団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

水道管交換工事

2019年09月30日 | Weblog

  日本各地で水道管の老朽化による問題が噴出している。今ある水道管を新しい管にすると1キロメートルにつき約1億五千万円かかるという。

 私が住む集合住宅の前の市道でその水道管交換工事が始まった。例のごとく、道路の舗装を水道管が埋まっている部分だけ剥がし掘る。狭い道路、それでも交通止めにせず、片側を小型車なら通れるように工事は進められた。交通整理と歩行者の安全確保のために警備会社の警備員が配置された。ほとんど交通量もなく、歩行者は生活のためでなくウォーキングの人が多い。警備員は暇で注意散漫、私が車で買い物に出ようとしても私の車に気が付かない。工事している作業員に促されて、やっと慌てて旗を振る。

 なぜここが水道管の交換工事の対象になったのか不思議だ。どこでも水道管の老朽化は問題になっていて、日本の現在の老朽化した水道管をすべて取り換えるには130年かかると言われている。私はここの水道管交換工事は、きっと100年から下手すれば130年後と勝手に決め込んでいた。それなのにここが選ばれた。私は宝くじが当たったように喜んだ。住む人も少なく、有力な政治屋もいない。1キロ1億五千万円の工事が目の前で行われている。騒音や不便さも気にならない。ドリルが「ドドドッドドドドドドドドドッ」と鳴り響き、家の窓ガラスが振動しても我慢できる。

 工事が集合住宅の前で行われた日、歩く好奇心とかつて言われた私はとうとう我慢できず、両手を後ろに組んで見学に外に出た。作業員が4人いた。まず挨拶。一番偉そうな人に「ちょっと見させてください」と話しかけた。「どうぞどうぞ」と愛想がいい。調子に乗る私、「古い管はどうされるんですか」。「そのまま」「そのままって掘り出さずに埋めておくのですか」「新しい水道管に送水できたら、掘り出すんよ」

 大きな疑問が解けた。私は水道水を止めないで水道管を換えるということは、漫才の春日三球・照代の「地下鉄はどこから入れたの?それを考えると一晩中寝られないの」と同じくらい疑問に思っていた。現場監督のおじさんは、丁寧に説明してくれた。栓と栓がある区間を工事して新しい水道管を施設したら両側の栓と接続してゆく。それぞれの分野に独自の技術方法が開発されて進化している。感心しきり。

 掘り出された古い土管の水道管と鋳物製の水道管を見た。中はサビや化合物で半分以上が詰まっていた。今年1月に私の心臓の血管が詰まっているのが見つかり、カテーテル手術でステントを入れた。生きている血管だって詰まる。水道管が詰まって当たり前。青く着色された新しい水道管を見せてもらった。研究改良されてサビたり詰りをできるだけなくすようになってきているそうだ。私は膝下の動脈にも閉塞が見つかりショックで落ち込んだ。水道管だってここまで進化している。きっと血管の狭窄や劣化老化も新しい治療法が出てくるだろう。期待が増す。

 水道管交換工事が終わり、道路の舗装もやり直された。見苦しいアスファルトの度重なる掘り返しで、できたパッチワークが無くなった。前より道路のデコボコが減り走りやすくなった。感謝している。それにしても行政は、いつかは水道管がこうなることを先見の明で見通すことができなかったのか。工事のたびに掘り返さずに済む、共同溝の普及を願う。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリンピックと終活

2019年09月26日 | Weblog

  アメリカで私の長女を預かって育ててくれた恩人が来年のオリンピック観戦に来ると言っていると長女が私に伝えてきた。一時、癌のステージ4まで達し、誰もがこれまでかと思った。しかし彼女は、すっかり元気になった。5年再発しなければ、癌の治療は成功と言われている。すでに5年どころか抗がん剤治療で髪の毛がすべて抜けるほどの闘病生活を経て14,5年以上過ぎている。夫を亡くしてから、5人の子と私の長女の6人を育てた家に一人で住み、毎年2月から2カ月間ハワイの会員制リゾートに滞在してゴルフをしている。82歳である。彼女の終活は、まご全員と彼女が費用持ちで海外旅行することだ。それも来年のオリンピックに来ることで完結するそうだ。

 子供が5人、その配偶者が5人、孫は総勢13人。そしてその孫たちもそろそろ結婚する年齢である。すでに2人が結婚。来年の東京オリンピックではバレーボールの観戦を希望して切符を申し込んだが、1枚も手に入れることができなかった。ホテルも探したが、あまりの値段にあきらめた。連れて来る孫の数は、5人。彼女が費用負担するのは、この5人と自分だけ。孫の親たち3人も同行するが、孫以外の費用は負担しない。孫の恋人が3人参加して総勢12人になる。

 彼女は、決して金持ちではない。倹約家でお金の使い方が上手。持ち前の粘り強さと企画力で来年の旅行を決めた。オリンピックは私と同じくテレビ観戦に切り替えた。代わりに見つけたのが日本一周のクルーズである。オリンピックの前後、世界からクルーズ船が日本に集結して、10日間くらいの日本一周クルーズが売り出されていた。クルーズの値段は一人17万円から80万円くらい。もちろん倹約家の彼女、予約したのは一番安い大部屋。大所帯はこういう時、真価を発揮できる。オリンピックが始まる直前に全員が飛行機で日本へ来て、横浜のホテルで前泊する。長女の提案で私がその夜、12人と私たち5人の全員を食事に招待する。費用が心配だが、恩はそんな額で返せるものではない。同じホテルに宿泊して、翌日、大桟橋から出港する豪華客船を見送る。船はノルウェー船籍。日本ばかりでなく韓国の釜山にも寄港する。来年の旅行に参加する孫の恋人で婚約している男性は、韓国系で祖父母が釜山に住んでいるので、全員でその家を訪ねるという。婚約者の祖父母を12人の日系家族が訪れる美しい光景が目に浮かぶ。

 以前彼女に今起きている日韓問題について質問したことがある。彼女の子供5人のうち日系人と結婚したのは3人。1人は中国系、もう1人は英国系だった。孫はすでに結婚した2人の相手は、ドイツ系とフランス系。孫たちが付き合っているのも韓国系、中国系、ヨーロッパ系といろいろである。彼女は、相手の人種は、気にしない。ただキリスト教徒であることを望んでいて、今のところそれは満たされていると言った。彼女が通う教会は、日系人が多いが、韓国系も多い。何の問題もない、それに嫌な思いもしたことがないと彼女は断言した。彼女は、「私たちアメリカ人は、祖先がいろいろな国から来ていているけれど、みなアメリカ人なのだから」とも言った。アメリカで第二次世界大戦開戦直後アリゾナの砂漠の収容所に入れられた彼女が言うのだから重みがある。

 22日から長女一家が遊びに来た。久しぶりにたくさん顔を見て話すことができた。夏休みに家族でアメリカへ10日ほど結婚式に参列するために行っていた。日韓問題についても話した。アメリカ生活15年の私の長女も小中、大学で多くの韓国系の友人がいたが、一度も嫌な思いをしたことがないと言う。現在、長女が日本で働くアメリカ系の会社の直属の上司は、韓国人だという。関係は良好で上司は、優秀で部下の面倒見が良いと褒める。ニュースに振り回されて日本の将来を悲観するばかりの私は、時代の本流から外れてしまったようだ。ニュースは、妄想を助長する。現実は、ハチミツのようにジワリジワリとしか伝わらないようだ。

 私の終活もやっと猛暑が遠のいたころから、拍車がかかってきた。昨日何千枚という写真の整理が終わった。残したい写真は、すべてスキャンしてパソコンに取り込んだ。孫を海外旅行に連れて行くことはできないが、残された家族に迷惑をかけることだけはしたくない。72年間私の人生の積み重ねの清算、整理、処分は、一筋縄ではいかない。ほふく前進でも一歩前進二歩後退でも、きっと終わらせる。

 争うこと恨むこと憎むことは、誰にでもできる。許してもらうことは難しい。許すことはもっと難しい。でもそれを一歩一歩前進させて、未来に向けて実践している人たちがいることは心強い。オリンピックは、そのきっかけを与えてくれる。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラグビーワールドカップとマコさま

2019年09月24日 | Weblog

「天真爛漫全身無知、良かれと思って大失敗。すました顔してボケかます。弾ける笑顔にめげない性格。その名は世界のマコさま」で始まる日曜朝9時からの『三宅裕司 サンデーヒットパレード』というニッポン放送のラジオ番組がある。毎週録音して、時間があるときゆっくり聴いている。22日の“マコさま”は、ほとんどがラグビーに関するボケだった。中でも世田谷のナイモノヤさんの「箸でつまんだ煮物のサトイモが前にコロッと転がった時、知ったかぶって、はい、ノックオン」には笑った。マコさまにまでワールドラグビーカップが浸透してきているということは凄いことだ。

 私はラグビーを運動競技としてやったことはない。しかし長野県の病院に心臓バイパス手術で入院した時、大部屋の隣のベッドに早稲田大学でラグビーをやっていたOさんがいた。今から20年も前の事だった。Oさんは糖尿病による足のつま先の壊死で切断手術を受けていた。ちょうど冬のラグビーシーズンだった。テレビで早慶戦の中継を一緒にテレビ室で観た。他の誰もラグビーに興味がなく、いつもラグビー中継は、Oさんと私の二人だった。ルールを全く知らない私にOさんは丁寧に早稲田への熱い応援をしながら教えてくれた。病室に戻ってもベッドの中からあの場面でああなったのはこうだ、ああだと細かく分析解説してくれた。おかげですっかりラグビーファンになった。

 9月8日から大相撲が始まった。ラグビーワールドカップは20日から始まった。ラグビーとオリンピックを家でより鮮明に観るために4Kテレビを買った。最初ほとんど受信できなかったBS4Kが急に映るようになった。理由はわからない。映れば文句はない。大相撲とラグビーが重なるのには困った。相撲もラグビーも格闘技のようなもの。ローマ時代コロシアムで猛獣と剣士、剣士と剣士の闘いは、娯楽だった。現代は、スポーツと名を変え、規則と審判をつけて闘う。野蛮といわれればそうかもしれない。しかし興奮するのである。相撲とラグビーは似たところがある。相撲が時間いっぱいになるまでラグビーを観る。相撲は1対1、ラグビーは15対15.相撲は仕切りがあり、ラグビーはスクラムがある。相撲取りもラガーマンも鍛えられた肉体が基本。武器を持たない。相撲は好きでずっと観てきた。ラグビーは久しぶりだ。交互にチャンネルを変えて観た。充実感。熱中。興奮。

 日本にラグビーワールドカップを誘致した功労者は、森元首相だという。誘致運動として演説した際、彼は「ラグビーワールドカップは、ラグビー強豪国同士で開催地をパスして回してばかりいて、アジアや他の地域の開催候補国にパスを出さない。これではラグビーは普及しない」。この名演説が功を奏して、2019年ラグビーワールドカップの開催が日本に決まったそうだ。

 私のような中肉中背の一般人にとって、相撲取りやラガーマンのような体は、羨ましい。でも私は練習嫌いで自分の体を鍛えたこともない。だからこそ一観客として彼らを応援する。ラグビーの試合でも、相撲でもケガ人続出。観る者として罪悪感が湧く。同時にその道に邁進する姿に感動、称賛、尊敬。ラグビーワールドカップは11月2日の決勝戦まで続く。嬉しい限りである。

 大相撲は終わった。御嶽海が優勝。大好きな貴景勝は優勝決定戦で負けた。何より心配なのは、貴景勝のケガ。大関復帰できたのに。世界のマコさまたちも私も貴景勝が元気に11月場所に大関として帰ってくることを祈っている。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音信不通

2019年09月20日 | Weblog

  台風15号による被害で12日を過ぎた今日でもまだ多くの地域で停電が続いている。電気がなければ日本の文化的な生活は、できなくなる。それだけ電気に我々の生活が依存している。

 私が住む集合住宅は、オール電化をうたい安全性を売りにしていた。ガスも石油も使えない。もし千葉で起こった台風による停電が起こり、10日20日と停電が長引けば、調理ができなくなる。トイレも使えなくなる。冷蔵庫冷凍庫の中の食糧が無くなる。風呂に入れなくなる。冷房が使えない。パソコンが使えない。考えただけで恐ろしい。

 私は妻の海外赴任に同行して、インフラ整備がされていない開発途上国で暮らした。電気、上下水道ほぼ毎日停電断水があり、そのような中でも工夫して生活してきた。しかし今このコキジ(古稀+2歳)に電気上下水道ナシの生活ができるかと問われれば“否”である。特にウォシュレット・トイレなしでは。千葉の被害者のことを思うと心が痛む。千葉には知り合いの3家族が住む。その家族が住むそれぞれの地域は、報道によれば被害が最も大きい場所である。

 一緒に同じ場所に住み家族ぐるみで行き来して付き合っていても、転勤や引っ越すと自然に気持ちも離れてしまう。そしてどんどん時間が過ぎる。別々の場所や国に住み、頻繁だった手紙やメールの往来が徐々に減ってくる。最後に残っていた年賀状もついには途絶える。音信不通となる。それでも何かその人々に関連する事案、事件、事故、災難があるとその人々を想う。どの家族とも音信不通の状態である。私の不徳とするところである。突然連絡するのも躊躇してしまう。ただ彼らの無事と、一日も早い復旧を祈るのみである。

 時間が経って、今でも私が付き合う人の数は、ずいぶん減った。減った人の中には永遠に音信不通の関係になった友や恩人がいる。そう、死んでしまったのである。恩人であり良き先輩である人達の中にも、存命であるが私を認識できなくなってしまった方もいる。その方たちの中に、きちんと時を区切って、年齢によってこれ以上の付き合いはできないと文書で伝えてきた方もいた。恐れ入った。そんなこと自分にできるだろうかと思った。私は51歳の時、狭心症で心臓バイパス手術を受けた。ある人の勧めで『辞世帖』を書いた。同時にお世話になった方々、家族、友人に手紙を書いた。手術から21年が経った。ピンピンとは言えないが、何とか生きながらえている。21年前に私のもしかしたら死ぬかもしれないので、その前に感謝を伝える手紙を受け取った人々は、きっとあいつまだ生きている、と思っているに違いない。

 私から何かやろうという意欲気力を奪い去っていた今年の猛暑も徐々に勢力を衰えさせてきた。私は写真の整理を始めた。これが大変な作業である。まずアルバムから写真を抜き出す。保存する写真と廃棄する写真を分別する。これには、罪悪感が伴う。残す、か捨てるか、迷いに迷う。そこで考える。私が死んだら、誰がこの写真を見る?誰がこの写真をこうして分別できる?私がするしかない。決める。次は残す写真をスキャナーでパソコンに記憶させる。パソコンに貯めた写真を今度は分類してファイルに収める。捨てる写真は、2台の裁断機で紙屑にする。

 音信普通、音沙汰ナシの関係者、この世を去った友、恩人など忘却の彼方にいた人たちが私が若々しく溌溂と生きた一瞬一瞬を蘇らせる。今はその若さも無謀さも失った。写真は凄い。音信不通の回路が戻る。

 時には涙、時には微笑みがこぼれる。終活がちっとも進まない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牛乳パンとビスコンティ

2019年09月18日 | Weblog

 私の生まれ育った長野県には、“牛乳パン”という菓子パンがあった。私は、この牛乳パンを牛乳に浸して食べるのが大好きだった。おやつの主流が“うすやき”という小麦粉を水で溶いて焼いただけの物に砂糖をほんの少しかけてあった。“うすやき”でもあれば良い方だった。コキニ(古稀+2歳)の私は最近、食欲もめっきり細くなった。先日同じ集合住宅に住む夫がイタリア人で奥さんが日本人の友人夫妻を夕食に招いた。その時『ビスコッティ』を持ってきてくれた。彼が自分で作ったものだった。

 生まれて初めて食べるビスコッティだった。今度生まれるなら絶対にイタリアのベネチアと思うほどのイタリア大好きイタリア食べ物大好きな私だが、ビスコッティは知らなかった。彼が好きで時々自分で焼いて食べると言った。そして彼が好きな食べ方は、コーヒーにビスコッティをちょっと浸して食べるという。これを聞いて私は子供の頃“牛乳パン”を牛乳に浸して食べたことを思い出した。

 次の日私はさっそくネットでビスコッティを検索してみた。(ビスコッティ:ザクザクとした硬い食感が楽しめるビスコッティ(biscotti)はイタリアの庶民的な伝統菓子です。小麦粉や砂糖などの原料にチョコレートやアーモンドなどのナッツ類を入れて焼き上げるビスケットで、イチジクやアプリコットなどのドライフルーツを入れて作ることもあります。フィレンツェを中心とするイタリア中部のトスカーナ地方が発祥といわれ、この地方では「カントゥッチ」と呼ばれ親しまれています。19世紀後半に作られたカントゥッチがビスコッティの最初のレシピ(recipe)。カントゥッチの名前の由来は「cantocci(小さな歌という意味)」が変化したものと考えられていますが、ビスコッティはラテン語が由来になっています。「ビス」が「二度」、「コッティ」が「焼く」を意味する言葉です。)

 妻に尋ねた。「子供の頃、牛乳パンを牛乳に浸して食べたことある?」 妻の答えは何と「私は親にそうやって食べることをみっともないからやめろ、とか犬みたいな食べ方だとか、汚い下品な食べ方と言われた」だった。私は聞いたことを反省した。同時にあることを思い出した。日本に帰国して今住む家を購入した時、旧ユーゴスラビアで知り合ったドイツ人の友人を招待した。我が家に泊まって朝食の時だった。私はフレンチトーストを彼のために作った。フレンチトーストを見て彼は機嫌が悪くなった。彼は言った、「これはフランス人の貧乏な人たちの食べ物だ」と。私はそんなことは知らなかった。フランスの食べ物は、高級だとさえ思っていた。それ以後、彼からの連絡は途絶えた。食べ物の恨みは、恐ろしい。食べ物や食べ方は、偏見や差別を生む一因だ。

 私は上流階級の子でも、高級国民の子でもない。一庶民として実に庶民らしく、庶民の生き方をしていると自負する。フレンチトーストがフランスの貧乏人の食べ物であっても違和感はない。固いパンや固くなったパンの美味しい賢い食べ方だと思う。しかし世の中は、偏見や差別で溢れている。以前会った金持ちの女性は、「ごはんに何かを混ぜたり、かけたり絶対にしない。親から厳しくそう躾けられた」と言った。私は混ぜご飯が大好き。麦とろご飯も大好き。やはり庶民も庶民、貧乏な下級国民なのだ。でも美味しいものは美味しいのだから仕方がない。世界のあちこちで、人によってはゲテモノ料理を言われるであろう食べ物もたくさん食べた。庶民の食べ物こそ、私にとって、その国の人々を知る最良の方法だった。結婚は低い相手に迎合されるそうだ。妻は昨夜、栗ご飯を自分で栗の皮を剥いて炊いた。栗ご飯って混ぜご飯のはず。すっかり低い方に来ているらしい。

 私は虚弱体質の子供だった。胃が悪く、胃痙攣をよく起こした。高校生になると、医者に胃を全摘すると言われ、父親が違う医師に診てもらおうと入院していた病院を抜け出した。検査診察した医師は胃の全摘の必要はないと言った。子供の頃、病弱ゆえに私の親は牛乳パンを牛乳に浸して食べるのを許してくれたのかもしれない。この食べ方にはコツがある。少しでも浸す時間を長引かせるとパンの大半がちぎれて牛乳に沈んでしまう。浸し具合に微妙な手加減がいる。

 近頃、私は毎朝、ビスコッティをアイスコーヒーに浸して食べるのを日課にしている。これが欠かせない。ビスコッティをコーヒーに浸すたびに子供の頃を思う。身に着いた味覚は、一生ものだ。すでにイタリア人の友からもらったビスコッティは食べつくしてしまった。市販のイタリア製のビスコッティを数種類買った。やはり友人のビスコッティが最高だ。

 世界にはいろいろな食べ物がある。それ以上に同じ食べ物でもいろいろな食べ方がある。文化、宗教、肌の色が違っても、同じ食べ物飲み物を一緒に楽しめることは、素晴らしいことだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

停電・断水

2019年09月12日 | Weblog

  先日の台風15号は、各地に甚大な被害をもたらした。千葉県では台風襲来から3日目の今日12日いまだに40万戸が停電している。全面復旧にはまだ数日かかる。ニュースで住民が「水が一番欲しい」と訴えていた。私たち夫婦の海外生活でも、電気がなくても生きられる。しかし水がなければ生活ができないことを経験した。

 私たちは妻の仕事でネパールに3年以上暮らした。災害がなくても停電・断水は日常茶飯事だった。住民も慣れていてそれによって生活に支障はないようにみえた。外国人で、それも水も豊か、停電もほとんどない日本から赴任した私たちにとっては大問題だった。現地で現地の平均的人々と同じ生活ができれば、困ることはない。「いったん、上の生活を知ってしまうと、生活水準を下げられなくなる」ときいたことがある。何か自分で受け入れなられない事態に直面すると、日本ではこうでない、ありえないなどという考えが頭をもたげた。これがかなりの精神的重圧を生む。社会を個人がどうこうして変えることはできない。社会的生活基盤を整備するには、まず人々の意識改革をしなければならない。それには時間がかかる。社会が個人の要求にこたえてくれなければ個人が自分でやるしかない。

 ネパールで多くの事を学んだ。飲料水を自分で作ることもその一つである。断水で水道から水が配水されない。それが長く続けば川の水を販売する業者に頼んで配達してもらう。水道水自体、水質検査すれば飲料水として不合格。ましてや川の水はもっと汚染されている。下水処理場がない。水道水も購入した水もそのまま飲料、食事用には使えない。私は飲料水と調理水を3回濾過の3回煮沸を繰り返して作った。妻が働いて夫が家で髪結いの亭主をしていると揶揄された。そんなことはない。髪結いの亭主にもやることはたくさんあった。水づくりに4,5時間かかった。そのおかげで外食して腹をこわしたことはあったが、自宅で感染症にかかったことは3年間一度もなかった。風呂やシャワーは水道水をそのまま使った。石鹸やシャンプーの消毒作用は大したものである。

  災害によって停電・断水すれば生活に支障をきたす。停電したから断水する。トイレが使えない。風呂に入れない。携帯電話が使えない。日本での便利な現代生活は、いったん電気が止まれば全てに影響する。そしてあまりにも企業や自治体や政府に頼りすぎている。ネパール、セネガルなどで停電・断水当たり前の生活をしてきた私に提案がある。

①       日本には水が豊富にある。まず飲料水は、できるだけ綺麗な川や池から汲んできて、自分で3回濾過と3回煮沸を交互に繰り返して作る。軽トラックがあれば、タンクを積んで行く。五右衛門風呂分くらいの水なら1回で運べる。最後は人力で運ぶしかない。

②       燃料は電気、プロパンガス、薪や炭を準備しておく。電気がダメならプロパンガス。プロパンガスがダメなら薪か炭。今回の停電で電気自動車を所有している人は、電源として有効だったという。

③       自治体は、災害に備えて大型のキャンピングカーを数台でも用意する。日本全国の自治体がキャンピングカーを所有すれば、災害時にお互いに融通しあって送り込める。理想は私が以前から提案する病院船を持つことである。1機140億円のステルス戦闘機を百機買うより世界の援助活動と国内の災害対策に金を使って欲しい。今回の停電で多くの病院が機能停止状態に陥った。

④       日本には共同溝が必要だ。道路を何回も水道だガスだと掘り返すより、電気、ガス、水道、下水、電話線、光ケーブルなど防水の共同溝に入れればよい。今回の停電の主な原因の一つが電柱と送電鉄塔の倒壊である。道路が難しければ、せめて河川の地下と堤防の利用をまず勧める。

 日本全体が災害によって壊滅することは、巨大隕石の衝突以外いまのところ考えられない。災害は時も場所も選ばない。日本は自然災害にさらされている。どこかがやられても他のどこかが残る。知恵を出し合って時間がかかっても、更に災害に強い国をつくるには、日本のどこからも被災地をバックアップできる体制の構築である。政争や国際紛争に明け暮れている場合ではない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台風15号と末梢血管外科受診

2019年09月10日 | Weblog

  7日土曜日、私は妻に「台風15号は関東を直撃するらしいから、明日は都内のホテルに泊まろう」と提案した。妻は「私を誰だと思ってるの。新幹線通勤10年以上している〇〇だぞ」と言わんばかりに「新幹線は在来線がとまってもとまらないから大丈夫。東日本大震災の時だってすぐ復旧して運転再開早かったでしょう。月曜日の朝、家から行きましょう」 妻はもちろん通勤で東京へ行く。私は9日の10時にお茶の水の東京医科歯科大学病院で末梢血管外科の外来診察を予約している。

  私はせっかちな性格の上、意外と慎重。妻は何事にも鷹揚で、出たとこ勝負タイプ。ましてや私は脚の膝から下の動脈が詰まって歩くことに支障がでてきている。今年の1月に心臓カテーテル手術でステントを入れた。その手術の前の検査で両脚の血管の狭窄が見つかった。悪化すれば脚を切断するようになるかもしれないので、後日、脚にもカテーテル手術でステントを入れると言われた。しかしその病院が理事長夫人の使い込みで破綻してしまった。信頼していたカテーテル手術の専門医の細川医師の手術が受けられなくなった。別の病院で長く私の糖尿病を診てくれている医師が東京医科歯科大学病院の末梢血管外科の受診を勧めてくれた。考えた末、電話で予約を入れた。9月9日午前10時に予約がとれた。

 8日朝から天気予報で台風15号が関東に上陸して甚大な被害が予想されると伝え始めた。JR東日本は、東京の路線の多くを9日始発から午前8時頃まで運休すると発表。気象庁も不要な外出を控えるようにと台風に備えて命を守るために万全の準備をするようにと勧告した。私は妻の説得にかかった。不承不承妻が私の前泊案に同意。さっそくネットでホテルを探した。7日にはお茶の水近辺のホテルが空いていたが、当日だったためか台風のためか候補ホテルはわずか3軒だった。半蔵門のホテルが取れた。家のベランダなど台風の風で吹き飛ばされないよう片付け、支度して駅に向かった。

 東京駅に着きホテルのチェックインまでに時間があったので昼食を取った。私は忘れていたが、妻が以前私の友人が旧東京中央郵便局の跡にできた商業施設「KITTE」の中の博物館が良かったと話したのでそこへ行ってみたいと言う。無料だった。ゆっくりそこを観覧した。とても台風に備えて前泊しようという雰囲気ではなかった。午後2時にチェックインしてホテルに入った。ホテルの近くには食堂やレストランもあった。風呂に入った。大相撲をテレビで観た。

 午前2時に目が覚めた。ホテルの防音対策のせいか、台風の気配を感じることはできなかった。再び寝てしまった。朝5時に起きた。さっそくテレビで台風の情報を見た。各地で被害が出ていた。東海道新幹線は始発から小田原―東京駅間が運休していた。私はしたり顔で妻に「ほらこういうことだよ」と言った。支度してホテルがパンを受付前で朝食として用意してあると言われていたのでどんなパンか見に行った。ついでにホテルの外の様子とすぐそばの地下鉄半蔵門線が動いているかも調べてきた。昨夜コンビニで買っておいたバナナとヨーグルトとホテルのパンで朝食を済ませた。

 チェックアウト時に近辺地図をもらった。地図を見ると、妻は歩いて勤務先の病院へ行けることがわかった。歩いて20分くらいらしい。私は地下鉄で神保町駅まで行き、歩いて東京医科歯科大学病院へ行った。病院には8時半ころ到着。その病院で診察を受けるのは初めてだった。ここの先代の病院長は上田高校の同窓生の宮坂信之君だった。彼の病院改革が功を奏したという話を聞いていたので、実際どうなのか興味があった。大学病院は、とにかく待たされる。宮坂前院長の改革の実際を体験できた。

 末梢血管外科での診察は、紹介状に添付された資料とデータをもとに問診された。現状ですぐにステントやバイパスの手術は必要なく経過を見ることになった。薬を処方され運動を続けるように言われた。支払いも早く終わり外に出た。暑かった。駅に行くと中央線がまだ運休。家に3時間かけて到着した。自然とは戦えない。病気と私は闘う。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

泣く女

2019年09月06日 | Weblog

  4日、東京の病院へ定期健診で行った。今回は糖尿病による両脚の膝から下の血管の狭窄を調べるABI(血圧脈波)検査も受ける。前回の検査から1日も休まずに30分間のウォーキングマシンと3分間のエアロバイク漕ぎを続けた。テレビの健康番組で紹介されたCALPISの『しなやかケア』も毎日欠かさず3錠、4カ月間飲んだ。だから検査の結果に改善がみられることを過大に期待していた。予約が10時25分だった。昨夜時刻表で予約に十分間に合う電車を見つけておいた。

 電車のベンチシートが嫌いだ。自分の前に人が立つと落ち着かない。だからボックスシートに座る。進行方向を向いた席の窓側に座った。藤沢駅で隣の男性が降り、女性が隣に座った。35~40歳くらいか。淡い赤のノースリーブ、黒いスラックスにローヒールの黒いパンプス。ハンドバッグから本を取り出して読み始めた。私は電車の中で本を読む人を見かけると嬉しくなる。携帯電話全盛の時代である。活字を追う人に親しみを持つ。私はその日、開高健の『葡萄酒色の夜明け』を読んでいた。

 横浜駅を出てしばらくすると隣の女性がしきりにハンカチを何度も目元に当て始めた。その日は暑くなく冷房も効いた車内、混んではいるが汗をかくほどではない。そのうちに女性は、肩を少し揺らすようになった。付くか付かないかの微妙な接点からその揺れが伝わった。どうやら女性、本を読みながら泣いているらしい。私は強い嫉妬心を抱いた。その本の著者に対して。そしてそういう本を見つけて読む女性に対して。本を読んで泣く。これほどの人間としての魂が震えるような動作仕草があるだろうか。本は活字である。著者によって書かれた文章を一字一字追って、自分の知性理性感性を総動員して著者からのメッセージを読み解く。まさに隣の女性は、その世界にどっぷり沈み込んでいた。

  最近、本屋で気になる本を見つけた。『本を読む人だけが手にするもの』藤原和博著 日本実業出版社 1512円(税込み)いつもの天邪鬼が顔を出し、密かに「どうせ、上級国民みたいな、こちら偉い人、そちら偉くない人みたいな事書いてあるに違いない」と思った。「成熟社会では自らの『幸福論』を自分で見つけていくしかない」 まず“成熟社会”にカチンと鋭く反応。今のこの日本が“成熟社会”?! ソフトバンクの孫さんが「日本は後進国」と言ったとか。私は日本が後進国とは思わないが成熟社会とも思わない。でも「幸福論」には興味があるし、自らの「幸福論」を確立させたいと願っている。序章は続く。…どうやって「それぞれ一人一人」の幸福論を築くか… これに反応した。本、購入。

 電車の中で“泣く女”。まるでピカソの絵の題だ。電車の中で泣く女性は、ピカソのデフォルメされた女性とは違う。美しい人だ。雰囲気も悪くない。私は藤原和博著『本を読む人だけが手にするもの』を思い出す。この女性、もしや「それぞれ一人一人の『幸福論』」を手に入れているのではないか。興味津々。まず女性が詠んでいる本の題名と著者を知りたくなった。私は本を読んでいるふりをして、目だけ女性が読んでいる本に焦点を合わせた。していた眼鏡は老眼鏡。30センチ先は万華鏡のような世界。メガネを外す。近眼の目に本はまるで蜃気楼。首に下げていた近視の眼鏡をかける。女性は、本にカバーをかけていた。知りたい。教えてくれ。何という本が、どの著者が貴女を泣かせるのか。聞けばいい。聞けない。小心者はいつも、ここ一番という時の行動が取れない。

 電車は新橋駅に到着。女性は何もなかったように本をカバンにしまった。立ち上がり葡萄酒色のカーディガンをはおり降りていった。ホームを早足で歩く女性の姿勢は、「私は本を読んで私の幸福論を手に入れた女よ」いうかのごとく背筋がピーンとしていた。

 気が付けば電車は10分近く遅れて東京駅に到着した。病院の予約に間に合わないかも。でもそんな心配より、電車の中の「泣く女」に何かとてもよいことを教えてもらったようなほんわかした気持ちになった。

 検査の結果は、前回より、さらに悪化していた。でも一人一人の『幸福論』には近づいた気がする。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あっ、セミが…。

2019年09月04日 | Weblog

 電車で出かけた。降りる駅に着いた。ドアの前に立った。私の前に女性。ふと彼女の背中に動くモノが!セミ?アブラゼミか。「待てよ」と過去の苦い経験を思い出した。

 東京で山手線の電車に乗っていた。築地の場外市場で友人と待ち合わせていた。新橋駅で降りようとドアの前に立った。女性が前にいた。彼女の背中にタバコがあって、その先端に火がついていて、その火がまるでタバコをふかしているように強く火照ったり弱くなったりしていた。私のお節介の計時針が振り切れた。女性に声をかけた。「背中に火が付いたタバコがついていますよ」 女性、私の足元から頭のてっぺんまで口をひん曲げながら見た。読唇術は知らないけれど、私の感性集音装置が作動した。「バァ~カァッ」と解読。女はプイッと向きを変え歩き出した。顔を横に戻す時、女の口角がさがったように見えた。

 帰宅してネットで「火が付いたタバコ」で検索した。あった。なんとブローチやイヤリングなど他人を驚かせ、突っ込みを期待してこのアクセサリーをつけるのだという。これをユーモアや、ふざけだと呼べるものだろうか。正直腹が立った。世の中には、こんなことで他人をバカにして喜ぶ輩がいるなんて。それにしても見事に引っかかる私が馬鹿なのか。

 女性の背中にセミを見つけた私は思った。火付きタバコの新しいドッキリなのだろうかと。それにしてもセミが動くブローチなんて作れるの?精度良すぎない。本物かも。私はまたぞろお節介感知器が作動したがあとちょっとの所でとどまった。ホームに降り立った。私を追い抜いて一人の女性がセミの女性に近づいた。「背中にセミがとまっていますよ」と女性に声をかけた。絶妙なタイミングと声の調子。さすがおばちゃんは違う。セミの女性、立ち止まった。おばちゃん、すかさず手でセミを振り払った。セミがホームの天井に舞い上がる。女性、「あら、ほんと。どうもありがとうございます」とおばちゃんに言った。おばちゃん、大きくうなずいた。百戦錬磨の余裕が全身にあふれかえっていた。

 結局、セミは本物だった。女性が知らないうちにどこかで背中にくっついただけのことだった。それを過去の苦い経験を思い出し、あれこれ考えているうちにおばちゃんに先を越された。セミがくっついたことで女性に何か危害が加えられというわけでもない。ただセミが女性の背中に止まっているのをおばちゃんはお節介で伝えたかったのであろう。言うなれば、私もおばちゃんも火のついたタバコのブローチをつけて誰かが突っ込んでくるのを待つ輩のいいカモなのだ。親切とお節介は紙一重なのかもしれない。

 帰宅して熱気がこもった部屋の空気を外の新鮮な風を入れて涼めようと窓を開けた。網戸を引いた。網戸にセミがとまっていた。7月は毎日雨が降り続いた。セミがまったく鳴かず、今年の夏はセミが出ないのかなと思った。住む集合住宅の庭はモグラが大発生していてあちこち押し出された土の山ができている。どうやらモグラがセミの幼虫を食べつくしたのではと思い始めていた。長い梅雨が明けると次は猛暑が襲った。それでも1週間ぐらいセミが鳴くこともなく静かだった。ところが8月に入ると狂ったようにあっちでもこっちでもセミが鳴き始めた。まるで今年の遅れを挽回しようとしているようだ。9月に入って、いまだにセミが散発的に鳴いている。モグラにセミの幼虫が食べつくされたのではと危惧していた自分が恥ずかしい。

 川の上にトンボがたくさん飛ぶようになった。秋の気配か、虫の鳴き声もだんだん大きく聴こえるようになった。自然のままが一番いい。火のついたタバコだろうが、もしあったとして動くセミのブローチがあったとしても、やはり自然のままがいい。騙して喜ぶより、騙されるほうが楽。できるだけ他人には親切でありたい。たとえ、それがお節介であっても。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あおり運転

2019年09月02日 | Weblog

  妻と箱根へドライブに行った。帰路、長い下り坂を緊張して運転していた。カーブが続く。後ろに車が急接近。近すぎる。悪魔が私の心で騒ぐ。「急ブレーキだよ。ぶつかったって、追突した方が悪い。さあブレーキを踏め」 あちらも悪魔が言っていることが聞こえたのか、車間距離を拡げた。カーブが終わったと思うとまたカーブ。後ろの軽トラックの運転手が見えた。軽トラックはフロントグラスの前にボンネットがない。その分、私の車に近い。だから車の中がよく見える。老人? またカーブ。遠心力に邪魔される。隣にも男。笑ってる。二人ともニタニタしている。作業服を着ている。運転しているのは60歳ぐらいか。癪に障る。私の様子を見て、妻が言った。「相手にしちゃだめよ。相手にして良いことなんか何もないよ」 天の声で私は正気に戻った。長い坂とカーブの連続が終わった。平坦な直線道路に入った。後ろの軽トラックは消えていた。

 私はカナダで運転免許を初めて取った。しかし車を持っていなかった。ただ学校の農場で農業用トラクターや収穫コンバインを運転した。道路ではない。広い小麦畑を行ったり来たりした。対向車はいない。隣の刈り取った跡の境界に沿って模様を描くように高低差のない所を進む。スピードも遅い。振動も半端ではなかった。

 日本に帰国してトヨタカローラのスプリンターを買った。決して模範的な運転者ではなかった。交通事故も何回か起こした。私が加害者だった。東京へ行く途中、大宮近辺の国道のバイパスが工事中で不注意で行き止まりのカーブであわや激突して死ぬかと思ったが間一髪で助かった。それ以来、少し慎重に運転するようになった。子供が生まれてからは、無茶はしなかった。あおり運転は未だかつてやったことがない。小心者なので他人とやりあうことを避けた。

 離婚して子供を二人私が育てた。車道楽はできなくなった。長男を全寮制の高校、娘をアメリカに行かせた。学費と毎月の仕送りが多額だった。車は廃車寸前の車検が1年未満の中古車を何台も乗り換えた。あおり運転など不可能。いつ動かなくなるかが心配だった。

 13年が経って、運命の出会いがあった。もう結婚は有り得ないと思っていた。長男が大学を卒業して長女もアメリカの大学に入学した。44歳で再婚した。

  妻の仕事の関係で私は自分の事業を閉じて海外赴任に同行した。カナダでの経験が役立った。今までの経験が役に立たなかったのが運転だった。ネパールでの運転は早々にあきらめた。運転手を雇った。住んだカトマンズの交通事情は、道路そのもののインフラ整備が整っていなかった。信号もない。道路は歩行者が一番多い。荷車、インドのTATA製の3輪タクシー“テンプ―”、タクシー、バス、自家用車。さらにそこに神聖なる牛が加わる。カースト制度が色濃く残っていて、運転にもそれが影響していた。運転マナーというより、人々の「俺が俺が」の考え方が優先していた。峠道の狭い上下2車線の道路では無謀な追い越しで渋滞して前にも後ろにも進めなくなる。

  アフリカのセネガルでは、まだ自動車の普及がそれほどでもなく、道路も空いていた。無茶な運転が多かったが、あおり運転のような危険な運転は見られなかった。

  次の旧ユーゴスラビアでは国連による経済封鎖の影響でガソリンが不足していた。それでもヨーロッパの影響なのか運転マナーも良かった。ただスピード狂が時々見受けられた。私もその一人だった。

  チュニジアでは雇った運転手が運転する車に乗っていて、大きな事故に遭い、肋骨を折った。ネパールと同様、自分で運転できる状況ではなかった。チュニジアで走っている車のほとんどが既に現在最先端装備であるミラーレスだった。接触してサイドミラーがもぎ取られるのである。私の車もチュニジアに移って1カ月たたないうちに、サイドミラーが他車に接触されて路面に転がった。日本なら当て逃げでもチュニジアでは日常茶飯事なのだ。あおり運転を通り越した体当たり運転である。

  ロシアのサハリンでも運転手を雇った。道路事情と防犯のためだった。

  あおり運転はどこの国にもある。人間には、まだ動物に近かった時の自分の縄張り意識が残っているのかもしれない。原始からの意識を温存したまま、車という文明利器を手に入れてしまった。車は要塞でもある。車に乗り込めば、一国一城の主の気分にさせてくれる。この文明の利器、どんどん性能を良くなっている。愚かな人間は、まるで自らこの文明の利器を造り出したかのように振舞う。ただ購入して所有しているだけなのに。勘違いしているのだ。挙句の果てに江戸時代の将軍のような気分になって、そこのけそこのけ俺様が通ると無謀運転を始める。そんな輩に運悪く遭遇したら、頭に血をのぼらせないことである。妻の「相手にしちゃだめよ。相手にして良いことなんか何もないよ」の声が私の悪魔の誘いを抑え込む。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする