団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

NHKプラネットアースⅡと山極勝三郎

2016年12月30日 | Weblog

  12月18日、NHK総合テレビでの大河ドラマ『真田丸』が放送50回目の最終回を迎えた。連続テレビドラマを最初から最後まで毎回欠かさず観たことがなかった。『真田丸』は、すべて観た。毎週、連続して観ると、中毒性になる。1週間という間が「次はどうなる。早く知りたい!」症状をこじらせる。久々に子供の頃の漫画週刊誌を毎週待つような感覚を持った。そんな熱中も最終回以降急速に冷めていった。始めあれば、終わりあり。

 そんな私をも一度テレビ画面に引き込む番組が12月25日夜9時から放送された。まさにクリスマスプレゼントであった。NHKの『プラネットアースⅡ』である。『真田丸』ロスの状態にあった私は、息を吹き返した。

 第一回の放送は、「高山」「砂漠」「熱帯の森」が舞台だった。「高山」は私が3年間暮らしたネパールのヒマラヤの「ユキヒョウ」の生態が画面に映し出された。4Kカメラで撮影された今回の映像の美しさに圧倒された。我が家も4Kテレビに替えてあった。やっと4Kテレビの威力を発揮する映像に出会えた。4K映像の素晴らしさ以上に撮影した英国BBCやNHKのスタッフのプロ意識の高さに脱帽した。ユキヒョウの撮影に4年の歳月と40箇所の定点カメラを配置して約10分の放送にまとめた。場所はヒマラヤである。高山病、低酸素、など劣悪な環境である。ただテレビの前で口を開けて観ている自分が情けなくなった。いったい撮影スタッフに労働基準法などという概念があるのだろうか。

 そして「砂漠」の編に入る。アフリカのナミビア砂漠である。 私はアフリカのセネガルに住んだ時、生まれて初めて砂漠を自分の目で見た。1953年私がまだ小学生だった時、小学校の学年ごとに市内の映画館へ『砂漠は生きている』というウォルト・ディズニーのドキュメンタリー映画を観に行った。あの時地球に砂漠という場所があることを知った。4つの季節が規則正しくめぐる水の国、日本に生まれ育った。広大なセネガルの砂漠を目の前にして、ただ涙が流れた。泣いた理由がわからなかった。砂漠を前に泣くことしかできなかった。

 「真田丸」も素晴らしかった。「プラネットアースⅡ 第一集」にも感動した。演劇とドキュメント。比較してもしようがない。虚と実。製作者と視聴者。私にできることは、製作側の人々に感謝することしかない。

 12月27日、高校の同窓生N君の家に招かれた。奥さんの手料理、酒、楽しい会話を堪能した。N君が突然「『うさぎ追いし』観ました?」と尋ねた。『うさぎ追いし』は上田高校出身の人工癌研究の第一人者病理学者山極勝三郎の偉業を映画化した題名である。

 以前「うさぎ追いし~山極勝三郎物語」製作委員会からサポーター募集の手紙を受け取った。私と妻の名で賛同金一口1万円を数口分送った。募集要項に東京又は上田市で開催されます特別試写会にご招待いたします、と書いてあった。東京在住者との注意書きはなかった。賛同金を送ってから感謝状が届いた。しかしそれ以外何の連絡もなかった。製作委員会に電話してみた。「試写会招待券は東京在住者のみです」とそっけなく言われた。募集のお知らせにそうは書いてなかった。「真田丸」も「プラネットアースⅡ」もNHKの受信料が製作の原資のはずだ。だからこそ受信料を払った視聴者はその出来が良ければ我がことのように喜べる。「うさぎ追いし」も多くのサポーターによって完成したのだろう。サポーターから除外されたような気持ちでさみしいものだ。


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「真珠湾を忘れるな」

2016年12月28日 | Weblog

  今から50数年前、十代後半の私はカナダへ渡った。キリスト教の厳格な高校の寮に入った。まわりが皆キリスト教徒なので日本人として差別されることはないだろうと甘い考えを持っていた。

 安倍晋三首相は12月27日アメリカハワイ州の真珠湾を慰霊のためにオバマ・アメリカ大統領と共に訪れた。私は二人がともに並んでアリゾナ記念館の2000名に近い犠牲者の氏名刻銘の前で頭を下げるのをテレビで観ていた。「Remember Pearl Harbor」(真珠湾を忘れるな) 「Jap」(日本人の差別語)が木霊のようによみがえった。

 いったい私がカナダにいた間に、何回この言葉を投げかけられただろう。私はある時期までこの言葉を投げつけられると腹を立てた。しかし多くの日系人の話を聞いてからは考えが変わった。カナダでもアメリカでも日系人は収容所に入れられた。仕事、財産を没収され、劣悪な環境に押し込まれて自由を失った。彼らがどれほど「Jap Remember Pearl Harbor」とさげすまされたことか。想像を絶する。収容所跡へも行ってみた。涙を流すことしかできなかった。彼らの苦難と比べれば、私への「Remember Pearl Harbor」などどうっていうことはない、私はそう思うようになった。その分、「なんぞこれしき」と勉強に打ち込んだ。スポーツでも「Jap」と野次られて、火事場の馬鹿力を何度も経験した。

 拙著『ニッポン人?!』に書いた「第2章 日本人は乗せない」の私の経験を掲載する。あれから49年、私を飛行機に乗せないと言った青年はどうしているだろう。あの私に救いの手を差し伸べてくれた日系の老人は、この世にいないことだろう。今回の安倍首相の真珠湾を公式に訪れたことを青年も日系老人もどう思っていることだろう。日系老人は5年の戦争で関係修復には100年かかると言った。第二次世界大戦後、まだ75年しか経っていない。今回の安倍首相の慰霊訪問は前進には違いない。しかしあの戦争が、どれだけ多くの犠牲を生んだかは、表面には決して出てこない。今も多くの人々の心にコールタールのようなわだかまりは残る。まだまだ時間はかかる。個人の意識改革が必要である。この贖罪が済まぬうちに次の戦争が起こらないことを祈るのみ。私は私自身に日本語で言い聞かせる、真珠湾を忘れるな!

 

  抜粋「日本人は乗せない」:

  カナダのアルバータ州の学校で学んでいたクリスマス休暇を迎えた1967年、私はアメリカ東部へ同じ学校の学生の車で旅行した。ペンシルバニア州の友人を訪ねるためだった。その車の所有者は結婚している学生だった。この学生がペンシルバニア州のピッツバーグまでの同行者を学校の掲示板で募集した。私が留学していた学校はカナダだけでなくアメリカ、オーストラリアなどからも大勢の生徒が来ていた。クリスマス休暇や夏休みの時、よくこうしてガソリン代を割り勘で払う同行者を募集していた。

 カナダから国境を越え、アメリカのノースダコタ州に入った。同乗者は男4名女1名。私以外の男3名が24時間運転を代わりながら冬のハイウエイを突っ走った。途中山の中で鹿に激突した。それでも何とか予定通りオハイオ州まで到達した。ところが大雪で道路が閉鎖されてしまった。車の所有者以外は飛行機でそれぞれの目的地に行くことになった。名も知らない小さな飛行場で私ひとり降ろされた。飛行場は大雪で車やバスから急遽飛行機に変えた人びとで混雑していた。チケットを買うためにカウンターに並んだ。私の順番が来て、若い男性社員が私に応対した。「日本人?」と聞かれた。「はい、そうです」と答えた。「日本人は乗せない」と彼は冷たく言い放った。すでにカナダの学校から40時間以上狭い車の中に押し込まれていた。睡眠不足と疲れで頭がボーッとしていた。英語も完璧ではなかった。しかし自分が大変な状況に面していることはわかった。助けを求めるようにまわりの人びとに目を向けた。みな無視するように目をそらした。私は「理由を教えてください」と彼に言った。「私の父親は日本人に殺された」と彼は私をにらみつけて言った。「次の方どうぞ」と私の後ろに並んでいた黒人の紳士に言葉をかけた。紳士は黙って私の前に立った。

 私をフィラデルフィアの友人家族は一緒にクリスマスを迎えるために待っている。まだ戦争が重く人びとの心に影を落としている。私は小さな飛行場のホールの中で途方にくれていた。空いていたベンチに腰をおろした。隣に日本人と思われる老人が座っていた。「日本からですか?」と日本語で声をかけられた。こんな時日本語は砂漠で渇いたのどに冷たい水が通るように心にやさしく染みとおる。「はい。今カナダで勉強しています」「大雪で大変ですね。何時の飛行機ですか?」 私はさっきカウンターで起こったことを老人に話した。彼は「一緒に来なさい」と彼は歩き始めた。身長は低いが姿勢よく私の前を行く。カウンターでなく彼は航空会社の事務所に入って行った。彼は航空会社の責任ある人に事の一部始終をきれいな英語で説明してくれた。女性が呼ばれた。彼女が私の切符を手配してくれた。老人は会社の人と固く握手した。老人は私を搭乗口まで連れてきた。握手を求めて「私たちは戦争を5年すれば、その後始末に100年かかります。こんなことに負けちゃいけない。体に気をつけて勉強しなさい。さようなら」 彼はくるっと向きを変え、もといたベンチに歩いていった。そこに彼の奥さんと思われる白人の女性がやさしく微笑んでいた。私はその老人の名前も住所も知らない。けれど私の心から彼のことが消えることはない。


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ホッチキスの針と下水処理場の処理能力

2016年12月26日 | Weblog

  私はある道具をよく使う。この道具は2代目で最初のモノは5,6年使った。長さが12センチくらいで、柄がプラスチックで先が長さの違う2枚重なっている。

 数週間前、「ホッチキス針、外す必要ない?」のニュースを目にした。ホッチキスメーカーの『マックス』は、自社のホッチキス針の箱に「ホッチキス針は古紙再生工程で支障ではありません」と印字した。先に挙げた道具とはこのホッチキスの針を外す道具のことだった。愕然とした。もうすでに習慣化した私のホッチキスの針を特製の道具を使って外す行為が否定された。今までの手間と時間は何だったのだ。

 13年間にわたる海外生活から日本へ帰国した。嬉しいことがたくさんあった。その一つがゴミを出すときの分別が気持ちいいほどハッキリしていたことだった。リサイクルということもあったが、ゴミ処理をする側の負担を軽減することに協力できる喜びを感じた。

  アジア、アフリカ、東ヨーロッパ、中東、極東5箇国で暮らした。下水処理場もゴミ処理場も整備されていていない発展途上国ばかりだった。それ以前に人々は貧困生活を強いられていた。マナーだとかエチケットどころの話ではなかった。ゴミは、最終的に捨てられる以外どうしようもないところまで貧富の差の階段を下りる。最終的にゴミ捨て場に放置され、腐敗して異臭を放つ。

  日本に帰国して日本人のゴミの豊かさに悲しさを感じた。その悲しさを和らげたのが、リサイクルである。そしてそのシステムは、しっかり充実していた。

  私はゴミの分別をこまめにする。ペットボトルのキャップを集め、指定の場所に設置された専用箱に入れに行く。再生可能な紙類は、新聞紙をまとめて束ねられる特製の袋に整理する。ホッチキス針のある書類や小冊子や雑誌も丁寧に針を抜いていた。分別をしていて腹が立つのは、多くのダイレクトメールの封筒の窓だ。今までの普通の封筒なら住所を切り取るか特製の住所氏名を塗りつぶせるスタンプを使って処分できた。窓付き封筒は、セロファンの部分をハサミで切り取る。あの封筒を使うのは、自分たちの仕事を楽にするためのモノであって、真面目にエコを考える客に余計な手間をかけさせていることなど予測もできない高ピーな会社に違いない。あの封筒を使う会社は、セロテープをやたら使うデパートや店と同じくらい嫌いである。

  妻はよく「私たちがどれほど努力してゴミを分別しても、処理場ではどうせ一緒くたにして処分されてしまうのよ」と懐疑的である。そうかもしれない。でもそれを言ったらおしめ~よ。まだ完全な分別も処理もできないかもしれないが、少なくとも私が子どもの頃より日本のゴミ処理は進化している。人々の多くが衛生やエコに関心を持ち、改善しようと努力をして行政にも協力的である。

  先日大学で醸造学を教えていた友が我が家に遊びに来てくれた。彼は環境衛生にも造詣が深い。私はずっと思っていた質問をした。「日本の下水処理場の処理能力は、私たちの生活のあらゆる生活雑排水をどのくらいきれいにする能力があるのか」 彼は言った。「100%に近い元の水に戻す」これを聴いてホッチキス針の針を道具ではずすことを辞めることにした。


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クリスマス、ダサイン、タバスキ

2016年12月22日 | Weblog

  私はお寺に併設された保育園へ通った。クリスマスにそこの園長、つまり寺の住職がサンタクロースの恰好をして何かプレゼントを保育園児一人ひとりに手渡してくれたことを覚えている。仏教とキリスト教の違いさえ理解していなかった。

 高校生の時、カナダの高校へ転校した。初めて迎えたクリスマス。私は24日に友人宅を訪ねた。あわよくば、クリスマスのご馳走にありつけるのではという魂胆があった。私にとってのクリスマスは24日だった。ところが友人宅ではまったくクリスマスという雰囲気はなかった。初めてのカナダでのクリスマス。私は映画で観たクリスマスを全身で期待していた。ガッカリ。それでも友人家族は私を歓迎してくれて夕食を共にした。テーブルにはスープとジャガイモのマッシュポテトにグレービー(引き肉入りソース)かけるものと食パンだった。家族は「明日は大変だ」と話していた。カナダではクリスマスは25日に祝うものだった。後で知ったことだが、朝起きるとクリスマス・ツリーの下に家族それぞれへのプレゼントを順番に開け喜びを発表する。午前中は教会へ行き、午後夕食の用意をして夜クリスマスディナーを家族全員でとる。他人が入る余地がない。家族だけの年に一度の集まりである。私は寮でひとり寂しく遠い日本の家族を想っていた。寮にいたのは私一人。あまりのさみしさに寮の外に出て星空を見上げた。マイナス30度の星空は澄み切って星が近くに見えて綺麗だった。当時坂本九の『上を向いて歩こう』(カナダでは『SUKIYAKI』)が流行っていた。「涙がこぼれないように」の歌詞が浮かんだ。

 神道、仏教、キリスト教だけが宗教ではなかった。再婚してすぐに妻の海外赴任に同行した。ネパールではヒンズー教、セネガルではイスラム教、旧ユーゴスラビアではセルビア正教、チュニジアではイスラム教、ロシアではロシア正教の文化に触れた。どこの国にもどの宗教にも似た風習があると知った。ネパールのヒンズー教徒は“ダサイン”。イスラム教徒はタバスキ(イード・アル=アドハー)。ダサインもタバスキも祝う日はクリスマスのように12月25日と決められていない。ダサインは9月から10月にかけて2週間かけて祝う。水牛、ヤギなどを神に捧げる。(参照写真:ネパール ダサイン前のヤギの市)タバスキはイスラム教の犠牲祭でヒジュラ暦の12月10日から4日間行われる。西洋暦と異なるので毎年少しづつ日時がずれる。ラマダン(断食)明けに羊を犠牲に捧げる。

 宗教が異なっても、どの行事も家族が一堂に集まって祝うことに重点が置かれている。そして私はどの祭りにも部外者として接した。宗教を持たない者として客観的に見つめた。カナダで24日に友人宅に行き、あわよくばご馳走にありつこうとした意地汚い神を信じない不届き者にかわりはなかった。

 日本では八百万の神がいると言われるほど、特定の神に固執しない。それ故に世界のいろいろな祭りを取り入れて騒いでいる。私も子ども頃から毎朝神棚に手を合わせ、仏壇に燈明を付け、ご飯と水を取り替え祈り、神社仏閣の前を通ると車を運転していても、目を閉じ頭を下げる父親を見ていた。高校生でキリスト教、離婚後仏教を信じようとした。結局は元の木阿弥。

 クリスマス。家族が集まることもない。七面鳥(写真参照:以前私が料理した七面鳥)もクリスマスケーキも丸ごと一頭の羊もない。でも私には妻がいる。今はそれで十分。


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宝くじとギャンブル依存症

2016年12月20日 | Weblog

  佐渡へパックツアーで行った時、バスガイドさんに尋ねた。「佐渡にはパチンコ屋ないんですか?」「ありますよ。お好きなんですか?」「いいえ、どこへ行っても派手なギンギラギンのパチンコ屋にうんざりするのに佐渡でまだ1軒もそういうの見ないので」「けっこうありますよ。でもそういわれれば目立たないですね」 早とちりの私だが、一瞬でも佐渡にはパチンコ屋がないと考え、清々しく思えたのは事実だった。

 3,40年前、こんな話を聞いたことがある。中国語の通訳をしている人が、中国からの視察団を市内と工場を案内した。工場から出て近くのパチンコ屋の前を通った。店内で並んだパチンコ台の前で横のダイヤルを操作しているたくさんの人を見た視察団の一人が「この工場は何を作っているのですか」と。通訳の知人は何と答えていいか言葉に詰まったという。とにかく日本中いたるところに派手な大駐車場を持つ大規模パチンコ屋がある。

 12月15日1時、IR推進法案(一部修正案)は衆議院本会議で採決され、賛成多数で可決されてIR推進法が成立した。パチンコ、競馬、競輪、競艇、宝くじ、などのギャンブルに加えて新たにカジノが解禁となる。現在日本には536万人のギャンブル依存症がいると言われている。参議院議員の山本太郎さんが議場で「パチンコやスロットの規制をせずに、どうして次の賭場を開くようなことをさせるんだよ!おかしいだろって」と叫んだという。おかしい。私もそう思う。カジノの前にパチンコだろうが。

 そもそも世の中ギャンブルであふれている。小学校の時、クラスにとてもかわいい女の子がいた。ある日その子の父親の名が新聞に載った。地方公務員だった父親が賭けマージャンをしたとして逮捕された。早速それを知った男子生徒の数人が彼女に「おめんちの親父は役人のくせして賭けで捕まったのか・・・」 背の低いその子は、座り込んで両手で顔を覆って泣いていた。人のうわさも75日。その後、何もなかったようにその子も元気になった。父親は役所をやめて農業を継いだ。近所にもパチンコ狂いして離婚という家庭もあった。幸い私の父親は賭け事と株などの相場に強い拒否反応を持っていた。母親は金をギャンブルに使うことなど考えてみたことがない人だった。宝くじも買わなかった。ただ数少ない年賀状の番号だけは、二人で目を皿のようにして当選番号を調べていた。

 知人の医師が賭けゴルフをしていて、最後のパターを打とうとしてグリーン上で心臓発作を起こして突然死んでしまった。噂では4人で1人100万円をかけた勝負だったそうだ。住んだどこの国でもギャンブルはあった。人間はイチかバチか、白か黒か、半か丁かが好きなのだ。投資だというが、株もFXもギャンブルそのものだ。自制することは人間には至難の業である。

 日本は不思議な国だとよく思う。憲法で戦争しないと明記して自衛隊を持ち、政教一致を禁じていても宗教政党が存在する。賭博は禁止されても、パチンコの景品交換所は、公然と現金に換えている。こんないい加減なことをしている国が国際的にカジノを運営することができるのだろうか。生き馬の目を抜くようなラスベガスのカジノ会社などと闘えると本気で思っているのだろうか。

 年末ジャンボの宝くじの特賞は10億円だそうな。1等当選確率は2000万分の1。買わなければ当たらない、が以前の私の口実だった。株も資本主義の礎だと大見得きって積極的に参加した。結果は父親言った通り。「自分の手で稼がない金には翼があり、胴元に戻る。その上、国家が印刷した金は、すべて国家に戻る。国家は最強の胴元」 

 たとえ2000万分の1でも夢を持ちたい気持ちはよくわかる。でも私はずいぶん前に宝くじを買うのをやめた。もし当たったら間違いなく私のノミの心臓は梗塞するから。逆転の発想をすれば、2000万分の1の確立で命をなくすことを回避して“今”というリッチな気分を少しでも長く味わいたい。


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沖縄 オスプレイ ニコルソン四軍調整官の腕組み

2016年12月16日 | Weblog

  テレビのニュースで、アメリカ海兵隊のオスプレイが訓練中に海に落ちたとアナウンサーが言った。報道ではアメリカ軍は“不時着”と発表していて、沖縄の基地反対派は“墜落”だと主張しているとあった。私は専門家ではないので、その区別はわからない。しかし、テレビ画面で沖縄在留アメリカ軍トップのローレンス・ニコルソン中将 四軍調整官の腕組みする姿を見て、ある人物を思い出した。

 カナダの高校へ転校する前に、私はその男の口車にのって、軽井沢の彼の聖書学校に滞在した。そもそもカナダへ行くきっかけは、ネルソン夫人が開いた英語バイブルクラスだった。ネルソン夫妻は、娘さんを連れてアメリカから退職後に1年間だけ、日本へのキリスト教布教のために来日していた。あの当時、地方都市で英会話をアメリカ人から学べる機会は他になかった。学校の英語と違って、私は熱心に通ってネルソン夫妻から英会話を習った。1年はあっという間に過ぎた。夫妻は私のことを軽井沢の他のアメリカ人宣教師に紹介して、後の面倒を見てくれるよう頼んでくれた。私は横浜港へネルソン一家の見送りに行った。アメリカンプレジデントラインの客船が見えなくなるまで泣きながら見送った。

  アメリカに帰国した夫妻は、私にカナダ留学の道を開いてくれた。入学手続きが終わり出発は、カナダ大使館からの留学ビザを待つだけになった。軽井沢の宣教師がカナダ大使館へ一緒に行ってビザの申請を手伝ってくれた。その時に彼は直接このままカナダへ行くのではなく、しばらく軽井沢でカナダ生活に慣れたらどうかと言ってくれた。私が入学する高校は彼が卒業した神学校の付属高校だった。そうして結局カナダに行く前にそこで過ごすことになった。

 その後、日を追うごとに 彼の態度は親切から私を寺男にように扱うようになっていった。彼は身長が2メートルくらいある大きな男だった。私より頭一つ大きかった。彼はよく私の前で腕を組むようになった。そして上から見下すようにしゃべった。私の性格とか信仰がどうだと行動が態度がと文句が増えた。私はアメリカのネルソン夫妻に手紙を書いた。ネルソン夫妻の働きかけで東京のアメリカ系旅行社が動いて、ようやく彼の所から抜け出して、カナダへ出発することができた。

  沖縄のニコルソン四軍調整官の腕を組む姿と、軽井沢の宣教師の立ち振る舞いが似ている。腕組みの心理を調べてみた。『腕組みが高い位置にあるときは、優位に立ちたいと思っている表れ。相手が胸を張って前につき出すような腕組みのときは、あなたをライバル視している。警戒心が強くなっていることが考えられる。緊張して、場の空気が硬くなっている場面では心理的防衛のために腕組みが多くみられる。相手に対して心理的な距離をおきたいと思っている事が行動に現れる。相手を信用していない。または拒絶をしていると考える事ができる。怒りや不満、抗議の姿勢と考えられる』

  私は腕組みしている人を見たことがあまりなかった。父が腕組みをしたのを数回見たことがある。それはいずれも何かに心配して深刻に悩み考え込んでいた姿だった。軽井沢で私を叱責する宣教師の腕組みをした姿は、寺の山門の仁王像のように怖かった。それから私は腕を組む人と、ほとんど会うことがなかった。私自身も腕を組まないように心掛けている。意識的かそれとも無意識に、居丈高に腕を組む男を避けているのかもしれない。沖縄のアメリカ軍の四軍調整官が腕を組んで興奮して応対する姿は、オスプレイが海に落ちたを“不時着”と“墜落”で言い争うのと同じ不愉快さと不安を私に与えた。腕を組む代わりに、軍人らしくキリッと姿勢を正し、真摯に何が起こったかを伝えられなかったものか。腕組みが日本とアメリカの溝をひろげ、日本政府と沖縄の基地反対派住民との間に割って入り、不信をつのらせる。

 昨夜、ロシアのプーチン大統領が2時間半遅れで来日した。安倍首相は腕組みして迎えていたらどうなっただろう。一方的な腕組みは、人間関係にも外交にも国際紛争の解決には百害あって一利なしである。腕組みしたままでは、握手ができない。抱きしめることもできない。腕をほどいて、握手して、お互いを主張する。そうすれば時間がかかっても、解決の可能性は残る。腕組みしたら、時間が止まってしまう。腕組みは、話し合う、対峙する人の前ですることではない。一人になって熟考するときにかぎる。


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パクチー・コリアンダー・コエンドロ・チュウゴクパセリ・香菜・パク女

2016年12月14日 | Weblog

  ない。まさか。いつもの棚にない。私は魚屋で生きたヒラメを手に入れた。今夜、ヒラメの型押しを作ろうと決めた。さっそく材料を買うことにして住む町から電車で20分の市の駅構内にあるスーパーに寄ったのである。店員に尋ねた。「香菜ないんですか?」「あぁパクチーですか。最近並べるとすぐ売り切れてしまうんですよ。市場でも取り合いです」

(参考写真:チキンの上に散らした香菜)

 また始まったのか。日本人の一過性のブーム。ありがた迷惑である。パクチーが普及するのはかまわない。ラジオで聴いたのだが、パクチーの生産は静岡県が多いが、最近では千葉県の農家がパクチー生産に転換して参入してきているそうだ。首都圏でのパクチー消費量が増え、パクチー専門レストランまであるという。パクチー好きな女性を“パク女”と呼ぶそうな。私から見れば、パターン化した仕掛けられた社会現象でしかない。数年前まで香菜は行きつけのスーパーで普通に買えた。

 ヒラメの型押しには香菜はなくてはならない。香菜なしで仕込みはできない。私はペーパー料理人である。レシピに書いてある通りにしか調理できない。特に材料はひとつとして欠ければ、作る気が失せる。レシピに書いてある順番、量、時間すべてに忠実である。それでも美味いといえる料理はできない。でもめげずに作り続ける。今回もどうしても香菜が必要なのである。最後の望みはあと一軒。それは家の近くのスーパー。急行。あった。パクチーブームは私の住む町には到達していないようである。

 香菜は香味野菜の一種である。名前の呼び方も、パクチー、コリアンダー、コエンドロ、チュウゴクパセリ、香菜といろいろだ。ハーブとも香味野菜とも香辛料とも縁のない子供生活だった。日本の高校から途中でカナダの高校へ移った。カナダのスーパーで香辛料の瓶詰や缶がたくさんズラっと陳列されていて驚いた。知っていたのは近所のラーメン屋にあった粉胡椒ぐらいだった。料理の奥深さに興味を持った。それから20年後再婚した妻の海外勤務に同行した。最初の赴任地ネパールはインドの影響を強く受けた香辛料にあふれていた。クミン、ターメリック、カルダモン、初めて知る味の深淵な世界だった。カレーの原点は、私が考えもしなかった複雑な集合体だった。それからアフリカのセネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアと転勤が続いた。チュニジアではアラブ世界の、香味野菜、ハーブ、香辛料の文化に傾倒した。またアラブ世界の香に対する造詣の深さと生活に見事に取り入れている様に驚嘆した。知人の農場で野生のローズマリーを主に食べて育った羊の肉を砂漠でとれた塩だけで味付けした焼肉の味は今でも忘れられない。(参考写真:ラムローストとローズメリー)

 もともとハーブや香辛料は、熱帯亜熱帯の原産のものが多い。香菜もタイやベトナムなどで多く食される。日本の農業技術の進歩によって、今では一年中、国産のハーブが生で入手できる。喜ばしいことである。

 世界中で自炊する人が減少してきている。パク女が店でプロの調理人が料理したパクチー料理を食するのはかまわない。それを一歩進めて、自らの手でパクチーを調理するようになって欲しい。一過性のブームで終わることなく、末永く香菜が日本人に受け入れられことを願う。

 ヒラメの型押し(丸元淑生の家庭の魚料理 講談社 1900円 税別):材料 ヒラメの身 一尾(生きているもの) 香菜 たっぷり ショウガ(千切り)1個 昆布 型枠の同じ大きさ 2枚 塩 適量 ①ヒラメを薄く切って塩をまぶす。昆布を水で濡らす。②寿司の型枠に昆布を敷く。その上にヒラメの半分を並べる。その上にショウガを置き、さらにその上に香菜の葉を散らす。③その上に残ったヒラメを置く。④ヒラメの上に昆布を押し込む。⑤型枠の蓋をする。⑥重しを乗せて冷蔵庫で保管  2日目から食べられるが、3日目くらいが食べごろ。生きたヒラメだとだんだん透明になってくる。


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ティファニーブルーと上田みどり大根

2016年12月12日 | Weblog

  11日の日曜日、三島の村の駅へ野菜の買い出しに妻と行った。朝9時の開店なので8時に家を出た。海の見える道路をドライブ気分で走った。太平洋は鉛色、そこへ木漏れ陽が放射状に刺すように到達していた。助手席が海側だった。妻に頼んでカメラで写真を撮ってもらった。美しい景色を見ていい気分で運転を続けた。一気に登りつめた丹那の峠道。富士山も見られるかなと期待したが厚い雲の中だった。

 三島の村の駅に9時5分前に到着した。先週より人出は少なかった。広い店内に野菜が山盛りに並べられていた。いつもの通りにまずキノコ。エリンギ、シイタケ、シメジを選ぶ。トマトもたくさん買った。妻が私に「好きな青首大根あるよ」と言った。あった。正確には“うえだみどり大根”。しかし商品ラベルには「青大根」とある。そんなことはどうでもよい。このところずっと村の駅に来て、必ずチェックしていたが見つけることができないでいた。何度か通販で買おうと思ったが、買いそびれていた。

 日本テレビの土曜日午後6時半からの『青空レストラン』という番組がある。11月26日の放送で何と“うえだみどり大根”が取り上げられた。その少し前に村の駅で数本のみどり大根を見つけた。手に入らなければ、目にしなければ我慢できるものである。しかし、再び口にしてしまうと「もっと」「もっともっと」と欲しくなる。このみどり大根をおろし器でおろすと、そのみどり色の美しさに目を奪われる。私が近隣の店で買い求める「青首大根」は首まわりがみどり色だが、中は白い。おろしても白い。ところがうえだみどり大根は違うのである。中もみどり色、それも翡翠のようなみどり色なのだ。

 ニューヨークのトランプタワーの隣に有名な宝石店ティファニーがある。ティファニーは店のイメージカラーとしてティファニーブルーを使う。このティファニーブルーはコマドリの卵と色だということを12月10日放送の『世界ふしぎ発見』の「ニューヨーク5番街の奇跡 日本を愛したティファニー」で初めて知った。創業者のチャールズ・ルイス・ティファニーがこの色に魅せられ自分の事業のイメージカラーにしたのだという。上品な色である。私はこの番組を観ていて、うえだみどり大根のすりおろしたみどり大根を想っていた。まさか次の日、村の駅でそのみどり大根に再会できるとは思ってもいなかった。

 村の駅からルンルン気分で帰宅した。妻がお昼は麺類を食べたいと言った。私は即、真っ白に茹でられた白いうどんに緑色のおろし大根をのせてちょっと醤油をかけて食べることを思い描いた。妻は煮込みうどんが好きなので別に用意することにした。私がうどんを調理しているわきで、妻がみどり大根をおろした。「綺麗な色」と言った。

 私は遠い子供時代にタイムスリップしていた。何もかも不足していた貧しい時代であった。配給のコメだけでは、6人家族には足りなかった。母は庭で野菜を育てた。みどり大根は秋から初冬にかけてのご馳走だった。朝は納豆に混ぜ、夜秋刀魚に付け合わせたり、米を食べない週2日はうどんに乗せて食べた。貧しい家族の食卓ではあったが、母はいつもみどり大根のみどり色が綺麗だと言った。家族全員異議はなかった。みどり大根のみどり色は、貧しかった我が家の食卓をティファニーでの食事並みに華やかな気持ちにさせてくれた。


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紅葉 落ち葉 木枯らし乱舞

2016年12月08日 | Weblog

  散歩を何とか続けている。少し気温が低いと感じれば、「今日はやめておこう」と横着で出不精のもう一人の私が呟く。「ダメダメ、最近の筋肉や体全体の老化を考えれば、歩いて現状維持しなければ」と少しまともなほうの私が諭す。しばらくの葛藤。とにかく着替える。玄関に足を押し出させる。ウォーキングシューズを靴の棚から三和土に置く。靴紐をほどかなくてもこのシューズは履ける横着シューズである。側のファスナーを下し足を押し込む。ドアのロックを外す。ここまでくればもう逃げられない。1階のホールに降りて、総合表玄関のドアを開け道路に出た。

 住む集合住宅はメタセコイアが11本植えられている。この木の葉もすっかり茶色くなり半分くらい落ちている。あちこち落ち葉だらけ。家の前は川のふちに沿う道路である。川の流れに沿うように道路は傾斜になっている。この傾斜にのれば、私の重い体も自然に前進できる。桜の並木が並ぶ。桜の木の葉はほぼ落ちてしまっている。その葉が道路脇に魚のウロコのように重なり合っていた。葉の吹きだまり!何か歌があったな。♪落ち葉の舞い散る停車場は悲しい女の吹きだまり♪ 奥村チヨの『終着駅』(作詞千家和也作曲浜圭介)

  風が吹く。坂道を転がるように葉が輪になって私より速いスピードで突き進む。木枯らし!葉が舞い上がる。舞い上がった葉は、落ちることなく回転する。一枚だけではない。百枚くらいで一団を構成。まるでセンチェリオン(ローマ軍の百人部隊)の行進のよう。色はローマ軍の鎧のように渋い。風が止む。静かに葉がパラパラと地面に落ちる。しばらくするとまた風。新幹線のガード下を抜け、東海道線の鉄橋近くまで何度も葉軍の行進を見ることができた。

 橋を渡って川の反対側の遊歩道に出た。今度は山の上の方までよく見える。今年の紅葉は色づきが例年よりずっといい。海に近いところの紅葉は潮風の影響であまりきれいでないと言われる。今年は気温の変動が激しい分、紅葉が内陸部並みにきれいなのだろう。春の山を見上げて山桜を探すように、私は好きな赤系統の紅葉を探す。あるある。ポツンポツンと。これに陽があたり、まるで赤サンゴのように光り浮き上がる。いいな~。見とれる。

 日常生活では悩みも心配も怖れもある。散歩はそのすべてを飛び越えさせてくれる。落ち葉の吹きだまりのように積み重なったそれらを一陣の風のように散り散りにしてくれる。また何もなかったように元に戻るのはわかっていても、その一時に微かな快感を持つ。季節の移り変わりに接することが、これほど心の薬になるとは。若い頃はただガムシャラに時間と闘った。自然に目を向けることもなかった。散歩など私の生活とは無縁だった。やっと自分が息を吸って吐いているのを確かめられるようになれた。徘徊老人になりきって町のあちこちを巡った。

 海まで来てしまった。水平線を見た。そろそろ暗くなってきた。陽が暮れるのが早い。すでに薄暗くなってきた。家に近づくと、来るときの坂が逆に抵抗となる。それでも道路わきの枯れ葉落ち葉が応援しているように勝手に解釈して足を運んだ。あと少し。メタセコイアの木に隠れた家が見える。こうして散歩しても帰ってこられる私の温かい巣がそこにある。

  巣に戻って夕食の準備をしながらCDを聴いた。♪枯れ葉散る夕暮れは来る日の寒さをものがたり~~♪『恋人よ』五輪真弓 (歌作詞作曲) あと1時間で妻も巣に戻る。

 

 


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高齢者の運転免許証

2016年12月06日 | Weblog

高齢者の運転免許証

 妻が誕生日を迎えた。5年ぶりの免許証の書き換えである。妻はペーパードライバーなのでゴールド免許なのだ。たった30分で再交付されたという。私も今年の7月に免許証の書き換えだったが、3年前に交通違反で減点されていたので半日がかりだった。もちろんゴールドは剥奪された。

 私は最近思う。日本全国で高齢者の運転する車の事故が起き、巻き添えをくって将来のある若者や子供が命を奪われている。80歳まで生きた老人が10歳にもみたない子供の命を奪うのはあまりにも不条理である。私も来年古希になる。車の運転が心もとなくなってきている。今住む町も高齢者が多く住む町だ。子供が少なく高齢者ばかりが目立つ。高齢者の歩行者、高齢者が運転する自動車。私はすでに遠乗りするのをあきらめた。体力も視力も集中力も反応力も気力も持久力にも自信がなくなった。妻の駅への送り迎えが自動車を運転するのが主目的で、あとは買い物に使う程度だ。できるだけ車に頼らず、足腰の筋肉を現状維持するために散歩や運動を欠かさない。

 テレビでも高齢者の運転免許証をどうしたらよいかの討論番組があった。聴いていてもこれという対策はなかった。私は自分の経験からいくつかの提案を持っている。

1.高齢者の運転免許証の更新を半年か一年ごとにする。例)更新時には厳しい認知症検査を含む健康診断、運転実技能力試験を課す。

2.高齢者の行動を規制する運転免許証を分類する。例)A類:自分の家から10キロ以内などの行動規制を付す。B類:高速道路使用不可。雨、雪、濃霧時運転不可。夜間運転不可。C類:時間制限をする。例)一日2時間以上の運転不可

3.高齢者が運転する車を規制する運転免許証。例)自動ブレーキ、アクセルとブレーキの踏み間違い防止安全装置付き、車外エアバッグ装着車

しかし日本の役所、学校は、市民の多くが面倒くさい、手間がかかる、時間がかかることを地道にまじめに日々こなしている者が大多数にも関わらず、責任はとらない、前例のないことはしない、できるだけ仕事はしない主義を堅持する。細かい面倒くさいことは先延ばしする。私の提案など面倒くさいの典型であるからして、実現はほぼ不可能であろう。それなのに税金を取るためには規制規約をガンガン作っている。働くことがなくなった私のような高齢者にも増税や年金の減額などで攻め立てる。自分で対策をたてるしかない。

そこで私は考えた。タクシー会社と月ぎめの契約をして送迎を委託する。しかし最近どこのタクシー会社も人手不足と高齢化の問題を抱えているので命を預けるのも不安である。

私が妻と結婚する前、妻の母親は妻に「お前とこんなに歳が離れていて、相手が早く死ぬと分かっていてもいいのかい」と念を押した。母親は間違っていなかった。私は結婚の二文字に全神経を集中していて、高齢者になった今を想像できなかった。反省。

運転免許証の返納が答えだ。どんな言い訳を考えるより、高齢者の私が夢ある将来ある年少者を殺めることは許されない。

「昔の人はみんな歩いてた。狭い日本そんなに急いでどこへ行く」


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