団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

老化の初期現象

2014年04月25日 | Weblog

  歳をとると、目で見て脳が判断するのに時間がかかる。先日、車を運転していた時のことである。脇道から小型トラックが侵入の機会をうかがっていた。私の後ろに車がずっとつながっていた。私は速度を落としトラックを入れさせた。トラックの運転手はハザードランプをパカパカさせて感謝の信号を送った。

  それからものの5分も経たないうちに歩道がトラックの先に見えた。50~60歳の男性が一人立っていた。中肉中背、165センチくらいか。手は挙げられていない。反対車線には近づいてくる車両はなかった。私の車線は時速40キロ以上で走る車が途切れることなく続いていた。私はトラックとの車間を10メートルくらい取っていた。突然歩道の男性がダッシュしてトラックの直前を横断しようと走り出した。ニューヨーク・ヤンキースのイチローの盗塁並の見事なスタートだった。私の位置から見れば、身投げかもと思える光景だった。血だらけ・・・。幅6,7メートルの道路である。全力で走れば数秒で渡り切れる。トラックに一旦隠れた男性の姿はそのまま。出てこない。私は一瞬幻覚!それとも幽霊だったのか、と思った。トラックが急ブレーキをかけ、右側の反対車線に大きく逃げた。私もそれに釣られてハンドルを右に切った。すでに道路を横断して渡り切っているはずの男性の姿が見えない。左側を見ると、道路中央に男性が腹ばいになって倒れていた。轢かれてはいなかった。トラックと接触もしていなかった。

  脚がもつれて倒れたらしい。私は車を止めようとしたが私の後ろの車が迫っていた。サイドミラーで倒れた男性が立ち上がって体のあちこちを点検しているのが確認できた。

 もし前のトラックが右にハンドルを切らなかったら、男性は轢かれていただろう。さらに恐ろしいと思ったことは、もし私が数キロ先の合流地点であのトラックを先に侵入させなかったら、私が男性を轢いたかもしれない。男性が手を挙げていれば、私は車を止めて、横断を見守ったかもしれないが、後続車の状況で判断せざるをえない。追突で一番多いのが、横断歩道での急停車で、歩行者を巻き込む可能性が高い。いずれにせよ私はタイミングという偶然性にぞっとした。巡り合わせと云うのか、運不運と云えばいいのか。恐ろしい。

 男性はまだ自分の老化を頭では理解していないのだろう。中年から初老に達したばかりの私自身がそうだった。最近やっと老化を受け入れられる。それでも失敗する。ブログにも書いたが階段から転げ落ちそうになって手を怪我した時も、自分では足裏を上げているつもりでも実際は上がっていなかった。おそらく靴底の厚みを脳が計算に入れていないに違いない。

  道路にカエルのように四つん這いで倒れ込んだ男性は、若かりし頃は足の速い運動神経抜群の人だったのかもしれない。右から車が来ていないことを確認して、左から来るトラックの進む速度、自分とトラックとの距離、自分の走る速度を一瞬にして計算して脳が“可能”の判断を下したのだろう。そこまでは良かった。イチローのように俊敏に飛び出したが脚がもつれた。あの痛そうな顔から想像するに体のあちこちを強打したのだろう。ともかくトラックに轢かれなかっただけよかった。

 運転は注意深くしているつもりだが、時々年寄りの無茶な横断に出くわす。信号や横断歩道がない場所での横断が多い。右見て左見て手を挙げてならまだしも、片側だけ見て私の車のほうを見ずに一歩を踏み出す人もいる。驚くのが斜めに横断することだ。斜めだと横断する距離は長くなる。足が遅いのにわざわざ長い距離をとる。

 自分は年寄りだから車は自分を優しく渡らせるのが当然と車道に入り込む。いつでもどこでも平然と横断する車がなかった時代の人のように車を無視する年寄りもいる。自分の身は自分で守らねばならない。それにはまず交通規則を遵守するしかない。自ら危険に飛び込むことだけは避けなければならない。

  老化はまず脚に来る。脚を鍛えるために散歩を続けたい。遠回りしてでも安全を最優先する。歩道を歩く。横断歩道を渡る。歩道橋を使う。面倒くさい時間がかかることが身を守る。散歩に出れば、車と歩行者の立場それぞれを学べる。車の怖さを知り、事故を防ぐ知恵も湧く。(参考写真:現場付近 実際には私は反対車線を走行していた。帰路撮った写真である。 横断歩道は前方のワゴン車の先にある)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終活整理、本との別れ

2014年04月23日 | Weblog

  晴耕雨読は私の老後の目標だった。だが耕す土地はない。住む集合住宅にあるのはベランダのプランターだけである。というわけで晴れれば散歩する。雨が降らなくても時間さえあれば本を読む。本を読むのと映画を観ること散歩することが私の仕事だと勝手に決めている。そこに作文を加えたいのだが、こちらはいつまでたっても上達しない。あきらめずに書き続けるしかない。

  去年、住む集合住宅のゴミ置き場に半端でない冊数の本がヒモで結わえられて積み上げられていた。洋書や学術書が多い。それを見て私は衝撃でその場を動けなくなった。私の本に対する“想い”は尋常ではない。本こそ私の師である。私の学歴に特記できることは何もない。本歴というか本から学んだことは学校で学んだことより遥かに多い。もともと集中力がなく、飽きっぽい性格だが、読書だけは私を別人に変える。読むのは遅い。速読できるのは天才秀才の証だそうだ。凡才な私は、大学ノートにメモを取りつつ、時間をかけてページを移動する。解らない言葉があれば辞書を引く。人生も道草ばかりだったが、読書も途中下車が多い。

 私が住む集合住宅には年寄りが多い。推察ではあるが、本の持ち主は身辺の整理を始めたと思われる。

 5,6年前大学教授を退職した知人が事情で東京へ転居する手伝いをした。大変な蔵書数だった。知人はまず自分が教鞭をとった大学に寄贈を申し出た。検討すると言われたまま、待てど暮らせど回答は結局来なかった。問い合わせると「まだ検討中で結論が出ていない」と言われ続けた。地元の図書館に打診すると「借り手の多い最近のベストセラー以外、寄付は受け付けていいません」と言われた。知人の蔵書にベストセラーは1冊とて含まれていない。最後の手段として古本業者を東京から呼んだ。査定はライトバンの貨物室をいっぱいになるほどの段ボール箱の本は「5千円。本当は片づけ代に2万円かかりますがそちらは勉強しておきます」と車体を本の重さで軋ませて、さっさと引き上げたという。

 私の整理は遅々として進まないが身辺整理を始めている。母はもう十数年前、私に言った。「私が死んだら、あの風呂敷包み2つだけを私の遺品として処分して」と部屋の片隅に置いた包みを指差した。きれい好きでいつも家を隅々まで掃除して整理整頓が上手である。妹一家に譲った家の6畳間に母は寝起きしている。布団と仏壇と小さなラジオしかない部屋だ。できれば私もそうしたいと願うが、とても私にはできそうもない。

 私はついに本を整理した。ビニールひもで縛り本の束を作った。知人の大学教授のようにまず地元の図書館に問い合わせた。知人が図書館員に言われたのとまったく同じ答えが返ってきた。私はあきらめない。必ず私の本を活用してくれる人か場所を探す。

 束ねた本から付箋が無数飛び出している。私がメモした箇所を示している。ほとんどの本は私と妻の両方が読んだ。同じ本を読んで感想を語った。同感もあったが受け止め方が違うことも多かった。どちらにせよ二人の会話を盛り上げてくれたことは事実である。幸せと思える二人が生きていることを実感できた時間である。本の山を目の前にして思う。私は金持ちにはなれなかったが、本持ち時間持ちになれた。本がただ“積んドク”だけでなかった。読んだ本から学んだ多くの記憶を呼び戻すことは、老化によってできなくなってきたが、脳の細胞のどこかに記憶は確実に残って沈殿している。私はその貴重であり且つ得体のしれない堆積物と共に宇宙の塵に還る。愉快に思う。それで良いのではないかと私は受け止め、本と別れることができそうだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

残酷、韓国旅客船沈没事故

2014年04月21日 | Weblog

  こんな残酷な事故があるだろうか。いや事件と言ってもよい。家族や関係者が救出を待ち望み待機する珍島から事故現場は目の前である。距離が近すぎる。爆発したわけではない。墜落したのでもない。衝突でもない。時間だけがどんどん過ぎる。見ていられない。私でさえこうなのだから、事故現場を目の前にする家族にしてみたらその悲しみはいかばかりか。

  セウォル号(6825トン)が4月16日に沈没して今現在(4月21日午前5時)117時間が過ぎようとしている。いまだに244名の安否不明者が船内に残されている。私はこの事故のニュースを観ていて怒りを禁じえなかった。船長、3等航海士、操舵士の3人が遺棄致死の疑いと業務過失致死罪で逮捕されたという。そんなことしている場合ではないだろう。今は原因の追究や犯人さがしの場合でないだろう。一分一秒を争う事態である。一人でも多くの乗客を救うことを最優先するべきだろう。歯がゆい。じれったい。首相や大統領が乗客家族や関係者の前に顔を出す時間があるなら他にやることがあるだろう。韓国大統領として国民を救うために世界に救出する方法をなぜ教えてと請えないのか。謝ったり言い訳するのは後でよい。土下座してどうする。土下座するなら救出法を教えてくれと誰にでもいいから頭を下げて教えを請え。何より一人でも多くの乗客を救え。救ってほしい。そのためなら、なりふり構わず時間と戦え。船内に残った乗客は船内放送で残るように指示された。信じて残った。その従順な行動に報いてやれ。

  水は恐怖である。その上、船のように中が細かく区切られた密封状態の構造は、閉所恐怖症でない人だって恐れおののく。水責め。隔離。暗黒。拷問である。飛行機事故、列車事故、自動車事故、火事、台風、地震、津波、爆発事故。一瞬で命を失くすなら私は運命に従う。だがいたぶられるように命を奪われるなら、私は耐えられない。私は臆病で弱く小心である。意識が普通にある中で、酸素が自分の呼吸によって使い果たされながら、迫る死を受け入れることなぞできない。ましてや愛する人々が私の身を案じてすぐ近くに来て私の救出を祈っていてくれたなら、尚更である。気が狂うであろう。泣き叫ぶ親、岸壁で静かに手を合わせて祈る親。私はその人々に自分を重ねる。もしや、自分の子供が、、、と。

  国家間の政治外交での争いは殿上人たちが勝手にやっていればよい。縛りがない自由な民間人は素直に人間としての良心に耳を傾ける。今回の乗客たちに、特に修学旅行の高校生たちに私の心が叫ぶ。「生きてくれ。生き抜け。君の若さで生き残れ」

  沈んだ船に潜り、懸命に救出活動をする500名を超えるダイバーたちがいる。すでに5日が過ぎた。疲れも限界に達しているだろう。体育館で心配のあまり身もだえしつつ待つ家族や関係者の体力も精神力も尽き果てる。

  世界はいかにして敵を攻め殺すかの戦争武器開発にしのぎを削る。海に浮かび2時間かけて沈む船から乗客を救い出すことはできない。潜水艦もイージス艦も乗客ひとり救うことができない。ミサイルや核で何万人何十万人も一瞬で殺せるのに、水深37メートルの海に沈んだ船から244名の安否不明な乗客を救うことができない。

  私はこの事故の原因を今は知りたくない。何故沈没した船から4日も5日もかけてもひとりの命も救えないのか。その原因を知りたい。今はただ生存者が一刻も早く海中の地獄から救出されることを祈るのみ。ゴメンナサイ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ウンメェ~」新タマ新ジャガ

2014年04月17日 | Weblog

  店に新タマネギと新ジャガイモが並ぶ。“新”という字が付かなくてもタマネギもジャガイモも好きだ。“新”とくればもっと好きだ。私のジャガイモ好きは母の天ぷらが始まりだった。天ぷらを揚げる母のそばに立ち、揚げたてのジャガイモの天ぷらを「しょうがない子だね」と言われながら渡してくれるのを待つ。天ぷらなんて滅多に食べられなかった。つまみ食いである。「あふあふ」と大騒ぎして食べた熱いジャガイモの天ぷらは美味かった。

  タマネギは私の子供の頃の記憶にあまりない。食卓で見たことはあまりない。美味いというより珍しかったのだろう。誕生日にしか作ってもらえなかった大大好きなカレーに入っていた。初めて食べたカツ丼の卵をうっすらとまとった豚ロースのカツの下にタレで茶色く染まってシンナリ気味のタマネギが隠れていた。カツ丼は高嶺の花だった。タマネギはそのカツ丼になくてはならない引き立て役だ。私にとって憧れの高級野菜となった。

  高校2年生でカナダの全寮制の高校へ移った。カナダなら厚くでかいビーフステーキを毎日食べられると勝手に思っていた。寮の食堂は来る日も来る日もパンとジャガイモの炭水化物のオンパレード。パンも嫌いではないがジャガイモには敵わない。ジャガイモがあればステーキがなくてもいい。特に昼食によく出たマッシュポテトは美味かった。雇われ学生がオタマで掬ったマッシュポテトを皿に叩きつけるように載せる。皿を捧げ持って次のグレービーソース(肉が入っていないエキスだけの肉汁)係の前に立つ。係はグレービーが入ったオタマでマッシュポテトの塊をグリグリして窪みを作る。火山から溢れだす溶岩のようにグレービーを開け入れる。見ているだけで涎が出る。満面の笑みを浮かべてテーブルに着く。食前の祈りもそこそこに食べ始める。マッシュポテトの山からグレービーを流れ出さないようにフォークを駆使して食べるのがまた楽しい。

  子供の頃、砂場で山や池や堤防を作りバケツで水を崩さないように入れる。終いには結局崩れ、私の砂の建造物は崩壊してしまう。現実なら恐ろしい災害であるが、子供は残酷にも破壊を喜ぶ。そんな幼い頃に戻ってマッシュポテトに舌鼓を打った。周りの生徒は皆、肉の出ない食事に不平不満だったが、私は大満足だった。

  カナダのフライドポテトも好きだった。そしてタマネギを輪切りにしてタマネギの層をバラバラにして輪っかにして天ぷらのように粉で揚げるオニオンリングに出会った。熱々の衣の中で半分溶けかかったタマネギの味は格別である。

  最初の結婚は10年で終わった。その後の13年間はタマネギだジャガイモだのを楽しむこともなく、借金返済と二人の子供への仕送りに明け暮れた。縁あって再婚できた。妻の仕事で12年間海外赴任に同行した。主夫に転業。ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアに暮らした。タマネギもジャガイモもどこの国にもあった。その国その国に美味しいタマネギやジャガイモの食べ方があった。

  妻の母親に結婚する前に「うちの娘は料理も何もできない」と言われた。妻は「ポテトサラダと大根サラダはできるよ」と言った。ポテトと聞いて嬉しかった。昨夜、妻がポテトサラダを作ってくれた。味噌汁の実は新タマネギ。私は「ウンメェ~」と思わず唸った。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シャクナゲが見頃になりました

2014年04月15日 | Weblog

  「シャクナゲが見頃になりました。サンドイッチだけの簡単なランチですが一緒に花見しませんか」のメールに誘われて12日土曜日に友人宅へ行った。妻と歩いて行った。陽の当たる坂道の上に建つ一際目立つ真っ赤な花を咲かせる大きな樹木が見えた。

  数年前の冬に招かれた時「今度このシャクナゲが咲いたら、花見をしましょう」と友人夫妻に言ってもらえた。楽しみにしていた。ところがそれからまもなく奥さんに癌が見つかった。大変な闘病生活を送った。奥さんが少し歩けるようになった。月に数回天気の良い日に夫婦で散歩していた。

  そして今度は旦那さんに癌が見つかった。すでに以前胃癌で手術を受けている。東京の大学病院で新しい癌の手術を受けた。

  二人が門まで迎えに出てきて待っていてくれた。道路から7,8メートル高いところに建坪50坪ぐらいの2階建ての家がある。南東部分の100坪くらいが庭と家庭菜園になっている。花々が咲き乱れていた。地面を征服しようというかのような芝桜。赤、白、黄色のチューリップ。10メートルばかりのコンクリートの小道が英語のアルファベットの“J”の字のようにカーブして玄関に続く。庭の北東部分の一画に高さ3メートルを超すシャクナゲの木がこんもり茂っていた。(写真参照 妻の後ろ姿)青い空を背景に光沢のある濃い緑色の葉を従えて、鮮紅色の花が「私が一番綺麗でしょう」と競うように咲いていた。坂の下から見た時の花木とは違うようだった。

  案内された食堂のガラス戸からもシャクナゲが見えた。テーブルの席も私たちが外を良く見えるようにと気遣ってくれた。私以外の3人は酒豪である。赤ワインで乾杯。近所の美味しいと評判の店から取り寄せたというサンドイッチ。奥さんの手料理が並ぶ。飲んでは見、食べては見、話してはシャクナゲをじっとある時はチラっと見た。どう見ようが美しい。酒に酔い、シャクナゲに酔い、友の気遣いに酔った。普段はグラス1杯で眠くなる私も4,5杯グラスを重ねた。ワインは3本4本と空になる。旦那さんと私の妻だけがまだ最初と同じペースを保つ。私は睡魔と闘いながら薄目を開けてシャクナゲを見る。妻の酔いもいよいよ最終ラインに近づいてきた。3時半を過ぎていた。私はタクシーを呼ぼうとした。妻は激しく止めた。妻のケチの度合いは、酔いと共に上昇する。歩いていく。歩けると言い張る。千鳥足で昼間から町中に「私は昼間から酔っぱらっています」と宣伝したいのか。私は世間体を重んじる。妻は軽視する。

  友人夫妻は、庭でレモンをもいだり、ニラを束ねたり、ハーブを採ったりビニール袋いっぱいにして渡してくれた。フラフラあっちへ行ったり、急に立ち止まったり、揺れ動く妻を制御しながら坂道を下り始めた。友人夫婦はいつまでも二人並んで見送ってくれていた。

  帰宅して、夜、寝る前にお礼のメールを送った。妻は4時過ぎに帰宅してすぐベッドに入った。ぐっすり寝ていた。幸せそうだった。日頃の不眠症が嘘のようだ。アルコールの力か。

  次の朝、返信メールがあった。「おはようございます。また退院したらお会いしましょう。喜んでいただいて良かったです。私たちも感謝しています」 旦那さんは三度めの癌手術を今週末に受ける。鮮紅シャクナゲは、二人の生き様の炎と覚悟、そのものの色である。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『しんがり』 清武英利著 講談社刊

2014年04月11日 | Weblog

『しんがり』(清武英利著 講談社 1800円税別)を一気に読んだ。ズシンと腑に落ちた。

 友達や知人に「読んでみて」と本を紹介されたり、贈られたり、貸してもらうのは私の大きな喜びである。そして読み終わった後、何故その人が私にその本を読ませたかったのか、ガッテンできれば尚嬉しい。私が話せない外国語しか通じない異郷で、突然流暢な日本語で話しかけられたような気持になる。同じ言葉で意思疎通ができる安心は、日頃考えていたり感じていることが似通っていると共鳴するのに近い。今回紹介された『しんがり』はそんな本だった。

 私は組織で働いた経験が少ない。少ないけれど組織に対する警戒心は強い。高校生時代、カナダに留学するための準備ということで軽井沢のアメリカ人宣教師の運営する聖書学校で英語を学んだ。宗教関係の組織ではあったが、そこには人間が持つ差別、矛盾、打算、保身、高慢、追従、いじめ、裏切りなどの感情がもつれ絡み合っていた。今考えればオウム真理教のサティアンのようなところだったと思う。口でどんなに清廉潔白と神聖なる偉大なる存在を唱えても、実生活でそれが豊かに反映されていなければ虚しい。学校以外の組織に身をおいた初めての組織が私の組織への偏見を形成した。私は66歳になった今でも組織に恐怖感を持っている。この本を読んで更にそう思う。反面、組織の中にも勇気を持って毅然と事実を調査分析して責任を取ろうとする組織の人々がいることに思いもかけぬ感動を覚えた。胸が熱くなった。

 『しんがり』は1997年に破たんした山一証券の清算業務を成し遂げた12人の物語である。この本を読みながら書き出したメモである。

①    「事実を知ることは、寂しいものだ」と嘉本は思う。事実は頑固者で、調査するものをじっと待ち受けているが、出会ったところで歴史は後戻りしない。暴走営業の末に会社は崩壊し、元首脳たちは会社が消滅したからこそ、ようやく口を開いた。250ページ

②    嘉本はいつものように録音機を使わなかった。その人が本当に語ったことでも、その言葉が必ずしも真意であるとは限らない。口から出たそのことよりも、その人が本当に言わんとすることのほうが大事だ。真意を聞き出すことこそが自分たちのヒアリングなのだ。 255ページ

③    会社という組織をどうしようもない怪物に喩える人は多い。しかし会社を怪物にしてしまうのは、トップであると同時に、そのトップに抵抗しない役員たちなのである。262ページ

④    ―――たぶん、会社という組織には馬鹿な人間も必要なのだ。いまさら調査しても、会社は生き返るわけではない。訴えられそうな時に、一文の得にもならない事実解明と公表を土日返上、無制限残業で続けるなど、賢い人間から見れば、馬鹿の見本だろう。しかし、そういう馬鹿がいなければ、会社の最期は締まらないのだ。 267ページ

  馬鹿バンザイ。この本を理研の調査委員会の委員の方々に読んで欲しいと強く願う。著者の清武さんは元読売巨人軍球団代表である。行間に清武さんの解任追放劇の真相説明が見え隠れする。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ズバッ、シュッ、トントントン、スーッ」包丁が戻った

2014年04月09日 | Weblog

  20年以上使ってきた“有次”の菜切り包丁の木製の取っ手が腐って刃がグラグラするようになった。ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアと妻の転勤のたびに移り住んだ国々に日本の有次の包丁一式を持ちこんだ。包丁で有名な産地はドイツのゾーリンゲン、英国のセフィーロ、日本の関と言われている。有次がどこで作られているかは知らない。移り住んだ国々で私の包丁セットは現地で食事に招いた人々に賞賛された。愛着以上の感情が育った。大事に使い、砥石で研いで手入れも怠らなかった。
 
 
東京の築地市場の場外商店街にある“有次”に修理できるか電話で尋ねた。「現物を見なければ、わからないので送ってみて。だめなら返送するから。修理できれば1ヶ月ぐらい時間みておいて」と言われた。2万円くらい出せば、新品のピカピカな包丁が買える。迷わず修理することにした。

  料理の大半は手で行う。
私の手は多くの道具を使い分ける。自分の手が最高の道具だと私は思っている。次に手ができない作業、切る、うろこを落とす、沸騰する湯の中から食材を取り出すなどは道具を必要とする。道具で大切なのは、手になじみ、手に代わって作業を違和感なく進めることできることだ。道具は多種多様である。私はたくさんの道具を持っている。しかしその中で愛着が湧くほど使い込んでいるものは少ない。

 有次の菜切り包丁は私が愛着と絶対的信頼を持つ道具である。その切れ味は「スパッ、ズバッ、シュパッ、トントントン、スーッ」である。いいことばかりの思い出だけではない。包丁で怪我をして救急車で運ばれたこともある。手を滑らせて包丁をヒザに落として深く切ってしまった。糖尿病治療のために血が固まりにくい薬を服用していた。出血すると血が止まりにくい。あまりの出血に気を失いかけた。指を切ったことなど数知れない。それでもこの包丁の使用を諦めることはなかった。帰国後は数年ごとに築地の有次へプロに研いでもらうために出かけた。リュックやカバンに包丁を入れて電車に乗った。もし警察官に職務質問されたらとビクビクだった。何かの拍子に背中や肩から下げたカバンの中に刃物の存在を感じると自分が逃げる犯罪者になったかのような妄想に囚われた。築地の有次で研いでもらった後の帰路、妄想は頂点に達した。

  和食がユネスコの無形文化遺産に2013年12月に登録が決定した。和食といえば食べ物に目がいってしまう。和食を支えているのは、板前や調理人だけではない。食材の生産者調理道具の生産者など多くの人々の貢献がある。日本の包丁は外国人にも大人気だ。築地の有次の若主人は「日によっては日本人の客より外国人客のほうが多い日がある。日本人より高価な包丁を買ってくれる」とご満悦だった。私も外国人客が3万円の出刃包丁を買うのを目撃した。

  有次の20年以上も使い続けている包丁が代引き宅急便で届けられた。代引きの手数料込みで4400円だった。新聞紙に幾重にも包まれた研ぎ過ぎて少しちびてきている私のお気に入りの包丁が出てきた。(写真参照)人をも傷つけられる、場合によっては命さえ奪う包丁だが、新しい取っ手をまとい、まるで体の一部であるかのように優しく私の手に戻った。新しい柄をギュッと握る。喜びが静かに静かに湧いてきた。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元気印、児野楓花選手に魅せられて

2014年04月07日 | Weblog

  4月5日土曜日朝8時コスタリカのサンホセでU17女子サッカーワールドカップ決勝戦が始まった。妻は土曜出勤で留守だった。相手はスペイン代表。普段のテレビ番組の多くは観るに堪えられないくだらないものばかりである。テレビ界は魑魅魍魎の輩に乗っ取られた感がある。そんな中、真剣勝負のスポーツ中継が私にとって、一服の清涼剤となる。

 8時30分からはNHK総合で田中将大投手が大リーグ初の公式戦に登板する。迷った。どちらを観ようかと。U17女子サッカーを観戦することに決めた。勝てば世界一となる。ここで応援しなければ、後悔する。田中将大投手が投げるのはこれからも観られる。

 試合に私のお目当ての選手、13番の児野楓花選手は先発出場していなかった。以前児野楓花選手が出場した試合を観て、私は児野選手に将来性のある選手だと注目した。この選手とにかくサッカーが好きで好きでたまらないと全身で表しながらグランドを動き回る。日本代表チームの中で身長が一番低く153センチしかない。そんなことをもろともせず動き回る。それでもきっと出番がくると待ちつつ日本チームを応援した。前半は1対0で日本がリード。日本の出場選手全員の動きが良く、私は観ていてイラついたりもしやと弱気になることもなかった。

 そして後半戦、選手交代で児野選手に出番が来た。俄然私の応援にも熱が入った。スペイン選手が執拗に児野選手の動きを封じようとする。レスリングのような格闘技なみの当たりである。特にガルシア選手は両手を後ろにそらせて、胸で児野選手に体当たりした。弾き飛ばされても巧みに好位置を守ろうと児野選手はバネのように体を跳ね戻す。味方のコーナーキックをシュートに持ち込もうとスペイン選手との場所取りは激しさを増す。とうとう審判はスペイン選手にイエローカードを出すほどのつばぜり合いにも児野選手は果敢にひるまず対抗した。凄い。私は児野選手の視線に注目した。ボールそして相手デフェンス選手の動きを追う目は狩人の目である。サッカー選手に求められるのは、360度に展開する俯瞰図のような構図の中で敵味方双方の動きを瞬時に見抜けるかどうかだと言われる。児野選手は後半33分、遂にその瞬間を捉えた。ゴールキーパーと1対1になる好位置を取り、狙い定めて右足内側でボールをゴールに打ち込んだ。ゴールを決めた後、拳を握り両腕をくの字に曲げて引き寄せた。そのしぐさに心奪われた。感情をあまり顔や動作に出さない高倉監督もこの時ばかりは満面の笑顔とガッツポーズで喜びを表した。そして試合終了。表彰式で紙吹雪舞う中、日本チームは優勝杯を囲んだ。

 これほどの快感があるだろうか。身長が低い。スタミナがない。顔が平たい。鼻が低い。足が太い。顔がでかい。目が細い。散々に日本人は身体的な劣性をあげつらわれる。これらは、皆どうしようもないことだ。本人が、どうすることもできない事で他人を責めるな、と中学生の時小林先生から教わった。海外で学び海外で暮らし、ニッポン人として差別され馬鹿にされた経験が多々ある。だからこそ身体的劣性をモノともせずに活躍する姿に感動する。世界屈指のサッカー選手FCバロセロナのメッシだって身長169センチと小柄である。見た目や外見だけに影響されずに結果で評価したいものである。私がこれだけ大騒ぎ大喜びしても日本のマスコミの報道は、この優勝に関してあまりにも少ない。私は変わり者なのか?そうだとしても、これからも日本のスポーツチーム、選手と児野楓花選手の活躍に期待し応援してゆきたい。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陸中野田で見た壁の津波到達線

2014年04月03日 | Weblog

  4月3日午前3時に津波注意報が発令された。最大1メートルの津波が日本の太平洋側に到達すると言われている。現在午前6時02分。未だに津波到達は報告されていない。

 今回の津波は南米チリで日本時間2日午前8時46分に起こったM.8.2の地震による。1万6千キロの彼方から押し寄せる。概算で時速500キロになる。その速度に驚かされる。

 6年前に東北出身の友人と岩手県陸中野田村の友人の親戚を訪ねたことがある。3年前の3.11東日本大地震で友人の親戚宅は津波で倒壊。親戚の家族が犠牲になられた。忘れもしない。そこの家のご主人の奥さんが「昭和35年(1960年5月26日)のチリ地震で、ここまで津波が来たんですよ」と壁に残された横にのびたぼんやりした線を爪先立ちで背伸びして指し示した。身長140センチくらいの70歳ぐらいの婦人だった。津波の到達点は私の身長を越していた。戦慄を覚えた。今でもその壁にあった津波の痕跡をはっきり思い出すことができる。あの家は3.11の津波で跡形もなく消えた。家族まで奪った。私が訪ねた時見たあの線をはるかに超えた大津波だったことになる。2メートルあまりの津波によって残されたあの壁の線を越えている。妄想が心胆を寒からしめた。3月11日テレビで津波が人間を、人間がつくったものをことごとく襲い破壊する実際を観た。陸中野田で見た壁の津波到達線が何度も浮かんでは消えた。結局3.11以降、数か月間茫然自失状態になってしまい部屋にこもってテレビを観続けるだけだった。

 7時23分陸中野田村の隣の久慈市の久慈港で30センチの津波が観測された。予報よりだいぶ遅い到達である。ただただ被害がでないことを祈るしかない。

 いつも津波予報で不思議に思うことがある。今回の津波も太平洋を横断して押し寄せている。予報は陸上の観測所からの報告が中心のようだ。太平洋上には多くの船舶が往来している。それなのに津波に関する情報が船舶からいうものがない。船舶は常に波の揺れの中にいるので津波と自然の波の区別がつかないのだろうか。以前テレビの番組で日本近海の海底に津波や地震の観測器を沈めてそれをケーブルで接続して万全の観測網をつくるという計画が着々と進んでいると紹介された。今回の津波には間に合わなかったようだ。ただ素人の私だが、航海中の船舶で津波を観測できないものかと考える。魚群探知機、無線、レーダーなど日本の多くの漁船や船舶には、電子機器が装備されている。海を行き交う船舶に津波を観測できる簡易装置をつけ、逐一情報を集めて津波観測ができれば役に立つのではないだろうか。

 今回、津波の到達が午前6時頃と予想されていたので、5時からテレビをつけ心配して見守っていた。報道では太平洋の船舶からの報告は一切なかった。世界中で多くの船舶が交易のため行き来している。今の科学技術をもってすれば、観測装置はもちろん、その情報を集約分析して寸時に正確で防災と人命救助に役立つ情報を集約分析できるシステムを立ち上げることができるに違いない。関係各位のさらなる研究に期待する。

 午前8時8分現在、チリ地震による津波の被害は幸いにしてない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜満開、セコイア芽吹く

2014年04月01日 | Weblog

  私が一番好きな桜の景色は、住む集合住宅の地下駐車場の出入り口から見えるものである。(写真参照)出入り口には自動シャッターが装備されている。車の中から遠隔操作できる。シャッターといっても格子状に細いパイプで作られているので、明かりが遮断されない。車が通過できるまでゆっくり車内から一幅の絵画や写真のように四季折々の景色を楽しむ。

 このシャッター防犯(事件発生時犯人逃走を遅らせるためなど)と安全(子供の挟み込みや人の巻き込み防止など)のために開閉速度が遅く設定されている。かつて集合住宅の管理組合理事会で地震の際速やかに車で避難できるように駐車場のシャッターを開け放しにしておくと告知された。私たちと一部住民は猛烈に反対した。何とか開け放しは回避された。

  桜の季節になると子供や孫や友人を招いて自宅の窓から花見をしようと思い始めてすでに9年が過ぎた。何故実現しないのか。桜の咲き方に問題がある。見頃の判定が難しい。加えて子供たちは土日祭日しか来られない。友人知人も退職した人が多いと言ってもまだそれぞれ忙しい。日記で過去の桜の開花日満開の日を調べてもバラバラで特定できない。かくして我が家でのお花見は私たち夫婦だけとなる。モッタイナイことだ。

 我が家は北向きの山の斜面のふもとにある。冬は約2か月間直射日光が当たることはない。冬は確かに寒々としている。冬を乗り越えた褒美は春の桜である。そして集合住宅の北側に植えられた12本のセコイアが黄緑色の芽吹きを始める。山々は緑を増し、やがて全山緑の色見本のパレットになる。

  川の流れが発生するオゾン、山の草木が吐き出す光合成で生産された酸素。優しい風がそれらを撹拌して運んでくれる。家の前を流れる川の音も慣れると心地よい。山側から川側から時間によって交互に風が、家の中を通り抜ける。夏はおかげで窓を開け放しにすれば、エアコンを作動させなくてもすごせる。心臓を病む私には夏も冬も快適な自然環境だ。

  この家に住んですでに10年の年月が過ぎようとしている。反射神経も鈍くなり、体の各所の動きも遅く、バランス感覚も悪くなる一方、不思議に時間の経過だけが速度を上げてきた。四季の変化が速い。速すぎる。時々その速さが怖くなる。そんな不安を和らげてくれるのが、日本の桜である。

  中国や韓国がどんなに日本憎しと叩いても、かつてオーストラリアの原住民を銃で狩りの対象として撃ち殺した移民がクジラが可哀そうだとオランダのハーグの国際司法裁判所に訴えて日本の調査捕鯨を禁止させても、日本政府がよりにもよって桜の季節に消費税を5%から8%に上げても、日本人の多くは、ほんの数日の桜の開花に吸い込まれ世上から解放される。

  桜が満開になった。桜は愛でる人を黙らせ、心を空っぽにしてくれる。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする