団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

イソジンと天井

2013年12月30日 | Weblog

 免疫力が弱い私は風邪やインフルエンザに警戒する。うがいと手洗いが欠かせない。外出から帰れば、まず洗面所に直行する。朝一番で作り置きしてあるイソジンの希釈液を口に含む。天井を見上げる。顎を上げ、後頭部を逸らせる。私にとってはフィギャースケートのイナバウワー級の難易度の高い格好だ。どちらかというと猫背の姿勢が多い。上半身を逸らせて天井を見上げることなどうがいする時以外ない。イソジンでうがいをする時期は天井を見る機会が増える。

 天井には模様がある。天井が木製の場合、木の木目や節が見る角度や光線の具合でいろいろな図となる。天井が吹き付けであったり貼り付けであっても、シミや汚れなどで模様になっている場合が多い。狭心症でバイパス手術を受け、長く入院した。手術前まで私はずっとうつ伏せで寝ていた。仰向けで寝たことがない。天井を見ることはなかった。ところが開胸手術が原因なのか、うつ伏せで寝ることができなくなり、天井を見なければならなくなった。病室で長い時間天井を見ていた。「いったいこれまでに何人がこの天井を見ながら生死を考えていたのか」と思った。「ここで死を迎えた人々は、今の私と同じように天井を見ながら、死をみつめていたのだろうか」と悶々としていた。死を思うと天井の小さなシミでさえ、向こうの世界の入り口に見えた。妄想の世界に浮遊していた。うつ伏せで寝ていた時には考えることもなかった哲学的な自問自答を繰り返していた。

 あれから12年が過ぎようとしている。結局最初に受けたバイパス手術で内股から静脈血管2本とって、内胸動脈という心臓の近くの血管1本を心臓の冠動脈にバイパスとして縫合した。手術中の数時間、私の心肺は止められ、人工心肺が私の体を生かした。手術が終わって数週間後、カテーテル検査で内股から移植した血管2本がまったく機能していないこと、内胸動脈のバイパスが鉤型に変形していることがわかった。私のバイパス手術は失敗だった。落胆し再び死を意識していた。病院を替え、細川医師のカテーテル手術で内胸動脈の鉤型の変形を修正してもらえた。細川医師が「鉤型の変形は手術の執刀医がピンセットで血管を挟んだためにできたもので、あのままだと血流が狭窄と同じくらい悪くなり危険でした。今回の修正も鉤型になっている血管からカテーテルの先端が突き抜ければ、命はなかったでしょう。頂いた命を大切にしてください」と言ってくれた。

 あの日、死への入り口にしか見えなかった天井が、普通の天井に戻った。かくして“オマケの人生”が始まり続いている。胸の手術痕はケロイド状に残っている。イソジンでうがいをするために大きくイナバウワーをしても手術痕がうずくことももうない。最後のカテーテル検査の後、細川医師が「バイパスはしっかり働いています。あなたは心臓疾患で死ぬことは考えられません。他の健康管理もしっかりやって長生きしてください」と言われた通り、糖尿、前立腺、痛風、腰痛、眩暈、軽度の脳梗塞など老化による症状は進んでいる心臓に今のところ問題はない。

 イソジンでうがいするたびに私は天井を見上げる。そして「オマケの人生だぞ、大切に生きているか」と自問自答する。


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心の知能指数

2013年12月26日 | Weblog

アメリカの「ハフィントン・ポスト」が心のEQの高さを計る8つの指標を作った。さっそく試しに自己鑑定をやってみた。

1.新しい友達を作るのを好む-新しい友達を作るのを好み、しかも彼らに多くの質問をすることは、EQの高さの表れだ。見知らぬ人に好奇心を持ち、また他人から新たな知識を学ぶことに関心がある。  ☆自己鑑定:積極的に新しい友達を作ることはできない。友達が彼らの友達を紹介してくれることに望みを抱く。好奇心は旺盛。人から話を聞くのは大好き。質問するのも好き。

2.自分をわきまえている-EQの高い人は自分の長所と短所を正確に判断することができ、こうした意識が強い自信を生み出す。 ☆自己鑑定:長所と短所を把握しているが、正確ではない。自信もない。

3.感情の衝動を制御できる-多くの人が悲しみや怒りの原因をはっきり言うことができない。EQの高い人は感情の揺れを制御可能で、マイナスの感情の影響を回避することができる。 ☆自己鑑定:導火線の短いダイナマイトと妻に言われるほどの短気な私は自分の感情を小心者で内弁慶らしく自分の家の中で妻だけを対象に爆発させるか自爆させている。

4.多くの人と仲良くできる=年齢や地位に関わらず、多くの人と充実した楽しい時間を過ごすことができることは、高いEQの表れだ。  ☆自己鑑定:人の好き嫌いが激しい。歳をとって終の棲家に身を引いた私の最高の幸せは、嫌なやつらと顔を合わせなくてもよくなったことだ。家は自分の城となり、嫌なやつを中に入れない。来るものは拒まず。

5.人助けに積極的である-完全に自分の小さな世界に閉じこもるのでなく、眼前の事をいったん止めて、いつでも立ち止まって他人に気を配り、困っている人に助けの手を差し伸べることのできる人はEQの高い人だ。☆自己鑑定:人助けをすることはやぶさかでない。小心者ゆえ二の足を踏むことが多い。積極的になりたい。

6.いつ拒否すべきかを心得ている-EQの高い人はいつ、どのように他人を拒絶すべきかをわきまえており、また強い意志の力で礼儀正しく拒絶することができる。☆自己鑑定:以前はNoが言えないばかりに痛い目にあった。Noをはっきり言えるようになった。妻のおかげである。

7.他人の顔の表情を読み取るのがうまい-顔の表情は感情を伝える共通の言語と言える。他人の気持ちを思いやる事のできる人はEQが高い。☆自己鑑定:感受性が強いので他人の表情を読みすぎる傾向がある。つまり下っ端に向いた性格である。涙もろく浪曲の世界を地でいくようだ。思いやりと似ているが根は異なる。いずれにしても他人の顔を見ながら、うまく世渡りできるタイプではない。

8.失敗の後でも再び立ち上がる事ができる-EQの高い人はどんな逆境に直面しても持ちこたえ、速やかに気持ちを切り替えてエネルギーを取り戻し、心の強い柔軟性を備えている。☆自己鑑定:“速やかに”とはいかず時間はかかるが、ダルマさんのように再起できた。私の人生は逆境の連続だった。妻は「あなたは柳のような人。倒れそうで倒れない。いつの間にか元に戻っている」と言う。

 私はこの心の知能指数EQでも高い評価を叩き出すことはできなかった。数値で私を評定しようとすると何を受けても低い結果となる。それでも私は人の評価は、つまるところ「気配り・目配り・手配り」だと断言できる。私はこれからも“気配り・目配り・手配り”を心の知能指数として採用する。


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七面鳥とパンプキンパイ

2013年12月24日 | Weblog

  23日朝4時に起き、台所に入った。七面鳥を焼くためだった。今年は5.5㎏のずっしり重く大きなものだ。価格は3300円。

 妻と二人で暮らす私たちが5.5㎏の七面鳥を食べきれるわけがない。東京に住む二人の子供の家族8人のためである。私の車の定期点検が23日10時の予約だった。

 5.5㎏の七面鳥を焼くには約3時間かかる。220度で1時間10分、180度で1時間50分。180度にオーブンの温度を落としてからは10分に一度白ワインと下の受け皿にたまる肉汁を七面鳥にかけまわす。焼いた七面鳥を「アッチチッ、アッチチッ」と言いながら包丁で3家族分に切り分ける。七面鳥の腹に詰めたアワ、キビ、米、黒米、干しぶどう、甘栗、七面鳥の砂肝のコマ切れも分けた。グレービーソースとクランベリーソースもタッパーに入れる。

 デザート用のパンプキンパイも5枚焼いた。私にとって七面鳥とパンプキンパイは一組のメニューである。47、8年前にカナダに渡り、クリスマスを経験した。一人寮に残る外国人の私を不憫に思って同級生が自宅のクリスマスへ招いてくれた。嬉しかった。そこで出された大きな七面鳥の丸焼きとパンプキンパイに心奪われた。日本の私の家では店で買った鶏のももと、デコレーションケーキがクリスマスの献立だった。それでも嬉しかった。カナダで経験したクリスマスは家族だけが集まる家庭的で他人が入る余地がない親密なものだった。

 私は自分の子供二人の家庭を壊し、償いきれない過ちを犯した。その子供が成人して今では家庭を持っている。孫も3人いる。私の子供二人の心にシコリとなって残る悪い思い出を消そうとは思わない。しかし一つでもいいから私がいなくなってから何かのきっかけで「そう言えば、オヤジが・・・」と悪くない思いが一瞬でも脳裏に浮かんでくれたらと思う。七面鳥とパンプキンパイがそうであってくれたらという願いがある。勝手な打算である。

 妻と二人で東京へ出かけた。3家族分に分けた七面鳥とパンプキンパイのひとつを、家族でどこかに出かけた留守の家に、前日電話で打ち合わせた駐車場の“隠し場所”に置いてきた。長女は玄関で寒い中待っていてくれた。まだ温かい七面鳥の包みを手渡した。娘に抱かれた孫は、保育園で風邪をひいたそうで鼻の孔を黄色い鼻くそでいっぱいにしていた。

 車の定期点検は1時間半で終わった。ナビが壊れていて地図が表示されていない。新品と交換させたいようだが、32万円は払えない。修理するには2回車を東京の販売店に持ち込まなければならない。もうナビを使うような遠出もしない。ナビなしで乗ることにした。販売店の社員はやたら新車に買い替えるように勧める。車はこれで最後と今の車を買った。気に入っているがすでに7年使った。あちこち修理や部品交換がある。今の私自身とよく似ている。車も私の体もこれからなだめ、すかして放棄される日を先延ばししていくしかない。

 クリスマス・イブでもクリスマスでもない23日の夜に妻と赤ワインを開け、七面鳥とパンプキンパイを食べた。テレビ画面の女子フィギャア・スケート全日本選手権の出場選手の日常生活を忘れさせる演技が、長い一日のご褒美のようだった。今が夢なのか、目が霞んだ。


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汗と暖炉

2013年12月20日 | Weblog

 寒い。寒い日は暖炉がほしくなる。燃える火を見ているのが好きだ。直径30センチを超す太い薪がパチパチと音をたてて燃える。熱だけが放射され部屋に温かさが拡がる。揺り椅子に座り、長い火かき棒で薪を燃えやすいように動かす。火の粉が舞い、夕陽色があたりを包む。

  私は一度だけ戸建ての家を建てたことがある。その家を建てるにあたってどうしても持ちたかったものがあった。暖炉である。住宅会社の設計者は「暖炉ですかわかりました。作ります」と請け負った。ところができた暖炉は使い物にならなかった。初めて火を入れた日、家中が煙だらけになった。設計者を呼んで抗議した。彼は平然として言った。「火を焚いたのですか?この暖炉は飾り物です」設計者が悪かったのか、私が悪かったのか。何度かいろいろな職人に直してもらって何とか火を焚けるようになったが、私が望んでいた暖炉ではなかった。

  今、終の棲家として住む集合住宅はオール電化が売りだった。3.11東日本大震災以降、このオール電化が足かせになってしまった。購入時、石油ストーブの使用は火災予防上禁止されていた。設計者も亡くなり、彼のこの集合住宅への思い入れは日が経つにつれて崩されてきてしまった。石油ストーブも使われているようだ。住民が石油のポリタンクを車から出しているのを見たことがある。エレベーターの中に石油のシミとニオイを確認した。私は設計者の意志を尊重して守るつもりでいる。

  石油ストーブでさえ使用禁止なのに暖炉などもってのほかである。暖炉を真似た電気ストーブが市販されている。マガイモノである。私はほしくない。暖炉には本物の薪が燃えていなければならない。火を見ているのが好きなのは私が原始人である証拠であろう。部屋に床暖房が入っている。しかしこの床暖房は電気を思った以上に喰う。使用した月の電気料を知るのが怖い。

  薪を燃せば、PM2.5やらが排出されるのかどうかはしらない。煙突からモクモクと煙を出せば近所から苦情が寄せられるだろう。日本は人口が密集している。暖炉はアメリカやカナダのような隣の家まで数マイルというような広大な地で使うものなのだろう。私は十代後半でアメリカのペンシルバニア州のアルコール依存症患者の社会復帰センターで、生まれて初めて大きな暖炉に真っ赤に燃える5,6本の太い薪を見た。アメリカでは家の中でたき火をしていると驚いた。自分が家を建てたとき暖炉を造ったが本物ではなかった。ネパールの借家にも大きな暖炉があった。やはり薪を焚いたら家中煙だらけになった。暖炉は叶わぬ夢だった。

  東京都の猪瀬知事が辞表を提出した。猪瀬さんは長野県篠ノ井の出身だと聞いた。信州の山の奥深くに潜んで暖炉か焚火の火でもしばらく見ていることをお勧めする。薪の熱で汗をかいても、もう他の有象無象から追求され汗をポタポタ流すこともない。物書きの感性で燃える火を眺めていれば、きっと過去の自分に戻れるだろう。火は激しく叱咤もするが、傷ついた心、疲れた心身を癒してもくれる。落ち着きを取り戻したら、冷静に今回の事件の顛末を持ち前の才能で文章にしてほしい。私はそれを暖炉の前の揺り椅子に座って読みたいところだが、叶わない。運動をしないグータラな私は妻が座りっぱなしの人に良いと勧めてくれたバランスボールを椅子代わりに机にもたれかかりその本を読む。バランスボールから転げ落ちるような凄い内容の本を期待している。


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止めてくださるな、行かねばならぬ

2013年12月18日 | Weblog

  横浜に住む姉から防寒チョッキをもらった。義兄がアメリカへ行った友人からおみやげにもらったものだが、義兄には大きすぎて着られないと送ってくれた。裏表どちらでも着られる。片方はツルツルで、もう一方はモヘヤでホカホカである。袖がないので動きやすい。部屋着として愛用している。

 トイレに入って用を終え、晴れ晴れとした気分で出ようとした。危うく倒れそうになった。それでなくても最近足元がおぼつかない。突然のめまいかと緊張した。前進しようとしても進めない。初めての症状である。また違う病気が私を襲ったのかと暗い気持ちになった。寝室に行ってベッドに横になろうと足を前に出そうとする。2歩進んだが、それ以上は何かに引っぱられるように戻される。その姿は時代劇の舞台で恋する男女が「行かないで」「止めてくださるな、行かねばならぬ」と問答しているかのようでもあった。

 ようやく気が付いた。姉が送ってくれた防寒チョッキの一部が私の前進を止めているのである。掲載写真の状態であった。チョッキの裾を絞って風の侵入を防ぐためなのか両脇に橙色の平ヒモがわっかになっている。このわっかが見事にドアの取っ手に輪投げゲームの的に命中したかのようにがっちり捕えられていた。わっかの高さ、ドアの取っ手の高さ、私の座高、私の脚の短さ、すべてがピッタシカンカンだったのである。すわ、体の変調かと心配した。

  最近ワイン会の準備のため真っ暗闇の中、ディロンギのオーブンを運んでいて座卓に蹴躓いて転倒した。青アザ3箇所と擦り傷2つを作ったばかりであった。大阪の同じ歳の友人も階段で転倒してケガをしたと電話で聞いた。朝、靴下を履くとき、ケンケンの歩数が多くなるばかり。筋肉の衰えだそうだ。鍛えればいいことはわかっている。練習が嫌い。特に運動の単調な繰り返し練習は苦手である。老人介護用具備品の専門店には靴下を履く補助器具が売っていると知人が教えてくれた。今度店に行ってみよう。

  「不幸は二人連れ」という。「一度あることは二度ある」ともいう。原因究明を果たし意気揚々と書斎に戻ろうとした。何ということか、再度書斎のドアにチョッキのわっかがひっかかった。今度は原因が最初からわかっていたので、動揺はなかった。ヒモはハサミで切り取った。不注意な自分に呆れた。「止めてくださるな、行かねばならぬ」と言ってみても、さて私はどこへ何しに行こうとしているのやら。

 


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今年が最後

2013年12月16日 | Weblog

 今年のワイン会は2回に分けた。12月1日に1回終え、昨日14日に2回目を終えた。2回に分けたのは、参加者が少しでも何かと忙しい年末に参加できる機会を増やせたら良いと思ってのことだった。それが効を奏して去年参加できなかった方々にも参加してもらえた。

 妻からはマゾヒスティックと批判を受けながらも絶大な協力を得ることができ、今回のワイン会を乗り切った最大の功労者になってもらえた。去年は日本製の高い高機能を謳って宣伝していた真新しい十数万円したオーブンレンジで大失態を犯した。料理をしたこともない優秀な技術者が設計製作したであろうこのオーブンには、決定的な欠点があった。調理を連続してできないのである。1回200度でオーブンを1時間使用してすぐそのあとに使おうと思っても、冷却時間が数十分必要となり、連続使用が不可能になる。あと料理によってはオーブンの扉を開けたまま加熱しなければならないのだが、このことができない。お利口な機械は、扉が開いていると、音声機能が「トビラが開いています。閉めてください」と連呼し続ける。当然オーブンは使えなくなる。赫して去年はこの高価なお利口すぎるオーブンに振り回された。私は料理を予定通りに出すことができず大番狂わせにパニックになった。この日本製高級オーブンは一日に数回使用するためのものであってパーティなどの連続使用には向かない。去年の失敗に学び、今年は引退させたディロンギの古いオーブンを納戸から出して、新しいディロンギとの2台をフルに使って滞りなく調理できた。日本の家電業界がガラパゴスなどと揶揄され、業績も振るわない原因に直面させられた。

  普段、私はイタリアのディロンギ社の2万円で買えるオーブンを多用している。簡単な仕組みなのに微妙な温度調節に長けている。パスタ料理でアルデンテなどという茹で加減を崇めるイタリア人の感性が発揮されている。ディロンギ社の製品は私の要求に誠実に答えてくれる。今年のワイン会のメニューはすべて2台のディロンギのオーブンがフル回転して私を助けてくれた。高価でたくさんの使いもしない機能満載のオーブンレンジは「チン」するレンジとして数回使っただけである。

  今年はディロンギのオーブン以上に妻の援助が大きかった。2回のワイン会で見事にホスト役を完璧に務めてくれた。駐車場への案内、玄関までのお出迎え、会場での接待、トイレへの案内、お皿グラスの交換、料理を運び空いた皿の片づけに洗物。今までのワイン会ではお客様より先にワインで酔い、しまいには出来上がって寝てしまった。ところが今年はまったくワインを口にせずシラフで通した。ディロンギと妻の助けのおかげで今年もワイン会を乗り切った。

  「今年が最後になる」 今まで8回毎年そう思っていたが、今年は体調を崩していた。「最後」という気持ちは、強かった。妻にも私の気持ちが通じたのかもしれない。妻は「私が何を言ってもあなたは自分がやると決めたらやる人。そうさせてあげられることは、自分のできる範囲で協力することにしたの」 

 バカは死ななきゃ直らないらしい。


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あの顔、どこかで

2013年12月12日 | Weblog

 駅前でメガネをかけた30歳代の痩せた男性がティッシュを配っていた。またサラ金のティッシュかよ、こんなことするより利息を安くしてあげたら、と毒づいた。近づくと駅近くのスポーツジムへの入会勧誘のようだった。男性が顔を上げる。「あの顔、どこかで見た。だれだっけ」と私は考えながら彼の前を通り過ぎた。銀行で用事を終えて帰宅するために駅に向かった。ティッシュを配り終えたのか、男性が晴れ晴れとした顔で歩いてきた。目が合った。「あっ」と二人同時に言った。そして二人は束の間のその後報告をしあった。

 彼はかつて私の町のDVDレンタル店の店長だった。今年3月その店が会社の都合で閉鎖となった。私は頻繁にDVDを借りるためにその店へ行った。いつしか話をするようになった。とにかくDVDの知識が豊富で新しく、私が何を借りるか参考にした。彼の推薦にハズレはなかった。特に外国映画とアメリカのテレビドラマに詳しく、それらに対する評論も適格だった。言葉を交わすようになって1年たったころ、突然閉店の張り紙を店の入り口のドアで発見した。閉店ビデオ、DVDセールで1本300円のビデオやDVDを彼の勧めを参考にたくさん買い込んだ。レンタル店が閉鎖してから、ネットによるDVDレンタル会社の会員になった。便利ではあるが店長との役に立つ会話がない。それが原因なのか当たりハズレが増えた。

 私はどんな分野においても専門知識に長けた人々を尊敬する。DVDレンタル店の店長も私の目に適った人のリストに追加された。デパートなどの売り場には商品知識もなくプロ意識もない店員が多い。先日もデパートで台所用品を買った。対応した中年女性は私の質問にまったく答えられなかった。勉強していない。デパートでは店員教育をしているのだろうか。売り上げが伸びないと言う前にまず店員教育であろう。店員の配置も適材適所適性で判断されているのか疑問である。だからこそ、これぞ専門家といえる店員に出会うとうれしくなる。お目当ての店員に相談して今度はこの商品を買うかどうか決めようと店に行くと、突然配置換えでまったく異なる分野の売り場に移動していたこともある。

 DVDレンタル店の店長はスポーツジムでどんな仕事をしているかは知らない。人にはいろいろな才能がある。その才能を生かせないのは悲しい。“好きこその物の上手なれ”という。人の幸せの一つは、好きなことを生業にできることだと聞いたことがる。今の日本は、とてもそんな就職状態ではない。それでも多くの人々は元店長のように会社の都合で配置換えされても、生きるために仕事をしている。偉い。いつか彼がまた映画やドラマの知識や批評感覚を生かせる仕事に戻れることを願う。

 名前は忘れても顔はなかなか忘れないものだ。元店長のように私の顔をおぼろげながらも覚えていてくれる人が、良い印象と共にある記憶でありますように。

 


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巨星墜つ

2013年12月10日 | Weblog

 南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領が12月5日亡くなった。享年95歳。9日夕、皇太子殿下がマンデラ元大統領の国葬に参列するために政府専用機で出発された。

 私はカナダへ十代後半で留学した。日本人であるがために多くの差別を受けた。(拙著『ニッポン人?!』電子書籍 inko 参照)差別はどこにでもある。日本にもある。私の心の奥深いところにもとぐろを巻いて出番を待っている。

 
カナダのインディアンにこんな話が伝わっている。神様は人間を土をこねて形作り、窯で焼いて創った。白人は生焼けの失敗作。黒人は焼きすぎの失敗作。インディアンは理想の赤色に焼けた、というものだ。

  どの民族人種も国民も“おらが一番”の身びいきに変わりはない。私は妻の転勤に同行してアフリカのセネガルで2年暮らした。セネガルは黒人の国である。セネガルに暮らしてなぜ黒人の肌が黒いのか身に染みて実感できた。強い太陽光線から身を守るために肌の中のメラニン色素は重要な働きをする。そのメラニン色素が肌を黒くする。アフリカの黒人の肌が黒いのは進化であった。

  中学校で国語を教えてもらった小林先生は、「自分がどうすることもできないことで他人を差別するな」と教えてくれた。自分でどうすることもできないこととは、肌の色、出自、遺伝などなど。この教えのお陰で、私自身の心の奥深くにとぐろを巻く差別の多くを押さ込めてきた。差別や憎しみを減らすのは教育の効果であろう。

  マンデラ元大統領が稀に見る偉大な人物であったことは、大統領の就任式で証明された。何と就任式の最前列に招待されたのは、過去に彼を苦しめた人々であった。彼はそれら全ての人々を許したのである。彼は人種差別による不当な裁判によって27年間監獄に閉じ込められていた。彼の受けた仕打ちは言葉では表わせない。それでも尚、彼は差別のない協調と和解の大義を貫くために彼を差別し、貶めた人々を許した。だからこそマンデラ元大統領は巨星と称される。

  巨星は滅多に現れない。世界の多くの国々は、マンデラ元大統領とは真逆な感情むき出しを持つ、ごく普通の人々によって政が執り行われている。自分の国、一国の利害と面子を振りかざす。やれここはおらほの領土、反日教育、恨みは1000年続く、と傷は深くなるばかりだ。「全てを許す」と言って、和解と協調へ社会を前進させたマンデラ元大統領のような巨星の出現は望めなくても、せめて彼の理想を満天の小さな星のような我ら普通の人々が輝かせれば、少しは明るい未来が望める。許すことは、人間にしかできない貴いおこないであるとマンデラ元大統領は身を以って教えてくれた。


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うさぎやのどら焼きが食べたい

2013年12月06日 | Weblog

  今年も妻の誕生日が過ぎ、いよいよ師走を強く意識する時期がやってきた。ずっと誕生日の計画を練っていた。贈り物は阿佐ヶ谷のうさぎやのどら焼きに決めた。理由は数週間前の何げない会話の中に出た妻のひと言だった。「またうさぎやのどら焼きが食べたい」

 故郷の長野県上田市に中村屋と云う、ウドン屋がある。今はどうか知らないが、以前店の各テーブルの上に新聞の切り抜きのコピーがあった。近郊に住む老人が老齢のために寝込んでしまった。食欲も減退してあまり食べなくなった。心配した家族思いの優しい家人が「ジイちゃん、何喰いてえ」と食欲を呼び戻そうと尋ねた。老人は「中村屋の肉ウドンが喰いてえ」と言った。家人は中村屋に駆けつけ、ウドンをお持ち帰りしてジイちゃんに食べさせた。確かそんな話だった。

 私が小学校5年生の時、いとこが脳腫瘍の手術を東京の慶應大学医学部付属病院で受けた。父は遠路はるばると私を連れてお見舞いに行った。いとこは、ベッドにアフリカで飢餓のために骨と皮になった子供のように姿になっていた。頭だけが大きかった。目はギョロっとしていたがうつろだった。髪の毛を短く切られた頭に大きな手術の跡があった。父はいとこの手を握って「何か食べたいモノあるか?」と聞いた。いとこが言った。「ス・イ・・カ」 冬だった。今のように一年中スイカは買えなかった。父は私を連れて東京のあちこちの果物専門店を駆け巡った。どこにも売っていなかった。父の真剣な「スイカを食べさせたい」気持が伝わった。結局いとこはそれからまもなくして死んだ。父は甥にスイカを食べさせてあげたかった、と事ある毎に後悔していた。小学生の私の心に病床のいとこの姿と弱々しい「ス・イ・・カ」の声が残った。

 ウドンのおじいさんもスイカのいとこも、「何が食べたい?」と尋ねられたことを喜んだに違いない。「何が食べたい?」「何が欲しい?」「私にあなたのためにできることがありますか?」誰にとっても優しい問いかけである。最近親が自分の子供を折檻したり衝動的に殺す事件が多い。おそらくそういう親は、子供の頃、親から犠牲的な愛情を受けなかったのかも知れない。自分以外の人の願いを叶えてあげたいという素晴らしい想いを私たちは持っている。私の父も中村屋の新聞コピーの家族も私にそのことを教えてくれた。

  「うさぎやのどら焼き」と妻がこうして具体的に品名を名指すのは滅多にあることではない。私は東京の阿佐ヶ谷へ出かけた。駅の近くの小路に小さな和菓子屋うさぎやがある。6個買った。御代は1020円だった。どら焼きは私が住む町でも売っている。1020円のものを買うのに電車に乗ってわざわざ往復3時間かける。私には多くの自由な時間がある。

 その夜私は妻にハッピーバースデイを唄いながら、うさぎやのどら焼きの包みに誕生日カードを添えて渡した。妻は最近の私の健康状態を気にかけて、遠くまで内緒で出かけたことに何か文句を言いたげだったが、目をどら焼きに釘付けにして「ありがとう」と言った。


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ばあちゃんの言うとおり

2013年12月04日 | Weblog

 ニンニクのテレビの宣伝の中で「♪ばあちゃんのくっちぐせ~ウガイ、手洗い、ニンニク卵黄、(繰り返し)あ~あ~ばあちゃんの言うとおり♪」が流れる。昨今のテレビやラジオの宣伝にはこの手の宣伝が多い。多すぎる。もともと音楽的な才能に恵まれなかった私は、なかなかメロディを覚えられない。動物的カンとでも言うのか、ある種の旋律が繰り返されると強くその影響を受ける。憶えると、唄ってみたくなる。

 風邪が流行っているようだ。インフルエンザの予防注射は受けたが、「免疫力が低いので風邪をひかないように」と医者に言われている私は過度に警戒する。ウガイと手洗いを徹底してやっている。外から家に戻り、洗面所へ向かう折、自分にウガイと手洗いを喚起するためなのか、自然に「♪ウガイ、手洗い、(繰り返し)(商品名カット)♪あ~あ~ばあちゃんの言うとおり♪」と口ずさむ。

 唄いながら考えた。「こういう場合、じいちゃんでなくて何故ばあちゃんなんだろう。そういえば本でも『ばあちゃんの生活の知恵』のような題名が多いが『じいちゃんの生活の知恵』などという本は聞いたことがないな~」とじいさんになった私は思った。理由のひとつは、じいさんの家庭生活への貢献度が低いのではないだろうか。多くのじいさんは、ばあさんに衣食住を依存している。桃太郎物語にあるように、じいさんは山へ柴刈りに、ばあさんは川へ洗濯に、は日本のジジババ関係というか男女の棲み分けというか役割分担を示唆する。じいさんが会社や組織へ働きに外へ出る。ばあさんは家で子育てと家事をする。じいさんの会社や組織での知恵と、ばあさんの家でのやりくりの知恵、のせめぎ合いである。じいさんには定年退職という区切りがあるが、ばあさんにはそれがない。じいさんは退職して家に戻っても家の事はからきしわからない。わかっている人の方がわかっていない人より役に立つ。わからないじいさんは、わかっているばあさんに教えを請いながら手伝うしかない。

 私の場合は42歳で仕事を辞め、妻の海外勤務に配偶者として約12年間同行した。以来主夫となった。“ばあちゃんの知恵”にずいぶん助けられた。男女どちらかが外に出て働いて、もう一方が家を守っても、それが当人どうしで理解されていれば問題はない。稼ぐことも大事だが、家を守るのも同じく大事である。ばあちゃんばかりでなく、「♪あ~あ~じいちゃんの言うとおり♪」と唄われる日が来ると良い。


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