団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

大型連休

2013年04月30日 | Weblog

 妻は10連休のまさに大型連休となった。こうなるのを知った3ヶ月前にマレーシアの友人を訪ねることを計画、飛行機の予約を済ませた。しかし航空運賃のあまりに高さに気後れしていた。そうこうしているうちにマレーシアの訪ねようとしていた友人が帰国休暇で日本へ戻ると連絡があった。喜んで予約をキャンセルした。4月初めに夫婦で我が家を訪ねてくれた。2年ぶりの旧交を温めた。まさに“朋あり、遠方より来る”とマレーシアの政治経済から日常生活まで多くのことを教えてもらい学んだ。大型連休は、連年どおり家でゆっくり過ごすことにした。

 普段、遠距離通勤している妻は、本来出不精である。加えて人混みが苦手。反対に私は出て歩くことが好きである。人混みも嫌いではない。仕事を辞めてからずっと“毎日が連休”の私である。まだ働いている妻の貴重な休日は、できるだけ妻の要望を叶えてあげようと思っている。

  出かけない代わりに人を招くことにした。大型連休中招待が2組、泊り訪問が2組ある。今年から御呼ばれが増えた。何と連休中2家族から招待された。団塊世代の私の友人もいよいよ退職する者が多くなったためである。分類:無職の引退仲間が増える。嬉しい限りである。時間にあまり左右されずに今までより余裕を持って付き合える。長年それぞれの専門分野で活躍してきた友の実績と経験から学ぶことは多い。退職に於いて私は大先輩である。

  妻も私の交際模様の変化を喜んでいる。酒を飲める機会が増えるのも理由であるが、私の人物の選別眼に拍車がかかってきたからであろう。家の外のレストランや飲み屋での集りも悪くはないが、家庭で普段着のままの付き合いは、相手の自然体に出遭える。他人を自分の家に招きいれることは、それなりの覚悟がいる。御呼ばれの最大の喜びは、自分がその招こうか招かないでおこうかの審査を通過したという勝手な思い込みである。

  28日に招待されたMさんから昨日留守電が入っていた。「今日竹の子掘りに行ってきました。竹の子をお届けしたいのですが、電話いただけますか」 届けてもらうなんてとんでもない。私が伺うと電話して妻と一緒に車で向かった。道路に車を停めて妻が高台にある家に行く。妻と家族3人が坂を降りてきた。「昼間から3人で飲んでいます」と赤ら顔の夫が言う。娘さん奥さんも笑顔で横並び。道路の石垣の上のシャクナゲの大きな木に真っ赤な花が少し傾き始めた西日に輝いていた。手渡されたショッピングバッグの中身がまだ温かかった。連休っていいな。引退生活も捨てたものではない


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2013年04月25日 | Weblog

  夢をみた。夢の中で私が目を覚すと脇に手術着に身を包み手から血を滴らせる妻がいた。「大丈夫よ。できることはすべてしました」 妻が私を手術したと言う。私は尋ねた。「どういう手術だったの?」「癌よ。内臓のほとんどを摘出しました。残っているのは食道と胃の一部だけです」

 私はガバッと上半身を起こした。隣りの妻は寝息をたてていた。若い頃だったらベッドから飛び出て、ひざまずき手で床板を狂ったように叩き「イヤだ、イヤだ」(真意:だれか助けて、なんとかして)と叫んだ。今は違う。私は音を立てないように、妻にさとられないようにスローモーションのような動きでベッドから出た。ハダシのまま床のフローリングがきしんで音をださぬよう抜き足差し足でトイレに入った。トイレの横壁の鏡をじっと見つめた。私が映っていた。時計をみる。午前2時23分だった。用をたすこともなくトイレを出た。寝室に戻らずそのまま書斎に入った。明かりが洩れないようドアの下に毛布を置いた。机に座って深呼吸した。

 私は2001年1月に心臓バイパス手術を受けてから死に対する感じ方が変わった。手術室の改装工事のため私の手術は1ヶ月延期された。この時間が私を変えた。私は大学ノートに『辞世帳』と題をつけ、毎日書き続けた。まず妻に、それから子供に、母に、姉妹に、友人へ。そして私自身のことをプラス思考で見つめて記録した。おおざっぱではあったが自分の人生を振りかえることができた。

 死への恐怖に立ち向かう時、私は自分がいかに妻と再婚するまで自分勝手で傲慢だったか、かつ運に見放された状態であったかを自分に投げつける。妻と再婚してからの自分は変わった。まともになった分命への執着や未練がある。だから再婚以前の悲惨を拾う。どれほど家族にまわりの人々に社会に迷惑をかけたか。できるだけ具体的にひとつ一つを逃げずに思い出す。坐禅に2年間午前3時に起きて通った時の悔しさ苦しさそして坐禅の時の自分の体重による脚の痛さシビレをなぞる。二人の子供を大学卒業までどんなことをしてでも自分ひとりで育て上げるという無謀が身の程知らずであったか。何もかも他人の所為にした。社会が悪い、生まれた時が悪かったと決めつけていた。私はこうすることによって自身の愚かであった過去を丹念に納得できるのである。同時に今自分が身を置く状況に安堵を憶える。これ以上の何を望めるだろう。

  バツイチで糖尿病が進行していた私がプロポーズすると彼女は言った。「あなたは他人の2生も3生も生きたのだから、これから先のあなたの命は私に下さい」こんな私でももらってくれるならと喜んで私は妻に私の人生を進呈すると思った。結婚後私たちは日本から出た。外務省の医務官として勤める妻に同行して海外5カ国で13年間暮らした。別天地での生活は転治療法のように私の心身を治した。糖尿病も透析寸前だったが何とか薬で押さえ込んだ。私のワルイ部分もほとんどを封じ込めた。20年が過ぎた。それでも糖尿病の合併症は恐い。途中、狭心症の発作を起こしてバイパス手術を受けることになった。結局4本のバイパスのうち成功したのは内胸動脈の1本だけだった。それもクランク状に変形して、神奈川県の心臓専門病院で修復手術を受けた。何回も死に向かい合った。その経験が私を死に対して穏やかな覚悟を与えた。最近妻は「あなたが私をひとり残して死んでしまったらどうすればいいの?」とよく口にする。私は「欲張り」とだけ答えている。

 先日ダスティ・ホフマンが監督した封切映画『カルテット』を観た。今私が生きていることを素直に感謝した。老いることは、残念なことではない。肉体は衰えても、心は、妻への愛情と感謝は、当たり前の普通であることへの認識と感謝は、衰えるどころか健やかに拡大上昇している。『カルテット』は私にそのことを明確に素直に認めさせた。

 書斎からベッドに戻った。妻の左手をさがした。握ってギュッと力を入れた。反応良くニギニギが返ってきた。


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綿棒

2013年04月23日 | Weblog

 「! 使用上の注意 ●耳や鼻などの奥に入れすぎないように十分ご注意の上ご使用ください。(途中 省略)●本来の用途以外に使用しないでください」 綿棒が入っている円筒形の容器に巻いているセロファンに印刷された注意書きを読んだ。日本人の優しさが滲み出ている。“本来の用途”と消費者の常識に頼るような表現が心許ない。アメリカの綿棒容器には英語で「警告 綿棒を耳の穴に入れてはならない」と書いてある。ご注意と警告は異なる。警告はご注意より危険度が高い。訴訟社会のアメリカではこうして消費者が事故を起こした時、莫大な補償金を防ぐために防護策を張りめぐらす。法的な言い逃れを考え得るだけ準備している。日本人はいい加減でアメリカ人は厳格なのだろうか。このアメリカと日本の違いはどこからくるのだろう。国民性なのだろうか。

  私が綿棒で耳を掃除するようになったのは、妻の忠告があったからである。それまでは竹製の耳かきを使っていた。妻は「耳の内部はとても傷つきやすいので綿棒を使ったほうがいいのよ。鼓膜は再生されないし、耳の奥と脳はとにかく近いから。何かのはずみで事故につながりかねないのよ。綿棒のほうが安全よ」と綿棒を用意してくれた。そう言われても長年使い慣れている竹製耳かきにも、紙のように薄い竹がへばりついた耳垢をこそげ取ってくれる気持ちよさにも未練があった。

  その気持ちよさは、子供の頃の陽当たりのよい廊下で母親の膝に頭をのせ耳掃除をしてもらった幼児体験であろう。記憶はない。姉に聞いた話では、くすぐったがり屋の私はキャッキャと大騒ぎしながら母親をてこずらせていたという。そういえば昔の耳かきは片方が耳かきでもう片方はフワフワの毛が玉状についていた。母親が死んでから近所のタバコ屋のお姉さんがタバコ屋の片隅にあったバスの待合所のベンチで耳掃除をしてくれた。その記憶はしっかり残っている。耳かきだってくすぐったいのに毛のフワフワでお姉さんに耳をコチョコチョされると身もだえするほど刺激的だったことを憶えている。

  私は危険があっても、少し痛い目にあっても、こそばゆく金属でもないプラスティックでもない、竹独特のちょっと危険そうだがあの感触が忘れられない。ゆるやかな弓なり状のへたすれば脳まで届きそうな棒の先端にある小さなクボミに獲物が乗って、恐る恐る耳の狭く神秘的な洞窟から出てくる瞬間は堪らない。その竹の棒の先の窪みは、まるで砂金を計量する匙のようだ。本来耳垢なんて恥ずかしいモノなのに「ほら~こんな大きなあったよ~」とか「わあ~たくさんある~」と言われると嬉しかった。不思議な反応である。

  私はシャワーや風呂に入った後に耳の中に水がよく入ってしまう。綿棒は便利である。棒の先の綿は、見事に耳の中の水を吸い取ってくれる。ありがたいものだ。綿棒は他にも役に立つことがたくさんある。私は道具や機械の掃除保守に多く使う。拭き取り、油塗り。狭い隙間、ミゾ。こんな便利なものを発明商品化したのはアメリカ人の主婦だったそうだ。主婦の観察力と機転には脱帽である。

  耳の掃除に失敗して耳の奥に押し込めてしまうことがある。耳の奥がゴロゴロして落ち着かない。妻に相談すると「耳鼻科に行って、耳に違和感があると言って診察してもらえばいい」と教えてくれた。耳鼻科へ行った。受付で「どうされましたか?」と尋ねられた。「耳に違和感があるので診察してもらいたいのですが」 医者が頭に付けたライトと集光鏡を耳に向け耳の穴に器具を入れ覗いて診察した。「耳に異常はありません。一応吸引しておきましょう」 細い管を入れ耳の奥から耳垢を吸引してくれた。「あと聴力検査もしておきましょう。これからは年に一回の検診を受けることをお薦めします」 診察検査を終えて外に出て、片足立ちになってケンケンしても耳はゴロゴロしなかった。綿棒がダメなら、耳鼻科には優れた吸引機ある。今までに2回こうしてゴロゴロを取り除いていただいた。検査では異常ないと言われるが、それでも最近難聴が進んでいる気がする。悪口陰口以外を聞き取れない。


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ネロリ

2013年04月19日 | Weblog

  週末の朝食後、妻と嫌々ながら散歩に出た。一歩外に出ると、別人になったように好奇心に支配される。晴れ渡り、このところの雨で山の新緑はまさに色のサンプルリストのようにあらゆる緑色系が入り乱れ鮮やかだった。加えて散歩コースに沿って流れる川は、最近町のボランティアによって流れも川原も大掃除され、ゴミが消えた。清流、青空、新緑、花々、飛び交う小鳥。何もかもが私の心をウキウキさせる。

 海に近いミカン農園、農園といっても廃園になったらしい。まったく人の手が入っていない農園だ。ミカンの木々も剪定されていないので、枝が伸び放題になっている。先を歩く妻を呼び止めた。今度は何なのと渋い顔。妻は子どもの頃から、規則をきちんと守る良い子を通したのだろう。さっさとまっすぐわき目もふらずに早足でずんずん歩く。私とは散歩の仕方が違う。散歩は道草こそ王道。あっち行ってチョンチョン、こっち行ってチュンチュンが楽しい。

  ミカンの花は普通5月初旬に咲く。今年は桜が2週間も早く咲いた。まさかと思ったが私はミカンの花を発見した。ミカン畑の中には収穫されずに放置されたままの夏ミカンの実をたわわにつけている木もある。「この匂い、覚えている?」と有刺鉄線の垣根からはみ出すミカンの枝に咲く白い花を指差した。妻はクンクンと匂いを嗅いだ。顔をかしげる。妻はニオイの嗅ぎ分けが不得意である。私はヒントを与える。「チュニジア」「ああ、ネロリ」「ネロリって何?」「チュニジア原産のオレンジの花から抽出したアロマオイル。高いのよ」高い安いはどうでもいいが、ニオイが問題だ。それにしても良い香りである。鼻からシズシズと入り込み、ジワ~と拡がるのが何とも奥ゆかしい。ジャスミンの香りもいいが、ミカンの花の匂いと比べるとちょっとキツイすぎる。

  四季が規則正しくめぐる。早い遅いの誤差はあるが、春夏秋冬の順番は変わらない。歩き回って季節ごとの一つひとつの現象を見つけるのも楽しい。

  家にこもる私を気遣い、休日に妻が散歩に誘ってくれた。このところずっと世の中嫌なことばかり続いている。テロを怒り悲しみ、地震に脅え揺れや音に敏感になっている。本を読む時間が多くなっている。逃避である。現実から逃れようとしている。佐村河内 守の交響曲第一番 HIROSHIMAのCDを流しソファに横になって本を読む。本の世界と交響曲の音の世界への交互移行が心地良い。経験したことのない世界に潜入できる。喜び、悲しみ、恐怖、怒り、安堵、希望、次々に私自身の過去を音に重ねる。

  散歩に出て、ミカンの花のニオイを嗅いだ瞬間、交響曲HIROSHIMAの凝縮された訴えを感じた。作曲できる人間も凄いが自然はもっと凄い。


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鯉のぼり

2013年04月17日 | Weblog

 昨日、散歩に出た。青い空を見上げるとジェット旅客機が白い飛行機雲をまっすぐ伸ばしていた。交差点に出ると反対側の高台にある住宅の庭にまだ4月上旬なのに鯉のぼりが掲げられていた。気持ち良さそうに時々吹く風に受けていた。

 私は節句を鯉のぼりを掲げて祝ってもらった記憶はない。両親は第二次世界大戦以前東京に住んでいた。戦争が始まる少し前に小さな家を買った。5歳違いの姉がそこで生まれた。まもなく父は徴兵され、満州へ行った。姉と残った母は、田舎の叔母の家に疎開した。戦争が終っても父はシベリアへ連行され、すぐに帰ってこなかった。父が帰国した時、東京の家は,戦後のどさくさで他人の所有にされていた。父もやむなく田舎に戻った。日雇いや親戚の農作業を手伝って糊口をしのいだ。私は親戚の物置小屋で生まれたと聞いている。昭和22年7月18日のことだった。私はまったく記憶がない。働き者の父は、私が3歳になると中古住宅を購入していた。私が4歳の時、母は5人目の出産で突然他界した。母親が「赤ちゃんだけは助けて」と願った赤ちゃんも死亡した。私はしばらく新潟県、東京の親戚に預けられた。父親が母親の妹と再婚したので、やっと家に戻った。

 どう考えても私が育った環境下で鯉のぼりを掲げて祝うどころではなかった。当時近所に鯉のぼりを掲げる家などなかった。みな貧しかったのだろう。母親は手が器用で折り紙が上手だったらしい。記憶もないし父親に確かめたこともないが、新聞紙かなにかで兜や鯉を作ってくれたのかもしれない。そう思うのは、自分の家では鯉のぼりを揚げなかったけれど、だからと言って鯉のぼりを揚げている家庭を羨むことがなかったからである。鯉のぼりが空に舞っているのをみると、心底、嬉しくなった。現在でもその気持ちは変わらない。

 日本は豊かになった。鯉のぼりを揚げる家庭は驚くほど多い。ちょうど若葉の季節でもある。柔い新緑と青い空、漆黒のお父さん鯉、紅色のお母さん鯉、元気そうな青かピンクの子供の鯉、色彩豊かな吹流し。ウキウキしてしまう。私は自分専用の鯉のぼりを揚げてもらえなかったが、目に入る鯉のぼりすべてを私のためと勝手に思ってしまう。1時間の散歩で見つけた鯉のぼりは、まだ一軒だけだった。これからあちこちに鯉のぼりが増える。嬉しい。


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御呼ばれ

2013年04月15日 | Weblog

  4月13日の土曜日、“御呼ばれ”で高校の同級だった友の家に行ってきた。約束した駅の南口に車で迎えに来てくれた。7人乗りの大きな車だった。2列目の左側の席は電動で座ったまま乗り降りできる。友の説明によると月2回会いに行く故郷で介護施設に入っている母親を乗せるためだという。月2回母親に会いに行くだけでも感心する。歩くのが不自由なので車の座ったまま乗り降りできる装置をつける気遣いにはもっと驚いた。親孝行な息子である。彼は成績優秀で常に学年でトップクラスだった。大学を卒業し、会社で働き定年退職した。その間ずっと農家の両親の手伝いを目いっぱいしながらである。ただ頭が良いという人ならたくさんいる。二宮尊徳を彷彿させる。2人の子供を立派に成人させた。そして私たち夫婦がお付き合いする基準とする夫婦の仲の良さも合格点である。4,5年前ワイン会で私の妻が酔いつぶれた時も、普段からスポーツジムで100キロをベンチプレスで上げる力持ちは楽々と背負って貸切バスにのせてくれた。多くを学び真似たい友である。

  奥さんの手料理ご馳走になり話が弾んだ。酒が強い友と妻は、楽しそうにピッチをあげていた。やがて妻は酔いがまわり、話しに一貫性がなくなった。妻に理解ある夫妻は、妻にソファで横になるよう勧め、上掛けまで用意してくれた。気持ちよさそうに横たわる妻に3人が時々目を向けながら、話に花を咲かせた。

  私は御呼ばれが好きだ。何故だろう。子供の頃からよその家で「ご飯食べていきな」と言われるのが嬉しくてしかたがなかった。遊び友達、親戚、近所の人、誰でもよかった。京都ではそう誘われて断らないと常識のない田舎者と言われるそうだ。何を言われようが自分の家でない場所で食べさせてもらえるのが嬉しいのである。私はどの学校どんな本で学んだことより、招き御呼ばれされた食卓で得たことのほうが多く私の人生の役に立っている気がする。

  主夫になって御呼ばれされるより御呼ばれする側になった。特に海外で暮らしたときは、ほぼ毎日客を招いていた。もてなしの技を磨いた。コツもつかんだ。楽しみの少ない不便な任地でいろいろな人々との交流は、最大の娯楽でもあった。客を招くと御呼ばれされる機会も増えた。主夫になって初めて御呼ばれする側の裏での苦労を経験した。御呼ばれされた時、招待してくれた人たちの裏での苦労が実感としてわかるようになった。献立を考える。料理ひとつ一つの食材の確保入手、下ごしらえ、調理、テーブルセット、食器の選択と続く。客人と共有する時間、ずっと相手を気遣いもてなす。終ったと後の片付けも大変である。妻と深夜まで食器を洗った。苦労で体にも負担があったが、それ以上に招いた客から実に多くのことを学ぶことができた。

  今月の末にまた御呼ばれの声がかかった。奥さんが大病を患った夫妻からの招待である。日時は決まっていないが他の友からの誘いもある。嬉しい。誰もいつ自分の命が終るか知らない。悲しいことはいくらでもある。私は思う。これからもできるだけ御呼ばれをして、御呼ばれをされて、自分がこの世にいる間は、会いたい人と会って時間を過ごし、たわいない話をして手料理を味わい飲みたい。招きたい人を招く。地震、ミサイル、オレオレ詐欺、増税、政治不信、嫌なこと恐ろしいことは山ほどある。どれも私自身にはどうすることもできない。だから一緒にいたい人々、話したい人々、話を聞きたい人々と、さりげなく時間を過ごしておく。たとえどういう状況、順番で消えていくにしても「さよなら」とだけ言える関係でいたい。精一杯下準備してご馳走して後片付けして、遠慮なく招かれご馳走になって後片付けしてもらおうと思っている。


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ミサイルか大衆か

2013年04月11日 | Weblog

 旧ユーゴスラビアの首都ベオグラードがNATO軍に空爆予告され在留する外国人に退去勧告が出ていた。1999年3月、日本大使館の館員は少数が残り館員家族は全員オーストリアのウイーンへ避難することになった。私たちが乗った旅客機は外国の航空会社では最後の便となった。次の日からNATO軍による夜間空爆が始まった。NATO軍を支援するためにアメリカ軍は地中海に展開する艦船からミサイル「トマホーク」を旧ユーゴスラビア全土の軍事基地や主要政府機関をピンポイント攻撃した。私たちはほとんど着の身着のままでベオグラードを離れた。避難生活は4ヶ月以上続いた。オーストリアに2週間、日本に2ヶ月、ウイーンに2週間、その後、妻だけ空爆が終わるとクロアチアのザグレブの日本大使館へベオグラードへの帰任の安全が確認されるまでの条件で1ヶ月間臨時赴任することになった。避難生活は不便で不安だったが、ミサイルや空爆の恐怖よりはましだった。

 2013年4月10日日本中で北朝鮮がミサイルを発射するのではと緊張した。11日の朝6時現在、北朝鮮はまだミサイルを発射していない。この不安はベオグラードでミサイル攻撃を恐れていた時のものと似ている。今回のミサイル騒ぎを指揮している金正恩なる人物を知りたいと思った。不安を少しでも和らげようと故金正日総書記の元料理人藤本健二著『引き裂かれた約束』講談社刊 1500円を読んだ。参考になったが知りたいと思ったことは書いてなかった。旧ユーゴスラビアでもミロシェビッチという独裁者に国民は翻弄された。北朝鮮にも独裁者がいる。

 私がひとりで先に帰任していた妻が待つベオグラードに戻ったのは、1999年7月18日、私の51歳の誕生日だった。借りていたアパートの部屋も家具も自動車も無事だった。街に出てみた。アパートから1キロも離れていないところに、ベオグラードで一番高いニューヨークの国連ビルに良く似た共産党本部の建物がある。外見は以前のままのようだったが、ワンポイント攻撃で屋上から地下までビルの中をミサイルが突き抜けていた。(写真参照)誤爆だったといわれているが、死者まででた中国大使館はほぼ全壊していた。市内に散らばっている軍関係の建物や政府の建物もそこだけが点々と破壊され焦げた残骸をさらしていた。私が好きな市場はたくさんの買い物客でにぎわっていた。空爆前でも経済封鎖をうけながらも市場は活気に満ちていた。ユーゴ独特の小さなカップで別名泥コーヒーと呼ばれる濃くて甘いトルコ風コーヒーを飲みながら、現地の友人たちと喋って時間を過ごすのが楽しかった。どんな状況に置かれようと生き抜こうとする大衆のしたたかさを垣間見た。それから1年後の秋、次の任地チュニジアへ転勤する直前、ミロシェビッチ政権が大衆の蜂起によって倒れるのをデモ隊について歩いて目の当たりにした。

 北朝鮮が今後どうなるのか判らない。私は大衆が独裁者に翻弄され悲惨な生活を強いられるのではなく、日常生活で自分勝手に文句批判を言いながらも生活を楽しめるよう願う。旧ユーゴスラビアの大衆に起こったことが北朝鮮の大衆にも近い将来起らないとは誰にも言えない。究極の武器と確信して核とミサイルをオモチャのように手にして有頂天の3代目のお坊ちゃまには、うねりながら浸透を続け一旦動き出したら核やミサイルより手に負えない大衆の本当の怖さが見えていないようだ。


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春の嵐と郵便配達

2013年04月09日 | Weblog

  4月6日土曜日午後5時過ぎ玄関からのチャイムが鳴った。月2回の土曜日勤務から春の嵐が来るというので、外来診療を調節していつもより1時間ほど早めに帰宅していた妻が答えた。私は書斎にいた。日常の何げない光景に耳をかたむけていた。「ハ~イ」「郵便局で~す。書留です」のインターフォンを通してのやり取りが聞こえた。オートロックを開錠したのだろう。再び「ピンポ~ン」 「あれ、おかしい。玄関なの」 チャイムは2ヶ所にある。集合住宅の玄関と各家庭の玄関。チャイムの音は同じである。家の玄関のチャイムが鳴るのは、おそらく別の家庭のチャイムを鳴らし開錠してもらい、そちらの配達を済ませ、我が家に回って来たと思われる。最初のチャイムが鳴ってから、妻は少しもたついたが簡易書留郵便は無事配達された。

  妻が封筒を持って書斎に来た。早速、私は手で封を切ろうとしたが、とにかく封筒全体がぐっしょり湿っていてどこからも千切ることがなかった。封筒の紙は水分に強く作られているらしい。そんな私の様子を見ながら、妻が話してくれた。「郵便配達のおじさんがずぶ濡れの合羽からポタポタとしずくを落としながら立っていたの。ビニールで厳重にカバーされているカバンから郵便物を出して『スミマセン、郵便を出し入れしているうちに濡れてしまって』って言いながら手のしずくを払いながら渡してくれたの」 封筒は少し濡れていた。「ご苦労さまでしたって言うとひとり言のように『帰れるかな』だって。こんな日でも配達しなければいけないんだ。大変な仕事だね」 書斎の窓から見える裏の竹林は暴風雨にさらされていた。私は立ち上がり居間の北側の窓へ行った。オートバイに乗った郵便配達の局員が雨に打たれ、顔を覆う合羽の透明なフードから合流する道路へ出るのをうかがっていた。「お気をつけて、無事にお帰りください」

 外務省の医務官を13年間勤めた妻について私は合計6カ国の国々に住んだ。この全ての国々で共通する経験をした。郵便配達がなかった。街中にポストもなかった。どの国も郵便局に局留めされ、窓口で受け取るか、私書箱を持つかのどちらかであった。日本の郵便配達制度がいかに立派なものか、それがない国々に暮らして初めて知った。私のような庶民が当たり前のことのように感じるということは、どれほど凄いことなのかも知ることができた。

  土曜日、日曜日と2日間にわたった春の嵐は、日本中に大きな爪あとを残して行った。4月8日の月曜日、朝から晴れ渡った。ミソサザイがこの春初めて元気いっぱい鳴いた。青い空、雨風に耐え咲き始めていた八重桜が誇らしく天に向きを変えていた。誘われるように散歩に出た。日曜日の午後、妻と散歩した時は風に押し戻されるほどだったが、風もなぎ気分よく歩くことができた。赤いバイクに乗った郵便配達の局員も制服に身をつつみ、気持ち良さそうにテキパキと動き回っていた。「ご苦労さま」


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アップル銀座店

2013年04月05日 | Weblog

 知人に薦められて東京銀座にあるアップルの直営店に行った。中に入ってすぐこの雰囲気どこかで経験したと懐かしく思った。そうだ、高校から留学したカナダの学校のそれである。ニオイまでよみがえった。客と同じくらいの数のアップルの店員が体育館のように広い店内に散らばっている。店員と客との区別はすぐつく。店員はズボンこそてんでバラバラでもお揃いのTシャツを着ている。言葉は悪いがどこにでもいるにいちゃんねえちゃんたちである。年配者も混じっていた。そのだれもの頬と口元の筋肉がゆるんでいる。日本人にはなかなかできないことである。この店員ぜんぶよその国の人かと思った。名札を見るとさにあらず圧倒時に日本人が多い。整然とテーブルが配置され、その上にアップル製品がこれでもかと展示されている。客はアップルの製品に実際に手で触れて体験できる。店員は積極的に売り込むことはしない。

  私が住む町にある携帯電話の会社では、考えられない方式である。去年ドコモからauに変えたがどちらも応対した店員は、不親切だった。私は正直、一生涯スマートフォンを自分で持つとは思っていなかった。スマートフォンやi-padにまったく興味がなかった。その私が、とうとうスマートフォンとi-padを始めることになった。携帯電話販売店で購入したが、店員の説明を聞いていて、私に使いこなせるかと絶望感と買ってしまった後悔に潰されそうになっていた。

  知人の薦めで銀座のアップルで受けられる無料の講習会に3日通った。会場は銀座アップルの店舗の3階である。朝一番の講座から夕方3時まで、1日4講座を受けた。私のような年配者が数人朝から続けて講座を受けていた。自分のスマートフォンやタブレットを使っての受講なので、気軽で携帯電話の販売店で感じた不安がどんどん消え自信さえ生まれてきた。講師はどの講座も店員が務める。説明や解説がどうのでなく、店員がいかに自社製品を好きで体の一部のように思っているかが態度姿勢を通して私に伝わった。受講生目線で話してくれるので私のような理解が遅いトロイ生徒でも何とかなった。一回でダメなら同じ講座を解るまで受講した。終いには面白いようにスマートフォンを使えるようになった。これはすごいことである。売るだけではダメだ。日本の携帯電話は生産側も販売側も今のままでは再起できないだろう。教育制度と同じでアメリカは生徒は解らなくても当たり前、日本のあんたこんなことも解らないの態度では負けてしまう。

 私がスマートフォンを買う決心したのは、電子書籍で本を出すようになって、出版前に校正せざるをえなくなったからである。またできあがった自分の電子書籍を読んでみたかった。私はパソコンで出来上がった電子書籍を見られると思い込んでいた。理由は私には理解できないが、スマートフォンかタブレット端末でしか閲覧できない。すでに6冊をアップルとグーグルを通して販売を開始している。(購入は私のホームページを経由して可能http://book.geocities.jp/junnaichimai13/index.htm1.『サハリン 旅のはじまり』2.『ニッポン人?!』3.『鷦鷯(みそさざい)』4.『蜂鳥』5.『啄木鳥』 6.『郭公(カッコウ)』 

  私は2005年に日本に帰国した。10冊本を残すという目標を立てた。ささやかな私の夢である。あと4冊である。すべて紙に印刷された書籍として出版されればよいのだが、最近の出版業界はどこも経営が厳しい。私のようなかけだしの物書きに出番はない。残された道は、電子書籍しかないと思った。すでに人生最終段階に入り残った時間は少ない。私の思いの丈を書けるだけ文章にしておき、終の日を迎える覚悟である。


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オートロック

2013年04月03日 | Weblog

 昨日、スーパーで買い物を終え駐車場の車に戻った。今の車は便利である。鍵を持つ私が車に接触すると自動的に車の施錠が解除される。リモコン式である。運転席の後の座席に買った商品を入れた買い物袋を置いた。運転席に座り車のエンジンをスタートさせようとした。突然左側の後部座席のドアが開いた。あれよあれよという間にひとりの老婆が乗り込んできた。私は鳩が豆鉄砲をくらったように驚き凍りついた。ドアが開いた時、私は瞬間的に暴漢が私の車に私を襲う目的で乗り込んできたと戦慄を感じた。まったく予期していなかった。油断大敵雨あられ。

 海外で暮らしていた時、転勤するたびに現地の友人たちに口うるさく注意を受けたことがある。鍵を開けて車に乗ったらまず最初に誰も潜んでいないかくまなく車内を調べる。特に後部座席。安全を確認したらすぐにドアのロックをすることである。人混みの多い道路で窓を開けて走行するなどもっての外だとも言われた。北米でもアジアでもアフリカでもヨーロッパでもロシアでも同じことを言われ続けた。日常生活に危険がたくさん潜んでいた。前任者や現地の人々の適切なアドバイスは多いに役立った。車で同じ時間同じ経路を走るな。家の鍵はたとえ数秒間出る時でも必ずかける。バスに乗る時は絶対に後部座席に座らないで運転手から見えるところにいる。

  日本では考えられないことである。それどころか日本の自動車はほとんどがオートロック化されていて、走り出してから数分経つとロックされる。私の家ではトイレさえも、外に出れば多くの建物のドアは自動化されている。甘やかされ過ぎだ。日本に帰国して9年。すっかり海外生活で身につけたリスク管理を怠っていた。

 今回の出来事で一番怖かったのは沈黙であった。老女は私の顔をにらむように見つめて、間違いに気づき素早く降りた。一言の言葉もなかった。動きに老いはさほど感じなかった。「間違えました」でもなければ、「ごめんなさい」でもない。老化による不注意かもしれない。日本人独特の気恥ずかしさで言葉を発せられなくなったのかもしれない。それにしては横柄というか、好感が持てる態度様子顔色ではなかった。70歳から80歳という年齢を考慮すれば、礼儀も道徳も弁えていて当然の域に達しているはずである。おそらく彼女が乗ってきた車も私の車と同じく白だったに違いない。老女が乗った白い車が私の車の前を通り過ぎた。後部座席に座った老女は運転席の夫らしい男性に話しかけていた。ちゃんと話せる人だった。普段私の車には妻しか乗らない。妻が乗る時は必ず助手席に乗る。夫婦で夫が運転席で妻が後部座席に座るのは、日本の珍現象のひとつかもしれない。

  もし彼女が素直に「あら、間違えちゃった。うちの車だと思ってうっかり乗っちゃった。ゴメンナサイね。失礼しました」とでも笑顔で言ってくれれば、私は「こんなこともあるんだ」と気を取り直したに違いない。沈黙の後味が悪かった。日本語を話す者どうしが、こんなことでいいのだろうか。暴漢に襲われたわけではない。被害だってなかった。世間から「気配り」「目配り」「手配り」があそこでもこっちでも昨日も今日も一つまた一つ消えてゆく気がしてならない。声を掛け合おう。話をしましょう。誰にだって失敗はある。許しを請おう。老いることは、しかたがない。しかし老いを言い訳にしてはならない。老いは歩んだ人生の結晶であってほしい。結晶は綺麗で光を放つ。人間の結晶の光は、言葉ではないだろうか。

  これからはせいぜい私も不用心に鍵をつけたままの他人の白い車を間違って運転して家に戻らぬように気をつけなければ。

 
 
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