団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

白樺の涙

2008年01月29日 | Weblog

 朝のニュースで北海道の旭川でマイナス33,2度を記録したと伝えた。サハリンはきっとマイナス40度を越えたであろう。私はサハリンの冬のあまりの厳しさに音をあげ日本に退避した。妻ひとりをサハリンに置いてきぼりにした。そんな妻をリンさんは時々誘ってリンさんの孫たちにあわせてくれたり、買い物に連れて行ってくれたそうだ。リンさんが私の心臓のことを気遣ってくれ、会うたびに妻は「山本さんはどうですか?」と聞かれたという。妻が休暇で日本に旅立つ日、リンさんが空港まで妻を送ってくれた。空港でリンさんが「これ山本さんに渡してください」と小さな包みを渡した。 私はその包みを東京の家で妻から受け取った。包みをあけた。手紙と黒い松脂の塊のようなものが出てきた。手紙には「山本さん元気ですか。白樺の涙送ります。これを煎じて飲んでください。きっとあなたに元気でます。春にはサハリンに戻ってきてください。また一緒に山や海に行きましょう」

 私はリンさんが経験したであろう幾多の筆舌ではつくしきれない患難を超えて、リンさんが日本語を書き読めることを素直に喜びとする。リンさんの日本語は美しい。なぜならリンさんの心を純に伝えてくれるから。私は韓国語もロシア語もわからない。リンさんが日本語を覚えなければならなかった歴史的事実は、哀しい。悲しすぎる。だからこそリンさんの日本語には虚でなく実があるのかもしれない。 私はリンさんが書いてくれたとおりの方法で煎じて飲んだ。

 『白樺の涙』という名前が私の胸に迫った。日本人は熱しやすく冷めやすい。一時期サハリンではこの『白樺の涙』の持ち出しが禁止された。日本の健康ブームで多くの貿易商が買い付けに訪れ、『白樺の涙』は、値段が高騰し、乱獲された。リンさんは決してそういう一過性のブームに便乗しない。リンさんは『白樺の涙』がどれほどの時間をかけてできるものか知っている。必要な時に必要な人が必要なだけ白樺からもらう。今サハリンの原野の白樺の木々にほとんど『白樺の涙』はない。そして日本でのブームはあっという間に終わった。何万本に一本の白樺にできるこの涙は、これから先何年も待たねばならない。その貴重な涙をリンさんはリュックを背負って何時間も山の中を歩き回り採ってきてくれた。私の心臓を気遣って。私は琥珀色のこの液体の入ったカップを両手で抱えて、その熱をリンさんの心のぬくもりと感じた。その涙もすべてのみきった。

 29日、私はカテーテルで新たに見つかった2箇所の血管のつまりを一泊入院で詳細に調べる。どういうステント(血管を拡げるために血管に装着するパイプ)を使うか決めるためだ。カテーテル検査が嫌で何度も拒絶してきた。リンさんに「山本さん、あなたは弱虫ですか?日本の凄い医学に簡単に診てもらえるのにあなたは逃げますか?」と言われるに違いない。最後に残っていた白樺の涙を煎じて飲んでから検査に臨む。リンさんの『白樺の涙』がきっと私を守ってくれる。
(注:白樺の涙はロシアでチャーガと呼ばれるキノコです。日本名カバノアナタケ)
(写真:最後に残った白樺の涙)

 お詫び:検査入院のため投稿日を一日繰り上げました。


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検査結果

2008年01月25日 | Weblog
 1月9日に受けた心臓検査の結果が出た。

 昨夜、夕食が終わった後、妻が神妙な顔をして「話があるんだけれど」という。私は心当たりが何もなく、一瞬戸惑った。妻が通勤に使っているバッグの中から書類入れを出す。離婚届け?また離婚!それとも病院から退職勧告をもらったのか?妻が口を開く。「この間の検査の結果なんだけれど・・・」 私はとうに検査のことは忘れていた。結果が良いものであれば、妻がこんな話し方をするわけがない。「心臓冠動脈の新たな箇所につまっているところがあるの・・・」

 去年から始まった心臓近辺の痛みの原因がつきとめられた。私は「やはり」と感じた。糖尿病は厄介な病気である。合併症を次から次へと引き起こす。努力をして節制してきたつもりだ。私は自分に甘い。きっと逃げてごまかしているところがまだあるに違いない。私は別に強い失望感を感じてはいなかった。妻は言葉を丁寧に選びながら言う。なるべく専門用語をはずして、私に妻としてわかりやすく話そうとしている。それが私をつらくする。

 「今度の金曜日に細川先生の診察を受けてくれる?」妻はすでに私の主治医と話している。主治医は、あくまで私の健康管理と大きな変化がないかを診てくれている。主治医がすぐに私を細川先生のもとへ連れて行くように言ったに相違ない。細川先生は私の最初の心臓バイパス手術の失敗から私をカテーテル手術で救ってくれた医師である。日本でも有数の心臓カテーテル専門医だ。今まで生きてこれたのは、細川先生がたった一本残ったバイパスを修正治療して血流を確保してくれたからである。そこは非常に難しい場所だった。まかり間違えば、カテーテルが血管を突きぬけ即死する状況だった。

 妻は私が相当ショックを受けると思っている。細川先生と電話で話したと聞いて、それを確信した。それはまた妻の気持ちの裏返しでもある。妻がショックを受けているから私を気遣う。妻と私は年齢差が12歳ある。順番から言えば、私が先に死ぬのは当然なこと。妻は潜在的にこの年齢差を気にしている。妻がずっとびくびくしているのは知っている。だから切ない。2001年に私が心臓の手術を受けた時、ある程度の覚悟を妻はしていたと思う。何とか手術で心臓はよみがえった。

 この5年間、無理はできなかったけれど、そこそこ普通に生活してきた。妻は私の健康のために外務省を退職し、日本に二人で戻り、温暖な海に近い小さな町で暮らし始めた。穏やかで安全で何でも手に入る、今までの海外とはまるで違った夢のような生活をしている。それはある意味、老いと死への最終章への準備でもあったはずである。永遠に生きられないことはよくわかっている。日々この生活に慣れ、「もう少し、もう少し」と欲をかく。

 明日、私は5年ぶりに再会する細川先生とこれからの治療について話し合う。カテーテルによる治療か、薬による治療のどちらかになるはずである。再手術の可能性もあるが、気が進まない。細川先生には『サハリン 旅のはじまり』を渡して、私の感謝の気持ちを伝えたい。私があの本を書けたのは、細川先生が私の命を救ってくれたからである。リンさんとの約束を果たすことができた。本を手にするたびに「私はこれ以上何を望むのか」と自問自答する。

 人生はなるようにしかならない。生きている間、ずっと妻との毎日を普通に穏やかに暮らしたい。そのために細川先生の言うことを素直に受け入れたい。結果もなるようにしかならない。2月3日からのハワイ行きも、絶妙なタイミングである。ミセス・ツジにも私の感謝の思いの丈を伝えることができる。2月22日には高校の同級会を我が家で開く。私の後半の人生は、あまりにも素晴らしい人びとと共にある。

 天気予報で北海道が大荒れの冬の嵐だと言う。それより北のサハリンはさらにひどい荒れ方であろう。それでもきっと今日もリンさんは、凍てつき吹雪く大地を、獲物求めてひとり歩いているだろう。昨夜、リンさんを追いかけて迷子になった夢をみた。はっとして目を覚ますと、横で妻がスヤスヤと寝息を立てていた。これもまた夢か。

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拳闘

2008年01月22日 | Weblog
 Mさんは早起きだ。午前5時には駅前で経営している自分のてんぷら店に入る。仕込みのためである。まず前の晩に店を出る時に冷凍庫から出しておいたエビの皮を剥き、はらわたを出す。日本人はエビが好きだ。Mさんの店では一日に300本以上のエビ天が売れる。エビの次は野菜の仕込み、開店は11時だ。それまでにその日に入荷したてんぷら用の魚を仕込む。10時には奥さんやパートさんが来て店を掃除したり、箸やナプキンの補充を行う。11時開店で夜の8時までの営業だった。Mさんのてんぷら店は繁盛した。繁盛するはずである。Mさんには、てんぷらは揚げたてがうまい、のこだわりがある。だから必ず客の注文を聞いてからてんぷらを揚げた。一番安いてんぷらうどんのてんぷらでもそうしていた。一日の客数は500人を超える。学校帰りの高校生にも大人気である。Mさんは一日16時間働いた。休みは月曜日だけ。Mさんはすでに60歳を超えていた。月曜日には町のボクシングクラブへ行ってトレーニングをしていた。

 Mさんは元ボクシングの選手である。見た目はとてもボクシングをしている人には見えない。きっかけは子どもの頃、虚弱体質でイジメにあい、自衛のためのボクシングを身につけようと思った。息子のKくんは高校生だった。店にはほとんど顔を出さない。なぜならKくんは高校のボクシングの選手だった。月曜日、Kくんは高校が終わるとまっすぐボクシングクラブに直行する。父親のコーチを受けるためだ。Kくん、月曜日は学校のボクシングクラブには参加しない。部員一人のクラブだった。お父さんが一番の先生なのだ。Mさんもこの日の息子との練習を楽しみにしている。遅くできた息子である。可愛がっている。だから練習もきびしい。Kくんは県の大会で優勝した。Mさんは喜んだ。

 もうそのてんぷら店はない。Mさんがどうなったかもわからない。

 Mさんのてんぷらうどんが無性に食べたくなる時がある。狭い店の中、爪先立ちでフットワークの練習を兼ねて、60歳過ぎても機敏な動きで、てんぷらを揚げ続けた。あげたてのアツアツのてんぷらは旨かった。一見華奢な体に秘めた強靭なボクシング魂がかもし出すテンポのよさと機敏さ。Mさんにあこがれた。Mさんに会いたくて店に来ていた人はたくさんいた。私もそのひとりだった。何事にも一筋に生きる人は、素敵である。そんな人になりたいと思う。もう手遅れかもしれないが。

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検査終了

2008年01月17日 | Weblog
 1月9日、1年ぶりに心臓の検査を受けた。東京のある心臓専門病院だった。

 現在診てもらっている心臓専門医が紹介状を書いて、わざわざこの病院で検査を受けるように手配してくれた。私がかかりつけのその医師の病院ではできない検査だった。 確かに検査を受けに行った病院は、まだ開院してまもなく、最新先端医療機器、設備どれをとっても申し分ない環境である。受付ですでに私は不安を感じた。人的システムが確立していない。つまり各部門との連携ができていないのである。

 最初に受けた検査は、心筋タリウムシンチグラフィーという体内に核同位元素を注射してその分布を撮影する検査である。心臓の筋肉に血液がきちんと満遍なく流れているかどうか、血液の足りない箇所がないかどうかを調べる大切な検査である。

 検査室に通されて、およそ患者が着替えする場所とは思えない場所で着替えするように言われた。検査技師は50代の男性だった。言葉が少なくて説明がない。注射をまずします、と言った。「少々お待ちください」と部屋の片隅の事務机に座って待たされた。待つこと20分。途中、検査技師は同じ部屋にいても何も言わない。やがて医師らしき若者が入ってきた。自己紹介がない。「何で私が注射しなければいけないのですか?」と医師が技師に聞いた。技師は「私にはわかりません」と答える。医師は「どうすればいいのですか?」 技師が説明する。私は心の中で「おいおい、大丈夫かい」と呟いた。

 見れば注射器に仰々しい金属のシリンダーが接続されている。3種類の注入液体があるらしい。説明がない。医師が機嫌悪そうに尋ねた。「過去に注射でアレルギー反応したことがありますか?」「ありません」私はよほど「何を注射するのか教えてください」と尋ねようと思ったが黙っていた。それほどその医師には、医師として私が信頼に値する何かが欠けていた。注射が終わると医師は出て行った。

 検査技師が検査の機械のベッドで仰向けに寝るよう指示した。技師が操作位置につき「これから検査を始めます」と言う。そのまま私は固唾を呑んで待っていた。10分ぐらい検査技師は機械を操作していた。私のストレッチャーベッドはまだ機械の内部に入ってはいない。

 技師が電話をし始めた。「東芝さんですか。○○センターの○○です。機械の様子がおかしいのですが・・・」 私は素人だが注射された薬物は、時間が経てば効力がなくなるのでは、と不安になった。技師が言う。「機械の調子がおかしいので少々お待ちください」 10分ぐらい待って検査が始まった。終わると「12時にここへ戻ってください。1時間後の撮影を行います。検査着はそのまま着ていてください」「スリッパはどうするのですか?」「御自分の靴に履き替えてください」上は検査着、靴は黒の革靴姿!患者様ホールで約1時間私は待った。

 検査撮影が終わるまでヒツジのようにおとなしく待ち、12時の検査も終えた。その後心臓冠動脈CTの検査を受けた。終わるとすでに6時間が過ぎていた。

 朝食抜きの検査である。会計で6万円請求された。主治医からは3万円ぐらいといわれていた。空腹で倒れそうになりながら、近くのコンビニのATMへ行き、金をおろし、ムスビ一個を買った。会計を済ませた。私の検査は保険が適用されて3割負担である。つまり総額20万円の検査である。私にとっては大変な出費である。それでも検査を受けるのは、妻との年齢差が大きいので、一日でも長く一緒に居てあげたいからである。しかしこの検査方式はあまりにひどすぎる。確かにこの病院には良い医者もいる。けれどもその医師たちは、手術や緊急患者にかかりきりで、検査には関わらない。医者は、緊迫した難しく珍しい病気を好むらしい。

 医者の技術、能力の格差は存在する。医学は日進月歩で進んでいる。医者と患者がもっと人間らしく接する方法はないものだろうか。患者さまと呼ばれなくてもいい。もっと普通の人間として接してもらいたい。機械や設備ばかりが進歩して、それを操り活用する人間が、システムが追いついていっていない気がしてならない。

 検査結果は1週間後に出る。検査後私は体がだるくなり、2日間ベッドに伏せた。肝臓に大きな負担がかかった。今、私は検査の結果にまったく興味を失っている。病院へは気を失ってから救急車で運ばれるのが良いと思い始めている。知らぬが仏の世界。多くの医療機関が、患者に“見ザル、聞かザル、言わザル”のザルさんになることを期待しているようである。

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よそ見

2008年01月11日 | Weblog
 私が通った中学校は、丘の上に建っていた。校庭は斜面を切り取って平らにしてあり、その上の段に立っていた木造2階建ての校舎からの眺めはよかった。なぜか私の席は窓側が多かった。

 私は、退屈な授業の時、よく窓から外の景色をよそ見しながら空想にふけっていた。 そんなある日、ミゼット(今でいう軽自動車のトラック分類で、4輪でなくて3輪、前に1輪、後ろに2輪の合計3輪で走る)の出張八百屋が校庭の下の道路を放送しながら通った。「ご家庭の奥様がた、毎度お騒がせいたします。新鮮なお野菜を多数お持ちいたして、皆様のお越しをお待ちしております」 よく通る声である。ちょうどミゼットはカーブにさしかかった。荷物の積み方が悪かったのか、おじさんの運転が下手だったのかはわからない。突然、「あれ、おいおい」という放送とともにミゼットが横転した。おじさんは横倒しになったミゼットのドアを上に押し上げ、体をミゼットから出し、道路に立った。すぐさまミゼットを起こした。すぐに車内に戻り、「私は無事でした。ありがとうございます。え~本日のおすすめは、・・・」 

 もう私は笑いをこらえることができなかった。そんな私を見ていたまわりの生徒も笑い出した。先生が教壇から窓にかけよった。クラス全員が大爆笑となった。だれかがおじさんに手を振った。おじさんは「中学校の生徒諸君、勉強がんばってください。え~新鮮なお野菜~」と走り去っていった。

 あの頃の日本はまだいまほどギスギスしていなかった。田舎ののどかな風景の中で、先生も生徒も、ミゼットの八百屋のおじさんも、家庭の主婦も、皆つながって生きていた。今の日本では考えられないことかもしれない。それより何より、ひとりで持ち上げられるほどの車もない。行商の放送をうるさいと文句を言う人のほうが多いだろう。

 昨今、生活の中に会話がないと言われている。スーパーで黙って買い物をして、黙ってテレビを見ながら食事をする。自分の部屋で一人パソコンの前にすわり、黙々とゲームをしたり、書き込みをする。よそ見をする余裕すらないようだ。
 狭い日本、そんなに急いでどこへ行く!

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 馬肉うどん

2008年01月08日 | Weblog
 モンゴルから帰国して、横綱朝青龍が初場所目指して稽古に励んでいる。そんな朝青龍が足首を痛め、馬肉で湿布しているとニュースが報じていた。

 馬肉といえば、私の田舎においしい馬肉うどんの食堂がある。そこの各テーブルの上に古い新聞に切抜きが置いてある。こんな記事である。“老人のAさんはずっと寝たきりである。そのAさんを息子夫婦が訪ねてきた。いつもより元気で機嫌がいい父親に「じいちゃん、何か食いてえものあるか?」と聞くと「○○の肉うどん食いてえ」と言った” そういう記事だった。寝たきり老人Aさんの“食いてえ”ものは、肉うどんだった。

 きっとこの食堂の経営者は、嬉しかったに違いない。よく“もし、無人島で暮らさねばならなくなって、何か一つ持って行けるとしたら、何を持って行くか?”の類の話がある。そんな質問のように“人生の最後に食べたいもの一つを選びなさい”と尋ねられて、その一つに選ばれたように、うどんやの経営者が感じたのかもしれない。

 経営者と書いたが、ここのうどんやは、3組の兄弟夫婦でやっている。旦那さん奥さん、全部で6人である。時々その子供たちと思われる若者が手伝っている。今どき大変珍しい食堂である。兄弟が助け合って彼らの両親が始めた店を切り盛りしている。しかも、もう30年以上この形態でずっとやってきているのだからたいしたものである。よく世間では兄弟身内で一緒に仕事をするのは、難しいという。私の身の回りにもたくさんの兄弟分裂の事業話がある。立派だと思うのは、30年以上のれん分けもしないで、一つの店をずっと皆で続けていることである。安定は安心を与えてくれる。継続は力である。このうどんやの創業者は馬肉うどんの秘伝と一緒に子ども達にりっぱな人生教育をしたに違いない。

 激動の戦後、世の中はものすごいスピードで変化を続けてきた。マクドナルド、ケンタッキー、スターバックス、牛丼、コンビニが日本を侵食し続けている。ダサイ食べ物の分類に入るであろう馬肉うどん一筋に、それも3組の夫婦が仲たがいも、のれん分けも、メニューを変えることもなく店を続けてきている。凄いことである。

 肉うどん屋の縄のれんをくぐり入って席をとり、テーブルの上のじっちゃんの新聞の切り抜きがあるのを確認して、肉うどんを注文する。調理場で3人のずいぶん年取った兄弟、(3人には持ち場がある)が働いているのを、横目で確認する。そして敏速にその3人のうちのひとりの妻が「お待ちどうさま」と運んでくる湯気たちのぼる肉うどんが目の前に置かれる。

 善光寺の七味唐辛子をたっぷりふりかけ、箸を割る。うどんの上にちりばめられた馬肉の煮付け、刻みネギとうどんをほどよくかき混ぜる。眼鏡が湯気で曇る。口に広がる馬肉のだしの利いた汁、その強い味を頑として染みるのを拒絶する、コシのしっかりした中細のうどん。意地がある。見上げた根性の抵抗である。濃い馬肉の汁、まっさらな味の空白を提供するうどん。曇った目の前にほんわか漂う庶民の特権意識が心地よい。最後の汁まで飲み干してお勘定。お勘定しながら「ごちそうさま」と言わずにはおれない、旨いうどんである。

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