① マーラさん 旧ユーゴスラビア ベオグラード
② マリクレーヌ セネガル ダカール
③ パルパティ ネパール カトマンズ
①24日土曜日、友人10人を招いて家でバーベキューをした。6時間ほど飲んで食べて話した。不覚にも飲み過ぎて6時ころから寝てしまった。吐き気を抑え込んでいるうちにぐっすりと寝込んでしまった。私がこんなに酔うことなど今までになかった。やはり年齢なのか。目を覚ましたのは日曜日の7時だった。台所も居間の片づけも洗い物も済ませずに寝てしまったので、さあ片づけなければと寝室を出た。きれいに片付いていた。妻も土曜日の会では相当飲んでいたはずだ。いつもなら妻が先にダウンして、私が一人で後片付けするのが当たり前だった。思えば設宴は、私たちが結婚して間もなく、妻が海外勤務して以来ずっと続けている。時に妻が酔いつぶれて一緒に片づけをできないこともあったが、夜中1時2時まで二人で後片付けした。その時間は疲れたが、その日の客から聞いた事を話したりした。二人の間をぐっと縮めた楽しい時間でもあった。海外では現地のお手伝いさんを雇用した。日本でお手伝いさんを雇うことなど考えたこともなかった。犬養道子の『日本人が外に出るとき』(資料* 参照)が、どうしても心にひっかかっていた。何かお手伝いさんを雇うことに後ろめたさを感じたが、お手伝いさんの助けのおかげで慣れない海外の生活を乗り切ることができた。
ベオグラードで週3日来てもらったマーラさんは70歳を過ぎていた。バスで2時間かけて来て3時間ほど働いて昼食をとって帰って行った。マーラさんは、ヨーロッパで学ぶ孫に仕送りするために働いていた。若いときオーストリアでメイドをしていたと聞いた。とにかく有能な人で、マーラさんが来てくれた後、家中がピカピカになった。きっとヨーロッパでのメイド時代に雇い主から厳しい指導を受けたのだろう。70歳とは思われない機敏な動きで家中を掃除してアイロンがけをして蛇口など金属製のものを磨いてくれた。昼食に牛乳グラス一杯とユーゴスラビアのパンだけを要望した。私が他の物を出してあげても固辞した。
②アフリカのセネガルでは、すらっと背が高いマリークレーヌが家事をしてくれた。働き者で私たちが連れて行った2匹のシェパード犬の世話もみてくれた。私たちに慣れなかった猫も彼女には慣れた。動物に近づく術を持っていた。私から日本食を熱心学んだ。途中産休を2回とった。現地採用の運転手の話によれば、マリークレーヌは自分の子供ためにメイドを雇っていたそうだ。私たちが転勤した後も、ますます日本食調理ができるというので日本人駐在者の間で引っ張りだこと聞き喜んでいる。
③ネパールでは中々お手伝いさんが見つからなかった。決まってもしばらく勤めると、賃上げを要求して、折り合いがつかず辞めた。パルパティは最後まで賃上げを要求することなく、真面目に働いてくれた。
こうして私たちは、海外で国によってお手伝いさんの力を借りて無事生活することができた。日本に帰国してお手伝いさんを雇うことはできず、何事も自分たちでやらなければならない。職業差別や男尊女子などの理由でお手伝いさんという職業が定着しなかった。最近、家事ヘルパーやベビーシッターなど呼称を横文字にして少しづつ増えてきているようだ。少子化の問題、保育園幼稚園の待機児童問題、このまま子育て環境を放置すれば、ますます出生率は減少する。女性国会議員の子育て環境は、至れり尽くせりで恵まれている。あのレベルまで日本の子育てを引き上げれば良いのである。豊田真由子議員の政策秘書への暴言暴力事件、彼女が議員にならずに普通の職業を持つ女性で子育てに奮闘していたら、政治屋や官僚に「ハゲ」「バカ」と言っただろう。暴言を放つ相手が違うだろうが。子育て中の女性国会議員こそ自分たちの恵まれた子育て環境を、なぜ国民にも普及させる努力をしないのか。
資料*犬養道子 『日本人が外に出るとき』 : 「道ちゃん、よくおぼえておきなさい」と、三人も五人もの住み込みメイドさんやおかかえ運転手を置かねばならなかったころの母が言ったことを私は忘れない、「人を使うより、使われる方がずっと楽です」。まずメイドとメイドの間の関係。「奥さま、××さんがお邸につとめている間は、わたくしはおひまを頂きます」。政変でごったがして、大忙しのさいちゅう、家じゅうにあふれる客をさばく間にも、そんなことを言われて何とかせねばならなかった母を思い出す。
資料②マリークレーヌ 拙著『ニッポン人?!』
セネガルでメイド雇った。マリークレーヌは身長百八十センチの美人だ。セネガルの女性はスタイルが良く美人が多い。世界トップモデルになった女性もいる。八頭身は通り越して九頭身と言っていいほど、顔が小さく、手足が長かった。マリークレーヌは、勉強熱心で働き者だった。料理が好きで、上手だった。私から日本料理を習い、しっかりノートをつくり、現在猫の福ちゃんと共に、五代目の在セネガル日本大使館医務官の家で働いている。日本料理のレパートリーが多く、独身の現医務官は喜んでいる。マリークレーヌはセネガルの女性の多くがそうであるように、三十歳過ぎてから体重が増え、昔の面影はないそうだ。セネガルで外国人の家庭でメイドをすると、自分の家で二人のメイドを雇えるという。マリークレーヌもそうしていた。写真で見せてもらった彼女の家は、豪華絢爛だった。私たちのセネガル赴任中、二人の子供を産んだ。そのたびに三箇月の産休をとった。子供は子守を雇ってみてもらっていると言った。マリークレーヌはお洒落だった。働く時は、Tシャツに長い腰巻風の民族衣装を着ていた。通勤はダカール名物カワラピット(トラックを改造したカラフルな乗り合いバス)に精いっぱいのお洒落をして乗っていた。セネガル女性のお洒落のポイントは頭である。身長のあるマリークレーヌが、そのトゥビットと呼ばれる飾りをつけると二メートルを超えた。トゥビットは高ければ高くなるほど良い。何でも日本規格だった官舎の中を、大きな体を縮めて、こまねずみのように働いた。偏見や先入観に捉われることもなく、真面目に正直に働いてくれた。
資料③パルパティ 拙著『ニッポン人?!』
ネパールを離れる前日、妻は、私にメイドのパルパティに妻のアクセサリー箱を渡してと言って、出勤した。九時に、パルパティはサリーの裾を引きずるようにして、勝手口から入って来る。三階の洗濯室で、作業服のパンジャビドレスに着替えて下りてきた。皆と庭で、いつもの通りラジオ体操をする。最後の日ということで、皆どこか暗い。お茶もいつもの明るさはなく、静かに茶を啜るように口にしていた。もう家の中は、すっかりきれいに片付いている。玄関には、転勤地セネガルへ持っていくスーツケースが山積みになっていた。犬を入れる二つの大きな檻もあった。夕方五時、皆に集まってもらった。通訳のケーシーに、私の気持ちを告げ、ネワリ語に訳してもらった。七人全員にボーナスを支給した。次の雇い主に気に入られなくて職を失っても、三箇月間は暮らせるよう配慮した。一人一人に、英語と日本語で手紙を書いてボーナスと一緒に、封筒に入れた。写真もできるだけ整理して、各人の写っているものを、焼き増して入れた。ネパール人は、日本人と似ていて寡黙な人が多い。皆はにかんでいて、言いたいことも言えない様子が伝わった。欧米人のように、抱き合ったり握手したりもしない。目に見えない、越せない異文化の境界線があった。だからこそ一層別れが辛かった。皆、一様に肩を落として、「ナマステ」と言って頭を垂れ、家路についた。パルパティは、サリーに着替えて帰ろうとした。妻に頼まれた物は、車に積み込んであった。「送って行く」と私は言った。彼女の家は、カトマンズ盆地の端の山の中にあった。道中、沈黙が続き、私は二年間の記憶を反芻していた。着いて車の外に立ち、妻のアクセサリーがいっぱい入ったマホガニーの箱を渡した。箱を地面に置いて、パルパティが「ありがとう」と目を伏せて、合掌して言った。私も言葉なく、合掌で返礼した。彼女は急斜面の坂道を、振り返りもせず、箱を抱きしめ、駆け上がって行った。