団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

パピヨンに学ぶ

2017年06月30日 | Weblog

①    パピヨン

②    小林多美男

③    シイラ 

①    28日東京の主治医の定期検診を受けに行って来た。整形外科と糖尿病の2科受診。整形外科は、脚の筋肉が衰えてきていたので、筋肉の現状維持の指導を受けている。糖尿病は新しい薬に1ヵ月前から変えたので血液検査をした。結果良好。医師も喜んでいた。気をよくした私は、翌日近所にある眼科を受診した。もしや眼底にも良い兆候が見られるのではという、淡い期待を持ったからである。結果は左目の眼底に出血が見られるので、大きな病院の眼科に行って、精密検査を受けるようにだった。瞳孔を開く薬で曇っていた外へ出た。普段とは違う眩しさにたじろいだ。ショックだった。ついに来たか、と思った。昨日の血液検査にうかれていた私は一転どん底に落ちた。北アフリカのチュニジアで心臓に異変を感じて現地の病院で検査を受けた。狭心症と診断された。現地病院でのバイパス手術を現地の医師に勧められた。妻は日本で精密検査をするべきだと私を一人で日本へ帰国させた。あの時と同じ気持ちになっていた。

 こんな時私は映画『パピヨン』を思い出す。狭心症で日本の病院で心臓バイパス手術を受けた時も何度かビデオで映画を観直した。スティーブ・マックイーンが演じたパピヨンは、無実の罪を着せられ、劣悪なフランス領ギアナの刑務所に収監された。ダスティ・ホフマン演じるドガと協力して13年間かけて脱獄した。私の試練などただの死への恐怖だけだ。パピヨンの13年間と比較したらどうという事もない。人間はいつか死ぬ。バイパス手術の時、私の心臓は人工心肺を使って止められた。あの時、一度死んだのだと思えば、その後の今日までの命は素敵な“オマケ” だったのだ。

②    パピヨンと同じような経験をした日本人がいた。小説『忘れられた墓標』(人間の科学社 全4巻)を書いた小林多美男である。第二次世界大戦の終戦を中国熱河省で迎え終戦処理に当たった。ソ連軍に抑留され、外蒙古、シベリアの収容所を転々とさせられた。その苦難たるや言葉を絶する。現在の私の生活は、彼の経験と比べたら、この世の天国と言っても過言ではない。衣食住は申し分なく恵まれている。私の精神的な弱さは、救いがたいものである。

③    シイラは私の長女を預かって育ててくれたアメリカ在住日系3世だ。彼女が癌だとわかったのは、夫を亡くしてから数年後だった。見つかった癌はステージ4で手の施しようがなかった。家族から私たちに連絡がきた。私もお見舞いに飛んでいきたかった。私は娘を代理で行かせた。最後は私より娘にと思い、そうした。しかしシイラは乗り越えた。あれから8年、現在でもシアトルで一人暮らしをしている。毎年ハワイでひと月過ごす。あれほど来るのを拒んでいたが日本へも4年前の6月に訪れた。彼女は日本の童謡が好きでよく歌う。日系移民のおばあちゃんから教わったという。癌と闘いながら、歌った。♪なんだ坂 こんな坂 なんだ坂 こんな坂 トンネル鉄橋 ぽっぽ ぽっぽ トンネル鉄橋 しゅしゅしゅしゅ トンネル鉄橋 トンネル鉄橋 トンネル トンネル トン トン トンと のぼり行く♪

 小心者で救いようがない甘ちゃんの私。妻が東京の眼科専門の病院の予約を取ってくれた。来週の精密検査を受けて、どのような診断結果が出るかは、わからない。パピヨン、小林多美男、シイラの足元にも及ばない私だが、いまいちど彼らの強靭な精神に思いを寄せる。


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狭い日本、そんなに急いでどこへ行く

2017年06月28日 | Weblog

①    狭い日本、そんなに急いでどこへ行く  交通標語

②    こすぎ、やりすぎ、しゃべりすぎ  某小杉さん

③    この日、この空、この私  城山三郎      

①    日本人はせっかちである。休むこと遊ぶことを嫌う。フランスに留学した日本近代工学、土木工学の制度を確立した古市公威が下宿屋の主人が古市の体を心配して声をかけてくれた時、「僕が一日休むと、日本が一日遅れます」と言ったという。明治維新以降、多くの古市のような日本人が先進国へ行き学んだ。一日も早く後れを取り戻したい、との思いが勉学のエネルギーになったことは疑う余地がない。そのような偉人たちによって近代日本は築かれた。以前「2番ではいけないのですか」と言った国会議員がいた。多くの日本人はやるだけのことはして結果を一番にと願う。最初から2番でもいい、というふうには考えない。だから自分を自分の生活を犠牲にしてまで仕事や研究をする。私もそうだった。ある日本人がヨーロッパへ旅行してホテルに泊まろうとフロントの年輩女性に部屋を取れるかと尋ねた。何日と聞かれ1日と言った。彼女は「たった1日!」と驚き、怒るように「だから日本人は・・・」と言った。彼女の気持ちは、そこの観光をするなら見るところがたくさんあり、一週間居ても見切れないのち、日本人はコマネズミのように1泊すると言う。ヨーロッパのみならず、おそらく世界中に日本人のこの性急さは知られている。私もそれを自覚している。だからできるだけ気長に振舞うようにしている。歳をとるたびにせっかちさ短気さが増す。特に車の運転時は、人が変わったようになる。標語「狭い日本、そんなに急いでどこは行く」を頭で繰り返す。怒りには10数字を数えて抑え込む。私は無職のおじいさん、お先にどうぞ、追い越しされても奥歯を噛みしめる。道路のどこからでも斜めに横断しようとする同輩たちには、車を止めて渡り切るのを待つ。信号のない交差点は避ける。駐車場は一番遠い所に停める。疲れる。でもこうしているから今のところ逆走、つっこみ事故、暴走を回避できている。油断大敵、雨アラレ。

②    小杉さんという知人がいた。おしゃべりが好きで話し出すと止まらない。またこの人の話が面白いのでついつい聞いてしまう。この人の偉いのは、自分を自覚していることである。「こすぎ、やりすぎ、しゃべりすぎ」とこの人から言われると何も言えない。

③    日本には俳句、短歌、川柳など短い詩表現がある。その影響か語呂が良く韻まで踏む標語が多い。記憶力が子供の頃から良くない私でも覚えやすい。とても助かる。城山三郎「この日、この空、この私」。以前はこの意味が漠然として良く理解できなかった。古希を迎える身になって、私は毎日自然に「この日、この空、この私」と感じる。特に空が青いと散歩の途中、何度も青い空を見上げて「この日、この空、この私」と唱えてしまう。

 物忘れを楽しんでいる。そんな中、突然浮かび上がるのは、標語、ことわざ、格言である。パズルを解いていても言葉が出ない。出ないキーの数字に○をする。解答できると×をする。時間がかかる。浮遊するように言葉の世界を行ったり来たり。


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お手伝いさん・メイド・ディディ(ネパールのお手伝いさんの呼称)

2017年06月26日 | Weblog

①    マーラさん 旧ユーゴスラビア ベオグラード

②    マリクレーヌ セネガル ダカール

③    パルパティ ネパール カトマンズ

①24日土曜日、友人10人を招いて家でバーベキューをした。6時間ほど飲んで食べて話した。不覚にも飲み過ぎて6時ころから寝てしまった。吐き気を抑え込んでいるうちにぐっすりと寝込んでしまった。私がこんなに酔うことなど今までになかった。やはり年齢なのか。目を覚ましたのは日曜日の7時だった。台所も居間の片づけも洗い物も済ませずに寝てしまったので、さあ片づけなければと寝室を出た。きれいに片付いていた。妻も土曜日の会では相当飲んでいたはずだ。いつもなら妻が先にダウンして、私が一人で後片付けするのが当たり前だった。思えば設宴は、私たちが結婚して間もなく、妻が海外勤務して以来ずっと続けている。時に妻が酔いつぶれて一緒に片づけをできないこともあったが、夜中1時2時まで二人で後片付けした。その時間は疲れたが、その日の客から聞いた事を話したりした。二人の間をぐっと縮めた楽しい時間でもあった。海外では現地のお手伝いさんを雇用した。日本でお手伝いさんを雇うことなど考えたこともなかった。犬養道子の『日本人が外に出るとき』(資料* 参照)が、どうしても心にひっかかっていた。何かお手伝いさんを雇うことに後ろめたさを感じたが、お手伝いさんの助けのおかげで慣れない海外の生活を乗り切ることができた。

 ベオグラードで週3日来てもらったマーラさんは70歳を過ぎていた。バスで2時間かけて来て3時間ほど働いて昼食をとって帰って行った。マーラさんは、ヨーロッパで学ぶ孫に仕送りするために働いていた。若いときオーストリアでメイドをしていたと聞いた。とにかく有能な人で、マーラさんが来てくれた後、家中がピカピカになった。きっとヨーロッパでのメイド時代に雇い主から厳しい指導を受けたのだろう。70歳とは思われない機敏な動きで家中を掃除してアイロンがけをして蛇口など金属製のものを磨いてくれた。昼食に牛乳グラス一杯とユーゴスラビアのパンだけを要望した。私が他の物を出してあげても固辞した。

②アフリカのセネガルでは、すらっと背が高いマリークレーヌが家事をしてくれた。働き者で私たちが連れて行った2匹のシェパード犬の世話もみてくれた。私たちに慣れなかった猫も彼女には慣れた。動物に近づく術を持っていた。私から日本食を熱心学んだ。途中産休を2回とった。現地採用の運転手の話によれば、マリークレーヌは自分の子供ためにメイドを雇っていたそうだ。私たちが転勤した後も、ますます日本食調理ができるというので日本人駐在者の間で引っ張りだこと聞き喜んでいる。

③ネパールでは中々お手伝いさんが見つからなかった。決まってもしばらく勤めると、賃上げを要求して、折り合いがつかず辞めた。パルパティは最後まで賃上げを要求することなく、真面目に働いてくれた。

 こうして私たちは、海外で国によってお手伝いさんの力を借りて無事生活することができた。日本に帰国してお手伝いさんを雇うことはできず、何事も自分たちでやらなければならない。職業差別や男尊女子などの理由でお手伝いさんという職業が定着しなかった。最近、家事ヘルパーやベビーシッターなど呼称を横文字にして少しづつ増えてきているようだ。少子化の問題、保育園幼稚園の待機児童問題、このまま子育て環境を放置すれば、ますます出生率は減少する。女性国会議員の子育て環境は、至れり尽くせりで恵まれている。あのレベルまで日本の子育てを引き上げれば良いのである。豊田真由子議員の政策秘書への暴言暴力事件、彼女が議員にならずに普通の職業を持つ女性で子育てに奮闘していたら、政治屋や官僚に「ハゲ」「バカ」と言っただろう。暴言を放つ相手が違うだろうが。子育て中の女性国会議員こそ自分たちの恵まれた子育て環境を、なぜ国民にも普及させる努力をしないのか。

 資料*犬養道子 『日本人が外に出るとき』  :   「道ちゃん、よくおぼえておきなさい」と、三人も五人もの住み込みメイドさんやおかかえ運転手を置かねばならなかったころの母が言ったことを私は忘れない、「人を使うより、使われる方がずっと楽です」。まずメイドとメイドの間の関係。「奥さま、××さんがお邸につとめている間は、わたくしはおひまを頂きます」。政変でごったがして、大忙しのさいちゅう、家じゅうにあふれる客をさばく間にも、そんなことを言われて何とかせねばならなかった母を思い出す。

資料②マリークレーヌ 拙著『ニッポン人?!』

 セネガルでメイド雇った。マリークレーヌは身長百八十センチの美人だ。セネガルの女性はスタイルが良く美人が多い。世界トップモデルになった女性もいる。八頭身は通り越して九頭身と言っていいほど、顔が小さく、手足が長かった。マリークレーヌは、勉強熱心で働き者だった。料理が好きで、上手だった。私から日本料理を習い、しっかりノートをつくり、現在猫の福ちゃんと共に、五代目の在セネガル日本大使館医務官の家で働いている。日本料理のレパートリーが多く、独身の現医務官は喜んでいる。マリークレーヌはセネガルの女性の多くがそうであるように、三十歳過ぎてから体重が増え、昔の面影はないそうだ。セネガルで外国人の家庭でメイドをすると、自分の家で二人のメイドを雇えるという。マリークレーヌもそうしていた。写真で見せてもらった彼女の家は、豪華絢爛だった。私たちのセネガル赴任中、二人の子供を産んだ。そのたびに三箇月の産休をとった。子供は子守を雇ってみてもらっていると言った。マリークレーヌはお洒落だった。働く時は、Tシャツに長い腰巻風の民族衣装を着ていた。通勤はダカール名物カワラピット(トラックを改造したカラフルな乗り合いバス)に精いっぱいのお洒落をして乗っていた。セネガル女性のお洒落のポイントは頭である。身長のあるマリークレーヌが、そのトゥビットと呼ばれる飾りをつけると二メートルを超えた。トゥビットは高ければ高くなるほど良い。何でも日本規格だった官舎の中を、大きな体を縮めて、こまねずみのように働いた。偏見や先入観に捉われることもなく、真面目に正直に働いてくれた。

資料③パルパティ 拙著『ニッポン人?!』

 

 ネパールを離れる前日、妻は、私にメイドのパルパティに妻のアクセサリー箱を渡してと言って、出勤した。九時に、パルパティはサリーの裾を引きずるようにして、勝手口から入って来る。三階の洗濯室で、作業服のパンジャビドレスに着替えて下りてきた。皆と庭で、いつもの通りラジオ体操をする。最後の日ということで、皆どこか暗い。お茶もいつもの明るさはなく、静かに茶を啜るように口にしていた。もう家の中は、すっかりきれいに片付いている。玄関には、転勤地セネガルへ持っていくスーツケースが山積みになっていた。犬を入れる二つの大きな檻もあった。夕方五時、皆に集まってもらった。通訳のケーシーに、私の気持ちを告げ、ネワリ語に訳してもらった。七人全員にボーナスを支給した。次の雇い主に気に入られなくて職を失っても、三箇月間は暮らせるよう配慮した。一人一人に、英語と日本語で手紙を書いてボーナスと一緒に、封筒に入れた。写真もできるだけ整理して、各人の写っているものを、焼き増して入れた。ネパール人は、日本人と似ていて寡黙な人が多い。皆はにかんでいて、言いたいことも言えない様子が伝わった。欧米人のように、抱き合ったり握手したりもしない。目に見えない、越せない異文化の境界線があった。だからこそ一層別れが辛かった。皆、一様に肩を落として、「ナマステ」と言って頭を垂れ、家路についた。パルパティは、サリーに着替えて帰ろうとした。妻に頼まれた物は、車に積み込んであった。「送って行く」と私は言った。彼女の家は、カトマンズ盆地の端の山の中にあった。道中、沈黙が続き、私は二年間の記憶を反芻していた。着いて車の外に立ち、妻のアクセサリーがいっぱい入ったマホガニーの箱を渡した。箱を地面に置いて、パルパティが「ありがとう」と目を伏せて、合掌して言った。私も言葉なく、合掌で返礼した。彼女は急斜面の坂道を、振り返りもせず、箱を抱きしめ、駆け上がって行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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われら動物みな兄弟

2017年06月22日 | Weblog

①    スルジャン セルビア・ベオグラード

②    上原鍛冶屋さん 長野県上田市

③    ジェイムス・ユール先生 カナダ・アルバータ州

①    ネットでこんなニュースを見つけた。アメリカのオハイオ州である男性が小さなアライグマ3匹と戯れる画像がYouTube( 検索:【画像】足につかまるアライグマさん)に
投稿され話題になっているという。アライグマはその日初めて男性に遇った野生だそうだ。以前「ムツゴロウの動物王国」と冠したテレビ番組があった。現在でも時々ムツゴロウこと畑正憲さんは、動物番組などにコメンテーターとして登場する。私は本日のブログのタイトル『われら動物みな兄弟』は、彼の本の題名から借りた。彼は、とにかく危険など顧みずどんな動物にも接触した。私はムツゴロウさんをずっと不審な人物だと思っていた。動物はいつ本能をむき出してくるかわからない。どんな動物でもと言うムツゴロウが信じられなかった。しかし妻の旧ユーゴスラビア勤務中に知り合ったスルジャン(写真)という人と会ってから、ムツゴロウさんを見直した。スルジャンに案内されて森の中のレストランへ行った。そこはたくさんの動物を放し飼いにしていた。ロバ、ミニチュアホース、ミニブタ、クジャク、ニワトリ、犬などなど。スルジャンが歩くと動物は彼の後をついて歩く。ミニチュアホースは妊娠していた。レストランのオーナーは、妊娠しているミニチュアホースはとても気が荒く、絶対に人間を寄せ付けないと言った。でもスルジャンにはみな近寄ってきて、体を嬉しそうに撫でさせた。オーナーはこんなこと信じられないと言った。スルジャンが、まるで『ハーメルンの笛吹き男』のパイドパイパーであるかのような光景だった。私も試みたがただの一匹も私に気を許した動物はいなかった。スルジャンの話によれば、彼が幼いころから動物と仲良くなれたという。私は幼いころから動物に追いかけられ、犬に何度も噛まれたことがある。犬も猫もたくさん飼ったが私を主人だと思ってくれたのはシェパード犬のウイだけだった。ウイはネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジアで番犬として私たち夫婦を守ってくれた。旧ユーゴスラビアではアパートだったためスルジャンがウイを預かってくれた。チュニジアに転勤が決まり、私たちは車にウイを乗せてベオグラードを出発した。高速道路に並行している道路をスルジャンが車で私たちを追いかけてきた。窓から手を振っていた。あの姿を忘れない。

②    長野県上田市に上原さんという鍛冶屋さんがいた。夫婦で動物好きだった。家の縁側からタヌキに餌付けをしていた。ずっと姿をあらわさなくなったので、上原夫婦は心配していた。ある日ぞろぞろ子タヌキを連れて縁側の外に連れてきた。

③    カナダの高校に生物の教師ユール先生がいた。名前の通りアメリカインディアンの血を引く人だった。ユール先生は、教室へアイリッシュ・セッター犬を連れてきた。先生が授業している間教壇の脇に置き物のように坐って居た。犬の扱いを見ているだけで、先生の動物に対する愛情を感じられた。犬は先生だけになついていて、他の誰のいう事も聞かなかった。ユール先生は、牛、豚、ニワトリなど学校で飼育する家畜の獣医でもあった。生徒たちまた学校のスタッフは、ユール先生は、動物と話ができると噂していた。私が履修した生物の授業で、子豚の解剖をした。命への真摯で謙虚な態度に感銘を受けた。

 スルジャン、上原さん、ユール先生のように動物と接することができる人には、なかなか会えない。私はどう動物に接しても、常に動物が本能的に「こいつは信用できない」と見透かされている。散歩していると信じられないくらい多くの犬に付き従う人々と出会う。しもの世話をかがみこんでしている姿は、まるでお犬様の従者のようだ。とても“われら動物みな兄弟”には思えない。私と同程度にしか動物を扱えないようにみえる。日本には現在991万7千頭の犬がペットとして飼われている。犬一匹の年間必要経費は、34万円だそうだ。私が動物を飼うことは、もうない。だが日に日に、私も動物の仲間であることの自覚は深まりつつある。

 


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辞め際 退け時 やめっぷり

2017年06月20日 | Weblog

①    山口百恵

②    黒田博樹 ニューヨークヤンキーズ・広島カープ 投手

③    自分

①    会社、役所、組織には定年退職制度がある。最後まで勤めて無事定年退職となれば、それは立派なことだ。芸能界やスポーツの世界では、自分がどんなに続けたくても、人気や体力や成績によって進退が決まることが多い。人気絶頂の時点で自ら引退を決意することなど考えられない。その考えられないことを山口百恵は、やってしまった。すい星のように現れ、透明人間になったかの如く世間から消えた。見事としか言いようがない。

 私は山口百恵に好印象を抱いていた。連続テレビドラマなど時間的に観ることができなかったが、1974年から始まった『赤いシリーズ』は、欠かさず観た。山口百恵の歌も好きだった。彼女の退け際の美学に感嘆した。あれからすでに37年、最近山口百恵の子供たちが、芸能界にいることを知り、やはり彼女も親ばかの一人なのかとがっかりしている。山口百恵ならまさか他の芸能人のようなことをしないだろうと勝手に思っていた。それでも私が知るやめっぷりのナンバーワンは、山口百恵である。

②    去年プロ野球でセリーグのリーグ優勝を果たした広島カープに黒田博樹投手がいた。アメリカ大リーグニューヨークヤンキースで活躍していた黒田は、契約更新することなく、日本の広島カープで優勝すると決意して20億円の年棒を提示されたにもかかわらず、古巣の広島カープに戻った。それだけではなかった。広島カープは25年ぶりにリーグ優勝した。そして日本シリーズで楽天イーグルスと戦う前に黒田博樹は、今季限りで引退すると発表した。最高の幕引きだった。日本人の美徳の一つであった恩に報いるという昔気質な行動に日本人の多くが感動した。

③    ここに自分のことを当てはめるのは、おこがましい。だが私は自分も引け際を間違えなかったと思っている。離婚した後、二人の子どもをどんなことをしてでも成人させると自分自身に誓った。約15年間がむしゃらに働いた。二人の子どもへの仕送りを最優先した。再婚など考えてもいなかった。二人の子どもが自立できるようになったら、いつ死んでも良いと思って働いた。こうなったのは、すべて自分が招いたこと、子育て責任を果たすことが自分の人生の肯定につながると信じた。そしてある日突然再婚相手との出会いが訪れた。交際が始まった。そして数年後、その女性は言った。「あなたは他人の何生も生きた。後の残りは、私にください」 私の体はボロボロだった。糖尿病は、インシュリン注射する直前まで悪化していた。二人の子どもたちは大学を卒業して自立した。私は、私の残りの人生を彼女に捧げることを決意した。私は自分の事業をきっぱり辞めた。彼女の勧めで、まず糖尿病の2週間教育入院をした。結婚して25年になる。途中13年間妻の海外勤務で外国を転々とした。今、海の近くの町に終の棲家を得て、静かに暮らしている。糖尿病の合併症で心臓バイパス手術を受けたが、いまだにインシュリン注射は、打たずに済んでいる。44歳で自分の仕事をやめたからこそ、今こうして居られる。18日、父の日に二人の子どもからそれぞれプレゼントが届いた。嬉しかった。今は二人とも家庭を持ち、子どもがいる。15年の暗黒の時間が今の私を生かしている。あの間に自己改革できたからこそ、妻に私を受け入れてもらえた。子どもからも見放されなかった。これ以上望むことはない。


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経営者 日本

2017年06月16日 | Weblog

①    土光敏夫 石川島播磨 東芝

②    本田宗一郎 ホンダ

③    青木固   日精樹脂

①    土光さんと言えば、“めざし”を思い出す人が多いのではないだろうか。土光さんが経団連の会長をしていた時、長野県の坂城町を視察した。坂城町には特色ある企業が数多くある。土光さんが坂城町に関心を持ったこと自体、いかに彼自身が技術畑の人だったかを物語る。東京都にも優秀な技術を持った中小企業が集まっている地域がある。何かと言えば東京が注目される中、わざわざ長野県の小さな町坂城に視察に来た土光さんは目の付け所が違った。土光さんは大企業出身ながら、日本の産業形態や先行きをきちんと見据えていた。確かに土光さんは質素な生活をしていた。彼の言葉に「個人は質素に。社会は豊かに」がある。私の好きな金言だ。言うは易く、行うは難し。無理しているのではなく、自然に土光さんの日常生活に彼の信条が表れていた。「個人は質素に。社会は豊かに」は、土光さんの言葉ではなく、土光さんの母親が彼に言っていた言葉だったと後に知った。親の影響は大きい。その母親は、橘学園という中学高校を創設している。

②    本田宗一郎は、昔長野県上田市にあるアートピストンの社長の家に住み込みで働いていたと、私の父親が話した。子守りもしたらしい。父は私にその話を事あるごとに聞かせた。父自身が尋常小学校途中で宇都宮の羊羹屋へ丁稚奉公に出た経験を持つ。父は最初、羊羹屋の経営者の子供の子守りをさせられた。経営者の子と自分の境遇の違いに打ちひしがれたという。父と同じ経歴を持つ本田宗一郎に親近感を持った。実際アートピストンの社長夫人が亡くなった時、本田宗一郎は上田近辺の花屋から生花がなくなるほどの花を贈った。父から何回も本田宗一郎の立身出世の話を聞いた私は、いつしか彼の事に興味を持ち、多くの彼のことを書いた本を読んだ。

③    私は離婚後、カナダの学校で知り合った先輩のアメリカ人一家に長女を預かって育ててもらった。一家はアメリカ・ワシントン州のシアトルに住んでいる。先輩夫婦からマイクロソフト社の創設者ビル・ゲイツの話を聞いた。まだ事業を始めたばかりのビル・ゲイツは、近所の家を回って一口100ドルの出資を集めた。先輩の家にも来た。しかし先輩は、まだボーイング社に就職したばかりでその100ドルが無くて出資できなかった。その100ドルは後に天文学的な数字に増えたという。この話を聞いた時、父から同じような長野県坂城町であった話を思い出した。プラスチック射出成型機メーカーの日精樹脂工業の創業者青木固さんである。彼は物置を作業場にしてプラスチックの成形機を開発した。そして研究開発の資金を得るために自分が開発した成型機で靴ベラや洗面器を作り売って歩いていた。父は応援するためにずいぶんたくさん購入したそうだ。

 突出した経営者や成功者はたくさんいる。しかし人間的に好感を持てる、尊敬できる人は少ない。最近の森友学園や加計文書問題の報道に接していると悲しくなる。私の父が熱く土光さんや本田宗一郎や青木さんを語ったように、日本の多くの親が自分の子供たち熱く語り聞かせる人物がいない。「個人は質素に。社会は豊かに」は逆方向に向かって、速度を上げてきている。


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誤嚥と手搾りスイカジュース

2017年06月14日 | Weblog

①    スイカ

②    ザクロ

③    紫蘇

①    珍しく妻が「何かジュースあったかな」と私にきいた。液体は酒か濃いコーヒーか渋いお茶しか飲まない妻の口から予想もしないジュースという言葉が出た。ジュースとは不思議なものである。例えばスイカ。私が一番好きなのは自分で搾ったスイカのジュースである。スイカならジュースにしなくても、切ったスイカを食べればいいではないかと思う。私が思うにジュースはおそらく高貴な方々が、楽に果物を体に入れるために、面倒なことをすべて召使にやらせたのが起源に違いない。妻はもしかして自分を高貴な存在と思い始め、私を・・・。いやいや、そんなはずはない。

 真夏カンカン照りの中、腰に手を置き、冷たい飲み物を一気にゴクゴク、ゴクンゴクンと飲む。しかし、古希を目前にした私にそれは遠い昔の思い出でしかない。この数年誤嚥に警戒しなければならなくなっている。それでも時々誤嚥を起こし、むせて苦しい思いを繰り返す。統計では肺炎で亡くなる7割が誤嚥性肺炎だという。そういえば、新聞などの「お悔み欄」に「肺炎のため・・・」とよく書かれている。誤嚥は、老化に伴う反射神経と筋肉の衰えで起こる。飲み込んだ飲み物や食べ物が本来、食道を通って胃に入る。ところが食道の途中に気管支への入り口がある。気管支は肺に通じる。呼吸は飲み物や食べ物と違い四六時中されている。若かった時は、鉄道の分岐点での線路切り替えのように食道、気管支と切り替えがキビキビとできていた。よほどあわてて食べ物や飲み物を飲み込まない限り、気管支に入ってむせることなどない。だから子供の頃、喉が渇くと他人の家の外にある水道や公共水道で蛇口の下に顔を入れ、空を見上げながらしこたま水を飲めた。一緒に遊んだ鉄ちゃんという友達は、水道の蛇口の下に長い間、口を開いて飲み、膨れたお腹を揺らしてポチャンポチャンと音を立てる名人だった。夏の太陽をテカテカの坊主頭に浴びて光らせ、豪快に水を飲む鉄ちゃんを思い出す。もうその鉄ちゃんもこの世にいない。

②    ジュースは、私が子供の頃、一クラス上の高級な飲み物だった。母親にジュースをねだると「水を飲みなさい」と言った。父親は子どもに甘く、母と喧嘩してでもジュースを買ってくれた。私が子供時代にした経験を海外でもよく目にした。世界の最貧国と言われる国々で暮らした。着色されて砂糖が入っているだけのなんちゃってジュースがはびこっていた。それさえ買えない、清潔な飲料水さえ口にできない大勢の人々もいた。チュニジアは、失業率が高い国だった。農業が盛んで果物が豊富に採れた。現地の友人の家には、貧しい子どもが安い賃金で働いていた。私たち夫婦はよくその友人宅に招かれた。そこで生まれて初めてザクロの搾りたてのジュースを飲んだ。雇われていた丁稚小僧のような少年が手で搾ったジュースだった。美味かった。ジュースと言えば市販の飲料会社のものが主流である。手搾りの100%果汁のジュースは贅沢である。日本には多種多様な果物がある。手間がかかり後片付けも大変だがジュースは手で搾るようにしている。

③    ジュースと言えるか分からないが、貧しい子ども時代、母親が竹の皮に梅漬けに使った赤い紫蘇を入れてくれた。折りたたんだ竹の皮にできる隙間から赤い樹液を吸った。ただの水でなく赤い色がついているだけで私にはジュースだった。

日本は豊かな国になった。もう誰も私にジュース何て贅沢、水を飲みなさいとは言わない。ジュースも多種多様。市販されているジュースは驚くほど種類豊富である。それでも私は誤嚥に気を付け自分で搾るスイカジュースを飲む。ジュースを飲む時も薬を飲むときも、脳に「これから飲むジュースは気管支でなく胃へお願いします。くれぐれも気管支の入り口の筋肉を緩めないでください。間違って反射神経を作動させないでください」とゆっくり時間をかけて懇願する。そして誤嚥も起こさず飲みきる。美味い。至福の時。


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地層・化石

2017年06月12日 | Weblog

①    カナダ ドラムヘラー

②    アメリカ グランドキャニオン

③    モロッコ 化石テーブル

①    私は幼い頃、地層を見ると固まったようになって気が遠くなるような地層が形成された時代に想いを馳せた。それがどういう時代だったのか、今の瞬間がこれら過去の時代の蓄積なのか。自分たち人間がいかに微々たる存在なのかと、宇宙を想うのと同じ気持ちになった。小学校の5,6年生の担任教師Yは、異色の教員だった。理科一科目に執着して他の授業をいろいろな理由をつけて理科に替えた。小、中学校の理科は、高校の生物、化学、物理と違って科学全般をひとくくりにしている広範囲の科目である。Y先生は、野外授業も好きで、生徒たちをあちこち連れまわした。ある時、化石を見つけようと教室を出て山に行った。地層がむき出しになっていた。Y先生が化石のありそうな地層を示した。岩石採集の特別な金槌を各班に渡された。手や棒切れや石を使って化石が入っていそうな石を探す。私は他の生徒が見つけてきた石を金槌で割る。女子生徒が持ってきた石は固くてなかなか割れなかった。私は大きく金槌を後ろに振り上げた。その金槌が後ろに立っていた女子生徒のおでこに当たった。カマイタチ。彼女の額が割れ、血が噴き出した。Y先生は狂ったように彼女を抱きかかえ病院へ行った。私はクラス全員から殺人者を見るような目つきの一斉射撃にあって、無視された。その晩Y先生が家に来た。私は家族に何も言ってなかった。Y先生は家族に私のやったことを報告し、私を責めた。次の日家族と女子生徒の家に謝りに行った。もう二度と化石探しはしないと心に誓った。高校生になってカナダの高校へ留学することになった。ある休暇の時、同級生に誘われてアルバータ州のドラムヘラーという小さな町へ泊りがけで行った。その生徒はそのドラムヘラー出身で町を案内してくれた。いまやドラムヘラー近辺は恐竜の化石が出土するという事で世界的に有名である。1985年にロイヤル・ティレル古生物博物館が開館した。ここには恐竜の卵の化石が展示されている。友人歩いた平原のあちこちに恐竜の化石がゴロゴロしていた。小学生の時の化石探しのスケールの小ささに苦笑した。化石への興味が再びよみがえった。

②    アメリカのグランド・キャニオンの地層の重なりも凄かった。高所恐怖症なのか高い所は嫌だが、あの地層の重なりは、恐怖を吹き飛ばし太古の時代へタイムスリップさせてくれた。

③    モロッコへ妻の出張について数回訪れた。私がどうしても行きたかったイスモール山へは行く事が出来なかったが、そこで出土した化石を買う事が出来た。化石のお土産には、偽物が多いと聞いていた。化石に詳しい人の案内で化石の専門店へ行った。4個のアンモナイトが繰り出されたテーブルがあった。重さは40キロを超えていた。買った。妻にブーブー言われながら、飛行機でチュニジアに持ち帰った。日本へ持ち帰った。今も家のリビングに置いてある。

 地層や化石を見ると自分のちっぽけさを思う。おそらく私の生きる時間に堆積する地層なんぞ1ミリにもならないだろう。鍾乳洞の鍾乳石は100年で1ミリと言われている。ミリ単位であろうが今の自分の時間が無ければ、地層はできない。たとえ1ミリであろうが、私のすべてが凝縮された厚みである。大切に生きたい。


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私が人生を知ったのは、本と接したからである

2017年06月08日 | Weblog

①    『大地』パールバック

②    『出家とその弟子』倉田百三

③    『ファーブル昆虫記』ファーブル

①    「私が人生を知ったのは本と接したからである」と言ったのはフランスの詩人、アメトール・フランスだ。私は小学生4年生の担任だった小宮山先生から読書の楽しみを教えてもらった。そのころ学校の図書室の女性司書が月ごとの生徒個人の借り出した本の冊数競争を始めた。読むのが遅い私だったが段々冊数が増えた。そしてパールバックの『大地』に出会った。活字だけの本を読んで声を上げて泣いたのは『大地』が初めてだった。主人公王龍(ワンルン)が結婚して妻になった“女”が最初の子供を産むシーン。ここで私は自分を生んでくれた母を『大地』の“女”に重ねていた。“女”の名は阿藍(オーラン)。小説の前半でその名が出てくるのは少ない。ほとんどが“女”か“彼女”と表現されていた。男尊女卑という社会制度など、どれだけ多くのことをこの本から知ったことか。『大地』を読んだ後から私はむさぼるように本を読んだ。そして図書室の借り出し競争で上位に名を連ねたこともあった。そんな私を父も応援してくれた。知り合いの本屋に話を付けて私が選んだ本を“つけ”で購入できるようにしてくれた。図書室の本だけでは物足りなくなった私は月一回行く本屋で真剣に本を探し回った。今でも父の計らいに感謝している。

今朝、出勤前の妻が私に一枚のメモを手渡した。図書館で借りてきて欲しい本のリストだった。妻は活字中毒である。通勤時間が往復4時間。毎日の通勤が妻にとって読書の時間となる。私は気をきかせて書店でこれはと思う本を買ってくるが、妻の酷評は9割を超える。妻から本を指名された方がずっと楽だ。図書館で借りられるなら、さらに良い。妻の読書は、速読で読む冊数も私よりはるかに多い。以前海外で生活していたころは、私も妻と本の読後感想で会話を楽しめたが、最近私の集中力と記憶力の低下で妻には追随できない。昔、読んだ本を読むと、まったく新しい本を読むように読める。そのうちに妻が幼子に読み聞かせをするように、ほとんど本の内容を理解できない私の横で本の読み聞かせをしてくれるかもしれない。

②    母の死を4歳で体験した私は死に対する恐怖が強かった。小学生の頃は、死後があるのかないのかと考え、永遠という言葉に押しつぶされそうになり、一睡もできない夜さえあった。そんな時、倉田百三の『出家とその弟子』を読んで暗黒の世界に一筋の光を感じた。

③    本が教えてくれるのは人生だけではない。植物のこと、動物のこと、鉱石のこと、宇宙のこと、哲学のこと、宗教のこと。役者という一人の人間は、役が付けばあらゆる人間の役をこなす。羨ましいと思う。読書は、私をあらゆる世界へ導いてくれる。『ファーブル昆虫記』を読んだ後、私は昆虫採集を止め、関心と興味を持ち続けている。

本があるから人生は楽しい。本があったから離婚を乗り越え、再婚できた。老いて、内容を記憶できなくても、読んだ瞬間、「そうだ、そうだ」「そうだったのか」「そうとも考えられるか」があれば、本を最後の日まで読み続けたいものである。


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腕を組んで歩く老夫婦――私の理想の夫婦像 名言抜粋ノートから

2017年06月06日 | Weblog

①    「これまでみたものの中でもっとも美しいのは、腕を組んで歩く老夫婦の姿でした」

グレタ・ガルボ アメリカ ハリウッド女優

②    「新しい服が届いて、さっそくそれを着てみる。背中のファスナーを男にひっぱりあげてもらって、くるっとふり返ったとき、男がにこにこして、よく似合う、といってくれるのが好き」 田辺聖子 『女の長風呂』

③    「短い間誰かに夢中になるという事は誰にでもある。しかし、長く一人の人間を愛し続けるこということは、ほっといて出来ることではない。能力の問題だ。人格の問題だ。下らぬ人間は長く人を愛し続けるという事が出来ない」 山田太一 「男たちの旅路」

①    私の両親は、仲の良い夫婦ではなかった。二人が腕を組んで歩くこともなかった。私は子どもの頃、老人になることを恐れていた。今年古希を迎える現在の私は、押しも押されもしない正真正銘の老人である。健康でありたいと願い、一日一万歩を目標に歩こうと散歩をする。時々途中で老夫婦に出会う。腕を組んで歩いているのではない。奥さんがおじいさんを引いている。おばあさんとおじいさんの間には2本のタオルを縫ってつないだタオルがある。おじいさんは片手で杖もついている。杖といっても棒切れである。これがなかなかの風格である。私はこのご夫婦を見ると、グレタ・ガルボの「これまでみたものの中でもっとも美しいのは、腕を組んで歩く老夫婦の姿でした」を思い出す。私はこの老夫婦がどこの誰かは全く知らない。出会うと嬉しくなる。夫婦の何たるかを私に諭すような光景である。二人は黙々とゆっくり国会の牛歩作戦で投票に向かう議員のように歩く。話すわけでもない。おじいさんの歩みが止まる。それをタオルで感じ取ったおばさんも止まる。後ろを振り向くわけでもない。おじいさんが息を整える。おばあさんが絶妙のタイミングでタオルを引き、歩き始める。日本人は恥ずかしがりである。腕は組まないでタオルを介してのつながりであっても私には美しい夫婦の形である。

②    『ひねくれ一茶』を妻の高校の担任だった伊藤先生が私たちが海外に暮らしていた時、送ってくれた。著者は田辺聖子だった。それ以来田辺聖子の本を読むようになった。先日妻が通販で服を買った。届いた日、妻は田辺聖子のように試着し始めた。「ファスナー上げて」と私の所にやって来た。妻は背中を私に向けた。ファスナーを上げる。私は妻の背中から妻がいかにこの瞬間を喜んでいるかを感じた。妻が尋ねた。「似合う?大丈夫?私でも着られる?」私は言った「似合うよ」 私の顔の筋肉はゆるんでいた。田辺聖子がこれと同じようなこと書いていたな、とふと思い出した。早速本棚から『名言抜粋ノート』を取り出した。見つけた。物忘れが進行している。だからこそ探し当てる喜びは大きい。

③    私は妻と再婚して25年になる。私は欠陥だらけのしょうもない人間である。しかし山田太一が言う「長く一人の人間を・・・」にだけは絶対の自信がある。それが嬉しい。

古希を迎える。仕事もない。名もない。しかしベターハーフがいる。


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