団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

MRI

2011年01月27日 | Weblog

「コン コン コン」とも「トン トン トン」とも聞こえる。(ノックかな?)

 「ビービービー」(今度は侵入者感知警報の音か?)

 「ピー『ド』ピー『ド』ピー『ド』ピー『ド』」(遠くから聞こえる祭りのお囃子か?)

 「ドッ ドッ ドッ ドッ ドドドド」(何、今度は削岩機かよ)

 私は、病院のMRIのまるで棺おけ中のような空間に、耳栓をして、検査用の上下の寸足らずの淡い水色の服を着て横たわっていた。


 最近肩こりがひどく、主治医に相談すると「首のMRIを取ってみましょう」と笑顔で言われた。
検査の日、検査技師から質問票を渡された。○あなたは閉所恐怖症ですか? はい いいえ ○入れ墨がありますか? はい いいえ などなど。こういう時、私のなんでも質問したい病が首をもたげる。閉所恐怖症ってどんな病気なのですか? 入れ墨しているとMRI検査にどんな影響があるんですか?入れ墨には、金属製の顔料が含まれているのですか?それはいったいどんなモノなのですか?ああ、聞きたい、知りたい、教えて欲しい。そんなことに集中していたら、あっと言う間に「○○さん、検査室にどうぞお入り下さい」とスピーカーで呼び出された。

 前回のMRIは脳の検査だった。じっと動かないようにと両腕を不自然に組まされて、検査中耐えた。終わると両腕が硬直していて、すぐには元に戻らなかった。今回検査機械のトンネルに入る前に、本当に幅の狭い寝台に寝かされ、両手を横に置いて置くように指示された。検査技師にしても、医師にしても、検査機械の設計者、製作者にしても、実際に自分がこの検査を受けたことがあるのだろうか。きっとないのだろうと私は思う。例えば、私のように検査を受け、「両手を横において置いてください」と言われる。狭い寝台が狭い機械の中にねじ込まれて、不快な音を耳栓で防御しながら姿勢を固定させている。さて両手を横にと置く場所を手探りで探す。「ない」寝台は狭くて、私の体でめいっぱいだ。その下に手を置くと、そこは寝台を前後左右に移動させるレールである。手を挟まれたら大変だ。では両手をどこへ?ウソだろう!両手を空中に浮かせて置かねばならないの!

 そうやって20分間、懸命に両手を浮かせていた。臨機応変に器用に世渡りできない私が情けない。終わった時、脳のMRI検査の後のように手が疲れていた。ロボットのような動きで検査室を出た。約40分待って、主治医の診察を受けた。「ここに狭窄があります。整形外科の先生に所見を聞いて、次回に説明します。そこ以外に問題はありません」と言われた。首の骨の先っちょのトンガリが神経などが集る管の白く写る壁に食い込んでいる。その先っちょにまったく白い部分がない。私は妄想をたくましくして、やがて骨の先っちょが防護壁を突き抜け、神経の束をズタズタにする。目、運動神経あらゆる機能が麻痺する。暗い気持で家に帰った。

 帰宅した妻にことの詳細をまるで重大な告白のように話した。妻は「大丈夫。そんなこと何も心配することないよ」と言った。どこまでも明るい。救われる。私のMRIの機械の中で作った詩を朗読するとケラケラ笑った。首の狭窄なんて、もうどうでもよくなった。

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いつのまにか

2011年01月24日 | Weblog

 “いつのまにか”が好きである。電車の中で本を読んでいて、気がついたら降りる駅に着いていた、こんなのが最高である。居眠りしていて、目が覚めて口の周りにわずかによだれがたれ、降りる駅とわかって、あわててよだれを手でぬぐいつつ、飛び降りる。そのような、いつのまにかではない。集中して何かを一生懸命にやっていて、気がついたら、もうこんなに時間が経っていた。そういう“いつのまにか”が好きだ。

いつのまにか、と言っても1年5年10年では困る。一日の中で「えッ」と思う程度の最大でも数時間の長さがいい。友人を招いて食事をともにし、飲んだり話したり食べたりして、気がついたら時間が思わぬほど過ぎていた。そんな時間が好きだ。期待以上の内容で気持が引きこまれる本を読んでいたり、没頭して何か書いていたり、夢中で話し込んでいたりする時間である。テレビを観ていても、寝ていても、ぼーっとしていても、それは簡単には実感できない。

 

 私は今年、“いつのまにか”をたくさん経験したいと願っている。

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逃げた大統領

2011年01月19日 | Weblog

 

 23年間独裁政治を続けたチュニジアのベンアリ大統領(74)が、とうとう国を捨て、飛行機でサウジアラビアのジッダへ脱出した。今回の政変は、チュニジアの国花から“ジャスミン革命”といわれている。いったい逃げた元大統領一族は、チュニジア国民の財産をどれほどふところにしたのか。チュニスでの民衆のデモの写真に目が釘づけになった。私は、2000年から2003年まであしかけ3年間チュニジアの首都チュニスに暮らした。カルタゴ遺跡に隣接する大統領府の近くだった。借りた家の大家は、もと大統領府で定年退職するまで働いていた人だった。今でもジャスミンの香り漂う家を懐かしく思う。

 チュニスに住む日本人は、ベンアリ大統領を杉良(すぎりょう)と呼んだ。俳優の杉良太郎によく似たまゆげの濃いひとだった。もちろん直接会ったことはない。しかし多くの独裁者が好むように彼は、国中に自分の写真や肖像画、銅像を散りばめていた。イヤでも私も杉良の顔を覚えてしまった。今でも鮮明にその顔を思い出すことができる。

 1月18日現在、チュニジア在住の日本人175人、旅行者205人の無事が確認されているという。そもそも今回の騒動は、地方都市でひとりの少年が野菜を売ろうと屋台を道路において、商売しようとしたところ、警察官に排除されたことから始まった。悲観した少年が、抗議の焼身自殺したことから、一気に反ベンアリ大統領デモが始まった。あっという間に野菜売りの少年の焼身自殺を知らしめたのは、携帯電話とネットだった。私が住んでいた時さえ。固定電話を設置するのに数年待たされるのが普通だった。ところが携帯電話が普及し始めると、携帯電話はあっというまに国中に拡がった。私がまだチュニスに住んでいた時、フランスの大手スーパーのカルフールがチュニスに大規模ショッピングセンターをオープンした。もちろんそのスーパーの現地会社は、ベンアリ大統領の一族だった。そのカルフールの家電売り場の展示商品はほとんどが韓国勢だった。

 私のチュニジア人の知人の兄弟が携帯電話の販売店をオープンした。知人の妻が日本人ということで、最初日本の携帯電話の代理店になるべく、知人は兄弟と一緒にその準備に奔走した。しかし日本の商社や携帯電話製造会社は、まったく彼を相手にしなかった。多くの日本の役所も会社も傲慢で、新興国の若手事業者を相手にしなかった。過去の実績と信用にばかり目を向け、若者たちの将来性に賭けたり、彼等を支援することもなかった。知人の兄弟は、仕方なく韓国の当時小さな家電会社の携帯電話の代理店になった。電話機能だけの安い携帯電話だった。それでも多くのチュニジア人には、固定電話を何年も待つよりましだった。今では彼はチュニジアでもっとも大きな携帯電話の販売会社の社長である。私は発展途上国の人々の修理能力を高く評価している。車、家電製品、建設機械、パソコンであれ、日本では修理不能と放棄して新品に買い換える。彼等はあきらめることなく、どうにかこうにか稼動させる。それは当たり前なことだった。韓国の製品は安くて修理しやすくデザインが良いと、今ではチュニジアには車も家電品も韓国製品であふれているという。日本の役所も会社も、相手のことを相手の身になって、相手がいったい何をどのように必要なのかを研究しなければ、相手は離れていってしまうことを学ぶべきである。

 日本の製品が今回のように一国の命運を変えてしまうほどの貢献がないことを寂しく思う。日本はいつの間にか、気位だけが高い傲慢なイヤなエリート気取りの国家になってしまったようだ。初心忘れるべからず。もう一度海外諸国との付き合い方を検討すべき時期である。チュニジアは、失業率の高い、観光事業以外、これといった産業の育っていない国である。拙著『ニッポン人?!』青林堂 1143円+税 177~186ページを参考にしてほしい。私の出会った私を「シノワ」と言った青年や少年“ジャポネ”のような多くの貧しいチュニジアの人々にとって、今回の“ジャスミン革命”で今まで権力者一族に独占されていた富の再分配の大きなチャンスであることを願う。日本も何か貢献できることがあればいいのだが。


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『高峰秀子の流儀』

2011年01月14日 | Weblog

 1957年、私が10歳の時、継母と父が大喧嘩した。父が出かけると、継母は私を連れて映画館へ行った。映画は『喜びも悲しみも幾年月』という高峰秀子と佐田啓二主演の燈台守の話だった。なぜか映画の内容もよく覚えている。おそらく映画を見終わってから継母が食堂でカツ丼を食べさせてくれたから、その喜びがあまりに大きくて、私はあの日の映画とカツ丼のことを鮮明に記憶できたのだろう。高峰秀子のことを継母は、「美しいひと、私もあのひとみたいに生まれたかった」と言いながら、私にカツ丼を食べさせ、自分はラーメンをすすっていた。映画を観ながら相当泣いたのだろう。目が赤くはれていた。私には高峰秀子が特別なひとには思えなかった。でも継母があれほど泣いたり、きれいだと言った事は、強く記憶に残った。

 2010年12月28日高峰秀子が肺がんで亡くなった。86歳だった。高峰秀子を知りたくなった。本屋で斎藤明美著『高峰秀子の流儀』新潮社1600円を見つけた。正月休み妻が田舎に里帰りしている間に読んだ。著者の斎藤明美さんが高峰秀子を新興宗教の教祖のように神格化しているのに抵抗を感じた。孤高に生きた高峰秀子がなぜ斎藤明美さんにだけ、これほど入れ込んだのか不思議に思った。しかしそれ以上に高峰秀子の生い立ち、人となりに引きこまれた。事実は小説より奇なり。結婚相手の松山善三さんにも興味を持った。2日で読み終わった。最近の本の傾向である原稿用紙の字数かせぎのような、繰り返しの多さにうんざりさせられた。できれば高峰秀子自身の書いた本を読みたくなった。高峰秀子『私の渡世日記』上下文春文庫各762円を手に入れた。最初からこちらを読めば、先入観なしに読めただろう。ずっと理解しやすく、すーっと心に沁みた。

 私は今までに多くの人間に失望した。それは最初からあまりに相手に期待しすぎたからだった。特に聖職者と呼ばれる人々に裏切られた。どんな人間にも長所、短所がある。その上、厄介な好き嫌いとか相性とかがつきまとう。今回の高峰秀子探索でも彼女を尊敬するひとと認める自分と、何だこんなことをしたり、言ったりしたんだと批判めいたことを考えたりした。高峰秀子が実父の妹の養女になり、映画の子役として5歳から働き続け、学校にはほとんど行った事がなかった。独学で字を習い、何十冊という本を書き上げている。そのことに私は、心を奪われた。学ぶ気持さえあれば、ひとは相当なことまでやってのける。高峰秀子がどの映画に出て、誰と知り合いで、どんな人々と交遊があったとかに興味はない。しかしあの状況でこれだけの教養を身につけた実績を評価する。養母を“デブ”と死ぬまで呼び続けた確執にも驚いた。夫松山善三との結婚生活に共感することも多い。私の高峰秀子は、やはりカツ丼と切り離せない。高峰秀子を供養するためにも近々カツ丼を食べようと思う。

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訃報

2011年01月11日 | Weblog

 1月7日訃報と題した友の友からメールが届いた。友が死んだ。友は奥さんの実家を訪ねていて、そこで動脈瘤破裂で逝った。友らしい。そこは雪深い町である。車で行くには、シンドイところだ。友は、女房想いの優しい男。女房のためなら何でもやる。数年前、友夫婦は老いた母親を介護していた。そんな中、友の女房が重い病気に罹った。女房は、1ヶ月近く無菌室に隔離された。化学療法で髪の毛を失った女房に会うために遠い病院と家と会社を行ったり来たり。ガラス越しに会い、会話は電話機を通して女房を励まし、親を介護して、会社でトップとして切り盛りした。友の支えで女房は、大病を克服した。長い闘病生活を終え、女房が見違えるように元気に帰宅した。それからまもなく老いた母親が急逝した。母親が大好きだった友は深い悲しみに沈んだ。

友の性格や生き方は、友の両親の存在なしに語れない。穏やかで人好きで明るい。大きな田舎の家に老夫婦、息子夫婦の4人で仲良く暮らしていた。私は友も友の家族も大好きだった。海外赴任するために田舎の私の家を空けた。どうしても捨てられないモノが軽トラック一台分残った。友の両親は、「うちで預かる」と何の躊躇も迷いもなく、ごく当然のように言ってくれた。優しさに甘えた。何年も甘えてしまった。日本に帰国するたびに友の家を訪ねた。私たち夫婦の海外での暮らしの話を一家そろって目を輝かして聞いてくれた。いつも私たちを、まるで家族のようにむかい入れてくれた。何年も預けてある山のような荷物の話など一度たりともどうすると聞かれたことは無い。

私は話の弾むときが何より好きだ。友の家族との会話は、楽しかった。友の父親が欠け、母親が欠けても、それは続いた。海外赴任から帰国後、何度か会って話もした。

去年の秋、友は突然会社を定年退職する前に辞めてしまった。友は女房に理由を言わなかった。友の女房は、友に辞めた理由を聞けなかった。私たち夫婦と友の夫婦4人で西伊豆の戸田(へだ)に以前から一緒に行こうと話していた。去年の11月4日戸田の民宿で会うことにした。有名なタカアシガニと新鮮な魚を食べ、酒を飲み、話し込んだ。友と風呂に入った。風呂には二人だけしかいなかった。会社を辞めた理由を単刀直入に尋ねた。友は、答えをはぐらかせた。普段実にわかりやすくものごとを伝えられる友の答え方が、あまりにも短く他人行儀だった。それ以上私は立ち入ることを自粛した。友には、私に話せないことが胸にあったに違いない。

会社を辞めて時間がある友は年の瀬、12月4日の我が家で開いたワイン会にも夫婦で来てくれた。多くの参加者と楽しそうに会話していた。友はワイン会だけれど、みなさんにぜひ飲んで欲しいと事前に宅急便で日本酒を送ってきていた。私の妻をはじめ、参加者はワインで酔いがまわっていた。友が「あの酒を飲もう」と私に言った。私は「もうみんな酔っているし、そんな高級な酒がわかるような状態ではないから、機会をあらためて飲もう」と告げた。友は一瞬悲しそうな顔をした。今思えば生前葬の酒だと友は決めていたと思える。あれから1ヶ月と2日で友は旅立った。これは友の完全なる旅立ちの覚悟のプログラムの一環だったのだ。会社を辞め、女房と旅行し、私たちと2回も会った。

弔電を友の女房に打った。「茫然自失。Life is what you celebrate. All of it. Even its end. 」  (訳:人生は祝うものである。すべてを。その終わりも。 ジョアン・ハリス)

私は友とあの酒を飲んで人生を祝っておくべきだった。馬鹿野郎!お前も俺も、本物の馬鹿野郎だ。いまさらあの酒をどうしたらいいのだ。

 

 葬式には参列しなかった。告別式が行われている10日、私は妻と沢田知加子の『会いたい』を家で聴いた。歌詞のひと言ひと言が胸に刺さった。歌声が友の女房の声のように聞こえてしかたなかった。

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大晦日

2011年01月05日 | Weblog

 イタリアへ仕事で行っていた友人が年末の21日に一時帰国した。友人は東京の自宅マンションの駐車場を留守の期間解約して、私に車を預けている。イタリアから発注元の会社幹部を連れてくると言った。友人は一旦会社を定年退職している。いわゆる企業戦士と呼ばれる仕事人間である。嘱託という肩書きで会社に残って働いている。友人は、昼ごろ日本に着いたら、まずイタリア人の顧客を東京駅の近くのホテルに案内して、その足で電車に乗り私の家のある町まで車をとりに来るとメールして来た。車で東京へ戻って、イタリアの客を夕食に案内するとも書いてあった。丸一日かけてイタリアから飛行機で帰国して、すぐこの強行軍では、いくら頑強な友人でも、辛いだろう。その時、私は車を東京に届けようと考えたが、自信がなかった。だから、車を私が届けるとは、メールしなかった。

私は“時間持ち”である。友人のように屈強ではないが、できる範囲で、人の役に立ちたいと思っている。21日の朝、妻を駅に送ってから、一人で家を守る友人の妻に電話した。「これから車を届けるので、旦那さんから電話があったら、車を私のところに取りに来ないよう伝えて下さい」ただ友人が奥さんに連絡をいれず、私のところに直行する危険はある。飛行機が日本に付く前に車を届けることにした。もし空港から電話が奥さんになかったら、私は、イタリア人が泊まる予定のホテルを知っているので、ホテルに伝言を頼もうと考えていた。車を無事届け、私は藤沢へ習い事のクラスに出席した。

30日から妻は、年末年始の休みに入った。正月と言ってもいつもの通り二人で静かに過す予定でいた。つまらぬテレビ番組を観ずに、DVDと読書三昧しようと話していた。午後、友人が電話してきた。「イタリアからの客人を空港へ見送りに行ってきた。ところで明日大晦日の予定ある?なかったら俺がすべて食料用意して持っていくから一緒に年越ししよう」私は「いいけれど、紹介したい人がいるんだけれど一緒にいい?」「いいよ」早速私は、同じ町にいる友人たちに連絡した。皆、喜んでくれた。4組の夫婦で総勢8名が集ることになった。

31日、東京からの友人夫婦は、普段なら40分で来られるところを、渋滞で3時間かけて、午後6時半に到着した。車いっぱいに料理を運んできた。あっという間にテーブルにイタリア帰りの友人が作った料理が並んだ。全員がそろい、イタリアから買ってきてくれたワイン、以前から預かっていた“石原裕次郎ワイン”、買って置くように頼まれた清酒久保田を次々に空けた。話し、食べ、飲み夜が更けた。イタリア帰りの友人は、年越し蕎麦まで取り寄せて持って来ていた。蕎麦通のイタリア帰りの友人は、武蔵野市と横浜の蕎麦屋、2店の蕎麦を茹でてくれた。私はあまり蕎麦の違いとかうまさが判らないが、ただ無性に嬉しかった。12時15分前に散会した。妻はすっかりいい気分になり出来上がってベッドにもぐりこんで寝ていた。片付けを少しして寝ることにした。イタリア帰りの友人が「車、ありがとな。お前らしいな。嬉しかった。お休み」そう彼が言って客間に消えた時、近所の寺の除夜の鐘が鳴った。

14日に彼はまた車を私に預けて、イタリアに戻る。

「良き友達と、良き本と、眠たい良心」 マーク・トウェイン


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