団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

上村遼太君と隠岐の島

2015年02月27日 | Weblog

  2月20日午前6時15分ころ上村遼太君(13歳)が川崎市多摩川河川敷で全裸の状態で通行人に発見された。痛ましい。切ない。やれ切れないと気持ちが暗く落ち込んだ。むごい事件、それも未成年者の犯罪が増えている。

  このニュースで上村君は島根の隠岐の島から川崎に引っ越してきたことを知った。隠岐の島と聞いてすぐに最近観たテレビ番組を思い出した。過疎化する地方の自治体の中で隠岐の島には人口が増えている町がある。その真相をさぐるといった内容だった。その番組の中で都会からその町への移住者を町が手厚く応援している様子が紹介された。またその番組で高校生の島留学も紹介していた。県外からの転校生で高校の生徒数が倍になったという。上村遼太君もその町への移住者の子供に違いないと私の勘が働いた。結果は少し違っていた。

  遼太君は同じ隠岐の島諸島でも西ノ島の西ノ島町に住んでいた。テレビで取り上げられた町は海士町だった。遼太君の父親も彼が5歳の時に漁師を志して川崎から移り住んだ。遼大君が小学校3年生の時、父親の暴力が原因で両親は離婚した。5人の子どもは全員母親に引き取られた。看護師の助手をして母親は懸命に働いたが生活は苦しく、川崎へ戻った。

  身につまされる。私も離婚して二人の私の子供に遼太君と同じ目にあわせた。遼太君は親の勝手な離婚の犠牲者である。両親の離婚による西ノ島町から川崎への移住は酷である。両親がたとえ揃っていたとしてもである。遼太君自身は引っ越し直前まで島に残りたいと言っていたという。本心だったと思う。釣りが好きで鯛やスズキを大自然の中で釣りあげていた少年が川崎のような自然のない大都市への移住には無理がある。案の定、遼太君は悪い仲間とつるむようになり、ゲームセンターに入りびたり学校へも行かなくなった。

  遼太君の心の中はわからない。それでも遼太君が去年隠岐の島へ旧友や恩師にわざわざ会いに行ったと聞くと私の心が騒ぐ。海士町には高校からの島留学があり、県外からも多くの生徒が留学している。海士町はなぜそのような留学を奨励するのか。人口を増やしたいからである。遼太君は隠岐の島が好きだった。このような少年は隠岐の島の宝である。中学1年生が西ノ島町で一人生活するのは困難だと大方の人は言う。そんなことはない。人間は困難によってたくましくなれる。転地療法となる。不良に殺されるよりましだ。遼太君は西ノ島か海士町にたとえ一人ででも戻るべきだった。きっと町は相談にのってくれたはずだ。過疎で悩む地方の隠岐の町は何か対策を講じてくれたと私は思う。

  案ずるより産むが易い。可愛い子には旅をさせよ、とも言う。私も離婚後、長女を8歳でアメリカの私の先輩家族に預けた。いま長女は自立して家庭を築いている。さまよえる子供を見つけたら、まず行く末を見据えた策を子供と一緒に時間を使って講じて実行することである。こうすると決めたら信念を持って断行する。心配だけして手をこまめいて待っていても何も起こらない。同情するなら時間を使え、頭を使え、コネ使えである。

  何を言っても遼太君は帰ってこない。遼太君を手にかけて実際に殺したのは、理性も教養もないチンピラであろう。私は遼太君を死に追いやったのは、殺人を実行した犯人たちだけではないと思う。遼太君が殺されるきっかけをつくったのは、大人の身勝手と子育てが生き物の最大事業とわきまえない人間社会の軽薄さである。


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縁石の米

2015年02月25日 | Weblog

  買い置きの3分づきの米を食べ終えた。行きつけの米屋へ行った。

  その米屋では客の注文を受けてから精米してくれる。10年以上も海外に暮らして日本の美味しい米を食べられなかった。日本に帰国して私たちは米で贅沢すると決めた。天気が良かったので歩いて行った。店の前で私は立ち止まった。道路と歩道の境目に縁石がある。そこにスズメが鈴なりになっていた。

  米屋のおかみさんは動物好きだ。家の中には猫が10匹以上いる。野良猫を拾い、迷い込んだ猫を飼う。おかみさんの人柄を知ってか知らずか最近ではわざわざ箱に入れた子猫を夜中に店のシャッターの前に置いてゆく人もいると言う。猫だけではない。縁石の上におかみさんはスズメのために米を時々置く。車で店の前を通るとスズメが米を食べているのを良く見る。いつか写真を撮ろうと思っていた。

  これはチャンスだ。カメラも持っていた。シャッターチャンスを狙った。しかし私の後ろから女子大生らしき一団が賑やかに話し笑いながらやって来た。スズメが一斉に飛び立った。写真を撮ろうとしていた私はがっかり。米屋の自動ドアの『こちらを押してください』と札のある釦に触れ中に入った。3分づきの米を5キロ注文した。客が座って待てるように道路側にベンチが置いてある。精米を待つ客には昆布茶がふるまわれる。私はそこでスズメを観察しようと外を向いて陣取った。陽が米屋の屋根から道路に差し込んでいた。米屋の屋根の影が道路に落ちている。交通量が多い。ひっきりなしに車が通る。歩道も人の行き来がある。米屋の屋根の影にスズメが影絵のようにあっちこっちと動き回る。警戒心が強い。なかなか降りてこない。

  米の精米は10分も待てば終わる。支払いを済ませてもまだスズメは来ない。おかみさんに断って、カメラを構えてスズメを待った。5,6分経つと2,3羽のスズメが降りて来た。待ちきれないのだろう。さあ、撮ろうとシャッターのボタンを押そうとしたその時、歩道を女性が早足で通り過ぎた。スズメは飛び立った。老人の私は瞬発力を失っている。カメラのモニターにはスズメのいない縁石だけが写っていた。それからまた10分くらいが過ぎた。来る来る。1羽が降りて来たら次から次へとたちまち数十羽が一斉に米をついばみはじめた。シャッターを押す瞬発力は必要なかった。3枚ほど撮れた。

  「うまく撮れましたか?」とおかみさんに尋ねられた。私はデジタルカメラを操作して撮った3枚を見てもらった。私が尋ねた。「どうして縁石なんですか?屋根とか、お宅の裏庭でもいいんじゃないですか?」 おかみさんこぼれるような笑顔で「縁石だからスズメが食べられるのよ。他のところだと、猿は来る、カラスは来る。スズメにチャンスはないのよ」 スズメにとっておかみさんは光明皇后のような存在である。人の往来にも車の往来にも必ず途切れる時がある。スズメはじっと時を待つ。待つことは良いことをもたらす。私の写真も待ったから撮ることができた。私の心に「スズメにタダで米をあげるなら、私・・・」が首をもたげると、おかみさん、それを見透かしたように「米屋だからって商品の米をあげてるわけじゃない。店の床にこぼれた米を集めたり、精米機にはじかれた米を貯めておくの」 私は自分の度量のなさを恥じた。身近にも偉い人はいる。リュックに米を入れ屋根で次のチャンスを待っているスズメを驚かせないように静かに帰路についた。

  歩きながら考えた。ニュースは殺人だ、詐欺だ、不正献金だと人間の醜さばかりである。小さな町のささやかな優しさに触れることができた。いつもより背中の米が軽く感じた。


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遠慮

2015年02月23日 | Weblog

  日本には遠慮という言葉がある。私はこの言葉が好きだ。

  遠慮を辞書で調べてみた。よく使う言葉だが実はその語源も意味も通り一遍な薄っぺらな知識しかない。まず『広辞苑』(岩波書店)。「1.遠い先々まで考えること。深い考え。2.人に対して言語・行動を控え目にすること。3.公の秩序を考えて出勤・謁見・祝い事などをさしひかえること。4.それとなく断ること。辞退すること。5.江戸時代の刑の一つ。」『大辞林』(三省堂)。「1.他人に対して、控えめに振る舞うこと。.(事情や状況を考え合わせて)やめること。辞退すること。3.断ることの遠回しな言い方。4.遠い先々のことまで見通して、よく考えること。深慮。5.江戸時代、武士や僧侶に対して科された軽い謹慎刑。」『国語辞典』(集英社)。「1.遠い将来まで考えること。2.江戸時代、武士・僧侶に対する刑罰の一つ。3.人に対して言動を控え目にすること。4.辞退すること。5.断ること。」『日本国語大辞典』(小学館)「1.遠い将来まで見通して、深く考えること。2.他人に対して、言葉や言動を控え目にすること。気がねして出しゃばらないこと。3.ある物事をするのを断ること。また、ある場所から退くこと。辞すること。4.弔意を表し、悲しみをともにすることなどの理由で、祝い事をさし控えること。5.江戸時代、武士や僧侶に科した軽い謹慎刑。6.江戸時代、武士で、親族に不幸があったり、伝染病の病人が出たりした場合、その出勤、または、謁見を控えること。」

  また『ことば選び辞典』(学研)には“つつしむ:慎む”の欄に「遠慮・畏れる・戒心・畏まる・恭慎・謹厳・謹慎・自粛・自制・自重・斟酌・慎重・節制・節度・憚る」と難しい言葉が並ぶ。

  私はカナダ、アメリカ、ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、クロアチア、チュニジア、ロシアなどで暮らした。日本以外の国で自分が同じ場所に居合わせた相手に“遠慮”という2文字の印象を感じたことがあまりない。ゼロに近い。なぜ日本に独特な遠慮という概念がうまれたのだろうか。おそらく封建時代などの上下関係のにおける卑屈さが始まりだったと推測する。しかし封建制度の呪縛から解放された人々の心に礼節としてだけ沈殿したのかもしれない。いずれにしても遠慮は、日本の美徳だと私は誇りに思う。

 
 和英辞書と英和辞書で調べても、日本語辞書にでてくるような意味での“遠慮”は英語の中に見つけられない。“遠慮”は「打ち解けないこと、無口、よそよそしさ、沈黙」などと辞書の説明は好意的なものでない。なぜならそこには日本の礼節への理解がないのである。エチケットという言葉が英語にあるが、表面上の言葉と動作の取り繕いであって、日本の精神的な背景を秘めた遠慮とは違う気がする。

  日本人は何を考えているのか分からない、とよく外国人は言う。多くの日本人はそんな時それこそ“遠慮(遠い先々のことまで見通して、よく考える)”しているのである。日本人がお釣りの計算を頭の中で一瞬のうちに済ませるように、こう言えば、こういう仕草反応をすれば、ああ言えば、ああいう仕草反応したら、相手はどう受け止めるのかと遠く先々にまで考えを及ばせている事が多い。だから言葉がすぐに口に出てこない。その結果よそよそしい、無口、打ち解けないなどの非友好的に受け取られやすいのだ。

  私の自分勝手な解釈の“遠慮”は「気配り目配り手配りをベースにした人間愛。思いやり。機嫌良くして礼儀を伴う深い気遣い」としたい。2020年の東京オリンピック誘致で一躍クローズアップされた「おもてなし」も好きな日本語のひとつだ。でも何か、東京誘致が決定して以来違和感が付きまとう。マスコミがいう“オモテナシ”には“遠慮”が抜け落ちている。

  身近な生活の中に息づいていた美しい日本語が輝きを失っている。残念だ。昨日もマンションの共同温泉浴場の洗い場でいつもの“痰吐き鼻かみ”老人と一緒だった。気が滅入った。相変わらず威勢よく四六時中痰を切り洟をかんでいた。彼の“遠慮”というブレーキが壊れてしまっているようだ。テレビの芸人たちからはとうの昔に遠慮は姿を消した。政治屋の世界には遠慮そのものが存在しない。日々起きる凶悪な犯罪の犯人たちの犯行の動機には遠慮の「え」の一文字分も感じることはない。だからどうしても“遠慮”を夫婦関係と文字の世界に求めてしまう。それでもと小さな“遠慮”探しに家の外に出かけてもみる。なかなか機会はないが、遠慮の現場に出遭うとほんわかしてしまう。尊敬する知人や友人との交友において、心地よい遠慮が顕在しているのは嬉しいことだ。妻との関係も、よく遠慮して「親しき仲にも礼儀あり」を心得て、できる限り長く仲良くと願っている。


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トラもハエもキツネもカモメも

2015年02月19日 | Weblog

  水曜日午後、少し晴れ間が出た隙に海を見に行った。山国育ちの私は海を見ていると気持ちが“畏敬”で満たされる。水平線を見る。水平線の向うに虹がでていた。美しかった。私の背後の西の方角だけに青い空が見えていた。太陽の光が神々しく放射線をのばしていた。東、南、北、空、海、陸、島。目に入るほとんどが鉛色だった。水平線の彼方から「ジャックと豆の木」の豆の木の根元のような太い虹が向って右側に少しカーブしていた。完全な半円の虹ではなかった。水平線から立ち上がって数百メートルで切り株のようにスパッと切れていた。あまりの光景に見惚れていた。

 カモメの鳴き声で現実に引き戻された。目でカモメを追った。いた。海岸からすぐ近くの波立つ漁礁の沖で漁をしている小さなボートの上にたくさんのカモメ。数十羽いた。鉛色の背景に白いカモメは目立つ。虹に心奪われ、その上生活臭を洗い清められたようになっていた私は違和感を覚えた。生きるためとはいえ漁船で漁師が獲った魚をかすめ取ろうなんて許せない。私はいつもの普通の私に戻っていた。海岸の階段状の防波堤に腰をおろした。虹と漁船の周りを飛び交うカモメを見ながら考えた。

 中国では「トラもハエもキツネも」のキャンペーンを掲げて汚職の一掃に努めている。トラは共産党の幹部高官を指す。ハエは上層部以外の役人や一般人。キツネは中国から海外へ不正に巨額な財産を移している連中。なかなかのたとえである。本来、共産党の共産とは字のごとく資産生産手段を社会全体で共有することである。ところが中国でも人は他の国々と同じく汚職は理念とは裏腹に増える一方である。日本とて決して汚職が皆無とは言えない。あらゆる不正が毎日ニュースで伝えられる。

 まだ虹は消えていなかった。7色の順番も色も言えない、見分けられない。でも綺麗だ。自然現象のこのような美しさがあるから生きていられる。

 帰りがけ、川が海に流れ込む近くに水草を餌にする鴨の群れを見た。最近海に近い松並木の巣で繁殖期に入り集合しているアオサギも6羽がそれぞれの狩場に立ちすくんでいる。鴨には目もくれずにじっと餌の魚を狙っている。健気に見えるのは、かすめるのではなく自ら働いて生き延びようとしているからだ。生きていれば、周りに迷惑をかけるのは必然である。それでもできるだけ自力で生活を完結しようとする姿は虹にも劣らず美しい。美しいことには救いがある。それは喜びでもある。


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東京オリンピックの2020年までは

2015年02月17日 | Weblog

  再びオリンピックが2020年に東京へやってくる。先日ラジオで“あなたの生きているうち”を聞かせてください、という番組を聴いた。「目が黒いうちに東京オリンピックを見ること」と投書した70歳代の人がいた。まだ5年も先のことだ。元旦から「3年連用日記」を書き始めたばかりである。「3年日記」を1冊と2冊目の2年を書き終えないと東京オリンピックは来ない。何となくハードルが高く感じる。2020年、私は73歳になっている。父は72歳で生涯を閉じた。今の私の歳になると未来という言葉が縁遠く感じる。

  妻はオリンピックまでには住宅ローンを完済したいと言う。彼女にもオリンピックは目標になっているようだ。良いことだと思う。オリンピックまでに、というのは私にはちと重荷である。瞬間を生きているわが身には1時間先さえ近寄りがたいごっつい未来になる。

  そう言う私も以前はよく何々までは生きていたいと思ったものだ。人は先を見据えて目的を定めて前へ進む。故郷の信州へ車で帰るのに一旦東京へ出て還八から関越道に入って行った。遠回りだったがこれが一番速かった。住んでいるところから還八へ入るには東名高速道路を使う。一般道を行くと常に渋滞でどれくらい時間がかかるか予想もつかなかった。小田原厚木有料道路を経て東名の東京方面に厚木から入るとすぐ『圏央道』の看板が目に入った。インターしかできていなかった。この高速道路が関越道までつながったら長野へ行くのが便利になると看板を見るたびに嬉しかった。去年の6月28日完成したのにまだ使ったことがない。あれほど開通を心待ちしていたにもかかわらず。すでに長時間ドライブが苦痛に感じ車で行く気がしない。日本の各地にどんどん新しい道路ができているようだが私にはもう縁がなさそうだ。

 開通といえば、北陸新幹線がいよいよ3月14日開通する。金沢は東京から2時間28分で行くことができるようになるそうだ。3月14日の営業開始日始発電車の切符は発売と同時に売り切れた。ただの何でも一番乗りを目指す希少なマニアも含まれているだろうが、この開通を心待ちにしていた北陸地方の人々の気持の表れともとれる。

  一方鉄道好きな妻の高校時代の恩師は「落盤事故を怖れて地下鉄(つまり新幹線)にも乗らず、大好きだった汽車旅も、汽車そのものが消えたばかりか、線路さえ撤去されちゃあ、ワテどうしたらいいのさ」といつもながらユーモアと鋭い感性で世の中の変化の洞察をメールに書いてきた。確かに新幹線はトンネルばかりで地下鉄と変わりない。恩師が望むのんびりと鈍行列車に乗って旅することは難しくなってしまった。

  私は常日頃凄い時代に団塊世代として生まれ恵まれた生活ができたと感謝している。子供の頃思ってもみなかったたくさんの進歩変貌を経験できた。ウォッシュレットトイレ、トイレットペーパー、電子レンジ、携帯電話、パソコン、ATM,医学薬学医療機器の進歩、宅急便、翻訳出版、デジタルカメラなどなど。進歩するどころか後退しているのではと思われる政治、政治屋、芸能界、テレビ番組、宗教戦争とテロはさておき、恵まれた時代に生きることができた。私の「ありがとう」は本心である。


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粗挽き黒コショウサンドイッチ

2015年02月13日 | Weblog

  朝早く妻と出かける用があった。朝食を家で食べている時間がなかった。前の晩に妻がサンドイッチを作っておいてくれた。最寄りのJRの駅から始発電車に乗った。先頭車両のボックス席に落ち着いた。

  妻がラップに包んだサンドイッチをお茶と一緒に渡してくれた。妻のサンドイッチは美味いのだ。期待が高まる。食前に服用する薬をお茶で飲み込んだ。次にサンドイッチのラップを開こうとした。ラップでグルグル巻きにされたサンドイッチはどこから開けていいのか切れ目を見つけるのに手こずった。相変わらず透明なラップ、セロテープには苦労させられる。よく見ようとサンドイッチを顔に近づけた。プーンと胡椒の香りが鼻についた。私は胡椒が大好きだ。香りも味も好きだ。コショウのない世界は考えられない。いつものことだがラップを外す切れ目がなかなか見つけられない。サンドイッチの切断面が目の前に来た。「あれ、ずいぶんサンドイッチの中身黒いね」と私。妻が「ゴメン。コショウの缶振ったらドバッて出ちゃったの。どうしてあの缶は穴でなくて全部あいているの」と言う。

   事の顛末が見えて来た。私はコショウの缶の上部を缶切りで開けた。なぜなら小さじ、大さじでコショウを計量するのに穴からコショウを計量匙に振り出していては時間がかかる。だから缶を振ったらドバっとコショウが飛び出す。たまにしかコショウを使わない妻が缶切りで上部が取り去られていたことを知る由がない。説明しても妻には理解できないだろう。夫婦はどんなことでも言葉で相手に伝えなければいけない.。自分だけで納得しているとこういうことになる
と反省。

  妻の卵サンドイッチは潰した茹で卵とマヨネーズを混ぜコショウを少々振ってレタスに乗せて食パン2枚で挟む。一振りのコショウがサンドイッチの味を引き立てる。ところが意に反して、この一振りでドバっと大量のコショウが飛び出した。妻はコショウを除こうとしたがマヨネーズにくっ付いたコショウはどうやっても取り除けない。妻はそのままサンドイッチにした。私はコショウが好きだが、これだけ真っ黒なコショウサンドイッチを食べられる自信はなかった。第一、一度に辛い物を口にするとシャックリが始まる。電車の中で私のシャックリが始まったら他の乗客がびっくりするに違いない。私のシャックリは凄まじい連続音を発する。ハクション大魔王も驚くような。そんな騒動は起こしたくない。食べなければよい。しかし空腹である。私はサンドイッチの中身をラップとパンを使ってこそげた。そして挟んであった食パンだけを食べた。それでも小さなシャックリが出そうになった。いったいどれだけのコショウが混じったのか。妻は悔しそうにサンドイッチの中身を私と同じようにラップに包みながら言った。「卵2個も使ったのに」

  コンビニでもサンドイッチは買える。コンビニで食べ物を買うことはほとんどない。外食も少ない。できるだけ自分たちで作って食べるようにしている。私たちの生活スタイルである。大切にしたい。たまには失敗もある。これからコショウの缶は私専用の棚に置くことにする。それにしてもコショウがドバっと出た時の妻の顔を想像すると笑ってしまう。忘れないで新しい缶入りの粗挽き黒コショウを買わなければ。


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怪電話

2015年02月08日 | Weblog

  《お詫び:9日月曜日投稿分を都合により本日8日に投稿します》

 

  午後2時頃、友人から電話があった。固定電話にだった。電波の状態が悪いのか「ザーザ~ザ―ッ」と雑音が混じる。「31日に電話もらったけれど何?」と問われた。記憶がない。電話を彼にかけた覚えがない。それよりも何よりも最近では数秒前の記憶が飛ぶ。31日といえばずいぶん前のことだ。昨日の夕食に何を食べたかも覚えていられない。「かけていませんが」と私の答えに「本当?間違いない?」と嫌疑の音調。そう言われると不安がつのる。声には出さなかったが「かけたかもしれない」と内心思った。「絶対かけていません」と言えない悲しさ。記憶がプッツンして消えてしまっている。「おかしいな~。まあいい。今スキーに来ている」 ゲレンデから携帯電話でかけているらしい。雑音はその所為らしいが、私の不安な気持は雑音の不愉快さを数倍超えていた。疑われている。何とか無実を、いや電話をかけていないことを証明しようと私の大きな頭部に似合わず小さな脳がフル回転。しかし証明できる“何か”を探し出せない。相手も時間がないのか「また近いうちに会おう」と電話を切った。私の気持は収まらない。電話は後悔しかうまない。だから電話が嫌いなのだ。即答ができないし、口ごもる。彼も腑に落ちないであろう。まさに彼にとっても31日の電話は怪電話で、私にとっても彼からの電話は怪電話であった。

  携帯電話は持っているがほとんどかかってもこないしかけもしない。緊急事態に妻や家族と連絡をとるための手段と思っている。妻と帰宅時間などの連絡をメールでやりとりする。皆が私の携帯電話は持ち歩いているのに不携帯電話だと非難する。携帯電話は常時マナーモードに入ったまま。たとえ妻からかかって来ても、まずでられない。電話で話しをするのは、いまだに
苦手である。

  電子メールを発明してくれた人に惜しみない感謝を送る。メールにどれほど救われていることか。メールだと好きな時に私の都合で読める。簡単に相手の感情を読み取ることができる声色もない。私の思った通りに勝手に解釈できる。これは愉快なことである。返事は時間をかけて言葉を慎重に選べる。辞書で調べて適切な表現を探すこともできる。私にはぴったりなお付き合いの方法である。

  その日ずっと妻が帰宅するまで私は悶々としていた。帰宅した妻に電話の話をした。「馬鹿ね。31日は土曜日で私も出勤日でなかったので1日中一緒にいたじゃない。そう言えばよかったのに。私が証人になるって」 何と心強いお言葉。頼れる妻である。これから昼間は電話を留守番電話にして、用事はできるだけメールでやり取りするよう心掛けよう。

  最近、過去も未来もそぎ落とされた瞬間のみを生きる不思議な境地にいたることが多くなった。悟りが舞い降りたのか。老いの進行は素直に認め、逆にそれを利用して生活を愉快にする工夫にもっと時間をさいて、機嫌よく過したい。

 


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早飯

2015年02月05日 | Weblog

  孫が東京から電車で一人でやって来た。現在中学一年生である。何でも“入試休み”という聞き慣れない1週間の休みだそうだ。私が住む町の駅に10時21分に到着すると連絡があったので迎えに行った。電車が到着して乗客が改札口を通過し始めた。平日である。たいした人の数ではない。それでも見逃してはならずと目を凝らす。だいたい中学1年生くらいの若いのが見当たらない。正直、私に彼を見分ける自信はない。年に数回しか会わない。子どもは成長が早い。会うたびに変化に驚かされる。数分で人影が途絶えた。駅はホームから地下道を通って改札口に至る構造になっている。地下道を通る以外に出口はない。心配になってきた。「あやつ、乗り過ごしたか」 両親から毎朝彼を起こすのに苦労していると聞いている。電車の暖房とポカポカ陽気で眠ってしまったのか。「来た」 他の乗客から明らかに離れて一番ビリだ。レースで言えば周回遅れのランナーのように姿を見せた。ひと安心。

  孫が私を訪ねた理由は孫の父親が私に英語の勉強をみてやって欲しいと依頼があったからだ。私は息子が子供の頃、特別な方法で英語を教えた。あの学習法がとても役に立ったので孫にも教えてやってほしいと言う。豚もおだてりゃ木に登る。悪い気はしなかった。引き受けた。孫は中高一貫校に去年合格してしまった。両親は奇跡だったという。どうも聞くところそうだったらしい。サッカー少年で明けても暮れもサッカーにご執心で勉強は学校だけだった。塾に行くこともなかった。合格は彼に大きな負担となった。中高一貫の進学校はとにかく授業進度が早くついて行くのが難しいという。サッカーは相変わらず学校外のクラブチームに所属して学校が終わると夜遅くまで練習している。現在の学業成績は思わしくないらしい。両親が心配し始めたという訳である。

  まず2時間、私の書斎で英語を彼の学校の教科書を使って教えた。理解力は悪くはないがずば抜けて明晰とはいえない。おっとりしている。日本の学校で成績を良くするには、勘の良さ、一を聞いて十を知る、目から鼻に抜けるような才気、暗記力が不可欠である。孫に必要なのは教える側の忍耐と寛容であろう。ゆっくりでも理解させるまで見放さない。自信がつけば、こういうタイプの子は伸びる。

  昼飯を行きつけの蕎麦屋で食べることにした。孫に「食べたいものある?」と尋ねた。モジモジしていた。「カツ丼と蕎麦のランチセットでどう?」「僕カツ丼好き」とボソッと言った。孫は蕎麦を食べ始めた。ほとんど一本づつ箸でつまんで食べる。ゆっくりゆっくり噛んで食べる。私は、ものの5分もかからずに掛け蕎麦を食べ終えていた。思い出した。孫の父親が小学生の時、担任教師から私に電話がかかってきた。「おたくのお子さん、給食を食べるのが遅く、他の生徒に迷惑がかかっている」と言われた。私は謝り「家で私からよく言い聞かせます」と言った。内心嬉しかった。私は日本の高校からカナダの学校へ移った。小学校で先生から給食を早く食べるように指導された。早食いである。そのおかげでカナダで困った。皆話しながらゆっくり食べる。私は息子にカナダでの経験を話した。食事はゆっくりよく噛んで食べるようにさせた。

  その息子が孫にどんな躾をして育てているのか知らない。蕎麦を少しづつゆっくり口に運ぶ孫。遺伝というのだろうか?家風なのか。どちらでもよい。早食いでなければならないきまりはない。

  午後、3時間休みなしで勉強した。孫はずっと座りっぱなしで私の話を聞いた。なかなかできることではない。感心。辛抱強い。この歳だった私にはとてもできなかった。私は安心した。きっとこの孫は近いうちに勉強のしかたを見出し、自信を持てるようになるだろう。勉強は解らないことを見つけて、解るようにすることだ。時間がかかってもよい。勉強机に座り続けて、投げ出さなければいつかは結果があらわれてくる。要領は自ら見つけるまで待つしかない。

  駅まで送り、私が彼のためにこの1週間かけて作成した大学ノート一冊と本日のレッスンの模様を録音したUSBを渡した。来た時と同じように孫はのったりうつむき加減に地下道を歩いて家路についた。


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テロ

2015年02月03日 | Weblog

 フリージャーナリストの後藤健二さん(47歳)はインターネット画面上でイスラム国を名乗る黒ずくめ覆面姿のテロリストにナイフで首を切り落とされて殺害されるという最悪の事態となった。後藤さんを殺害したテロ集団は今後もあらゆる場所で日本人を殺害すると警告。「日本にとっての悪夢が始まるのだ」とした。後藤さん本人はいくら覚悟の上だったとはいえ家族をはじめ世界中の人々を悲しませ恐怖におとしめた。

  テロに関して辞書の解釈をみてみる。terror「○(非常な)恐怖○恐怖の種、恐ろしい人(物)○大変なやっかい者、うるさいやつ○テロ、テロ計画」(研究社New College English-Japanese Dictionary2003年発行版)  テロ「テロ・テロリズムの略」テロリズム「○政治目的のために、暴力あるいはその脅威に訴える傾向。また、その行為。暴力主義。テロ○恐怖政治」(広辞苑2008年発行版)英語辞書と日本語辞書には見解の違いがある。英語には現実感があり日本語にはテロが外来語で日本には馴染みがない白々しさが感じられる。出版年度が2003年と2008年という違いがあっても、日本語辞書に現在の宗教戦争的緊迫感は微塵もない。一方英語辞書には宗教的紛争や軋轢の記載はないが歴史的な背景を感じ取れる。つまり今まで日本人はテロを遠い異国の出来事ととらえていた。

  後藤さんを殺害したテロ集団は日本を名指しで攻撃目標とすると宣言した。恐怖以外の何ものでもない。海外に暮らすことは異言語異文化に身をさらすことである。現地で暮らすにはそれなりの覚悟と準備を要す。外務省が発信する海外渡航の情報も役に立つ。また各国の大使館領事館の邦人保護の世話になることも可能である。ところが旅行者は違う。旅行会社が主催する団体旅行であれ、個人旅行であれ在住者とは違った危険がある。特にテロ集団の宣言によればこれから先日本人は狙い撃ちされる可能性がある。団体によるパック旅行も危険にさらされる可能性がある。観光バス、列車、観光船、レストラン、観光名所などで一度に多数の日本人を簡単に拉致できるからである。

  これからの海外旅行は大きな危険をはらむことを覚悟しなければならない。日本には言論の自由、行動の自由がある。外務省は後藤健二さん対して2014年9月以来3回渡航自粛を訴えたが後藤さんは今回の渡航を実行した。多額な戦争保険にも加入していたという。これから海外旅行に出かける人は、まず外務省の海外渡航情報を調べる。それから旅行先国への外国(欧米系)の保険会社の保険の掛け金を調べることを勧める。掛け金の額が高額になるほど危険度は増す。

  次に旅行する国々の言語に自分が堪能であるか。そうでなければどうするか。通訳やガイドに怪しい人はどこに国にもいくらでもいる。渡航先に信頼できる家族、親族、知人、友人はいるのか。入念な下調べと準備は怠れない。

  アフリカのセネガルで遭った車で砂漠を横断するオーストリアの冒険家が「冒険と無謀行動との違いは覚悟と保険が付随しているか否か」と言っていた。金持ち冒険家のたわごとと当時は受け止めた。あながち無視できない考えだと今は思う。私たち日本人は移動の自由も言動の自由も憲法で保障されている。世界の国家の中でも類のないくらい、その自由を日本国民は享受している。自由は無償ではない。自由を守るには、それ相当の覚悟と責任をとるという自己完結するしかない保険が必要である。


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