団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

赤ちゃんの時、履いた靴

2022年04月27日 | Weblog

  孫の一人が、成人式後の誕生日を迎える。以前、彼の母親から預かっていた赤ちゃんの時、初めて履いた靴をメッキして記念に贈ることにした。孫が生まれた時から、成人式の年の誕生日に贈ると決めていた。ネットで『ファーストシューズ』と入れて検索するといくつかの業者が出た。そのうちのセレクトショップLifeDecoライフデコの写真が良さそうなので、手続きして申し込んだ。カード決済しか受け付けないというので、カードで決済もした。ところが数日後メールが来た。「…大変申し訳ございません。こちらのサービスは現在コロナウイルスの影響もあり休止しており、承ることができません。…」 ここでもコロナかと、別の会社を探した。

 『おもいでめっき』という商品名だった。ねっとで申し込むとすぐに靴を送る梱包セットが届いた。もう20年も経った靴。少し変色していた。このままなら早晩ボロボロになってしまうだろう。メッキすれば長く保存できる。古いからと断られたらどうしようと思いながら梱包した。クロネコヤマトの営業所に持ち込んで発送した。

 会社からメールでメッキ可能なので作業に入ると連絡が来た。誕生日までに間に合うだろうと高をくくった。誕生日があと10日くらいという頃、メールで2週間遅れると言って来た。それでは困る。メールでどうしても孫の誕生日に間に合わせたいので、何とかならないかと訴えた。返事がない。3日待って、電話した。まだメールを読んでいなかった。しかし担当者は、何とか間に合わせますと言ってくれた。誕生日の4日前に製品が届いた。箱を開ける前から、メッキ工程で使われたであろう硫酸溶解液の臭いが鼻についた。開けた。あの古びた赤ちゃん靴が、光沢のあるブロンズ色になっていた。

 以前、接着剤で写真立てと一緒に固定させてから贈ろうと計画していた。台は、近くの店で、白木の板を買って、自分で塗装して用意しておいた。妻は、もらった本人が飾りたいように、接着剤で固定しない方が良いと言った。クッション材でしっかり押さえて箱に詰めた。クロネコヤマトから送った。誕生日前日に届く。

 親は、初めての子供が生まれると、無我夢中で先の事を考える余裕がないものだ。私も自分の子供が生まれた時、子供たちが初めて履いた靴がどうのこうのなんて思いもしなかった。手の型、足の型、髪の毛で筆を作るなんていうのもあるらしい。何も残してあげていない。爺さんになると、いろいろ過去の経験から知恵がつく。私は、孫が生まれるたびに、赤ちゃんが履いた初めての靴、もしくは赤ちゃんの時履いた靴をとっておくように言って、預かっている。成人を迎えた誕生日に、その靴をメッキ加工して贈る。今回、そう決めて初めて実行することができた。20年という月日の流れを、改めて実感する。

 

 『おもいでめっき』問い合わせ先:〒435-0047 静岡県浜松市東区原島町501-1電話053-463-9438 株式会社ゴトー理研 www.omoidemekki.com info@first-shes.jp

 


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乗り遅れ

2022年04月25日 | Weblog

先週の金曜日、用事があって電車に乗った。電車を降りてホームを歩いて、階段を降り始めた。幅が7,8メートルある広い階段。私は手すりのある端を手すりに手を触れさせて降りた。あと少しで階段が終わるという所で、広い階段の真ん中あたりを降りていたおばあさんが前にひれ伏すように崩れ落ちた。私は、駆け寄った。おばあさんの左側の腕をとって顔をあげさせた。右側から女性がおばあさんの脇の下に手を差し入れて「大丈夫ですか?」と声をかけた。最初おばあさんは、声が出せなかった。私と女性は、おばあさんを両脇で抱えて、立たせようとした。でもおばあさんの膝がフニャフニャできちんと立てなかった。しばらく私と女性は、おばあさんを両側から支えていた。だんだん膝がしっかりしてきて立てるようになった。「もう大丈夫です。ありがとう」と交互に私と女性に向かって頭を下げた。女性が、「本当に大丈夫ですか?救急車を呼んだらどうですか?」「大丈夫です。主人と一緒ですから」 ここで初めておばあさんの旦那が後ろに立っていたのを見た。彼は呆然としているだけで、喋りも動きもしなかった。小さな旅行鞄を持っていた。おばあさんがちゃんと立って歩き始めたので、女性も私もその場を離れた。

 女性は、もう一人の女性と急いで、乗り換えホームの階段を、勢いよく駆け上がって行った。上のホームから「〇番線の〇〇行きドアが閉まります」と聞こえて来た。私は間に合えばいいのだがと思いながら、改札口の脇のトイレに入った。用を足して出て来た。さっきの女性の二人連れがトイレの方に歩いてきた。電車に乗り遅れたのだ。顔を見合わせた。そして自然に会釈した。女性は、歳の頃40歳くらいだった。二人とも荷物を持っていなかった。どこのどんな人で、どうしてあそこにいたのかは、わからない。でも、とても溌溂とした清々しい感じがした。

 女性を見て、私が若かりし頃、東京へ塾の教材の購入に行った帰りに上野駅であったことを思い出した。あの頃はまだ信越線は、上野駅が発着駅だった。最終電車に乗ろうとしていた。構内を歩いていると、男性が床にスーツケースの中身を散乱させていた。よく見ると男性は、盲人だった。床に座り込んで手探りで散らばったスーツケースの中身を拾っていた。「どうかされたんですか?」「スーツケースの鍵がきちんとかかっていなくて、開いてしまったのです」 私は、手伝ってちらばったモノを彼に渡した。彼は一つひとつ手で触って確かめてスーツケースの中に入れていった。すべて終わった時には、私が乗るはずだった最終電車の発車時間は過ぎていた。盲人の男性は、私の住所か電話番号を教えてくれと言ったが、そうすることはしなかった。その晩、上野の安い旅館に泊まって、翌朝上田へ帰った。乗り遅れたことを悔いることはなかった。

 困ったときは、お互い様。私も歩いて、ふらつきやつんのめることが多くなった。だからエレベーターやエスカレーターがあれば、使わせてもらう。階段は、必ず手すりを触りながら降りる。隠居は、時間が有り余っている。何事もゆっくりたっぷり時間を使ってする。まだ誰かが困っている時、私なりにお手伝いできることはする。でもできないことは若い人たちを頼る。無理はしない。乗り遅れても、待てば、次があるのだから。

 せまいニッポン、そんなに急いで、どこへ行く!のんびり安全優先でいこう。


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スミちゃん

2022年04月21日 | Weblog

  萩本欽一は、好きなタレントである。欽ちゃんと呼ばれて親しまれている。コント55号で坂上二郎と組んで、日本のお笑い界の頂点に立った人である。その欽ちゃんも80歳になったという。20日午前中ラジオを聴いていた。萩本欽一がニッポン放送の垣花正の『あなたとハッピー』の番組の中でインタビューを受けていた。番組の初めの頃は、軽妙な喋りで相変わらず面白かった。

 欽ちゃんは、今、病院通いをしている。最近、ひと月に4回階段から落ちたという。医者に「先生、ふらつくんです」と訴えると、「みんなそうです」と言われた。それで気が楽になったそうだ。歳をとれば、誰でもふらつくのだと納得した。私も散歩中、よくふらつく。欽ちゃんの話を聴いていて、私の気も楽になった。

  欽ちゃんの魅力って何だろう。タレントには鼻につく人が多い。毒舌家が主流。でも欽ちゃんには、優しさがある。悪口、馬鹿にする、いじめ、エログロがない。安心して観ていられる。渥美清、田中邦衛に通ずる優しさを感じる。

  嬉しそうに楽しそうに話す欽ちゃん。司会者が「今、欽ちゃんが一番欲しいものは何ですか」と尋ねた。しばらく間があって、答え「スミちゃん」。私はスミちゃんって誰と思った。奥さんの名だった。欽ちゃんは、1年以上前に奥さんの澄子さんを癌で亡くしていた。欽ちゃんの「スミちゃん」の言い方が、凄かった。そこまで楽しそうに話していた欽ちゃんの声質が一変した。何とも言えない哀愁のこもったものだった。

  澄子さんは、欽ちゃんより2歳年上の姉さん女房。浅草の劇場で踊り子だった。同じ劇場に出演していた欽ちゃんと知り合った。スミちゃんは、欽ちゃんのファンだった。欽ちゃんの才能を見抜き応援した。同棲して、金銭的にも欽ちゃんを助けた。やがてスミちゃんが見抜いた通りに欽ちゃんがテレビに出て売れ出した。欽ちゃんは、スミちゃんと結婚したかった。そんな折、スミちゃんがいなくなった。スミちゃんは、自分のような者が、欽ちゃんの近くに居たら、欽ちゃんに迷惑がかかると身を引いた。欽ちゃんは、テレビに出ている時、スミちゃんに戻って来て、と訴えたそうだ。その後、晴れて2人は、結婚をして3人の子供を授かった。家にテレビ局、新聞社などの人が多く出入りするようになった。スミちゃんは、東京を離れて、田舎で3人の子供を育てた。欽ちゃんの活躍は、誰もが知るところだ。

  欽ちゃんは、言った。スミちゃんは、ずっと私の一番のファンだった。スミちゃんを失くしてから、誰かいい人がいたら再婚しようと、嫁さんになってくれる人を探したという。でもスミちゃんを超える人は、いない、と日増しに思えた。スミちゃんが、生きている時、そうスミちゃんに言ってあげたかった。それができなかった。だからスミちゃんが欲しい。

  人間は、一人でも支えてくれる人がいたら生きられる。ましてや、その人がファンであってくれたなら、なおさらだ。コロナ禍で、私の友人夫婦も皆、2人が1単位となって自粛生活に耐え続けている。夫婦仲良いことは、素晴らしいことだ。幸い、こんな私を、妻は支えてくれている。欽ちゃんが、スミちゃんが生きている時、言ってあげたかったことを、私は言える機会をまだ持っている。その事が、とても嬉しく感じる。


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小学校の思い出

2022年04月19日 | Weblog

  近くの小学校でも入学式が終わったようだ。新しいランドセルを背負った学童を見受ける。まだ小さいのでランドセルが異様に大きく見える。

 あのランドセルの中には、いったい何が入っているのか。私の記憶では、入学のお祝いで親戚からもらった文房具のセットが、入っていたように思う。あの頃、町の文房具屋で、入学シーズンになると、鉛筆、ノート、下敷き、線引き、消しゴム、などが入った特別に包装されたものが、売られていた。値段によって中身に違いがあった。親戚が奮発してくれたのか、私がもらったセットは、豪華版だった。保育園で使ったモノは、見当たらなかった。使ったこともない触ったこともない物ばかりに、興奮した。夢ではちきれそうだった。

 なにげなく毎日を過ごしていた生活から、学習という何だか重苦しい世界に、これから足を踏み入れなければならない不安を感じた。小学校の教室は、保育園の雰囲気がなかった。小学校に入ったばかりの頃、私は、時計の時間の読み方がわからなかった。周りの大人が、何時何分と言っても、何時というのは、わかったが、それ以外は理解不能。朝になったから、1日が24時間、1時間が60分、1分が60秒…。宇宙の彼方に放り出された様だった。分を読む時1なのに5分、2なのに10分、3なのに15分…。頭の中がこんがらかってしまった。しかし小学校での学習が、見事に私に時計の時間の読み方をわからせた。こうして何とか学ぶ世界に居場所を見つけることができた。

 小学校の中で好きな場所は、図書館だった。大きな部屋の中に本がたくさんあった。学年が進むにつれて、語彙も増え、読書が楽になっていった。読書が楽しくなった。加えて、学校で図書室の本を1カ月に何冊読んだかの行事があった。それが刺激になって多くの本を読んだ。本を読むと、大人への階段を一歩また一歩と上がっていける気がして嬉しかった。

 団塊の世代の先頭にいた。1クラスに50人以上の生徒。更に生徒が転校などで増え続けて、とうとう4年生から5年生になるとき、クラス替えがあって1クラス増えた。5,6年の担任は、私の学童生徒学生生活の中で最悪の教師だった。教師がいかに生徒の人生に影響を与えるかを経験した。

 小学校5,6年の教室でのことは、思い出したくない。5,6年生の思い出は、何と言っても春と秋の農繁休みだ。農家の子以外は、学校が割り振った農家へ手伝いに行った。学年クラスが別々な5,6人がグループになって農家へ行った。この楽しみは、昼食だった。農家が用意した美味しいご飯が食べ放題。白いご飯。家では食べられないものだった。私の手の指には、稲刈りの時、鎌で切った切り傷がしっかり残っている。

 今度のロシアのウクライナ侵略で世界の食糧事情が一変した。日本の食料自給率は、低い。私は、再び小学校中学校は、自校農園を持って、生徒たちを動員して、せめて自校の食料は、確保できるくらいになるべきだと考える。自国の防衛は、軍隊ばかりではない。国民の食糧を確保するのも防衛である。勉強は、教室で学ぶだけでは不十分である。

 小学生の私でも農家の手伝いができた。休耕田や放置田畑は、増える一方。立ち上がれ、全国の小中学校。やればできる。もうすぐあちこちで田植えが始まる。


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大本営発表

2022年04月15日 | Weblog

  ロシアのウクライナへの侵攻は、2月24日に始まった。いまだにこの戦争を終わらせることはできていない。国連、NATOEUなど、どの機関や国家も決定的な介入ができていない。世界中が、ただロシアの無謀で野蛮な侵略を傍観するのみである。

 

 今日、4月15日は、北朝鮮の故金日成主席の生誕110年の記念日である。北朝鮮もすでに核保有国である。今回のロシアのウクライナ侵攻は、北朝鮮に大きな影響を与えている。北朝鮮は、今日の記念日に、核実験かミサイルの発射実験を行うと思われている。核を保有していれば、有事において、事を有利に展開できると実証されてしまった。

 

 5月9日には、ロシアの第二次世界大戦の戦勝記念日がやってくる。ウクライナに攻め入ったロシア軍は、この日に戦勝宣言を出す腹積もりで、攻撃を激化させているという。愚の骨頂としか言いようがない。

 

 ウクライナのブチャで虐殺があったとの報道がされたと思えば、ロシアはフェイクだと反論する。13日には、ウクライナがロシア黒海艦隊の旗艦であるミサイル巡洋艦「モスクワ」をミサイル攻撃したと発表。ロシアは、ただの火災であると反論。これらのニュースに接していて、私は、第二次大戦中の日本の大本営発表のことを思った。大本営の発表は、欺瞞と独善であった。今回のロシアは、まさに独善と欺瞞そのものだ。愚かさに悲しくなる。

 

 第二次世界大戦中、英国のチャーチルが「A lie gets halfway around the world before the truth has a chance to get its pants on.(私訳:本当の事が、身支度をしようとしているうちに、嘘は世界を一周してしまう)と言ったとか。

 

 現代は、更にSNSなどの発達で、本当の事も嘘も一瞬で世界中に拡散してしまう。正直、どれが本当で、何が嘘なのか見極めが、難しい。こんな不確実な社会に生きているのが嫌になる。

 

 今回のロシアのウクライナへの侵略は、日本にも影響を与えている。参議院議員選挙も近い。各政党の日本の有事に対する見解を知りたい。与党自民党は、防衛力の強化を訴えている。野党は、急にダンマリ。唯一、日本共産党の志位委員長が、自衛隊に関して容認するような発言をした。

 

 私は、いかなる戦争にも反対する。日本が存在感を出せるのは、かつての永世中立国だったスイスのような国になることである。病院船を主軸にした平和部隊を持つ。軍拡競争に加われば、ただ軍事産業を儲けさせるだけである。あちらで戦争があって怪我人や難民が出ていると聞けば、助けに行く。こちらで感染病が発生すれば、駆け付ける。むこうで大災害が発生すれば、いち早く参じて、避難所となる。外国語を話せる最新医学を学んだ医療従事者、世界のどこへでも病院船を動かせる優秀な船員。何より最先端の造船技術と医療器械を活かせる。現在、ウクライナは世界の多くの国々が、支持応援しようとしている。日本も世界に貢献できる平和部隊を持てば、必ずや支持される。野党がなぜこのような展望を発言提言しないのか不思議。国会議員の使い道自由、領収書不必要の月百万円の交通費を、ゴチャゴチャ言いながらうやむやにしてしまう。お手盛りに執心せず、もっと日本の未来を考えるために使ってくれ。

 

 この数日の冬への逆戻りになる前、気温が夏日になったほどいい天気が続いた。家の近くの八重桜が満開になった。崖の上の八重桜と道路の川淵の八重桜の枝が重なり合って、凱旋門のようだった。日本には、凱旋門がない。それで結構。いつの日にか、世界のどこかで貢献できた病院船を主軸した平和部隊が、満開の桜を凱旋門のようにして、帰還する夢をみる。

 


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本を買う

2022年04月13日 | Weblog

  今年のアカデミー賞で国際長編映画賞に『ドライブ・マイ・カー』が選ばれた。その映画に出演していた女優三浦透子に関する記事の中に次のような記述があった。「…幼い頃から絵本や童話に興味を示す読書好きで、祖父に書店へ連れて行ってもらう度に、数学関連と思われる専門書から、小説やアート系の本まで10冊ほど買い込んでいました。」

 

 私が育った家庭は、貧しかった。しかし父は、本だけは買ってくれた。小学高学年の時、父の知り合いの本屋に私がツケ(まとめて後払いする)で本が買えるようにしてくれた。それは高校生になるまで続いた。条件はどんな本を買っても良いが、読み終わったら父に内容を話すことだった。伝記や童話がだんだん変わって、年鑑や図鑑になった。毎晩、寝る前に寝床で年鑑や図鑑を開いた。お陰で中学の社会科は、得意科目になった。国語も好きになった。

 

 離婚して私が二人の子供を引き取り育てた。小学6年生と1年生だった。ある日、二人の子供を本屋に連れて行った。一人に3千円渡して、好きな本を買うように言った。どんな本を買うかによって、何に興味を持っているか知りたかった。読んだ本の内容を話すようにも言った。二人とも親に幼い心をズタズタにされていたが、本を読むことによって、別の空間を見つけたようだった。

 

 二人の子供は、今、それぞれ家庭を持った。長男には、男の子二人、長女には男の子一人いる。本当は、三浦透子の祖父のように、孫をそれぞれ本屋へ連れて行って欲しい本を買い与えたい。残念ながらその機会が持てなかった。孫たちは、3人ともサッカーをやっている。とても私と時間を過ごすことなどできない。機会があれば、図書券を贈ることにしている。

 

 図書券の他に、読んでおいてもらいたい本があれば、私から送っている。内容を直接話してもらいたいが、それはできない。中学生以上の孫には、本の内容と感想を400字以内にまとめて送ってもらっている。最近では、遠藤周作の『十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。』新潮文庫400円(税別)を送った。

 

 長男から珍しく郵便封書を受け取った。中に大学生になった孫の学業成績書なるものが入っていた。長男が「1年次の成績を送ります。父親の時よりずっと優秀です。」とあった。難病を患い、高校を入院のため休学して、出席日数が不足して卒業が危ぶまれた。長男の喜びが良くわかる。長男と孫は、同じ大学。そういえば、長男は毎学年終了前、大学から単位不足で留年する可能性があるので、親から厳しく注意して欲しいと言って来たものだ。アルバイトと同好会を学業より優先していた結果だった。ギリギリ留年することなく卒業できた。

 

 長女の子と電話で話した。新学年の祝いに図書券を送ったことの返礼だった。「今度何年生になるの?」と質問した。「5年生」と答えた。私は、彼がてっきり小学2年生から3年生になると思っていた。そうコロナのまるまる2年間がすっかり私の中から抜けていたのだ。もう2年会っていない。私が老いて呆けたせいもある。

 

 祖父が呆けても、孫たちはそれぞれが育っている。孫たちからの読書感想文は、彼らの成長を感じられる嬉しい便りである。

 


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体の中の宇宙

2022年04月11日 | Weblog

  胃液が逆流して口まで上がって来た。こんな事長い間なかった。はっとした。外の事ばかり気にしていて、自分という存在に意識を向けていなかった。胃液のあまりの強烈さにたじろいた。こんな強い液体が私の胃の中にある。普段、存在さえ考えてもいない。胃液ばかりではない。私は私の体のことをほとんど知らない。体は、不思議の塊だ。

 私は、散歩する時、周りに人がいなければマスクを外す。そしてディープブレスを繰り返す。1,2,3と数えて鼻から息を吸う。吸った息を1,2,3,4,5,6,7と数えながら最後の1ccまで吐き出す気持ちで噴き出す。普段、自分が呼吸していることさえ意識していない。呼吸という動作が、肺で血液に新鮮な酸素を入れていることくらいしか知らない。

  2001年に心臓バイパス手術を受けた。開胸手術だった。今では内視鏡を使って開胸しなくても手術ができるほどに進歩しているという。開胸手術の場合、心臓も肺も止める。つまり死んだ状態になる。人工心肺という凄い器械がある。心臓と肺の機能を肩代わりしてくれるのだ。ただこの器械には、3時間という使用限界がある。開胸手術は、3時間以内に終わらせなければならない。私は、手術中、オリーブ畑にいた。それが死の疑似体験のようなもので、私があの世へ旅立つ途中だったのではという、淡い期待を持っている。つまり死後は無でなく、何かあるのではという期待。

  私は、私の心臓も肺も実際に見たことがない。今私が生きているということは、心臓も肺も正常に機能しているということだ。わかるのはその程度である。体の事は、万事その程度しかわからない。器官の名前は知っていても、役目や構造などわからないことだらけである。医者の妻にいろいろな質問をする。妻は、医学でも人体についてわからないことの方が多いと言う。医者がそう言うのだから、私にわからないのは当然だ。

  目で見る世界が、映画や写真と違って、現実そのままである不思議。鼻から知るコーヒーの香しい匂い。耳に入って来る朝の小鳥たちのさえずり。妻の手を握った時伝わる、ぬくもりとすべっこさ。ペッパーステーキを食べた後、口に残っていた胡椒の粒が弾けて、舌が再度ペッパーステーキを食べたことを思い出してしまう心地よさ。ロボットや機械や仮想世界と違って、一歩間違えば、血が噴き出し、命が途絶える儚さを併せ持つ。人間の体は、宇宙である、とどこかで読んだのか聞いたことがある。宇宙のように神秘的であり、また実用的によくできている。

  宇宙そのものを体の中に持つもの凄い存在である人間が、ウクライナでボロキレのように意味もなく殺されている。病気でもない、事故でもない。殺戮である。宇宙がひとつ、またひとつと消されている。

  私のようなたった一人の狭心症の患者を救うために、人工心肺などの高価な最先端医療機器が使われ、十数人の医療スタッフが手術に携わってくれた。なのにウクライナでは、人間が、ミサイルや爆弾で一度に何十人何百人という、それぞれが体内に宇宙を持つほどの尊い人間を、木っ端みじんに殺す。殺すことより生かすことに、皆で手を携える未来が来ることを願う。


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山菜ソバ

2022年04月07日 | Weblog

  2001年に受けた心臓バイパス手術が終わって、最初に出た食事は、山菜ソバだった。

  麻酔で意識がなくなってから、麻酔から覚めるまでの間、何があったか知る由もない。ただ私は、整然と等間隔に植えられたオリーブ畑の中にいた。地面は、黄色い花におおわれていた。動物も昆虫も人もいなかった。音もなかった。

  手術室に入る前、妻と子供たちが見送ってくれた。手術は、手術室に入ってから出てくるまでに7時間だった。私は記憶がないが、妻の話では、手術室からストレッチャーに乗せられて出て来た時、妻や子供たちの問いかけに涙を流していたという。私の鼻、口は、何本ものチューブが挿管されていた。声を出すことはできなかった。

  翌朝、私はCCU(循環器疾患集中治療室)で目を覚ました。腹が減っていた。笑った。あれだけの手術を受けた後、腹がちゃんといつものように減っていた。そのことは、自分がまだ生きている証だと実感した。腹が減って当たり前。手術は、心臓のものであって、消化器系統にメスは入っていない。何本も入れられていたチューブすべてが抜かれた。声が出るようになった。

  妻と娘は、前の日、私の手術が無事終わったのを確認して家に戻っていた。翌日、また病院へ来てくれた。妻は私に「朝飯食べた?」と尋ねたそうだ。私は「うん。山菜ソバを食べた。美味かった」と言ったそうだ。私はまったく記憶がない。

  山菜ソバを美味かったと言った事が信じられない。なぜなら私は今までに山菜ソバを食べたことがなかった。蕎麦屋のメニューに山菜ソバがあっても、注文しようと思ったことがない。山菜という表示に偏見を持っている。山菜といっても、どうせ水煮の缶詰かなにかを、ちょこっとのせたものだと決めつけていた。蕎麦屋でわざわざ注文して食べるモノではない。

  昨日、行きつけのスーパーでワラビを見つけた。思わず買ってしまった。まだ山でワラビが採れる季節ではない。温室での促成栽培と解っていても買ってしまった。ワラビを見て、20年前の心臓バイパス手術の後、初めての食事が山菜ソバだったことを思い出した。

  山菜ソバは、未だに蕎麦屋などで注文していない。山菜ソバにのっている山菜が、店主自ら山で採ってきて、店で調理してソバにのせているなら喜んで食べるだろう。でもそんな話聞いたことがない。山菜は、好きだ。子供の頃から、父親や親戚のおじさんたちと山に入ってワラビ採り、キノコ採りに行った。妻が海外赴任して一緒に暮らした国々でもワラビやキノコを採って食べた。

  チュニジアの山にも、たくさんのワラビがあった。現地の人たちは、だれも食べない。チュニジアのローマ時代のモザイク博物館がある。当時のローマ人の食べ物のモザイク画がいくつもある。そこで私は注意深くワラビを探してみた。ない。どうやらローマ人はワラビを食べ物と見ていなかったようだ。ロシアのサハリンでもたくさんワラビを採った。ワラビを食べるのは、中国、韓国、日本だけらしい。

 ウクライナにもワラビは、きっとあるだろう。以前ポーランドで暮らした知人が、春に山野でワラビ採りを楽しんだと言っていた。たとえ、ウクライナの人々が、ワラビを口にしなくて、せめて山野にワラビがミサイルや砲撃や地雷に吹き飛ばされることなく、自然のままに生える春を迎えられることを願う。2月に始まったロシアのウクライナ侵攻もすでに2ヶ月になろうとしている。ロシア軍に包囲されたり攻撃が激しい地域の住民は、飢餓に直面しているという。切ない。いてもたってもいられなくなる。もう殺し合うのは、やめてくれ。

 私は、高度医療で命を救われた。山菜ソバの山菜がどうのこうのと減らず口を叩いている。今、ウクライナの多くの人々が、命がけで求めている平和と自由を持てている。何もできない自分を情けなく思う。せめて今までに自分の受けた、今、受けている恩恵に感謝して生活しようと思う。


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桜守

2022年04月05日 | Weblog

  家の前の桜並木の桜の花が散った。このところ気温が上下して、雨が降った。桜に雨は似合わない。やはり桜は、青い空と春の温かい陽ざしを、従えてこその花である。雨に打たれた桜は、物悲しい。

 桜の季節になると必ず思い出す人がいる。京都の佐野藤右衛門さんだ。佐野さんは、日本の桜守(さくらもり)といわれる人である。数十年前、何かのテレビ番組で佐野さんが「好きな桜の楽しみ方は?」と尋ねられると「ひとりで山の中に入って、1本だけ花を咲かせている桜を前に座ってずっと眺めているのが好き」と答えた。これが私に強烈な印象を与えた。

 佐野さんの本業は、造園業、植木屋である。あの世界的に有名な彫刻家イサム・ノグチと組んで、世界中の国々で日本庭園を造った人である。桜の造詣が深く、いつしか桜守と呼ばれるようになった。本人は、桜は道楽という。ただ桜が好きで、本業とは別に日本全国の桜を調査して、保存に努めてきている。

 家の前の桜並木が花のトンネルのようになる時、私は先人たちがどういう思いでこの桜の木を植えたのだろうかと思う。本人たちは、このような花のトンネルを見ることができたのだろうかと。桜の木が大きくなって立派な花を咲かせて、人々を楽しませてくれるようになるには、長い年月がかかる。現代は、ことごとく目の前の事にしか対応できない。10年先100年先への備えや期待が持てていない。

 4月2日土曜日夕食を終えて、テレビを観た。いつものようにどこの局もクダラナイ番組ばかり。そんな時はリモコンの1から12までをカチャカチャ押して、迷子のように“何か”を探し求める。地デジ全局、BS、BS4Kと移行。画面に、4人が赤い毛氈を敷いた床几に座っていた。外側に男性ふたり、中に和服の女性。向かって右側の歳を取った男性。凛として風格がある。いで立ちも洗練されている。ダウンジャケットは、先日ニュースで観たロシアのプーチン大統領が着ていたイタリアの高級ブランド『ロロ・ピアーノ』の160万円のモノより格段上のように見えた。え!まさか佐野藤右衛門さん!94歳。

 佐野さんの一言ひとことが、私の心に突き刺さる。司会のアナウンサーも二人の女性も言うことなすこと空回り。どうしてこうもキャスティングが悪いのか。せっかく佐野さんほどの人がテレビに出演するのに、彼と互角に対応できる人を選べないのか疑問である。それはまるで山の中に見事に咲く桜の木があって、その周りに雑木が生えているようだ。せっかく佐野さんが出演している番組に巡り合えたのだが、内容には失望した。それでもまだ佐野さんが元気でいることが確認できたのは、嬉しかった。

 今朝、妻を駅に送っていく途中、桜並木の中に混じっている八重桜のつぼみが赤く色づいてきていた。八重桜は、まるで数で圧倒するソメイヨシノが散るのを待っているようだ。自然界は、出番をわきまえていて、毎年同じことを繰り返すようだ。人間社会の愚かさを知っているのか知らないのか。

  佐野藤右衛門さんがひとり山の中に分け入って、黙って桜に対峙している姿が浮かぶ。


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セールスマンからのメール

2022年04月01日 | Weblog

  カナダ留学から帰国して、自分で初めて買った車は、トヨタのカローラだった。担当のセールスマンは、当時売り上げがトップクラスとして、名をはせていたSさんだった。父親が彼を勧めてくれた。車を売るのではなく、自分の人柄で客に対応する人だった。当時世の中の景気も良く、セールスマンの売上競争も激しかった。マスコミで伝説の成功したセールスマンが、よく取り上げられていた時代だった。Sさんは、客の話をよく聞く人だった。痒い所に手が届く、気配りができた。何よりも客との心地よい距離を保てる人だった。出来ることは精一杯やり、できないことはキッパリと、できないと丁寧に言った。彼がセールスマンとして成功するのも当然だった。

  去年車を買い替えた。後期高齢者になる直前である。ニュースで年寄りが幼い子供や学童を犠牲にする交通事故が多発している。私もいつ重大な事故を引き起こすか不安になっていた。運転免許証の返還も考えた。しかし妻は、まだ遠距離通勤して働いている。せめて駅までの送迎はしてあげたい。若い頃から見栄坊で、他の人より排気量の大きいかっこよい車に乗りたい願望があった。今住む集合住宅の駐車場には、国産車より外車の方が多い。乗る車で人の優劣が決まらないことは知っている。それでも値段の高い車と自分の車を比べてしまう。妻は、違う。見栄を張らない。偉いと思う。妻の意見に従うのが最良だと判断した。ただしトヨタの今までのセールスマンは、いけ好かなかった。お調子者を通り越していた。口だけ人間で何度も騙された。

  販売店の店長に直訴してセールスマンを代えてもらえるか打診した。店長直々に他のセールスマンと一緒に相談のために家まで来てくれた。私たちの条件は、定期点検などで車を店に持ち込む時、車を我が家に取りに来て、終わったらまた届けて欲しいということだった。了承してもらえた。車を購入した。1回目の定期点検、2回目と約束通りにやってくれた。今回3回目が3月30日だった。メールで担当セールスマンが「30日、午後2時半までに車を店に…」と知らせてきた。私は思った。また前任のセールスマンと同じかい。1,2回は、約束を守ったが、3回目には、なかったことになった。やはり多くの会社と同じで、売る前と売った後では態度が豹変する。

  私はセールスマン宛てに、手紙を書いた。30日時間通りに車を店に持ち込んだ。セールスマン本人は、出てこなかった。担当者に1時間くらい点検にかかると言われた。バスで自宅に戻った。再びバスで店に戻った。点検は終わっていた。車に乗り込む前に、封筒に入れた手紙を係員に、「これHさんに渡してください」と言って渡した。その係員は、私の封書を開けようとした。封書には、Hさんを宛名にしてある。いったいこの人どういうつもり。「Hさんに渡してください」と言った。半分封を開けた指を止めた。

  次の日、Hさんからメールが届いた。「この度は、私の至らぬ対応で大変ご迷惑をお掛け致しました。……私の至らぬ対応で失望させてしまった事を深く反省しております。…。」 私は、手紙でなぜ私が失望したか伝えた。Hさんは、まだ若い。私が最初の車カローラを買ったセールスマンの話も書いた。客との約束を守るのも小さな積み重ねで、いつか自分の実績につながる。ロシアも中国も国家として、約束を守らない。日本は日本人は、馬鹿と言われても頑なに約束も法律も常識も守る続けて行けばよい。うるさいジジイは、それを願う。

  私は、嫌なクレーマーに違いない。海外で長く暮らした。勢いがあった日本が、他国企業に家電製品などが次々に追い越される様を見せつけられた。車産業は何とか持ちこたえている。しかし私が住む集合住宅の駐車場にでさえ、国産車は、私の車を含めて5台、率にして3割だ。社員教育も会社自体の客に対する対応を再考しなけければ、車産業も家電製品の二の舞になてしまう。日本一の大企業トヨタの販売店でさえ、日本人は、劣化しているとは思いたくないが、身の回りに腑に落ちない人たちが、多すぎないだろうか。


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