団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

政治と宗教

2022年07月28日 | Weblog

  私がまだ子供だった時、近所の大地主で資産家の一家のことが話題になった。子供だった私には、難しかった。その家族の一人がある宗教に入った。その人が家の財産のほとんどをその宗教団体に奪われたというのだ。まわりの人々や私の父などが、その家がどれほど金持ちか話していたので、私はその一家を特別視していた。しかしその後その一家は、見る見るうちに貧しくなり、終いには、どこかへ越していってしまった。たしか、その宗教は、今テレビのワイドショーやマスコミで騒がれている安倍元首相暗殺に関係があった宗教団体の名だった。他にも近所では、仏壇、位牌、神棚、御札などを家の外で焼き、その家の年寄りと息子夫婦が取っ組み合いの喧嘩をしていたことがあった。夜なべする父親のところに毎晩のように折伏にくる人もいた。敗戦後の混乱した世相の中、宗教が大きく動いていた。

 父は、朝、顔を洗った後、東に向かって手を合わせ、神棚に手を合わせ、仏壇に線香を立て頭を垂れていた。別所の北向観音への2年参りや八日堂のダルマ市や山梨県の三峰神社へも毎年欠かさず参拝していた。八百万の神々を信仰していたようだ。子供への強制はなかった。私は、縁あってカナダへ留学した。カナダで最初に入った学校は、キリスト教の厳格な全寮制の高校だった。普通の教科の他にキリスト教の聖書を学んだ。カナダやアメリカで多くのキリスト教の教会の礼拝に参列した。

 カナダで生活しているうちに、キリスト教にもいろいろな教派があることを知った。その教派が我こそは正当であり、真実だとうたっていた。子供の頃、日本で経験した近所の宗教紛争と変わりないと思った。英語のreligiousという言葉が、「狂信的」という意味で使われていた事にも驚いた。宗教は、狂信的に信じるものでは、ない気がする。

 カナダから帰国して結婚した。この結婚は、7年しかもたなかった。2人の子供を引き取った。精神的にボロボロになった。2年間毎朝3時に起きて、長野の寺へ坐禅に通った。自分に向き合うことができた。何とか最悪期を脱した。子供たちも大学を卒業して、自立した。44歳で再婚できた。再婚相手の仕事の関係で、海外で14年間暮らした。私の子供たちも、結婚して家庭を持った。

 宗教は決して悪いものではない。私が出会った宗教そのものは、どれも尊い教えを持つ。ただそれを関係する人間たちが、汚しているとしか思えない。私は、宗教の腐敗は、日本においては宗教法人という特別扱いにあると思う。宗教法人などという認可をやめるべきだ。許認可制ならば、その認可した側に、宗教を取り締まり管理する責任があるはずだ。しかし認可を与えただけで、取り締まることも管理することもできない。宗教は、八百万あってかまわない。自由に布教し集金すればよい。ただし、一般法人と同じように、納税義務などの社会的な義務は、負わなければならない。そして政教一致大いに結構。これも憲法改正に加えて欲しい。政教一致を法律で禁止しておきながら、放置している現在より、ましな日本になるに違いない。安倍元首相がある特定の宗教団体がらみで暗殺されたことで、特定の宗教団体だけがやり玉にされている。他に追及の手が及ぶことがない。上皇の病名は、こと細かく報道されても、ある宗教のトップの消息は、まったく報道されない。これって異常事態ではないのか。日本には誰も入り込めない宗教聖域がすでに存在するのだろうか。

 


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椰子の実

2022年07月26日 | Weblog

  私が物心ついた頃、家に椰子の実があった。飾ってあるわけでもなく、2階の座敷の端に置かれていた。それは乾燥していて、まるで恐竜の卵の化石のようだった。磨かれた様に肌がスベスベで光沢があった。私には、重すぎ、硬すぎて玩具にすることはできなかった。父親にどうして家にヤシの実があるのか尋ねることはなかった。小学校の教科書に島崎藤村作詞の『ヤシの実』が載っていた。「♪名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実ひとつ …♪」 小学校の教師の話から、椰子の実が南の熱帯で採れるモノであることを知った。 私の父親は、徴兵されて満州シベリヤにいたことはあるが、椰子の実がある南方へは行っていない。我が家の椰子の実の真相を、知りたいと思わなかった。あの頃知りたいことは、他にたくさんあった。椰子の実のどころではなかった。今となっては、もうなぜ我が家に椰子の実があったのか分からない。父は、既に他界してしまった。父親に椰子の実について聞かなったことを後悔している。

 私は、毎朝体重を測った後、紙パック入りのココナッツウォーター(180cc)を飲んでいる。医者である妻から以前、戦争中、椰子の実の中の液体を点滴代わりに使ったというような話を聞いた。椰子の実の中の液体は、無菌で糖分や豊富なミネラルが含まれているから、点滴代わりになったらしい。医学的なことは、よく分からないが、“無菌”と“ミネラル豊富”に心魅かれた。私は、市販のジュースがあまり好きでない。ジュースを飲むなら、その果物をそのまま食べたいと思う。元気で億劫がらずにいろいろ出来ていた頃、スイカやザクロのジュースを自分で作った。でも今、そこまでやる気がない。ジュース代わりになるものを探した。ココナッツウォーター。タイ原産で次の表示があった。ストレートココナッツ果汁100%使用、砂糖不使用、着色料不使用、香料不使用。栄養成分表示:100ml当たりエネルギー18cal、タンパク質0.0g脂質0.0g炭水化物4.6g糖類3.2g食塩相当量0.05g。なにか体に良さそうと感じた。

 自分の目で見てないことは、なかなか信じられない。そんな折、偶然YouTubeでココナッツ産業の番組を見つけた。以前からあの硬い殻を持つ椰子の実からどうやってジュースを採っているのか疑問に思っていた。その番組では、カッターがついた機械に、椰子の実を置き、カッターで真二つに切断して、果汁を採集していた。長い豊富な経験から考案された道具や機械を駆使して、能率的効率的に生産されていた。

 椰子の実は、種類がたくさんある。どの椰子の実も私たちの生活の役に立っている。椰子の木は、建築資材になる。椰子の実の外果皮の繊維は、タワシや活性炭に。内果皮は、食器に。内果皮の内側に付いている白い固形胚乳は、ココナッツオイルやココナッツミルクや菓子原料に。液状胚乳は、ココナッツジュースやココナッツウォーターに。また一時期日本でブームになったナタデココは、ココナッツの胚乳をナタ菌で発酵させたものである。私は、ナタデココが好きで、私の客人をもてなすデザートに良く使っている。椰子の実は、捨てるところがない万能作物である。

 また猛暑が戻って来た。コロナは、恐ろしい程感染者数を増やしている。まだ当分、エアコンをドライで使って、水分はココナッツウォーターを飲み、椰子の木の下で、昼寝をしている夢をみていたい。


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採血

2022年07月22日 | Weblog

  3カ月に1度の糖尿病検診では、必ず血液検査を受ける。たった10ccくらいの採血だが、嫌でたまらない。先日4回目のコロナワクチンの接種を受けた。注射は、痛くても数秒で終わる。採血は、数秒というわけにはいかない。針を血管に差し込んだまま、薬物を入れるのではなくて、シリンダーに血を吸い込ませる。4本の容器を次々に取り替えて、血を充満させてゆく。その光景が恐ろしいのである。普段、私は、自分の体の中に血が流れていることなど意識することなどない。私という存在は、肉体と意識で成り立っている。意識に実体はない。肉体に関する知識もない。採血の時、自分の体の中を流れていた血液を、自分の目で見てしまう。それは身に覚えがないのに、突然自分の子供だと訴えられたような気分である。

 

 血を見るのはずっと怖かった。4歳の時、母親が死んだ。お産の失敗による出血多量だった。母親がいた部屋は、血だらけだった。それは、あまりにも4歳の子に強烈だった。保育園児の時、目隠し鬼ごっこをしていて、友達が大きな石の上にいた。鬼だった私は、ちゃんと目を閉じていた。「鬼さんこちら」の声を頼りに、その方向に勢いよく向かった。石の角に激突。その瞬間、母親が死んだ部屋のような赤の世界を感じた。私は、顎を砕いた。近くの医院に運ばれた。私は、ぶつかった時、気を失っていた。ただ家に帰って、服が血だらけになっているのを見て、震えた。これが血に対して恐怖感を持つようになった理由かもしれない。

 

 51歳で糖尿病の合併症による狭心症で心臓バイパス手術を受けた。まだ妻の任地であるチュニジアに住んでいた。心臓に異変を感じ、私だけ帰国して、検査を受けた。心臓バイパス手術を受けることになった。手術を受ける前、輸血のための自分の血を何回にも分けて採った。点滴用のスタンドのフックに保存用採血バッグが吊り下げられていた。ちょうど病室の窓から日光が差し込んでいた。半分くらい溜まった血が、陽の光に当たった。綺麗だった。血に対する恐怖が消えた。血ってこんなにも綺麗なのか。バイパス手術という大手術に対する恐怖心が、後退した。

 

 妻と海外で暮らした14年間、その間ずっと妻が私の主治医だった。当然採血も妻がしてくれた。妻は、注射針を血管に入れるのが巧い。妻の採血は、痛くない。まぐれではなかった。なぜなら毎月の血液検査の採血で痛いと感じたことがなかった。帰国して病院で採血を受けるようになった。巧い看護士もいるが、ひどく雑で内出血するほど下手な看護士もいる。採血された血液は、36項目の検査結果として表に出てくる。凄い時代である。このような検査を採血した血液から科学的に分析して数値化できるのである。

 

 7月8日に銃撃された安倍元首相は、病院で100単位の輸血を受けたという。1単位は200cc。100単位なら20000ccだ。でも助からなかった。どれほど酷い傷だったのだろう。残酷だ。普段、体内に大量な血液が流れ、肝臓や腎臓を通って、心臓から全身に送り出される。血液は、生命そのもののような気がする。もっと意識したい。大切にしたい。

 


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万歩計13922歩

2022年07月20日 | Weblog

  病院を掛け持ち受診した。まず9時30分の予約で、先日の右脚カテーテル施術の経過検査。そして11時45分に糖尿病の定期健診だった。家を妻と一緒に6時40分に出た。電車で東京へ向かった。品川で妻と別れた。最初に受診する病院には、8時40分に着いた。受け付けを済ませた。医師の診察の前にCAVI(血管の硬さ検査)とABI(動脈の詰まり程度の検査)を受けることになっていた。それほど待たずに検査室に呼ばれた。9時ちょっと過ぎに診察室に入った。医師が検査結果を見せてくれた。動脈の硬さが、右8.28.1(標準値8.9~)。詰まり具合が右0.820.83(標準値0.911.40)。標準値を見れば、明らかに問題がある。しかしカテーテル施術以前右脚の詰まり具合は、右0.790.71だった。数値的に大きく改善された。医師が「施術した箇所は、良くなったけれど、膝から下の動脈3本の内、2本の詰まりがあり、注意が必要です」と言った。私はすかさず「先生、どうすればいいですか?」と尋ねた。「膝から下の血管は、カテーテルで治療しても、すぐ元に戻ってしまうケースが多いので、経過を見ましょう。運動療法で現状維持しましょう」 少しがっかりした。でも大嫌いなカテーテルを入院してまで受けて、今回うまくいったという喜びが勝っていた。3カ月後の診察予約をして、会計450円を支払って糖尿病の定期健診を受ける病院へ向かった。

 

 タクシーで移動しようかとも思ったが、東京の道路は渋滞が多く、時間通りに動けないことが多い。病院から駅の距離もあるが、駅構内の複雑さに田舎者は戸惑う。今回も間違えて駅構内を端から端まで歩いた。猛暑日でなくて助かった。電車はタクシーより時間通りに動けると電車に乗った。11時半に2番目の病院に着いた。予約時間通りに診察室に入った。あらかじめ受けた血液検査の結果の説明を受けた。血液検査の結果は、いつも非常に良い。服用している薬のお陰だと思う。でもいつも不思議に思う。こんなに血液検査が、正常値に近いなら、どうして狭心症や脚の動脈閉塞が起こってしまうのかと。糖尿病患者は、インシュリン注射や透析を受けなければならなくなる場合が多い。私は、糖尿病になってすでに35年以上経った。それでもインシュリン注射や透析を受けなくて済んでいることには、感謝している。医学がどれほど進歩しても、まだ分からないことは多い。

 

 病院の掛け持ち受診は、私には無理だと痛感した。日記に記録したその日の万歩計に出た数字は、13022歩だった。普段、私が目標としている歩数は、5000歩だ。カテーテル施術を受けてから、カテーテルを挿入した所に痛みがある。階段の上り下りが苦痛なので、できるだけエレベーターやエスカレーターを使っている。現状維持には、残されているのは、運動療法しかない。退院した次の日から、5000歩を目指して歩いている。正直、5000歩でも負担に感じる。病院を掛け持ち受診した日、1万3千歩も歩いたことが信じられない。猛暑日なら熱中症になっていたかもしれない。

 

 とにもかくにも、こうして最先端の医療を、保険適用の範囲内で受けられることは、幸せなことと思う。今日は、コロナのワクチンの4回目の接種を受ける日である。3回までファイザーで今日は、モデルナだそうだ。ちょっと心配。今日も5000歩は、達成したい。

 


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杏っ子

2022年07月14日 | Weblog

  スーパーでアンズを見つけた。値札に780円の数字、ラベルに「長野県千曲市」とあった。千曲市にはアンズの里として有名な“森地区”がある。地区全体にアンズの木が何万本とあり、アンズの花が咲く時期は、多くの観光客が訪れる。桜のように並木でなく、はたまた果樹園のように集まってもいない。地域全体至る所にアンズの木が散在する。それが里山の景色と一体化しているので見事な絵となる。私は杏の花は、桜の次に好きだ。私もアンズの花を見るために何回も行った。懐かしい。スーパーでアンズを1パック買った。

 

 以前妻の両親から妻の名前の由来を聞いた。名前に「杏」の漢字を入れて役所に届けた。しかし当時その漢字は、人名用漢字に含まれていない理由で却下された。そこで名前を今のモノに替えて、申請し直したそうだ。妻が生まれる前に、室生犀星の小説『杏っ子』が映画化されている。たぶん両親は、この映画を観たのであろう。両親が自分たちの初めて授かった子に、杏を入れたかったのだから、相当映画に感銘を受けたに違いない。私は、ずっとその映画を観たいと思っているが、いまだに観ていない。

 

 私が小学生の時、夏、杏の実が熟す頃、千曲川へ友達と二人で泳ぎに行っていた。楽しみは、友達と蚕業試験場脇の秘密の抜け道を、通り抜けることだった。崖際のけものみちみたいな、危険な道だった。試験場の塀から杏の木の枝が、けものみちに垂れ下がっていた。花、青い実、だんだん橙色に色ずく実、そして食べごろ。私と友達は、時期を見計らっていた。そしてその日が来た。友達と採れるだけ採った。道に出ている枝から実がなくなっていた。次の日、小学校の担任教師が、二人を職員室に呼び出した。アンズの件だった。蚕業試験場から学校に苦情が来たという。なぜバレたのか未だに分からないが、白状した。その日、居残りさせられた。ノートに「私はアンズを盗みました。二度としません」と百回書かされた。書き終わった時、アンズは美味かったという想いは、反省より強かった。法律的には、果実が敷地からはみ出していれば、所有権はないという。釈然としないが、今となっては何もできない。

 

 アンズは、不思議な果物である。形姿は梅にそっくり。梅は、熟して少し色が変わるが、酸っぱい。決して甘くならない。学術的にはどちらもバラ科サクラ属で近縁種である。世界各地で愛されている。トルコは、世界一の産地である。トルコのアンズは、ドライフルーツに加工されて輸出されている。アンズの原産地は、中国と言われている。中国には、杏露酒(シンルチュウ)という酒もある。名前がいい。またアンズの種は、杏仁豆腐と姿を変える。市販されている多くの杏仁豆腐に、実際にアンズの種が使われているかどうかはわからない。中華食材店には、アンズの種の粉末が売られている。私は、アンズの種から杏仁豆腐を作った。日本の牛乳寒天に似ているが、その香とトロトロ加減がまったく別物だ。アンズのジャムも他のジャムとは、一線を画す。

 

 アンズは、私の好きな果物だ。アンズの思い出がたくさんある。種まで食べられる珍しい果物だ。無駄をなくして、持続可能な世界に貢献できそうな果物の一つであろう。来年は、森地区の近くに住む友人夫妻を、アンズの花が満開の頃、訪ねてみたい。

 


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厭世 ニュース回避

2022年07月12日 | Weblog

  ニュースを避けている。正直、私は自分が小心者だから、世間の真実を受け入れられないのだと思っていた。ところが英国のロイタージャーナリズム研究所が14日に出した年次報告書によると、私のような人間が世界中にいるという。新型コロナウイルス、ロシアのウクライナへの侵略などの重大なニュースを、意識して避ける人が増加している。46カ国と地域で9万3432人を調査対象にしてオンラインで実施した。ニュースを習慣的に読む人の38%が、重大ニュースを避ける傾向にあると回答した。私は、てっきり自分だけが意志薄弱な性格ゆえに、ニュースを避けているのだと思い込んでいた。世界中にニュースの影響で、気持ちが落ち込むという人がいる。自分だけがダメ人間でなかったことに安堵した。

 妻は高校の担任教師に「新聞を読むな」と言われたそうだ。理由は、新聞は真実を伝えていないから。私が出会った教師でそう言った教師は、いなかった。妻は、担任教師を信頼していた。妻は、今でもそれを信じているようだ。英国のロイタージャーナリズム研究所の調査によると、ニュース全般への信頼性が低下しつつあると判明した。研究所のラスムス・クライス・ニールセン氏は「メディアは必要以上に政治の影響下にあり、大半の報道機関が商業的な利益よりも社会にとって何が最良かを優先していると受け止めている人はわずかである」と分析した。妻の高校の担任教師が、約50年も前に言っていた事だ。

 7月8日安倍元首相が、参議院議員選挙の応援のために訪れた奈良県で銃撃され死亡した。安倍元首相は、私の孫の一人と同じ潰瘍性大腸炎だった。安倍元首相が難病を抱えながら、世界を飛び回っていたことに孫の将来を重ねていた。難病を抱えていてもあそこまでできる。ともすれば孫の将来を悲観的にみてしまっていたが、安倍元首相の動向に一喜一憂していた。

 安倍元首相の銃撃による死亡は、重大ニュースとなった。多くのテレビ局は、このニュースを週日取り上げていた。7月10日は参議院議員選挙の投票日。事件が起こったのが投票日の2日前だった。私は、ネットでこの事件を知った。テレビでニュースを観た。どの局も奥歯に物が挟まったような伝え方だった。また銃撃された場面を何度も何度も繰り返していた。政府高官や自由民主党の国会議員の「民主主義の根幹である選挙期間中での暴挙」の繰り返しも引っかかった。更に銃撃犯が語ったという「宗教団体への恨み」に関する報道が気になった。

  誰もがこの宗教団体は、どの宗教と知りたいと思う。それぞれ勝手にどの宗教と勘繰る。それがSNS上に出回る。マスコミは、常に国民には真実を知る権利がある、を常套手段に取材する。ところが自分の都合が悪くなると、逆の行動を取って隠蔽する。その最大の原因は、日本には、マスコミが立ち入れない『聖域』が存在するからである。その『聖域』の実態は、金である。マスコミは、スポンサーにひれ伏す。政治屋は、献金(ほとんどが闇献金)。宗教も献金。

  人間社会が嫌になる。ニュースから逃れようと、ネットフリックスで日本映画『新聞記者』を観た。そこで「Believe and daut yourself more than anyone else(誰よりも自分を信じ疑え)」という言葉を知った。そうだ、自分を疑おう。そして自分を信じよう。自分は、私が死ぬまで自分でいてくれる。


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水鉢

2022年07月08日 | Weblog

  散歩の途中、ある家の玄関の前に水鉢が置いてあった。鉢の中を覗いた。水草の茂みの中にメダカが泳いでいた。まだ6月だというのに、猛暑日が続いていた。なんとも風情がある。好きな景色だ。アフリカのダカールでの出来事を思い出した。私は、町で水鉢と水草を買って、家の玄関の前に置いた。

  アフリカのセネガルにいた時のことだった。首都ダカールの郊外の園芸店へよく行った。奥さんがフランス人で旦那さんがセネガル人の夫婦が、広い敷地の店を営んでいた。セネガルは、フランス語が公用語だった。二人とも英語が話せた。私のフランス語は、正月に今年こそは日記を書き続けるぞ、と決意して書き始めた日記が、1週間もしないうちに書かなくなった日記のようなものだった。英語が通ずると私の世界は、一気に拡がった。というわけで、フランス語を習う努力を放棄して、英語を話せる人たちを探す努力をした。園芸店の夫婦は、いろいろなことを教えてくれた。

 ダカールで住んだのは、官舎だった。築後40年ほどたっていた。建物は、古かった。毎晩悩まされたハマダラ蚊対策として、蚊帳を吊ろうと、壁に釘を打とうとしたが、硬化していて、釘が打てなかった。敷地が500坪ほどあった。土地が広かったので、一部を家庭菜園にしようと思った。ネパールでは、この家庭菜園が大成功した。その成功体験を、そのままアフリカのセネガルに持ち込んだ。日本から持ってきていた種を蒔いた。ヨーロッパ出張の時、買って来た根生姜を植えた。ことごとく失敗した。“郷に入っては郷に従え” そうだ園芸店へ教えを請いに行こう。以前からゴルフ場へ行く途中で、見ていた園芸店へ出かけた。

 まさか経営者夫婦が、英語を話せるとは。私は、失敗談や疑問を矢継ぎ早に放った。嫌な顔ひとつせずに答えてくれた。旦那さんの笑顔と、黒い肌と真っ白で歯並びの良い歯の対照が、印象的だった。適材適所。ライトパーソン。人との出会いこそ、人生の喜びである。旦那さんは、実にわかりやすく説明してくれた。良き教師とは、自分が持つ専門知識や経験を生徒に分かりやすく説明できる人である。何故私の庭で蒔いた種が出芽しなかったのか。セネガルの土は、砂漠と同じで塩分が濃く、ほとんどの種は、出芽できない。私は、砂漠が不毛の地であるのは、単に水分がないからだと思っていた。砂に塩分が多く含まれていることを知らなかった。私が自分の家庭菜園で、セネガルでは超貴重な水を、ジャブジャブ撒いていた。やってはいけない事ばかりをしていた。

 話していた事務所の入り口に、水鉢が置いてあった。旦那さんに私も家の玄関に水鉢を置いていると話した。旦那さんの顏が険しくなった。「それはやめた方がいい。マラリアの媒体になるハマダラ蚊を養殖するようなものだ」 実は水鉢を買って来た時、妻にも同じことを言われていた。しかし私は、水鉢の中で魚を飼えば、蚊の幼虫ボーフラを食べてくれるから大丈夫と注意を聞き入れなかった。私は、家に戻って水鉢を処分した。

 現在住む家に、山口県萩で買った水鉢がある。水を入れてない。日本にハマダラ蚊は、ほとんどいない。けれど私はズボラなのだ。水の交換、魚や水草の世話がきちんとできない。だから空の水鉢に瀬戸物の錦鯉1匹と金魚を2匹置いてある。これではいけないと思うが、受け入れるしかない。本物ではないが、いろいろなことを思い出させてくれるキッカケになる。セネガルの園芸店の夫妻が懐かしい。

 


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カットスイカ

2022年07月06日 | Weblog

  6月下旬、猛暑日が続いた。そんな暑い日に食べたくなるのが、スイカである。さっそく近所のスパーでカットスイカを買って来た。以前は丸ごと大きなスイカを買った。スイカジュースが好きなので、自分でスイカを絞ってジュースにしていた。しかし最近は、大きなスイカを買って、家まで運ぶ元気がない。売り手も、ならばとカットスイカという手をあみだした。小さなカップに細かくカットしたスイカを入れる。これは便利。重くない。最初私はこの売り方に批判的だった。今は、ありがたいと思って率先して購入している。大きな重いスイカが、嫌ならば、“小玉スイカ”にすればいいと思った。一度買って懲りた。スイカという感じがしない。スイカは、やはりでかくて重いほうがいい。

 

 スイカを育てて、上手く市販されているような立派なスイカになったのを見たことがない。幼い頃、母は、庭の畑で、何年にもわたって、スイカの種から育てた。大きくなって緑色と黒の縞模様もしっかり出た。そろそろ食べごろと、切ると、中はほぼピンク。スカスカのものもあった。私たち夫婦が、海外で暮らすようになって、休暇で夏帰ったことがある。妻の父親が、私たちの帰国に合わせて食べさせようと畑でスイカを育てた。毎日、水をやり、雑草を取り、注意深く世話をした。私たちが帰国して妻の実家に滞在した。義父は、自慢げに畑でスイカを見せてくれた。その日は暑かった。お昼過ぎ、義父は、畑から大きく育ったスイカを台所に運び、流しで冷やし始めた。いよいよ切る時が来た。義父は、そうとう自信があったのだろう。切ったスイカを置く大きな皿まで用意していた。「パカッ」と切れた。中は、薄いピンク色。義父の後ろ姿に哀愁が漂った。私たちが帰国したら食べさせてあげよう、という想いと、長い念入りな手入れや世話が、ピンクという色に吸い込まれてしまった。このように何回も長年にわたって、食べられるスイカの栽培は、難しいのだと思い知らせた。

 

 妻の海外勤務に同行して5ヵ国で暮らした。ネパール、セネガル、ユーゴスラビア、チュニジア、ロシア。どこの国にもスイカは、あった。ネパールやセネガルやチュニジアでは、町の物売りが、カットスイカを売っていた。衛生上の問題から、町のカットスイカを買って食べたことはない。常に丸ごとの大きなスイカを買った。特に赤道直下のセネガルで食べたスイカが美味かった。甘みはほとんどなかった。湿度が低く、カラカラで気温が40℃と高かった。あの気候が、スイカの味を良く感じさせたに違いない。日本のJICAの農業指導員が栽培した日本の種から育てたスイカがあった。現地の人々に不評の訳は、甘すぎて食べた後、喉が渇いて水が飲みたくなるからだった。スイカは、水代わり。楽しむものではなかった。

 

 カットスイカを買うようになる前、私は、スイカの産地や銘柄にこだわった。でもカットスイカを支持する理由は、カットスイカとして売るスイカは、産地も銘柄も関係なく、コストパフォーマンスだけなので、甘みもうすいと思うからである。私自身、だんだんセネガルの人々のように、スイカを水分の補給としか考えなくなってきているのかもしれない。

 

 母や義父の薄ピンク色のスイカを知っているから、店で買える真っ赤な果肉と真っ黒な種を持つスイカを凄いと思う。今年の夏もカットスイカで水分を補給して、乗り切ろうと思う。

 


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サハリン1・2

2022年07月04日 | Weblog

  扉を開けて、店の中に入ると、もうもうと立ち上がるタバコの煙が蔓延していた。飛び交う言葉は、英語。あれ、ここってロシアのはず。多くの客は、テンガロンハットに髭面。耳をそばだてた。英語のこの訛り。どこかで聞いたな。そうだテキサスだ。若い女性たちが男たちのまわりにいた。さながら西部劇に出てくる酒場のシーンだ。そこは2002年のロシア・サハリンのユジノサハリンスクの夜だった。

 妻は、2002年北アフリカのチュニジアから、ロシアのサハリンへ転勤になった。私も同行した。2001年に私は、心臓バイパス手術を受けていた。担当医師から「できるだけ日本に近い所で気候が温暖な所にいてください。何かあったらすぐ日本に戻れるようにしてください」と言われていた。妻に提示された転勤先の中に、医師の指示していたような場所は、なかった。ロシアのサハリンは、地図で見れば、近い。距離に問題はない。気候は温暖どころか厳寒の地である。私がカナダへ留学した時、すでにマイナス40℃の経験はしている。私の脇が甘かった。10代後半と、心臓バイパス手術を受けた50歳を過ぎになった私は、明らかに違った。厳寒の地に私の体は、音を上げた。何もすることがない、家に閉じ込められた生活は、精神的にも私を追い込んだ。なじめなかった。結局、妻をサハリンに一人残して、冬の間、私は東京に移った。自分勝手な自分に呆れた。

 厳しい冬が去って頃を見はからって、サハリンに戻った。ちょうどその頃、サハリンは、ロシア・アメリカ・英国・日本によるサハリン1と2の石油天然ガスの開発事業が始まった。函館とユジノサハリンスクの間に、サハリンプロジェクト専用の便があった。またユジノサハリンスクから列車がサハリン1・2の現場に近いノグリキまで運行されていた。しかし列車は全席プロジェクト関係者に割り当てられていた。私も1度プロジェクトの見学に行きたくて、列車の予約を試みたが、実現しなかった。それほどこのプロジェクトは、国家的事業で、いかにロシア政府が力を入れていたかが、わかる。私たち夫婦が、住んだ集合住宅にも多くのプロジェクト関係者が、住んでいた。

 列車でプロジェクトの現場へ行くことはできなかった。しかし機会があって、車で鮭を釣りにプロジェクトの現場の近くまで行った。全行程、悪路の連続だった。その悪路、車がバラバラに分解してしまうのではないかと思えるほど、上へ下へ嵐の中の難破船のようだった。何度私も車の天井に頭をぶつけたことか。その行程の脇で、別世界のような大々的で近代的なパイプラインの工事が、進められていた。道路や鉄道の整備が遅れていても、国家的プロジェクトで国際企業が参画する事業は、これほど敏速に進むのかと目を見張ったものだ。パイプラインの終着地には、天然ガスを日本へ積み出すための液化プラントと港が急ピッチで進められるのもこの目で確かめた。

 6月30日ロシアのプーチン大統領は、事業主体を、政府が新たに設立するロシア企業に変更し、その資産を新会社に無償で譲渡することを命じる大統領令に署名した。これはもちろん日本がロシアに対して、ウクライナ侵略に制裁を課していることへの報復であろう。日本は、法治国家だという。しかし世界は、まだそうではないらしい。こんな盗人猛々しいことをロシアができるのも、ロシアが資源大国だからであろう。

 私は、ユジノサハリンスクで自分の目で見た、サハリン1・2に関する諸々の映像が、頭の中でよみがえった。あのプロジェクトに関わった、国々や企業の無念さを感じる。海岸でトンビが、他人の手から食べ物を奪うように、プーチンは署名だけで取り上げてしまった。たとえ被害を受けた国家や企業が、国際裁判所に訴えても、このプロジェクトを元に戻すことはできないだろう。世界は、無法地帯で武器だけがモノを言った、アメリカの開拓時代のようになって行くような、気がしてならない。


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