団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

障害者がいなくなればいい

2016年07月29日 | Weblog

  私は同い年のKと保育園に通った。私が通った保育園は私の家から遠かった。家の近所に同じ保育園へ通う子どもはいなかった。おそらく4歳で母を亡くし、父が一人で4人の子どもを育てていたことに関係があると推測する。私の家族のために近所の人たちが協力してくれていた。保育園の途中までは廃品回収業をしていたMさんが家に迎えに来てくれた。彼がリヤカーの後ろに私が座れるスペースを空けておいてくれた。塩辛屋の塩見商店で裏の消防署に勤める村上さんの奥さんがご飯だけ小さな弁当箱に入れてくれた。塩見商店で5円分のピンクのデンプを弁当のご飯の上に乗せてもらった。Mさんの親戚の廃品回収倉庫で下りてそこからKの家まで行きKと保育園へ1年間通った。Kのお母さんはとても綺麗な人だった。Kのお母さんは私に「Kと仲良くしてね」と言った。ある時保育園から帰る時保育園へ行っていない子どもの集団に捕まり、畑の中の糞尿溜に突き落とされた。畑の持ち主のお祖父さんに助けられKの家に連れて行ってもらった。Kのお母さんが泣きながら私たち二人を外の水道で洗ってくれた。Kは水を浴びながらキャッキャッ言って喜んだ。Kのお母さんが私の手をギュッと握って「○○ちゃん、ありがとう」と言った。小学校へ上がるとKは別の小学校へ行った。私は泣いて親にKと一緒の小学校へ行きたいと頼んだ。Kとは同じ中学に通った。

 私がカナダへ留学できたのは、ネルソン夫妻のおかげである。ネルソン夫人は英語バイブル教室の先生だった。アメリカから旦那さんが退職したので船で世界一周の旅の途中1年間軽井沢で宣教師の手伝いをした。私はネルソン夫人の教室に休まず通った。やがて軽井沢の家に招待されるまでになった。軽井沢の家で初めて夫妻に知的障害を持つ当時22歳の娘に逢った。気が合って仲良くなった。1年はあっという間に過ぎた。横浜港へ見送りに行った。ネルソン夫妻が帰国しても文通は続いた。そしてカナダの全寮制のキリスト教の高校への留学が実現した。留学中カルフォルニアに住むネルソン一家を3回訪ねた。ある時娘が私と結婚すると言い出した。夫妻は困惑していた。

  今回の神奈川県相模原市の障害者施設で障害者19名を殺して多数に怪我をさせた事件の植松聖容疑者が「障害者はいなくなればいい」と言ったというニュースを観て、私は一瞬植松容疑者が施設で働いていて障害者に同情して障害を持つ人がいなければいいのにと発した言葉と勘違いした。事件の詳細が解明されてきた。同情なんてどんでもない。植松容疑者は想像を絶する残忍犯である。

 保育園へ一緒に通ったKの両親もネルソン夫妻も「我が子が障害者でなかったなら・・・」といったいどれほどの回数自分たちを責めていただろうかと思うといたたまれなくなる。それでも彼らは立派に障害を持つ我が子に寄り添い守った。ネルソン夫妻は生前私にこう言った。「私たちが死んでも娘が施設で暮らせるよう私たちはできる限りの手立てと資金を準備した」 しかし施設にこんな悪い奴が働いていたら・・・。

  Kの両親、ネルソン夫妻の心情を代弁する言葉を見つけた。アメリカの作家リチャード・バッグ「家族をつなぐ絆は血ではない。互いの人生への尊敬と喜びである」 私はKの両親もネルソン夫妻もこの言葉どおりに生きたという証人である。


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猿、猿、猿 出てくる出てくる山の猿

2016年07月27日 | Weblog

 25日月曜日妻を駅に送ってブログを仕上げるために書斎に戻った。昨日からパソコンの一台が外部とつながらなくなった。ブログを投稿する日だった。急遽別のパソコンを使って何とかいつもの時間に投稿できた。こんな日のためにパソコンを2台持っていてよかった。いつもトラブルがあると修理依頼している『パソコン119番』に電話するにはまだ早すぎる。8時半になったらかけることにした。

 書斎を出て台所へ行きコーヒーメーカーの電源を入れた。台所は北側に面している。窓の外を何かが横切った。最近植木屋さんが植栽の手入れに月一回は来る。予告を忘れて、時に小心者の私は急に現れる職人さんにギョッとする。でもまだ7時ちょっと過ぎだ。こんなに早く植木屋さんであるはずがない。コーヒーカップ片手に居間へ移動。居間の北側は大きなガラス戸4枚で外が良く見える。ガラス戸に寄りかかるように猿がいた。そこは他の猿が一匹。集合住宅の北側には高さ20メートルを超すセコイアが建物全体を隠すように植えられている。そのセコイアの葉が茂る枝が揺れた。3匹の若猿がターザンのように枝から枝へ飛び移っている。そしてあっという間に猿は消えた。ああよかった、と安堵した。

 残ったコーヒーを持って書斎に戻った。ダメなパソコン、時間が経つと使えることもあるので電源を入れた。『パソコン119番』へ電話する前に直ればいいのだが・・・。書斎の前には何か動くと強力なライトが点く防犯装置がある。相当な明るさが数十秒間点灯。ギョッ。書斎から外はよく見えない。居間へ。北側より南側のガラス戸の方が大きい。

 ベランダの柵の上に猿が。でかい。ボス猿か。ボス猿がガラス戸越しにチラッと私を見る。もしかしたら威嚇するために牙をむきだし跳びかかるかも。しかしボス猿は「ふん」というように顔の向きを変えた。無視された。

 集合住宅の南側は竹林をコの字型に崖が囲んでいる。竹林の下は駐車場になっている。竹林とベランダの間は梁以外は空間で下の駐車場が見える。西側の崖から猿が出てくる出てくる。ボス猿を囲むように竹林のヘリや梁、ボス猿の脇へと猿、猿、猿。子猿を抱きかかえる母猿が6匹。これだけで12匹。若猿が7匹。ボスを加えれば20匹。まるで猿の集会のようだ。柔らかな陽射しに全部の猿がリラックスモード。毛づくろいを始めたり、仰向けになって日光浴。ガラス戸の内側の私の存在を完全無視。無視されることは人間にとって最も心が傷つく行為だと読んだことがある。真実だと思う。

 時間だけが過ぎる。パソコンはつながらない。仕方なくカメラで写真を撮ることにした。妻にこの様子を話しても私の文章力では到底表現できない。一枚の写真の方がずっと説得力があるに決まっている。10枚以上撮った。一時間以上我が家の前は猿に占領された。じっくり私は猿たちの生態を観察できた。無視された分、自然な状態を観察できたと負け惜しむ。

 猿は植木屋さんの仕事が始まるとそそくさと移動して行った。なんだか寂しくなった。『パソコン119番』に電話する前に市役所に猿の情報を教えてもらおうと電話した。係の女性は一言「わかりません」 パソコンは10分でプロが直してくれた。


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巨泉さんと秀吉の処死術

2016年07月25日 | Weblog

  24日のNHK大河ドラマ『真田丸』を観た。天下を統一した秀吉が明らかな老化による異常な行動言動を小日向文世が熱演した。寝小便をしたり、味覚異常、同じことを繰り返し話す。極め付けは、死の恐怖を真田幸村に抱き着いて訴える場面だった。今回観ていて7月12日に亡くなった大橋巨泉さんの生き様が重なる。

  私は大橋巨泉さんが苦手だった。しかし彼が死に対して大河ドラマ『真田丸』の中の秀吉のように恐怖におののいたことはなかったのではと私は推測する。それは私自身の経験からの推測である。

  私は秀吉と大橋巨泉さんの二人の処死術を経験したと思っている。秀吉のように小学生のころから死に対して言い知れぬ恐怖を持った。夜、眠れずに柱時計のカチカチカチの音にいつかあの音を聞けなくなり永遠の無に帰すと恐怖を募らせた。大人になっても夜中に飛び起きて、床を手で叩きながら、「嫌だ嫌だ」と死の恐怖に屈していた。離婚して座禅をして必死に二人の子供を育てた。能力以上の過酷な生活を続けているうちに死の恐怖さえ遠のいていった。子どもたちが大学に入学して15年続いた男やもめに終止符を打って再婚できた。

  再婚して得た夫婦関係は良好で先の過ちを繰り返さずにすんでいる。大橋巨泉さんも再婚したタレント浅野順子さんと40年間ずっと何をするにもどこへ行くにも一緒だったそうだ。私はまだ25年間ではあるが、ほぼそのように夫婦関係を維持することができている。2001年持病の糖尿病の合併症で心筋梗塞を発症した。当時チュニジアに住んでいた。ひとり帰国して心臓バイパス手術を受けた。手術を受ける前「辞世帳」なる遺言のようなものを大学ノート一冊に書き残した。どうしても伝えておきたいことのある人々には最後の手紙だと思って送った。

  不思議なことにずっと持っていた秀吉がおちいった死におののくことはなかった。亡くなる前奥さん子どもたち孫に囲まれた巨泉さんは指で「3」と「9」をだしたという。おそらく「サンキュウ(ありがとう)」と伝えたのであろう。私も手術前愛する妻と子どもに手を握られて手術室に送られた。

  手術を受けてからすでに15年たった。私はまだ生きている。再婚して以来夜中に飛び起きて床を叩いて「嫌だ嫌だ」と叫んだことは一度もない。

  私は巨泉さんのようにお金も名声もジャズもわからず、競馬もやらず、ゴルフも下手である。巨泉さんの死生観がある。「生きることを前提に考えておくことが大事だ。だって人間は必ず死ぬんだから。死ぬんじゃないか、なんて不安を持つほうがおかしい。不安を持とうと持つまいと、人間は必ず死ぬ運命だ。だから生きて期待できるものについて、よりたくさん考えたほうがいい。… … …やれるものはみんなやる。これが巨泉流だ」

  天下をとっても秀吉も死に関しては、真実はわからないが、どうやら普通の人のようだった。巨泉さんはやりたいことをやって「サンキュー」と指で伝えて逝った。私はどう「ありがとう」を伝えよう。

 


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宅急便です。和歌山の桃が届きました。

2016年07月21日 | Weblog

インターフォンが鳴った。表示盤に「集合玄関」 受話器を取り上げる。「宅急便で~す」の元気な声。いつもの青年かな、と思いながら「解除」のボタンを押す。「」

 わが家は1階にある。地下が玄関ホールなので元気な青年は小さな荷物の時は、あっという間に家のドアに達する。私は印鑑を手にドアの前に立ってチャイムが鳴るのを待つ。「ピンポンピンポン」

 いつもの青年だった。尋ねもしないのに「和歌山からあら川の桃が届きました」とニコニコ顔で言う。最初は抵抗があった。中身を言うなよ。これだってプライバシーだよ。あら川ってどういうこと。でも今は許容の境地に達している。それは青年の底抜けな明るさと仕事に打ち込んでいる熱い姿が私の気持を変えたのだろう。あら川を調べると和歌山県の桃で有名なブランドだった。今では青年が来るたびに、さて今日は何と荷物を説明するかと楽しみになった。

 宅急便は日本が世界に誇れるビジネスだ。国土が凝縮されて適度にまとまっている。インフラ整備も進み鉄道、道路、海路、空路の便が良い。明治以降郵便制度も普及浸透した。真面目で几帳面な国民性のお蔭で安全で正確な信頼にたる制度となった。ただ残念なことに独占事業ゆえに官僚的になりすぎた。その独占的領域にクロネコヤマトの創始者小倉康臣が参入してきた。小倉は幾多の困難妨害を乗り越えて郵便事業の隙間を補完する宅急便という新分野を築き上げた。小倉の本を読むといかに日本が官>民であるかわかる。

 海外生活で苦労した一つは郵便事情が悪いことだった。日本の宅急便を羨ましく思った。郵便制度そのものが機能していない国がまだたくさんある。カナダにいた時、封筒に小切手や現金を入れれば、まず相手に届くことはなかった。日本でも郵便に関して事故事件は発生するが、ごくわずかである。これほどまでに信頼できる郵便制度を築き上げたのは、郵政に携わった先人官僚のお蔭であろう。クロネコヤマトの小倉がその欠点を補い更に現在の宅急便制度に進化させた。

 最近宅急便会社のネット会員になると便利なサービスを受けられるようになった。宅急便が到着するとわかっていても以前は時間がわからず家を留守にできない事があった。いまではネットで事前に配達時間を知らせてくれる。変更することも可能だ。宅急便会社の再配は大きな損失になる。ネットなどの活用で無駄をなくすことができ、更に宅急便は進化する。アメリカの通販会社ではドローンでの宅配を近いうちに始めるという。どこに住んでも不便が解消されそうだ。

 和歌山の親戚から送られてきたあら川の桃の箱を開けた。部屋に甘い桃の香りが拡がる。桃は私が好きな果物の一つである。しかし私は桃の皮に触るのが苦手だ。その瞬間を考えただけで肌にサブサブエボが出る。桃を食べるのは好きだが皮は剥けない。水で桃の皮の毛を落として皮ごと食べればと思って以前試したら、歯が皮に触れた途端、全身にサブサブエボが出た。今では桃の皮に何の抵抗も感じない妻がキレイに皮を剥いてくれる。

 食べるまでに少し手間がかかるが、口に入ると桃は私の目じりを下げ、無条件降伏させる。


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真夏の誕生日プレゼント 『ペレ 伝説の誕生』

2016年07月19日 | Weblog

  私は69回目の誕生日を迎えた。私が生まれた日は暑い日だったそうだ。父親は母が疎開していた長野県へ戦地から帰国した。東京の家も仕事も失った。両親が私の姉と住んでいたのは親戚の土蔵だった。私はその中でお産婆さんの手を借りて生まれた。衛生環境は恐ろしく悪かった。夏子(なつご)は育たぬ、と言われながらも私は何とか育った。私は病弱だった。

 誕生日のプレゼントは何をもらったかほとんど覚えていない。4歳で母が死に小学校にあがる少し前、母の妹が継母になった。母が死んだ後、しばらく東京の父の姉の家へ、その後直江津の母の妹の家に預けられた。新しい母の料理は美味かった。貧しい家計をやりくりして美味しいものを作ってくれた。カレーは誕生日最高の思い出だ。

 69回の誕生日のうち妻と祝ったのは25回目となる。25回目の私の誕生日も朝から暑かった。妻にお願いして映画『ペレ 伝説の誕生』を観ることになっていた。いつも映画を観る隣の市にある映画館では上映していなかった。一番近くても行くのに電車で1時間以上かかる。ネットで評価を調べても人気はあまりないようだ。私の長男の息子2人がサッカークラブに所属している。映画にもゲームにも興味を示さない。サッカー一筋である。孫二人に推薦して良いかどうかまず私が自分の目で観ることにした。妻も映画に関して一家言を持つ。つまらないできの悪い映画には辛辣な批判をする。そうなる心配があったが、私の誕生日プレゼントとして一緒に映画に行こうと何とか説得した。

  朝、出かける前に東京に住む娘から電話があった。今日の予定がキャンセルになったのでこれから私の家に来たいと言った。映画館がある駅の近くにに今度新しいショッピングモールがオープンした。映画は午後1時半から始まる。どのみち10時に映画館でまず席を確保するチケットを買おうと思っていた。駅は幸い娘の家からと私の家との中間点にある。昼食を一緒にとって映画が始まるまで過ごすことになった。

  私の誕生日前日、長男一家が日帰りで訪ねてくれた。私が料理した夕食を一緒に食べ、ケーキにローソクを灯しハッピーバースディを唄ってもらった。長男一家が訪ねてくれたのは1年半ぶりになる。サッカー少年を二人抱える両親は自分の仕事以外の自分の時間を捧げている。連休の渋滞で往復6時間以上かけて来てくれた。長男が私へのプレゼントとして孫二人に逢わせることが最高だとわかっていてくれる。長女も以前私の誕生日に来ることを計画していたが、どうしても断れない予定が入って1週間前にドタキャンになっていた。誕生日当日驚きの電話で長女の家族も私の誕生日を一緒に祝ってくれることになった。2時間未満の時間だったが私には久々の豪華な誕生日となった。

  映画もとても良い映画だった。妻とハンカチを取り合いながら観た。貧しいブラジルの貧しいスラムで生まれたペレがサッカーの神さまといわれるようになる過程を丁寧に描いた映画である。映画を観ながら過去に私が暮らした貧しい国々の子どもを思い出した。特にセネガルで見た裸足の子どもたちが喜々としてペコペコな空気の半分抜けたサッカーボールを蹴りあっていたのを映画と重ね合わせていた。孫たちには是非、観て欲しいと強く思った。

  何度も危機を乗り越えた夏子(なつご)は69回も誕生日を繰り返しても未だに不肖な夫、親、祖父である。33度を超す暑い誕生日、こんな私に妻と子どもたちの家族が、素晴らしい思いやりと気遣い攻勢なんてモッタイナクも有難い。感謝。


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バングラテロと参院選挙

2016年07月15日 | Weblog

  10日からのツアー初日の夜ホテルの部屋で参議院議員選挙の開票速報に見入った。選挙のたびに思うことは、投票用紙を一枚一枚数えるのでなく電子投票ならあっという間に当落が決まるのに、である。選挙のたびに巨額の経費がかかるという。今回私はツアー参加のために期日前投票をした。人が動員されれば、人件費がかさむ。期日前投票所にも10人以上が配置されていた。当然選挙当日にも開票にも多くの人の手が必要となる。その経費も日本全体なら相当な額になる。

 途中で午前4時に始まる欧州サッカーの決勝戦ポルトガル対開催国フランスの試合をみるためにテレビのタイマーをセットして寝た。4時に起きた時まだ開票は終わっていなかった。報道によれば最後の当選者が決まったのは午前6時過ぎだった。サッカーの試合は1:0でポルトガルが優勝。素晴らしい試合だった。

 お蔭で11日の観光は睡眠不足でつらかった。50歳過ぎのガイドは話が下手なのだが、とにかくずっと話し続けなければならないという信念を持っているらしく口を閉じている時がなかった。お笑い芸人の“永野”の「どうでもいい事しか言わない結婚式の司会者」のコントの「どんどん盛り上がっていきまー~~ょう」に似た喋り方が気に障った。普段私はガイドの解説をメモに取ったり録音するのだがまったくしなかった。高野山では公認ガイドがついた。この男性はバスガイドと違って立て板に水、まるで講談家だ。ツアー参加者はすっかり彼に洗脳されたようになった。買うべき御札、お守り、線香、はてはゴマ豆腐金山寺味噌まで言われるがままに財布を開く。「貴方は御仏を自身の救い主として受け入れ、この宗教に帰依しますか」と問われれば「はい」と言う域に達していた。

 2日目のホテルでは妻が言うに温泉浴場はポンプの故障で洗い場の蛇口から水と湯が出なかったそうだ。私は部屋の風呂に入って8時前には寝た。

 ツアーから戻って今回の参議院議員選挙の分析を新聞やネットで試みた。私の関心をひいたのは新聞の出口調査である。10代から60代までの各年代別に与党野党への投票だった。今回の選挙から選挙年齢が20歳から18歳に引き下げられた。新しく選挙に加わった18歳19歳の年代では与党71議席野党50議席で与党が過半数を得た。60代では与党60議席野党61議席である。60歳代の日本人らしい抜群のバランス感覚が見て取れる。

 バングラディッシュの首都ダッカでのテロはイスラム教過激派によって引き起こされた。日本のマスコミはバングラディッシュは親日国なのに日本人がテロで殺されたと一様に報道する。親日国だとか日本のテロの犠牲者がバングラディッシュの発展のために尽くしていたと書く。テロを起こした犯人たちはバングラディッシュ人ではない。イスラム国の信者である。イスラム国以外に国はない、と信じている。私はどんな宗教であれ心からその神を信じる人を尊敬する。私にはできないから。私は地球上にいつまでも現存の国々がこのまま存在していて欲しい。

 今回の参議院議員選挙において10代で投票した多くがある政党の組織票だと推測する。どの宗教を信じるかは個人の自由である。しかし絶対に宗教は政治に関わるべきでない。キリスト教対イスラム教、プロテスタント対カトリック、シーア派対スンニ派、どれも我こそは正統派であると主張する。紛争戦争の多くがこの主張のぶつかり合いである。誰もが死ななければ、真実を見いだせない。この世では永遠に答えの出ない争いである。これ以上この世にイスラム国もどきが誕生しない事を祈る。ましてや日本には。


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カワサツキ・南方熊楠・永六輔

2016年07月13日 | Weblog

  10日(日曜日)から2泊3日のツアーで紀伊半島秘境巡りに妻と参加して昨夜12日夜10時過ぎに無事帰宅した。

 旅行はもっぱらツアー会社の募集する企画に頼っている。団体行動が夫婦二人苦手だった。しかし寄る歳の波には勝てない。自分たちで企画して自家用車、列車、飛行機を使って二人だけの旅は体力的に無理だと65歳を過ぎて思い知らされた。海外旅行も無理だと3年前にやめた。旅をしたいという欲も好奇心も私は減退している。どうしても行きたいという場所も少ない。そこで自分の余生を考慮して妻がまだ行っていない、妻が行きたいという場所にツアーで参加することにしている。妻の勤めの関係で、まとまった休みを取れる時、限定である。4月から翌年の3月までの予定表で予め休めるのでツアーの申し込みはずいぶん前からできる。今回のツアーもすでに4月に申し込んであった。

 ツアーなので宿も食事も期待できるものではない。今回も酷いものだった。食事は2泊とも朝夕バイキング形式だった。悪いことばかりではない。バイキング形式の時は妻に全権を委託して選び運んでもらう。貴重品が入ったバッグを見張る役目もあるが、主夫である私は妻がどんな食べ物を選び運んでくるかを見る。それは私が家で調理する上でとても参考になる。今回も妻が選んだものからいろいろ学べた。

 私にとっての偉人を挙げろと言われれば、南方熊楠はその一人である。今回のツアーはまさに南方熊楠の足跡をたどるもであった。私は『南方熊楠大辞典』(松居竜伍・田村義也編 勉誠出版 9800円+税)を愛読する。紀伊半島は南方にとってホームグランドである。熊野古道、那智、高野山。今回の旅の行程に含まれている多くの地名は、私にとって初めての地でありながら旧知であるかのごとくに感じさせた。私が自分の目で見るものすべてに南方熊楠が関わり迫った。

 瀞峡を船で観光した。圧倒された。断崖絶壁の岩肌に赤みがかった小さな花があちこちに咲いていた。船のガイドに尋ねると「カワサツキ」だと教えてくれた。美しさもさることながらあの絶壁に張り付くように咲く花に魅了された。昔から筏で材木を運び出していたというからには南方もここでカワサツキを見たに違いないと思うと嬉しさがこみ上げてきた。南方の植物標本にもカワサツキはあることだろう。

 最終日高野山へ行った。高野山も南方熊楠にはゆかりある地である。『南方熊楠大辞典』の195ページにこんな記述がある。「生きた聖地というものは、聖と俗が混然一体となっているものであるが、熊楠の中では、この聖と俗二つの高野山が適当な折り合いを付けて一つの像を結ぶということはついになかったようである」 ヨーロッパの教会の建物やステンドグラスに気持ちが空洞にさせられるように高野山の雰囲気には圧倒された。同時に南方熊楠が感じたような一面も私の心の中に浮かんだ。私の友人が高野山へ行くと話した時、あそこはお墓のディズニーランドのような所と言ったことも実感した。

  旅行中に永六輔が亡くなった。帰りの新幹線の中で、永が以前一番好きな旅はと聞かれ、「我が家への帰り道」と答えたことが思い出されジーンとわが身に沁みた。


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シュフ・シェフ

2016年07月09日 | Weblog

  7月7日七夕の日、東京での第二回江戸味噌文化研究会に出席した。今回は“江戸味噌&インドスパイス料理の夕べ”だという。さてどんな料理に遭えるのか。 いまだ好奇心だけは旺盛である。

  家を出る時、すでに気温は30度を超えていた。勤務先に無事着いたとの妻のメールに「東京は36度を超して猛烈な暑さです。こんな日に東京に出てくること心配です。無理をせずタクシーを使ってください」とあった。

 体力の低下は誰に指摘されなくても自分が一番知っている。第一回の江戸味噌文化研究会は横浜だった。会が終わったのが10時過ぎ。家に着いたのは12時を少し回っていた。夜9時過ぎると私の町に行く電車は少なくなる。乗り換えを繰り返さなければならない。20分30分と乗り換えるためにホームで待たなければならない。駅についても10時を過ぎるとバスはない。タクシーに乗るしかない。これも待たなければならない。東京のホテルに泊まることにした。以前はお金がモッタイナイと強く反対した妻も私の釣瓶落とし的老化の現実にやっと理解を示してくれ、ホテル宿泊に協力してくれた。妻も一緒に泊まることにした。職場からホテルに来て泊まり、朝ホテルから出勤する。

 私は名刺を持っていない。死ぬまで今のままを通したい。私は世のいかなる経済活動にも貢献していない。常に利益を与える側であって受ける側にはいない。今回も約30名が参加していたが、会が始まる前初めて参加した人たちとの名刺交換が始まった。私は椅子に座って資料を読んでいるふりを続けた。

 ホテルでは不倫のカップルに間違えられたらどうしようとドキドキだった。心配は徒労であった。受付の女性はまったく私たちに注意さえ払わなかった。昔ホテルで修行した。受付もした。先輩が言った。「夫婦かそうでないかを見分けられるようになったら、受付として一人前だ」と。そのホテルの受付女性は一人前だったのか、私に石田純一のような“不倫は文化”のオーラが皆無のどちらかである。

 ホテル宿泊ということが余裕を産み、会ではじっくり会話と料理を楽しんだ。私のテーブルには3人の女性がいた。自己紹介が始まった。私は自分を「主夫」だと紹介した。3人の女性は全員「シェフ」と聞き取った。出席者のほとんどは料理に何らかの形で関わっている。その中でもシェフ料理人が多い。主夫(シュフ)をシェフと聴くのは自然の成り行きである。そのまま黙っていれば私はシェフでいられた。正直な私はよせばいいのに「シェフではなくて主夫です」と言ってしまった。一瞬時間が止まった。 間。 3人の真ん中に座っていた女性が「ああ、そっちのね」と言った。それから3人は、スパイシーなインド料理をのせたスプーンをゆっくりと口に運び始めた。

 【お詫び:本来なら7月11日(月)に投稿するブログを都合により本日7月9日に掲載しました。】

 尊敬する先輩は名刺に“隠居”と入れていた。大きな会社で重役まで務めた人だ。“主夫”では“隠居”ほど粋な響きはない。主夫を名乗って25年、私はこの間それこそ妻に最高の食事をと妻の専用料理人を目指してきた。たとえ単に主夫(シュフ)と言ってシェフと聴き間違えられたのであっても、内心25年の私の調理人修行が認められたようで嬉しかった。いっそのこと“シュフ・シェフ”と肩書いれた名刺を作ろうか。


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東海ラジオの生放送中の暴力事件

2016年07月07日 | Weblog

  ラジオの生放送中に、共演の女性タレントをマイクで殴るなどしてけがを負わせたとして、宮地佑起生容疑者(67)が傷害容疑で逮捕された。宮地容疑者は「番組の進行に不満があった」と6月27日の自身の番組“宮地佑起生の聞いてみや~ち”の生放送中、共演者の神野三枝さん(50)の左ひざを数回蹴りマイクで唇を殴って10日間の怪我を負わせた。

  私はラジオが好きでほぼ毎日聴いている。好きな番組のいくつかは予約録音している。ラジオ・ニッポン放送朝6時から8時までの“高嶋ひでたけの朝ラジ”夕方4時から5時半までの“ザ・ボイス そこまで言うか”はできるだけ直接聴くようにしている。私はまずアナウンサーに声質と話術の良さを求める。高嶋ひでたけアナウンサーと飯田浩司アナウンサーはとにかく安心して聴いていられる。高嶋さんはベテランアナウンサーである。飯田さんも良く勉強していて二人とも出演者への質問が常に核心をつく。それが私の聞きたい知りたいことにつながるのだから嬉しい。また聞き上手でその日その日のコメンテーターに気持ちよく話させることができる。なかなかこれほどのアナウンサーはいない。

  宮地容疑者の番組を聴いたことはない。宮地容疑者は10年以上も神野さんと一緒に番組を担当していてお互いの間に番組運営上のトラブルを抱えていたらしい。私も短期間ではあるが地方のラジオ放送局で番組に関わったことがある。ラジオ局のスタジオは防音された密室である。窓があると言っても閉塞感は尋常ではない。密室でお互いを好ましく思っていない二人が閉じ込められれば、今回のような事件も起こり得ると推測できる。

  以前テレビでニュース番組を長く務めた故筑紫哲也さんの追悼特別番組を観た。筑紫さんが番組収録前のスタジオで激怒してスタッフを怒鳴り散らしている姿が写った。テレビ放送中絶対に見せない姿に私は驚いた。みのもんたさんが司会をしていた朝の報道番組でもみのさんが放送中他のアナウンサーに激怒したことがあった。テレビ放送はラジオ放送と違って声だけでなく映像が加わる。テレビ出演者は映像という重圧が自制させる作用が働くであろう。ラジオはその点音声だけという油断が宮地容疑者を犯行に至らせたのかもしれない。

  理由が何であれ、暴力を振るうのは許されない。スタジオという狭い空間で自分の名前が冠についている番組を持てば、宮地容疑者にとってはそこが自分の王国なのであろう。67歳という私に近い年齢から言っても迫りくる老いの圧力から自制力も失われてくる。キレル老人は巷にあふれている。私もそれを知るから、できるだけ外出を避けている。腹が立つことをあげたら限がない。宮地容疑者も私と同じで言葉できちんと相手に自分の言いたいことを伝えられないのだろう。その点、高嶋ひでたけさんは番組の中でアシスタントにつく若手女性アナウンサーが言葉遣いを間違えたり原稿を読み違えたりおかしな意見を述べたりすると実に上手に指摘して適切な指導をする。私が高嶋さんの番組を聴くのは、そういう瞬間を求めているからだ。

  それにしても日本のラジオでもテレビでもプロとしてのアナウンサーが少なすぎる。朝のどのニュースバラエティ番組や夕方のどこの局のニュース番組でも女性若手アナウンサーが二人並んでニュースを読み上げる場面が増えた。小学校の学芸会ではあるまいに。

 今や放送業界は芸能界に負けない花形産業である。真の実力あるアナウンサーがプロのスポーツ選手のように高額トレードされるような時代が来て放送業界に優秀な人材であふれることを期待したい。CNNなどの欧米のアナウンサーの口、口近辺の筋肉をフル活動させて喋るのを観て、日本の子どもっぽい若手女性アナウンサーの聞き取りにくい口もほとんど動かさない姿は哀しいのを通り越して惨めにさえ感じる。


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水茄子とダッカ・テロ事件

2016年07月05日 | Weblog

  大阪に住む友人から水ナスが送られてきた。このところの暑さに食欲はすっかり減退していた。美味かった。

  ナスが一つひとつ糠床に包まれていた。贅沢この上ない漬け方だ。料理は素手に限る。糠床の中からナスを取り出す。取り出したナスから糠床をこそげ落とす。ツルツルのナスの肌があらわれる。私は子どもの頃から漬物が苦手だった。信州の漬物はしょっぱかった。漬物イコールしょっぱいが定着している。普段の生活でも漬物が無くても私はいっこうに構わない。水ナスと千枚漬けは別である。近所の店でも水ナスの漬物を買うことができる。多くの場合、名前だけ水ナスで大阪の友人が送ってくれるものとは違う。

  水ナスが送られてくると時間の勝負である。日ごと時間ごとに味が変化する。もちろん到着時間後の時間が短いほど良い。水ナスは果物ではないだろうか。名前の通り水分いっぱいである。皮も歯が滑るほど固くない。塩加減も私にちょうど良い塩梅である。

  ナスは嫌いではない。信州には旨い丸ナスがある。私のおふくろの味は丸ナスの油味噌、ナスの天ぷら、ナスのおやきである。ナスの味噌汁も美味かった。

  海外で暮らしてそれぞれの地のいろいろな種類のナスを食する機会があった。留学したカナダでナスを英語でeggplant(たまご植物)と言うことを知った。白いたまごのようなナスをスーパーで見た時は「なるほど」と感心した。しかし寮の食事でも招待された家でもナスが食卓にあがったことはなかった。アメリカ・カナダでナスは人々に好まれる野菜ではなかった。妻の海外赴任で暮らしたネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシア・サハリンどこでもナスはあった。ネパールでは私自身が家庭菜園で日本のナスの種を蒔いて育てた。ナスは庶民的な野菜だと思った。漬物にして食べるのは日本だけかもしれない。どこの国に暮らしてもナスはホームシックの引き金だった。ダチョウの卵程でかいヨーロッパのナスでも味噌汁の具にすれば日本のナスの味噌汁のナスのようにグタッと柔らかくなって美味かった。

  バングラディッシュの首都ダッカで20人が犠牲になったイスラム教徒によるテロが起こった。そのうち7人が日本人だった。全員がJICA関係のコンサルタントだという。水ナスを送ってくれる大阪の友人とはネパールで知り合った。それ以来家族ぐるみの付き合いである。海外で仕事のために暮らす日本人は多い。海外で暮らす人はどこの国からであれ、皆それぞれ自分の国での生活を事あるごとになぞり、結びつけながら母国を偲ぶ。ダッカの外国人が多く集まるレストランに集まっていたテロの犠牲者も仕事のつながりとは言え、やはり日本人で集まり日本語を話して望郷の念とアイデンティティの確認を欲していたのであろう。

  私たち夫婦もネパールで強盗に入られ、千年に一度の大雨、交通事故、B型肝炎、セネガルで学生デモ、旧ユーゴスラビアでNATO空爆、チュニジアで交通事故、日本人社会での村八分、狭心症発症帰国して心臓バイパス手術 ロシア・サハリンで妻の原因不明の歩けなくなるほどの眩暈が続き帰国検査を受け大いに心配だったが乗り切った。水ナスを送ってくれた友人もネパールで共に不便、危険、不自由を耐えた仲間である。

  夕食時、テレビに映し出されるダッカのテロ事件に胸を痛めながら夫婦そろって水ナスを口にした。不謹慎だが美味しさが全身に染み渡った。亡くなった方々それぞれにも、もう二度と日本でしか口にできない好きな食べ物があっただろうにと思うと目頭が熱くなった。


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