団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

夫婦で安楽死

2024年02月29日 | Weblog

  以前からオランダでは、安楽死が合法化されているとうすうす知っていた。私にとって安楽死は、手の届かない別の世界の話だと思っていた。14日のネットニュースでオランダのドリス・ファン・アフト元首相が妻のユージェニー女史と5日、自宅で安楽死したという。夫妻は70年連れ添い、93歳で合法安楽死を選んだ。二人は手をつないで旅立ったという。元首相は、妻を「マイ・ガール」と常に呼んでいた。二人とも重い病気になっていた。

 私は、オランダでは望めば、誰でも安楽死できると思っていた。しかしオランダは、2002年に安楽死を合法化するにあたり6つの条件をつけた。それをクリアして初めて合法的な安楽死が認められる。例えば、病気の苦痛が絶望的で耐えられない場合、合理的な他の解決策がない場合など。安楽死は、医師が薬物を投与する方法と、患者が調節自分で投与する方法がある。夫婦ともに安楽死を望む傾向が増えてきている。英国の「ガーディアン」によれば、2020年13組、2021年16組、2022年29組が共に安楽死した。

 この記事を読んでいて、日本の文芸評論家江藤淳さんのことを思い出した。江藤さんは、1999年7月に自殺した。遺書に「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断する所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」 当時、江藤さんは、奥さんを亡くされた後、悲しみ沈んで、奥さんなしでこれから生きて行けないと周りに話していたと何かの記事で読んだ。

 キリスト教でもいろいろな宗教で、自殺は禁じられている。私もこの歳(76)になって終わりの日の近づいてきていることを感じる。妻も事あるごとに「絶対に私より先に死なないで」と言って私を困らせる。こればかりは、私がどうこうできることではない。年齢がひとまわり違うことも、今となっては、心配に拍車をかける。友人知人の多くが、伴侶を失っている。残された伴侶が、どれほど寂しい日々を送っているのかも知っている。オランダのように安楽死が、合法化されている国とは、日本は違う。理想として、夫婦が一緒に旅立つ、しかも手をつないだまま、まるで夢のようだ。でも忘れよう。いただいた命、自然に任せ、事切れる迄、前を向いて生きなければならない。それが私の罪深い生涯を清算できる残された唯一の方法である。

 先立つ私が、妻に残せるのは、結婚以来36年間ずっと書き続けた日記、ブログだけ。妻が、私がいなくなったら、毎日、日記やブログを読んで、一緒に生きた日々に戻って欲しい。そして妻もいつか自然に息を引き取ってこの人生を終わらせてもらいたい。

 去年の年末母が亡くなった。それ以来、墓じまいの話が出ている。私も長男も長野県へ戻る気がない。今AIが世界を変えようとしている。個人の頭蓋骨の3D 、望めば生前の顏が戻る、DNAの保存、声もしくは声紋、などの私が生きた証拠の個人情報を入れた記憶装置を寺などがクラウドで管理して永久保存する。遺骨は、樹木葬か集団墓地に埋葬する。今回の能登半島地震でも東日本大震災でも、墓地はもっとも被害が大きかった。壊れてしまう墓地より、電子化された私が寺の記憶装置に安置されていたほうがいい。後に残された人も余計な心配がなくなる。そしてなにより、記憶装置に後から来るであろう妻の情報が私の情報と合体されれば嬉しい。遺骨や灰になって墓に入るより電子信号として残りたい。夫婦一緒に安楽死より私は、それを望む。


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目黒寄生虫博物館

2024年02月27日 | Weblog

  目黒にある寄生虫博物館へ行ったことがある。妻が海外赴任するにあたって、誰かが妻に目黒の寄生虫博物館を見ておいた方が良いと言ったという。小さな博物館だった。中にはものすごい数の寄生虫の標本が展示されていた。

 もうすっかり目黒寄生虫博物館のことなど忘れていた。ネットでビル・ゲイツが「世界中におすすめする日本の博物館がここ、ぜひ足を運んでみてください」とブログに投稿したという記事を見つけた。マイクロソフトを創業したビル・ゲイツがすすめる日本の博物館!きっと上野の国立科学博物館だろうなと、記事を読み進んだ。目黒寄生虫博物館。えッあの小さな目黒の博物館。ビル・ゲイツが。どうして?なんで。と疑問がわいた。こういう風に、次から次へと関心がわき、知りたい、教えてと思える展開は、久しぶりのこと。

 「グロくて空腹時に見るのがおすすめ」と注意喚起するほど。決して見て楽しかったり、感激する展示物ではない。でも、なぜあのビル・ゲイツが世界の人々にこんな小さな気持ちの悪い博物館へ足を運べと推奨しているのか。ビル・ゲイツは、現在慈善活動に力を入れている。特に感染症対策に多額の私財を投じている。

 国立感染症研究所のホームページには、寄生虫症:通常は蠕虫(ぜんちゅう)、原虫(顕微鏡でしか見えない単細胞生物)による疾患ですが、昆虫・ダニによる疾患も含みます。主に以下のような疾患が含まれます。アニサキス症、アメーバ赤痢、エキノコックス症、疥癬、クリプトスポリジウム症、ジアルジア症、蠕虫症、シラミ症、旋尾線虫症、トキソプラズマ症、肺吸虫症、マラリア、アライグマ回虫による幼虫移行症)と書いてある。

 アニサキス症といえば、妻が七転八倒して腹痛を訴えたことがあった。長い海外生活を終えて、日本に帰国して刺身をたくさん食べるようになっていた。病院でアニサキス症と診断された。私と同じものを食べて、なぜ私だけ何ともなかったのか不思議だった。

 発展途上国で暮らすと、寄生虫問題は、大きな危険となる。ネパールでの3年間、寄生虫検査は、小学校以来のプラスとなってショックを受けた。アフリカのセネガルでは、ニワトリの卵の中に回虫がいて、卵が食べられなくなった。聞いた話で、セネガルでは、サナダムシも珍しくない寄生虫だという。

 東京医科歯科大学の故藤田紘一郎教授は、寄生と共生と言って、寄生虫は、人間にとって悪いことばかりでないと本に書いていた。でもやはり気持ちが悪い。藤田教授のように人が嫌がる研究をしてくれる学者がいるからこそ、多くの人の役に立つのも事実である。

 日本には、ビル・ゲイツのような資産家は、なかなか出てこない。国会議員にいたっては、脱税行為である裏金作りにうつつを抜かす。国会議員の何人が世田谷の寄生虫博物館を訪れたことがあるだろうか。国会議員は、チュウチュウ金集めしていても、真面目な国民は、確定申告して、愛妻・納税・墓参りの生活をする。チュウチュウする議員を選挙で選んでしまう真面目に納税する国民とチュウチュウしている議員とどちらが寄生虫にも劣る存在なのか、答えは明確だ。それでも国税庁は、犯罪として捜査しない。そのうちに世田谷の寄生虫博物館には、「ウラガネーゼ・チュウ」という新種の寄生虫が展示されるかもしれない。


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面接 質疑応答

2024年02月21日 | Weblog

  タレントのマツコ・デラックスさんが2月19日TOKYO MXの『5時に夢中!』で興味深い発言をした。普段私はテレビの通常放送をあまり観ない。観るのは、ニュースと気に入っている番組だけだ。その多くは、録画して時間がある時に観ることにしている。

 その日の『5時に夢中!』は、面接採用について取り上げていた。よく面接で「弊社でならなければならない理由」と採用側から質問される。マツコ・デラックスさんは、これはおかしいと発言。「結局さ。なんでもいいんだと思うのよ、面接の時の質問なんて、『今朝何食べましたか?』でもいいのよ。それをいかにおしゃれに答えられるかどうかのテストなわけじゃない?」 なかなか面白い意見だ。マツコ・デラックスさんが過去に採用面接を受けたことがあるか否かはわからない。私も何回か採用面接で「弊社でならなければならない理由」のような質問を受けたことがある。私は、採用されたいがために、力いっぱいヨイショした。でもマツコ・デラックスさんのようにもっと違う質問できないのかとも思った。

 日本の多くの会社は、縁故や卒業大学がどの学校かなどで採用が絞られる。面接だけで採用が決められることはない。私は、現在日本の多くの企業が、世界における競争で後塵を拝するようになったのは、面接で「弊社でならなければならない理由」などという質問をする会社の旧態依然さも原因のひとつだと思っている。

 日本の学校では、討論とか自己主張の仕方とかスピーチの授業がほとんどなされていない。日本では、口が達者だと疎まれる傾向が強い。黙っていることが美徳だと思われている。小学校から大学まで、試験と言えば、試験用紙に答えを書き込む方式である。私は、カナダへ留学して日本の学校とは、違う試験方式に戸惑った。特に口頭尋問のような教師や教授との1対1の面接試験には苦労した。でも暗記がモノ言う日本の試験と違って、慣れてくると何だか私個人を大切にしてくれている気がした。試験の前に提示された資料や文献を読む。質疑応答形式の試験で、その内容に関することを質問される。たとえ資料と文献をすべて暗記していたとしても、この形式の試験では役に立たない。質問には、資料文献の内容を自分で自分の言葉で答えなければならない。私の疑問は、AとかA+とかBとかの評価を教師や教授がどのような基準で決めるのか、だった。

 今、国会中継が面白い。立憲民主党の米山隆一議員と岸田文雄首相との質疑応答は、いわゆる口の達者な日本人と旧パラの世襲で首相にまでなってしまった日本人の闘いである。米山議員はアメリカのハーバード出身。きっとアメリカでそれ相当の口が達者になる訓練を受けたのであろう。追いつめられる首相の「えーッ」が悲鳴に聞こえた。

 面接ではないけれど、私の長男が就職した会社でこんなことがあった。サッカー好きの長男は、ヨーロッパで開催されたワールドカップに行きたくて、会社に休暇願を出した。上司に呼び出されて「会社かサッカーのどちらかを選べ」と聞かれ、長男は、「サッカー」と答えた。上司は、「わかった。行って来い」と休暇願を受理した。

 その話を長男から聞いて、こんな上司もいるのかと感心した。マツコ・デラックスさんが面接試験で「今朝何食べた」でもいいと聞いて、昔の長男のサッカー事件を思い出した。今は入社試験に関わっている長男。採用面接をするなら、どんな面接をしているのだろう。


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飛行機内での騒動

2024年02月19日 | Weblog

  再婚した妻とまだ結婚していなかった時、妻がオーストラリア留学から帰国する際、私はマレーシアまで迎えに行った。彼女がオーストラリアからマレーシア航空で帰国するので、それに合わせて便を予約して、マレーシアで再会することにした。シンガポールから飛行機を乗り換えて、クアランプールへ向かう機中で、機体中央の席に乗っていた男性が、突然立ち上がり奇声を発した。シンガポールからクアランプールへの飛行時間は、約1時間と短い。離陸して上昇して安定飛行に移った直後、中央付近の男性が立ち上がり、「ギャァーーーー」と奇声を上げた。機内が一瞬「シーーーーン」と静まり返った。しかし何もなかったようにまた元に戻った。機内乗務員も取り立てて何か行動するわけでもなく、普通に振舞っていた。着陸するまでにその男は、計3回奇声を上げた。ボーディングブリッジが接続され、ドアが開けられた。乗客が降り始めた。私は、奇声を上げた男性を見ると、スーツを着た何の変哲もない人だった。驚いたことにまったく何事もなかったように静かに並んで機内から外に出て行った。その男性の行動、態度にも驚いたが、乗務員や乗客の態度にも驚いた。もしかして彼は、マレーシアで有名な人、政治家、俳優だったのかと思った。しかしあの「ギャァーーーー」の声は、ムンクの「叫び」の絵と合わせて、私の夢の中に、今でも時々登場する。

 最近ニュースで飛行機内での騒動の報道が増えてきている。羽田空港からアメリカ・シアトルに向かっていた全日空機内で、アメリカ人の男が客室乗務員の腕にかみつくなど暴れ、羽田空港へ引き返した。羽田で警察に引き渡された。男は、睡眠導入剤を服用して、その後の行動に覚えがないと言っているそうだ。

 タイでは飛行機が飛行中、機内で生きた蛇が見つけられて、乗務員が取り押さえたという。蛇がどうやって機内に入り込んだかは不明。アフリカにいた時、現地駐在の商社員がローカル航空に乗って出張した時、機内に生きたニワトリを持ち込んだ女性がいたという話を聞いた。私は、セネガルからパリ行きの便に、魚を入れた黒いビニール袋を持ち込んだアフリカ人女性を見たことがあった。

 アリゾナ州フェニックスからテキサス州オースティンに向かうアメリカン航空の飛行機が、乗客のおならが原因でゲートへ引き返す騒動があったという。目撃者によると、離陸前、明らかに不機嫌で二日酔いのような状態の成人男性が、「俺が失礼だって?じゃあこの臭いはどうだ?」などと言いながら、大きな音でおならをしたという。幸い、私は、蛇にも機内での喧嘩やおなら騒動に出くわした経験はない。飛行機に乗っていて、何度か事故に遭いそうになったが、いまだ無事に生き延びている。

 乗務員の仕事は、大変だと、これらのニュースを読むたびに思う。1月2日の海上保安庁の飛行機と日本航空の飛行機の衝突事故で、乗務員の冷静な誘導で、乗客全員が脱出できたのも日頃の訓練だったと言われている。飛行機機内は密室である。ハイジャック、テロ、犯罪、騒動が起こっても、機内で対応しなければならない。安全対策に期待したい。

 私は、おそらくもう飛行機に乗って、どこかへ行くこともないだろう。飛行機の旅が、奇声、暴力、蛇、おならなどの諸問題を臨機応変に解決され、楽しく安全であることを祈る。


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納税

2024年02月15日 | Weblog

『「愛妻・納税・墓参り」は、日本国民としての義務である。』政治評論家だった故三宅久之さんの名言である。私は、この言葉が好きである。

 水曜日、妻が休みをとって、税務署は確定申告に行った。妻は、毎年その時期が来ると、律義に税務署へ行く。年間を通して、きちんと必要な書類を保存して、税務署へ行く直前まで申告書を作成している。妻は、大学の医学部で学んでいた時、教授に「一人の学生を医者に育てるには、国から億という助成金が出ている」と言われたそうだ。妻の実家は、けっして裕福な家庭ではなかった。腕試しに受けた私立の医学部の試験で、一口2千万円の寄付金を何口受けるかとを記載する項目があったという。もちろん妻は、数字を書き込まなかった。結果は不合格だった。しかし国立大学の医学部試験には、合格した。妻は、国の税金で医者になれたので、その恩返しに税金をきちんと払うと決めたという。偉いと思う。私は、個人事業主で仕事をしていた時、計理士に納税の事は、すべて任せていた。その計理士は、元税務署署員だった。どうやって払う税金を少なくするかを毎年指導してくれた。妻とは、税金を払う心掛けが違っていた。

 税務署に妻を車で送って行った。先日、私の年金の事で年金事務所へ行った。前日に年金事務所へ電話すると、「明日は、予約でいっぱいで、予約なしで来れば、そうとう待つようになる」と言われた。妻も同行してくれた。年金事務所に開所前に到着した。玄関に並んで予約の無い人のための順番を確保しようとした。事務所が開いても誰一人来なかった。私たちは、玄関ホール脇の書類を書き込む机で、案内の女性の事前対応を受けた。女性が私の書類を点検して、受理してくれた。10分もしないで終わった。帰る時まで、私たち以外に訪れた人はいなかった。

 税務署は違った。私たち以外にもたくさんの人がいた。予約なしで受け付け順である。正式に確定申告は、今年は、16日から始まる。それ以前は、税務相談ということで、納税者の相談を受け付けている。妻のように書類を完成させて持ち込むと、税務署の係員が書類を見てくれる。問題がなければ、受理される。今回も問題なく受理された。ものの10分もせずに妻の今年の確定申告が終わった。16日から税務署は、混雑するに違いない。私は、三宅久之さんの「愛妻・納税・墓参り」を思い出した。日本人の多くが、このように税金に真面目に向き合っていることを誇らしく感じた。

 能登半島地震を受けて金沢国税局が「納税よりも、まずは生活再建を優先して」と被災者の方々に向けて呼びかけたという。日本の役所でもこんなまともな仕事ができるのだと感心した。

 日本の税務署は、適切な仕事をして税金を徴収しているように見受けられる。それにつけても、国会議員の納税意識は、なぜこれほど低いのであろう。三宅久之さんの「愛妻・納税・墓参り」が国民の義務ならば、国会議員たる者は、それの見本を示さなければならない。何千万円何億円のいう裏金を使い、税逃れが、まるで国会議員の特権であるかのようだ。思いあがりもいい加減にせい。

 今回の裏金事件で税務署も捜査を始めたという。国会で野党が岸田首相を追及しても、暖簾に手押しである。税務署がまず一人の国会議員であってもいいので、脱税で立件して欲しい。国民が真面目に収めた税金を、国会議員たる者にこんなふざけた使い方をされているのが悲しい。


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母と子

2024年02月13日 | Weblog

  今年の箱根駅伝で、ある大学の主将で走った選手をテレビで観た。この選手どうも見覚えがある。調べてみると私が住む地区の出身である。

 私の散歩コースは、川沿いの少し坂になっている歩道だ。まだここに越して来たばかりの頃、朝6時過ぎに散歩をしていた。毎朝、ひとりの中学生らしき男の子にだいたい同じ場所で出会った。私は、トボトボ歩きだが、彼は、幅広いストライドでとにかく早い。私を追い抜くとき、歩道から車道に降りて、私を一瞬で抜いてゆく。私は、これは年齢の差であって、あのくらいの若者なら当たり前の早さなのだろうと思っていた。散歩コースの途中に鉄橋がある。鉄橋の下は、数台の車が止められる場所がある。そこにいつも女性がストップウォッチを持って立っていた。息子らしい男の子が戻って来ると、ストップウォッチをとめて、何やら話していた。男の子は、車に戻り着替えをしていた。車が出て行った。私の想像では、彼は毎日走った後、学校へ母親に送って行ってもらっていたのだろう。

 そんな彼の姿が4月から見られなくなった。散歩コースで出会う人は、だいたい決まっていて見慣れた人が多い。その人を見ないと、少し心配になる。散歩しているのは、ほとんどが年寄りだ。たまに若い人もいるにはいるが、数人である。そこに十代の彼がいたのだから目立っていた。貴重な十代の子がいなくなった。残ったのは、みな年寄りになった。

 あれから7年後に私は、あの彼をテレビ画面の中に見つけた。駅伝の中継は、行きの第2区で彼は先頭を走っていた。駅伝中継は、先頭を走る選手をずっと追いかける。映っている時間が長い。彼はずいぶん大人になっていたが、中学生だった彼を3年間ほとんど毎日見ていたので、面影はしっかり残っていた。簡単に忘れていた9年前8年前7年前の記憶が戻る。応援しないわけにはいかない。残念なことに次の中継地点前で抜かれて、2位でタスキを次の走者に渡した。

 成長して箱根駅伝でも活躍する。何と凄いことであろう。そんな少年が、私の周りにいたなんて。話したこともない。でも毎朝すれ違っていた。あれほどの練習を毎日して、その結果が箱根駅伝で発揮されていた。彼も偉いが、彼の母親は、もっと凄い。ドジャースの大谷翔平選手もそうだが、一流スポーツ選手の多くの母親は、子に大きな影響を与えている。選手ひとりだけの素質や天性や努力に、それを支える親の援助協力がある。

 スポーツだけではない。私は、以前塾で教えていた。学校を終わってから、クラブ活動をしてその後、夕飯は、親の送り迎えの車の中で食べ、塾通い。そういう生徒に優秀な生徒が多かった。親子で支え合う。ある親に苦労ではと言った。その親は、「大変というより、子と話す機会が多くなって良かったです。先生が授業中に話したことを、私に話してくれます」と言った。恥ずかしかった。授業中に話すことに気を付けねばと思った。

 子育ては、人の最大事業と、私は子供に言い続けてきた。スポーツだろうと、勉強だろうとどの分野においても、親は子に影響を与えることができる。応援が、パワハラまがいの強勢や虐待にならないようにしなければならない。親は、子をダメにも良くにもできる。

 鉄橋の下で、ストップウォッチを持って待つ母親の姿が忘れられない。

 


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誰がいなくなっても世は続く

2024年02月09日 | Weblog

  以前、本である人の臨終の手記を読んだ。余命いくばくもない状態で、入院していた時、その人は「自分が死んでも、この病室の壁、天井、ドア、ベッド、家具、カーテン、外の景色、それらが、何もなかったように残るだろう。世の中も同じで、私が死んでも、世の中は、動きを止めずに存在するだろう。自分が存在しようが、しまいが結局時間だけが残り続ける。そのことが虚しく悔しい」と語っていた。

 今、マスコミに性加害問題で矢面に立たされている松本人志さんに関する記事を、いろいろ読んで思った。松本さんがテレビなどへ出演しなくなっても、私にはもちろん何の影響もない。多くの人が、松本さんがテレビに出演しないことは、大きな損失で、彼の替わりになる芸人は存在しないという。私は冒頭の臨終の人の手記を思い出す。

 日本の政治屋、有名芸能人も実は、自分が死んでも世の中は変わりなく続くことを自覚しているように思える。だから、生きているうちに、議員でいるうちに、芸人として売れているうちに、やりたい放題する。見つかって、糾弾されたら「記憶にありません」「名誉棄損で提訴する」「そんなこと分からないって、あんた馬鹿じゃない」と嘘と厚顔無恥な態度に出る。長く政治屋や芸人の身勝手な行動言動は、苦くて強い薬をオブラートで包むように、マスコミや保護団体やファンによって守られ打ち消されてきた。

 最近、日本のマスコミを飛び越して、海外のBBCなどが日本のことを記事にするようになった。やっとマスコミ界にも黒船の襲来が来た。お陰で、ジャニーズの性加害問題は、世間に認知されるようになった。それまではマスコミ界では、聖域とされ、記事にされることがなかったジャニーズが、一気に崩壊してしまった。これからもきっと多くの日本の闇が、海外メディアによって暴露されるであろう。やっと日本の聖域にも、メスが入れられそうである。

 日本文化史研究家 マッツァパオロリーノの記事の抜粋:「松本さんがいなくなったらテレビ界、お笑い界の損失は計り知れない、……犯罪がらみの理由以外でも、過去に人気芸能人が急に引退した例はあります。事故や病気で急逝した人も大勢います。その直後には惜しむ声がたくさん上がりますが、しばらくすればみんな忘れます。大衆なんて薄情なもんですよ。次から次へと新たなスターが登場し、芸能界もテレビも何事もなかったかのように続いてきました。1年も経てば(もっと早いかな?)、松本さん不在のテレビにみんな慣れてしまうでしょう。仮に、このまま引退したとしてもなんの問題もありません。この世に替えのきかない人なんてひとりもいないんです。もしもそんな人が歴史上ひとりでもいたのなら、その人の死とともに人類の歴史は終わってたはずです。  これは冷酷な事実ではなく、救いです。替えがきくからこそ、ある人の不在をべつの人が補える。人類は助けあって生きていけるんです。……私が薦めたいのは、外国特派員協会で会見を開くことです。そう、ジャニーさんの被害者が会見したことで長年黙殺してきた日本のマスコミをようやく動かした、あの場をあえて使うのです。外国人記者は、日本のマスコミのように忖度しませんよ。およそ50年前、『文藝春秋』に田中角栄の不正金脈を暴く記事が載ったとき、テレビも新聞も記事を無視しました。そんななか、外国特派員協会だけが田中角栄を呼んで話を聞く場を設けました。外国人記者からの忖度なしの追及に耐えかねた田中角栄は、会見を打ち切って逃げました。翌日から欧米の新聞で田中の金脈問題が報道され始めたのを見て、弱腰だった日本のマスコミも、ようやく田中を追及し始めたのです。外国人記者は松本さんをカリスマとも神とも思ってませんから、手加減なしにキビシい質問を浴びせてくるでしょう。ヘリクツや詭弁やギャグでごまかさず、正々堂々とそれを乗り切れたら、私も少しは松本さんを見直すかもしれません。」

 マッツァパオロリーノの意見に私も多くの点で賛成できる。政治にも芸能界にもマスコミにも闇が多い。私は、小さな存在だが、もっともっと闇が明かされる世界がくることを願う。

 

 

 


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待合所・待合室

2024年02月07日 | Weblog

  2月3日BS日本テレビの『イタリアの小さな村』を観た。好きな番組である。その日は、イタリアのアブルッツオ州のモンテピアーノという小さな村の話だった。冬は人口が30人になってしまうという。そこに住むローマから移住してきた70歳代の男性が妻と住んでいる。彼の日課は、散歩とバスの待合所での他の男性の村人数人とのお喋りだ。小さなバスの待ち合い所。冬は、バスが来ない。そこで待合所を集会所としている。

 “待合所”“待合室” いい響きである。それは幼い頃からの楽しかった思い出の影響であろう。上田丸子電鉄真田線の花園駅の待合所は、イタリアのモンテピアーノのバス停の待合所のように、近所の男の子たちの集合所だった。モンテピアーノの待合所は、冬はバスが来ない。でも花園駅の待合所は、1年中電車の往来があった。待合所には、屋根があった。雨が降っても濡れないで遊べた。長いベンチに子供なら10人以上楽に座れた。子供たちは、じっとしていない。遊びの発明家である。いろいろな遊びがうまれた。電車が入ってくるたびに待合所の裏に全員で隠れた。花園駅は、無人駅なので駅員はいなかった。叱られるとしたら、電車の車掌だけである。電車が到着する前に隠れるのも遊びだった。

 駅や空港の待合室の雰囲気が好きだ。人は旅行に出かける前、みな一様に嬉しそうな顔をしている。時々若いカップルが別れを惜しんで、じっと見つめ合っている光景もいい。喧嘩したのか、若いカップルが相手を振り切るように離れてゆくこともある。家族の再会、別れ。テレサ・テンの『空港』のイメージで見る空港もいい。人間模様の観察ができる場所である。今では、多くの海外旅行客が右往左往している光景も、時代の変化を感じる。

 このところ右脚の痛みで、近くの病院の整形外科を受診した。以前受診した経験から、3時間は待たされると覚悟の上だった。9時過ぎに受付に行った。「予約してますか?」と聞かれた。ない。事前の手続き、看護師との問診面談を経て、整形外科の診察室まえの待合所に行った。整形外科の診察室は、6部屋、その前で待っている患者は、5,60名。壁にテレビモニターがあって受付番号が表示される。放送でも番号を呼ばれる。待合所の雰囲気は暗い。私は、病院の待合室が嫌い。その嫌いな待合室で2時間待った。診察室に入った。医師の声が小さい。マスクしているので小声がささやき声に。私にはよく聞き取れない。症状を聞かれた。「レントゲンを撮って来てください」 レントゲンを撮った。もとの待合室に戻って、更に1時間待った。レントゲンを診た医師の診断は、「坐骨神経痛らしい」だった。痛み止めを処方してもらい、その薬を3日間服用したが、症状は変わらない。

 カナダ留学中、何度も病院の世話になった。完全予約制だった。待たされることがなかった。基本料金が5分間隔になっていた。カナダの病院の待合室は、患者より見舞いの人の方が多かった。日本の患者は、辛抱強い。病気で病院へ来る。カナダで出来るのだから、何か待たずに診察を受けられる方法はあるはずである。病人を待たせるのが当たり前では困る。医療費は、手厚く保険でカバーされているので、カナダより安価で医療が受けられる。これで待たされることがなければ、言う事ないのだが。

 診察を終え、駐車場に車に乗り込んだ。弱い目に祟り目。受付で駐車料金の割引きをしてもらってなかった。杖をつき、雨の中、病院の中に戻った。受付の女性が「ごめんなさい。駐車券の事聞かなかったわね」と言って、処理してくれた。400円が100円になった。痛みを堪えた価値があった。


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傘と杖

2024年02月05日 | Weblog

  このところ目だけでなく脚も具合が良くない。目は疲れやすく、右脚が痛くて散歩もできない。そんな折、友人から癌が見つかり、手術を受けるとメールしてきた。親友のお兄さんが急に亡くなったとの訃報もメールできた。

 もらっていた年賀状に返事を、母が去年の年末に亡くなったので、出せないでいた。私から年賀状を出すのは、もう何年か前にやめた。その挨拶状を出した後も、律儀にやっと寒中見舞いの葉書で、返事が遅れた説明とお詫びをして、郵便局で出し終わった。先日雨が降ったりやんだりの日があった。車で出かける時、杖は持って出ない。駅の駐車場に車を入れて、傘を杖代わりにして、電車で出かけた。電車を降りる時、傘を地面に圧しつけた。すると取手がグニャと曲がってしまった。ホームで他の乗降客の邪魔にならない場所に移動した。曲がった所を元に戻そうと力を入れた。ポキッと折れた。手に取手だけ残った。下の部分がホームの床に倒れ落ちた。杖代わりにすると思っていたが、どうやら杖には使えない。

 借りている駐車場で私の車と隣同士の車の持主が亡くなった数日後、その人の車のクラクションが突然鳴った。2日連続に起こった。私は迷信も死後の世界も信じていない。それでも偶然としてその現象を看過することができなかった。傘が折れた。私はクラクションの事を思い出した。何か不吉なことが起こらなければいいのだがと思った。友人の癌、親友の兄の死去。私の目の悪化、脚の痛み。取りようによれば、すべて良いことではない。人間は、心が弱ると、余計なことを考えるらしい。

 折れた傘は、杖代わりに使えない。それどころか、取手と傘の下の部分と2つに分かれたモノは、扱いにくい。脚が悪いので歩くのも不自由。2つに分かれた傘を持ち歩くのも楽でない。どこか捨てる所はないかと探した。壊れた傘が入るようなゴミ箱がない。そうでなくても公共の場所のゴミ箱は、数が少ない。テロなどの防犯のためらしい。不便でも安全を優先すべきだ。

 スーパーで買い物した。レジの女性が私の怪しい動きに同情したのか、「どうかなさいましたか?」と声をかけてくれた。砂漠でオアシスを見つけたような気持ち。女神が池から金のオノを持て出てきて、「これはあなたのオノですか?」と木こりに尋ねた時と同じくらい私は、感動していた。「傘の取手が折れて、捨てるところがなくて困っています」と告げた。「こちらで処分しておきますよ」と取手と下の部分を受け取って、レジの下の台に入れた。私は、脚が悪いとは言わなかった。杖代わりにしていた傘が折れた。それを不吉な前触れだと思ったことが悲しかった。折れた傘のお陰で、人の優しさに出くわすことができた。不吉ではない大吉だ。

 人生良いことばかりではない。悪いことが続くと落ち込むが、人生ならしてみれば、良いこと悪いこと均衡が取れていると思う。

 脚は整形外科の医者に診てもらうことにした。待ち時間が長く、3時間はかかる診療だが、動けるうちは、医者の診察と治療を受けようと思っている。妻がいろいろ介助してくれる。妻の負担を治療で少しでも軽くしてあげたいと思う。


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孫の受験

2024年02月01日 | Weblog

  2月1日孫の一人が中学受験する日だ。事前に鉛筆3本と消しゴムとネスレの『キットカット』一箱を送った。鉛筆は、3本を削った。自分の子ども二人が受験した時も、鉛筆を削って渡した。メモを付けた。「この鉛筆でいつもより、少しキレイな字で答えを書いてみてください」 孫にも同じことを書いたメモを送った。孫の手紙の字は、字というよりは、デザインの模様のようだ。『キットカット』は「きっと勝つ」と掛けているらしい。九州の方言で「きっと勝つとぉ」が「きっと勝つよ」に聞こえるので、受験生の間で広まったらしい。孫がこのキットカットを爺さまのダジャレとでも受け止めて、口角を下げてくれればと思って送った。甘い物は、脳の働きを良くするとも聞いている。

 私は、カナダから帰国して、日本人が英語を話せるようになるのを手助けしようと、英会話教室を立ち上げた。それがだんだん受験科目としての英語を教えるのが主になってしまった。中高生の生徒が増え、遂には大学受験専門の塾になってしまった。今でも受験の季節が来ると胃が痛くなる。受験生の入試結果に一喜一憂する日が長く続いた。以前は、新聞に合格者名簿が載ったので、毎朝、新聞で結果をチェックした。結果を直接報告するために、親子で来てくれるのが嬉しかった。不合格だった生徒の相談も多かった。

 離婚して二人の子どもを引き取った。仕事と子育ての両立は、難しかった。子供たちが、落ち着いて勉強できるように生活を変えようとした。長男が小学6年生の時、東京の中学校を受験させた。帰宅した長男が、「算数、学校で習ったこと全然出なかった」と言った。つまり0点だった。これが長男の勉強態度を変えた。中学で英語を塾で他の生徒と一緒に私が教えた。高校は、全寮制の高校に合格した。大学も国立はダメだったが目指していた私立に合格した。長女は、小学校2年生で、アメリカの友人に預かってもらった。高校は日本でと思って長野県の私の出身校を受験させた。社会の試験の後、「一つも答解らなくて書けなかった」と言った。兄に続いて0点の経験を妹もした。ずっとアメリカにいて、日本語が不自由にならないように思ったが、結局はアメリカの大学に進学した。

 コキロク(古稀+6歳=76歳)になって、もう受験とは何の関わりもないと思っていた。私が苦労した頃の経験を、今、私の子どもたちが直面している。孫の受験である。別に意見を求められたり、経済的な援助を求められているわけではない。ただ爺さまとして、結果の報告を受けるだけである。気楽と言えば気楽である。私の子どもたちも、自分の受験経験で、不合格と0点を取ったことが、親となって自分たちの子の受験に対する考え方に、良い影響を与えていると思える。

 受験は、人生に大きな変化をもたらす。大横綱白鵬が「横綱になるには、運命と宿命が必要である」と言った。大横綱でなくても、受験には、運命と宿命が込められている気がする。考え方を変えれば、たとえ受験に失敗しても、それも運命と宿命だったように思える。小さな存在であっても、次に来る展開は、運命と宿命かもしれない。人生、決して思うようには進まない。それでも目標と希望を持って、挑戦を続ける。人を本当に強くするのは、経験だ。経験が、運命と宿命をもたらすのではないだろうか。白鵬は、自らの天性に稽古と経験を努力して加えて、運命と宿命を手にしたに違いない。受験は良い経験である。


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