朝のニュースで北海道の旭川でマイナス33,2度を記録したと伝えた。サハリンはきっとマイナス40度を越えたであろう。私はサハリンの冬のあまりの厳しさに音をあげ日本に退避した。妻ひとりをサハリンに置いてきぼりにした。そんな妻をリンさんは時々誘ってリンさんの孫たちにあわせてくれたり、買い物に連れて行ってくれたそうだ。リンさんが私の心臓のことを気遣ってくれ、会うたびに妻は「山本さんはどうですか?」と聞かれたという。妻が休暇で日本に旅立つ日、リンさんが空港まで妻を送ってくれた。空港でリンさんが「これ山本さんに渡してください」と小さな包みを渡した。 私はその包みを東京の家で妻から受け取った。包みをあけた。手紙と黒い松脂の塊のようなものが出てきた。手紙には「山本さん元気ですか。白樺の涙送ります。これを煎じて飲んでください。きっとあなたに元気でます。春にはサハリンに戻ってきてください。また一緒に山や海に行きましょう」
私はリンさんが経験したであろう幾多の筆舌ではつくしきれない患難を超えて、リンさんが日本語を書き読めることを素直に喜びとする。リンさんの日本語は美しい。なぜならリンさんの心を純に伝えてくれるから。私は韓国語もロシア語もわからない。リンさんが日本語を覚えなければならなかった歴史的事実は、哀しい。悲しすぎる。だからこそリンさんの日本語には虚でなく実があるのかもしれない。 私はリンさんが書いてくれたとおりの方法で煎じて飲んだ。
『白樺の涙』という名前が私の胸に迫った。日本人は熱しやすく冷めやすい。一時期サハリンではこの『白樺の涙』の持ち出しが禁止された。日本の健康ブームで多くの貿易商が買い付けに訪れ、『白樺の涙』は、値段が高騰し、乱獲された。リンさんは決してそういう一過性のブームに便乗しない。リンさんは『白樺の涙』がどれほどの時間をかけてできるものか知っている。必要な時に必要な人が必要なだけ白樺からもらう。今サハリンの原野の白樺の木々にほとんど『白樺の涙』はない。そして日本でのブームはあっという間に終わった。何万本に一本の白樺にできるこの涙は、これから先何年も待たねばならない。その貴重な涙をリンさんはリュックを背負って何時間も山の中を歩き回り採ってきてくれた。私の心臓を気遣って。私は琥珀色のこの液体の入ったカップを両手で抱えて、その熱をリンさんの心のぬくもりと感じた。その涙もすべてのみきった。
29日、私はカテーテルで新たに見つかった2箇所の血管のつまりを一泊入院で詳細に調べる。どういうステント(血管を拡げるために血管に装着するパイプ)を使うか決めるためだ。カテーテル検査が嫌で何度も拒絶してきた。リンさんに「山本さん、あなたは弱虫ですか?日本の凄い医学に簡単に診てもらえるのにあなたは逃げますか?」と言われるに違いない。最後に残っていた白樺の涙を煎じて飲んでから検査に臨む。リンさんの『白樺の涙』がきっと私を守ってくれる。
(注:白樺の涙はロシアでチャーガと呼ばれるキノコです。日本名カバノアナタケ)
(写真:最後に残った白樺の涙)
お詫び:検査入院のため投稿日を一日繰り上げました。