団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

あれはイケナイ、これもダメ

2008年02月27日 | Weblog
 糖尿病は発症したら完治することはない。自分の欲との闘いが続く。今から20年ほど前、糖尿病の教育入院という、糖尿病と発症後どう付き合っていけばよいのか教えてくれる入院をした。糖尿病になったと診断を受けた人は、まず何よりも最初にこの教育入院を受けることをお勧めする。

 その入院研修で40歳ぐらいの男性が最初の日の夜、すべてのプログラムを終えた後、「あれはイケネエー、これはダメ。ふざけるんじゃねえよ。やっていられるかってんだ。俺は喰いてえモノ喰って、飲みてえモノ飲んで死んでいく。あばよ」と荷物をまとめて病室から出て行った。

 それも生き方だと思う。糖尿病という爆弾を抱えて、それでも尚共生しながら生きるのも生き方だ。私は後者を選んだ。発症してすでに20年である。合併症で狭心症になり心臓バイパス手術を2001年に受けた。それでも今なおインシュリンの注射をすることなくきている。人工透析も受けていない。 運動療法と食事療法を実践している。一日の摂取カロリーは1800カロリーに制限している。

 主夫となり自分で調理する。妻は私と同じ食事を喜んで食べている。健康食のおかげで、丈夫な妻はさらにスリムで健康だ。同じ食事でなぜなのだろう。 私は根っからの食いしん坊だ。食べ物に好き嫌いがない。お呼ばれが大好きで、出る料理は、常に“完食”させていただいている。モッタイナイが口癖で、残すことを善しとしない。もっともっとの欲深人生まっしぐらで今日まできた。

 教育入院後、算数も数学もからきしダメだった私が、すばやくカロリー計算をするようになった。以前は足し算ばかりの食生活が、引き算中心に変わった。 たとえばお昼に大好物のカツ丼を食べるとする。カツ丼はだいたい770カロリーである。1800-770=1030となる。食後にあんみつを食べるとこれが250カロリー。コーヒーはミルクと砂糖を入れて40カロリー。1030-290=740 これで朝食と夕食をとるとすれば一食370カロリーずつ。食べられるものが無くなる。こんな風に計算している。

 それでも欲に惨敗し1日に3000カロリーを超える日もある。焼肉など食べてビールを飲めば、間違いなく5000カロリーを越す。だから外食は極力避け、家で野菜、コンニャク、海草、キノコ、さかな中心の献立を組む。今回の旅行中、ハワイのスーパーでしみじみ日本に暮らせることに感謝した。ハワイでは1800カロリーを一日の制限にはとてもできないと思った。それとあまりにも並んでいる商品に高カロリーなものが多い。新鮮な海産物がなく、牛肉、豚肉などの肉製品ばかりだった。おまけに日本よりずっと安い。 

 “命短し、食べろよ乙女!”そんな替え歌を歌いながら、今日もほうれん草のおひたしを作る。若かった頃の、あの暴食ともいえる無制限な食欲が、まるで前世の出来事のように思える。

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現地集合、現地解散

2008年02月22日 | Weblog

「言っちゃあ何だけれど、あいつのやり方は・・・」 「それにさ、まったく気がつかないあの鈍感さ」
「鈍感力なんて、通り越してる!」
 
「そうそう、あいつはそういう奴なんだ」 
 私が乗り合わせた電車の中、ボックス席でビールを飲みながら年配男性4人組がペチャクチャやかましい。窓のふちにはすでに7本のビールの空き缶が並んでいる。

 突然、その前のボックス席に座っていた、24、5歳の男性が立ち上がり、くるっと振りかえるとボックス席の4人組に「少しは静かにできないのか!いい歳こいて恥ずかしくねえのか。ええ」と言い放った。

 おそらく電車の乗客のほとんどが、若者と同じ意見にまとまっていたと思われる。私を筆頭にみなの顔にはっきり「そうだ。そうだ」の賛同の表情が浮かんでいた。シュンとする4人組。私は一瞬4人組が反撃に打って出ると思った。なにせキレル中年以上の男性も多いご時世だ。車内に静けさが戻った。私も「やれやれ」と読みかけていた本に視線を戻した。 

 最近よくこのようなグループを見かける。日本は公共交通機関が発達している。特に鉄道は日本国中、網の目のように張り巡らされている。あちこち出かけるには、本当に便利な国である。

 車社会と言われるアメリカなどでは、何かの集まりがあると、現地集合、現地解散が普通である。確かにメリハリがついて、会合や出会いは盛り上がる。車だと酒を車内で飲むことは、普通ない。

 その点仲良しクラブのようなノリで、とかく群れたがるのが日本人である。帰る方向が同じなら、無理してでも付き合いと割り切って、一緒に居ようとする。そこで酒を飲む。外国ではあまり見ない光景だった。禁煙には殊の外うるさいが、酒に寛容だ。JRをはじめとした公共鉄道会社は、車内販売、施設内の売店でタバコを売らないが、酒を売るのは許している。

 日本では集まる時、自分の家に人を招くのではなく、外で会うことが多い。 私は自分の家に人を招くのが好きで、よく集まりをひらく。ところが招かれることはほとんどない。ここが中々興味深い。外では仲良しクラブよろしくつるんでも、家は聖域のように家族以外を入れようとしない。電車や観光地、行楽地で出会うグループの多くは、このパターンなのだろう。家の外ではとことん付き合う。でも家は家族だけ。

 こうして群れを観察すると、外での付き合いのよさの理由が見えてくる気がする。 どちらが良いかは私にはわからない。しかし“お呼ばれ好きな”私個人としては、現地集合、現地解散ができる個人宅への“お呼ばれ”を好む。 

 団塊世代の退職で、これからますます熟年者の群れは、外に出てくると思われる。若者たちに「うるせえな~。歳を考えろよ」と言われないようにしたい。現地集合、現地解散なら、そんな心配をしなくて済みそうだと思うのだが。


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再会⑥

2008年02月21日 | Weblog
 妻は2日目から、私も驚くほど英語耳になっていた。もちろんミセス・ツジのゆっくり穏やかな話し方のおかげもあるだろう。それと私たちの聞き逃すまいという気持ちも強かった。いつしか妻と私の会話も英語になっていた。 

 外から車の音も電車の音も、何も聞こえない。テレビも見ない。ステレオもない。静かに静かにハワイの夜は更けてゆく。皆が心の底にあることを語る。そんな毎日。起きて、話して、食べて、料理して、お茶を飲み、寝るまでまた話す。 時間の経つのは早い。特に充実した中身のある時間は、またたくまに過ぎ去る。私は朝食、昼食、夕食15回、気持ちを込めて調理した。どうしても私達に食べてもらいたいとミセス・ツジが2回ハワイ料理を作ってくれた。外食は到着した日のお昼だけだった。 

 とうとう最後の朝が来た。ミセス・ツジはシアトルからたくさんの小瓶に油、醤油などの調味料を入れて持ってきている。5人の子供プラス私の娘を育てた母である。モッタイナイ精神が凄い。これから2週間、ハワイ最北端のカウアイ島の友人のコンドミニウムで過ごす。私が日本から持ってきた食材を持っていって、友人夫婦に日本料理を作ってあげたいと言う。私は残った食材をジップロックに入れ、その使い方をメモして添えた。 

 ミセス・ツジの荷物の梱包を手伝う。私たち二人の荷物よりはるかに多い。たくましい、というか、そのあくなき生命力に圧倒される。付き添いもなく独力で生きている。覚悟のできている人間の強さを感じる。5人の子供がいて、だれもが一緒に住もう、と声をかける。頑として一人で住む。家の中を整理しようと始めても、ひとつひとつの品を手にして、ミスターツジとの思い出にふけってしまう。まだ何も片付かないと笑う。

 大きな旅行用ゴルフバッグの隙間と言う隙間につめる込めるだけ詰め込み、大きなキャリー付きの旅行バッグもパンパンになった。 

 別れはあっけないものだった。私は空港の出発ロビー前に車を止めた。幸い私たちの出発便とミセス・ツジの便とは、ロビーが隣り合わせだった。私はレンタカーを帰しに行かなければならない。荷物を降ろした。何を言ってよいのか戸惑う私をミセス・ツジが抱きしめる。「ジュニチ、ありがとう。楽しかった。美味しかった。たくさん話せてよかった。今度は天国で会いましょう。キョウコと良い人生を!」 

 後を妻に託して私は、警察官の早く車を動かしなさいの警告の笛に従う。レンタカーの返却所は空港から少し離れている。「天国で」と言われても私には信仰がない。永遠の別れに思えた。 

 空港へのレンタカー会社の送迎バスが出発ロビーに到着する。妻が「ミセス・ツジ、ギリギリまで待っていたけれど、中に入った」と涙ぐむ。「会えてよかったね」 しばらくして真っ青な空に、ハワイアン航空のジェット機が轟音と共に飛び立っていった。
「さようなら、ミセス・ツジ」(完)

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再会⑤

2008年02月20日 | Weblog
 ミセス・ツジと話しておかなければ、聞いておかなければならないことは、たくさんあった。ずっと聞こうと思っていても聞けずにいたことである。

 私はツジ夫妻がどういう思い、理由で私の娘を預かって育ててくれたのかの経緯を、どうしても知りたかった。それに対しては、予期したこともない意外な答えが返ってきた。

 ツジ夫妻は私に私の娘を預かって育ててくれと要請された時、それは無理だと断るつもりでいた。5人の子供と夫婦で7人家族。トイレは一つしかなく、毎朝争奪戦はすさまじい。そんなところへ日本から英語もわからない8歳の女の子が来ても暮らしていけるわけもない。自分の子供さえ育てるのに四苦八苦している。

 一応家族会議を開いて、子供たちに状況を説明し、意見を求めた。5人の子供たち全員が「引き取って一緒に暮らすべきだ」と言った。「トイレはどうするの?」の両親の問いに「そんなこと問題ではない」と答える5人の子供たち。ツジ夫妻も同意し受け入れを決めた。ただし16歳までが条件。

 こうして私の娘は、彼女が通っていた小学校の先生が「真っ赤な絵を描くのは、心理的に危険な兆候」と訴えてから、わずか半年で渡米が決まった。

 親としてあまりにも無責任で丸投げ的な方法だった、今は冷静さを取り戻しているのでそう言える。あの時は、一家心中を考える程、追い詰められていた。

 ツジ夫妻が案じたとおり、朝のトイレの争奪戦は激しさを増した。けれども洗面の前の大きな鏡の前で女の子5人が並んで、身支度を整えるのを見て、やはり子供たちの言うことを聞いて良かった、と何度も思ったそうだ。

 言葉を荒げて喧嘩をすることもなく、4人の年上のお姉さんたちは、実に見事にそれぞれがお姉さんぶりを発揮した。一人だけの男の子も兄のように私の娘を可愛がり、いろいろ助けの手を差し伸べた。 

 学校ではそれぞれ優秀な5人の影響で、私の娘は、9月の新学期が始まる前、英語を3箇月で会話に不自由しないところまで上達させた。私の娘の宿題と家庭での英語学習は、ミセス・ツジと5人の子供たちが交代でみてくれた。休日にはミスターツジまでが個人指導してくれた。こうして一挙に5人の姉と弟とダディ、マミーのおかげで傷ついた私の娘は、徐々に再生されていった。

 もう2度と真っ赤な絵を描くこともなくなった。皆の愛情を一身に受け、客人としてではなく、家族として迎え入れられた。その様子をミスターツジは、私がクリスマスプレゼントに贈ったソニーのビデオカメラで撮り、編集して私に送ってくれた。

 私の息子は全寮制の高校へ行き、私は一人になり、自宅を売って、市営住宅に移り、毎月の仕送りに明け暮れていた。子供たちが何とかまともに育って欲しい、の一心だった。

 あの頃、私の娘は毎朝のトイレ戦争の中でもまれ、たくましく生き、経験したこともない大家族の愛情に包まれていた。

 月日が経ち、私はどん底のような生活から立ち上がり、隣に座り、真剣にミセス・ツジから私の娘の話を私と同じ目線で聞いてくれる妻と出会った。捨てる神あれば、拾う神あり。人と人の出会いは、その人たちの人生を形作るそのものだと強く思う。もし会うことができなかったら・・・
(写真:コンドミニウムの裏庭の放し飼いの七面鳥)

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オーロラ

2008年02月19日 | Weblog

 城山三郎著『そうか、もう君はいないのか』の中にこんなくだりがある。
“そして、どれほどの時間が経ったであろうか。足音をしのばせるように、スチュワーデスが巡回してきて、小声で教えてくれた。「お客さま、窓の下にオーロラが出ています」窓のシェードを開けた私は、慌てて容子を起こした。読書灯も消し、夫婦が顔をぶつけんばかりにして、下を見た。二人とも声が出なかった。この世の物とは思えぬほど、美しく巨大な光の舞い。色と輝きを刻々変えながら、空いっぱいにのびやかに、光の幕はゆれ動き、舞い続ける。それもふと伸ばした手が届いてしまうような距離で。まるで私たち夫婦のためにのみ、天が演じてくれている。私たちは手を握り合い、夫婦で旅してよかったと、あらためて胸をあつくした。”  

 城山三郎は奥さんの容子さんと一緒に、アラスカのフェアバンクスへオーロラを見るためにわざわざ出かけた。よく調べることもなく、白夜の季節に行ってしまった。1週間滞在したが、オーロラを見ることはできなかった。容子さんは、天真爛漫な方で、そんな夫をなじることもなく「あら、そうだったの。残念ね」と気にもしなかったそうだ。それから2、3年後ヨーロッパからの帰りの便で、上記のオーロラを見たという。 

 私はカナダのアルバータ州の学校へ留学した。まだ十代だった。ある日寮長が「今夜、オーロラが出るようです。見たい生徒は12時に一階の玄関に暖かい服装で集合しなさい」と全館放送でアナウンスした。私は毛布を3枚マントのように体に巻きつけて約20名の生徒と丘の上に立った。

 それはきれいだった。寒さも忘れた。その時思った。誰かに結婚をプロポーズする時は、オーロラが出ている晩にしようと。そうすればきっとどんな相手でも承諾してくれるだろう。私は離婚し、12年ヤモメ暮らしして再婚する時、妻とオーロラを見に行くことを誓った。結婚プロポーズは、妻がイギリス留学していて、お互い離れ離れだった。結婚式にもオーロラ見物旅行は、間に合わなかった。結婚初夜に私は「君に必ずオーロラを見せる」と言った。まだ見に行っていない。 

 今回のハワイ行きで、ミセス・ツジの思い出話しの中に、私と1年間重なったカナダの学校で3回オーロラを見た話しがあった。妻が言った。「まだオーロラ見に連れて行ってくれてないね。長生きしてね」 妻はまだ忘れていない。ミセス・ツジはオーロラを見た時、「神様はいる」と実感したそうだ。「天国はああいう所だ」と思ったという。そうかも知れない。そうだと良いと思う。 

 「きれいだね」「美味しいね」「楽しいね」「ありがとう」「ごめんね」これからも私は妻とこう連発できる生活を心がけたい。そのためにもオーロラの約束は果たさなければと思っている。


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再会④

2008年02月18日 | Weblog

 今回ミセス・ツジから聞いた話のひとつだ。

 ある日、日本からシアトルの私の娘宛に、小包が送られてきた。ミセス・ツジが私の娘に誰が小包を送ってきたか尋ねた。私の娘は「私のおじいちゃんの娘さんから」と答えた。ミセス・ツジは「それってあなたのお母さんのこと?」と聞き直した。娘は黙って首を縦に振った。ミセス・ツジは「なぜお母さんと呼ばないの?」と尋ねた。「彼女は私を捨てたから」と言ったそうだ。 

 私の育て方、教え方が間違っていたのだろう。それを聞いた時、私はそう強く感じた。私は娘に申し訳ないと思った。私の娘の心に癒せぬ深い傷をおわせていた。 

 ミセス・ツジは私の娘に「どんな理由があっても、絶対に母親を怨んではいけない」ことを解ってもらおうと願い、懇懇と諭したという。私の娘には言ってないがそれはミセス・ツジ自身への語りかけだったと言う。自分の母親に対して、母親の夫、つまりミセス・ツジのお父さん、そして4人の子供たちに対して決して良い妻でも母親でもなかった、とミセス・ツジは思っていた。

 2007年、92歳で他界したミセス・ツジの母親は、死の直前、「私はあなたにとって良い母親でなかった」と言って息を引き取ったそうだ。母親は日系人の婦人団体で活動し、遂にはアメリカ政府に日系人を戦時中収容所に監禁したことに対して、謝罪と賠償金の支払いを求め、勝訴した。おそらくその活動は家庭を犠牲にして行われたのは想像に難くない。幼いミセス・ツジは、両親が大声でお互い責め口論する姿を見るたびに、洋服ダンスに隠れ、クレヨンでタンスのうち壁に『I hate my mother!』(私はお母さんを憎む)と書きなぐったという。自分の母親を反面教師に、自分は夫と子供たちにとって彼らが望む存在になろうと生きてきた。失敗も失望も挫折も味わった。そのたびに心の中で、『I hate my mother』の過去を消そうと立ち上がった。 

 私の娘がツジ家でお世話になった期間、一度としてツジ夫妻が声を荒げたり、怒ったのを見たことない、と私の娘が言った。私は短気の見本のような人間だ。信じられないことだった。年齢と共に夫妻は信仰を深め、問題はすべて声に出して祈ることで乗り越えてきたという。 

 私の娘の小包事件以来、私の娘は、ミセス・ツジを他の実の子供たちと同じく『マミー』と呼ぶようになった。ミスターツジを『ダディ』。私を『パパ』。妻を『お母さん』。実の母を『?』。現在、私の娘は実の母親とも会っているらしい。私はそれは私の娘の自由だと思っている。内心、もやもやはないとは言えないが、私が何かを言えることではない。ただミセス・ツジのおかげで私の娘が、私をも、娘の実の母親をも許していてくれるのなら、それ以上のことは望むべくもない。それにしても私の罪はあまりにも深い。

(写真:ハワイのストロベリーパパイヤ)。


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再会③

2008年02月17日 | Weblog
 ミセス・ツジがゴルフの予約を月曜日から金曜日までの5日間取ってあると言う。私たちは、今回ハワイでゴルフをしないと決めてあった。あえてゴルフ道具は持ってこなかった。

 2月4日12時に宿を出て、私が運転してクラブハウスに向かった。私たちが滞在しているリゾートクラブが経営しているゴルフコースで料金は会員20ドル(2120円)ゲスト25ドル(2650円)である。カート(電池式2人乗り自動車)込みの値段。必ず4人で組をつくりスタートする。妻とミセス・ツジが一台のカートに乗り、チャックとボブがもう一台のカートに乗り、私は歩いて彼らについて行った。

 プレイしながらミセス・ツジは、今回私たちを招いてくれたのは、1999年まだミスターツジが元気な頃、私がユーゴスラビアからハワイで夫妻と合流してゴルフを楽しんだ時、私が妻と今度来たいと言っていたことを覚えていたからだと言う。それにしてもミセス・ツジの体のことを思うとハラハラ、ドキドキのスタートだった。 以前と違ってミセス・ツジは軽く打っている。肩をかばっている。距離は飛ばないが、正確にフェアウエイをキープする正攻法でスコアは出ないが、彼女なりに楽しんでプレイしていた。

 妻は気を遣い、スピーディなプレイをしようと駆け足。ボブもチャックも実にのんびりプレイする。問題は12番ホールで起きた。急にトイレに行きたいとミセス・ツジが言い出した。すでにトイレのあるホールは通過していて、近くにトイレはなかった。カートを運転して道路に出て、近くのガソリンスタンドのトイレに行くよう、ボブが進言した。私たちはそのまま進んだ。しばらくしてミセス・ツジは戻り、プレイを続けた。14番ホールで再びミセス・ツジはトイレに行きたいと言い、クラブハウスまで行くとカートでコースを外れた。私は妻と話してプレイをやめて宿舎に戻ろうことを決めた。ミセス・ツジは戻ると、頑として途中でプレイを放棄することを拒んだ。妻の話では放射線治療を受けるとよくある症状だという。放射線は患部だけに照射することは不可能で、まわりの健康な部所にまで影響を及ぼす。ボブはシカゴの病院の理事長だという。あの治療を受ければ当たり前のことと理解し、プレイが遅くなってもまったく気にしていない。チャックは自分のボールの飛距離とボブのボールとの差ばかり気にしている。こんなにゆっくりプレイしていたら日本のゴルフ場なら追い出されるだろう。

 このゴルフ場は退職した老人が多く、80代の人でものんびりプレイしている。私も妻もただただ驚いて、どうしてよいのか判断がつかなかった。私たちはすっかり日本というシステムの中で、日本時間によって振り回されている。このハワイのゴルフ場では、老人たちがマイ ペースでだれに憚ることもなく、自分たちのプレイを満喫している。老後どう過ごすかが、日本ではいろいろ議論されている。日本にもゴルフを夫婦で楽しみたいという人もたくさんいる。ミセス・ツジのように大病を患いながら、たった一人で余生を自分なりの計画に従って楽しんでいる人が日本にはいるだろうか。まず日本では、老人が公のゴルフ場で他のプレイヤーの邪魔になるようなことは許されず、ただ老人は家に引っ込んでいろ、で片付けられてしまうだろう。

 余生を送る方法としての老人対策を考えた。日本にこんなゴルフ場ができる日がくるのだろうか。私の母も妻の母もただ家に、こもる日が多い。ミセス・ツジの状態で公の場に出て、公も理解を持って受け入れる。同じゴルフ場で、午前中は全米大学対抗ゴルフ大会が40大学の参加で行われている。このゴルフ場は決して老人専用のゴルフ場ではない。ミセス・ツジの生き様に、アメリカの鷹揚さに圧倒された一日だった。(続) 
(写真:ゴルフ場)

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再会②

2008年02月16日 | Weblog
 私は飛行機の中でとうとう一睡もできなかった。なぜなら見たいと思っていた映画が、それも日本での封切りがまだされていない映画がずらっと用意されていたからだ。私はがんばって3本半観てしまった。自分の節操のなさにあきれる。 

 3人で宿泊先に到着してから、まず荷物の整理をした。娘から預かってきたおみやげもミセス・ツジに渡した。正直、ずっと英語を使っていないのと睡眠不足で、ミセス・ツジと話していても、自分で何を言っているのかもわからない状態だった。しかし私の経験から中途半端な時間に寝ると、時差ぼけはおよそ2週間続く。時差ぼけが嫌で長い海外生活の後、3年間海外旅行をしてなかった。なかなか実行できないが、到着したその日から現地の時間で生活をすると、すんなりと適応できることが多い。妻と相談して、せめて8時までは起きていようと決める。時差ぼけがつらいのは、現地時間の午前2時に目を覚まし、そのまま眠れなくなることだ。なんとしてもそれを防ぎたかった。

 しかしミセス・ツジが今までの闘病の経過を話し始めると、眠気はいっぺんに吹き飛んだ。私は覚悟のある人間を、いつも凄いと思う。淡々と語るその内容は、覚悟が軸足で固定されていることを私に強く印象づけた。癌を躊躇なく医師は彼女に告知したという。そして彼女はその医師に感謝していると明言する。私が、もし癌に侵されたら、告知されたいと、今は思っている。しかし臆病で小心者の私がどう反応するか分かったものではない。日本ではこの癌の告知が大きな問題になっている。死に直面することは、だれにとっても未知への恐怖がつきまとう。覚悟ができている人は少ない。ミセス・ツジを目の前にして、私は彼女の冷静さに終始圧倒され続けた。こんな人が世の中にいるのだろうかと。

 その後、癌は最初の患部から左の肩甲骨に転移した。激痛に眠られぬ夜が続いたそうだ。医師は、すでにステージ4なので治療はするが痛みを和らげることに重点を置くと言った。ミセス・ツジの医者である2人の義理の息子さんから、メールで危険な状態だと何度となく日本へ連絡を受けた。私は私の娘を代理として、2回シアトルへお見舞いに送った。帰国した私の娘は、肩を落として悲しんでいた。ミスターツジの葬式からまだ2年経っていなかった。

 そのミセス・ツジの癌が化学療法と放射線療法で今は消えている。彼女は、敬虔なキリスト教信者である。彼女は、神の与えたもうた奇跡と感謝を忘れない。現在彼女は普通の生活をしている。私の頭の中を「もう2箇所に現れた癌が次にどこに転移するかを彼女は恐れていないのだろうか」の考えが巡る。やがてその思いは「彼女はすべてなるがままと受け入れ、今、普通に生きようとしている」という確信に変わる。

 明日から私たちと一緒にゴルフをするために、予約を取ってあると言い出した。いくらなんでも無茶な話だと私は思った。しかし彼女の意思は固い。私たちといえばゴルフ道具はおろか靴も支度もない。それに私は1月29日にカテーテル治療を受けたばかりである。体力的にも無理だ。そこで私はゴルフをせず歩いてついていき、妻がミセス・ツジとゴルフをする、ということで妥協した。明日は11時43分のスタートだと告げられた。予期せぬ展開だった。そしてそのゴルフ中、大変なことが連続した(続) (写真:台所カウンター上の持ち込んだ食料)

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クリスマスローズ

2008年02月15日 | Weblog
 ハワイから帰国した翌朝、ベランダの花の手入れをしていた妻が「ちょっと来て」と手招きする。猿でも来たかいなと外に出ると、妻は私の手をとり、ある大きな鉢のところへ連れて行った。「ねえ、見て、きれいに咲いてるよ。花って凄いね。こんなに寒くて外に放って置かれても、時季が来ると忘れないで咲くんだね。写真撮って安積さんに送ろう」

 2年前、安積仰也さんにクリスマスローズの鉢植えをいただいた。花屋で売っている鉢植えではない。安積さん自身が、庭から鉢に植え替えたものだった。安積さんは湘南の町から東京へ事情があって引っ越すことになった。私は引越しのお手伝い、というより邪魔をするために、最後の一箇月通ったようなものだった。引越し業者の見事というよりいいようのない、テキパキとした作業にみとれていた最後の日、安積さんが大きな鉢を「山本さん、この鉢もらっていただけますか?」といって両手で抱えて、私の前に立った。嬉しかった。同時に悲しくなった。安積家の玄関の脇にあったクリスマスローズだった。その日まで引越しを口実に、大好きな夫妻に頻繁に会うことができた。お手伝いより、お茶や食事のときの会話が何より楽しかった。何時間話しても、どれだけ話しても、帰宅する車の中で考えるのは、あれも聞けなかった、これも話せなかった、ばかりだった。これでこの家を尋ねる口実がなくなる。私のステーションワゴンの後ろに大切に積み込んだ。   

 引越し業者のヘラクレス軍団のような若さではちきれんばかりのスタッフが、トラックで東京目指して出発した。続いて近所の方々が見送る中、安積夫妻が思いでの夫妻の家と私たちを交互に振り返りつつ、荷物でいっぱいの湘南ナンバーの車をスタートさせた。

 贈り物は嬉しいものである。特にいただいたものに明確なメッセージがこめられたものはなおさらだ。その贈り物の背後に贈られる人への思いやり、気配りの時間やエネルギーを感じるとなお嬉しい。クリスマスローズには安積夫妻の心を感じる熱い何かが添えられていた。大切にしている。去年、初めて花が咲いた。うちのベランダは安積さんの湘南の家と違って、冬は日当たりが良くない。山をつたって寒風が吹き降ろす。それでもきれいに咲いた。安積夫妻が東京に移ってもう2年目である。寂しくなったけれど、それでも年に何回かはお会いできる。こんな素敵な贈り物、うんとうんと大事にして、もっと丹精込めて増やして、ベランダをいっぱいにしようと勇気づけられている。 

 今日2月14日はバレンタインデー。日本中で義理チョコと呼ばれる贈り物が飛び交う日だ。買った物でも気持ちが伝わることはある。私が何か贈り物をする時は、自分が手間暇をかけて思いを込められるもの、そうでなければ私ができないけれどそれを作る人が私の代わりにその思いを込めてくれる、そういうものを贈りたい。そんな熱いお付き合いを私は持ちたいと願う。 (写真:ベランダのクリスマスローズ)

再会シリーズは定期投稿日以外の日に載せることにします。よろしくお願いします。

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再会①

2008年02月12日 | Weblog
 ハワイでミセス・ツジとの再会を終え、10日の夜帰宅した。

 以前、オーストリアのウイーンに住む日本人の友人夫婦が、日本に住む癌の最終ステージに入った友人を招き、車で10日間ヨーロッパ旅行をした話を聞いた。スイス、イタリア、オーストリアを中心に回ったそうだ。「きれいだね」「美味しいね」「楽しいね」が会話のほとんどだったと言う。死に直面している友を憐憫しても何も始まらない。友人夫婦は今まで通り、普通に彼に接した。病院へ短時間お見舞いに行くのとは違う。友人夫婦は、10日間寝食を共にし、車中でもずっと一緒の行動をとった。とても素晴らしい話しだった。その友人は日本に帰国してまもなく他界されたそうだ。友人夫婦は、生涯で最高の旅だったと言う。私は感動した。いつか私にそんな機会があったらそうしたいと、その時は簡単に考えた。私が癌の方の立場ならそういう機会を与えてくれる友を持ちたいとも願った。私は私の友人夫婦を尊敬した。とうとう私にもその機会がおとづれた。

 今回、ミセス・ツジがハワイで私たち夫婦と会いたいといってきたとき、オーストリアに住む友人夫婦の話を思い出した。6泊7日をともに過ごす。車で旅行することもない。時間のほとんどを家の中で過ごす。ミセス・ツジが好きなゴルフなどできるわけがない。そうすると「美味しいね」を多発することが残された道である。私は7日間17回の食事の献立を立て、できるだけ日本でしか調達できない材料を入念に用意した。野菜や魚、肉は現地で購入できる。調味料を中心に吟味しこだわりを持って準備した。東京都の町田市にある『富沢商店』や東京・築地の場外市場を駆け回った。携行荷物のほとんどは食料品だった。

 7時間のフライトでハワイ島のコナ国際空港に到着した。日本からいつも着ている極寒地仕様の下着を着替える暇もなく、気温23度の明るいハワイの陽にさらされた。

 抗癌剤による化学療法と放射線治療で頭髪の多くを失ってはいたが、やさしいおだやかな笑顔でミセス・ツジは彼女の三女のケアレンと3人の孫と、屋根のない到着ロビーに立っていた。言葉もなく抱き合った。私は6年ぶり。妻は8年ぶりの再会である。そのままホノルルの自宅に帰るケアレンを国内線の出発カウンターまで行って見送った。3人でレンタカーに乗り込み、私が運転して、飛行場から40分のワイコアラの彼女の滞在コンドミニアム(年間2週間滞在する権利を持てる会員制のクラブが運営するホテル式別荘)へ向かった。(続)

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