団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

幻想 真夏の夜の手筒花火

2012年07月31日 | Weblog

 7月22日、住む町で「海上花火大会」があった。心を空っぽにして楽しんだ。

 花火、スイカ、何か足りないと思っていた矢先、聞こえてきたのが「ミーンミンミン」のミンミンゼミだった。うるさいし、暑さを煽られるような音だが、やはり夏には欠かせない。ベランダの赤と白のゼラニウムへのカラスアゲハ、アオスジアゲハの訪れも頻繁だ。30日の夜、家の灯り目指して、立派なクワガタが網戸に張り付いた。キュウリを食べさせて、山に戻した。この猛暑でも昆虫は元気だ。普通に生きている昆虫に学ぶこと大である。。

 去年の計画停電や節電の延長で、今年の猛暑にもエアコンをほとんど使わない。ただ駆け込み部屋と称して、どうにも我慢できなくなったら逃げ込める場所は確保してエアコンをいつでも使える状態にしている。水分は冷やしたスイカジュースを大きなグラスで一日3回飲む。塩分補給として小分けされたチーズをお茶代わりに午前午後に一個食べる。窓という窓を開け、網戸にしている。以前猿軍団に網戸を手で開けられて侵入されたので、防犯用の網戸とサッシを固定具でそれぞれの窓に取り付け開閉できないようにしてある。家を出るたびに、この取り付け取り外し作業をする。時間もかかるし、面倒くさいと思う。しかし、猿も泥棒も忍耐強くこちらのスキを覗う。後悔するより、どんなに面倒でも出来うる限りの防犯作業を怠らないようにしている。治安の悪い海外での生活は、私を臆病にもさせたが、用心深くもしてくれた。暑い日は窓を開け放し、防犯上、できるだけ外出しないで家を守っている。

 28日には「手筒花火大会」が開催された。このところ続く高温に汗ばみながら観る花火はいい。特に「手筒花火」は生まれて初めて目の前で実際に観ることができた。豪快な打ち上げ花火や仕掛け花火と違い、男性花火師が両腕で筒を抱え持ち、火の粉を浴びながら10メートルぐらい運ぶ。火薬もそれくらいしか持たないが、いい花火だ。華やかな色とりどりの花火ではないが、暗闇で火を噴く手筒、花火の光に浮かび上がるハッピ姿の運ぶ花火師の影、わずか何十秒という短い時間だが、遠い日本の昔に戻ったようだった。

 高温多湿な不快な日本の夏、それなりに日本人はその過し方を身につけ、楽しむことも忘れない。手筒花火が500年以上も続いているのもその証明だ。ハレとケの絶妙なバランスこそ日本の庶民の強さにもなっていると教えられた。写真:手筒花火


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イジメ

2012年07月27日 | Weblog

 滋賀県大津市の中学2年生の自殺をきっかけに苛め問題に注目が集っている。

 私は苛めを受けたこともあるが、苛めをしたこともある。苛めをしてしまったことは、思い出したくもない自分の拭いがたい恥である。さらに苛めをしていた自分が、ある種の快感を持ったという隠しようのない自覚は、いまでも私を苦しめる。卑劣にも自分より常に弱い立場の人をわざわざ選んでいた。それ以前の過去に自分が受けた苛めを転嫁することによる一種の復讐であった。苛められた人にはいい迷惑だったと反省する。私自身が人間として、ヘナチョコである証しである。

 個人的見解であるが、男の子の苛めはテストステロンによる動物本能のむき出しだと思う。個人の中に巣くう競争本能がなす術であると。そう考える根拠がある。苛めが小中高の年代に多いことだ。動物のオスは、テストステロンの分泌がさかんになることによって、子孫を残そうとするオス同士の熾烈な闘争心に火がつけられる。それが暴力志向と結びつくこともある。年齢を重ねるほどに苛めに過度に反応しなくなる。生殖能力の衰えに関係するらしい。

 以前、前立腺を患い、治療の一環としてテストステロンの注射を受けた。最初の注射だけだが、欲望中枢を引っ掻き回され、過剰ともいえる反応に悶々とさせられた。あの時のことを考えると苛められるおとなしい子にこのような注射治療も効果があるかもしれない。これからの医学的研究に期待したい。

 動物は、弱肉強食の世界に身を置く。強いものだけが弱いものを退けて、メスと交配して子孫を残す。だが人間には言葉が備わってしまった。動物の生死を賭けた暴力闘争から人間となって言葉を攻撃の手段に加えたことで、より巧妙かつ陰湿になった。動物に苛めはない。喰うか喰われるか、殺すか殺されるかのどちらかである。

 友人に聞いた話である。彼は中学生の時、3人の不良から苛めを受けた。彼の父親は日頃、彼にこんなことを指南していたという。「お前のチンチは立派だ。もちろん父さんよりずっとだ。これから先、苛められたり男と男の争いで不利に立ったら、相手とサシで勝負しろ。だいたいワルはつるんだり群れないと何もできやしない。そういう時は1対1でチンチの立派さで勝負をつけようと申し込め。だいたいの男は自分のイチモツに手前勝手に劣等感を持つ。苛めたりワルやるような連中はヘナチンだから。お前ならきっと勝てる。憶えておけ」 何と凄い助言だ。見上げた父親である。私がこう言われることは絶対ないが、万が一言われたとしたら、自信が湧いただろう。敵が彼より立派だったらどうなったんだろうとも心配した。オスは目的完遂のために賭けに出なければならないこともある。幸いなことに友人は、それ以来苛めやワルにからまれることがなくなったという。この事実は、私に底なしの劣等感を彼に対して植え付けた。このような対策もあるのだ。誰にでも長所短所も得意不得意もある。闘う分野はいくらでもある。生き残るには、策を練る賢さも必要だ。

 男と女の苛めは、異質である。男の苛めは男性ホルモン、テストステロンの影響とみるが、女の苛めは、本来オスに子孫を残すために選んでもらおう、選ぼうとする本能の吐露のようにみえる。エストロゲンという女性ホルモンがある。私はこのエストロゲンが女の苛めの源だと考える。女は女で自分が男に選ばれるために他の女を淘汰排除しようと活発に働くのではないだろうか。男にしても女にしても、10代でホルモンは本格的な生殖に向けて、擬似演習を繰り返す。

 ただ動物的本能だけで行動するなら苛めは有りえない。そこに言葉が加わったことで更に複雑怪奇にした。人間だれでも他の人間から尊敬され、認められ、褒められ、チヤホヤされる人気者でありたい願望を持つ。最たる苛めは無視だという。存在を消されたように扱われることだ。つまり言葉が交わされない。まさに動物と同等の状況になる。存亡をかけて、死闘をはたすならともかく、人間に喰うか喰われるかの必然性はない。だれの中にも強弱は別にして、異性の伴侶を得て子孫を残そうとする曖昧模糊な動物的本能がある。仲間はずれは、子孫を残す相手異性の獲得競争から一人でも二人でも外そうとする行為に思えて仕方がない。またそれは獲得競争と自分の生き残り競争の訓練実習にも思える。個人の成長には時間差がある。苛めの多くは、現場の空気で発生する。空気とは、その場その時の個人が醸し出すホルモンの叫びで決まるようだ。

 どこの国にも苛めはある。苛めは人間の本能に違いない。苛めは確実に差別とも連鎖する。私も海外で多くのアジア人、黄色人種、敗戦国国民としての差別を満遍なく深く浅く広く受けた。苛めは、すべて人間の中にある“生き残ろう。自分の子孫を残そう”というホルモンや本能の化学反応だと私は理解する。ホルモンであろうが本能的衝動であろうが、己の動物的領域を管理制御可能なのが人間の気高い教養だと思う。それこそ教育といういい意味の洗脳ではないだろうか。

 鎌倉市の円覚寺の一隅に掲げられた言葉:気配り、目配り、手配りこそ教養、に鍵がある。気配りがあれば、苛める相手の立場を尊重できる。目配りがあれば、苛められている人の変化に気がつく。手配りがあれば、暴力を押さえ込み、励ましの手を差し伸べられる。それを学び会得するのが教育であり躾である。監督省庁、学校、教育委員会、保護者会、両親、家族、教師、生徒、地域住民、マスコミ全員に真の教養が欠けていた。動物である面を合わせ持つ人間だからこそ、教養を高め自らを御すしかない。苛めで自らの命を絶たせることのないように、他人の危機を見抜いて、教養という羊水で包んで,人によってバラバラな成長や成熟を助け、見守って
こそ人間である。


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キラキラネーム『国民の生活を第一に考える党』

2012年07月25日 | Weblog

 民主党から分裂して新党を結成した小沢一郎さんたちが、次の党名を『国民の生活を一番に考える党』と聞いてあきれた。国民を馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。歌手の宇多田ヒカルさんが自身のツイッターでこの政党名に関して「ついに政党の名前にもキラキラネームきたか」と皮肉をこめて書いた。(キラキラネームとは個性的な名前を肯定的に考える人が使う呼び方) 政党の名前にまで軽薄短小で俗悪な風潮が押し寄せてきたようだ。

 私は日本の国民の多くは、まじめに健気に国民を勤めていると誇りに思っている。世界でもとびきり一流の国民だ。その証明は、平均家庭の家計の健全性に表れている。勤勉で納税、貯蓄に努め、子供の教育に熱心である。この国民性があるからこそ適性、能力がない国会議員でも先生ヅラして、務まるはずのない大臣などの要職に鎮座していられるのである。ところが真面目な納税する国民をさておき、バラマキは何とか悪知恵働かして掠め取ろうとするヤカラに手厚く配分されてしまう。

 小沢さんたちは、国民に対して余計な心配をせずに国家のことだけ考えていればいい。国会議員は選挙によって国民が願いを託し代表として国会に派遣されている。だから民意、国民と騒がず、堂々と代議員の誇りを持って、政策の起案、立法、実践に邁進して欲しい。代表となった者の責務である。おのずと何かと日々の生活に追われる国民と国会議員とでは持ち場が異なる。国家とは、確定された境界線内の国土に築かれている。その領土以内に生活するのが国民である。国家は憲法によって統治される。国家は立法、司法、行政の3権分立とされる。持ち割り分担の徹底をわきまえ、邪念雑念をかなぐり捨てて仕事に邁進して欲しい。

 哲学者 適菜 収さんが新聞に「政治家がやるべき仕事はただ一つ。議会で議論することである。移ろいやすい民意、熱しやすい世論から距離を置き、過去と未来に責任を持ち、冷静な判断を下すことである」と書いている。日本の現状は逆転現象をますます強めている。まるで国民が落語の大家さんのように公ごとに対して常識的で、政治屋や官僚が八五郎熊五郎のように俗っぽい。仕事の分担から言えば、政治屋は政治家、つまり領土、人民を統治するための法律に関わる人であり、官僚は公僕である。しかし両者とも何もかもを面倒くさがり、無責任で、イイカゲンで、無難さだけが先行する。

 国会中継を観ていると、議員閣僚だれもが「国民」「民意」「きちっと」「しっかり」のニセのキラキラ言葉の連呼である。当然選挙を意識してだと思うが、多くの議員はそうすることが結果、国民を見下していることに気がついていない。

 日本のどの分野にもプロが少なくなった。プロというのは、自分の活躍の領分陣地をわきまえて、その中で自分の能力を切磋琢磨して働く者である。

 ラジオニッポン放送に「なりきり川柳」という人気コーナーがある。「国民の生活が第一」とほざく国会議員になりきって詠みました:「国民と書いて 自分と読むんだぜ!」 横浜市南区 ラジオネームyebisuさん 40歳 男性が投稿した。上手い。可笑しい。悲しい。小沢さんの党名は正直に『国会議員の政闘ゲームを第一に考える党』とするべきだった。それでこそ、まことなキラキラネームとなる。


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オスプレイ

2012年07月23日 | Weblog

 テレビ画面に映し出された米軍の垂直離着陸輸送機オスプレイを見た。これってヘリコプターなの、それとも飛行機なの。プロペラを垂直に立てて飛ぶ姿を見ていまは亡きロケット博士糸川英夫を思い出した。

 長野県の丸子町に博士は住んでいた。丸子町国際音楽村がある高台に造成された一画に古民家を移築した大きな家だった。ある日その家で、博士が昏倒した。事は急を要した。松本にある信州大学医学部付属病院に搬送されることが決まり、救急ヘリが要請された。博士の意識が戻った。「いまヘリコプターで松本の信大病院へ行きます」との説明を受けて、博士は「やめて下さい。私はヘリコプターに乗りません」と言ったという話を一時快復された博士から直接お見舞いに行って聞いた。

 以前、博士から飛行体の中で最も不安定かつ信頼できないのがヘリコプター、という内容の講演を聞いたこともある。だから博士はヘリコプターに乗らない、とも言った。自分の緊急事態にでさえ、その主張を曲げなかった。私は航空工学のことはまったく無縁な者である。しかし、博士のこの話から、小心者の私は、いままでにヘリコプターに乗る機会は、5回あったが一度も乗ったことがない。

 ちょうど今読んでいる『ヒマラヤの黄金人を追え』(クライブ・カッスラー著 ソフトバンク文庫 600円+税)の下巻274ページにこんな記述があった。“「死の罠?」「世間一般にはヘリコプターと呼ばれていますが」” つまりこの物語の登場人物は、ヘリコプターに搭乗することを怖れているのである。その点糸川博士と同じだ。

 さらにオスプレイは飛行機とヘリコプターを合わせた機能を持つ。私の妻は便利グッズを嫌う。私は東急ハンズなどでこの便利グッズを探すことが大好きである。妻は特にある機能と別の機能を合わせたグッズを忌み嫌う。理由は何事にも一時的な簡素化は、重大かつ深刻な問題を結果としてもたらすが持論である。「単純明快さに優るものなし」の観点からみれば、ヘリコプターと飛行機の良い所を合体させたオスプレイには、解決されていない問題があるようだ。

 オスプレイは軍事的には、夢の兵器だという。飛行機にはどうしても滑走路がいる。しかしオスプレイは垂直離着陸できるので滑走路がないところにも軍事展開可能である。これはアメリカ軍にとって作戦上有利になる。危険を侵しても実戦に向け配備したいのは明白である。国家の防衛を同盟国アメリカに委託依存する、戦争を放棄させられた国の住民と実戦職業軍人は物事のとらえ方がまったく違う。「武士道といふは死ぬこととみつけたり」ではないけれど、オスプレイを操縦したり搭乗するアメリカ軍の軍人に恐怖心はないのだろうか。おそらくオスプレイに関係する軍人は、母国のために死する覚悟を持っているか、どんな不具合な兵器であれ己の卓越した才能と技術で、その欠点を克服してでも自分の管理操縦にくみふせる自信を持っているかのどちらかであろう。

 日本人の多くは「再び戦争をして負けるなら、最初から戦いを避けたほうが賢明だ」と考えている。物質的には恵まれ飢餓とも無縁、その代償として人心の荒廃退化を招いた。民主主義とは誰もの意見感情を傷つけない公平平等な思想だと定義づけるに至った。よって何事も結果が出せず、言いたい放題言われ放題の不毛な話し合いせめぎ会いに時間をかけ、結論を先送りしてきた。自国の防衛を同盟という脆弱な、まるで金だけで続く金持ちと愛人のような関係にしてしまった。

 私はオスプレイのことをそれが軍用兵器であるという以外知らない。しかし戦争は勝つために手段を選ばないことを知っている。過去の幾多の戦争が人類に数多くの技術革新をもたらしたことも知っている。日本がずっとほったらかしにして、他国の気まぐれに任せてきた自国の防衛問題の指針を持つことなく、オスプレイを論じても滑稽でしかない。尖閣諸島、竹島、北方4島、どの領土も平和的法的話し合いで守ったり返還されると信じているなら、オメデタイというしかない。オスプレイの配備以前に、その重要機密の手の内をすべて敵にさらけ出す日本という国家に、すでに戦争をする能力はない。

 ならば戦争以外に、喰うか喰われるかの侵略占領を逃れる手立てを見つけなければならない。つまり国家の運営自体を、オスプレイのように、混迷の状況から垂直離脱して上昇して、安定した平行飛行に保てるような知恵、常識、道徳を持つことだ。待ったなしの危機脱出、日本にまず必要なのは、武器でなく人材と人心であることは明白である。糸川博士が提唱した“逆転の発想”を試みよう。出でよ、救国の人間オスプレイたち。


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意見聴取会

2012年07月20日 | Weblog

 15日の夕方、政府の今後のエネルギー・環境政策に関する第二回意見聴取会を仙台で開いたニュースをテレビで観た。とてもお粗末で観ていられなかった。なぜ東北電力社員の話を黙って聴けないのか。誰にでも意見を言う権利はある。そこにあったのは、感情だけで議論の鉄則が欠落していた。

 日本の学校教育に欠けているのは、ディベート教育であると私は思う。多くの国々の私の友人知人も日本の政府、会社、団体とのあらゆる会議に幻滅失望すると言う。時間ばかりかけて、責任ある意見考えが出てこないばかりでなく、結論のでない不思議な会議ばかりだと嘆く。普段普通に喋れる人でも会議になると突然口下手になり、意味不明な発言をする。私たちの多くが、会議を多く持つことが、公正公平で民主的だと思い込んでいる。確かに、世界には会議さえ開かず、独裁的に物事が決められてしまう国々が多い中、日本の無意味で効果のうすい会議でも無いよりはましだ。あとは、会議の内容を進化させるだけだ。

 私は十代後半から学んだカナダの学校で一番役に立ったのは、ディベートのクラスだったと断言できる。いまでも忘れないのは、社会科のクラスで「アメリカが広島と長崎に原爆を落としたのは是か否か」のディベートだった。クラスを肯定派と否定派に2分する。ディベートは言葉の競技なので、必ず勝敗が審判つまり担当教師教授の裁定が下される。これだけで終ったならディベートのクラスが私の心をとらえることはなかった。なんとディベートには続きがある。1回目の勝敗がつくと、次は肯定派と否定派を交代する。ここが凄いのである。昨日まで反対意見を述べた者が今度は賛成意見を述べる。私が最も感銘を受けたのは、意見を発表する以前の準備過程である。

 このディベート教育を活用すれば、滋賀県大津市で起きた苛めによる中学2年の男子生徒問題も起こらなかった事件である。生徒を“苛める側”と”苛められる側”に2分する。双方が徹底的に英知を結集して議論する。そして立場を替えて再び議論する。教育委員会でも学校でも教師でも保護者会でもマスコミにもできない、また無責任なアンケートでも浮かび上がらなかった、苛めの本性が、生徒自らのの手で生徒の心に突き刺さったに違いない。

 人間が能力を発揮できるのは、寄り集まって知恵をしぼりひとつの目的に進むときである。カナダの学校で24人のクラスが二つに分かれ、12人ずつのチームとなった。12人がそれぞれ資料集めから始める。歴史、文書から宗教関係者、家族、友人知人からの意見聞き取り収集など。そしてそれを持ち寄り3段論法に照らして、チームの考えを集めた資料から引用したりたたき台にして絞り込んでいく。最後に意見を述べる代表を選出する。選出される生徒は、聴衆受けする声、話し方に優れる。ここまでくると芸術である。代表に全てを託し、聴衆になった生徒は、チームから離れ、一個人として聞くことに徹する。審判は教師か教授だけである。日本の討論テレビ番組でも公聴会でも司会者が討論を壊している場合が多い。ディベートに司会者がいないのも魅力だ。

 日本にディベートが受け入れられなかったのは、封建制度の影響であろう。いまだに国会議員などあらゆる選挙で投票の基準は、地縁、血縁、組織、団体などの帰属主義である。身分制度の上下関係は、上の者が下の者に有無を言わせない。上の身分の者にとって口の達者な下々は、厄介者でしかない。その点では、奴隷制度において奴隷に教育を骨抜きして、隷従を強いる方法に似ている。その効果はいまだに日本人の多くに残存していると思われる。

 テレビにも討論番組と評する番組が数多くある。しかし感情的に声を荒げるか主たる出演者をヨイショするしかないクダライ討論だ。ありとあらゆる馬鹿げた番組を作成する天才的テレビプロデューサーのひとりでもいいから、近い将来テレビ討論番組でディベートを取り入れた知的番組を制作放送して欲しい。

 ニュースで観る日本の公聴会は、感情論とヤジばかりが先行する。討論は感情的になったらできるものではない。DVDで『グレート・ディベーター栄光の教室』デンゼル・ワシントン監督主演がある。観てほしい。日本の政治屋が英語を話せなくてもいい。国際的なマナーに疎くてもいい。彼らが堂々と日本語で話しても、研ぎ澄まされたディベート精神で正義を語り、真実を追究する態度を示せば、国民はもちろん、世界の良心は必ず耳を傾ける。


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西瓜ジュース

2012年07月18日 | Weblog

 大阪からの客人を案内して箱根、伊豆半島をめぐるドライブに行った。途中、静岡県田方郡函南町平井で西瓜農家の販売所に寄った。何百個もの西瓜が並んでいた。その中にひと際大きく形がいびつな西瓜が目に飛び込んだ。値段を見て驚いた。大きさから言って8000円でも驚かないくらいでかい。ゼロがひとつ少ない800円だった。私の頭に「西瓜ジュース」と閃いた。

 私は妻から「あなたはなんでも大きくて重いモノが好きね」とよく言われる。海外で買い集めて日本に持ち帰ってきたものには、確かに大きくて重いモノがおおい。セネガルの石の彫刻、ユーゴスラビアの樫のテーブル、モロッコの化石のテーブル。私は大きくて重いモノが好きなのではない。強いて言うなら買って持ち運ぶことを厭わないだけだ。しかし親子と云えども、考えが違う。孫たちに西瓜を食べさせたくて、宅急便で平井の西瓜を送っても、あまり喜ばれない。おそらくあまりの大きさ重さに閉口するのだろう。また丸ごとの西瓜を包丁で切るのも大変だ。

 西瓜農家の夫婦は口をそろえて「そうだ、これなら西瓜ジュースにぴったりですよ」と言う。金色に地に漆黒の印字で自慢のブランド「平井西瓜」のシールが張られていない西瓜を指差す。2000円から5000円くらいまでのシールが貼ってある西瓜は、夫婦どちらもやたらに「ポンポンパシパシ」と手のひらで叩き音を自分でも満足そうに聞きほれ、客にも聞かせる。しかし800円のシールの貼ってある西瓜を叩くことはなかった。それは家に帰って、築地「有次」のマグロ用大包丁で真っ二つに切ったときその理由が判明したのだが。

 2500円の金色のシールが貼ってある西瓜と2500円の西瓜の1,5倍以上800円の10キロを超す西瓜を買うことにした。フルーツ屋で買えば、新聞や特製のパッキンで固定してダンボールの箱にでも入れてくれるのだろうけれど、簡素に赤と白のビニールヒモでできた西瓜用の荒い目のネットに入れてくれ、ダンナさんが両手に一個ずつ持って、車のトランクに運んでくれた。

 客人が大阪への帰路についた後、家で西瓜のジュース作りをした。包丁で切るとき、「もしかしたら中に桃太郎のような西瓜太郎が出てくるかも」と思いながら一気に包丁をまな板まで押し降ろした。パッカンと二つに分かれドデンゴロンとまな板から外れた西瓜の中は見事な鍾乳洞状態であった。あの夫婦が西瓜を「トントン」と叩かなかった理由が解けた。叩けばきっと「ポーンポンポコポコ」とでも鍾乳洞が反響して鳴ったであろう。それでも味はよかった。ガーゼに大スプーンで掬い取った西瓜を種ごと入れ、しっかり石鹸で綿密に洗った両手で絞った。握力がないのが幸いして、搾ったあとの西瓜かすにも適度な水分が残った。あちこちに薄赤い汁を飛ばしながら約1時間で約5リットルの西瓜ジュースを採った。

 搾りかすをそのまま捨てることはしない。貴重な食物繊維だ。私はアメリカのクラフト社の『JELL-O』の西瓜味のゼリーで種を除いた西瓜の搾りかすを固め、デザートにする。こうして約2時間かけて、平井の西瓜農家が手塩にかけて育てた800円の巨大西瓜を下ごしらえした。Tシャツとしゃれトコ(ステテコの半ズボン版)の色を変えるほど汚した。しばらくの間、冷蔵庫で冷えされた西瓜ジュースを楽しめる。ユーゴスラビアやチュニジアで日本の10分の1より安かった巨大西瓜をよくジュースにした。砂漠で飲む冷えた西瓜ジュースもいいが、日本の湿気たっぷりの夏、風呂上りに飲む冷えた西瓜ジュースも旨い。


 7月17日猛暑日になった。冷蔵庫から冷えた西瓜ジュースを出して、大きなグラスに注ぎ、塩を少し入れ飲んだ。旨かった。
いよいよ夏本番。それぞれの季節、色々とりどりの旬を楽しめる日本は素晴らしい国である。


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大規模ショッピングセンター

2012年07月12日 | Weblog

 

 辻堂に新しく出来た「テラスモール湘南」へ妻が行きたいと言った。新聞の折込みチラシを見たらしい。出不精であまり外に出たがらない妻がどこかへ行きたいと言えば、できるだけ要望に答えるようにしている。土曜日電車に乗って出かけた。今まで辻堂の駅に降りたことはなかった。「テラスモール湘南」は、駅からすぐの便利な場所だった。

 二人で1時間ほど施設内を歩いた。がっかりした。あれだけの大規模な立派なショッピングモールなのに私の期待はずれだった。まず印象としてショッピングモール独特の熱気がまったく感じられない。冷たい雰囲気、というか、我関せずの、しらーっとした空気が充満していた。その冷たさは、ショッピングモール運営会社の出店業者の選抜からきているのだろう。何より基準に信用と実績を優先させている。それは運営会社の事情であって、客の事情ではない。日本の大企業は、自社が利益を上げられなければ、さっさと退却してしまう。結果出店しているのは、チェーン展開してグループ内で利益が出せるか最悪収支トントンに管理できる営業である。つまりショッピングセンターの運営会社は“とりぱっぐれのない”出店しか認めない。結果、どこにでもある当たり障りのない、経営が安定している有名な店ばかりになってしまう。買い物の楽しみは、これで半減する。それと洋品店が多すぎる。

 鎌倉の小町通り界隈、横浜の元町界隈、京都の錦市場、神戸の三宮界隈は参考になる。個人か小規模商店が多く軒を並べる。通りに賑わいがあり、歩いているだけでも楽しい。買い物は宝探しだと私は考える。買いたいモノを探し出せるかがショッピングモールには必須条件である。特色ある店、例えばハト時計だけの店、男性の着物、作務衣だけを扱う店、本屋なら、図鑑という図鑑を世界中から集める。プラモデルの店なら飛行機会社別に全機種、日本の鉄道の列車、世界で市販されている自動車を並べる。いろいろな国の便利で実用的な料理道具を集める。化粧品関係でも、髪に関するモノ、ブラシ、クシ、整髪剤を集める。理想は、売る店の経営者の個性、こだわり、創意工夫が、買う者の共感や感性と化学反応を起こして購入となる。

 ならば食べる店はどうかと探った。フードコートなる場所があった。しかしそこも運営会社の優等生ぶりがいかんなくなく発揮されている。全体的にこのモールに漂う冷たさは、秀才や優等生がかもしだす雰囲気なのである。フードコートをレストランにしようとすれば、フードコートの良さは消えてしまう。フードコートに出店しているのもほとんどが有名チェーン店である。これではどこで食べても同じである。フードコートは簡易に食事ができる屋台村やB級グルメ全国大会の“のり”がいい。日本はいかなることにも役所が規制をかけてくる。おそらくこのショッピングモールのフードコートにも保健所が厳しい監視の目を注いでいるに違いない。世の中の仕組みは、銀行が資金を必要のない金持ちに融資したがるように、いらないところにがんじがらめに規制をかけてくる。これだけの規模の大ショッピングモールだが、その魅力は薄い。私はここを再び訪れることはないだろう。

 妻は「ちっとも楽しくないね。私が行きたいと言ったからいけなかったのね。ごめんね」と謝った。妻もこのショッピングセンターに魅力を見い出せなかったようだ。それがわかっただけでも収穫だ。

 電車で戻った住む町の駅前商店街は、シャッターが鎧のハイ楯のように下がっていた。もう一度個人商店や自立しようという個人企業家が夢を持てる日本に戻る日が来るのだろうか。


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入れ墨

2012年07月10日 | Weblog

 大阪市の入れ墨騒動が姦しい。私には、どうして入れ墨が言われるほど悪いのかわからない。入れ墨=ヤクザ=極悪犯罪人。日本では入れ墨は、まるで犯罪者の専売特許であるかのように扱われる。いまだに江戸時代の感覚である。

 私はカナダの全寮制のキリスト教の厳しい高校で学んだ。シャワー室は、一度に30人が一緒に使える大きなものだった。さすがに高校生には入れ墨のある生徒はいなかった。しかし寮監やその助手は、同じ学園内にある大学から夜だけアルバイトとして高校の寮につめていた。各階に1人ずつ計5名いた。アメリカから来ているベトナム帰りの元軍人は、たいてい入れ墨が入っていた。彼らは恥じることもなく堂々としていた。学校も悔い改めて再出発しようとしている学生に寛大だった。入れ墨に関しての規約はなかった。聖書には、神は過去の罪を認め、神に許しを請う者は誰でも受け入れるとある。それが神の愛だと説く。

 私の寮の階の寮監は、ギブソンという名のベトナム帰りの身長2メートルを越す大きな人だった。優しく人生経験豊かで高校生に人気があった。このギブソンの左手の親指と人差し指の間に入れ墨が二つ入っていた。一つはメアリーでその上に×が入っている。もう一つはアンだった。メアリーとは別れ、その後アンと出会った。結局二人とは別れていた。なぜアンに×してないのか、ある高校生が尋ねた。「こんなことを繰り返していたら、体中入れ墨だらけになってしまうと思った。馬鹿だった。お前達はこんな事絶対するなよ」とギブソン寮監は言った。この訓戒はみなの心に残った。私も入れ墨と聞けば、必ずギブソン寮監のバツが入ったあの入れ墨を思い出す。

 私はただの一度も入れ墨を入れようと考えたこともない。もともと小心者で、親からもらった体を傷つけたり、体に異物を装着することを由としない。コンタクトもイヤリングもダメだ。ギブソン寮監が入れ墨を見せ、語ってくれたことは、寮にいた高校生に最高の教育になったはずだ。

 アメリカから日本へキリスト教の宣教師になって来た人の中にも入れ墨があった人を見ている。今回のヨーロッパのサッカー試合を観ていても驚くほど多くの選手が入れ墨をしている。そして今、日本ではタトウー靴下(なんでも女性用ストッキングの生地に入れ墨に見えるデザインを織り込んでいるらしい)が大ブームで売れているという。入れ墨は、ファッションととらえられ、世界では日本よりずっと軽く扱われている。

 期せずして7月6日(金曜日)夕方のニュース番組で入れ墨を消す手術を受ける人たちの話題を取り上げていた。子供と温泉に行って、入れ墨が入っているシングルマザーが温泉に入れず、子供が不信感を抱き、親への態度に変化があった。腕や腹や脚の入れ墨を手術で消す。金もかかるが時間もかかる。消そうとする若気の過ちへの後悔もわかる。

 私は入れ墨に過度な拒否反応はない。私の経験や出会いがそうさせている。入れ墨があっても後悔してまっとうに生きているなら、何を責めるのか。入れ墨を入れていなくても、心が腐っていて良心を私利私欲の入れ墨以上の醜い幕で隠して、カエルの面に水を決めつけている独占企業幹部、政治屋、官僚、御用学者のような連中こそ糾弾されるべきだと思う。

 税金が取れるところから搾取されるのと同じで、入れ墨という目に見える痕跡を糾弾して、人の心に巣くう悪を追い詰めることをしない。まずやるべきことをやって、その後でも目に見える入れ墨の問題を論じても間に合う。私は入れ墨の有無より良心の有無を重んじたい。元極道の妻で遂には司法試験に一回で合格し大阪市の助役までになった大平光代さんの著書『だから、あなたも生き抜いて』講談社刊を読んだ。壮絶な人生である。私には大平光代さんがあそこまで起死回生をはかれたのは、背中の入れ墨もひとつの理由のような気がする。どうすることも出来ない過去の反省や後悔が大きなエネルギーになって人生を支えることもある。
 私は入れ墨とかかわりのなく今日までやってこれた。だからと言って私がずっと品行方正に罪を犯すことなく生きてきたわけではない。多くの人々に迷惑をかけてきた。入れ墨は手術で消せる。私の過去の過ちは消せない。これからの心がけで、私の人生も「終りよければ、すべて良し」となることを願う。


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シンガポールのような

2012年07月06日 | Weblog

 ネパールに暮らした時、コイララ首相は就任演説で「ネパールを10年でシンガポールのような国家にする」と宣言した。あれからすでに20年が過ぎた。セネガルに引っ越すと、当時のディヨップ大統領はダカールをアフリカのシンガポールにすると息巻いていた。チュニジアに住んだ。去年ジャスミン革命で失脚したベン・アリ元チュニジア大統領は「チュニジアを地中海のシンガポールのような国家にする」と意気込んでいた。なぜこのようにシンガポールのような国家にしたいと国家の指導者が考えるのだろうかと私は疑問を持った。日本のようになりたい。韓国のようになりたい。台湾のようになりたい。香港のようになりたい、でなく何故シンガポールのようになりたいのか。

 シンガポールは小さな国家である。まず国土が狭い。資源がない。これといった輸出産業もない。ところがマレー系、中国系、インド系の国民が大した摩擦を起こさずに共存している。教育に熱心でインフラも整備されている。アジアの国の中では珍しく、衛生面や治安もよい。英語を公用語としている。

 
旧ユーゴスラビアやロシアのサハリンで住んだ時「シンガポール」という言葉を聞いたことがなかった。おそらく社会主義という大きなスローガンを掲げ、結局は行き詰ってしまい、理想を掲げるどころではなかった。

 先週7月1日の日曜日、東京の如水会館で高校の関東同窓会に出席した。体調を崩していて、とても出かけられる状態でなかったけれど、妻と出かけた。ネパールでお世話になった宮原巍氏の講演を聞くためだった。私たち夫婦の高校の先輩ということもあるが、ネパールでの2年5ヶ月、どれだけ宮原氏に助けられたか知れない。宮原氏は私より13歳年上である。78歳。講演内容もしっかりしていて良い講演だった。

 1962年にヒマラヤ登山隊に参加して以来、ネパールの魅力に取り付かれ、1966年からネパールに住み始めた。すでに46年が経っている。2005年にネパール国籍を取得して2006年の選挙にネパール国土開発党を立ち上げ立候補した。残念ながら落選。

 宮原氏の講演で印象的だったのは「カトマンズの市内を流れるバグマティ川の汚染は酷くなるばかりで、今では水に指を入れるのさえ躊躇する」というスライドを見せながらの言葉だった。カトマンズでほとんど毎日見ていた川、当時だって私は顔をそむけ鼻をつまみたくなる程ひどい状態だった。コイララ首相が10年でシンガポールのような国にするといった約束はどうなってしまったのか。ネパールも日本と同じく毎年トップ交代があるほど政治は混迷している。加えてマオリスト(中国毛沢東の影響受ける活動家)が暗躍する。それでも宮原氏は、次の選挙にまた挑戦するという。60歳を過ぎて最高齢でのエベレスト登頂に挑んだが、あともう少しという所で撤退した。詳しくは『還暦のヒマラヤ』宮原巍著 中公文庫、『ヒマラヤのドンキホーテ』根深誠著 中央公論新社などで読める。

 熱い情熱を感じる。登山家に「なぜそんなに苦労して山に登るのですか」と聞くと「そこに山があるから」と答えるそうだ。宮原氏に「なぜネパールなのですか」と尋ねれば「そこにネパールがあるから」と返ってきそうだ。あきらめずに前を向き続ける宮原氏。講演後、挨拶に行くと胸を指して「私もここにステント入れたよ」と言って、日に焼けた顔をほころばせた。どんなにバグマティ川が汚染されても、どんなに国の発展が遅く非効果的であっても、宮原氏にとってネパールはすでにシンガポール以上の国であるに違いない、と思った。


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アスパラガス

2012年07月04日 | Weblog

 この世にこれほど旨い野菜があったとは。私が初めてアスパラガスを口にしたのは、今から3,40年前のことだと思う。それまでアスパラガスという言葉さえ聞いたことがなく、存在さえ知らなかった。留学していたカナダでも口にしたことはなかった。成人してから結婚式とかこじゃれたパーティなどで缶詰のホワイトアスパラガスが添え物として盛り込みの大皿の端っこに置かれていたのを見たことはある。「あったあったこれこれ」と箸を伸ばしたことはない。サンドイッチの中に入っているのを見たこともある。入っていてよかった、と感動したこと皆無。

 長野県の農家は、特に東部町(現東御市)、は新しい農産物の開発研究が盛んだ。東部町の農村、それも農地の中に3,40年前に家を新築した知人を訪ねた。その家の前がアスパラの畑だった。誰とでもすぐ仲良くなる知人は、アスパラガス畑の農家の夫婦とも懇意になっていた。知人が夫婦をベランダでお茶に誘った。ちょうどアスパラガスの収穫時だった。農家の奥さんがカゴにいっぱいのアスパラガスを持って来て知人に渡した。知人はバツイチでひとり者である。料理はからきしだめ。結局私が調理することになった。農家の奥さんは「アスパラなんてホウレン草のおしたし作るみてえに、簡単だ。茹でて切ってオカカかマヨネーズかけて、醤油かければハイできあがり。ウンメ~デ~。喰ってみな~」と言った。ほとんどその通りに調理してみた。

 知人は飲べえだ。酒の好みはうるさい。さっそくアサヒのドライ壜詰めでアスパラを肴に飲み始めた。アスパラを口に入れた。「旨ええ」とヤギのように呻いた。つられて私も口にした。なんという食感。なんという摩訶不思議な味。醤油とマヨネーズにぴったり合っている。最初の出会いでアスパラガスに恋をした。それ以来私は、アスパラガスに目がなくなった。

 最近『美食の歴史2000年』(パトリス・ジュリエ著 原書房刊2800円)の中でこんな記述にぶつかった。“ルイ十四世の大好物アスパラガスは、・・・” なぬ、ルイ14世の大好物はアスパラガスだって。聞き捨てならない。350年も前にラ・カンティニという庭師に温室を作らせで、12月の厳寒期でもアスパラガスを収穫できたという。全ての王家の館の菜園で、気まぐれな王がいつアスパラガスを食べると言い出してもいいようにしていたのだという。何と言う贅沢。私はこんにちルイ14世以上に一年を通してアスパラガスを食べることができる。ますますアスパラガスは私の好物の絶対的な地位を固めそうだ。

 もちろん食べ方は違う。贅をつくした宮廷のフランス料理とただ茹でてオカカや市販のマヨネーズ、醤油をかけて食べるのでは。しかし品種改良され、美味しいアスパラガスを育てるというラ・カンティニにも負けない研究熱心な農家の方々の“想い”で育てられた日本のアスパラガスの材質は、ルイ14世の王家の館の菜園のものに負けてはいないはずだ。

 7月に入ると店頭に露地モノのアスパラガスが並ぶ。長野産であれ北海道産であれ、私は太くて切り口が新鮮なアスパラガスを求めて買う。できるだけ調理は簡単に済ます。醤油もマヨネーズもつけない。アスパラガスそのものの味、食感をむさぼる。そしてひと言「旨え~ェ」とヤギになる。

 迷走し混迷する国民不在の政治劇、停滞する経済、くだらない多くのテレビ番組。アスパラガスは、私の怒りを和らげ、ルイ14世が味わうことの出来なかった庶民としての贅沢な気持を私に与えてくれる。そんな時の私は、目を閉じ口と顎を前に突き出していると妻が嬉しそうに言う。


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