管理にも長けている。その長けている民間でも狂信的に自分の宗教がからむ過激派の聖戦感覚には太刀打ちできない。それでも人間の時計は止まらない。どんな悲惨な事件事故災害が起きても生き残った人間は、その障害を乗り越えて前進する。どんな神も教義も人間すべてを洗脳改宗させることはできない。個人が信じる価値は、存在する個人の数だけある。それが人が皆、こぞって生きようとする何よりの理由でもある。地球は、共感と共存こそが他人と自分をつなぐ人間性の礎として尊ばれる星であって欲しい。どの宗教が真実なのか、死後の世界が有るのか無いのか、すべての人は死ねば答を見い出す。だから地球では、できるだけ仲良く過ごし、自分の願う死後の世界をそれぞれが期待して暮らせばいい。

 地震も台風も戦争も国境紛争もテロも交通事故もトンネルの崩壊もオレオレ詐欺も銃の乱射も尊属殺人も増税も老化も恐ろしい。それでも私は迎える毎日を精一杯に覚悟を決めて一所懸命生きてゆくしかできない。今は、ただただ国籍がどこであれ、人質にされた人々の無事を願う。


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体罰

2013年01月17日 | Weblog

  私は十代の後半で日本の高校とカナダの高校で運動クラブ活動の経験がある。

 日本の高校でのクラブ活動は、旧態依然な学年上下の身分関係の世界だった。それはある意味ただ年齢が上であるという幼稚な保身であったように思える。封建時代においては有効であったであろう。国際化がさけばれる現代において受け入れられる文化ではない。カナダで経験したクラブ活動は、実力だけがモノをいう世界だった。その違いにまだ10代後半で日本の中学高校のクラブ活動しか知らなかった私はがく然とした。

 テレビで元プロ野球選手の清原和博と桑田真澄のスポーツ特別番組を観た。清原の話で彼が一年生だった時、ホームランを打つたびに、上級生からイジメとシゴキを受けたそうだ。上級生にとって下級生が自分以上の能力や才能を持つことが我慢ならなかったのであろう。しかしそれは醜い嫉妬である。私自身は嫉妬されるような運動神経を持っていなかったので、清原のようなイジメや嫌がらせを受けたことがない。清原はそれが嫌で打撃練習でできるだけただのヒットを打つように努めたという。才能をわざわざ上級生の醜い嫉妬に潰される構図であった。

  その様は、国政にも根強く残る。元小泉首相の秘書官だった飯島勳氏によれば、国会議員の序列は当選何回の数字で決まるという。国の政でさえ年功序列の構造である。日本のどんな分野にもその弊害はあるが、政治とスポーツの世界は、もっともその古い体質が残っている世界かも知れない。私はネパールで3年以上暮らして、カースト制度の実態を垣間見ることができた。ネパール社会の重苦しい意味のない固定化されてしまった上下関係にあきれ果てた。その制度は、ただの上部階級の未来永劫への地位保全の都合
にしか部外者の私には映らなかった。

 大阪のバスケットボールの強豪市立桜宮高校のバスケットボール部キャプテンが顧問教師による暴力的な体罰が原因で自殺した。まだこんな時代錯誤な教師が生き残っていたことに驚いた。私の小学校中学校時代、確かに数名の暴力教師がいた。私自身も平手で往復ビンタをくらったことがある。そのビンタが私の人格形成に役立ったとは思わない。同級生が階段から蹴り落とされて、片方の聴力を失った暴力的体罰を目撃した。人間の心の中には、暴力を楽しむ闇の部分があるに違いない。心の病気としか思えない。よく“愛のムチ”と言ってシゴキや暴力を肯定する意見を述べる人がいる。根性論の延長でしかない。

 カナダでのクラブ活動の経験から言えば、選手の能力もチームの強弱もシゴキや暴力や体罰でどうにかなるモノではない。なぜならカナダでは学年や年齢がどうであれ、結果しか評価されない。クラブ活動といっても、シーズン制で能力ある生徒は、野球、バスケットボール、アメフト、アイスホッケー、陸上競技すべてに選考される。嫉妬もイジメも体罰をも選ばれるか選ばれないかの結果が押さえ込む。移民国家であるアメリカやカナダがオリンピックでメダルを多く獲得できるのは、選手が多くの競技を経験して、その中から自分に適した競技を選択しているからであろう。移民の国では、結果を出すしか生き残れない。人種、宗教がどうであれ、結果でしか判定を受けることがない。日本のように有能な選手をひとつの競技に縛り付けて、年功序列の旧弊で潰してしまうのは、実にモッタイナイことだと私は思う。若い運動選手にいろいろな可能性を試させてあげられないものだろうか。

 クラブ活動は勉強と両立されなければならない。若さの年代は限られている。無理をしすぎてはならない。バランスを保つことが重要である。指導者が自分の失敗や後悔から、若い選手を鍛えたいと思うなら、言葉の暴力や暴力的な体罰でなくて、文章にした手紙や交換日記やメモが有効だ。日本中に“面倒くさい”ことから逃げようとする傾向がある。指導者や教師に必要なのは、一時的な感情に支配された権力や腕力ではなく、マメさと忍耐強い説得力だと私は思う。説得力は、指導者の深い配慮と思考、生徒選手の指導者への熱い支持尊敬から生まれる。

 「体罰は勉強不足による安易な指導方法で決してつよくならない。絶対に反対だ」 桑田真澄


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爆弾低気圧

2013年01月15日 | Weblog

  孫が所属するサッカークラブが小学校5年生の第20回静岡新春サッカー大会に出場した。1月13日(日曜日)に妻と車で応援に出かけた。会場は静岡市清水区蛇塚にある清水蛇塚スポーツグランドだと教えられた。車のナビに住所を打ち込んで出発した。良く晴れていた。東名高速道路から富士山が綺麗に見えた。

 会場に9時半ごろ到着できた。元清水エスパルズの練習場だった所だけあって整備されたサッカーグラウンドが2面あった。息子一家と駐車場で偶然出合った。彼らは清水駅前のホテルに投宿していて、ちょうどホテルから会場に着いたところだった。

 孫は先発出場した。古い大きな双眼鏡で孫の動きを追った。息子に「双眼鏡がなくてもすぐ近くで見られるよ」と言われた。しかしこの大会では少年サッカー規格ではなく、ずっと大きな正式規格の競技場が使われている。やはり双眼鏡は役に立った。晴天とはいえ、やはり海に近い丘の中腹にあるサッカー場の観客席に吹く風は寒かった。防寒特別下着と防寒着にひざ掛け毛布、妻は頭巾まで被って完全装備での観覧だった。前半の20分はあっという間に終った。1対1の同点だった。孫はディフェンスというキーパーの近くで攻め入る敵を防御するポジションを真剣にこなしていた。

 後半攻撃サイドの交換があったので孫は私たちの目の前にいた。双眼鏡で孫の表情までよく観察できた。2対1でリードしていた残り5分で孫は交代した。結局孫が所属するチームが1点差を守り抜き勝った。孫はチームと行動するので会う事も叶わなかった。時間的に1試合しか観られなかった。後の報告で、残り2試合で孫が所属するチームは1勝1分と知った。孫も3試合に出場できた。私たちは来た時と同じルートを通って帰宅した。

 大会は12日から14日までの3日間だという。息子一家はホテルに2泊する。孫はチームで貸し切りバスを使って移動し、別のホテルに泊まっていた。ざっと計算してもこの大会の費用は大変なものだ。全部で24チームが参加していて、韓国からも選抜チームが来ていた。それも小学校5年生という限られた年齢のチームだけである。どんなスポーツでもすそ野が広ければ広いほど、隆盛をきわめることができるものだ。私が子供の頃、サッカーはそれほど盛んなスポーツではなかった。中学校で所属した野球部には90人部員がいた。サッカー部はなかった。孫が所属するのは、学校外の私的クラブである。ピアノ、学習塾に通うのと同じように毎月それなりの月謝というか参加費を親が負担する。二人の男の子を持つ息子夫婦は、毎日毎週毎月を子育てに時間を奪われている。私ができなかったことだ。私は働いて稼がなかったら離婚後二人の子どもを育てられなかった。仕事と子育てを両立させている息子のほうが私より上をいっている気がする。

 14日(月曜日)朝から雨が降り風も強かった。テレビの天気予報では太平洋側は爆弾低気圧の影響で大荒れの天気になるという。サッカーは雨が降ろうが、雪が降ろうが、風が吹こうが、余程のことがない限り中止にならない。メールで息子に問い合わせるとお昼には静岡を出ると言ってきた。私の住むところでさえ外に出るのが嫌になるほどの強風と大雨となった。テレビでは東京も雪になり、積もり始めたと伝えた。午後7時に息子一家は,いくらなんでもすでに東京の家に到着しただろうとメールを打った。返事が来た。「お昼に静岡を出ましたが、現在海老名付近です。まったく動きません」 雪に弱い大都市東京は大渋滞で外からの進入を受け付けられないに違いない。結局息子一家が東京の家に帰宅できたのは午前3時を過ぎていた。16時間かかった。孫はバスでさらに遅く到着。チームメイトの家に泊めてもらったそうだ。3連休の遠征の後の今日、疲れと睡眠不足のまま、孫は学校、息子は会社がある。

 サッカーで孫がこれから先、活躍できるようになるかも知れないし、できないかも知れない。正直、将来の結果はどうでもいい。サッカーに打ち込むことで学ぶことは、人生を生き抜く芯となるだろう。体罰や不当な扱いを受け,不条理と感じたら、大阪の桜宮高校のバスケットボール部のキャプテンのように顧問だろうが誰であろうと面と向かって話し合いを持てるような人に成ってもらいたい。ただ相手を理解できず、受け入れることができなければ、関係を絶てる勇気も備えて欲しい。前進だけが人生ではない。立ち止まったり、後退することを決めるのも策である。その日その日を懸命に生きぬいて欲しい。家族が助け支えあって毎日を生きることは、大切なことだ。傍で見ているとハラハラドキドキする。しかし形態は違っても私も周りをそうさせて二人の子どもを男手ひとつで育て上げた。

 
昨日の爆弾低気圧による突然の大荒れの天気も息子一家は、どうやら乗り切った。私は平常を装いながら、おろおろして安全と無病息災を願うしか能がない。昨日の悪天候が嘘のように空をオレンジ色に染めて、夜が明けてきた。新しい一日が始まる。


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一富士二鷹三茄子

2013年01月11日 | Weblog

  初夢をみた。

  今使っている財布を落とした。捜すと道路に投げ捨てられていた財布を見つけた。中身はからっぽになっていた。財布には銀行のカード、保険証、身体障害者手帳、運転免許証、行きつけのスーパーのポイントカードなどパンパンにふくらむほどギュウギュウ詰めだった。

 おそらくこの夢のもとは、私がパリの地下鉄で3人組のスリに襲われた経験から出たに違いない。薄汚れたオーバーをヒラヒラさせて190センチを超えるやせた大男が私の前で屈みこんで私の靴を右手の指4本で「パッシンパシン」とさするように叩いた。私の全神経がその男の指先に集中していた。背後に二人の男がいて、彼らのうちの一人が私のズボンの尻ポケットから財布を抜いた。これだけならどこにでもあるスリに襲われ財布を盗られた話である。

 薄汚いオーバーの前ボタンを留めずに着流していた大男は発車寸前、閉まるドアをすり抜けた。体はホームに降り立てた。しかしオーバーの左ハシのポケット状の折り返しがドアの取っ手にすっぽりはまってしまった。パリでもどこでも日本以外の鉄道は、乗客は自分で自分の身を守らなければならない。緊急停車装置などない。ましてや自由とは自立を意味するフランスでは、尚更にお節介がましいことがまかり通らない。このワルは絶対絶命だった。電車は動き出した。大男は電車に引きずられ、ホームのコンクリートに叩きつけられ死ぬだろう。財布を盗られてもまだ気がつかないオバカな私はドアに一番近いところにいた。私が手を出さなければ、この大男は死んだに違いない。

  私はドアのノブから男のオーバーのハシを抜いた。大男は倒れることもなく、ドアに挟まったオーバーの裾を剥がすように引き抜いた。顔面蒼白だった。全力疾走で階段を駆け登って行った。今でもあの大男のひげ面と青ざめた顔を思い出せる。

  財布の中の現金はすべてアフリカ・セネガルの1000セーファー札だった。(1セーファー=0.2日本円)被害額は数千円程度だったが、クレジットカードが入っていたので、日本の銀行にホテルから電話して使えないように手続きした。私はあの時ほど時差をありがたいと思ったことがない。その経験に懲りて、私は財布を絶対に尻ポケットに入れない。肩掛けカバンの中に入れ、常に細心の注意と警戒を怠らない。

  目覚まし時計が鳴った。毎朝パッとサイドテーブルの上にある時計を一瞬で黙らせる妻に即、夢の話をした。妻も夢の話をした。妻の夢は私が大きなタイヤを2個、それも大きな風呂桶に入ったもの、を買おうとしていて困ったというものだった。理解できる範囲を超えている。一緒に寝ていてもまったく異なる夢をみていた。私は起きてすぐカバンの中から財布を出して中身を調べた。いつもの通り現金以外のカード類ではち切れそうだった。妻が風呂場で風呂桶に大きなタイヤがないか調べたかはわからない。おかしな初夢だった。

  二人とも一富士二鷹三茄子とはかけ離れた夢だが、話して聞いてもらえることに感謝する。それにしても夢は不思議なものだ。


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大間の黒マグロと御呼ばれ

2013年01月09日 | Weblog

  私に御呼ばれは年に数回あるのみだ。私は趣味“御呼ばれ”と広言しているほど御呼ばれ大好き人である。海外で生活していた時はほぼ毎週、御呼ばれとお招きの繰り返しであった。日本人であってもなくても、呼んで呼ばれては常識だった。

 日本に帰国しても多くの客を招いている。しかしどんなに私が趣味“御呼ばれ”と宣伝してもほとんど御呼びの声がかからない。私の人徳のなさとあきらめている。

 日本では食料品のほとんどを完成品として購入できる。このことが御呼ばれの障害になっているようだ。加えて完全主義完璧主義者が多く客を招くのに粗相がないようにそれは神経を使う。そこで冠婚葬祭の行事の多くのように専門業者に丸投げしてしまう。家庭に他人を呼ぶことを避けたがるのは、身内主義と自分の家を誰にも公開したがらない家庭と家を最後の砦とする文化でもある。

 私は新聞の“首相動向”という日本国首相の一日を記載する欄の愛読者である。日本国の首相がいったいどんな生活をしているのか興味津々だ。多くの政治屋さんが国会議員として名を連ねているが、その日その日の動向を知ることが出来るのは首相だけである。特にどんな人々が首相に“御呼ばれ”されているのかを知りたくてたまらない。できればメニューはさておき、誰と飲食を共にしたかは知りたい。首相には首相官邸という城のような公邸が用意されている。しかし公邸での設宴はなく、料亭や有名レストランが使われる。不思議な光景である。

  新年早々の5日早朝築地の中央卸売市場の初競りで青森県大間の222キロの黒マグロが何と1億5千5百40万円で落札された。翌6日その落札のニュースに合わせるようにドンピシャのタイミングでテレビ東京が『洋上の激闘!巨大マグロ戦争2013』の中でこの途轍もない値段がついたマグロが漁獲される一部始終の映像を放送した。あの過酷な漁を見れば、どんな値段でも部外者は文句が言えない。偶然であったかも知れないが、これはまさにアッパレなテレビ東京の特ダネ番組だったと言えよう。落札価格にはビックリ仰天したけれど、私の日常の生活では100円1000円が主たる金銭感覚となっているので、マグロの値段は額が大きくて実感がなかった。別世界のことと、それ以上関心を持たなかった。しかし7日の朝刊の首相動向の欄をみて自分の目を疑った。『6日【午前】来客なく、私邸で過ごす。【午後】1時30分から44分、すしチェーン店「すしざんまい」経営の木村清「喜代村」社長。45分、私邸発。・・・』

  まず何故、と考えた。これは“御呼ばれ”なのか“押しかけ”なのか。首相公邸でなくて、何故、安倍首相の私邸なのか。疑問は深まるばかり。新聞の報道というのは、読者が知りたいと思う肝心なことに触れることが少ない。記者に読者の多くを占める庶民の感覚がない。それでもどこかの新聞が、マグロを落札した木村社長と安倍首相との関係を報じていると思い、探したがどこの新聞も扱っていなかった。

  私の憶測は、安倍首相が木村社長に密かに安倍政権の経済政策への景気づけにとんでもないほど高額で黒マグロを初競りで落札してもらった、である。真実が何であれ、世間では、日夜あの手この手が暗中飛躍する。裏舞台でどんなことが進行しているのかをすっぱ抜いて、読者に伝えるのが新聞の役目だと私は考える。記者クラブにたむろして、公的な記者会見だけでそのような記事は書けない。取材相手と一緒に食べたり飲んだりしないと無理だろう。

  “御呼ばれ”や“お招き”を私が好きなのは、その場でしか聞けない話を面と向かって、たくさん聞けるからである。質問も即座にできる。人は一緒に食べたり飲んだりする状況で心を開きやすくなる。安倍新首相の日程記事に公邸で、普段、日の目を見ない多種多様な人々との飲食を含む“お招き”がもっと増えることを望む。私も私なりに“お招き”を続けてたくさんの話をこれからも聞いていきたい。


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思い込み

2013年01月07日 | Weblog

  年末の大掃除で私は換気扇を担当した。台所の壁は脚立に上がらないと私の手が届かない。

  脚立を設置した。まずフィルターを外す。私は、ほとんど油を使う天ぷら、油炒めなどの料理をしない。にもかかわらず、フィルターはちょうど換気扇のファンの円形そのままの大きさの油ジミを浮かばせていた。フィルターは化学繊維が綿アメのようなスカスカの布状のものだ。換気扇の4隅にある鈎状の突起に押し込んで止められている。力にまかせてはがそうとすると鈎がフィルターに喰いこんでしまう。すでに8回の大掃除でコツを得ている。フィルター用のプラスティックの枠を外す。この枠はネジで止められていず、プラスティックの伸縮性を利用して換気扇に挟み込んでいるだけなので難なく外せる。換気扇本体が現れる。

  我が家の換気扇は、スイッチを入れると縦に格子状の空間が開き台所の空気が家の外へ送り出される。フィルターのおかげで、換気扇そのものの汚れは少ない。押し込み式の空気導入部分を外す。拡げた新聞紙の上に置く。次に換気扇のファンを外す。ファンは真ん中にある円柱上の受け軸にナットで止められている。受け軸から突き出たネジ切りされた軸からファンを引き抜く。ファンもフィルターの効果であまり汚れてはいない。薄っすらと粘ついている程度である。

  外せるものを外したあとの換気扇の空洞の掃除に入る。あちこちに受け枠やツッパリがあり、私の手や腕の侵入を邪魔する。外からどう攻めるか策を練る。まず新聞紙でざっと汚れを拭き取る。たいした空間ではないが、障害物が動作を遅らせる。よく絞った重曹の入った洗剤を含ませたスポンジで軽く丁寧に拭く。仕上げに絞った雑巾で全体を拭き取る。20分ぐらいでキレイになった。

  脚立を下りて新聞紙の上に並べられた外された換気扇の部品の掃除を始める。水に浸してもいいものは、洗剤を入れたバケツに漬ける。フィルター枠、換気扇のファン。10分後タワシやブラシで枠とファンを洗う。よく拭いて乾かした。乾いた枠に新しいフィルターを取り付けた。

  脚立に上がり、まずファンを取り付けようとした。すんなり取り付けられると思っていたファンがきちっと入らない。入らなければ頭にナットねじが付けられない。見えるのはほんの数ミリの受け軸である。「押してもダメなら引いてみな」「引いてもダメなら押してみな」 パニック。やることなすこと、ことごとく効果が出ない。「落ち着け。観察、観察」私は自分に言い聞かせる。去年だってちゃんとできたではないか。なぜ、今年できないのか?忘れてしまったからだ。何を忘れているのか。忘れていることがわからない。思い込みは油断である。「観察」こういう時は観察することだ。そして遂に受け軸の切り込みを指の感触から見い出した。切込みがあるということは、ファンのネジ穴に、受け軸の切込みを受ける出っ張りがあるはず。数十回繰り返すうちに「カチッ」と嘘のようにはまった。ファンの頭からナットをはめ込む十分な先が出ていた。ナットをねじ込みファンを固定した。

  スイッチを入れる。換気扇の表面の格子状のすき間がカチッと開き、フィルターがピタッと換気扇の表面に吸われ張り付く。キレイに掃除したことも喜びだが、ファンと受け軸の装着の仕方をすっかり忘れ、それをゼロから考え試し、やり遂げた満足感が心地良かった。「あきらめない」 新しい一年もしつこく粘り強く生きる。思い込みをできるだけ避けよう。私の新年への再起動へのスイッチが大掃除のおかげでつながった。

“過去への旅は、妄想と誤った記憶と名前のすり替えで混迷する”

 詩人リーチ

 


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