団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

会社を取るか、サッカーを取るか

2022年11月29日 | Weblog

 「Dear My Boss Thank you For My 2 WEEK OFF」(原文のまま):【親愛なる上司 2週間の休暇に感謝してます。】今回のカタールでのサッカーワールドカップのテレビ中継で映った紙に上司への感謝を伝えようとしていた会社員の写真が話題になっている。

 これを見て、私は、1990年のイタリアでのワールドカップの事を思い出した。私の長男は、大学を卒業して就職したばかりだった。サッカーが好きで会社を休んでローマへワールドカップを観に行こうとした。会社の上司に休暇願いを出した。上司に「会社を取るか、サッカーを取るか決めろ」と言われた。長男は、ためらいなく「サッカー」と答えたそうだ。上司は、「よし分かった。行ってこい」と言ったそうだ。弾丸行程だったが、応援していた国のサッカーの試合を楽しんだようだ。私は親として、苦労して大学を卒業させ、やっと就職した会社を辞めてまで、ワールドカップを観たいという長男を理解できなかった。幸い、理解ある上司のお陰で、会社を辞めることにならなかった。そんな長男も、サッカー観戦を許してくれた上司の年齢を超えたであろう。あのまま同じ会社に勤続している。役も付き、上司として多くの部下もいる。今回のワールドカップに彼の部下で休暇を申請した人がいただろうか。いつか尋ねてみたい。

 二人の男の子を持つ父親にもなった。二人とも幼い頃からサッカーを始めた。進学した中学高校のサッカー部に入った。上の子は、中学2年生の時、難病指定の病気になり、学校への通学も部活動もままならなくなった。入退院を繰り返しながらも、サッカー部を退部することなく最後まで在籍した。彼の高校最後の試合を本人に内緒で妻と観に行った。試合が行われていた外で、いつ交代で出場するようになってもいいように準備していた。走ったり、時々ジャンプして体をほぐしているようだった。結局、出番は来なかった。長男と嫁は、惜しみない拍手を送っていた。私は、長男夫婦に最大の賛辞を贈りたかった。

 カタールのワールドカップサッカー、日本対ドイツの試合は、観なかった。9時過ぎたらベッドに入ることにしている。朝起きて、ネットで日本がドイツに2対1で勝っていた。まさかと思った。次のコスタリカとの試合は、夜7時からだった。私は、“観なければ勝ち、観れば負け”という呪文のように思い込んでいる。しかし、あの強豪ドイツにあの勝ちぷっりなら、コスタリカに勝てるんじゃないの驕りが強かった。妻と観戦した。妻は、相撲観戦では、まるで解説者のようにあれこれ厳しく言いたい放題になる。それがまたいい所を突くのだ。妻が言った同じ事を、テレビの解説者北の富士が言うことが多々あった。テレビの音声を消して、妻の放言を聴いていた方が良さそう。コスタリカ戦での妻の口から出てくる辛辣な批評が面白かった。妻は、日本が、やたらに後ろへパスを戻すと文句を言った。後日、元日本代表だった人のコメントに、妻と同じ後方へのパスが多すぎたとあり、妻の批判もまんざらではないと改めて思った。

 よく「絶対に勝たなければならない…」などと言う。私は、長男やサッカーファンのように熱くなることができない。冷めたつまらない人間かもしれない。どうしても日本に勝って欲しいと熱くなることもできない。どこの国のチームであれ、凄い技や能力には敬意を払う。サッカーの試合で、ブラジルのリシャルリソンが見せたアニメのようなオーバーヘッドキックを見れば、心躍る。人間って凄いな、と感動する。

 私は、楽器の演奏も歌を歌うことはできないが、聞く心を持っていると自負している。それと同じ様に、サッカーをすることはできないが、観て良いプレイに惜しみない拍手をおくることができる。スポーツは素晴らしい。闘い終わって、お互いのチームの選手も監督も握手したり抱き合う。それに比べたら戦争は、人間が犯す最悪の行為である。


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XYZ

2022年11月25日 | Weblog

  買い物に電車で行った。駅の改札を出てすぐ、背後から「……が開いてますよ!」の女性の声。難聴で2週間前に耳鼻科を受診したばかりの私。「……が」の「……」が聴き取れていない。咄嗟に私は、下を向いてチェック。着ていたのがジャージ。そのジャージには、いわゆる社会の窓がない。社会の窓じゃあなければ、どこが開いているの?女性は、もう私からずいぶんと離れて行ってしまっていた。どこが開いているのですか、と尋ねることはできない。

 駅中のスーパーで買い物した。レジで会計。いつもの通りに「レジ袋お付けしますか?」と聞かれた。その時、稲妻に打たれた様に「リュック」が頭の中で響き渡った。急いで会計を済ませた。買った品物が入ったカゴをサッカー台に置いて、今までその存在を忘れていたリュックを降ろした。恥ずかしくて全身がカッカしてきた。リュックのチャックが開いていて、上半分がまるでエンマ大王の舌のように垂れていた。やっちまった!社会の窓の閉め忘れも恥ずかしいが、リュックのベロンチョも社会の窓と同じくらい恥ずかしい。

 レジ袋が有料になる前から、私は買い物にリュックを使っている。そのリュックは、中学高校で同じクラスだった鉄ちゃんのカタミだ。鉄ちゃんは50代後半に動脈瘤破裂で突然亡くなった。葬儀に出席しようと会場へ行った。場所が分からず、会場に着いた時には、葬儀が終わっていた。会場を片付けていた葬儀社の人に手紙と香典を渡した。後日鉄ちゃんの奥さんから丁寧な手紙と香典返しのカタログが送られてきた。私はリュックを選んだ。そのリュクを使う度に、鉄ちゃんと多く過ごした中学生の頃のことを思い出す。もうすでに15年以上使っている。

 還暦を過ぎる前から、注意力が欠け、物忘れがひどくなった。妻が一緒だといろいろ気を配って見てくれるので助かっている。しかし妻が出勤してしまえば、日中ひとりになる。家の中に居ても、部屋から部屋に移動すれば、数十秒前にしようと思っていたことが思い出せなくなる。まさに「私はだあれ?ここはどこ?」状態である。調理をしていても、鍋を火にかけたまま、他のことを別の場所でやり始め、すっかり調理中であることを忘れてしまう。立ち込める焦げた臭いでやっと鍋を火にかけていたことを思い出す始末。鍋をいくつダメにしたことか。さいわい我が家はオール電化住宅とかで、調理台はIHになっている。このIH,温度や時間で自動停止する。これがなければ、火事の火元になっていたであろう。妻は、火を使って調理中は、その場所から離れないようにと口を酸っぱくして言う。でもすぐ忘れる。

 歳をとって、物忘れや注意力の欠如は、私だけの問題ではない。歳をとらなくても、物忘れや注意力を欠くことはあった。留学したカナダの全寮制の高校で、ある時「XYZ」と小声で注意された。その時、私は社会の窓を閉めるのを忘れていた。“XYZ”とは、“Examine your zipper”の略で“あなたの社会の窓のジッパー開いてるから調べて”を暗示しているのだ。こうしてどこでも失敗をお互い様の気持ちでカバーし合っている。

 駅構内で中年女性に「……が開いていますよ!」と声をかけられ、カナダの「XYZ」を思い出した。恥ずかしかったけれど、ちょっとほっこりもした。


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えんのみ鉄砲

2022年11月21日 | Weblog

  20日の日曜日、5回目のワクチン接種を受けるために、妻と歩いて会場へ向かった。妻は、今回私と一緒には、ワクチン接種を受けない。付き添いということで同行してくれた。予約は10時だった。天気予報では、朝から雨と言われていたが、まだ降り出していなかった。二人とも傘を持って出た。私は、杖があった方が歩きやすい。大きくて長めの傘を選んで、杖代わりにした。会場は、地域の公民館だった。家からは歩いて30分くらいである。川沿いの歩道を歩いた。紅葉が進み、歩道のところどころに枯葉が溜まっていた。小さな公園を横切った。足元で「ブシュッブシュ」と音がした。靴でドングリを踏みつけていたのだ。できれば踏まずに前へ進みたかったのだが、数が多い。避けて歩ける状態ではなかった。

 生まれ育った信州の秋は、木の実が多く子どもたちの遊び道具になっていた。木の実の遊び道具といえば、秋ではなかったが、夏になる前、榎の実を玉に使ったつき鉄砲作りが流行ったことがある。榎の実は、青かったが、硬かった。細い竹をくり抜いて、その穴にきつ過ぎもなく、緩すぎることもない押し出し棒を作った。あの頃、男の子は、肥後守の小刀をポケットに入れていた。竹藪に入って、適当な竹を選んだ。いつも一緒に遊んだ5,6人の子どもが、それぞれ工夫して自分のつき鉄砲を作った。出来上がると、試し打ちをした。つき鉄砲の玉は、いくらでも榎の木から取れた。上手に作ったつき鉄砲は、榎の玉を筒から発車する時、「シュパッ―ン」と音を発した。この音を出せるつき鉄砲は、そうは簡単に作れない。だから巧く作った子は、鼻高々だった。木の実で遊んだ思い出は、このつき鉄砲が一番だった。

 木の実を竹の筒に入れて鉄砲にして遊んだ、あの鉄砲の名前も、使った木の実の名前も、思い出せなくて歯がゆい思いをしていた。先日、やっとのことで、ネットで「つき鉄砲」とか「えんの実鉄砲」だとわかった。使った実は、「榎の実」であることを突き止めた。嬉しかった。一気に子ども時代に帰ることができた。

 小さな公園を妻と二人並んで歩いた。落葉を踏み、ドングリを踏みながら。ワクチン接種の会場に急いだ。4回目は、病院で受けた。その病院には、20人くらいの人しかいなった。驚いた。同じ町内にこれほど多くの人がいたなんて。まず玄関を入ってすぐのホールで受付をした。そこにすでに10名くらいの人。係に促されて、2階の大ホールに入った。最低100名はいた。接種を待つ人。接種を終えて15分の待機する人々。コロナ禍で家に籠っているので、一度にこれほどの大人数の人を目にすることはなかった。胸に番号が記されたシールを貼って接種の順番を待った。58番だった。接種していたのは、開業医一人で「今日の体調はいかがですか?」「以前ワクチンを打って具合が悪くなったことありますか?」などと全員に尋ねては、接種していた。大変な仕事だと思った。

 接種。でもそれほど痛みは感じなかった。一晩たった。朝起きると左腕は痛い、重い、違和感がある。頭痛もある気がする。静かにしていようと思う。子どもの頃から、すでにいろいろなワクチンを打った。効いていることを祈るばかりである。人間の体は神秘にみちている。私が分からないことは、専門家に任せるしかない。


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気が滅入る

2022年11月17日 | Weblog

  なんとか75歳まで生きてこられた。コロナのせいで、家にこもる生活が続いている。こんな息苦しい生活ができるのも、身の回りの便利なことに支えられているからだ。もしこれが私の子どもの頃と同じ環境であったなら、コロナ禍を生き抜けてこられたか疑問である。

 まずコンピューター。コンピューターのお陰でニュースを瞬時に知ることができるようになった。新聞やテレビのように思想主義の押しつけがないものを自分で選んで読むことができる。次に買い物が家にいたままですることができる。日本のクロネコのような流通システムのお陰で、玄関まで敏速に配達してもらえる。友人知人との連絡もZOOMで顔を見ながらできる。電話や郵便を使わなくても、メールでやり取りもできる。海外の生活で一番苦労した水道水も、清潔な透き通った水が、蛇口をひねれば、制限なく出る。電気も災害で停電になることも時々あるがまず問題なく使えている。トイレにいたっては、水洗になったうえに、ウォシュレットという快適この上ないモノを使える。トイレットペーパーも香付きの柔らかなモノになった。風呂にはシャワーまであって、湯が出て、いつでも使える。テレビは、従来の詰まらない番組しか放送できない、いつまでたっても成熟できない放送局を避けて、有料だけれど、ネットフリックスやYouTubeやアマゾンプライムで好きなドラマや映画を、観たい時に観られる。食べ物も次から次へと新しいモノ、珍しいモノが紹介される。ブドウもシャインマスカットのような、種の無い皮まで食べられるモノがある。日本では生産されないモノでも冷凍などで、世界のどこからでもネットショップで購入できる。イタリアの生ハムだろうが、私が好きなポルチーノでさえ買うことができる。

 私は、車が好きで、車に金をかけていた。しかし65歳を過ぎた頃から、自分の運転に?を感じるようになった。世間では、老人による事故が多発して、多くの若い命が失われていた。車は、エンジン排気量が大きければ大きいほどいい。マフラーは、2本でなければ乗りたくない。デザインは、こうでなければ。色はああでなければならない。全部やめた。3500ccの車から、一気に軽自動車にした。車の経費は、3ナンバーで年間約45万円、軽自動車だと約25万円ほどといわれている。もちろん購入時の価格は、含まれていない。今は、5ナンバーの1000ccのありふれた、マフラーも1本の小型普通車に乗っている。遠乗りすることもなくなった。ガソリンも月に2回入れるだけだ。コロナになってから、車は、妻の駅への送り迎えだけになった。

 車にかけていた分、家の中の事や生活向上に、今度は、金をかけることにした。ヒートショックは、老人にとって恐ろしいものだ。私のように心臓に問題を抱えた者にはなおさらだ。まず、そこで浴室と着替え室兼洗面所に、暖房装置をつけた。電気代を入れても、私が満足できる車を諦めた分で、お釣りがくる。

 コロナで生活が激変した。それでもネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、サハリンでの生活と比較したらずっと楽である。辛い、悪い、過酷な経験は、後になって役に立つ。便利で快適な生活に感謝している。

 今朝、そんな隔離生活中の私のパソコンに、アマゾンを語るフィッシング詐欺のメールが飛び込んできた。悪が暗躍する。悪は、賢く執拗である。後期高齢者になった私は、このような侵入者の悪さに接すると怒り、気が滅入る。まだ奴らの手に引っかからないぞ。気が滅入る前に、奴らと戦う策を考えよう。


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鮟鱇

2022年11月15日 | Weblog

  旧ユーゴスラビアに住んでいた。当時国連による経済封鎖が続いていた。私の日課は、市場での買い出しだった。市場には、密輸された品物(タバコ、菓子類、化粧品など)が数多く売られていた。ガソリンや石油は、経済封鎖の影響で入手困難だった。ガソリンスタンドは、いつも長蛇の列。闇のガソリンを1リットルのペットボトルに入れて売る人たちが、道路端によく立っていた。もともと農業国だったので、基本的な食料(小麦粉、野菜、肉類)は豊富だった。外国人は、国境を越えて、ハンガリーやオーストリアへ買い出しに行くことができた。それでも入手困難だったのは、海で獲れる新鮮な魚だった。ベオグラードには、ドナウ川とサヴァ川二つの大きな川が流れている。淡水魚の鯉が獲れる。市場の魚屋には、鯉が売られていた。現地の人々は、ドナウ川はドイツの下水路で、水が汚染されている、と言って魚を食べないと言っていた。私も一度魚屋が養殖の鯉だと言うので、買ってみた。日本で佐久鯉を食べていた私には、とても満足できる鯉ではなかった。

 ある日、市場の魚屋に珍しく地中海の魚が並んだ。そこで鮟鱇に似た魚を見た。店の人にこの魚は何?と尋ねた。「Monkfish」と答えた。確か「Monk」は、修道士。そういえば、よく映画に出てくる欧州の修道院の修道士は、裾の長い、フード付きの衣服を身に着けている。あの姿に似ているからかな、と思った。いずれにせよこの機会を逃したら、いつまた新鮮な魚を口にできるか分からない。値が張るが、経済封鎖中のベオグラードで鮟鱇鍋もいいだろうと買った。白菜とキノコ(マッシュルーム)、豆腐も買った。丸ごと買った鮟鱇。普通のウロコがある魚と違って表面はヌルヌルしている。調理したことなど一度もない。日本から持ってきた魚の調理本を参考にして調理した。鮟鱇は、捨てるところがほとんどない。ウロコ取りをしないだけでも楽である。骨で出汁を取った。ベオグラードで鮟鱇鍋。美味かった。海外にいることをしばし忘れた。

 昨日、行きつけの魚屋で鮟鱇の切り身を見つけた。きれいに下処理がされ、パックに入れられラップで覆ってある。ベオグラードの魚屋の鮟鱇とは違った。きっと相当大きな鮟鱇だったに違いない。肝が大きい。魚屋に来ると、つくづく日本は魚文化の国だと思う。

  このところ冬の気配が強まってきていて、なべ物やおでんが恋しい季節になってきた。鮟鱇鍋にしよう。鮟鱇を湯通しする。ネギは下仁田ネギ。太いネギをぶつ切りにして焼いておく。エノキ茸、豆腐。あとは鍋に入れるだけ。鮟鱇の身は、熱を入れすぎるとボソボソになるので、火加減に注意する。鮟鱇鍋に必要な物、今は、何でも手に入る。不自由な生活も悪くない。経験しておくと、何でもない普通が、いかに恵まれた境遇であるか、よく分かる。

  2023年1月、世界最高峰のフランス料理の世界大会『ボギューズ・ドール国際料理コンクール』が開かれる。そのメイン食材に選ばれたのが“鮟鱇”と“ホタテ”。付け合わせが“ムール貝”と“豆類”。いったい鮟鱇が世界最高峰の調理人たちによってどのような料理になるのか楽しみである。鮟鱇の見かけで敬遠する人もいる。人も同じ。見かけだけで判断してしまったら、その人の人間性を知ることなどできない。人を知るには、一緒に食事をするのも良い方法である。コロナは、その手段さえ私たちから奪ってしまっている。悔しい。


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世界一正確な鉄道

2022年11月11日 | Weblog

 「電車またまた遅れています。私が乗る電車だけ何で送れるのかわかりません。今15分遅れ。……」 私は、妻から“遅れるメール”がない限り、妻が乗る電車の到着5分前には、駅前に車を停めて待っている。最近、“遅れるメール”が多い。

  私は、夕方5時から夕飯の支度を始める。調理中、携帯で妻からのメールをチェックすることができない。大体の準備ができるのが、妻が乗る電車が駅に到着する20分前くらいだ。普段、私の日常は、同じ時間、同じ行動で回っている。さあ家を出ようとしている時、携帯でメールを確認する。メールがなければ、時間どうりだということになる。入っていると遅れるの合図である。毎日、何事も起こらなければいいのだが、そうは問屋が卸さない。ひとたび毎日同じ時間に同じことを続けていると、それが何らかの理由で変わると調子が狂う。たった10分15分であっても、その時間をどうするかは、私にとって大きな問題だ。時間を見計らって作った夕飯の料理も冷めるだろう。イライラの原因となる。

  日本人は時間に厳格だ。最近枝久保達也(鉄道ジャーナリスト)さんの『世界一「時間に正確な鉄道」はなぜできた?実はルーズだった日本を変えたのは…』を読んだ。鉄道の定時性が確立したのは、国鉄のお陰だという。本来、日本人も時間に鷹揚だった。何か約束しても、なかなか時間どうりにことが進まなかった。蕎麦屋の出前のようなもの。明治以降に日本全国に鉄道がどんどん普及していった。そんな中、私鉄では、従業員の遅刻を1時間超えた場合としていた。ところが国鉄は、全国に鉄道網を持ったので、列車の遅れは、全国的な混乱を起こし、営業にも大きな負の影響をもたらした。国鉄は、“遅刻”の判定を定刻以内と決めた。これが鉄道の定時性を生んだという。

  確かに日本の鉄道の正確さは大したものだ。私が学んだカナダのアルバータ州の小さな町を通っていた鉄道は、1日に1本だけ。列車が遅れるの当たり前、それも1時間なんて良い方で、3,4,5時間当たり前だった。日本の新幹線は、2,3分に1本走っているのではと思う程である。驚異である。よくこんなことができると思う。海外からの旅行客が新幹線の写真を駅で撮っている光景を目にする。頻繁に通過到着を繰り返しているので、写真が撮りやすいと評判だ。新幹線の列車そのものも彼らを喜ばせるが、少ない時間差で猛スピードで尚且つ正確に運行できる方式に驚嘆している。その方式が観光の目玉になっているというから驚きである。

  妻も新幹線通勤である。たまに遅れることもあるが、在来線ほどではない。昨日も新幹線に乗っている時間より、途中の在来線への乗り換え駅での待ち時間のほうが長いとこぼしていた。

  在来線の遅れの理由は、「線路内に人が立ち入った」「信号トラブル」「異音がしたので点検」「人身事故」が多い。よく日本人は、完璧主義者だと言われる。しかしそれも遠からずなくなるであろう。以前できていたことが、できなくなる。これは、私たち日本人の劣化なのか。それとも能力以上に無理をし過ぎている反動であるのか。警告灯が点滅している気がしてならない。


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ポルチーノ

2022年11月09日 | Weblog

  11月に入って、山の木々が色づいて来た。私にとって紅葉の“匂い”は、なぜかキノコの匂いである。キノコが好き。採るのも食べるのも好き。おそらく私の体は、秋になると山でキノコを採ったので、紅葉とキノコ採りを結び付けて覚えているのかもしれない。

  妻がネパールでの任期を終え、次の任地のアフリカのセネガルへスイス航空の飛行機で向かった。機内食にキノコがでた。美味しかった。白ワインとの相性も抜群だった。あまりに美味しかったので、客室乗務員にキノコの名前を尋ねた。「CÈPE セップ」と聞き取った。もちろん赤道直下のセネガルにセップはなかった。時間の経過とともに、セップの美味しさもその名も、セネガルの生活の厳しさに飲み込まれていった。

  セネガルの次の任地は、旧ユーゴスラビアだった。NATO空爆や国際社会からの経済封鎖で、生活は厳しかった。唯一の息抜きは、休暇でイタリアへ行くことだった。秋に訪れたイタリアでセップと再会した。イタリアでは、セップのことをporcinoポルチーノという。複数形がporciniポルチーニ。私はセップという音の響きより、ポルチーノの方が好き。音だけでも美味しそうである。意味は子豚だという。スイス航空の機内食で食べたポルチーノはすでに調理されたものだった。元の形は、知る由もなかった。子豚とポルチーノ!私の頭の中で二つが結びつかない。市場で初めてポルチーノを見た。子豚とポルチーノが結びついた。何とまあピッタリな名前だろう。ますますポルチーノが好きになった。知人に勧められたポルチーノで有名なレストランへ行った。店の人の勧めで、オリーブオイルで炒めて塩だけで振ってある料理を頼んだ。ポルチーノの香りがオリーブオイルの匂いを押しのけた。歯ごたえがいい。松茸の歯ごたえのよう。白ワインを口に含む。子どもの頃、ふるさとの山の中で落ち葉を踏みしめ、蹴散らして遊んだ。土の匂いと落葉と浄化された空気が入り混じって鼻腔をくすぐった。あの感覚が、鼻腔でなくて口の中で、白ワインとポルチーノが記憶の中で、踊っているようだった。リゾットも美味かった。

  妻が職を辞して日本に帰国した。日本にはポルチーノは、ないと思った。キノコ採り名人の妻の高校の時の担任だった恩師を訪ねた時、ポルチーノの話をした。彼は「日本にもポルチーノあるよ。日本ではヤマドリタケと呼ぶけど」と言った。驚いた。でも嬉しかった。そのうち口にできるかもしれないと期待した。残念ながら、未だに日本のポルチーノを食べる機会はない。しかし日本でイタリア産の冷凍のポルチーノを買うことができる。少し前まで、日本で手に入るポルチーノは、乾燥物だけだった。私は、わがままな典型的な“ないものねだり”。乾燥物より生。生で手に入らなければ、食べない、と粋がった。冷凍のポルチーノを試してみた。ローストビーフの付け合わせにした。「いいじゃん」 松茸の寿司を真似て、ポルチーノの寿司を作った。スライスして醤油を塗ったポルチーノを気持ち炙る。ちょっとしなっとしたスライスを、醤油をまぶした飯の上に置き、握る。細く切った海苔を巻く。

 キノコは、不思議な食べ物だ。今では人工的な栽培で多くの種類のキノコが栽培される。松茸もトリュフもポルチーノも、まだ人工的に栽培されていない。どうかこの先、ずっとそうでありますように。


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天才ピアニスト ブーニン

2022年11月07日 | Weblog

   私は、楽譜が読めない。その上音痴だ。小学生の時、市内のピアノ教室に入会した最初の日の事だった。初めての緊張したレッスンが終わると、先生が「悪いことを言わないから、ピアノでなくて他のことで頑張って」 そう言って入学金と書類を私に渡した。楽器を演奏出来たり、歌をうまく歌える人を、私と同じ人間とは認めることができない。

 友人が、「最近、ブーニンが復帰して演奏を聴いて感動した」と話した。最初に友人が「ブーニン」と言った時、私には「プーチン」と聞こえた。なんと失礼な。私の空耳には、困ったものだ。ブーニンと聞いても、ブーニンが誰かわからなかった。妻は、分かっているようだった。

  後日、妻が「5日の夜NHKBSの『ベートーヴェン』(正確には、『玉木宏 音楽サスペンス紀行「引き裂かれたベートーヴェン その真実」の番組録画しておいて」と言った。妻は、我が家のテレビに3個のリモコンがあり、それらをどう扱うのか未だにわかっていない。さっそく番組表を出して録画予約した。妻が、「その下の『天才ピアニストブーニン 9年の空白を越えて』も録っておいて」と言った。二つの番組の放送時間が夜の10時過ぎ。私たち夫婦は、夜の9時過ぎに寝てしまう。

  日曜日の朝妻と録画された2つの番組を観た。『ベートーヴェン』の番組は、観始めて間もなく、妻が「期待していたのと違う。ブーニンを観よう」と言った。私は、番組を観て、初めてブーニンがソ連のあの天才ピアニストだと分かった。私が三十代後半の頃、ブーニンは日本でも大変人気があって、テレビやマスコミで騒がれていた。番組で若い頃のブーニンを見た。知っている。この人知っている。友人からブーニンと聞いてから、もう1週間が過ぎていた。喉に引っかかっていた魚の骨がやっと取れたように感じた。

  番組が進むにつれ、妻のティッシュを、目と鼻に当てる頻度が増えていった。私は、ブーニンの天才ピアニストという、近寄りがたい存在感に圧倒されていた。私は、「天才」とか「秀才」と聞いただけで、穴があったらそこに身を潜めて静かにしていたくなる。劣等感の塊のような凡人である。それがだんだん天才という遠いところから親近感に変わってきた。ブーニンが糖尿病Ⅰ型だと分かった。9年間表舞台から遠ざかっていたのは、2つの理由からだった。左手を使い過ぎて、自由に動かなくなったのと、その後、転倒して脚を怪我をした。糖尿病の患者は、怪我が命取りになる。傷が治りにくく、下手をすると壊死を招く。ブーニンも怪我が悪化して、左足のくるぶしの近辺を10センチくらい切断した。壊死した患部を取り除き、元の足と脚を接合した。9時間に及ぶ大手術だった。

  私も糖尿病である。今年すでに3回入院した。右脚の動脈の閉塞の治療のためだった。医師に幾度となく警告されていた。「これ以上悪化すれば、脚の切断になります」と。凡人の私の脚は、切断されても、天才ピアニストのブーニンのようにピアノが弾けなくなるということはない。天才と凡人の違いがあっても、同じ病気を持つ身。

  ブーニンが言った。「ピアノは歌う楽器」 そう思ってブーニンの演奏を聴く。涙がこぼれる。ピアノが私の心に歌う。私は、天才ではない。ピアノ教室の入室を断られたほどの人。でも私には、音楽を聴いて、感動できる心がある。それだけ十分生まれた意味がある。そうブーニンのピアノが、私に思わせてくれた。

 ブーニンの復活の影に、彼の妻榮子さんの支えがあった。私にも、もったいないほどの、常に励まし支えてくれる妻がいる。


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柿 一つ 四文(パーシモン)

2022年11月01日 | Weblog

  近所の寺の境内や、あちこちにある柿の木に橙色の柿がなっている。天気が良い日は、柿が太陽の光を浴びて更に綺麗である。店にもいろいろな種類の柿が並んでいる。私は、硬い果肉の柿が好きだ。柿を食べるたびに思い出すことがある。本で読んだのか、学校の先生が授業中に話してくれたのか、今になっては定かではない。柿を英語で何というかで始まった話だったので、もしかしたら英語の授業中に聞いた話かもしれない。英語で柿は、persimmonという。アメリカのペリーが黒船で日本に来た時、乗組員が上陸して柿を売っている男に会った。「これは何という果物だ?」と尋ねた。男はてっきり値段を聞かれたと思って「パー シモン(per 4mon=一個につき4文)」と言ったとか。落語の話のようだが、私は信じた。よく考えれば、persimmonという英語は、ペリーが日本に来る前からあったはずだ。言葉の起源は、別にして私は、英語で柿をパーシモンpersimmonと覚えることができた。

 散歩中、家の軒に干し柿が吊るされているのを見つけた。懐かしい。長野県では秋になれば普通に見られた風景だった。私が育った家の庭にも柿の木があった。とても甘い柿だった。干し柿にしなくても家族みなで食べきっていた。

 高校生の時、カナダへ留学した。カナダで柿を見たことも食べたこともなかった。日本に帰国して結婚して7年後に離婚した。二人の子どもを引き取り育てた。15年間、子育てと仕事に明け暮れた。日常に果物の入り込む余裕などなかった。縁あって再婚した。子どもたちも大学生になっていた。妻の仕事の関係で、私は、自分の塾の仕事をやめて、妻と一緒に海外へ出ることになった。

 やっとやもめ生活から、妻と果物をゆっくりと味わえる生活になった。ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシア各地で食料調達のために市場へ足しげく通った。柿は日本や中国だけの果物だと思い込んでいた。その柿を旧ユーゴスラビアの市場で見た時は驚いた。買った。食べてみて、もっと驚いた。顔が曲がるほど渋かった。こんなものをよく売るよ、と怒った。

  チュニジアの市場でも柿が売られていた。やはり渋柿だった。子どもの頃、父親が渋柿に酒を塗って、ビニール袋に入れた。時間が経つと渋柿が甘くなっていた。私は、父が手品師に思えた。あのやり方を試してみた。見事に渋柿が、甘い柿に変わった。これは使えると思った。現地の友人宅に市場で買った1キロの柿を持ち込んだ。友人夫妻に渋柿を食べてもらった。それから残りの柿を酒で処理して、ビニール袋に数日入れておいてもらった。後日袋を開けて食べた。友人夫婦は、驚きの声を上げた。

  チュニジアで、柿は果物としてではなく、薬になるとして渋いまま、食されていると友人は教えてくれた。渋柿を甘い柿に変えたことで、ますます友人との関係がうまくいった。渋柿民間外交と言えるかも。

  渋柿から渋を抜く方法は、いろいろあるらしい。先日テレビで渋柿を温泉に浸して甘くする方法が紹介されていた。他にも柿をミキサーで粉砕して、ヨーグルトに混ぜれば、渋が消えるそうだ。炭酸ガスで渋を抜く方法もあるという。

 わざわざ渋柿を甘くしなくても、今、日本では品種改良が進んでいて、美味しい甘い柿が多く流通している。私は、シャキシャキしていてほのかに甘い柿が好きだ。美味しい柿を食べながら、江戸時代、初めて柿を見た黒船のアメリカ人乗組員を思い浮かべる。あの乗組員は、柿を食べたのだろうか?笑い話は、私の渋を抜いてくれる気がする。

 コロナが終息して外出できるようになったら、また 安藤緑山作 超絶技巧による象牙彫り物『喜座柿』 (清水三年坂美術館)を見に行きたい。


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