団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

冤罪

2010年07月28日 | Weblog
 集合住宅の正面玄関の番号が押される。その先の押された番号の部屋に、ほとんど原始時代の身支度の夫婦がいた。「ピンポ~ン ピンポ~ン」チャイムが鳴る。

 両腕の袖を大胆にもハサミで切り取ったパジャマ風の赤と青の風船が所狭しとプリントされた上下を着た妻が受話器をとる。嬉しそうに「宅急便だって」と腰を痛めて、固い椅子に座り普段と違って背筋を伸ばして、本を読む夫に言う。夫の腰は、妻の着物着付け用の赤い手毬模様の隠しコルセットで固定されている。宅急便! 夫は、このところ大好きな通信販売に何も注文を出してない。誕生日もすでに過ぎて一週間は過ぎた。おそらく誰かが何か送ってくれたのだろう。こんな瞬間は、どうしても頬の筋肉がだらしなく緩む。夫がこの身なりのまま、玄関で対応したら、宅急便のお兄さんは、気絶するか笑い出すだろう。妻があわてて嬉しそうに着替えて、判子を持って玄関で待ち構えた。

 夫の眼はもはや本の字を追っていなかった。何を送ってきてくれたのだろう?誰だろう?と空想にふける。でもずいぶん時間がかかっている。普段なら荷物を受け取って、判子を押して終わるのに。何やら話し声が聞こえるが、内容までは判らない。10分ぐらいかかった。とてつもない長い時間だった。

 戻った妻の手に荷物がない。玄関にそのまま置いてくるほど、そんなに重い物なのか。勝手な想像は留まるところを知らない。「荷物は?」「荷物じゃなかった。謝りに来たって言うんだけれど、話が良くわからないの。あなた、以前ヤマト運輸の人に窓から駐車の仕方悪いとか、車で植木の枝を傷めたと文句言ったことあるの?それから昨日ヤマトのコールセンターに駐車の仕方について匿名で電話したの?謝るというより上司に言われて、仕方なしに来たという、ふて腐れた感じだったけれど。きっとずいぶん叱られたのね」 夫は、妻の言っている意味がわからない。ぎっくり腰でずっとこんな状態で、どうしてそんなことできると言うのだ。変だ。理屈が通らない。なぜなら文句を言ったとか、電話を匿名でかけたとか夫の身に覚えがない会話を夫のいないところでされたことがどうしても腑に落ちない。

 夫は妻にヤマト運輸の人に下で待っていてもらうよう懇願した。妻は猛烈な勢いで外に出て行った。夫は「痛てて、ウッ」を連発しながら、赤いコルセットを隠せるようざっくりとした服に着替えた。中腰のおじいさん歩きで、ロボコップのようにエレベーターに乗り、下に急いだ。

 夫は、ヤマトの運転手と正面玄関の前で対峙した。証人喚問。まず聞いた。「あなたは妻に、私があの窓から顔を出して、文句を言ったと言ったそうですが、今私を良く見て、本当に私だったと言えますか?」と「Noかいいえ」を期待しながら聞いた。不自由な腰を回して、我が家の窓を指差した。現場検証。「ええ、あなたでした」が彼の答えだった。「ウソッ!私でありえない。私はお前に会っていない。私は、窓から顔を出したことがない。私は匿名でヤマトのコールセンターに電話していない」夫の訴えは、声にならない。これではラチがあかない。ヤマトの運転手は、勝ち誇ったように、エンジンを力いっぱい吹かして立ち去った。

 もちろん妻と夫とは、私たち夫婦のことである。いわれのない罪をきせられた。しかし無実であることを証明できない。唯一証明できるとしたら、警察に頼んで、コールセンターに私の携帯電話と固定電話の通話記録を調べてもらうしかない。関節炎が治ったと思ったら、ぎっくり腰になり、今度は冤罪か。このままこの問題を放っておいて解決するとは思えない。栃木の足利事件で菅家利和さんは、17年間無期懲役の判決で服役した。菅家さんの冤罪は、奇しくも最新のDNA再検査で無実と証明された。私の場合、裁判さえなく、科学的捜査も期待できない。真実は必ずある。小さなことかも知れないが、今回の件で冤罪はどこでもだれにでも起こりうることだと思い知った。

 猛暑日に熱帯夜、まだまだ私の試練は続きそうである。どうにも気が晴れない。集中力が続かない中、内田康夫の浅見光彦シリーズを読んで推理の仕方を学んでいる。もしかしたら、私の中に私の知らない私が潜んでいて、私の知らないうちに、私の知らない私がいろいろ行動しているのかも。恐ッ!

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ぎっくり腰

2010年07月23日 | Weblog
 私たち夫婦の晩酌は、ジントニックである。トニックウォターは、24本入りのケースごと買っている。飲み終わると空き瓶をケースに入れ、酒屋に買いに行く。

 7月22日、朝、妻が出勤する時、車のトランクにケースを入れた。午前10時過ぎ、むっとする熱気の中、車で出かけた。店の前の駐車場に他の車はなかった。車から降りてトランクを開けるダッシュボードの下にあるボタンを押した。トランクを開けようとした。開かない。もしかとガソリン注入口を見る。パカっと開いている。よくやる間違いである。運転席に戻り、ガソリン注入口を開けるボタンの隣りのトランクのボタンを押した。「カシャッ」と小気味良い音がした。今度は大丈夫と車後部に回り、トランクを開けた。両手でケースの縁を持ち、ケースを持ち上げようとした瞬間、「アギャー」と声を上げた。腰のあたりから脳に一気に衝撃が駆け抜けた。

 まさか。まさかぎっくり腰じゃないよな。嘘だ。だって右足の関節炎が治り、左足のクルブシの腫れがとれ、やっと2週間ぶりに普通に歩けるようになったばかりだというのに。誕生日を祝ってもらったばかりだぜ。頭の中に怨みつらみ呪いの言葉が渦巻いた。 なんとかケースを店内のレジのところまで運んだ。どう運んだのかは思い出せない。レジの女性が「大丈夫ですか?」と尋ねた。「降ろす時、ぎっくり腰になちゃったみたいです」と汗をふきふき言った。冷や汗なのかただの暑さのための汗だったのか。とにかく汗びっしょりになっていた。レジの女性「あとは店の者がやるので休んでいて下さい」と言う。親切が自分の不注意馬鹿さ加減に氷の刃のように突き刺さる。

 車を運転して家に戻った。体の曲げ方、力の入れ方によっては、痛みがまったくない。深く坐っていて立ち上がるときは激痛が走る。これが学習となり、立ち上がる時、先に恐怖が襲い、痛みが追う。家に戻り、妻に指示を仰ぐ、メールを打った。ベッドに横になると痛みもなく、いつしか寝入ってしまった。2時間あまり寝てしまった。起きようとするがベッドのどこにも掴まるところがない。動くたびに激痛が走る。15分くらいもがいて、やっとベッドの脇の机を使って立ち上がった。パソコンにメールの返事が届いていた。「歩ければ心配ないから、安静にして私の帰りを待ってください。私がトニックウォター買っておいてと言ったからだね。ゴメンネ」とあった。

 運が悪かった。老化は確実に押し寄せる。40肩2回、50肩2回。妻が言うように時間という名医が治してくれた。このぎっくり腰も“時間”名医が診てくれる。任せておこう。足で2週間の夏休みをとり、このぎっくり腰でさらに2、3週間の夏休みが加えられる。 妻は、駅からバスで帰ってきた。仕事で疲れ、家のぎっくり腰の夫の世話と迷惑かける。そんな私に「あなたは私に私も必ず通過する加齢による障害をひとつずつみせてくれるから良い勉強になるわ」と言う。「あせっても、放っておいても同じだから、放っておけばいいのよ」

 痛み止めを飲んで、コルセットを腰に巻いて、私はじっと痛みの消える日を待っている。

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ミョウガ

2010年07月20日 | Weblog
 ミョウガが美味しい。子どもの頃、夏は頻繁に親にミョウガを採ってくるように言いつかった。庭の片隅にあるミョウガの藪に入るのが好きだった。母親がモミガラを撒いたり雑草取りをして普段からよく手入れしてあった。 

 食べられるモノの採集は、どうしてこう人をワクワクさせるのだろう。特にその味に魅せられている獲物には、遠い原始のDNAの疼きが脳の中を駆け巡る。ミョウガの藪の中に入り込む。親が私にミョウガ採りを言いつけたのは、子どもの体のほうが、適しているからだろう。小さなジャングルの中に全身を注意深く入り込んで、ミョウガを探す。モミガラをちょこっと持ち上げているミョウガの先が見える。興奮が高まる。わざわざ手をかけて育てているのだから、あって当たり前。養魚場で魚を獲るようなものである。それでも収穫狩猟は、嬉しい。ミョウガは逃げやしないのに、なぜか神妙に警戒してしまう。モミガラを除ける。親に教えてもらったとおりに、しっかり親指と人差し指でミョウガのくびれを押さえ込む。ぐっと親指の先に50%の力を加え、人差し指で押し返す。ポキッとミョウガが折れ、指に挟まれ全体の姿が見える。採ったミョウガを頭上にかざし、獲物をめでる。ジャングルの向こうにフキのジャングルがあった。大きく広がったフキの葉を夏の強い陽射しが突き抜けていた。小さな庭がまるでアフリカのジャングルのように思えた。私の好きな空想のような世界だった。

 ミョウガは特別な料理に使われることはなかった。母親がまな板の上で「ザッザッザ」と切り刻み、皿に盛られ、オカカがかけられ醤油をたらす。それだけのこと。週2回は米の配給制限でソーメンかうどんの日だった。ソーメンのつゆに刻んだミョウガが入れられた。子どもの頃、ミョウガが嫌いではなかった。でもできればミョウガでなく、肉や魚が食べたかった。今では糖尿病で食事療法を続ける身である。ミョウガとご飯と味噌汁でもご馳走に思える。子どもの時、嫌いだったり、食べられなかったモノが、今では美味しくいただける。歳の功なのか老化現象なのか。どちらにしても、ありがたいことである。

 今でも時々、ミョウガのジャングルでミョウガを探す夢をみる。歳とともに夢の中のミョウガの丈がどんどん高くなるのが気になるが。

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身長

2010年07月14日 | Weblog
 サッカーワールドカップ南アフリカ世界大会で日本代表がカメルーンに1:0で勝った。オランダ代表には1:0で惜敗した。そして決勝リーグ進出をかけてデンマーク代表と戦った。結果は3:1で見事勝った。久しぶりに日本中が沸きあがった。停滞ムード一色だった日本が歓喜に浸った一日になった。

 デンマークの新聞が「日本代表の平均身長は、デンマーク代表より首一つ小さい。そんな小さい選手の集合チームに負けるはずがない」と書いたという。人はだれでも大きくて強そうな外見を求める。ゴリラの群れ、チンパンジーの群れ、セイウチ、象アザラシ。メスは、少しでも優れた子孫を残そうと、健康そうで大きいオスを探す。人間は、とっくの昔に群としての自然淘汰から離れ、恋愛感情や思惑や計略を優先した一夫一婦制の結婚という形態をとった。人種国籍民族により身体的な特徴が受け継がれる。遺伝とかDNA的特徴が綿々と引き継がれていく。

 オランダの古い集落の遺跡を観光したことがある。湿地帯に高床式に造られた家の入り口も天井もベッドも小さかった。女性ガイドが「現在のオランダ人の体格は、ずいぶん大きくなったけれど、昔は小さかったんですよ」と大きな体を寝室の小さな空間に押し込んで案内していた。妻と私は、「そうだったんだ」とちょっぴり安堵した。外国に住むと、どうしても日本人としての自分たちと訪れる国々の人々と人類学的、身体的比較をしてしまう。確かに日本人の平均身長は低い。私の父親は150センチ、母親は160センチぐらいだった。私はなぜか174センチまで伸びた。しかし父は、私よりはるかに運動能力に優れていた。

 私は、高校生の時、カナダに渡った。同学年45名中で最も身長が低かった。西洋人の意識の中には、身長などの体格と強健さで男性の優劣を決める傾向が強いと、まざまざと知らされた。拙著『ニッポン人?!』でも書いたように宣教師の息子にずいぶん日本人として苛められたのも身体的劣性が大きな要因だった。

 私の日本人の知人で身長が140センチの女性がいる。この女性が「他人は私を身長が低いと言うけれど、私自身、身長が低いからといって、不便を感じたことが無いのよ」と言ったことがある。私はとてもこの言葉に感動し、同感した。父親も同じようなことを言っていた。日本にいれば、まわりの平均身長が低いのでさほど気にならないことも事実だ。

 人間は、あらゆることで他人と自分を比べる傾向がある。そこから優越感、劣等感を勝手に持って、一喜一憂してしまう。身長が高くて、高学歴で、高収入がかつての未婚女性の配偶者に対する希望条件だった。そのことも影響して、最近結婚を望まない若者が増えている。つまり設定した条件の達成が困難だからという理由がある。『人は外見がすべて』と多くの人間が決めつけている。実は人間の心が、人格が、人柄が、信条が一番大切だと知っていても、目にだまされてしまう。

 サッカーを通じて、何事にも全力でぶつかっていく姿の美しさをあらためて再認識した。これから先、金に物言わせて、身長2メートルを越す万能選手を揃えたチームが出てきても、たとえ身長がバラバラであっても、国を代表する選手同士のチームとしての精神的連携、それぞれの身体能力、瞬時の判断力で戦うチームは強いに違いない。身長差を誇示したデンマークの新聞記者が、負けた後、どういう記事を書いたのか読んでみたい。

 オランダとスペインが決勝に進んだ。両チームとも身長だけのチームでなく、ビジャ、プジョル、イニエスタ、スナイデルのような小柄でも大活躍する選手を擁する。ステイデルは、かつて「ちびハゲ」と言った相手チームの選手を試合中反則行為で怪我をさせ病院送りにしたという。両国とも体当たりで持てる力を発揮して、素晴らしいサッカーを見せた。まさに決勝戦に相応しい試合だった。デンマークの記者のような幼稚な優越感を振り回す記事は、両国には似合わない。これぞ王者の風格である。

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サミット

2010年07月09日 | Weblog

 カナダのトロントで行われたG8サミットで日本の菅首相の存在に、私は、40数年前カナダの学校へいきなり飛び込んでいって、萎縮していた自分の姿を重ねていた。おどおどしていて何をしてサマにならず、他の人と歩調が合わず、浮き立ち孤立した。今回のサミットで菅首相は、白人6人黒人1人の中に黄色人種1人だけだったからではない。キリスト教が大多数の国7カ国の中、そうでない国1カ国。普段、音羽御殿のような立派な広大な敷地を持つ大きな家に住み、多くの召使いに囲まれ、ナイフフォークで肉を中心とした洋食を常食としているであろう7人、マンションというフランス人が揶揄するニワトリ小屋並みの小さな集合住宅の一区画に住み、納豆、焼き海苔、焼いた鮭の切り身、味噌汁とご飯を朝食、昼食は店屋物、夕食は料亭の会席料理の1人。元首といえども、長期休暇を取り、バカンスを楽しむ7人と休みなく働きすぐ首をすげ替えられる国の1人。アルファベットを基幹文字とするお互いにルーツを同じくする言語を母国語とする7人と漢字、ひらがな、カタカナ混合のまったく異なる言語の1人。どこまでいっても平行線で交わらない。

 私はそんな菅さんに同情する。戦争を仕掛けた咎(とが)で平和憲法を押し付けられ、植民地を持ったことでアジア諸国で目の敵にされ、教科書にまでイチャモンつけられ、働きすぎるといっては非難され、稼ぎすぎるといっては通貨の切り上げを有無を言わせず受け入れさせられ、自国に軍隊がないのだからと安全保障条約を結び、防衛のためとアメリカの軍隊を駐留させ、思い切り予算を払い続け、日本株式会社だと国が企業に口出し手出し金出しを非難されてきた。世界を公平に冷静に熟視している人は、この経過を理解する。

 多くの日本人は、サミットに行って、菅さんがあんなでは情けないという。今までずっと同じではなかったか。巨人のようなサミット出席の欧米首脳の中で、ほとんどの日本の首相は身の丈5尺と小さく、共通語も話せずにちょこまかと、そこに身を置いてきた。菅さんは自分はごく普通のサラリーマンの息子であると言う。それで結構。日本には、足りないこと未熟なことがたくさんある。それでも今の世界にあって、金もない、閨閥もない、宗教色もない、軍隊もない、普通の人である首相が存在する意義は大きい。

 やれ言葉が喋れない、西洋的なマナーで振舞えない、身長が低い、顔がでかいと笑われようが、見方の違う普通の人々が大勢いる。余計なことにひるむことなく、菅さんは「官僚はバカばっかり、ただテストの成績が良かっただけで能力に欠けている」と以前痛快に怒りとばしたように、世界でその意気を持って活動するべきである。サミットで萎縮することは何もない。ひるむこともない。どうぞ、そのままで。マナーも振る舞いも言葉も後付で身につけることはできる。結果を出すには、ある程度、時間をかけなければならない。それもこれも今度の参議院選挙で決まる。

 


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さあどうする?

2010年07月06日 | Weblog
 30日の昼、娘の友だち家族が伊東の温泉に泊まった後、去年の12月に生まれた赤ちゃんを見せに我が家に立ち寄ってくれることになっていた。右足母趾関節炎で歩くのも不自由だったが、娘がお世話になっていて、日頃感謝しつつも恩返しができないでいる。3歳の女の子も可愛く、その成長ぶりも見たかった。大したことはできないが、せめて昼食を食べていってもらおうと前日から準備していた。伊東から「これからそちらに向かいます」と電話で連絡してくれた。

 調理したり、テーブルのセットをして到着を待った。12時半過ぎに家の前に着いたと電話があった。朝からポケットに入れておいた駐車場ゲートの開閉リモコンを確かめ、玄関を出る。小さな子ども二人いて、いろいろ荷物も多いだろうし、私もこんな足の状態では、手伝うこともできないと、いつもたとえ郵便物、新聞、ゴミ出しの時でも施錠しているのに、玄関の鍵をかけずに迎えにでた。集合住宅の玄関ホールから裏の駐車場へ出る時、ドアは鍵がなくても外に出ることができる。不自由な足をぎこちなく運び、駐車場のゲートをリモコンで開ける。車の中で3歳の女の子が手を振っている。車が入る。リモコンで閉める。駐車する区画に案内した。「足どうされたんですか?」と心配してくれる奥さんに「あとでゆっくり話します」と言い、初めて会う康生くん6箇月にメロメロになっていた。杏莉ちゃん3歳と手をつなごうとするが、杏莉ちゃん、私を警戒していて、手をつながせてくれない。荷物の準備もできたようなので、玄関ホールに入る裏ドアに向かう。いつものように首から下げたJRの定期と家の鍵を掴もうとしたその時、「しまった」と声を上げた。ない、鍵がない。到着したばかりの4人家族が何事かと固まった。「鍵が」としか言えない。パニック状態。

  取りあえず、リモコンで駐車場のゲートを上げて、正面玄関に行ってみよう、と思った。ゲートと正面玄関の間にプリウスが駐車していた。運転席で70歳くらいの男性が弁当を食べていた。私は天を仰ぎ、「ありがとうございます。これで中に入れます」と言った。おじいさんに「×号に住んでいる・・」と言いかけたが、おじいさん、様子がおかしい。私「すみません、ここに関係ある方ですか?」と優しく尋ねた。「関係ありません」と食事を途中で中断された怒りをあらわにして言った。(そうだよな。ここに住む人やここを訪ねてきた人が、ここで弁当たべないだろう)

 玄関に向かった。一応玄関の大きな木製のドアを引いてみた。最近の湿気で木が膨張していて開け閉めがうまくいかない。もしかしたら、開くかもの期待を持っていた。残念!開かなかった。再び裏の駐車場に戻る。客人夫妻は、集合住宅のベランダに向かって「すみません!」と呼びかけていた。そうでなくともここは、週末や別荘として使っている人が多く、7,8割は常時留守である。 絶体絶命か。私は自分に(浅見光彦になれ。考えろ。考えれば、道は開ける)と気合を入れた。

 閃いた。玄関にインターフォンがある。それでいつもここに住む人に助けてもらえる。(常時すんでいるのは○号に△号に□号・・) 不自由な足で走っていた。インターフォンで○号の部屋番号をまず押した。「ウーワンワン」まず犬の吠え声「ハーイ」「一階の山本です。鍵を部屋に置いたまま駐車場に来てしまい、入れなくて困っています。助けて下さい」「でもどうして玄関へ・・・」 (賢い!見直した)だれだって疑問に思うことだ。「リモコンだけ持って出たんです」「わかりました。どこへ行けばよいのですか?」「駐車場のドアをあけていただけますか?」 後で冷静に考えたら、この時玄関のドアを遠隔操作で開旋してもらえば、部屋の鍵はしてなかったのだから、奥さんにご足労してもらわずに済んだはずだった。でも声だけでは、怪しまれて、開けてもらえなかった可能性もある。とにかく裏の駐車場に戻り、客人を安心させ、上の階の奥さんの到着を待った。「さあ、どうぞ、私たちも時々するんですよ」と笑ってドアを開けてくれた。

 首から鍵をかけているのは、格好悪いけれど、私には必要な対策である。反省しきり。これから気をつけて他人に迷惑かけないようにしたい。客の一家は夕方5時に東京へ戻った。夜、帰宅した妻に事件の詳細を話すか話すまいかと迷ったが、正直に話した。妻は「忘れないでつけててね」と私の首にかかっている車の免許証、定期券、保険証に鍵のついたストラップをぐっと引いてため息と共に肩を下げた。 
(写真:私の鍵)

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サッカー

2010年07月01日 | Weblog
 今回のFIFA南アフリカサッカー世界大会での日本代表チームの活躍を讃えたい。私は、サッカーの中継を実際テレビを観て、日本代表チームをリアルタイムに応援することができなかった。生まれながらの小心者である。オマケに心臓の冠動脈があちこち詰まっている狭心症を持っている。重い荷物持つこと、過度のストレスは、医者に固く禁じられている。

 今回の世界大会、日本は前評判もよろしくなく、岡田監督とチームはマスコミや熱狂的なファンの一部には、こき下ろされていた。そんな大衆もマスコミもゲンキンなものである。初戦でカメルーンに勝つと、第二次世界大戦開戦前の教師が敗戦で突然人が変わって、自分ずっと戦争反対論者だったと言い始めたように、手のひらを返したように、「岡ちゃんやめろ」コールが「岡さま」賛歌を謳い始めた。おそらく私は自分もそういう卑怯な人間だと自分で認めているから、熱く応援できないでいる。そうでなくても自己嫌悪の傾向が強い。これ以上自己を否定したら、自分という存在が消えてしまう。あの日本代表チームをこき下ろしたファンやマスコミの日本代表チームの快進撃のあと、何もなかったように豹変できる毛の生えた心臓がうらやましい。

 小心者の私は、実況放送や実際の観戦でサッカーの残酷さについていけないことが多い。ニュースで終わった試合の良いところ特集を落ち着いて見るしかない。サッカーは代理戦争だといわれる。旧ユーゴスラビアに住んでいた時、ベオグラードのスタジアムで旧ユーゴスラビア対クロアチアの試合を観戦した。まさに少し前まで実際に戦闘状態にあった国同士である。スタジアムのあの雰囲気は、ローマ時代のコロシアムの奴隷と猛獣の戦いの、奴隷を応援するか、猛獣に加勢するかのどちらかの殺気であったかもしれない。その試合中、電力事情の悪さでスタジアムの照明が一斉に停電で消えたときは、身の毛がよだった。それ以来サッカーをただのスポーツとして見る以外、応援もずっと控えめにすることに決めた。

 私にとって、サッカーはずっと観戦だけのスポーツである。それだけでも満足している。まずスピード感、11人のチームとしての何が出てくるかわからない面白さ、足と胴体と頭でしかボールを扱えない不自由さ、あの広いサッカー場を前半後半に分けて各45分間走り回る体力への畏敬、年齢の所為かボールが大きく目で追える楽しさ(野球、ゴルフのボールを最近画面では追跡不可能)、身長や体格も大切だが、どちらかというと体力と運動能力ととっさの判断力が見所で、かつてのマラドーナにしても今回のメッシやビリャにしても大きな敵方に囲まれ、小さな体でグイグイゴールに迫り、豪快にシュートするのを見る痛快さがある。格闘技のように激しいスポーツだが、規則に守護され、審判の的確、厳正な判断があれば、観客はますます引きこまれてしまう。

 今回の南アフリカ大会、開催前の不安をよそに順調に試合が消化されている。アフリカへの先入観や偏見が、こうして時間をかけ、経験を踏むことで少しでも解消されることを願う。日本のマスコミには、大会前の岡田ジャパンに対するバッシングと南アフリカに対する失礼な報道を謙虚に猛省して欲しい。南アフリカの人々の大会を支える陰の働きに敬意を表し、これからのアフリカの発展に大いに貢献して欲しいと願う。

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