団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

『コバエがポットン』とツバメとコウモリ

2015年04月30日 | Weblog

  寒い寒いと家の中に籠る日がこの冬は多かった。3月になってやっと冬が終わると思っても天気が不安定で4月の日照時間は記録的に少なかった。3月末桜が咲き花見を楽しんだというのにその後冬へ逆戻りしたような天気が続いた。一歩前進、二歩後退を繰り返して季節は巡る。どんなに天候が不順であっても動植物を見ていると生命力が感じられる。

  アオサギの雛たちも松並木の松のてっぺんの巣で順調に育っている。山の木々の芽吹きも進み緑色も安定してきた。川にも鮎が放流され時々魚影を見る。私は子ども頃から川面がぬるくなる季節が好きだった。

  最近散歩中ツバメがよく目に入る。ぬるまった川面でたくさんのツバメが水浴びしたり水を飲んでいるのを見る。明るいうちはツバメが飛び交う。カラスもスズメもメジロもセキレイもいるが、ツバメの飛び方はずば抜けている。急上昇、急降下、急転回。自由自在に空を翔る。弾丸のように速度がある。羽をバタバタさせない。滑空する。時速50キロは当たり前で、時速200キロを出すことさえできる。ツバメが飛ぶのを見るのは痛快である。

  東京駅など乗降客の多い駅では、ゴロゴロとキャスター付きの旅行ケースをひいている人の急な立ち止まり、急転回でケースをぶつけられたり、靴を轢かれることがある。また携帯電話を使いながら歩いている人との接触も増えた。急停止、急転回はツバメ並だがそれを回避する能力が悲しいかな人間にはない。

  夕方妻を駅へ車で迎えに行って家の近くに来ると、今度はコウモリが飛び交う。車スレスレに多くのコウモリがツバメ並の見事な飛行を展開する。はじめはツバメって暗くなっても飛べるのかと感心していたが、よく見るとコウモリだった。餌の翅虫をめがけて縦横無尽に飛び交う。ツバメもコウモリも飛び方がよく似ている。餌の虫を捕えるため一点集中真剣である。人間は“ながら”行動をとれる能力もないのに一度にいくつものことをなそうと欲張る。

  コウモリを見るとネパールのオオコウモリを思い出す。高い木の上にたくさん逆さにぶら下がっていた。今回の大地震のニュースの映像で鳩やカラスが空を飛んでいるのを観た。人間にも空を飛べる事ができたら今回のような地震でも逃れられる可能性が高かったのではないだろうかなどと考えてしまう。あのオオコウモリはどうなったのだろうか。

  人間は空を飛ぶことはできないが、家族や親族が助け合うことはできる。カトマンズから45万人もの人々が地方の家族親戚を頼って避難したという。ネパールは農業国である。貧しくても食べ物にあまり不自由しない。頼りにならない政府を見切って生きぬく術を模索する生命力に感嘆。オオコウモリもきっと無事避難したに違いない。

  キンチョー『コバエがポットン』のコマーシャルで『嫁さんが出て行きました。 荷物ぜーんぶ持って。でも台所に「コバエがポットン」残ってて。 うわ、めっちゃ捕れてるやん。 気持ちがちょっとは、楽になりました。良かったですねえ。キンチョウ コバエがポットン』とあった。コバエには残酷な話であろう。しかしこの裏に人間の生き物としての本音が隠されている。私の経験と重なる。辛い苦しい時期であっても人間も生き物で、生き物に囲まれて生きていることが無性に嬉しいことがある。生きながらえている者には無念にも犠牲者になってしまった人々に対して責任がある。命を粗末にしない事である。そして、できる範囲で真剣に一点集中して目標に向かって生き、他人の迷惑になるようなことをしないと心掛けるのもそのひとつではないか。


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ネパール大地震

2015年04月28日 | Weblog

  何と言うことか。ネパールで25日現地時間午後3時M7.8の大地震が起こった。ネパールは私たち夫婦が最初に海外赴任した地である。結婚して1年しかたっていなかった。テレビの画面に映し出される映像は、私には平面な画面には見えない。3Dなどとも違う。なぜなら私の立体画像にはネパールの匂い、気温、太陽の陽射し、音が伴う。一番強烈に身に迫るのは、私たちのネパール生活を支えてくれるために我が家で働いてくれた現地の人々のことである。画面に映し出される怪我をした人、家を失い途方に暮れる人、懸命に救助活動をする人。私は探す。目を凝らして彼らがいないか探す。タパさん、パルパティさん、ダルマさん、パンチェさん、ニールさん。日本人補習校で教えた生徒たち。市場で懇意にしていた八百屋、肉屋、マンゴー屋。画面の誰を見ても彼らに見えてしまう。ネパールの人々はこれだけの災難に陥っても、泣き叫んだり身悶えて騒がない。ヒステリックな行動をとらない。

 私は祈る。祈ることしかできない。「神さま、神様がいるなら、あの人たちをこれ以上苦しめないでください」 

  このような大災害であっても日本のメディアの情報収集能力はちっとも改善進歩していない。情報が少なく多くは外国メディアの映像をそのまま放送しているだけである。いつになったらまともな現場中継ができるようになるのだろう。結局今まで通りにCNNの臨時ニュースを観ることになった。CNNはいう「事件が起こった時CNNはそこにいる」 そんなことを言える放送局は日本にはない。日本製のカメラ、放送設備などの機械類がこれほど世界で使われていても、報道というソフトは進化しない。こんな事なら日本大使館が発信元となって、せめて大使館の建物の映像だけでも送れないものなのか。災害があっても日本国旗を掲げた日本大使館が映れば、国民は大使館が在留邦人旅行者のために何かしてくれるのではないかと期待できる。大使館の建物が無事なのを見れば、少しは安心できる。

 私たち夫婦がネパールに住んでいたのは1993年から1995年である。当時一回だけ中規模の地震があったことを覚えている。このような大災害が自分の住んでいた所で発生すると誰もが「もし自分が住んでいた時にこの地震が起こっていたら」と思う。私もそう思った。しかし災害はいつどこでも起こりうる。

 ネパールは貧しい国である。世界でも最貧国と言われている。私が暮らした当時年収800ドルだった。映像を観ても、劇的に豊かになったとは思われない。私は10代後半にカナダに留学した。ネパールに行って私は後悔した。もし私があの若さでまずネパールに来ていたら自分の人生は違ったと思った。私は先進国だけに目が向いていた。同じ人間でもこれだけ生まれた国で格差があることを体験できた。貧しいことと人間の尊厳とは別だと学んだ。

 CNNの地震で崩壊した家々を映す画像の説明テロップに“Lax”という単語が出た。私はlaxを“だらしない”と悪いイメージの単語として捉えている。辞書を引いてみると「脆弱な、脆い」などという意味もある。カトマンズの建物も田舎の村の建物も近代建築には程遠いレンガを積み上げた建物が多かった。地震対策など端からとられていない。ネパールの家の多くは、ちょっとづつちょっとづつそれこそレンガを一つづつ長い時間をかけて、住民が代々連綿として積み、造り上げて来たのである。科学ぬきの行動を“だらしない”ともとれる。後進性を責めることもできる。先進国の人間にとっては建築工学を度外視した建て方を見下すふうにもとれる。しかし実際ネパールに行きそこで暮らすと決して“だらしない”と受け止められない。なぜならそれが人々の精一杯なのだからである。私たちは精一杯努力して生きている人に感動する。ネパールの貧しさは、政治、社会構造、慣習、宗教など不条理な要素が絡み合って生まれている。しかし人間は環境が悪ければ悪いほどしたたかである。私はネパールで人間のしたたかさを学んだ。

 この大災害に遭ってもすでに生存者が死者を荼毘にふしはじめているとCNNニュースが伝えた。私はパシュパテナートという寺で自分を荼毘にふしてもらうための薪を集めて死を待つ老人たちを見た。私はその荘厳さと生死を素直に受け止められる強さに深い感銘を受けた。悲しみの中、人々はしたたかに動き始めている。ネパールの民は、過酷な環境の歴史を生き抜いてきた。だから今度もきっとレンガを一つづつ積み直すに違いない。


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殺人放火事件

2015年04月24日 | Weblog

  小心者の私はこの3日間自分の影にさえおびえている。地下駐車場、無人自転車置き場、集合住宅内の階段。鉄パイプを持った犯罪者が陰に潜んでいて襲い掛かって来るのではと気が気ではない。なぜなら私の家から近くにある町で21日に殺人放火事件が起きたからだ。犯人はまだ捕まっていない。私は事件が起こった町の住民ではないが、生活の多くを依存してお世話になっている。他人ごとではない。

 犯人が今現在(24日金曜日午前5時)逮捕されないのは、初動捜査に問題があったと私はみている。その原因は警察官の数が不足しているからである。事件が起こった町に警察署はない。あるのは交番である。警官が2名1組交代で常駐している。

 殺人との関連性は立証されていないが、20日の深夜アパートに住む61歳の男性が20代の男に後をつけられアパートの部屋に入られ鉄パイプで大けがを負わされた。男性は警察に通報した。ここで都市の警察署のように大勢の警察官が動員されていれば、おそらく別の場所での殺人は起きなかったであろう。たった数人の警察官にできることは限られる。

 犯人はこの辺の地理に明るい者だと私は推測する。なぜなら最初の男性に大けがを負わせた場所は土地に不案内な者が行きつける場所とは思えないほど入り組んでいる。JRの駅からそのアパートへ行くのは、いくら被害者男性の後をつけたとしても考えられない。そこから数百メートル離れた小さな公園で犯行に使われた金属製パイプが発見された。アパートから夜中に公園へ行って凶器を捨てた。通りすがりに偶然見た公園ではなさそうだ。その公園から一人暮らしの老女が住んでいた家に行くのも裏道伝いである。土地勘のない人が歩ける道ではない。

 私も家から歩いてそのJR駅に行くときその家の前を通る。近道であるし交通量が少ない。道すがら家々と庭を見て楽しむ。犯行現場の放火された家の窓の下にはいつも季節の花々がプランターに植えられていた。家はJRの線路のある高台の真下にある。家の駅側の空き地と土手には季節ごとに草花が繁茂する私のお気に入りの場所だ。その女性に会ったことはなかったが、花の手入れがこまめにされていたことから、人柄が偲ばれる。あのような残忍な殺され方ときれいな花々がどうしても結びつかない。むごい。

 駅のそばであることから犯人は逃走することを計算していたとも受け取れる。犯人には土地勘があり、現在はここに住んでいないがここで過去に暮らしたことがあるのではないだろうか。いずれにしても早く犯人が捕まることを願っている。

 こちらに引っ越してきてから驚いたことがある。東京や大都市では駐車違反を厳しく取り締まっている。警察官ではない駐車違反専門の交通指導員さえ多くの都市では配置されている。ところがこちらでは駐車はどこでも野放しで警察の取り締まりもない。信号にも従わない。歩行者は道路を縦横無尽に渡る。ここが法治国家日本なのかと首をかしげる。

 殺人事件以来町全体が変わった。警察官が多い。警察車両があちこち走り回っている。マスコミ関係者や中継車が来ていてニュースで町の名前が頻繁に出る。スーパーへ行けば客が少なく売れ残り商品に割引シールがペタペタ。夕方の駅の出迎えは普段の4,5倍で大渋滞。夜になれば人影が消える。我が家の隣の寺の駐車場で車上生活していた女性も事件以来いなくなった。

 26日投票の町長と議員補欠選挙の選挙カーもボリュームを下げている。あらゆる都市機能がマヒしている。事件がきっかけで人々の危機管理が高まっているようだ。首相官邸さえ屋上に1週間もドロンが落ちていたのを発見できない。自分の身は自分で守るしかない。それにも限界がある。効能はともかく、昨日私は防犯用サンサーライトが古くなっていたので、新しくものに付け替えた。


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元校長「気分が高揚して抑えることができなかった」

2015年04月22日 | Weblog

 神奈川・横浜市の中学校の元校長が、少女とのみだらな行為を撮影した疑いで逮捕された。元校長は、かつてフィリピン マニラの日本人学校に理科の教諭として赴任した際に、買春の快楽を覚えたと供述している。児童ポルノ禁止法違反の疑いで横浜市立中学校の元校長・高島雄平容疑者(64)が逮捕された。高島容疑者は「気分が高揚し、抑えきれなかった」と供述している。警察が高島容疑者の自宅から押収したものの中には、複数のカメラやDVD、児童ポルノの漫画のほか、買春した少女らの写真を保存したアルバムが410冊もあった。写真には、通し番号が振られ、その数は、1万2600人以上に及んでいた。日本に帰国したあと夏休みなどを利用して、フィリピンに65回ほど渡航。高島容疑者は「タガログ語や英語で話すと、自分が大胆になり、気分が高揚し、抑えきれなかった。仕事のプレッシャーが強ければ強いほど、倫理観のタガが外れ、開放感を感じた」と供述している。

  私はネパール、セネガルの日本人補習校で教えた経験を持つ。文部省から教員が派遣されるのは日本人学校のみである。補習校には日本人教員が派遣されることはない。世界各地の日本人補習校は現地に滞在する日本人がボランティアで教師となって土曜日に開かれる。教員免許の資格を持っている人もいたが、私のように資格がなくても採用されることもあった。ただ塾で教えたことと予備校専門学校での講師歴だけで依頼された。補習校で教えることは楽しかった。ネパールでは小5,6年のクラスの担任を仰せつかったこともあった。生徒たちを我が家に招いて餃子をみなで作って食べたり、誕生日会、クリスマス会も開いた。日が経つにつれ、心が打ち解けてきた。普段アメリカンスクールや現地学校に通っている生徒たちにはいろいろな悩みがあった。親身になって相談にのった。教師には生徒の家族が支払う負担金を日本人会がとりまとめて時間給で支給される。無給でも構わなかった。やりがいのある仕事だった。ところが文部省から派遣される教師は、公用旅券が発券され待遇は外務省の外務公務員の在勤手当に準じて支給される。所得税はかからない。海外の日本人学校の教員になることは、日本の教員に人気があり希望してもなかなか採用されない狭き門らしい。任期の3年間で相当な貯蓄もできる。日本国内では教員としての給料はそのまま支払われる。また同行する家族全員の旅費生活費学費も支給される。マニラ赴任当時37歳だった容疑者を狂わせたのは、金銭感覚のマヒでもあったに違いない。豊かな国から貧しい国へ行くと起こりがちな錯覚である。かわいそうなのは、高島容疑者に遊ばれた女性たちである。

  性欲は持つのは人として普通のことである。しかし高島容疑者はモンスターである。教員と買春者を同時に長年演じ分けた。高島容疑者は買春した女性の写真や映像を410冊にまとめた。人間が飢えの歴史から得た収集癖や備蓄願望の本能的な欲求が形を変えたなのだろう。女性の下着を何千枚も盗んで自分の部屋に隠し持つ変態と同じである。金を持つ者が金が必要な弱者の体を金で買う。古代から現代にいたるまで変わらない構図である。

  私の中に2大勢力がかつて存在した。一つは善悪を判断できる常識。もう一つはテストステロンという性欲を司るホルモン勢力。私は私の性に関する秘密は秘密のままにしておく。人さまに打ち明けられるような話は何もない。最近、洪水のように押し寄せる老化による記憶障害が秘密を次から次へと消している。加えて糖尿病がテストステロンを撃墜して数値は底辺をさまよう。とてもモンスターにはなれない。それにしても人間はやっかいな生き物である。

 

 

 


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ビリギャル ビリジイ

2015年04月20日 | Weblog

 人の将来なんて誰にも分からない。だから面白い。だから努力のし甲斐もある。同級会同窓会は過去の一時期の成績順位を固定化して当時の栄華を再確認できる集まりのようである。しかし現実は違う。高校の成績や進んだ大学や就職先でその人の人生の幸不幸は決定されていない。

  先日パーティで知人が高校時代の同級生と20年ぶりに同級会で再会した話をしてくれた。なんでもその同級生は大学の教授になっていたが高校の時は成績の悪かったという。知人は「あの馬鹿が大学教授になれるなんて」と他の同級生たちとの会話が弾んだという。私はそれを聞きながら馬鹿だったという大学教授に親近感を覚えた。私も彼と高校生の時、同じ立場にいたことを自覚している。その大学教授になった人はきっと努力してマイペースで人生の階段を昇って教授に登りつめたのであろう。評価されても馬鹿にされることはない。

  私は日本の高校にいた時、成績は悪かった。私が再婚して結婚式に招いた高校の同級生に「お前みたいな馬鹿がどうやって医者と結婚できるか不思議でならない」と面と向かって言われた。正直な物言いを私は歓迎する。陰口をたたかれるよりずっといい。しかし彼は私の日本の高校生以後を知らない。過去の同時代を一時的に一緒に過ごしてしまえば、その時の評価は永遠不滅となる。

  カナダから帰国して私は英語塾を開いた。高校で馬鹿だと思われていた私が地元で英語塾を始めた。中学までは何とかそこそこの成績だったが、高校では病気で長期入院した理由もあって成績は低迷した。でもそのことが塾で英語を教えることに役立った。理解できない、成績を上げられない生徒の気持や状況を的確に読み取ることができた。だから多くの生徒の役に立てた。『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』坪田信貴著角川文庫 1500円+税 『下剋上受験―両親が中卒それでも娘は最難関中学をめざした』桜井信一著 産経新聞出版 1400円+税 このような本が売れている。私が経験したこととよくダブル。

 いま私は中一になった孫の英語学習を手伝っている。孫は競争率7倍の中高一貫校に去年合格して入学できた。この時点で孫は私の同年代の時のはるか上を行っている。サッカーと勉強の両立は難しい。成績もサッカーも中途半端だと父親は不満だった。孫の父親、私の長男はかつて私の教え子である。長男は私など入試を受けることさえ考えられなかった大学を卒業している。中1の2月から通信教育のような孫との英語学習が始まった。

  ビリギャルにあやかって私は秘かに自分をビリジイと呼ぶ。孫の英語教科書をコピーして、それをノートに切り貼りする。私は塾で教えていたことを思い出しながら解説を書き込む。昨日郵便局のレターパックライトで送った大学ノートはすでに8冊になった。高校でビリの成績を取っていたから、その後カナダで英語を学ぶ経験ができたから、英語塾で多くの生徒に教えたから、そのすべてを今、孫のために活かせる。

  同級生や担任に馬鹿と決めつけられても、ノートを作る67歳ビリジイは夢中一生懸命である。 


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リフォーム

2015年04月16日 | Weblog

リフォーム

 私の老化も進んでいるが、家や備品も劣化してきた。3月に温水器、シャワーヘッド、台所の蛇口、カーテンを取り換えたばかりである。8年間乗った車もリースの小さな車に替える手続き中で20日には新車が届く。車が納車されるまでレンタカーを借りている。今年の春は次から次といろいろなモノが交換される。人生でこれだけの一度にあれこれ取り換えることは、そうあることではない。金もかかる。

  14日は朝からエアコン2台の取り付けとドアのチョウツガイや取っ手の取り換えをエアコン業者、電気工事業者、建具屋さんが来て作業してくれた。総勢5人。

 エアコンは11年前のモデルで電気ばかり喰って能力は低い。3年前の夏の猛暑の時、ダウンしてただの送風機に変わり果てた。それだけならまだ我慢できたが、室内機からの漏水にはお手上げだった。当時業者に見積もってもらったら壁をすべて剥がして工事しなければならいので百万円以上かかると言われ諦めた。今回はこの集合住宅を設計した会社に頼んだ。すると壁はそのままにしておいて既存の電気配線と排水管の空間を使って新しい配線と排水管に換えることができた。エアコン業者はエアコンが大好きというだけあって知恵と機転を働かせて難しい工事を6時間で終わらせた。“好きこそ物の上手なれ”の見本のような人だった。費用は3年前の見積もりの半分以下だった。

  建具の職人は一人だった。黙々と作業を進めた。以前違うリフォーム会社がドア全体を取り換えなければいけないと言ったドアを部品を取り換えるだけで直した。古い部品を外して、そこの凹を木片で埋めた。細かい仕事である。器用に手際よく3枚のドアを見事に修理した。洗面所の入り口の引き戸は湿気で膨張したのか相当力を入れないと動かなかった。建具屋さんは大きな引き戸を外して、いろいろ寸法を測ってから鉋で削り始めた。何回もはめたり外したりして滑り具合を点検して直してくれた。洗濯機が入っている納戸の折戸もたたみ具合がしぶく取り付けも不安定だった。しばらく考え込んでいたがねじ回し1本で洗濯機を買った電気店の人が壊す前の状態に戻してくれた。ただただ職人の巧みな腕に感服した。

  数か月前に町田に住む友人が基地の騒音対策で家中のガラスを二重ガラスにしてエアコンをつける工事を国がやってくれたと嬉しそうにその書類を見せてくれた。総額500万円を超えていた。全額国の補助金だという。我が家のリフォームは全額自己負担である。いったい国はどうこれらの費用を捻出しているのか不思議である。国の借金は1000兆円を超えると騒いでいるのに。

  それでも身の周りのモノが新しくなったり修理されると気分がよくなる。修理されたドアも直す前、ドアが外れて倒れてくるのではと、おっかなびっくり開け閉めしていたが、安定した。グラグラして抜けそうだった取っ手も新しいモノに換えられ、閉まる時「カチッ」という音が小気味よい。願わくば私の身体のあちこちに起こる不具合もリフォームできると良いのだが。人間の不具合な生きた器官部分を取り換えることはできない。せいぜいこのままの状態を医師の診断を受けながら騙し騙し長持ちさせるしかない。人間は再生できない。人生に終わりがあるのだからこそ、今、生きていることに価値がある。

  力をこめて開け閉めしていた引き戸、つい力を入れるので勢いよく滑り開く。指を挟みそうになる。習慣は恐い。それでもリフォームされた家の中のあちこちで喜びを感じる。窓の外のセコイアが芽吹き、八重桜が満開である。黄緑と濃いピンクのコントラストが美しい。自然も春の衣替え真っ盛りである。


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4月12日大地震の予言

2015年04月14日 | Weblog

  4月10日テレビのニュースで茨城県鉾田市に多数のイルカが打ち上げられたことを知った。いろいろな専門家がイルカの不可解な行動を論じた。私が彼らの話を聞いていて思ったのは、まだまだ解明できないことが多いのだなということだった。その夜ネットでイルカのニュースに進展があったか検索していた。「地震の前兆か?」の見出しに誘われてそこをクリックした。

  つぎのようなことが書いてあった。ゲーリー・ボーネルなるアメリカ人が4月12日に静岡県伊東市近辺で震度9の大地震が起き、数日後東京で直下型地震が起き甚大な被害が出ると予言したとあった。ずいぶん具体的に地震が起こる時間、場所、地震の規模を言っているな、と不信感が湧いた。伊東市にそれほどの規模の地震が起これば、同じ相模湾に面した海の近くに住む私たち夫婦も地震と津波の影響を受けるのは必然である。しかし心配させるといけないので妻にはその予言のことは言わなかった。

  妻は10日から3日間、横浜で開かれていた所属する学会に日帰りで参加していた。どこで知ったのか地震の予言のことを知っていた。土曜日の夕方5時半から友人宅のシャクナゲの花見に招待された。奥さんと娘さんの手料理で楽しい時間を過ごした。伊東と東京の地震の予言の話が出た。やはりネットで知ったという。東京に嫁いだもう一人の娘さんに絶対に地下鉄に乗らないよう電話したそうだ。これが最後の酒盛りになるかもしれないとみな心の片隅で考えていたようだ。妻は「明日は学会に出席しない」と帰宅すると言った。「3・11の時、私は病院。貴方は家だったでしょう。あの時死ぬなら一緒にいたかったと思った。予言が当たろうが外れようが構わない。後で後悔したくないから」 

  12日、私たちは午後友人から「タケノコ採って来て茹でたから届けに行く」と電話がきた。届けてもらうのは悪いと思い、車でいただきに伺った。まだ温かかった。タケノコご飯と筑前煮を二人仲良く台所でつくった。電気釜で2回炊いた。冷凍しておけばしばらくタケノコご飯が楽しめると思った。「でも地震が来れば・・」 そんなこと言うのを止めた。人間いつかは死ぬ。二人で一緒に死ねるなんて、そうだれでもできることではない。タケノコご飯も煮物も美味かった。すでに12日は18時間過ぎていた。結局就寝するまで何も起こらなかった。

  予言は人間社会に溢れている。私が7,8歳の頃、近くの橋の下に住みついたホームレスのおじさんは「じきに地震が来て地面が割れてみんな呑みこまれる」とブツクサ独り言を言っていた。あれだって予言の一つ。もうあれから60年が過ぎた。人は誰だって恐怖、心配、不安を抱えて生きている。不思議なこと未知なことはたくさんあるが、自分という存在と妻の存在は事実である。二人が出逢えて夫婦という関係になれたことを感謝している。私が存在した意義はそれで充たされる。予言のおかげで再認識できた。貴重な日になった。12日の日曜日は妻と一日中一緒にいた。今日、14日の朝も目が覚めた。隣に妻がいた。まだ二人とも生きている。


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GACKTとパリの人種差別

2015年04月10日 | Weblog

 ミュージシャンのGACKTさんがパリのホテルで露骨な人種差別を受けたと自身のブログで明かした。GACKTさんはフランス語できちんと抗議した。立派である。人種差別はあってはならない。しかし現存する。多くの国においても憲法で人間の平等を表記している。理想であるが現実ではない。

 私はそのニュースを知ってちょっと胸のつっかえがとれた。団体旅行やパック旅行では差別があってもなかなか認識されない。私のような個人で行動する凡人がパリで差別されるのは日常茶飯事である。事実私はヨーロッパのみならずアフリカでも北米でもさんざん差別を受けた。

 GACKTさんは日本では超有名人である。一歩日本を出れば、私と変わりない日本人の一人でしかない。日本人というよりアジア人つまりは黄色人種の一人でしかないのである。政治屋や芸能人として名を馳せ、狭い日本では肩で風を切って「俺が俺が」「私が私が」と何か特別な存在であるかのように振る舞っている輩がいる。日本という小さなお山で大将だと思っていても、海外に出れば知名度は薄まり、普通の人となる。

 私は差別を当たり前のように実行できる人が羨ましい。そういう人々が差別を受ける人より何の分野においてどれほど優れていて、そんな態度がとれるのかを知りたい。大方、白人が差別するのは、有色人種である。というのは肌の色、つまり“見た目”だけの判断である。金髪、碧眼も白人にしかない。自分は白人で相手が有色人種だから、自分の方が偉い。その考え方は原始的であると私は思う。

 妻はオーストラリアと英国、私はカナダへの留学経験を持つ。二人が結婚にこぎ着けられたのは、留学中に差別された共通の経験があったからともいえる。もちろん私たちを差別することなく普通に接して、惜しみなく助けてくれた白人の方々もいる。妻は医師になってから29歳でオーストラリアの大学へ留学した。留学に出発する前の日に私たちは出会った。私は咄嗟の判断で彼女に私の住所と氏名を予め書いた航空便用の封筒を「何か私ができることがあったら手紙で知らせてください」と言って手渡した。

 彼女との出会いから数か月後、一通の航空便が届いた。そして私たちの文通が始まった。私は彼女にどんなに短くても必ず毎日航空便で手紙を送った。応援した。オーストラリアの大学の附属病院で女性看護師たちからあからさまな差別にも私は自分の経験から対処法を伝え、気落ちした彼女を応援し続けた。まさか自分が軽井沢のアメリカ人宣教師の息子たち、カナダの学校で受けたさまざまな差別の経験が役に立つなど考えてもいなかった。彼女は努力の甲斐があって認められオーストラリアの大学教授が英国の大学への留学に彼女を推薦してくれた。ロンドンに移っても私は彼女を励まし続けた。オーストラリア同様、真面目な研究者として教授に認められ指導を受けた。しかしそういうアジアからの女性に対してロンドンの大学職員の差別も露骨だった。特に女性看護師がひどかった。劣等人種が自分たちより上の立場の医学者であり研究者でいることが許せないのである。研究室手術室に入る鍵の暗証番号をわざと嘘の番号を教えたり、ロッカーの鍵を隠したり、手術室用の履物や手術着を隠された。彼女の留学中、私は4度彼女を励ますためにロンドンへ旅した。

 どうすれば差別を減らせるか。差別された人は2つに分かれると私は思う。自分が受けた差別の辛さ悲しさを他の人に経験させないよう気を配って生きる人。自分が受けた差別を今度は仕返しに他の人に報復として差別する人。前者を増やすしかない。差別は私が生きているうちには絶対に失くらない。何故なら博愛の心を生まれながらに持っている人、教育で差別はいけないことと学んで差別しないことを心がけて生きている人以外はみな、差別をすると気分が良くなるようだからである。暴力と同じである。自分の気分を良くするためなら人は自らを制することを放棄して罪の意識もなく多くのことをする。人間の困った傾向である。

 私たちは結婚して、妻は外務省の医務官になった。私は塾を閉じ予備校や専門学校の講師も辞し、彼女の配偶者として妻の海外勤務に同行した。差別偏見は外国人とりわけ白人から受けるだけではない。同じ国の人から同じ職場の人からも受ける。私たち夫婦は幾多の差別によって二人の仲を強められた。悪いことばかりではない。

 日本に帰国して私たちは静かな自然の残る地に終の棲家を持った。海を見ながら温泉に入ることもできる。今、二人の世界には、差別も暴力も存在しない。


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“人”と“コンピューター”恐怖症

2015年04月08日 | Weblog

 金持ちではないが、時間持ちの私は待てる。負けやしない。「ただいま大変混み合っています。最低5分はかかります」 聴きたくもないのにサービスのつもりか音楽が流れる。1分おきに「ただいま・・・」の録音が流れる。対抗して私は口ずさむ。「♪私待つわ、いつまでも待つわ♪」 対応がいい加減で杜撰である。なぜなら先の放送から1分が過ぎたのにまだ5分待てと言っている。5から1を引いたら4になる。5分が過ぎた。「最低5分」が「3分」に変わった。大きな進歩である。それにしても大変混みあっているというが、どうせ係が1人しかいないのであろう。合理化といって企業は自分の側の経費、時間、人を節減することを優先させる。結果、客はその身勝手な合理化の犠牲となり、何事もたっぷり待たされる。「お客様は神様」なんておだてられ、いい気にさせられていた。それでもコンピューターが普及する以前は、まだサービスといって人と人が相面して客を大切にする風潮は残っていた。コンピューターが人の仕事を奪うようになってから世の中は大きく変わった。

 結局11分42秒経って初めて電話に人間が応答してくれた。私が使っているファックス付の固定電話には回線使用時間が表示される。用件をしどろもどろ言い終えた。求めていた答えはなかった。「担当に代わります」と一方的にまた音楽に切り替えられた。約20秒で人間の声になった。用件をまた最初から伝える。我慢ガマン、忍耐ニンタイ。

 こうして口座引き落としの銀行を替える手続きを終わらせることができた。一日一つのことをやり遂げる。最近の私の目標である。腹も立つ。時間も取られる。でもこうして一つをやり遂げると達成感がある。

 最近“人”恐怖症になっている。特に銀行のATMで黙って操作するのはいいのだが、銀行員と直接話すのが嫌である。郵便局でも腹がたつことが多い。デパートでも。心がない、まるでコンピューターのような人ばかりである。人と話してもお互いの意思疎通ができないことが多すぎる。そんなことを繰り返しているうちに私が言わんとすること理解してもらえない人と会話するのが億劫になった。携帯電話もメールには抵抗感を持たないが、電話には緊張してしまう。

 ネパールやアフリカのセネガルで暮らしていた頃は、人対人の直接折衝だけだった。言葉の壁はあったが、お互いを人と認識して売り手側と買い手側の単純な立場だけで理解しようとする気持ちは伝わった。治安に恐怖はあったが、日常関わる人に恐怖を持つことはなかった。差別などで嫌な思いをすることがあったけれど、概ね負担のない関係を持てた。コンピューターの仲介が一切なかったからかもしれない。コンピューターのおかげで便利になったことはたくさんあるが、失ったものも多い。

 4日土曜日と5日の日曜日、2軒の別々の友人宅に花見に招かれ夫婦で行ってきた。久しぶりにコンピューターが介在しない空間だった。話し、食べ、飲む。お互い言いたいことを言い、素直に言わんとすることを受けとめてもらえる。時には意見が食い違い言い争う。そうできる関係が心地よい。直接会って時間を共有できることは、幸せな事である。美味しいものを一緒に食べる時、人は優しく心を開く。そこに酒と会話が加わればなおさらだ。そういう時間をつくりだす努力を惜しみなくこれからも続けて“人”と“コンピューター”恐怖症の出番を減少させたい。11日の土曜日こんどはシャクナゲの花見に招かれている。嬉しいことである。


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それ私のです

2015年04月06日 | Weblog

  集合住宅の共同温泉浴場でのことだった。いつもの通り温泉の塩分をよくシャワーで落としてから出口の棚に置いておいたバスタオルで濡れた体を拭きはじめた。理由は分からないが、浴場から脱衣所までポタポタ水を垂らして移り、脱衣カゴに入れておいたバスタオルで体を拭く人が圧倒的に多い。だから床は常に濡れている。なぜかベタベタして足裏が気持ち悪い。私はバスタオルを浴場内の物を置くための棚に置き、脱衣所に入る前にバスタオルで大方の水滴を拭き取ってしまう。

  全裸で前を隠すこともなく上がり湯のシャワーを浴びたびしょ濡れの私より少し年配の男性が突然怒りを露わにした表情で「それ私のです」と私が股間を拭いていたバスタオルを指差した。私は言葉や脳より先に、体が反応する。さっとバスタオルを身体下部から離した。しかし脳はゆっくりだが始動した。「なぜ私は他人のバスタオルを使っているのか?」「私は今回、バスタオルを脱衣場に忘れてきたのか?」「私が入浴中にこの男性がバスタオルをこの棚に置いた?」「私は無意識のうちに他人のものに手を出すというアルツハイマー病の症状がついに出たのか」 どれひとつ回答が導き出せない。最近数秒前のことさえ思い出せないことが多い。ましてや赤の他人、見ず知らずの人に指差されてタオルの所有権を訴え出られたのである。他人のタオルを使うなんてもういよいよ最終段階だな、とうな垂れる。

  その日、普段より混んでいた。一斉に人々の冷たい視線を浴びた。「バスタオルなんか浴場に持ち込むからだ」「自分のバスタオルと他人のバスタオルの区別もつかないのか」などと非難されているように感じた。

  うな垂れたままバスタオルを差し出した。男性が言った。「似ているけれど違うな」 男性はそのまま謝ることもなく、ポタポタ水を垂らしながら出て行った。私は茫然と立ち尽くした。腹が立った。追いかけていって何か男性に言ってやりたかった。小心者の私にはできない。湯船に戻った。湯船から見渡せる海を見た。私には風呂に入って無心になる方法がある。1から50までを6回数えるのだ。子供の頃風呂が嫌いだった。父は私に声を出して100まで数えさせた。そのせいか風呂で数を数えるといつしか頭が空っぽになる。もともと空に近い状態なので難しいことではない。

  数え終ると、ふと渥美清主演の映画『フーテンの寅さん』を思い出した。“寅さんの声掛け”が心に浮かんだ。 寅さんはどんな人にも平然と声をかけられる。大学教授、大会社の社長、若い美女、田舎の老婆、子ども、誰にでも同じように話せる。あの映画は多くの普段言いたくても言うことができない不満を抱えた観客の羨望を掻き立て、鬱憤を晴らす。気を取り戻した。今度、寅さんの映画を観て“声掛け”の勉強をしてみよう。

  部屋に戻り妻に風呂場での出来事を話した。「心臓手術の時、入院する前コップ、タオル、いろいろな私物に名前書いたこと覚えている?そうしたら」 それより私は「おじさん、何かの間違えじゃねえのかい。俺のタオルはそんじょそこらにあるのとはわけが違う。ウへッへへッ」とでも言えるようになりたい。


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