私は同い年のKと保育園に通った。私が通った保育園は私の家から遠かった。家の近所に同じ保育園へ通う子どもはいなかった。おそらく4歳で母を亡くし、父が一人で4人の子どもを育てていたことに関係があると推測する。私の家族のために近所の人たちが協力してくれていた。保育園の途中までは廃品回収業をしていたMさんが家に迎えに来てくれた。彼がリヤカーの後ろに私が座れるスペースを空けておいてくれた。塩辛屋の塩見商店で裏の消防署に勤める村上さんの奥さんがご飯だけ小さな弁当箱に入れてくれた。塩見商店で5円分のピンクのデンプを弁当のご飯の上に乗せてもらった。Mさんの親戚の廃品回収倉庫で下りてそこからKの家まで行きKと保育園へ1年間通った。Kのお母さんはとても綺麗な人だった。Kのお母さんは私に「Kと仲良くしてね」と言った。ある時保育園から帰る時保育園へ行っていない子どもの集団に捕まり、畑の中の糞尿溜に突き落とされた。畑の持ち主のお祖父さんに助けられKの家に連れて行ってもらった。Kのお母さんが泣きながら私たち二人を外の水道で洗ってくれた。Kは水を浴びながらキャッキャッ言って喜んだ。Kのお母さんが私の手をギュッと握って「○○ちゃん、ありがとう」と言った。小学校へ上がるとKは別の小学校へ行った。私は泣いて親にKと一緒の小学校へ行きたいと頼んだ。Kとは同じ中学に通った。
私がカナダへ留学できたのは、ネルソン夫妻のおかげである。ネルソン夫人は英語バイブル教室の先生だった。アメリカから旦那さんが退職したので船で世界一周の旅の途中1年間軽井沢で宣教師の手伝いをした。私はネルソン夫人の教室に休まず通った。やがて軽井沢の家に招待されるまでになった。軽井沢の家で初めて夫妻に知的障害を持つ当時22歳の娘に逢った。気が合って仲良くなった。1年はあっという間に過ぎた。横浜港へ見送りに行った。ネルソン夫妻が帰国しても文通は続いた。そしてカナダの全寮制のキリスト教の高校への留学が実現した。留学中カルフォルニアに住むネルソン一家を3回訪ねた。ある時娘が私と結婚すると言い出した。夫妻は困惑していた。
今回の神奈川県相模原市の障害者施設で障害者19名を殺して多数に怪我をさせた事件の植松聖容疑者が「障害者はいなくなればいい」と言ったというニュースを観て、私は一瞬植松容疑者が施設で働いていて障害者に同情して障害を持つ人がいなければいいのにと発した言葉と勘違いした。事件の詳細が解明されてきた。同情なんてどんでもない。植松容疑者は想像を絶する残忍犯である。
保育園へ一緒に通ったKの両親もネルソン夫妻も「我が子が障害者でなかったなら・・・」といったいどれほどの回数自分たちを責めていただろうかと思うといたたまれなくなる。それでも彼らは立派に障害を持つ我が子に寄り添い守った。ネルソン夫妻は生前私にこう言った。「私たちが死んでも娘が施設で暮らせるよう私たちはできる限りの手立てと資金を準備した」 しかし施設にこんな悪い奴が働いていたら・・・。
Kの両親、ネルソン夫妻の心情を代弁する言葉を見つけた。アメリカの作家リチャード・バッグ「家族をつなぐ絆は血ではない。互いの人生への尊敬と喜びである」 私はKの両親もネルソン夫妻もこの言葉どおりに生きたという証人である。