団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

電車が書斎

2008年03月28日 | Weblog
 新幹線は「ビューンビンビンビン」と走る。在来線は「ガタゴン ガタゴーン ガタゴン」と走る。

 この在来線のガタゴン ガタゴーン ガタゴン、が私の読書にも書き物にも、実に良い響きとリズムで脳を活性化してくれる。ふと車窓から景色を見る。相模湾がキラキラ光り、遠くに伊豆大島が見える。三浦半島の突端まで見えることもある。

 沿線の土手や路肩はまるで植物園のようだ。季節季節にそれぞれ違った植物が目を楽しませてくれる。冬でも何かが咲き、緑を保つ。

 私は夢中になって読め、書ける。アイデアがひらめき、湧いてくる。メモを取る。本に書き込みを入れる、傍線を引く。気がつけばもう目的地に着いてしまう。

 私は駅までを散歩コースとしている。約20分、歩数にして2800歩。そして気が向くと電車に乗る。カバンにいつも本2冊、カメラ、未整理の新聞の切り抜き、大学ノートを入れてある。 

 今月、とうとう5駅先までの定期券を購入した。計算してみると電車代も馬鹿にならない。小遣いを計算して、6箇月定期にした。私は、何か買うと使わないと損をすると思う、貧乏性である。定期を使おうと駅まで歩く。まず図書館に顔を出し、新しい週刊誌に目を通す。それから駅に戻り、家に帰るか、電車に乗るか、気分次第で決めている。

 天気が良いと車窓から海か富士山を見たくなる。城山三郎の『湘南 海光る窓』にもそんなことが書いてあった。 

 席は箱席が何と言っても書斎向きだ。ベンチスタイルだと気が入らない。電車が書斎と言っても、いつでも書けたり、分類できたり、読めたりするわけではない。近くで興味ある会話がなされていたりすると、私の耳は引き込まれやすい。「ふんふん」「そうなんだ」「それはちょっと違うんじゃない」ともう完全に相手のペースにはまって聞きいっている。だからといって会話に参加できるわけではない。

 そういえばアフリカに住んでいた時は、会話にだれでも入り込んでくるのでびっくりしたことがある。飛行場、レストラン、飛行機の中、船、バスどこでも他人が平気で会話に割り込んでくる。まず日本ではほとんど有り得ないことである。もちろん相手が解る言葉で会話がなされていなければ割り込みはない。私はこの状況が嫌いではなかった。もともと話し好きなので、楽しい会話なら割り込み大歓迎である。

 電車書斎は色々な情報をも私に与えてくれる。日本では知らない者同士で話すことはほとんど無い。もっとも多くの日本人は、ひとりで出歩いてはいない。必ず透明人間のような、携帯とつながっている見えない人々が付随していて、体はそこにいても、心は携帯のむこうのひとと一緒である。これから世界中が日本のように携帯に制覇されていくのだろうが、アフリカで楽しんだような会話こそ、人間の会話だと思えて仕方が無い。 

 春爛漫。今日も天気が良かったら、車窓からのお花見でもしようと思う。どんな書斎を楽しめるのか。それにしても、日本の春は美しい。

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蛙合戦

2008年03月25日 | Weblog
 私は高校のとき、生物班と呼ばれるクラブ活動に所属した。一年後輩にM君がいた。彼は蛙や両生類に夢中になっていた。隣町に“蛙合戦”で有名な寺があった。M君は泊りがけでこの“蛙合戦”を毎年観察した。大学もわざわざこの研究を続けるために地元の国立大学に進学した。私がカナダに行ってしまった後も、人づてに彼が“蛙合戦”の研究を継続していると聞いた。

 それからすでに40年が過ぎた。先日テレビの夕方のニュースでM君が登場した。彼は現在、京都大学の教授になっていた。きっと長年続けていた研究が京都大学に認められたのだろう。ニュースは日本の天然記念物に指定されている“オオサンショウウオ”が中国から輸入され、心無い養殖家に放棄された外来種に凌駕されつつあると伝えた。そこでM教授が学生たちと調査に乗り出しした。“オオサンショウウオ”の生息する川を水中カメラで探索する。捕獲して外来種か日本種か判定する。大変な調査だった。いかにもM君むきの調査であった。 

 「継続は力なり」というけれど、まさにその良い例である。一つのことを一所懸命やれば必ず認めてくれる人がいる。M君が全国放送のニュースに登場する。ということは彼は両生類、特にオオサンショウウオの日本的権威であるという証明でもある。淡々と解説するM君を見ていてとても嬉しかった。派手で人目をひく研究ではない。

 私も何にでも興味を持つ気の多い人間である。しかし飽きやすく長続きしない性格をもっている。好奇心だけではダメなのだ。軽井沢にしばらく住んだ時、春、大きなニホンヒキガエルのメスの背にメスより小ぶりなオスが乗って、あっちにもこっちにもいたのを見ても研究対象と考えたことは一度もなかった。

 そもそも蛙合戦とは春の繁殖期におびただしい数のオスが集まり、メスを取り合うさまをいう。鮭の遡上のようでもある。サハリンで見た鮭の遡上は私には、とても切ない風景だった。一匹のメスに何匹かのオスが追いねらう。あの苦労をして、あの長い逆流を遡り、体をボロボロに傷つけ、自分の子孫を残すために一瞬にかける。目的を達成するのはたった一匹だけである。私はどうしても目的を達成できずに朽ち果てていく鮭に、自分を重ねて暗い気持ちになる。ニホンヒキガエルの蛙合戦でも一匹のメスの背中に乗ろうともの凄い数のオスが戦いを挑む。鮭と違って一瞬で決着がつかないのが非情である。一旦メスの背に乗り、有頂天になっていると、違うオスがその隙を狙ってくる。やっとメスの背に乗れたオスが他のオスに引き摺り下ろされることも多々ある。油断できない。そして引き摺り下ろされたオスに私は自分を置き換え同情する。

 やはりこれでは私は学者になどなれない。冷静な観察ができない。ひとにはそれぞれ得手不得手がある。それでこそ人間社会は面白い。 

 ふるさとの蛙合戦は始まったのだろうか。人間の若者たちの春に少し異変が起こっているようだ。早熟。少子化。結婚をしない。連続する凶悪事件。蛙や鮭やオオサンショウウオに人間の若者たちが学ぶべきことは多い。M君のテレビへの登板に元気をもらえた。M君の今後の活躍を祈る。

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2008年03月19日 | Weblog
 私は5歳の春にY子ちゃんと結婚の約束をした。Y子ちゃんは私より一歳年上だった。その日保育園の帰り道、遠回りして川の土手を二人で歩いていた。「淳ちゃん、ほら芽が出ている」 Y子ちゃんはそういって土手のまだ枯れ草に被われた薄茶色の坂道にしゃがみこんだ。ノカンゾウの芽だった。坂道で二人とも無理な体勢をしていた。春の気持ちよい陽が射していた。雪や寒さ冷たさに押さえ込まれていた土がだらしなく持ち上がっていて、足場は悪かった。Y子ちゃんの白いズロースが見えた。ずっと前からスカートという服に疑問を持っていた。どうしてちゃんと大事なところを隠さないのか。私にはどうしても解けない大きなナゾだった。

 春の温かい陽を浴びながら、Y子ちゃんが「もう私は小学生。これから淳ちゃん一人で保育園ちゃんと行けるの?」と私に尋ねた。私の親にさえ尋ねられたことのないやさしい質問だった。私はとてもY子ちゃんと別れるのがつらく思えた。2年前に母親が死んだばかりだった。別れに異常に敏感になっていた頃だった。私は思い切って心の内をY子ちゃんに伝えた。「僕、Y子ちゃんと結婚する」「淳ちゃん、私まだ6歳だよ。でも約束だけならしてあげる」そう言って「指きりゲンマン、嘘言ったら針千本飲ます!」を唄いながら指きり婚約した。その後私はY子ちゃんとは違う小学校へ行き、ふたりはそれきりになってしまった。

 およそ三十年後、私の息子が中学へ入学した。私は離婚したばかりで、私が入学式に参列した。男親は私ひとりだった。そこでYさんを見かけた。なんとY子さんの娘が息子と同じクラスになった。すっかり二人とも成長(?)していた。Y子さんは“淳ちゃん”を認識することはなかった。Y子さんの苗字は変わっていなかったので、きっと養子をもらったのだろう。あの指きりは何だったのだろう。もちろんY子ちゃんは、あの淳ちゃんだとは、夢にも思わなかっただろう。もしかしたらあの日の約束を覚えてもいないかもしれない。針千本は忘れよう。Y子さんが幸せそうでなによりだった。

 春が来て土手にノカンゾウの芽が出てくると、私はあの日の陽射しのぬくもり、土手の枯れ草の匂い、川の水のぬるみと、なぜかY子ちゃんのまぶしく白いズロースを思い出す。スカートのナゾはまだ解けていない。
 写真:保育園時代の私(向かって左側) 

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明日への遺言

2008年03月14日 | Weblog

 『国民性十論』
1. 忠君愛国
2. 祖先を崇(とうと)び家名を重んず
3. 現実的・実際的
4. 草木を愛し自然を喜ぶ
5. 楽天酒落(らくてんしゅらく)
6. 淡泊瀟洒(たんぱくしょうしゃ)
7. 繊麗繊巧(せんれいせいこう)
8. 清浄潔白
9. 礼節作法
10. 温和寛恕(おんわかんじょ) 
 これは1907年に出版された芳賀矢一(はが やいち)著『国民性十論』に書かれている日本人の国民性である。
 3月2日の日曜日、映画『明日への遺言』を妻と観に行った。封切りを待って映画を観に行くことは数十年ぶりのことである。映画を観ながらずっと芳賀の『国民性十論』が頭を離れなかった。観客のほとんどが年配者で若者はほとんどいなかった。私の前の席に25,6歳の青年が座った。この歳でよくこの映画を観ようと思った、と感心させられた。ところが映画の途中で外へ出ていってしまった。映画は裁判場面が多く、目で見る映画というよりは、耳でセリフを聞く映画だった。それに英語が混じり、聞いていても英語が理解できなければ尚更、興味を失い、集中力が途切れてしまう。若者は苦しんでいるようだった。我慢できなくなって立ち上がったのだろう。 

 外国で映画を観る場合、吹き替えの映画はその言葉が理解できなければ観ていられない。私は何度か挑戦したが、集中力が続かず、途中であきらめて退場した。字幕が英語の映画なら観ることが可能になる。ところが中国語の字幕は絶対に観ることができない。字幕が漢字だから、どうしても私の目と脳は反応してしまう。耳で英語を聞き取らなければならない。それには結構集中力が必要である。集中力はそう長く持続できるものではない。おもしろい楽しい映画ならまだしも、難解な裁判ものなどは、私など20分と持たない。そういう意味でこの『明日への遺言』は、難しい映画だと思う。

 映画が終わって即、席を立つ人がいなかった。終わってからじわじわと映画の内容が身につまされる。もちろん泣いて目を腫らしてしまい、すぐに外へ出られない隣に座っていた私の妻のような事情があった人もいただろう。 

 芳賀の言う日本人の国民性十論を満たすような日本人には、今では中々お目にかかれない。私自身だってほど遠い。映画の主人公岡田資中将の一貫した“日本人”ぶりに目が覚まされた思いがした。ほとんどセリフのない富司純子(ふじ すみこ)演じる岡田の妻も好演であった。岡田のアメリカ人弁護士も良かった。検察も良かった。しかし3人の裁判官の演技が場違いの存在に見えた。私自身、腑に落ちなかった点やセリフは二、三あったが、それには今回ふれない。

 重い映画であった。家で妻と、この映画の意見交換が終わったのは、午前一時を過ぎていた。そんな時間を私達に与えてくれたこの映画に感謝する。
 映画に誘発されて、小林多美男著『忘れられた墓標』全3巻を読み直したくなり、読み始めた。


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ヨンさま

2008年03月11日 | Weblog

 公務員の妻に配偶者としてついて回った14年間の海外生活、帰国するたびに日本の韓流ブームが凄いことになっていた。日本から持ち帰る新聞、週刊誌にもそれに関する記事や写真が多かった。

 サハリンではリンさんが日本からの雑誌をおみやげとしてとても喜んでくれた。とにかく勉強熱心で日本のことを日本語で読んで、解らない事を私に質問した。サハリンで日本のヨンさま現象についてリンさんに話したことがある。最初のリンさんの質問は「なぜ“さま”つけますか」だった。私は今日本で多くの女性が、韓国の男性映画テレビ俳優に夢中になっていると説明した。リンさんは「日本人は韓国人きらいでしょ、そんなことあるのですか。もし日本人が私をリンさまと呼べば、私は怒ります。それは馬鹿にしているとわかるからです」

 私は言った「リンさん、日本は変わってきましたよ。特に日本の女性は本当に変わってきました。これからもっともっと変わっていくと思います。若い人も変わってきています。昔の日本人とは違ってきています。日本人も勉強しました。きっとよくなります」リンさん、「そうですか。私はわかりません。でも私が子供だったころでも、子供は皆同じに私には思えました。日本人も朝鮮人も」私、「リンさん、私はカナダへ高校生の時行き、カナダの学校で勉強しました。日本人のことジャップと言って差別する人もいたし、いつも助けてくれた人もいました。どこの国の人でも悪い人もいれば良い人もいます。この13年間いろいろな国で暮らしたけれど、どこの国でもそう思いました」リンさん、「あなたの言うことよくわかります。ロシアもそうです。私は日本に恨み強いです。戦争は悪いです。でも国と人は違う、と考えます。でも心に消えない強い怒りが残っています。時々苦しく思います」

 私たちは川、山、海で本当によく話しをした。その日も焚き火にあたりながら話していた。「でも山本さんが言うように、日本人の朝鮮人に対する考えが変わってきたなら良いことです。私は、人間は皆同じだと思います。食べて寝て、出す。皆、同じことしていて、どこ違いますか?」私「そうですね。私は人間が大好きです。特に気配り、目配り、手配りのできる人間が。今日本の多くの女性は、それができる韓国ドラマの中の登場人物に夢中です。日本だけではありません。だれだってそういう理想の人間を探しています」「そうですか。いい時代になってきましたね。さあ明日は、もっと釣りましょう。山本さんと話すのためになります。おやすみなさい」 寝袋に入った。リンさんは、すぐに寝息をたて始めた。


 サハリンの夜空に『冬のソナタ』のドラマように満天の星がきらめいていた。

 写真:霧の中のリンさん

 本日3月11日毎日新聞 夕刊にリンさんの小さな記事が載ります。


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応援歌

2008年03月06日 | Weblog
 昭和22年生まれの団塊の世代と言われる私の高校の同級生が次々に定年退職し始めた。

 先日N君からメールが入った。N君は私立大学の教授である。大学教授は普通定年が65歳と恵まれている。そのN君が今度その大学付属の中高の校長になるという。N君の活躍を心から願う。今後の日本はこれからの教育いかんによって決まるだろう。その重責の一端を、N君持ち前の教育者としての天性を多いに生かしてあばれ回って欲しい。 

 私がカナダへ留学するまで日本では、長野県の上田高校に在学していた。当時の校長は清水次郎先生だった。あだ名は“次郎長親分” 背は低かったがあだ名に負けない熱血校長だった。全校集会で騒ぐ生徒達をいきなり壇上にかけ上がり、一喝して黙らせた迫力は、まさに次郎長そのものだった。私はカナダ大使館から正式な留学ビザが交付された時、次郎長校長から呼び出されて、校長室で約一時間訓示をいただいた。日本の校長という役職は、ほとんどが象徴的存在で、生徒からは接点のない雲の上の人だと思う。積極的に自ら生徒と関わった次郎長校長は異色であった。この次郎長先生からいただいた訓辞は今でもしっかり覚えている。それは日本人として自覚を私に強く植え付け、カナダでの私のがんばりの素となった。 

 カナダに行き、校長という役職が決して象徴的存在でなくて、教師として頂点に立つ者の地位だと知らされた。校長はアーサー・フリーマンで社会科を教えた。授業数も教師の中では、一番多く持っていた。年齢は50歳ぐらいであった。このフリーマン校長は、全校生徒と1対1で一年に二回面談を行った。私は過度に緊張したが、フリーマン校長の教育者としての熱い想いに毎回感動した。全校生徒120名という小さな学校ではあったが、フリーマン校長の存在感は相当なものだった。多くの国々から生徒を集めていた。問題、特に男女関係が多く、途中で退学させられた生徒も多かった。厳しい校長であったけれど、軸足がしっかりしていて信念をまげない校長の姿勢は、生徒から絶大な信頼を得ていた。 

 二人の校長に共通するのは、その地位に甘んずることなく、生徒の目線に降りてくる勇気を持っていたことだ。N君に期待したい。型にはまったスゴロクのアガリとしての地位でなく、N君の人柄、実績、知性をフルに動員して、型破りな教育を実践してもらいたい。N君を校長に抜擢した学校側の判断に、その選別能力の高さに、N君をよく知る者として賞賛を贈る。

 N君ならきっと何か、しでかしてくれると思う。N君のおかげで久しぶりに、次郎長校長とフリーマン校長を思い出すことができた。良き教師は、どれほど生徒に影響を与えるか、身を持って体験できた私の学生時代の喜びが甦った。N君の学校の生徒の多くが、私と同じ経験を持てるよう、祈ってやまない。
 遠い昔、教師になることを望んでいて、それを実現できなかった私の夢をN君に託し、静かに見守りたい。

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側溝

2008年03月03日 | Weblog
 散歩中に3人の大人が道路に膝まづいて側溝のふたを上げようとしているのを見た。2人のおじさんと1人のおばさんだった。おじさんが「なんでこんな所へわざわざタバコの吸殻をいれやがる」とはき捨てるように言う。おばさんが「捨てるんなら、道に捨ててくれれば掃除もできるのにね」とあきれ果てている。もう1人のおじさんが「馬鹿はどこまでも馬鹿だ。そんなことさえもわからねえ」と言う。隣近所総出の大掃除である。私はなるべくゆっくり歩いて彼らの話に耳を傾けた。

「日本人のマナーは悪いって言うが、大人がこんなことしてちゃいけねえな」「最近の年寄りは私でも恥ずかしく思うようなマナーが悪いのが増えたよね~」「それにしてもこのふたは重いな」「こんな重いふたを盗んで売る悪もいるんだってね」「見なよ。この吸殻」「一度でもこうやって掃除してみろってえんだ」「この間大船駅のホームの下の空洞が空き缶やペットボトルでそりゃすげかったが、ここも同じようなもんだな」ちゃんと判っている人たちもいるのだと、私は嬉しくなった。日ごろ私が感じていることを、おじさん、おばさんが代弁してくれた。 

 ゴミのポイ捨て、車からのゴミの投げ捨てには、ゴミ片づけの奉仕活動を罰としてさせるシステムができたら良い。自分で掃除片付けてみて、きっと初めてそれがいかに大変なことなのかわかる。実体験はよい教育だ。家庭でしつけを受けることができないのなら、社会奉仕で学ぶしかない。 

 27年前の“ロス疑惑”が再び蒸し返されている。事件そのものには、関心がない。ただ27年前のロスアンジェルスの犯行現場が何回も繰り返し放映されるのを見て、汚いところだなと思った。あれほど汚いところはよほどの人の近づかないところなのだろう。

 それにしても世界のゴミの問題は、ますます深刻化している。今まで私が住んで、どこもかしこもきれいな国はなかった。日本はすこしマシだとは思う。それでもがっかりすることは多い。だからきれいな所を見ると安らぎを感じる。京都の龍安寺の石庭のようなゴミひとつ落ちていない完璧さは求めないが、せめて、自然の中に人間の生活臭のするものを放置しない心がけを持ちたい。

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