団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

女のクセに

2012年10月31日 | Weblog

 ロンドン五輪での女性選手チームの活躍は、目覚しかった。しかしまだまだ女のクセにとか男のクセには根強く日本の社会にはびこっている。

  去年、北海道札幌白石署管内で、追い越しされた女性の車を追いかけて、停車させ「女のくせに男をなめんなよ」と24歳妊娠4ヶ月の女性に土下座させ、腹や胸を殴る蹴るの暴行を加えた田村智容疑者(44歳)が傷害容疑で逮捕された事件があった。さいわい胎児に影響はなかったそうだ。被害女性がすでに無事出産されたことを願うばかりである。それにしても報道は一過性すぎる。ニュースを読者に知らせるならもっと起承転結を心掛けてほしいものである。

  テレビの特別番組「警察24時間」の類いが好きで時々観る。くだらい番組が多い中、芸能人が出てこない、普通の人たちだけの記録は落ち着いて観られる。ある番組で女性警官密着のドキュメントが放送された。同じ警察官でも女性警察官だとわかると、途端に言うことを聞かなくなる違反を犯した男性が多いことを知らされた。青森の女性白バイ警官の仕事をカメラが追った。踏み切りの一旦停止違反で60歳代の男性が追尾され停止させられた。はじめはヘルメットで男性、女性警官かの区別がつかない。女性警官がヘルメットを脱ぐと途端に男性が豹変した。男性は、女性警官をまったく相手にしない。忙しいからと女性警官の制止を振り切って、車を発車させた。ここで男性は本来なら業務執行妨害罪を積み重ねたことになる。女性警官は追跡して男性の配達先でやっと違反切符を切ることが出来た。「女のくせに」の態度が見え見えだった。

  日本には、まだまだこのような醜い男尊女卑の考えがある。いや、世界中にある。私が暮らした国のどこにもあった。発展が遅れている国ほど、男尊女卑の傾向が強かった。アマゾネスの国は、ひとつもなかった。主夫という立場で、外務省の医務官の妻に同行して14年間で5カ国の大使館を渡り歩いた。私は「男のクセに」と日本人にも現地の人にも言われ見下された経験がある。男からも女からも、そうされた。私の心のしこりをほどいてくれた詩がある。長いが全文を載せる。私の気持ちを見事に代弁してくれている。

 安積仰也著『夢をよじ登る』朝日クリエ P146“女性賛歌”より抜粋

 

『ないしょだけど

はずかしいけど

今日白状するよ

ぼくね、女性が大(だーい)好きです

子供の頃からずーっと今日まで

女性が大(だーい)好きでした

 

女性なしには生きてこられなかったと思うよ

お母さん、大(だーい)好き

お父さん、大(だーい)きらい(ゴメン!)

お姉さん、大(だーい)好き

弟、大(だーい)きらい(ゴメン!)

 

女って心がやさしいの

女って、よーく

いっしょにお話してくれるの

よーく気がきいて、気がついて

あたたかーいの

ぼくがくしゃみをすると

さっとティッシューをさし出してくれる

そんな男みたことない

(映画の中のチャップリンを除いて)

 

ぱーっと辺りを明るくする

花一輪のように

女って不思議な存在

みーんなを包みこみ楽しくさせる

平和の神様です

 

男っていばるよね

男って命令するのが好きでしょ

自分のことばかり考えて

何かというと人を馬鹿にし

褒めことばなど全くご存知ないみたい

 

家と子供のことは女まかせ

言いつめられると「ウルサイ!」と言い

抜け道がないとゲンコツを使う

 

自分の上司にはペコペコし

弱い人にはいばるいばる

思うように行かないと

当たりちらしてうっぷんばらし

ユーモア皆無で

こんなの聞いたらおこるおこる

顔を真っ赤にしておこるよ

一緒に笑えばよいのに

 

牛と鶏だけじゃない

東大出の秀才

代議士、大臣、官僚

警察にやくざ

モーケッコウ!

 

ないしょだけど

今日男のヒミツ

教えてあげるね

男って、仕事仕事って言うでしょう

あれ「ウ・ソ」です

家庭サービスから逃げる

都合のよい言い訳です

 

ないしょだけど

本当のこと言っちゃうね

はずかしいけど

日本男児って

まだ赤ちゃんなの

 

ないしょだけど

はずかしいけど

今日白状するよ

ぼく女性が大(だーい)好きです』


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キツネの嫁入り

2012年10月29日 | Weblog

  日曜日の午前中久しぶりに妻と散歩に出た。坂道を転がるように下る。川に沿った道路を歩く。どんよりとした天気だ。天気予報では午後から雨が降るとのことだった。パラパラとかすかにアスファルトの路面を雨の粒の大きさで黒く斑点をつけている。後ろから車が来たので脇に避け草むらに分け入った。

 道路に戻ると“キツネの嫁入り”がびっしりズボンに付着していた。妻に「キツネの嫁入りだ」と告げた。「何 それって」 妻に近づき“キツネの嫁入り”と指差してズボンに付着したトゲ状の長さ1センチぐらいのモノを見せた。ほとんど漫才コンビ大木こだま・ひびきのこだまのような声の調子で「そんな名前あらへんやろ~」でなく「そんな名前だった?」と尋ねてきた。私は逆質問に弱い。逆質問は妻の常套手段である。こう言われると私は自信をすっかり失くしてしまう。デジカメで写真を撮り、植物図鑑で詳しく調べることにした。

 他にも山葡萄、イチジク、カズラなどの実を見つけるたびに立ち止まった。特に山葡萄の実は宝石のようだった。カメラにおさめたけれど、本物の色との違いにがっかりした。アオサギを観察し、カモのつがいに微笑んだ。川の向こうのミカン畑にかかる古いコンクリートの橋があった。その上をミカン畑の持ち主であろう老婆(おそらく腰の曲がり具合から90歳を超えているかもしれない)とその娘か嫁であろう60歳後半の女性がいた。橋には端から端まで万国旗が飾られている。絵になる。私はカメラを持って近づいた。二人とも農作業をする仕度だった。背中にカゴを背負い頭に手拭いを巻いていた。川、橋、万国旗、手拭いを頭に巻いてエプロン姿の腰が曲がった老婆が、まだ腰がまっすぐだけれどもそれ相当な歳を感じさせる女性の後をゆく。橋の下には清流が勢いよく流れている。

 写真家の齋藤亮一の写真展を先週の金曜日、東京へ観に行ってきたばかりの私は、このシャッター・チャンスを逃してならないとカメラを構えた。所詮一万円を切る安売りのデジカメである。4倍ズームでもファインダーの中の絵は只の景色でしかなかった。女性二人は芥子粒のようでまったく認識できない。万国旗もあるのは分かるけれど、旗のデザインも色も出ていない。そうこうしているうちに女性二人は橋を渡りきっていた。齋藤さんがどのように被写体をとらえ写真におさめているのか。写真展の作品を鑑賞するたびに不思議でならない。

 雨が本格的に降り出しそうだったので、散歩を切り上げた。家に戻って植物図鑑、電子辞書、インターネットで“キツネの嫁入り”を調べた。どこにも植物のキツネの嫁入りのことは説明されていなかった。私の思い違いなのか。しかし正式な名称は分かった。コセンダングサ(キク科)である。(写真参照) コセンダングサの拡大図を見る。まるで刺股(さすまた)のような形である。その二手に分かれた先端と刺股の柄にあたる部分とでは、トゲの生え方が逆になっている。これを逆刺(ぎゃくし)と言うそうだ。キツネの嫁入りというのは、たぶん私の育った田舎で子どもが勝手に呼んでいたのかも知れない。いずれにせよ頼みもせずに動物や人間の体の一部にくっ付いて、種を拡散させる。衣服にくっ付くと除去するのも厄介なものである。キツネは化けると妖怪話にある。子どもが朝から晩まで外で遊んだ頃なら容易に信じられた。コセンダングサにも繁殖の困難な時代なようだ。それにしても植物はすごい。

  お知らせ:齋藤亮一写真展 『コドモノクニ』が10月31日まで新宿コニカミノルタプラザ ギャラリーCで開催中


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2012年10月25日 | Weblog

 以前『千の風になって』「♪私のお墓の前で♪泣かないでください♪」という歌が流行った。私は既製の墓に入りたくない。東日本大震災以後、ますますそう思う。いろいろな宗教があってもその信仰によって自然災害や人災の被害の軽減はない。東日本大震災からすでに19ヶ月が過ぎた。新聞やテレビの報道で墓地がよく映る。歳のせいか最近テレビの宣伝に墓石とか墓地の宣伝が目に付く。埋葬も墓でなくて樹木葬とか海への散骨とか選択肢が増えているらしい。多くの墓地も住宅や施設と同じく津波によって根こそぎ流され破壊された。墓地で永眠していた遺骨も流された。捜索はままならない。家や家族を何より大事にする人々は、家を建てるより早く墓を高台の墓地に新設移転させた。しかしその墓の多くに遺骨は納められていない。先の戦争で中国、朝鮮、シベリア、アジア各地で戦死した人々の多くの遺骨は帰国できなかった。海で沈んだ船の事故、飛行機の墜落事故でも遺体が見つけられないこともある。遺体があり荼毘にふし無事に墓に納骨されるのを当たり前と考えるほうが、能天気なことかもしれない。

  外務省医務官を14年間勤めた妻について6カ国(ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、クロアチア、チュニジア、ロシア)で暮らした。それぞれの地に私は妻と自分の髪の毛と切ったツメを集めておいて秘密の墓をつくり埋めてきた。なぜそんなことをしてきたのか。最初の妻の任地のネパールでは、1992年着任の前にタイ航空の墜落事故があり日本人乗員1名と乗客20名も犠牲になった。飛行機に乗ることが好きだった私が飛行機恐怖症に変わった。飛行機だけではなかった。交通事故、テロ、強盗、疫病。日本では考えられない危険にさらされた。それぞれの地で私は常に命の危険を感じた。

 ネパールで妻は無事任務を終え、次の任地がアフリカのセネガルと決まった。妻の後任者のために家を片付けホテルに移る日住んでいた借家の庭の片隅に誰にも知られぬように前日に妻と私の髪の毛と爪を埋葬して手を合わせた。これがどの妻の任地でも恒例となった。飛行機による頻繁な移動、ユーゴスラビアではNATOの爆撃、チュニジアでは雇った運転手が運転する我が家の自家用車で交通事故に遭い車は大破して私は胸を強打して骨折などなど。またチュニジアで狭心症の発作を起こし、日本へ緊急帰国して心臓バイパス手術を受けた。手術前、こんどこそ絶体絶命と死を覚悟した。辞世帳と題して遺書を書いた。手術の日、妻、二人の子どもに手を振って手術室に入った。そして手術台に上がる前、私にはすでに地球のあっちにもこっちにも墓があることを思った。私しかその場所を知らない墓である。その数と地球規模の拡がりが私の気持を大きくさせてくれた。「よしこれでいい。いい人生の最後・・・」 麻酔が効き、オリーブ畑に黄色の花がびっしり咲く野原に浮遊した。手術終了後、集中治療室で意識が醒めると家族がベッドのまわりを囲んでくれていた。死ななかったのだ。

 私はこの先死んでも七つ目の墓に入りたくない。フランス映画『最強のふたり』を観た。良い映画だった。最強のふたりでも最後は別々な道に分かれていった。妻と私も二人にとって良好な関係にある。死んだらその証しに二人の遺骨をプレート(株式会社エターナルジャパン 東京都墨田区など多数の専門会社有)にして接着剤で貼り合わせて海に、できればイタリアのヴェニスの近くに沈めてもらえればいい。すでに墓はある。墓標も墓銘碑も戒名もない。私たちの髪の毛と爪だけを一緒に埋めた穴に土をのせただけのモノだ。私がその地に戻って、探しても見つけられないに違いない。そのことが何だか愉快で、心強くさせてくれる。辞世帳書きはまだ続く。おかげで今日も精一杯、のんべんだらりんと書いて読んで食べたいものを食べ、わがままいっぱいのオタク爺として過せそうだ。


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書食住

2012年10月23日 | Weblog

 「衣は一代、住は二代、食は三代」 衣食住という。人それぞれ生活の中で何に主に金を使うかは違う。私は“書食住”に重きをおく暮らしをしているつもりだ。

 どこの国を訪ねても、市場、動物園、書店、庶民の個人住宅へ行って見る。そうするとだいたいその国のことがわかるような気がする。今年1月に訪れたベトナムでもそうしてきた。

 ベトナムの“衣”は,暑い気候のため、Tシャツにズボンが圧倒的に多い。女性もオシャレというより身に服をつけているという段階のようだ。この国にも親がかりのどうしようもないお坊ちゃまお嬢様がいて、一晩で庶民の平均年収8万円を平気で使う連中さえいるそうだ。何しろ日本車のレクサスが2300万円、ホンダのシビックが300万円する。そんな車に乗って、金持ちの子どもが集る会員制の喫茶店やレストランに友人が案内してくれた。ここがベトナムかと思えるほど、華やかなできらびやかだった。

  街でアオザイという民族衣装を着た女性を時々見かける。なんとその多くが日本からの女性観光客だから驚く。市場には活気が溢れ、経済は個人主体もしくは家族中心だということが見えた。市場の無い国ではスーパーマーケットへ行くが、私は断然市場が好きだ。ホーチミン市で投宿したホテルのすぐ近くに大きな市場があった。食品は朝の5時頃からすでに取り引きが始まる。それから順次市場に買い物に来る人や観光客のための屋台が開く。10時過ぎると観光客目当てのおみやげ屋が開いた。市場の近くの道路が夕方4時頃から路上レストランに変わる。毎日、店を出したり、閉じたりの労力は大変なものである。それでも、数人の家族で切り盛りしている。調理は簡単な台の上にカセット式のガスコンロが中心である。おそらくこの持ち運びに便利なガスコンロは、路上レストランの数を飛躍的に増加させたに違いない。

  動物園は旧正月の休み中ということもあって、家族連れで混みあっていた。どこの国でも平均的な家族の様子を観察するには動物園がむいている。また生活レベルは、動物の扱い方から見えてくる。ベトナムは、社会インフラがまだ十分に整備されていない。

  書店は、数も少なく値段は高い。路上で観光客用にベトナム紹介の写真集などは売られていた。ベトナムの一般大衆のための本屋を見つけるのは難しかった。路上の食物の屋台や食堂の数と比較すると極端に少ない。友人に聞くと、食べるのに精一杯で本を買って読む余裕はないと言う。日本ほど、世界中で出版された書籍が直ちに翻訳され書店に並ぶ国は珍しい。私がそんな日本に住むことは、大きな喜びである。衣食住を切り詰めても、興味のある読みたい本を読めることは、私の今一番願う生活である。

  ホーチミンの市内観光ツアーで一緒になった日本人の若い女性が、「私はこうして海外を旅行するたびに、日本に帰国すると日本の良さを知らされる。だからその感覚を得るために旅に出てしまう」と言っていた。若いのに感心だ。国から出て、外から日本を見ることも大事なことである。その日本が大きな転機を迎えようとしている。どんなに国際競争での順位が新興国に抜かれても、日本の良さを育て守る手立てを国民の立場で考えたい。かつて私も妻も尊敬する妻の恩師が「めだたないけれどポルトガルのようにインフラが必要程度整っていて、のんびりと生活しやすい国に日本がなればいい」と言った。そのポルトガルも国家はEU経済危機に巻き込まれ大変らしい。しかし漁民や農民は今も変わらず穏やかに暮らすと海外のテレビニュースが伝えた。


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善光寺

2012年10月19日 | Weblog

 高倉健が一年に一度善光寺を参拝すると9月11日掲載のブログに書いた。その後妻が「あなたが読みたいと思って。新刊コーナーにあったから」と図書館で見つけたといって『高倉健インタヴューズ』野地秩嘉著 プレジデント社 1680円を借りてきてくれた。

 モッタイなくて、なかなか読み出せなかった。読み出すと一気に読み進み3時間で読み終えた。この本の中で疑問が解けた。高倉健が善光寺へ来る訳が書いてあるのを見つけた。あきらめていた疑問が氷解する。気分がいいことこの上ない。嬉しい。読書で膝を叩く時はそうないことだ。もう人に話したくてたまらなくなる。ブログは正にこんな時この欲求を満たしてくれる良い方法だ。

 「月刊文芸誌の『すばる』に『姥ざかり花の旅笠―小田宅子の『東路日記』という話が連載されています。・・・僕の五代前の先祖が残した日記を題材にしたものなんです。・・・主人公の小田宅子は九州から善光寺、そして江戸まで旅しているんです。考えてみれば僕は善光寺の2月3日の節分会には37回連続で行っています。最初の3年目まではお金のためだった。主演のギャラが1本で二万円だったときに、豆まきをやったら五万円もくれたのだから。『行かせてください』って僕のほうからお願いしていたくらい。でも、その後は自分でもなぜだかわからず、善光寺へ足が向いていた。節分の前になると落ち着かない気分になって・・・・』どうしてかわからないけれど、善光寺へ行くと気持がよかった。・・・・100年以上前、先祖が佇んだところで僕が佇む。そこへ行くと、先祖がそこへ行こうと思った気持を理解できるように思えた。旅がスキなのは体の中に流れる血なんでしょう」79~82ページ

 また妻がバツイチの経験者である私をウッテツケの解答者と判断して尋ねたのであろう「高倉健はどうして江利チエミと結婚して離婚しちゃったの?」の質問にも答えになりうる文章を見つけた。「浜松航空自衛隊の基地にロケに行っていたころ、町で『赤帽子』という評判の占いのおじいさんがいた。結婚の前年くらいでしたか、こっそりその人に見てもらったことがあるんです。・・・名前を見せたら、これはうまくゆくって言われて、うれしくなっちゃってね。・・・」「結婚したてのころ、生まれてはじめて買った新車、ベンツの230SL・・・やっと自宅に届いた夜、・・・夜中の1時ごろでしたか、乗せて走ったんです。そしたら、途中でおろしてくれって言うんです。あなたが走っているところが見たいから、って。で、ぼくがやつの前を行ったり来たり走るんです。そしたらあいつ拍手してくれるんですよ。・・・可愛いなあと思いました。この女のためなら、なんでもできるなあと」 

 ポストイットでしるしておいたページを開いて、帰宅した妻に読んで聞かせた。涙もろい妻は、目頭を押さえる。つられて私の声はうわずりかすれた。たった1冊の本が私たち夫婦を共通の話題で1時間を超える会話を与えてくれた。朗読する。その感想意見をお互いが話す。私が妻と結婚しようと考え始めたのは「この人といつまでも、もっともっと話したい」と強く思った時からである。新しいはなしの種をあちこちで仕入れ、「これは話さなければ」といまだに尽きることなく続く。


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焼き餃子

2012年10月17日 | Weblog

  先週の金曜日、定期歯科検診で相模原の歯医者へ出かけた。12時の予約だった。3,4ヶ月に一度のこの検診で楽しみにしていることがある。歯医者の近くにある餃子屋で昼食をとることである。1時間かけて歯石除去と歯肉の治療を終えた。口の中を長時間ドリルと鉗子でかき回された。それでも腹の虫が鳴いた。会計2400円を支払い、歯医者を出たのは1時20分だった。

 昼食時を過ぎた餃子屋は空いていた。カウンターに座り餃子一皿(10個)と卵スープを頼んだ。ライスも頼みたいけれどダイエット続行中の身なので我慢した。カウンターから首を伸ばしてキッチンでギョーザを焼くのを見る。この店はお持ち帰り用の冷凍餃子を売っている。買って家で焼くが、何度盗み見ても、店で食べる餃子のように焼けない。餃子をまずフライパンに並べる。もちろん店では包みたての生の餃子を使う。店の奥のテーブルで白い帽子をかむり、白いエプロンマスク姿の女性たちがせっせと餃子を作っている。フライパンだってどこにでも売っている普通のフライパンだ。そこに熱いお湯を注ぐ。フタをする。冷凍餃子に付いている説明書には「お湯が沸いて白いニゴリが透き通ってきたら油を餃子が埋まるくらい注ぐ」とある。私がIHの調理台で焼いてお湯が透き通ったためしがない。それに油がダイエットの敵と量をひかえてしまう。手際よく店員は一度に5つのフライパンで作業を進める。

 20代白人の男性が二人私の後ろのテーブル席に座った。一人はジーパンTシャツ、もう一人は迷彩服だった。ジーパンの男性は身長も体重も私と同じくらいだったが、迷彩服の男性は身長195センチ以上体重100キロを超える大きな男性だった。小さなイスが壊れそう。とにかく首がヒグマのようで顔の幅より太い。二人が店主に注文する。米軍基地が近くにあるのでこの店も知られているようだ。店主は英語で注文を繰り返した。「sixty gyouza. O.K.」私は耳を疑った。Sixtyって60個だよ。と思った瞬間ジーパン男性が「20 more」と追加した。二人で80個。きっと半分はお土産だろう。

 注文してから焼くので待ち時間が長い。二人の会話が耳に入ってきてしまう。迷彩服の男性がジーパン男性に職場の不満を話している。迷彩服の上官がひどい人らしい。どこの国のどんな人も変わらない万国共通の会話に思えた。聞くまいとするがやはり私の耳は立ってしまう。やっと餃子とたまごスープが目の前に置かれた。「アジーッ」 2時を過ぎていた。腹はペッチャンコ。がっつくがそうは問屋が卸さない。卵スープをレンゲで口に運ぶ。「アチーッ」 歯石を取るとガリガリされた歯肉の奥がヒリヒリ痛い。10個の餃子を食べきるのに随分時間がかかった。食べ終わって食後の薬を飲んだ。会計しようと席をたった。テーブル席の二人は大皿の80個の餃子数個を残すのみだった。いくらビールと一緒でも早すぎる。

 いったいあれだけの餃子はどこに収まっているのだろう。一皿10個で420円8皿3360円。確かに値段は安い。ワリカンでも一人1680円だ。円高は影響していないだろうか。他人の財布を心配しても仕方がない。アメリカ兵の食欲に圧倒され、歯の治療を受けたことはすっかり頭から消えていた。

  16日深夜、沖縄でまた日本人女性が二人の米兵に強姦された事件が起きた。テレビでニュースを観て、餃子屋で80個の餃子をペロッと、たいらげた米兵二人の姿がなぜか鮮明に思い出された。

 


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君よフン怒のパイプを渡れ

2012年10月15日 | Weblog

  朝の定期便を終えて立ち上がった瞬間、「ポッ チャ~ン」と音がした。「万歩計」と最初に考えた。でもズボンも下着も床まで下げてある。だから万歩計は下にあるはず。では何が落ちたか。落ちたものが何かわからない状況に慌てふためいた。やっとベルトに万歩計がないのを確認できた。どうしよう。このトイレは立ち上がると瞬きする間もなく自動洗浄される。つまりすべてが流されてしまう。

  手を入れれば見つけることができるかもしれない。そういえば以前、日本航空の国際便でトイレの詰まりをビニールの手袋でかたづけていた乗務員を偶然見てしまった。それはそれは綺麗でスタイルのいい女性乗務員だった。国際便の乗務員は、華やかであこがれの職業だ。その一挙一動は私の夢を打ち砕いた。大変な職業だという見方に変わった。私は、あの時の乗務員と同じことをしなければならない状況にいた。できない。手袋がない。あってもできない。「自分の体から出たモノだぞ」「やれ」「できない」 欧米では便器の中で洗濯をする人もいるという。

  ウォシュレットの裏に水を停める弁があるかもしれない。覗く。ない。弁もハンドルも、なにもない。コントロールパネルを読む。それらしき緊急指示はない。絶望感が襲う。誰にも見せられない姿のまま呆然と立ちすくむ。「グォ~~――」と便器の中はすべてが渦に巻き込まれて暗黒の未知のパイプの奥へ奥へと勢い良く吸いこまれていった。万歩計の最後の姿をひと目見ておこうと目を凝らす。万歩計の長方形の黒いプラスチックケース。渦巻きを見つめる。なかった。いったいこの先万歩計はどうなるのかと思いをめぐらせた。「どこかのツマリで万歩計がひっかかり、パイプが詰まって汚水が逆流して便器から噴出すかもしれない」「イヤ、流れ流れて下水処理場まで行き着き化学的に処理され融けてしまうかもしれない」 妄想が私を憂鬱にする。時間にすればたった数十秒の出来事だった。私はまるで宇宙旅行に出て地球に戻ってきたくらいに感じた。

  ネパールに住んでいた時、姪からおみやげでもらった“たまごっち万歩計”をトイレに落としたことがある。自動洗浄でなかったのでレバーを下げさえしなければ流れなかった。落ち着いて倉庫から炭バサミを持って来て掴み上げた。洗ってから万歩計のフタを開けると「旅に出ます。さがさないでください」と文字が並んだ。そして消えた。ただのオモチャに思えなかった。まるでたまごっち万歩計が実際のメッセージを残したとしか考えられなかった。

  今回旅に出してしまった万歩計は、クリップ式のものだ。ベルトに挟むだけの簡単な仕掛けになっている。そのクリップがはずれ、はずみでシャツにくっ付いたのかもしれない。私が座ったり立ったりしているうちに、万歩計に手が当たったのかもしれない。今では事の顛末を知る由もない。今後は「備えあれば憂いなし」でベルトに通すタイプの万歩計にするつもりだ。万歩計には済まないことをした。最後に何を私に伝えたかったのか。まさか「君よフン怒のパイプを渡れ」では。


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末は博士か大臣か

2012年10月11日 | Weblog

  夕方、妻を迎えに駅へ車で行った。コインパークに車をとめた。いつもと違ってなにやらやかましい。駅の前の道路の歩道に異変を見つけた。衆議院議員選挙に立候補予定の女性がマイクを握っていた。この候補以前から気になっていた。ポスターにおどる「絶対に絶対に絶対にあきらめません」の宣言。そりゃそうだろうあんなに美味しい議員職あきらめられないだろう。あわよくば大臣さえ狙える。「芯のある政治」どんな政治を芯ある政治と呼ぶのか。町のあちこちにポスターが貼ってある。これだけ毎日あそこでもここでも見ていると、いくら鈍い私の脳でも認識できる。でも本物とポスターの写真は、ずいぶん違っている。どう見ても同一人物とは思えない。プロの写真家に「顔写真は、焦点を顔の左右上下どこから撮るかによって同じ人とは思われないほど変化する」と以前聞いたことがある。

 本人は真ん中に立ち、両側を支持者と思われる人々が折りたたみ椅子に両側に7人ずつ並んで座っていた。そこは歩道より3、40センチ高い所にあった。ひな壇の一番下の段みたいだ。女性がほとんどで男性は2人しかいなかった。女性はおそらく全員年齢70歳以上のおばあさんたちである。キンさんギンさんによく似た小さく背中を丸めているお年寄りもいた。おそらく町の名士、もしくは名士の奥方なのだろう。若い有権者のいない風景に背筋が寒くなった。

 あのような光景を以前見た気がする。カナダ留学から帰国したばかりの私は、政治に強い関心を持っていた。衆議院議員選挙があった。私は新聞で読んだある候補者の主張に興味を持った。もっとその候補のことを知りたくなった。できれば直接話を聞いてみたかった。候補者の選挙事務所に行ってみた。区民会館の2階広間が選挙事務所になっていた。入ってすぐ来たことを後悔した。事務所の畳の上に広げられた折り畳みの座卓のまわりに座って茶飲み話に興じていた人々の視線がまるでスパイ襲来のように私を射抜いた。70歳ぐらいのやせた男性が私に近づいてきた。「あんたどこのうちの者だ」と慇懃に尋ねた。私は自分の家のある町名と氏名を名乗った。「何の用?」とその老人が尋ねた。横から他のじいさんが「○○町で○○やってる○○のとこの息子だ」と言った。皆がどっと笑った。私が政治屋や有力者の息子か孫であったなら「お坊ちゃま、なんでこんな所までお越しですか」と丁寧な応対をされたであろう。私はいたたまれず逃げるように事務所を出た。選挙がこのような旧態依然のムラ感覚で仕切られている現実を見せ付けられた。私のような者が政治に首を突っ込むことができるようになるには、少なくとも100年単位の時間が必要だろう。それ以来、政治に関心を失った。日本では特に田舎では、抜きん出た家柄と代々家業としての政治屋一家の一員である以外、ぽっと出が選挙に関わることができないと痛感した。

 「末は博士か大臣か」 この国では出世のゴールを博士と大臣に象徴する。今回の京都大学の山中教授のノーベル賞受賞は、日本中を久々に明るくさせた。これこそ博士の功績である。山中教授は皮膚科の医者である妻に精神的にも支えられ、家計も頼った。大学では資金難の中、研究を続けた。一方、政争に明け暮れ数ばかり多い国会議員は、やれ政党助成金だ経費月百万円とか年間1億円を超す収入と信じられないほど多くの特権を持つ階級にお手盛りを繰り返して登りつめた。日本のノーベル賞受賞者の数は、これまでに17人でている。この数は明治維新以来輩出された気骨ある国士の呼べる内閣総理大臣や大臣と同じくらいだと、私は計算する。ノーベル賞級の博士になれるか、国を先頭にたって正しい方向へ導く大臣になって結果を出せるか出さないかは、同じくらい低い確率であろう。それにしては待遇があまりにも違いすぎる。議員への税金の支出は、大きな無駄を含む。

  それにしても我が国の研究者の多くは、経済的に恵まれていない。私の高校の同窓の知人が大学の医学部の教授だった頃、東京で再会したことがある。彼の妻が開業医で家計の全てを負担していた。食事に出かけた。食事を終えると、彼は「すみませんが、お願いします」と彼の妻に伝票を渡して頭を下げた。博士が奥方に頭を下げて田舎から上京してきた私を接待した。山中教授の受賞が決まると、堰を切ったように予算が付き始めた。何事においても後手後手の日本政府。国の行く末を見据えて事前に手を打てる議員や大臣はいつ出てくるのか。大臣を狙う議員に無駄な税金を貢ぐより、ノーベル賞を目指す一人でも多くの研究者に未来を託す方が賢い選択ではないだろうか。


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誰につく

2012年10月09日 | Weblog

 自民党の総裁選挙、民主党の代表選挙が終わった。国会議員にとって、誰につくか、つまり誰に投票するかを公にすることは、その後の役出世を左右する。だれの人生においても、会社内、役所内、学校内、あらゆる組織や地域環境内で誰につくかで、進む道を大きく決定付ける。

  選択は人生の常である。若い頃はあれもこれもと懲りずに追いかけた。結婚前の「この女性を伴侶にすることは正しいのか」の葛藤は凄まじかった。芸能界でしばらく前にある男優が二股をかけていただの三股だと騒がれた。誰にも迷いがある。誰かとすでに付き合って、結婚を考えていても、隣の芝生は青く見えてしまう。結婚前の迷いは、必然かもしれない。あれだけ迷って私の最初の結婚は結局、失敗した。

 今の妻と再婚するとき、私は何事においても妻についてゆくと決めた。そう思えたのは、妻から「あなたは、すでに他の人の一生も二生分も人生経験をしたのだから、残りは私にちょうだい」と言われたのも一因だった。離婚後、二人の子たちを大学卒業させたら死んでもいいと思った。ガムシャラだった。それに加えて知人の保証人となり大きな負債を弁済まで背負い込んだ。自分の会社まで経営不振にしてしまった。何とか首の皮一枚のところに踏みとどまることができた。多くの難問を時間が解決してくれた。子育てに集中して無事目的を達成できた。私は事業運営にも適正がないとはっきりと思い知らされた。自分自身の限界を直視して吹っ切れた。そして44歳で再婚するとき自分に誓った。「一度は失いかけた人生だ。これからはすべての選択において妻を選ぶ」 その後次から次と選択が襲い掛かった。子どもか妻か。私の仕事か妻か。男の沽券か妻か。私の親か妻か。妻の両親か妻か。浮気か妻か。全てに妻を選びきった。そのお陰で20年が無事過ぎた。前の結婚は7年しかもたなかった。

  選択を目の前にすれば、妻の視点価値観を重視するよう努力した。無理して、そうしていた時期もある。時間が経つにつれ、この方法が私たち夫婦に一番適していることがわかってきた。随分時間がかかった。平坦な道ばかりではなかった。卑屈の雲に私の心が占領されることもある。それでも後悔はない。赤塚不二夫ではないが「これでいいのだ」の心境にいたっている。

 10月10日で結婚21年の記念日を迎える。その直前の8日の夕方、京都大学の山中伸弥教授がノーベル賞受賞決定のニュースが飛び込んできた。妻は元医学研究者の立場で山中教授の受賞に涙した。私は彼を支えてきた彼の妻に思いを馳せた。誰につくかで人生は決まる。夫婦関係はくっつきの最小単位のひとつであってさえ、最強にも最悪にも成り得る。こころ新たに、私設ノーベル賞である最強のままの最後をめざす。


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暗誦

2012年10月05日 | Weblog

  母親が自分の産んだ子をゴルフ練習クラブで撲殺したり、ナイフで刺し殺すという痛ましい事件が続いた。身につまされる。元妻は二人の子どもを残して駆け落ちした。その後、私の子育ては何度も挫折しそうだった。子どもと死のうと弱い心が囁いたこともある。私が殺人者にならなかったのは恩人たちがいたからだ。その恩人のひとりは私が十代後半に留学したカナダの学校の先輩のアメリカ・ワシントン州シアトルに住む日系アメリカ人の夫婦である。私の娘を預かって我が子のように育ててくれた。夫はすでに他界した。

  『これは日本の歴史で有名な豊臣秀吉が木下藤吉郎と呼ばれていたときの話です。藤吉郎はその頃、名高かった尾張の国の大名織田信長につかえて非常に信用されていました』 

 癌との長い闘病を経て、6月に初来日した70歳を超えた恩人が、車の中で聞かせてくれた暗誦である。彼女は日本語を話さない。理解もできない。

  アメリカに帰国する前の夜、車で東京へ送った。横浜で氷川丸を見物して品川のレストランで娘一家と落ち合った。娘夫婦は私たち夫婦と恩人の最後の食事にお好み焼きを選び予約をしてくれた。成田へは娘一家が見送ることになっていた。成田に近いほうが良いとの計らいで、日本最後の夜、東京の私の娘の家に泊った。家に戻って私は娘に電話で恩人の暗誦文を録音してもらうよう頼んだ。4ヶ月過ぎて、やっと先週の土曜日に聞き取りで文章化してメールで送ってくれた。恩人がアメリカのワシントン州立大学の学生だった時、日本語を学んだ。日本語の教科書に載っていたのか、先生の手作りの教材だったのかはわからない。今から50年以上の前の話である。結局恩人は、日本語を修得することができなかった。暗誦した文章が役に立ったことは一度もなかった。思い出すこともなかったそうだ。

 来日前「観光旅行はしなくてもよい、あなたたちとあなたたちの家でゆっくり時間を過したい」と再三言われた。彼女の来日が決まった頃、私は京都、奈良、広島、日光、浅草を案内しようと抜かりなく盛りだくさんな計画を練った。恩人の希望通り、結局観光旅行に行くことはなかった。家のある町の近くを案内するに終った。この暗誦文が披露されたのは、小田原市の二宮尊徳記念館を観た後の車の中だった。古い民家が彼女の日本人の血を刺激したのかも知れない。記念館で民家や農機具、生活用品、家財道具を熱心に見入っていた。貧しい昔の日本がそこにあった。恩人は祖父がアメリカに移民する前の生活をなぞっていたのかもしれない。突然暗誦文が口に出たという。

 脳の働きの凄さに感服する。50年も前に暗誦したとはいえ、その後何の役にもたたず思い出すことさえなかった文章である。それが二宮尊徳記念館に行った後、スラスラ口に出たというのだからすごい。いったい脳の中にどのようにして記憶されていたのであろうか。何をきっかけに突如よみがえったのか。人間は神秘の塊である。

  先日、私は知人を訪ねても、鉄道の駅の名前は覚えていたが、バスの停留所はからきし思い出せなかった。私のように暗記が苦手、記憶力が低い頭の悪い者でも自分の脳を褒め称えることがある。パソコンも携帯電話もすごいと思う。それでもやはり自分の脳のほうがすごい。競争して、その成果で比較されれば、私の脳のほうが負ける。しかしパソコンや携帯電話にはできないことがある。私には感情がある。感情に私の脳は瞬間的に反応できる。わずかなきっかけで遠い昔のことでも人の顔でも言われた言葉でも味でもニオイでも色でも温度でも伴って思い出せることがある。

 人にはそれぞれに異なる脳の能力がある。優劣はあるが、基本は同じである。だれの脳にでも何の役にも立たないと思われるささいな記憶や暗誦が詰まっている。複雑な回路が何かのきっかけで突然つながり、流れ星が飛び込んでくるかのように記憶や暗誦が戻る瞬間を分かち合えることも幸せである。幸せは仕合わせとも言う。恩人の暗誦が私に感動を、驚嘆を、し合わせてくれた。私の脳の細胞のどこかにこの共有された記憶が留まる。拍手。


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