団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ヨットによる太平洋横断の冒険

2013年06月27日 | Weblog

  今から50年前、私は15歳の高校生だった。病弱だった私は胃潰瘍のため入退院を繰り返していた。見舞いに来てくれた同級生からK君の冒険の話を聞いた。K君と数人の友人がイカダを作り、隠密に新潟まで千曲川、信濃川を下るのだという。私は病院のベッドで、そんな冒険をできる彼らの健康を羨ましく思った。何とか成功して欲しいと願ってもいた。冒険など私には本の中でだけの世界だった。

 21日突然ニュースで太平洋横断を目指して福島県小名浜港を出発して5日たった目が不自由なヨットマン岩本光弘さん(46歳)とフリーキャスターの辛坊治郎さん(57歳)の2名が乗るヨットが浸水し遭難したと知った。すぐ思い出したのが冒頭のK君の冒険のことだった。

 冒険は仕事ではない。冒険は危険を承知の上で、目標を制覇することである。西洋では冒険は貴族の娯楽であり趣味だった。仕事を持たないのが貴族である。平民の日常茶飯事でも貴族にとって冒険となりうる。

 現に岩本さんと辛坊さんのヨット遭難事故の3日後、高知県のマグロ漁船がやはり第二管区海上保安本部管轄内の宮城県沖で自動車運搬船に衝突した。

  ヨットは冒険、マグロ漁船は仕事である。遭難救助の対応が興味深い。冒険のヨットに対して海上保安庁の捜索機と大型巡視船、海上自衛隊から哨戒中の対潜哨戒機を急遽捜索に向かわせ、厚木基地から新明和工業製の海難救助飛行艇US-2を派遣した。ご丁寧にも最初のUS-2は燃料切れで帰還、ただちに2機目を出動させた。この2機目が救命ボートで漂流していた岩本さんと辛坊さんを救出した。

  一方マグロ漁船は9人が乗り込んでいた。奇しくもヨット遭難者と色もサイズも同じ救命ボートに8人が乗って漂流していた。船長は衝突時に海に投げ出され行方不明である。US-2は出動していない。捜索規模も違えば、何といっても捜索に対応するスピードが雲泥の差だった。これが現実である。冒険と仕事の違いを考える。割り切れないモヤモヤは残るが、命が救われたことは評価する。

  50年前のK君の冒険は、隣町の農業用水の取り込み堰の1メートルの段差を乗り切れずイカダが分解して終った。わずか数キロメートル数時間の冒険だった。親にも学校にも数人の生徒以外だれにも知らせずに実行した冒険が終った。それでも私はK君の冒険を立派だと褒めたい。小心者で冒険などのまったく縁のなかった私だが、目立ちたちがり屋のスポンサーつきの冒険と自分の気持の赴くままの無謀で手持ち資金だけの冒険の違いは判る。久しぶりにK君と会いたくなった。


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ついに病院船

2013年06月25日 | Weblog

  最近、新聞を読んでも心ときめくことなどなかった。悲しく、惨く、汚く、つらく、重く、暗く、憤怒させる記事ばかりである。切り抜きする新聞記事が減った。

  24日の朝刊に「災害医療 海上でも 政府『病院船』実証実験へ」の記事を見つけた。久々に顔を紙面に近づけて一字一句を読んだ。「政府は、海上で患者を治療できる『病院船』導入に向け、・・・病院船を日本列島の北部と南部の2ヶ所に配備すれば、おおむね24時間以内に全国各地へ到達可能という。・・・」 笑顔がこぼれる。私の夢が膨らむ。

  以前から私はこのブログで『病院船』を提案してきた。外務省の医務官を十数年間勤めた妻に配偶者として同行した。ネパール、セネガルでも暮らした。劣悪な医療環境を目の当たりにした。いつからか『病院船』を意識するようになった。妻が赴任したさきざきで出会った日本政府職員や医療関係者に私の『病院船』構想を持ちかけた。関心を示した人は皆無だった。

  海外でそれも医療環境の整っていないところに暮らすと、日本の医療環境がいかに恵まれているか思い知る。安倍政権になってから、次々に新しい国家戦略の矢が放たれるようになった。その中で医薬品や医療機器だけでなく、医療システムやサービスなどとパッケージにして海外に輸出するという計画がある。私はもう一歩踏み込んでここに世界に進出する国際的『病院船』を加えて欲しかった。

  さきの3.11東日本大地震でも医療機関の甚大な被害は、救助活動にも大きな支障をきたした。災害はいつどこで起こるかわからない。平和憲法を掲げる日本が世界に貢献できるのは医療である。中国が空母を1隻就航させたら、日本は病院船を一隻就航させる。中国の空母が増えるたびに日本の病院船が増える。広報宣伝ベタの日本だがそこを大々的に世界へ発信したら効果絶大であろう。かつて造船は日本の主要産業だった。価格競争で韓国や中国に造船数では負けたが、品質や機能や燃費効率ではいまだに世界をリードしている。『病院船』の建造はお手の物である。船内に日本の最先端医療機器はもちろん医薬品、高品質な備品を積み込む。『病院船』に乗り込む要員は、海洋国家を標榜する信頼に足る船乗り、優秀で腕のいい医師、看護士、調理師などなど豊富な人的資源が支える。

  『病院船』そのものが、日本という国家の存在価値をパッケージにした見本船となりうる。疫病災害テロ暴動戦争は世界中に蔓延している。『病院船』による援助活動を展開するほうが、どんな原爆、ミサイル、武器を持つ国より頼りにされるに違いない。今、このような『病院船』活動を実現するのに平和憲法を掲げる日本ほど全ての面で可能性を持った国はない。安倍政権発足後、いろいろ批判も多いが、私はこの『病院船』の今後を楽しみにしたい。

  まず『病院船』は、海上自衛隊の艦船に医療機材を積み込んで実証実験を始めるという。こんな新聞記事なら大歓迎だ。24日一日中とても機嫌よく過ごせた。


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田んぼ絨毯とアジサイ

2013年06月21日 | Weblog

  19日午前中、電車に乗って歯医者へ行った。低気圧と梅雨前線の影響で風が強く雨も降っていた。電車の窓から田園地帯が見えた。風が吹くたびに田の苗が模様を描いた。苗が踊るように揺れ動く。半端な面積ではない。全体が緑の絨毯のような一面の草原のようだ。

 高校生の時カナダの高校へ転校した。学校は大平原の中にあった。7月はあたり一面地平線の向こうまで小麦の緑に包まれた。水田と小麦畑の違いは、水田は、水をたたえるために、まっ平らな小分けの区画とならざるを得ない。麦畑に水を張る必要はない。地表に沿った起伏あるどこまでも続く面での栽培が可能となる。

 やっと根付いた苗は、なびき、たなびき、しなり、うねり、流される。風の向きが変わり田に張られた水面が現れる。そうだ水田は夜になるとカエルの合唱のコンサート会場になる。またあのカエルの合唱を聴きたい。空には太陽の姿はなく、鉛色の厚い雲が覆っている。水面は雲を通過した重い光線を反射して水銀のようだった。水面が現れてはじめて苗が水に植えられていることがわかる。ただデタラメに植えたのではない。苗が植えられる間隔はおそらく長い年月の試行錯誤で現在のようになったに違いない。近年田植え機の発達でますます等間隔になり列も整然としている。地中海沿岸のオリーブ畑のオリーブの木は前後左右6メートルの間隔で植えられている。何処からどう見てもオリーブの木が一列に揃って見えて感動した。日本の水田の田植え後もオリーブの木の整然さに負けていない。歴史と農民の知恵に圧倒される。

 まだ20,30センチしかない苗の列の間をシラサギが餌を求めて歩いている。長い脚、細い首、小さい頭、真っ白な羽。緑と銀色と白。美しい。さらに畦道にアジサイが咲いていた。アジサイほど雨に似合う花はそうはない。

 梅雨時は気圧のせいか頭痛に苦しめられる。ましてや今日は10数年ぶりに見つかった虫歯の治療である。あの歯科用ドリルには抵抗がある。そんな重い気持ちを美しい景色が癒してくれる。

 思った通り歯科医院での治療は、ずっと両手の拳を握りしめ続けさせた。治療が終ると肩が張っていた。麻酔もまだ効いていた。昼時だったが空腹を感じなかった。一刻も早く家に帰りたかった。もうろうとしていた。電車が田園地帯を通過する頃は車窓から田んぼ絨毯、シラサギ、アジサイに気を奪われて、歯医者帰りであることを忘れた。この光景は、アフリカの砂漠地帯に暮らした時、もう一度見たいと渇望した光景である。砂漠と水田、両極端である。今どっぷりと砂漠の対極の光景の中にいる。嬉しい。満足に歯の治療も受けられない所だった。最先端医療機器と歯科医療陣の技術、医薬品、医療機器何もかも比べらないほど日本は進んでいる。こうして日帰りで治療を受けることができる。私の体のあちこちガタがきているが、それでも恵まれた医療環境に支えられて生かされている。

 家に戻った。住む町は緑がいっぱいだ。私は梅雨を感謝し、緑と水と花を愛でる。神経ぎりぎりまでドリルで削って詰め物を充填した歯は、麻酔が切れても、なんとか痛みもせず落ち着いている。雨も風もまだ強い。裏庭のアジサイが雨に打たれ、風に揺れて活き活きしているように見えた。こんな時強く、私は日本に戻っている、戻れてよかった、と思う。


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ジャカランダ

2013年06月19日 | Weblog

  静岡県熱海市に用事があって行った。用事を終えて好きな“冷やしワンタンラーメン”を以前妻と行ったことのある食堂で食べようと車を駐車場に入れて店へ向かった。時間は11時40分だった。角を曲がるとすでに店の前は4,5人が並んでいた。11時半開店なので最初の客はすでに入っているはずだ。小さな店だ。創業者であろう年配の男性、優に70歳は超えていると思う、が厳しく茹でとスープを仕切っている。息子夫婦と雇い人であろう若手5人が狭い調理場で働く。カウンター5人、4人掛けのテーブル3つの店である。総元締めが丁寧な仕事をするので客の回転が遅い。

  梅雨の晴れ間だった。時々暑い陽ざしが並ぶ列目がけて小路を照射した。帽子を持ってくれば良かったとオデコに手をかざした。私の後に夫婦が並んだ。「混んでいるわね。これだと2,30分待つかも」と妻が夫に言う。「うン」「ねえ、この先の海岸通りに日本に3か所しかない奇麗な青い花が咲く並木があるんだって」(私の脳が“ジャガランダ”と瞬時に反応した)「花の名前何だったかな」(「ジャカランダですよ」と思わず口から出そうになった。知らない人たちの会話に突然口をはさむなんてハシタナイ。お節介、出しゃばり。ひかえろともう一人の私)「シャガールじゃなくて、シャで始まるんだったと思うけど。あなた何だっけ?」「知らん」(私、知ってます。それはシャ、・・・あれ何だっけ)消えた。さあ、大変。思い出そうと私は真剣になった。(え~と、え~と、シャガール、シャ)ジャカランダのジャは消え、シャが脳を制覇した。

  ふと気がつくと後ろに並んでいた夫婦は列から消えていた。待ちきれずによそへ行ったらしい。間もなく私は呼ばれて中に入った。赤ちゃんと一緒の若い夫婦と相席だった。席について10分、カウンター席が空いて、店員が一人の私を移してくれた。お目当ての“冷やしワンタンラーメン”がカウンター越しに跡継ぎ息子から私の前に置かれた。旨かった。でもどうしても消えた花木の名前が出てこない。上の空、冷やしワンタンラーメンの味が脳に届かない。滑りやすいワンタンを箸でしっかり掴み口まで運ぶ。その間も「シャ?シャガール、シャラン、シャじゃない。サ・シ・ス・セ・ソ サラン、シラン、スラン、セラン、ソラン。う~ん、何だっけな」 あんなに食べたかった冷やしワンタンラーメンだったのに気はそぞろだった。

  会計を済ませ、「おいしかったです」と言い残し店の外に出た。駐車場へ向かわず、海岸通りに行った。陽ざしと雲間の青空に青い花が満開だった。花を見ても木を見ても名前はでてこなかった。シャガールが邪魔した。家に戻る道中も運転しながら思い出そうとした。

  家の玄関の鍵をもどかしく思いながら急いで開け、書斎のパソコンを起動させた。近頃パソコンは私の外付け脳として機能してくれる。いろいろな検索語を入れて花木の名前を検索しようと試みた。出た。ジャカランダ。           

【ジャカランダ】
ホウオウボク・カエンボクと並び世界三大花木の一つ。
学名/Jacaranda mimosifolia (J.Ovalfolia)
科名/ノウゼンカズラ科  属名/ジャカランダ属  性状/常緑高木
原産地/アルゼンチン、ボリビア

  かつて暮らしたネパール、チュニジアにはたくさんのジャカランダがあった。花の色は青というより紫に近かった。いずれにせよ美しさに変わりはない。私は青い花が好きだ。花木はもっと好きだ。

  時間がかかったがとにかく名前に辿り着いた。感動。嬉しかった。シャに錯乱させられたようだ。忘れることは仕方がない。私は諦めない。忘れたら私の持ち前のしつこさを生かして食い下がる。思い出すこと再発見が最近の喜びとして私を活性化させる。負けね~ぞ。


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紫蘇ジュースとビサップ

2013年06月17日 | Weblog

  友人が自ら作ったという紫蘇ジュースをもらった。梅雨の切れ間が訪れ、ベランダに久しぶりに陽が差し込んだ。大き目なグラスに氷を入れて、紫蘇ジュースをそそぎ炭酸水で割る。グラスを持ってベランダに移動する。竹林の透き間から入り込む太陽光線をグラスに当てる。赤く美しい。

 世界にはいろいろな飲み物食べ物がある。海外を旅したり、外国で暮らす楽しみのひとつは賞味感動できるモノと出合えることである。ジュースも場所によっていろいろな種類を試した。私のお気に入りは、アフリカのセネガルで飲んだビサップ(ビサップと言う名の赤い花を乾燥させ、それを煮立てて抽出した真っ赤なジュース)、北アフリカのチュニジアのザクロ、サボテンの実、スイカのジュースである。

 ベランダに出て太陽の光を当てた紫蘇ジュースは、アフリカのビサップの赤だった。住んだセネガルの首都ダカールには年に一度雨季があった。日本の梅雨のように長い雨季とは違い短かった。雨が降るかもと心配は360日する必要がなかった。赤道に近い暑くて乾燥した気候で飲む冷えた飲み物は喉を一気に駆け下りた。ビサップを紹介してくれたのは、タルさんという日本大使館の現地職員だった。ダカールから車で1時間くらい離れた村にタルさんは農場を持っていた。そこでタルさんは数人の若者を雇い食用の鳩、ニワトリを飼い、ビサップ、野菜、果物を栽培していた。年々井戸の水位が下がり、20メートルの深さがあると言っていた。その深い井戸から若者が日がな一日交替で水を汲んでは作物に給水しなければ、作物はすぐ枯れてしまう。そんな若者に活力を与えるのが真っ赤なビサップだとタルさんは言って私にも飲ませてくれた。

 音楽、色、ニオイで過去を思い出すのは、写真やビデオで思い出す過去とは違っている。写真やビデオもいいが、私は色やニオイで過去を思い出すのが好きだ。今回も友人の紫蘇ジュースでアフリカのセネガルを視覚、聴覚、味覚、触覚総動員で思い出すことができた。ネットで調べると西アフリカではパック入りのビサップジュースが販売されているという。日本で買えるようになるといいのだが。

 友人は私が糖尿病であることを知っていて砂糖は使わなかったと気配りしてくれた。すでに隠居老人の生活だ。それでも私の中の多くの経験を家族、友人の手紙、メール、贈り物、訪問が時に触れ思い出させてくれる。もう行くことはできないが、自分の中に蓄積した思い出を掘り返し、その世界に浸ることは可能である。大きな喜びに再会できる。今回は梅雨空の晴れ間に真っ赤な紫蘇ジュースを陽の光にあてセネガルのビサップジュースを思い出させてもらえた。ありがたいことである。冷えた紫蘇ジュースをタルさんやタルさんの農場で働いていた若者が飲んだら何というだろうか。グラスの中から見えた光の向こうに私のセネガルへの想いがあった。


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一過性脳虚血症と肩たたき券

2013年06月13日 | Weblog

  私の父親は72歳の時、膵臓癌で死んだ。すでに23年が過ぎた。

  身長こそ低かったが健康でたいした病気もせずに働いていた。67歳ころ軽い脳梗塞で倒れたことがある。救急車で脳外科病院へ搬送された。いろいろな検査をしたが、重篤とは診断されずに家に戻った。医者から老化に伴う一過性脳虚血性と言われた。

  6月11日、妻と夕飯を食べていた。突然座ったままの状態でめまいがして気が遠くなるように感じた。このまま死ぬかもと一瞬思った。しばらくするとめまいが治まってきた。「目が回るんだけれど」と妻に訴えた。妻はすぐに手の脈をとった。心臓に爆弾を抱える身である。妄想は膨らむ。「正常。一応血圧も測っておこう」 妻は寝室へ血圧計を取りに行った。妻が医者ということで私の命は長らえている。ありがたいことだ。血圧を測り聴診器で心臓や首の血管などを診てくれた。「大丈夫。でも専門医に診てもらおう」と顔をこわばらせて言った。その日のうちに、以前診てもらった専門医に予約をいれた。私が一過性脳虚血症かどうかの診断はそれまでつかない。たとえそうであっても父親とは2年の誤差で発症ということだ。いずれにせよ体のあちこちに問題が出てきた。ただこのような現象が車の運転中に起こらないように気をつけたい。私の老化で他人を巻き込むことは避けなければならない。

  65歳で糖尿病を患う私に何が起こっても不思議ではない。父から多くを受け継いでいる。遺伝の確かさの自覚を持っている。私の顔は母親に似ている。身長も母方である。気質は父親譲りに間違いない。短気である。妻に「導火線が極端に短いダイナマイト」と言われている。最近、咳ばらいすると父親が近くにいるのではと錯覚する。良いことは伸ばし、悪いことは断ち切ろうとしてきたが、体と心にうごめくDNAのうねりに弾き飛ばされてなかなかうまくいかない。

  父の日がくるたびに息子と娘がカードと贈り物を宅急便で送ってくれる。子育て真っ最中で日々の生活に追われる中、私のために時間を割いてくれる、そのことが私を喜ばせる。それぞれが独立し家族を持っている。会えるのは年に数回しかない。電話メールも少ない。「便りのないのは良い便り」と考えることにしている。私は子供たちが大学を卒業するまでという時限ばかり考えていた。その後は死んでもいいとさえ思った。

  二人が大学を卒業になると、死ぬどころか再婚さえできた。修羅場をくぐりぬけた父と二人の子供それぞれが3家族を構成する。父の日を憶えてくれるだけでも嬉しい。何をもらっても感謝にたえないが、父の日の贈り物で忘れられないものがある。色鉛筆を使って作ってくれた肩たたき券である。使用期限ナシ。幸いにも私には肩凝りがない。それでも肩たたき券は私にとって何より大切な父の日の贈り物であり、最高の私が生きた証しへの勲章である。


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ネックレスのクサリのコブ

2013年06月11日 | Weblog

 妻の出勤前は忙しい。駅まで電車に間に合うように送りとどけるのは、私の義務である。私にとっても一日で最も緊張する時間となる。幸い未だかつて妻を電車に乗り遅らせたことはない。いくら車で4,5分と言っても、途中何が起こるかわからない。運転担当の私はとにもかくにも電車に間に合わせることだ。

 朝妻は出掛けに「このネックレスのクサリ絡んでダマになってるの。直しといてくれる」と言った。 妻は私の書斎の机にそのネックレスを置いていった。駅へ妻を送って帰宅した。ほっとする瞬間である。ふと机の上に見たこともないないモノが乗っている。また虫かなと目を近づけた。何だネックレスじゃあないか。とにかく物忘れが激しい。

  最近0.01秒の前が消失してしまう。「良い表現だ」 書き留めておこうとノートを開く。「無い」 言葉が無い。さっきまであった言葉が消えている。キッカケさえ残さずに見事に無に戻っている。そんなことの連続である。物忘れし始めた頃はショックだった。慣れると結構この忘却がクセになる。思い出せれば「さすが」と快感。忘れてしまえば「そんなことだったんだ」と負け惜しむ。いずれにせよ“脳”の確かな存在を身近に感じる瞬間である。

 テーブルの上に虫眼鏡と爪の手入れセットを準備した。爪の手入れセットは英国製のすでに40年以上使っている7つの小道具である。ハサミ2本、ニッパー2本、ピンセット1本、爪の中の掻き出し掃除と甘皮手入れが両端についた棒1本、ヤスリ1本の合計7本。予備としてメガネのビス用の小さなネジ用ドライバーセットも待機させた。

 ネックレスを手に取る。肉眼と虫眼鏡でモツレのコブを観察した。ネックレスのクサリの一つひとつの輪の小ささに感心する。クサリはミリ単位の細さで、なぜかコブになっている。気にしなければどうってことないのだろうが、気にし出すとベトっといつまでも気持ちのどこかに張り付いてしまいそうなコブだった。

 まず両手の指を使ってモミほぐすようにしてコブをほどこうと試みた。ウンともスンともしなかった。大きな虫眼鏡のレンズの一部にさらなる拡大レンズになっているところがある。左目を力いっぱい閉じて右目でそこを覗き込む。細かなクサリの輪ががっちりお互いに食い込んで一体化している。「これは一筋縄ではいかないぞ」 ひとり言。爪の手入れセットからピンセットと甘皮と爪の中掃除の棒を取り出す。虫眼鏡を覗き込み、だいたいの絡み具合を頭に入れる。虫眼鏡を老眼鏡にかけかえ、勘でクサリのコブを爪の中掃除の棒の先でコブを押さえ込む。押さえ込みながら優しくモミモミしてみる。コブは固まったまま。ピンセットを右手に持ち、左手で爪の中掃除の棒を持つ。この繰り返しを約30分続けた。幾度か天を仰いだ。何しろ時間持ちである。そしてあと少しで1時間になろうとする瞬間、コブが弛み、ついにピンセットがクサリのコブに入り込んだ。がっちりピンセットの先はクサリをつかんだ。爪の中掃除の棒の先で弛みを更に拡げた。コブがはずれ、一本のまっすぐな金色に光る細いクサリの端にルビーがあった。初めて気がついた。達成感は頭のてっぺんを突き抜けた。

 私の人生は、私の未熟さ、性格、業を原因とするコブだらけである。65歳を過ぎても尚、コブを解こうと恥をさらしている。妻の助けを得ながら、一つでもコブを減らしたい。私は諦めない。


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物言えぬ個人株主

2013年06月07日 | Weblog

  株主の定義で私を納得させたのは、作家橘玲〔たちばな あきら〕(著書:『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』など多数)の「株主は株式会社の所有者で、持分に応じて利益の分配(配当)を受ける権利を有している」である。また彼は会社の経営者を「株主の代理人で、株主から預かった資本で事業を運営し、できるだけ多くの利益をあげるのが仕事」とする。わかりやすい。でもこの定義のような会社が日本にあるのか疑問である。

  上場会社の多くは、本音と建前をうまく使い分け、個人株主を大切にしていない。以前ブログに書いたみずほ銀行の住宅ローン借り換えの件でこんなことがあった。あまりに担当女子行員の態度が悪いので「私の妻はあなたの銀行に感謝し応援するために株主になったんですよ」というと「そうですか。それがどうかなさいましたか」と返した。大方の株式会社それも大企業はこうなのだろう。個人株主なんて何とも思われていない。病院で「患者さま」と言われると気色が悪いのと同じだ。

  株主になる個人の多くは、株を所有することによって資産を殖やすことが目的である。子供が就職した会社なので、せめて株主になることで応援したい、住宅ローンで世話になっているから、その会社の製品が信頼でき満足しているなどの動機で株を購入することもある。

  以前好きなプロ野球チーム西武ライオンズを応援したいと調べもせずに西武鉄道の株を購入した。ところがその直後に社長の不祥事で上場廃止となった。所有していても売買できなくなってしまった。今年になってアメリカの投資会社サーベラス・グループが西武ホールディングに対して株式の公開買い付けを実施すると発表した。以後双方から「売ってくれ」「売らないでくれ」の文書郵送合戦が始まった。年数回決算書や配当金や株主優待が送られてきただけなのにほぼ毎週封書が届いた。文書の中の「株主さま」との訴えに虫唾が走った。普段だったらゴミ扱いの個人株主が会社に何を言っても聞く耳を持ってもらえないだろうに。サーベラスは申し込み締め切りを2回延長して株主の翻意を求めた。端から自己中心むき出しだった。郵便物を読む限り、双方とも自分たちの主張ばかりで、普段の株主軽視を謝る言葉はひと言もなかった。

  民主主義の根幹は多数決だという。一人の投票であっても数がまとまれば大きな力となる。選挙は個人の参政権の行使である。資本主義における株式会社でも株主総会においての決議は株主の賛否で決定される。株式会社は民主主義の産物のひとつである。大株主だけに目を向けているといつかはしっぺ返しを受ける。口先だけで株主さまと言うようなゴマすりはいらない。応援しよう感謝したいという純朴な個人の想いを踏みにじって欲しくない。株数争奪に明け暮れたサーベラスにも西武にも個人株主との接触の仕方がわかっていない。6月1日のニュースでサーベラスの公開買い付けは保有比率36%台に留まり目標の44%越えは達成できなかったことを知った。西武鉄道株式会社は株主から預かった資本で事業を運営し、堅実に利益をあげる方向に邁進して欲しい。倫理感を持って公開買い付けで持ち株を売るか売らないか決める個人株主もいる。こんな争いに2度と関わりたくない。

  株式市場は5月23日の大暴落をきっかけに乱高下を繰り返し下落が止まらない。株式市場は伏魔殿である。何が起こるか誰にも予想できない。経済評論家やアナリストはどんな予想をして結果がどうであれ誰も責任を問われない。魑魅魍魎が跋扈する。けれど相場を完全にコントロールすることは誰にも不可能である。それが魅力でもある。だからどんな状況においても、個人株主においてはひとり一人の決断が見事に自己責任として帰結する。投資した株式会社が倒産して株券がただの紙切れになることさえ覚悟している。上場企業はたとえ一株株主であっても、バランスがとれた相当の健全な扱いをするべきではないだろうか。物言えぬ個人株主をなめるなよ。


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尾崎豊と小田原校舎ガラス窓損壊事件

2013年06月05日 | Weblog

「『歌詞に触発』2少年逮捕 小田原 中学窓ガラス損壊容疑」の新聞記事である過去の事件を思い出した。

 記事では『歌詞』と書いてあるが誰の何という曲のどういう歌詞とはまったく書いてない。歌手は『尾崎豊』曲は『卒業』歌詞は『♪行儀よくまじめなんてできやしなかった ♪夜の校舎♪ 窓ガラス壊してまわった♪ 迷い続けあがき続けた ♪早く自由になりたかった♪』(作詞作曲 尾崎豊)であると私は推測する。

 私は長男を他県の全寮制の高校へ進学させた。私が学んだ県立高校へ十分進学できる成績だった。離婚後も同じ市に住む彼の母親に出会うことのない環境が多感期の彼の成長に必要と判断した。母親には二人の子供も生まれていた。転地療養のつもりだった。彼に良かれと思っての策だった。親の都合と身勝手で息子を友人達から引き離した。入学した高校に知人はひとりもいなかった。人間は不安になると、まず助けを求める。彼は尾崎豊の歌に共感し心酔した。テープだけで収まらず尾崎のコンサートに通い始めた。所謂“おっかけ”である。息子の代わりに尾崎豊が息子の心の中の不安や怒りを代弁してくれたのだと思う。不安が嵩じると犯罪に結びつく可能性がある。当時は私の気持ちは子供に理解されなかったが、今では「あれが良かった」と評価してもらえている。

 今回の小田原で連続して起こった事件でも新聞の記事は、ただ事件があったことを伝えているが、その背景には何も触れていない。おそらく最初の事件も続いて発生した2件の事件も少年少女には事件を起こさなければいられなかった不安があったに違いない。不安を鎮めるには不安というパンパンに膨らんだガスを抜いてあげる助けが必要だ。残念ながら即効あるガス抜き方法はない。「よしよし」とヌクモリを感じさせ、背中を優しく押して、不安でたまらない子供から大人への劇的変化過程における心と体の混乱を見守ってくれる人の存在は大きい。

 何事も実体から仮想に移行している現代、音楽は特にメロディーを伴う歌詞が人の気持ちを捉えることがある。小田原の少年が「歌詞に触発」と供述しているのも、少年たちの心の不安を訴えているようにも聞こえる。モノに当たることで、暴力を振るうことで不安を払拭しようとさせるのは、気持ちは解るが大事な人生が狂う。不安で爆発しそうになっているわが子、生徒に気がつかない親、教師、まわりの大人たちは怠慢であってはならない。不安な子供はそれなりも信号を発する。それを聞きとめるのは大人の責任である。なぜなら大人はみな子供の時、同じ不安を経験しているからである。

 私は息子が尾崎豊のコンサートに学校にも私にも無断で行ったと知った。退学を覚悟した。学校からの呼び出しの前日、まずレコード店に行き尾崎の最新のカセットを買った。その晩部屋で聴いた尾崎豊の歌は息子の訴えであり叫びだった。親の勝手な争いや色恋沙汰の結果で翻弄される息子にどんなに謝っても許してもらえないと震えた。かくも歌手、その唄う歌詞、メロディー、声質は人間の心に影響を与えられるのだと教えられた。

 今、息子は私を反面教師として、二人の子の父親として「よしよし」の毎日をおくっている。


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アフリカ

2013年06月03日 | Weblog

 私はアフリカ大陸につごう4年半暮らした。小学生の頃からエジプトのピラミッドを見に行きたい、ジャングルにいるターザンに会いに行きたい、カバ、象、ライオンをはじめとするアフリカの野生動物を見たいという夢を持っていた。アフリカへその夢を抱いたまま移り住んだが、3つの夢のどれも実現しなかった。

 現地で仲良くしていた日本の商社マンからこんな自虐的な話を聞いた。「商社には1位中近東2位アフリカ3位インドと言われているのですが何を意味しているかわかりますか?」「給料の高さ」「あなたは良い人ですね。違います。赴任したくないワースト3なのですよ。私は1位2位3位をタライ回しされているだけで、定年までこれは変わりません」 ひどい話だと思った。このような話は商社だけではない。外務省だって同じことだろう。外交官試験に合格して外国の大学で語学研修を済ませ、アフリカ赴任が決まったらさっさと辞めてしまった外交官の卵がいたそうだ。日本には偏差値症候群と呼べる病気がある。何事にも数値的ランキングをつけ人間の品定めを試みる。学校、就職、結婚、戒名,赴任国

 6月1日から横浜で日本とアフリカ各国の首脳が一堂に会する第五回アフリカ開発会議(TICAD V)が始まった。日本はこれから失われた何十年もの偏差値至上主義によるしっぺ返しに見舞われるに違いない。今更巨額の支援(3.2兆円:1兆数千億のODA+民間投資と6500億円の円借款)と過去の借款の帳消しでアフリカ諸国の気を引こうと躍起である。巨額な援助が効率よく正しく使われ、発展に貢献してほしい。国家には常に将来を見据えた展望と分析と監査がなければならない。日本が失ったものは大きい。

 しかし私が期待する現実がある。日本海外青年協力隊の若者たちの地道な功績である。アメリカ、韓国などでも同じ様な活動を展開しているが、日本の規模と実績は世界で突出している。以前から中国はアフリカ諸国で目立つ援助事業を展開してきた。私が暮らした西アフリカのセネガルの首都ダカールには中国が建設寄贈した7万人収容のスタジアムがある。中国の援助は大勢の中国人労働者を派遣してさっと来てあっと言う間に目立つ箱物を完成させてしまう。一方日本の海外青年協力隊はほとんど一人ひとりバラバラに派遣し現地の人々と同じ暮らしをしながら地道に活動している。官民も偏差値症候群で勘違いした軌跡を残してきたが、海外青年協力隊の着実な活動に偏差値はまったく関係がない。商社や外交官の給料と比べたら信じられないくらい安い報酬で任期の数年間を務める。危険も多い。ピストルを持った強盗に金品を奪われ重傷を負った隊員を知っている。交通事故、自然災害。日本には“若い時の苦労は買ってでもしろ”という官にとって都合のよい言葉がある。国会議員や上級国家公務員の破格の待遇と派遣社員との構図に似ている。これも劇的に効果があった偏差値による価値基準の後遺症であろう。

  アフリカで自虐的だった商社マンに伝えたい。「あなたの苦労が報われそうですよ」 身を削るようにアフリカの名もない貧しい人々に混じって自分の技術経験知識を直接手渡してきた海外青年協力隊の隊員に伝えたい。「ご苦労されましたが、これからアフリカで日本という国名を聞いた人々がまず一番に思い出すのはあなた方のことですよ」


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