団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

黒豆

2012年12月28日 | Weblog

  なんとも言えない黒光り、肌はツヤツヤ。美しい。眺めているだけでも幸せである。箸ではたして摘めるのかと心配になるほど丸くてぽってりとしている。世界のあちらこちらでたくさんの種類の豆を見た。そして食べた。しかし丹波の黒豆ほど私の心を魅了した豆はない。

  町田の乾物専門の河原商店で500g2500円の黒豆を買った。煮豆はもっとも厄介な料理のひとつである。正月といっても我が家には伝統的なおせち料理を準備することはない。店、スーパー、デパートの出来合いのものを買うこともない。

 私は乾しナマコ、乾しアワビ、乾燥豆などの長く時間をかけないと食べられない食材の調理が好きだ。好きだけれど失敗が多い。しかし調理に成功すれば、喜びは格別だ。いったいいままでにどれくらいの鍋を焦がして使えなくしたことか。今年も懲りずに黒豆を煮た。煮豆には覚悟がいる。鍋を焦がしてダメにする。途中で気の多い私は、豆にだけ集中できずに浮気してしまう。ちょっとと思ってインターネットや本に夢中になっていると、キッチンから焦げたニオイと部屋に漂う煙にはっと我に帰る。そうだ私は豆を煮ていたのだ。キッチンに駆けつける。ふっくらおいしそうに炊けるはずだった豆は鍋の底にこびり付いている。

 今回もやってしまった。鍋を焦がしたのではない。吹き零れに気がつくのが遅かったのである。我が家の熱源はオール電化のためにIHクッキングヒーターなるものを使っている。ガスなどの代替がない。一見頑丈そうで故障もなかった。今回の吹き零れは大量であった。妻に応援を要請した。「私のお母さんもよくこうして豆を煮ていて失敗していたわ」 その言葉は嬉しかったが、私は落ち込んだ。またやっちゃった。豆もちゃんと煮えないのか。雑巾を5枚くらい使って吹き零れた豆の煮汁を拭き取った。

 気持ちを入れ替えて、再度豆を煮始めた。IHの制御版に「U-16」の文字。見たこともない表示。早速説明書で調べる。(U-15:なべ底に約2mm以上のそりがあったり変形している。トッププレートやなべ底に異物や汚れがこびり付いている。余熱中に油を継ぎ足した。トッププレートが熱いときに、揚げ物をした) でもどれも当てはまらない。3つあるうちの2つは使える。しかし、もし漏電していればIHは高電圧のので非常に危険だ。すでに修理に関する相談窓口の受付時間は過ぎていた。その晩は電子レンジや電子グリルを使って夕飯を調理した。

 翌朝、受付時間の9時ちょうどに相談所の番号を入力した。「現在この番号はつかわれておりません。新しい番号は・・・」 私の悪い予感はほとんど当たる。新しい番号をメモして再挑戦。私はあらかじめ録音された電話応対が苦手である。ましてやそこに「何何の御用の方はプッシュボタンの1番を」の類いの操作がよくできない。米印を押せとか言われているうちに「オペレーターにお繋ぎします」ときた。「いるなら初めからでろよ」とごねる。「(音楽が始まる)申し訳ございませんが、只今大変回線が混雑しております。もう一度のちほどおかけ下さい」 9時に始めて、結局繋がったのは20分後だった。

  受付の女性に説明して担当者に繋いでもらって故障の状況を説明した。「明日修理に伺えますが、時間は明日の朝9時から10時の間にご連絡差し上げます」ということになった。

 10時に人と会う約束があった。ハラハラドキドキ30分待った。こういうときの待ち時間は長く感じる。9時半にこちらから電話した。「午後の1時から2時の間にお伺いできますが、ご都合いかがでしょうか?」「それでいいのでよろしくお願い致します」

 1時から窓の外を見つつ待っていた。2時10分前に電話。「あと20分くらいで到着します。すこし遅れますがよろしくお願い致します」 結局2時20分到着。

 修理開始。原因判明。すでに設置して10年経つ。トッププレートの設置面の接着剤が劣化して豆の吹き零れの煮汁がそのすき間から中に入り、基盤が濡れてダメになった。基盤とトッププレートの交換、部品代、出張代と技術料で4万円くらいかかるとの試算。「買え替えるといくらくらい?」「工事代込みで30万くらいです」 絶対修理しかない。ということで修理してもらった。36、855円だった。

 高い黒豆とも思ったが、IHクッキングヒーターの寿命だったことでもあるし、悪いように取らないようにした。そんなこんなで大変な手間ヒマお金をかけた黒豆が完成した。やはりその黒光りはどんな問題をも跳ね返してしまうほどの威力を秘めている。今年の黒豆も甘すぎもなくちょうどいい塩梅に仕上がった。これで無事正月を迎えられそうである。

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年賀状

2012年12月26日 | Weblog

  尊敬するgooブログ『山の恵み里の恵み』氏が「年賀状謝絶」と題して「Your days are numbered (出典不明)'number'とは1~9のこと。「お前さんの命(世にある日々)はあと10日ともたないぞ」「命旦夕に迫る」のを実感する今日この頃、身辺整理を開始しました。手始めは年賀状拝止。半世紀以上にわたって年賀状を交換してきた方々に「年賀状謝絶」通知を出しました。メールアドレスが判る場合はメールで、さもない場合はハガキで。早手廻し過ぎるかな。さて次は何を整理すべきか。」(要約)感無量。

 これを読んで思い出したのが、

(1)  年齢に逆らわず 無理をしない

(2)  いやなことはせず 楽しいことをする

(3)  睡いときに寝、醒めたら起きる(昼夜を問わず) 好きなものだけ食べる。但し午後8時まで

(4)  義理、面子、思惑をすてる。つまり省事で通す

(5)  友人をつくり、敵をふやさない

           『無所属の時間で生きる』城山三郎著 新潮文庫 438円

という城山三郎の言葉だ。これは城山三郎が還暦を迎えたとき、自分の老後をこう過そうと思って書いたものだ。私も参考にしたいと思っている。

  私は42歳から57歳までの10年以上に及んだ海外生活で日本の伝統的なしきたり、冠婚葬祭の付き合い、年中行事からまるで透明人間になったかのように距離を置かざるを得ない状況にいた。多少の寂しさはあったが、正直アリとキリギリスの寓話にたとえればキリギリスになったような気でいた。だから老いてきた昨今、他の団塊世代とは違い年賀状の枚数も付き合いも少ないのは当然と納得できる。

 日本に帰国して8年たった。新しく始めた日本の生活の中で年賀状が年を増すごとに増えてきた。欠礼と認めながらも私は年賀状をいただいた方々だけに返事として出す。礼儀知らずとわきまえている。『山の恵み里の恵み』氏から年賀状が来なくなるのは寂しい。しかしきっぱりと年賀状謝絶を宣言する潔さに敬服する。私もいくつか身辺整理を始めている。「明日」「明日」と先送りしてばかりいて遅遅として進まない。「明日」を「50年」と置き換えると、気が楽になる。「50年先に私は絶対に存在していない」が説得力を持って「限りある命、せめて今できることをしておこう」と身にせまる。持つべきは良き先輩である。尊敬する先輩をできるだけ真似て、自分に取り入れられることは積極的にいそがしく自分の中に取り込んで生きたい。今年もあと6日である。

 

○ホームページを開設しました。

 

 

 


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「気持ち、下」

2012年12月20日 | Weblog

 職人気質に触れた。我が家のトイレと洗面所風呂への引き戸が途中で止まってしまう。ただ止まるだけなら我慢ができる。止まった戸に力を入れて動かそうとすると問題が起こる。特に引き戸を開けようとするときだ。食い込んだようにビクともしない戸を力任せに押しこくる。「ギャあぁーー」と声を上げる。右手の指を戸と壁に挟む。痛ぇーなんていうものではない。頭の中にカミナリが落ちたようだ。指の神経は最も敏感だそうだ。戸がシブくなって3回指を挟んだ。たまらず米屋の「スギヤマ」へ電話した。この米屋さんは、私たちがここに住むようになってからの相談所である。困ったことがあると相談する。ほとんどの問題を親身になって解決か解決への適切なアドバイスをしてくれる。今回も即知り合いの襖(フスマ)屋を紹介してくれた。11月26日のワイン会の開催を前に襖屋は応急処理をしてくれた。良くはなったが完璧ではなかった。

 
  日曜日、襖屋が建具屋と一緒に家に来てくれた。二人はゆうに70歳を超えていると思われた。二人の掛け合いが絶妙だった。きっと幼い頃からもしくは丁稚修行の仲間であったのかもしれない。最初、現場を二人に任せて書きかけの文章を終らせようと書斎に戻ろうと考えた。しかし二人に興味を持ってしまった。私は一緒にそこにいた。


  建具屋は屋号をローマ字でいれたうす緑色の作業着に5本指の白いソックス。襖屋はベージュの作業ズボンにユニクロのダウンをはおり、黒い足袋。まず仕度格好がぴったりである。仕事を進めるごとに私は驚嘆を隠せなくなった。この二人タダモノではない。職人だった私の父親の口癖は「仕事は段取り、道具は職人の命」だった。まさにこの二人はその実践者である。実に仕事の運びにリズムがある。声の掛け合いもいい。

長年の実績と経験で戸の不具合を見つけた。床に切った溝に埋め込んだ戸の車を受けるプラスチック製のレールが劣化して裂けてそこに車が沈んでしまう。裂けた所を通過して元のままの場所に来ると今度は巾が狭まり、車がはまり込んで動かなくなる。修理するにはプラスチックのレールを取り替えなければならない。取り替えるには壁際いっぱいまでに置かれた食器戸棚を移動させなければならない。中には大切な食器とワイングラスがたくさん納まっている。地震対策でご丁寧にもひとつひとつを特別な接着剤がついたシートで固定させている。これを全部はずして中から出して食器戸棚を空にして動かさなければ3人の男でも動かせない。大きな問題にぶつかった。しかしそれは素人の私が勝手にそう思っただけなのだ。二人は長さ30センチほどの角材とタオルでいとも簡単に静かに揺らすことも戸棚の中の食器が音を立てることもなく移動させてしまった。驚く私の顔を見て「テコの原理でさあ」と一言。


  戸棚の裏はほこりだらけ。私はあわててクイックルで拭き取った。そんなことを気にもせず四つんばいになって両側から二人は戸棚の裏に入り作業を進めた。レールを2本つなげることになった。長さを爪で印をして切断した。ぴったりと入った。しかし建具屋は満足しなかった。テコに使った角材にノミをあて、薄い木片を削りだした。それをレールとレールのつなぎ目に入れた。「だめだ、気持ち厚い」と独り言。また角材にノミをあてる。再び継ぎ目に入れる。満面の笑顔。「ぴったりだ」

 
  レールはいままでのプラスチックからアルミ製を薦められた。見た目は悪くなるけれど丈夫で長持ちするという。そして「この間の中央高速の笹子トンネルの天井だって、コンクリートでなくて軽くて丈夫なアルミやチタンを使えば落ちたって人が死ぬような事故にはならねえのにな」とも言った。すごい意見だ。職人だからの観点で問題をとらえている。私は書斎に行きメモをとった。


  最後にレールの下に丁寧に両面テープを貼って完成。戸をはめた。「ついでだ。戸の車も少し出しておこう」とあうんの呼吸で二人は戸を外して横にした。戸の下にある2個の車輪を外し調整してまたクギで打ちつけた。二人は時々「気持ち、下」とか「気持ち、右」とか言い合い調整をすすめた。


  この場合の「気持ち」は英語で何と言うだろうかと私は二人の脇で考えた。欧米人などは、「気持ち」とは絶対に言わない。言えば喧嘩になるかもしれない。何センチとか何ミリとか右、左、上、下とか具体的な指示以外に反応しない。「気持ち」という表現に日本人の技術水準を感じた。長くてつらい修行は、技術そのものよりこの「気持ち」を測れるためのものではないのだろうか。日本はその「気持ち」の文化を捨てて、何もかもやれ法律だ規制だ常識だという条文化、数値化された社会になってしまった。二人は持てる技術も気持ちもほとんど活用せずに社会の流れから外れてしまっていると言った。二人で2時間かかった仕事の代金は6千円だった。私は哀しいと思ったがそれに対して「ありがとうございました」という以外何もできなかった。「気持ち」に値段はつかない。しかし人の心を豊かにしてくれる。二人の存在に接し、消えゆく職人気質や伝統をモッタイナイと思った。「気持ち」と技術が融合する文化が消えかかっている。踏ん張れ、ニッポンの気持ち。

(写真:「気持ち、下」と言いながら作業する二人の職人)

 

お知らせ:このたびホームページを開設いたしました。ホームページでは最近出版した電子書籍の紹介と購入方法を載せています。電子書籍は、i-padかスマートフォンでしか読むことができません。ご注意ください。ホームページはまだ作成途中ですが、ぜひご覧になってください。よろしくお願い致します。下のアドレスから私のホームページに入れます。

http://book.geocities.jp/junnaichimai13/index.htm


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緊急入院

2012年12月18日 | Weblog

 12月15日土曜日。妻は土曜日出勤の日だった。妻を駅へ送った後、私は車の定期点検のために東京の車販売会社へ一人で運転して出かけた。午後妻の勤めが終ったら新宿の高島屋で落ち合って、買い物して帰宅する予定だった。車の点検は10時に入庫して1時間半で終った。3時間はかかると思ったので時間をどうすごそうかと困った。土曜日でクリスマス前の週末なのでそろそろデパートも混むのではと推測した。とりあえず高島屋の地下駐車場へ車を入れておこうと考えた。やはり駐車場に入る車が列になっていた。2、30分でやっと駐車できた。

 デパート内をあちこち歩いて時間を潰していた。携帯電話にメールの着信音が鳴った。「おなかが少し痛くなったので内科に診てもらったら入院するように言われました。高島屋には行けないので病院へ来て下さい。ゴメンナサイ」さあ大変。妻は日頃、自分の売りは健康なことと広言している。小中高と皆勤賞をもらっている。その妻がつい最近脱水症になった。何かなければと心配していた。みずほ銀行のオネエチャンに税務署へ提出する確定申告書類のことで意地悪されて精神的にも参っていた。とにかく病院へ行くことにした。幸いにも高島屋から妻が勤務する入院した病院は近かった。

 車を運転しながら襲い掛かる妄想と闘った。ネパールに住んでいた時、胃が痛いというのでタイのバンコクで精密検査を受けたら、胃に穴が開いていた痕跡があると診断された。ネパールの生活が相当なストレスであったに違いない。内視鏡で痕跡から組織を採取して病理検査をしたが悪性ではなかった。チュニジアでは私が狭心症の発作を起こし、帰国してバイパス手術を受けた。6ヶ月間妻は一人でチュニジアでがんばった。ロシアのサハリンでは、私の体調が思わしくなく単身赴任状態になった。妻は原因不明の頭痛とふらつきのために救急車でアメリカの石油会社が派遣していた医者のクリニックに搬送された。東京に一時帰国して精密検査を受けたが原因も病気も見つからなかった。私と一緒にいる時には発症しない。

 今回も原因不明の病気なのか。もしくは重大な疾患を妻はかかえているのかも。手術するのか。死んでしまったら私はどうすればいいのか。車でたった10分の距離がまるで数時間の運転したあとのように思えた。車を駐車場に入れた。部屋は501号室だった。ドアを緊張の火花を散らせてノックした。「ハイ」とか細い声がした。妻は白衣のまま点滴をして横たわっていた。私が病院のベッドにいても違和感はない。白衣のままの妻の姿は、私の不安をさらに高めた。

 病名がわかった。腸炎による小腸の閉塞だった。原因はこれからの検査で判るかもしれない。病院で具合が悪くなったのは、せめてもの救いであった。すべてを医師やスタッフにお願いして帰宅した。その晩ずいぶん痛みがあったようだ。それも当直の医師の適切な治療で切り抜けた。日曜日は投票を済ませて東京へ向かった。峠は越したようだった。4時間一緒にいた。笑いをとろうと冗談をいくつか試みたが、どれも白けるだけだった。冷たい迎える人もいない灯りもついていない家に戻った。

 月曜日、妻は退院して午後は診療するまでに快復したとメールをくれた。夕方いつものように駅の改札を出てきた妻は、拝みたいほど神々しく見えた。


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産む覚悟、産まない覚悟

2012年12月14日 | Weblog

  田辺聖子が17項目挙げて子どもを産まない理由のような事を書いている。全部書けないので4項目だけ引用する。「子供を生んで可愛がるよりは、自分が子供のように可愛がられるほうが好き」「新しい服が届いてさっそくそれを着てみる。背中のファスナーを男にひっぱりあげてもらって、くるりととふり返ったとき、男がにこにこして、よく似合う、といってくれるのが好き」「そうして毎晩毎夜、男のふところに顔をつっこんでねむり、寝物語をせがみ、男がねむがってレコードがゆるんだように言葉がとぎれると、耳をひっぱったり鼻をつまんだりしていじめて目をさまさせるのが好き」「だから私は、子供を生んで可愛がるより、男に子供みたいに可愛がってもらうのが好きだというのだ」『女の長風呂』より抜粋

  私はノートに書き写してあった田辺聖子の『女の長風呂』から抜粋したページを開いて妻に読むように言った。妻は一気に読んだ後「私が言ってたことメモにとってあったの?」と私に尋ねた。「違う。田辺聖子が書いたものだ」「ふ~ん」と妻は答えた。

  私のパソコンの待ち受け画面は、私の孫3人が並んで撮った写真である。私と今の妻の間に子はいない。私の子供も孫も妻との血縁関係はない。法的にも養子縁組をしていない。それさえも妻が考慮して出した結果である。時々妻が私の子どもや孫との対応に戸惑う姿に私は気づいている。当然なことだと思う。

  私の妻は、すでに中学生の時、自分は子を産んで残さないと決めたという。それ以前に結婚さえしないと決心したという。孫の写真を妻と共用するパソコンの待ちうけに使おうとした時、迷った。しかし私はあえて写真を待ちうけに使った。妻はすべてを覚悟して決心したことだ。妻が子どもをもうけないこと、バツイチで連れ子が二人いる男との結婚。妻はつらくとも現実を認めて受け入れることができるはずだ。避けていれば、いつまでたってもそのたびに苦しむ。私だって隠すように子どもや孫と接していれば、夫婦の関係に悪い影響を与える。親しき仲にも礼儀あり。淡々と隠すことなく振舞えばよいのだ。良識と思いやりを持ってさえいれば、きっと自然のこととして受け入れてくれる。

  私は深い考えもなく、場当たりに生きてきた。子どもを持つ覚悟も責任も意識したことがなかった。結果は惨憺たるものだった。妻との再婚がなかったら、私は現在どうなっていたかわからない。田辺聖子には“カモカのおっちゃん”なる最初の妻と死に別れた医者の夫がいた。彼との生活、4人の連れ子との顛末も本になっている。私と妻と子どもと孫の関係も世間にはないことではない。せいぜい勉強して妻の産まない、産まなかった覚悟を尊重して、妻をこれからも力一杯支えていきたい。


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いい卵の日 11月05日

2012年12月12日 | Weblog

  私は主夫である。バツイチで二人の連れ子がいた。再婚した妻は私と違って実直な勤め人である。年齢も十二歳年下だ。私の事業の先行きに見切りをつけた頃、二人で話し合った。私が四十二歳の時だった。尊敬するある会社の経営者に将来を相談した。彼のアドバイスは「人間、五十歳前なら失敗しても再起の可能性はある。だけど五十歳過ぎて失敗したら、まず再起できない。それを踏まえて決断したら」だった。ちょうどその時妻に海外勤務の話がきた。「配偶者として同行できるけれど条件があるの。その配偶者は無職であること、禁治産者でないこと。あなたは、ここまでがんばったのだから、海外で私を助けて、のんびり暮らさない」と妻が私を誘ってくれた。私は妻に同行して主夫になることを決心した。

 最初はネパールの首都カトマンズに住んだ。エベレストがそびえヒマラヤの山懐にある美しい国に住めると喜んだ。到着してから二週間ホテルで卵が原因の食中毒のため夫婦でトイレを取り合った。水道水はどんなに待っても茶色が透明に変わることはなかった。水の出も悪かった。断水も四六時中起きた。在住の日本人から「ここで健康に暮らすには、一に清潔な飲料水の確保、二にできるだけ食料は自給すること、三に食事は自分たちで調理して管理すること」と教わった。主夫の出番を与えられた。

 前任者から引き継いだ住居は、敷地三百坪建坪八十坪のコンクリートの三階建てだった。家の周りは、三メートルを超す塀に囲まれていた。庭に六十坪の畑もあった。なにもかも独学だった。清潔な飲料水づくりに毎日三時間、畑の土づくり、消毒、コンポストでの肥料づくり、種まきとネパール人の助手と働いた。仕上げは、生卵を食べるための二十羽の鶏を飼う環境作りをした。

 そしてネパールに来て六か月後、私たちは友人を招いて“卵かけご飯パーティ”を開いた。みな疑心暗鬼で箸運びが重かった。無理もない、現地で買った卵の中に回虫を見つけたり、下痢の経験がそうさせた。ハラハラドキドキのパーティ後、だれ一人病気にならなかった。安全な卵かけご飯パーティのおかげで、私は多くの在住日本人から一躍、生卵の主夫として存在を認められた。主夫のたまごが孵化して,やっと主夫のひよこになった瞬間だった。その後のネパールでの二年半は毎日が卵でいい日であった。

 十四年の海外生活の後、日本で安全な卵を毎日買って食べられることを幸せに感じるのは、卵の苦労を知っているからこそと、たまごから二十一年廃鶏寸前にまで成長した主夫は思う。

 (いいたまごの日、11を“いい”0を“たま”5を“ご”と語呂を合わせた11月05日にちなんだエッセイ応募作品 結果は没)


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金券ショップ

2012年12月10日 | Weblog

  東京へ行く用事ができて上京した。ついでに金券ショップで西武鉄道の以前から持っている株の株式優待券を現金化しようと思った。新宿駅界隈には多くの金券ショップがある。以前入ったことがあるDという金券ショップに入った。2階に買取カウンターがある。客は私以外だれもいなかった。女性店員が応対した。ツケマツゲが落ちそうなくらい重そうに目に乗っていた。言葉、身のこなしが日本人女性とは思われなかった。西武鉄道の乗車券10枚と西武グループの優待券1冊、割引券1冊を出した。「これだめ。買わない。捨ててもいいか?」と優待券と割引券をカウンターの脇によけた。グリルのアルミ製のアブラよけに三方囲まれたパソコンを操作した。ずいぶん時間がかかった。「一枚220円ね」と電卓を叩いた。おかしい。私は「今日はやめます」と店を出た。背後から「チッ」と舌うちが聞こえた。

 そこから10メートルも離れていないところにAという金券ショップがあり、カウンターが道路に面していた。「ここなら何かあっても人通りが多いので安全かな」と私は神経質になっている自分を笑った。さきほどの優待券を3つ並べて示すと2つを抜き取り1つは「すみません、こちらは買取できません」と丁寧に両手を使って差し出すように戻してくれた。計算機を叩き、乗車券の枚数を確認して「合計で9400円になります。よろしいですか?」と言った。さっき売っていれば9400円-2200円で7200円をパーにした。確か去年もこのくらいだった。「よろしくお願いします」と9400円をいただいた。

 東京は恐いところだ。油断も隙もありやしない。あの手この手で騙そうと虎視眈々と獲物を狙っている。そんな中で人間のあくどさを超えて、制御された誠意に接する清々しさに崩れ落ちそうになった私の気持は救われた。やはり私は都会には住めない。部屋にこもって読んだり書いたりしているのが、身の丈に合っているようだ。人間嫌いと人間大好きに揺れる自分に呆れている。


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カリスマ指導者

2012年12月06日 | Weblog

  三島由紀夫、石原慎太郎、池田大作、小田実。評論家の大宅壮一は、かつて70年代に活躍しそうなカリスマ的指導者として上の4人を『文藝春秋』昭和45年1月号で挙げていた。

  三島由紀夫、小田実は鬼籍に入っている。現役で私たちが目にできる状態で活躍するのは、石原慎太郎一人だけである。その石原もすでに齢80歳を超えている。

  カリスマを広辞苑の電子版でひくと、①[宗]神の賜物の意。聖霊から与えられる特別な力。②[社]超人間的・非日常的な資質。英雄・預言者などに見られる。③多くの人を心酔させる資質・能力。とある。

  12月6日衆議院議員選挙が公示されて、選挙戦が始まった。何と12の政党が乱立、1504人もの立候補者が出た。私は、いつものようにいまだ私が住む選挙区の立候補者の氏名さえ知らない。誰に投票してよいのやら、どの党に投票してよいのかも分らないでいる。

  選挙になるといつも感心する人々がいる。池田大作率いる創価学会の会員である。とにかく熱心である。時間も構わず、親しくもない細い薄いどんな関係、例えばただ職場の知り合いとか教え子だとか過去に赴任地が一緒だったとかでも活用して、どんな選挙でも私に公明党議員への投票を依頼してくる。その一心不乱の熱心さに私は圧倒され、たじろいでしまう。創価学会を母体とする公明党は、日本でもっとも票集めに長けた土台が盤石な政党に違いない。選挙では浮動票がもっとも少ない党でもある。それが他のいかなる党とも違う。日本の旧態依然な選挙の地盤看板カバンの世襲制を打ち破って風穴を開けた功績は、今のところ大きいと私は評価する。おそらく学会員は相当な確率で公明党を支持しているはずだ。でなければ現在日本の地方議員総数32、479人中約3千人が公明党に所属しているなんていう数字が出てくるわけがない。組織で一丸となって選挙に臨む体制は池田大作のカリスマ性に由来する。大宅が選んだだけあるカリスマ指導者である。これだけのことを成し遂げた政党も政治家も日本にはいない。中国共産党の党員は6930.3万人。総人口13億1448万人の人口比5.4%である。公明党の地方議員の占有度は9.2%である。この二つの数字で比較するのは、無理がある。しかし中国共産党の人口比の数字より高いことに、私は注目してしまう。

  カナダ、ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアで暮らした。選挙を各地で見ることができた。どこの国でも日本のように車に拡声器を積んで目一杯にボリュームをあげて、わめきまわる下品で下心丸出しの選挙運動を見たことがない。なぜか考えた。かの国々では選挙する前から支持母体が磐石で浮動票が非常に少ないので、日本のような選挙運動をしないで済むのが一因であろう。一方では宗教、部族、人種、イデオロギーの対立は、紛争戦争の殺戮にまで到る生死を分けるものである。カナダはキリスト教の教会の組織票と移民の人種グループ、ネパールはヒンズー教とそれに由来する強固なカースト制度、セネガルはイスラム教と宗教指導者マラブーの影響力、旧ユーゴスラビアは旧社会主義、チュニジアはイスラム教、ロシアは旧共産主義というように、それぞれの組織が絶大な影響力をいまだに持っている。日本が上の一部の国々のように、ひとつの宗教やイデオロギーが国家を支配するような事態にならぬ事を祈るばかりである。

  今回の日本の衆議院議員選挙を直前にして、私と同じく特定の支持政党や信仰する宗教を持たない有権者の多くは、どの党の誰に投票してよいものやら、頭を痛めている。家の前に堂々と公明党支示のポスターを貼り、創価学会信者である立候補者を断固として応援する同じく信者である人々が羨ましいと、投票先を迷う私は思ってしまう。

  しかし待てよ、迷えるということは自由であるが故の贈り物である。迷おう。多いに迷って迷って、調べ、考えてどの党の誰に投票するか決めようぞ。

  また前回選挙で犯した失敗をするかもしれない。一時、私は今回の投票を棄権するとまで考えた。撤回する。一票は私の自由の象徴なのだ。たとえ自分がカリスマのカの字にもかすりもしない超人間的でなく極普通の人間で、非日常的でなくきわめて日常的な凡人である私の一票でも、そういう人たちの票が集れば大きな力になる。特に団塊世代で信州人である私には反骨精神の血が流れる。いかなる統制からも圧力も強制も受けつけない選挙権を有する人々が、自由であることを自覚して、政策を見極めて投票することを信じたい。崖っぷちニッポンだけれど、選挙でキッカケを掴み、よみがえって欲しい。ニッポンは世界に類のない浮動票王国で、稀有な投票の自由が残されている。


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トンネル事故

2012年12月03日 | Weblog

  (お詫び:今週は火曜日、木曜日が掲載日ですが、トンネル事故発生により急遽変更しました。次回は6日木曜日です。)

 私の海外生活は合計すると20年以上になる。海外から日本に帰国するたびに驚いたことがある。鉄道でも道路でもトンネルが多いことだ。長時間飛行機という狭い空間に押し込められ、その上窮屈な座席でほぼ同じ姿勢をとっていなければならない。閉所恐怖症は、トンネルと飛行機で症状が出やすいと聞いたことがある。私は閉所恐怖症までいかないが、トンネルや飛行機の中で底知れぬブラックホールのような恐怖にとらわれる事はよくある。飛行機から開放されてほっとしたのも束の間、今度は車であれ電車であれ、故郷の信州へ帰るには数多くのトンネルを通過する。私が住んだ国々は皆トンネルの少ない国ばかりだった。トンネルのない国から帰国すると、いつもトンネルの数、規模、長さに驚嘆した。日本の国土は山が7割で人が住める平地が数パーセントしかない。トンネルが多いのは当然である。

 かつて知人夫婦が北海道の札幌へ転勤になった。強く誘われ、私たちの当時の任地ロシアのサハリンからの帰国休暇の折、札幌に立ち寄った。サハリンにも山はある。しかし人口が少なく、道路は常に山を迂回して造られていた。友人夫妻に案内されて観光地を訪ねた。積丹町へ行った。途中完成したばかりだというセカタムイトンネルを通過した。

 セカタムイトンネルと言われても私にはただのトンネルの一つでしかなかった。しかし知人の話に私は全身硬直した。1996年2月10日午前8時ごろ余市町と積丹町を結ぶ豊浜トンネル(全長2、228m)内を走行していた北海道中央バス(乗客18名と運転手1名)と後続の乗用車(1名乗車)の2台計20名が突然崩落したトンネル内に閉じ込められた。救出作業は困難を極めバスと乗用車に救助隊が到達できたのは、5日後だった。20名の全員が車内から激しく圧壊損傷した遺体で発見された。(注:セカタムイトンネルは豊浜トンネル崩落後、2000年に豊浜トンネルの事故後も残った部分と新しく掘られたセカタムイトンネルをつなぎ合わせて開通した)

 かつて私は長野県で英語を専門学校、予備校、塾で教えた。豊浜トンネル事故で亡くなった乗客の多くが通学途中の学生だった。将来の自分の夢に向かって、失望落胆歓喜有頂天を繰り返す若い学生が、朝起きて通学バスに乗り元気に家を出た。トンネル、それももうすぐ出口という所でトンネルが崩壊した。推定で重さ27,000tの岩盤土砂が落ち、一瞬で学生たちと乗客乗員を即死させた。かつて私が教えたいきいきした生徒たちの顔を思い出した。それとトンネル事故で亡くなった若者の無念を重ねてしまった。どうにもやりきれない事故だった。

 昨日12月2日日曜日午前8時頃、中央高速道笹子トンネル上り線内で崩落事故が起こった。また午前8時頃と聞いて北海道の豊浜トンネルの事故を思い出した。胸が押しつぶされそうになった。3日の朝現在5名の死亡が確認されているが、いまだ救出されない方々もいる。朝、元気にそれぞれがそれぞれの予定をもって家を出た人々が突然事故に遭遇して帰らぬ人となる。どうにもわりきれない。無力。無常。

  私たちの人生は、確率というロシアン・ルーレットのような賭けとは言わせない。人間がつくったものには、必ず欠点過ちがあるとも言わせない。日本は疲弊しているとも言わせない。犠牲者が出なければ点検に身を入れないとも言わせない。「もう二度と同じ悲しみを他の人に・・・」と犠牲者の家族にも言わせない。中国の新幹線事故を笑わせない。

  何を言っても失われた命は戻らない。それなのに今日も私は「無病息災」の願いをかけて一日を始める。


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