滋賀県大津市の中学2年生の自殺をきっかけに苛め問題に注目が集っている。
私は苛めを受けたこともあるが、苛めをしたこともある。苛めをしてしまったことは、思い出したくもない自分の拭いがたい恥である。さらに苛めをしていた自分が、ある種の快感を持ったという隠しようのない自覚は、いまでも私を苦しめる。卑劣にも自分より常に弱い立場の人をわざわざ選んでいた。それ以前の過去に自分が受けた苛めを転嫁することによる一種の復讐であった。苛められた人にはいい迷惑だったと反省する。私自身が人間として、ヘナチョコである証しである。
個人的見解であるが、男の子の苛めはテストステロンによる動物本能のむき出しだと思う。個人の中に巣くう競争本能がなす術であると。そう考える根拠がある。苛めが小中高の年代に多いことだ。動物のオスは、テストステロンの分泌がさかんになることによって、子孫を残そうとするオス同士の熾烈な闘争心に火がつけられる。それが暴力志向と結びつくこともある。年齢を重ねるほどに苛めに過度に反応しなくなる。生殖能力の衰えに関係するらしい。
以前、前立腺を患い、治療の一環としてテストステロンの注射を受けた。最初の注射だけだが、欲望中枢を引っ掻き回され、過剰ともいえる反応に悶々とさせられた。あの時のことを考えると苛められるおとなしい子にこのような注射治療も効果があるかもしれない。これからの医学的研究に期待したい。
動物は、弱肉強食の世界に身を置く。強いものだけが弱いものを退けて、メスと交配して子孫を残す。だが人間には言葉が備わってしまった。動物の生死を賭けた暴力闘争から人間となって言葉を攻撃の手段に加えたことで、より巧妙かつ陰湿になった。動物に苛めはない。喰うか喰われるか、殺すか殺されるかのどちらかである。
友人に聞いた話である。彼は中学生の時、3人の不良から苛めを受けた。彼の父親は日頃、彼にこんなことを指南していたという。「お前のチンチは立派だ。もちろん父さんよりずっとだ。これから先、苛められたり男と男の争いで不利に立ったら、相手とサシで勝負しろ。だいたいワルはつるんだり群れないと何もできやしない。そういう時は1対1でチンチの立派さで勝負をつけようと申し込め。だいたいの男は自分のイチモツに手前勝手に劣等感を持つ。苛めたりワルやるような連中はヘナチンだから。お前ならきっと勝てる。憶えておけ」 何と凄い助言だ。見上げた父親である。私がこう言われることは絶対ないが、万が一言われたとしたら、自信が湧いただろう。敵が彼より立派だったらどうなったんだろうとも心配した。オスは目的完遂のために賭けに出なければならないこともある。幸いなことに友人は、それ以来苛めやワルにからまれることがなくなったという。この事実は、私に底なしの劣等感を彼に対して植え付けた。このような対策もあるのだ。誰にでも長所短所も得意不得意もある。闘う分野はいくらでもある。生き残るには、策を練る賢さも必要だ。
男と女の苛めは、異質である。男の苛めは男性ホルモン、テストステロンの影響とみるが、女の苛めは、本来オスに子孫を残すために選んでもらおう、選ぼうとする本能の吐露のようにみえる。エストロゲンという女性ホルモンがある。私はこのエストロゲンが女の苛めの源だと考える。女は女で自分が男に選ばれるために他の女を淘汰排除しようと活発に働くのではないだろうか。男にしても女にしても、10代でホルモンは本格的な生殖に向けて、擬似演習を繰り返す。
ただ動物的本能だけで行動するなら苛めは有りえない。そこに言葉が加わったことで更に複雑怪奇にした。人間だれでも他の人間から尊敬され、認められ、褒められ、チヤホヤされる人気者でありたい願望を持つ。最たる苛めは無視だという。存在を消されたように扱われることだ。つまり言葉が交わされない。まさに動物と同等の状況になる。存亡をかけて、死闘をはたすならともかく、人間に喰うか喰われるかの必然性はない。だれの中にも強弱は別にして、異性の伴侶を得て子孫を残そうとする曖昧模糊な動物的本能がある。仲間はずれは、子孫を残す相手異性の獲得競争から一人でも二人でも外そうとする行為に思えて仕方がない。またそれは獲得競争と自分の生き残り競争の訓練実習にも思える。個人の成長には時間差がある。苛めの多くは、現場の空気で発生する。空気とは、その場その時の個人が醸し出すホルモンの叫びで決まるようだ。
どこの国にも苛めはある。苛めは人間の本能に違いない。苛めは確実に差別とも連鎖する。私も海外で多くのアジア人、黄色人種、敗戦国国民としての差別を満遍なく深く浅く広く受けた。苛めは、すべて人間の中にある“生き残ろう。自分の子孫を残そう”というホルモンや本能の化学反応だと私は理解する。ホルモンであろうが本能的衝動であろうが、己の動物的領域を管理制御可能なのが人間の気高い教養だと思う。それこそ教育といういい意味の洗脳ではないだろうか。
鎌倉市の円覚寺の一隅に掲げられた言葉:気配り、目配り、手配りこそ教養、に鍵がある。気配りがあれば、苛める相手の立場を尊重できる。目配りがあれば、苛められている人の変化に気がつく。手配りがあれば、暴力を押さえ込み、励ましの手を差し伸べられる。それを学び会得するのが教育であり躾である。監督省庁、学校、教育委員会、保護者会、両親、家族、教師、生徒、地域住民、マスコミ全員に真の教養が欠けていた。動物である面を合わせ持つ人間だからこそ、教養を高め自らを御すしかない。苛めで自らの命を絶たせることのないように、他人の危機を見抜いて、教養という羊水で包んで,人によってバラバラな成長や成熟を助け、見守ってこそ人間である。