団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

『人生の終い方』NHKテレビ

2016年05月30日 | Weblog

5月22日日曜日午後9時からNHK総合で『NHKスペシャル「人生の終(しま)い方」』が放映された。

 この番組が放映されることを知っていたが観る気はなかった。しかし妻が観ると言った。妻は私に負けないくらいテレビ番組の選択にうるさい。自ら観たいというのでチャンネル権を譲った。

 私はベッドに入った。寝室のドアは開いていた。テレビの音声だけが寝室にも届いた。私はなぜ妻と一緒にこの番組を観ないのか。題名からして避けたいのは事実である。小心者で臆病、内弁慶という性格も一因であろう。「自分の人生のしまい方まで他人にあじゃこじゃ言われたくない」という強がりもあった。普段テレビを観ながら独り言の多い妻が静かである。妻の気持が伝わる。妻は真剣に私亡き後のことに思いを馳せているに違いない。

 私たちが結婚する前、妻は妻の母親に「そんなに歳が離れていれば、相手が死んだ後、ひとりで長く生きなければならなくなる」と言われた。それが原因なのか私は結婚当時約束させられた。「私より先に死なないと約束して」 私は何も考えず約束した。根がいい加減なので深く考えることはなかった。その場を乗り切ればという浅はかさがそうさせた。

 その後糖尿病の合併症で狭心症になり心臓バイパス手術を受けた。否が応でも死を意識した。ちょうど病院の手術室が改修工事するということで手術が数箇月遅れた。この時間が私の「人生の終い方」の準備を一気に仕上げさせた。辞世帳なる大学ノート一冊に思いの丈を書き残した。その大手術も結局失敗に終わった。脚から4本取ったバイパスとして繋げた血管の4本全部が用をなさなかった。挙句の果てにたった一本残った内胸動脈にピンセットで挟んだ後がクランク状に変形して血流を悪くさせた。手術前より手術後のほうが体調は悪化した。私は再び死を意識し始めた。極端に臆病で死をあれ程恐れていた私にも度胸がすわってきた。違う病院で名医のお蔭で修復手術がうまくいき、いまだに私は生きている。

 NHKの『人生の終い方』の番組を妻と一緒に観なかったのは私が勝手に私は人生をもう終っていると自負しているからである。妻はまだまだそこに至っていない。無理もない。妻は健康である。伴侶である私が頻繁に人生の終を口にするものだから、妻もやっとその準備を意識し始めてきたらしい。だから『人生の終い方』を観ようと思ったに違いない。

 去年から私は終活に拍車をかけた。家の中もずいぶん片付いてきた。何千冊とあった書籍も数百冊にまで減らした。私亡き後妻に迷惑をかけぬようできることを一日ひとつの心掛けで進めている。

 ドアからテレビを観る妻を覗き見た。真剣に画面に見入っていた。その光景は美しいというか神々しかった。私亡き後の光景にも見て取れた。いつか必ずこのような日が訪れる。私ばかりでない。妻だってどんなに健康だと言っても必ず終わりの日はくる。私は毎日一生けんめいにできる限りの片づけをしておく。

 『人生の終い方』の番組そのものは期待外れだったそうだ。ちょうど『笑点』を降板した桂歌丸が出演していたことだけが救いだったという。昨日の『笑点』で司会者が昇太になり新メンバーが林家三平に決まった。腹が立った。私は今後『笑点』を観るのを辞める。これも私の「人生の終い方」のひとつとする。


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マイクロソフトの汚いトリック

2016年05月26日 | Weblog

 24日の朝、火曜日なのでブログを書き始めた。このところパソコンを起動させると、「ウインドウズ10への更新の準備ができました」の表示が出る。私にとってパソコンはブラックボックスそのものである。それでも今ではなくてはならない物だ。パソコンがない生活が考えられないほど私の生活の一部となっている。使っているのはソニーのバイオのデスクトップ型。ソニーはパソコン事業から撤退した。バイオのノート型は別会社が引き継いで生産されているようだ。デスクトップ型はもう手に入れることができない。いろいろなパソコンを使ってきたが、バイオが一番使い勝手が良い。あちこち不具合が生じてきているが、パソコン出張修理相談指導をしてくれる会社に頼んでその都度対応している。

 去年「ウインドウズ10への更新」の表示について馴染みになった出張社員に相談した。彼は「私が呼び出されるのはウインドウズ10に更新してからパソコンがおかしいというケースが増えています。現在のウインドウズ8.1に不満をお持ちでないなら更新しないことをお勧めします」 私は彼に絶大な信頼をおいている。「ウインドウズ10への更新」の表示が飛び出すたびに枠の右上の赤い「×」をちゅうちょなくクリックしていた。

 24日の朝、またまた「ウインドウズ10への更新」の表示が出た。「しつこいな」と右上の赤い「×」にマウスの矢印を合わせて「こやつめ」と力一杯クリックした。力を入れたのがいけなかったのか、画面が消え青い地に白い文字で「更新を開始します。電源を切らないでください」と来た。あれよあれよという間であった。結局書きかけのブログは中断される羽目になった。普段より1時間以上遅れてブログを投稿した。

 妻が帰宅した時、事の顛末を話した。妻は「どこか知らないうちに押しちゃったんじゃない」と言う。確かに私は老化に伴い、自分では気が付かない行動が存在する。どんなに妻に私が誤動作をして「ウインドウズ10への更新」がなされたのではないと訴えても妻を説得することはできなかった。そのうちに自分でも「もしかしたら無意識のうちにどこかのキーを押したのだろう」と思うようになった。冤罪はこうして始まるのかと悲しかった。

 26日の朝、木曜日のブログを書き始める前にネットでニュース検索をした。『ウインドウズ10への更新、マイクロソフトの「汚いトリックと批判』を見つけた。クリックして読んだ。ああ、なんていうことだ。私は見事にトリックにはめられたのだ。書いてある:ウインドウズ10への更新を推奨するポップアップ右上の赤い「×」をクリックすると、ボックスがとじるのではなく、更新手続きが始まるからだ。・・・ウエブサイト「PCワールド」の編集者、ブラッド・チャコスさんは「汚いトリック」だと批判する。・・・マイクロソフトは、「ウインドウズ10への無料アップグレード特典が7月29日に期限切れになるので、ウインドウズの最良バージョンへのアップグレードを手助けしたい」と説明している。;ソーイー・クラインマン BBCニュース記者

 悲しくなった。これから人類はこうして人工知能に支配されるようになってゆく。選択さえできずに対面での会話、質疑応答もなく人工知能のトリックにはめられてゆく。舛添東京都知事が汚い政治資金の使い道を法的に逃れようとするのと同じく、一旦権力を握った政治屋や、地球規模での独占的企業になると有権者や顧客をしもべにしてしまう。宗教もしかり。

 パソコンを前にうな垂れる私に「しもべよ、やれるならやってみな、自分でできないなら、四の五の言わず黙って俺についてこい」と新しい画面でウインドウズ10がほくそ笑む。


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マンション大規模修繕

2016年05月24日 | Weblog

「カーン カーン ガーンガン」響き渡る金属音。私が住む集合住宅の真向いにある10階建ての集合住宅が大規模修繕工事を始めた。

 建物全体に足場を組み、更にそれをネットで覆う。4月初めに開始してすでに1箇月過ぎ、やっと足場とネットの工事が終わった。土日祭日は休み、雨の日も休む。働いている人は4,5人である。この足場を組む仕事は、人の手だけで進められているようだ。

 数週間前、散歩で工事現場の前を通った。3メートル以上ある鉄製の敷板を人力だけで揚げていた。手渡しである。地上からすでに組み終わっている2階の段に待ち受ける人に垂直に板を立て渡す。2階の人はそれを持ちあげ更に3階で待つ人に渡していく。まるで重量挙げのようだ。これだけ大きな建物である。すべての足場を組むのにどれだけの人力がいることか。すでに老化による筋肉の衰えを日々感じている私はただ若者の力強い労働に圧倒された。

 良く見ると地上から鉄板を持ち上げていた人はアフリカ系の若者だった。「行くよ」と日本語で2階の人に声をかけていた。重労働である。アフリカのどこから来ているかはわからない。私がかつて住んだセネガルは年間平均収入が800ドルと言われていた。現在の為替相場では約8万8千円、月収にすると7千円ぐらいである。日本で工事現場では日当が1万円以上と聞いている。真面目にきつい肉体労働で稼いでいる彼のような外国人をみると応援したくなる。

 数日前南アフリカの銀行口座のデータを使って日本全国のコンビニエンスストアのATMで14億円の金が不正に引き出された。100人以上の人間が関わっているらしい。強盗、スリ、麻薬密売、詐欺など外国人による犯罪は増える一方である。反面、真面目に地道に働いて国の家族に送金する労働者もたくさんいる。

 散歩でアフリカ系の若者が働いているのを見るまでは、工事の騒音が気になっていた。しかし若者を見て以来、騒音も気にならなくなった。むしろ今日はどこまで足場の設置が進んだのかと観察するようになった。雨が降って工事が中断されると、彼らには良い休息になるなとさえ思うようになった。風が強い日は、足場が倒れるのではないかと危惧した。

 大規模修繕をこれほどまでの規模でやらなければならないのかと疑問に思う。足場をもっと簡単に設置できないものかとも思う。私のような非力でモノグサな人間は、大規模修繕のような一見無駄に思える作業に対して否定的だ。作業に携わる人々は当たり前のように動き回っている。朝8時頃から夕方5時頃まで規則的に働いている。私も若かりし時、肉体労働をたくさんした。現在は靴下を履くときさえ、じっとしていられないほど筋肉が衰えてしまった。肉体労働とは無縁の毎日である。

 現代人は肉体労働を避ける傾向にある。楽をしよう、楽して稼ごうと考える。大規模修繕で若者が力強く働く姿に昔の自分を思い出した。決して戻ることのできない過去だが、自分にも体がくたくたになって働いても寝て起きれば次の日仕事に戻れた若さ強さがあったことを懐かしく思い出せた。


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センテンススプリングな週刊文春

2016年05月20日 | Weblog

このところ日本のスクープ報道は『週刊文春』一誌の独走態勢である。週刊文春5月26日号に私を納得させる記事があった。

 「新聞不信:ポイントがズレた「舛添問題報道」;舛添要一都知事の公私混同、税金のムダ遣い事件は、本誌の精力的な追及によって、その詳細が明らかになった。本来こうした記事は、各紙の都庁詰め記者たちによる調査報道として一般に伝えられるべきであった。・・・」

 その通り。立派。日本の新聞各社は情けない。週刊文春がわざわざ“新聞不信”のコラムを掲載する理由が私の胸をつく。首相官邸、国会議事堂の廊下、都庁の玄関、官庁内の記者室。記者のイメージと言えば、ゾロゾロ取材対象者の後をモミクチャになりながらマイクや録音機をつきだし、記者でなくとも誰でも尋ねられるようなありきたりな質問をする相も変わらぬ取材風景である。こんな取材に不満を持つ私が友人にそのことを話した。友人が映画『64』を観れば日本独特な記者室での記者の様子が描かれていると教えてくれた。近いうちに観たい。とにかく横並び、各社協定というおよそ特ダネ、スクープに程遠いなれ合い集団である。

 そんな中、週刊文春は我が道を行くと他社に迎合することなく“本誌の精力的な追及によって”の気概で次々と不正や不条理を読者に伝える。読者としての私は、爽快、痛快この上ない。多くの週刊誌の記事は、電車の中吊り広告に列挙された以上の内容を見いだせない。海外に暮らしていた13年間、どんなに週刊誌を読みたくても入手できなかった。しかし数週間遅れで回覧された新聞各紙の週刊誌の広告を読めば、だいたいの日本国内での動きがつかめたものだ。週刊文春がずっと現在のようにスクープを連発していたとは思わない。週刊新潮とどちらを買うかは迷うが内容にさほどの違いはなかった。新聞も週刊誌にも書けない堅固な聖域がある。多人種多文化多宗教の寄せ合わせのアメリカと日本はここが違う。アメリカ映画やテレビドラマに聖域はない。だから自然に観ていられる。日本ではこの“聖域”の雁字搦めのシバリで常に奥歯に物が挟まったような表現に終わってしまう。

 週刊文春の記事が常に正しいとは言わない。私が週刊文春の記事すべてを受け入れるとも言わない。日本の新聞各社が聖域を保護する中、逆行するように巨大な聖域に歯向かい事実を読者に伝えようとする方針は評価する。膨大で入手困難な資料を集め調査精査していることも随所でうかがわれる。だから最近の週刊文春は電車の中吊り広告だけでは内容がつかめない。買うか図書館で記事を読むしかない。読み終わった後、よくここまで調べて記事にしたと喝采する。大新聞各社がそれらの資料が入手できないはずがない。だが記事にならない。

 週刊文春が扱ったベッキーとやらの不倫などの報道は、どうでも良い。私ぐらいの年代になると色恋沙汰のスキャンダルに関心がなくなる。しかし日本のこれから先の行く末を案じている。舛添問題。三菱自動車の不正。スズキ自動車の不正。東京オリンピック誘致に関するコンサルタント料問題。パナマ文書問題。気分が落ち込むような事件が次から次へと起こる。

 このところ晴天が続き、散歩で憂鬱な気分を吹き飛ばそうといつもより長時間歩いている。青い空が気持ちよい。泉を見つけた。ベッキーも妻も守ってあげることもできない不倫男がメールで週刊文春のことを「センテンススプリング」と暗号のように表現していたそうな。陳腐な発想にイラつく。だがSpringスプリングには「泉」の意味もある。週刊文春がこれからも泉のように日本の将来を憂える読者に爽快さ痛快さを味あわせてくれる記事(センテンス)を噴出してくれることを願い、地道で時間をかけた取材の労をねぎらいたい。


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おひとりさま一個買い

2016年05月18日 | Weblog

 私は性格が父に似たらしい。と言っても母は私が4歳の時他界したので母がどのような性格の人であったかは、伝聞情報しか持ち合わせていない。

 父は一個買いができる人ではなかった。江戸っ子ではないのに江戸っ子だと思い込んでいた。見栄っ張りのエエカッコシイだった。悪いことばかりではなかった。他人が困っていれば、江戸っ子を気取るように救いの手を差し伸べた。身内に厳しく他人に優しい。継母はそんな父を“内弁慶”と笑っていた。けれど、ときに父親がドカッと何かを買ったとき、その数の多さと量の多さに豊かさを感じた。貧乏人の強がりを父は、父なりに具現していた。

 その影響か、私もエエカッコシイの大人になった。しっかり父の生き方をコピーしていた。一個買いなどできなかった。結婚して離婚した。狭い田舎社会で世間の目、口は厳しかった。残された二人の子どもを育てるためには、見栄をはることもエエカッコシイもできるはずもなく、考えることなくがむしゃらに働いた。やがて二人の子どもをそれぞれ全寮制の高校へ入学させ、アメリカの友人に預けると“おひとりさま”の生活になった。

 ひとりの生活は寂しく誘惑が多い。身を崩すのは、簡単だ。覚せい剤使用で逮捕され、裁判で清原和博被告は「子供に会えなくて寂しくていつの間にか覚せい剤に手を出した」と昨日証言した。離婚してからのひとりの生活がどれほど寂しいものか私にも理解できる。自暴自棄になって薬物やギャンブルや酒や宗教に救いを求めることも理解できる。いくら身から出た錆であっても、誰でも自分には甘い。理由を誇張し原因から逃げる。あの時の私を救ったのは、坐禅である。坐禅で自分に向き合った。苦行であった。脚のシビレは自らの体重が原因だった。2年間毎日禅寺に通った。2年間自分が生きて来た過去を一つひとつ洗い直した。おひとりさまの作業だった。

 変化が起こった。一個買いができるようになったのである。離婚した時二人とも小学生だった子どもたちが大学生になった。そんな頃、再婚した今の妻に出会った。44歳で結婚式を再び挙げた。結婚式で妻の母親に「2回目だから慣れてるね」と言われた。その時心の中で自分に言い聞かせた。「一回目の自分と二回目の自分は違う。おひとりさまで13年間かけて修行した。今度こそ」 二回目の結婚式から25年経つ。

 妻はまだ働いている。妻が出勤すると私は家でおひとりさまになる。終の棲家と決めて住むのは縁もゆかりもない町である。自然に恵まれた静かな町で気に入っている。心臓を悪くして医者から温暖な気候の土地で暮らすよう勧められた。その点でも今住む場所は理想に適う。ひとりでいることが寂しくないと言えば嘘である。外出もめっきり減った。最近本が読めない。テレビも観ていられない。ラジオも番組担当者の入れ替わりが激しくてつまらない。集中力が続かないのと目と耳が悪くなったせいだ。残された時間で、やらなければならないことはたくさんある。自分ひとりでやらなければならない事である。妻という支えと張り合いがあるからこそ、おひとりさまで留守できる。

 買い物は主夫の大事な日課である。昨日買い物途中、鯛焼き店で躊躇なく邪念なく周りを気にすることなく「つぶあんひとつ下さい」と買えた。時間がかかったけれど、どうやら自己改造が進んでいるとちょっぴり自信を持てた。


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昭和回帰ブームと伊豆急レトロ電車

2016年05月16日 | Weblog

  昭和回帰ブームだそうだ。私は昭和22年生まれである。子供時代、良い思い出があまりない。母親を亡くし、東京直江津へと親戚に預けられた。高校生まで病弱だった。へそ曲がりな私は、自分がそのブームに乗せられているとは思っていない。熱海から下田までを結ぶ伊豆急が主催した『レトロ電車ぶらり旅 伊豆急100系』に14日土曜日妻と参加した。

 当日集合地の伊豆高原駅へは車で行った。天気も良く道路も空いていてドライブを楽しめた。車を駐車場に入れ、駅舎に向かった。全部で23人が参加していた。電車は1961年伊豆急が開業した年に導入された電車100系の一両編成だった。改修され手入れされていても確かに古い電車だ。長野県上田市にあってすでに廃線になった上田丸子電鉄真田線は我が家の裏を走っていた。その線で使われていた電車によく似ていた。

 この旅の募集がダイレクトメールで送られてきた。その中に伊勢海老弁当の文字を見つけた時、参加はほぼ決まった。実際の伊勢海老弁当は私の期待に応えていなかった。伊勢海老を食べるなら下田近くの南伊豆町弓ヶ浜にある青木さざえ店のほうがいい。その弁当は大人ひとり4900円の費用を分析精査した結晶であった。期待した私が馬鹿だった。料理は採算を度外視しなければ美味い物にならない。食いしん坊は、写真と文字にだまされる。

 ガイドとして乗り込んだ二人の女性の一生懸命さは伝わった。プロではないと何回も繰り返したが、回数を積み重ねて行けば実力が付いてくるだろう。

 電車にはエアコンが装備されていない。天井の扇風機と窓の開閉で温度調節する。天気が良く、気温も結構上がった。窓を開けていると風が強く吹き込み、妻のショートカットの髪の毛が逆立った。伊豆急線はトンネルが多い。途中から乗り込んでハーブの講演をしてくれた熱川ハーブテラスの人の興味深い話もほとんど電車のゴトンゴトンと窓からの風の音にかき消された。それでも景色は素晴らしかった。海はもちろん、山々も美しかった。この企画で一番気に入ったのが、伊豆熱川駅と伊豆稲取駅間を3回往復したことだ。これは同じ電車に乗ったままで経験できることではない。それも景色が一番良いと言われている区間である。伊豆稲取を南欧の漁村に似ていると言われるが、私はそれ以上だと思う。その景色を行ったり来たり3回も見られるとは。

 下田に到着してバスでこの旅の最後の了仙寺へ向かった。バスの後部座席に座った会社員風の男性二人連れの会話が耳に入った。片方の男性がテレビドラマ『真田丸』に誘発されて上田へ行ってきたというのである。私は後ろを振り返って「上田は私の生まれ故郷です」と言いたい衝動を持った。「上田城」「真田の郷」「真田の隠し湯」「みすゞ飴」。電車は昭和回帰のレトロな電車だった。しかしまさかバスの中で私の昭和時代に直結する言葉がポンポン出てくるとは。室生犀星「故郷は遠きにありて想うもの」を実感した。

 最後の了仙寺でのお坊様の下田開国のスライドを見せながらの立て板に水のような解説は素晴らしかった。下田がいかに国際的な都市であるかを示す非の打ち所のないプレゼンテーションをみせつけられた。最近のテレビのちゃんと喋れない発音できないアナウンサーに真似て欲しい。外に出ると寺の境内はむせかえるようなアメリカン・ジャスミンが満開でだった。妻と大満足して帰路についた。


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オバマ大統領と広島の原爆

2016年05月12日 | Weblog

  高校2年生の時、カナダへの留学が決まって軽井沢のアメリカ人キリスト教宣教師のもとで準備を進めた。そこで多くのアメリカ人宣教師に出会った。私から切り出したわけではないが、広島・長崎の原爆の話題が多かった。宣教師の誰ひとりとして原爆をアメリカが日本の広島・長崎に落としたことをキリスト教の“汝、殺すなかれ”と結びつける人はいなかった。皆、まるでそれが神の意志であったかのように肯定した。

 カナダの高校に移り社会の授業でも広島・長崎への原爆投下について学んだ。私が学んだ学校の生徒が知っている日本語はアッソウ、フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ、ヒロシマぐらいであった。カナダの社会科の教科書にさえ原爆投下は暴走する日本を止める手段であったと正当化していた。核保有国を宣言した現在の北朝鮮への態度に似ていた。ディベートのクラスでは、原爆投下の肯定派と否定派に分かれて討論したが、否定派になると皆、口を閉ざしてディベートにならなかった。私一人が興奮して否定を主張して、クラスの中で浮いていた。

  そのキリスト教の全寮制の私立学校にはアメリカ人学生がベトナム戦争への徴兵を逃れて来ていた。その数は全生徒の半分以上だった。カナダなのにアメリカにいる感じであった。

  キリスト教に憧れ、答えがない生への不可解さ不条理さに囚われていた私はキリスト教に助けを求めた。しかしそこに救いはなかった。広島・長崎への原爆投下はキリスト教信者と公言する人々でさえ、あれしか方法はなかったと言う。

  日本に帰国して家庭を持ち、子どもを二人授かった。その結婚は破たんした。二人の子どもを男手一つで育てた。二人の子どもが大学に入学した後、縁あって再婚した。妻の海外勤務について日本を離れた。ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアと12年間海外で暮らした。

  ネパールで教えていた日本人補習校の生徒が通うインド系の私立学校の教師に「日本なんて原爆で全滅させられればよかった」と言われたと悲しそうに訴えた。セネガルでは原爆について話し合うこともなかった。旧ユーゴスラビアでは多くの人々から「日本はアメリカによくあれだけ勇敢に抵抗した。原爆を使ったアメリカは許せない」と初めて外国人の口から原爆投下否定の意見を聞いた。チュニジアでは日本人としてよりシノワ(中国人)としてしか扱われなかったので原爆のことを話したことはない。ロシアのサハリンでも原爆の話はなかった。

  今、日本では会社や組織が不祥事を起こすとお偉方が報道陣の前で深々と頭を下げて「申し訳ございませんでした」と謝る。それは儀式化していて誰もが当事者が真に謝っているとは受け止めていない。今回のオバマアメリカ大統領の被爆地広島訪問でも報道では「謝罪する」「謝罪はしない」が問題視されている。先の大戦に関して、中国と韓国も日本に対して“謝罪”を求め続ける。儒教の影響なのか謝罪に拘る。キリスト教徒やイスラム教徒は神に対しては謝罪をするが人にはしないと言われている。欧米社会では交通事故などで日本人のように即「ゴメンナサイ」と言ってしまえば、全責任をとることになる。文化風習は異なる。私はオバマ大統領の広島訪問が任期終了前の駆け込み政策であったとしても高く評価できる。謝っても謝らなくても。オバマ大統領が原爆投下を命令したわけではない。初の黒人大統領だからこそできることだ。歴史が変わる大きな一歩であることを願う。

 バーナード・メルツァー「許すことで過去を変えることはできない。しかし間違いなく、未来を変えることができる」 

 ガンジー「弱い者ほど相手を許すことができない。許すと言うことは、強さの証だ」 

 


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舛添都知事と一般男性という分類

2016年05月10日 | Weblog

 ある女優の結婚報道の中にその女優がファックスで「一般男性」という言葉を使ったとの記事があった。私はこの「一般男性」という分類に違和感を持つ。

 “一般”を辞書で引くと「1.広く認められ成り立つこと。ごく当たり前であること㋐普遍㋑普通 2.一様であること。同様」とある。

 私は腐った政治屋と腐った芸能人と腐った宗教屋を嫌う。この連中なら自分たちを「特別な」と言い、他を「一般、その他大勢」と分けても不思議はない。身分制度があった時代なら「一般男性」と呼ばれても抵抗は感じないだろう。

 連休中、一年以上音信不通だった田舎の友人から電話をもらった。テレビを観ていたらやたらに私が今住む所の近くの町の名前が出てくるので私に電話をしたと言う。3箇月ほど入院していた。そして経営していた店を今年いっぱいで閉じる決心をしたと電話の向うで告げた。

 なぜテレビに隣町の名前が頻繁に出てくるかというと東京都知事が公用車でほぼ毎週その町にある別荘に来ていることが公私混同だと問題視されているからである。私は以前ブログでこの都知事のことを書いた。2015年10月27日投稿の『M知事』参照

 ビートたけしさんがこの件に関してコメントした。「あの人は、最初から権力者になりたくて、人の上に立ちたくて、政治家になるために政治学者になったような人だからね。庶民感覚はないやな」日本の芸能界のトップに君臨するビートたけしさんが言えることかと思うが鋭い指摘だ。私だって若い頃は野心の塊だった。権力も名声も金も欲しかった。だからそれらを手に入れた人々に対する羨望、妬みがある。私が権力を手に入れていれば、清廉潔白で済んだはずがない。自分自身の現状を受け入れるしかない。

 今年の誕生日で69歳になる私はこんなことを思う。人間だれしもそう変わりはない。食べて寝て出して生きている。子孫は精子と卵子が結合してできる。生まれて、そして死ぬ。これ以外の方法はない。どうみても人そのものに物理的機能的な基礎構造に違いはない。だからこそ多くの人は飛行機ならファーストクラスに乗りたい、ホテルならスイートに泊まりたいと思う。そういうことで他の人と差をつけたい。そうすることで自分の権力を誇示したい。他の国の人にも一目置いてもらいたいのである。違いがあるのは、後天に得た教養、感性、品位、道徳観などであろう。

  覚せい剤で逮捕された元プロ野球選手清原和博被告はかつて「オレはビシッとエエ服着て、エエもん食うて、エエ女とつき合うて、エエ車に乗りたい思てこのプロ野球の世界に入った。それに比べていまの選手は情けないわ。ぜんぜん欲があらへん!」と言っていた。私だってそうなりたかった。でもなれなくてよかったという負け惜しみもある。

  石川啄木が「友がみな我よりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ」と詠んだ。人一倍劣等感が強い私をなだめる。もう隠居の身である。これから先、欲が私を振り回すことはないだろう。特別であることを経験せずに“ごく当たり前”に“普通”で終わる。一般男性の私を最後まで看てくれると私より一回り若い妻は言う。なにより嬉しい。


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連休の遠慮へのご褒美

2016年05月06日 | Weblog

  妻が3,4,5日と3連休になった。私は普段家にいる。妻は病院勤務で週日は毎日遠距離通勤している。休日、妻は家にいたいと言う。私は妻と出掛けたい。お互いの主張がぶつかる。

 結局出掛けたのは、3日だけだった。近くの“武者行列”を見物に行った。会場は市街を一周する大規模なもので、城蹟公園が主会場だった。城まで行ってみることにして、歩き始めた。もの凄い人でに私は酔ったような気分になった。気温が高かった所為もあるが正直言うと人混みに弱い。毎日自然あふれる我が家がある町から人、人のコンクリートジャングルに通う妻の「家に居たい」気持ちがよくわかる。白旗を上げて正午過ぎに帰宅することにした。駅も大混乱していた。ホームは13時に始まる武者行列を観ようと電車が到着するたびに新たな人波が押し寄せた。ホームも人でいっぱい。改札に向かう人の流れに逆らって7号車付近の乗降口に進もうとするが、何度も立ち尽くして人の波をさけた。

 落ち着くと場内アナウンスが耳に入る。「本日人身事故により列車が遅れています。大変申し訳ございません。ただいまのところ約50分遅れての運転になっております。電車到着までいましばらくお待ちください」妻が言った。「今日はついていないね」

 4日も5日の子供の日の朝も、私たちの口から「出掛けたい」「家に居たい」の言葉はなかった。5日朝、妻が台所のビン類を保管している戸棚を掃除整頓したいと言った。私は手伝うことを嫌と思わなかった。3日の失敗がそう思わせたに違いない。ベランダのペンキ塗りに続いて家の事をする。私たちには連休をこうするのが向いているようだ。もう若くない。連休の民族大移動的な行楽は若い人々に譲りたい。若いうちにいろいろな行楽地を家族と一緒に訪れる。私もそうしてきた。私の二人の子どもも、今まさに子育てに明け暮れている。連休には彼らも計画があるのだろう。もうしばらく孫たちにも会ってない。そんなことを思いながら戸棚からビン類をすべてだしてカウンターの上に並べた。

 まず賞味期限をチェック。あるある賞味期限切れ。これでは冷蔵庫と同じである。油類は鍋に入れ温めて“固めるテンプル”を投入。油だけでも相当な量だった。酒類も多いが、酒に賞味期限はない。それに我が家の酒類は好成績で順調に消費されている。回転が良い。妻はよく私を調味料集めが趣味だと決めつける。妻も私もサシスセソ(砂糖、塩、酢、醤油、味噌)だけの調味料しか使わない家庭に育った。私は主夫になってから料理を学んだ。本格的にフランス料理も先生について学んだ。中華、イタリアンも妻の海外赴任地での郷土料理も料理本や家事手伝いの人から教わった。サシスセソだけでもはや料理することはない。その結果がビン類保管戸棚に詰まっている。

 約2時間妻と作業した。残す物、捨てる物。ビンとプラスチックの仕分け。捨てる物からラベルやラップを剥がす。水にしばらく漬けて剥がすものもある。何回かゴミ集積場に運ぶ。すっかり整理整頓されて戸棚の中は光輝いた。電話が鳴った。

 友達夫婦からの電話だった。「風も収まったので今日の夜、家でバーベキュー一緒にいかがですか」 私たちはこれは連休に出掛けることを遠慮したご褒美だと有難く招待を受けた。気が合う友との時間を私たち夫婦は満喫した。最高の連休の締めくくりができた。


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若冲と我が家のペンキ塗り

2016年05月02日 | Weblog

  妻の連休は29日出勤、30日5月1日土日休み、2日出勤3,4,5日と休み6、7日出勤で8日休みとなる。これでは出かけるといっても近辺に限られる。毎年5月の連休は机上の計画だけで終わる。

 今年は訪ねてくれる客もなく静かな連休になりそうだ。1日の日曜日は朝からゆっくりしていた。録りためた番組を妻と並んで観た。NHKBS「ザ・プレミアム 若冲いのちのミステリー」である。以前から妻は東京で29日に始まった「生誕300年記念 若冲展」に行きたいと言っていた。ところがもの凄い人気で大変な混雑だそうだ。人混みが苦手な私たちは番組を大いに期待した。素晴らしい番組だった。ナビゲーターには不満だったが、若冲の作品は私たちの期待を裏切らなかった。

 番組を観終わってしばらく放心状態におちいった。このところ不安定な天候が続いていた。雨もよく降った。ガラス戸から日光が射し込んできた。陽が当たると世界が明るく見える。気持ちもなんだか軽くなる。竹林の木漏れ陽が時々吹く風に能の舞のように静かに踊る。今年は筍の数が多い。さざ波のように笹が揺れる。突き上げるような勢いを持って日々伸びる筍ももう軽く5メートルは超える。枝も葉もつけずひたすら上を目指す。茶色の筍の皮は根元から剥げ落ち始めた。茶色の皮の下は封切りの緑色である。

 若冲の絵の美に圧倒された私は若冲が描いた美しさとは異なる目の前の景色を見つめた。若冲も目で植物や動物を見てそれを手で絵にした。私は絵に自分で見た物を描く才能はない。しかし美しいものを美しいと認め感嘆することはできる。凡才は天才と同じ人間という種であることで妥協する。私は外からの刺激に弱い。伊藤若冲という天才画家の特別番組に感化されたせいか、単に天気がよく温度が上がったためかベランダの柵にペンキを塗ろうと思った。

 ペンキは毎年塗れば木を長持ちさせる。私は2,3年に一度塗っている。妻にペンキを塗ろうと提案した。賛成してくれた。ペンキを買いに行った。ところが最近の記憶力低下はペンキの色の名前を消していた。ホームセンターの店員にデジカメで撮った柵を見せたが、写真から色を見分けられないと言われた。仕方なくカラレス(無色)を買った。

 妻と暑いベランダでまず雑巾でペンキを塗る柵を拭いた。乾いたのを確かめてペンキを塗り始めた。シンナーのような臭いが気になったが、刷毛で木の表面にペンキを塗るのは楽しい。刷毛という道具は、ハサミと同じく、ただの道具ではない。奥が深い。妻もそう感じているのかいないのかは知れないが、結構黙々とテンポよく塗っていた。

 気温と強い陽ざしでペンキの乾きも早く2度塗り3度塗りして2時間あまりで塗り終えた。ベランダ中に漂うペンキの臭いもすでに気にならなくなっていた。若冲の素晴らしい芸術作品を観賞した後、妻とペンキを塗る。ごく普通の庶民としては、これが精一杯の芸術活動である。

 ペンキを塗り終え、家の中に戻って妻がお茶を入れてくれた。土曜日に寄った道の駅で50グラム3万円の茶を売る店で買った1000円の新茶である。世の中、何に於いてもピンからキリまで存在する。木漏れ陽が這い笹が風に舞う。新茶は優しくシンナーで痛んだ喉を潤した。新茶の色が金色に見えた。まさにゴールデンウイークの一日となった。


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