団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

入道雲とアメリカファースト、都民ファースト

2017年05月31日 | Weblog

①    夏の入道雲 日本

②    ヨーロッパ 飛行機雲

③    アフリカ 雨雲

①    最近気象に大きな変化が見られる。異常気象という表現がごく普通に使われている。子どもの頃、見惚れたニョキニョキと力強く青い空に駆け昇る入道雲は現在ほとんど見られない。当時、夏は夕方になると定まっているかのようにピカ、ゴロゴロ、ドッッシャン、ザーッが来た。日中の暑さがクールダウンされてホッとする。今では夕立が集中豪雨ゲリラ豪雨と姿を変えた。ネパールに住んでいた時、千年に一度と言われる豪雨に遭遇した。盆地で陸路が主たる流通ルートだった首都カトマンズは、孤立した。ガソリン、砂糖、食料油、プロパンガスなど自国で調達できない物資は一気に値が上がったものである。カトマンズの雲は厚く低く垂れこめた。入道雲かどうかと品定めもできなかった。モンスーンはまるで霧のようにネパール全体に覆いかぶさっていた。日本は亜熱帯から熱帯になったという人もいる。そう言われれば、現在の日本の気象は、ネパールのそれに似てきている。気象の変化は、動植物や農産物にも大きな変化をもたらしている。すでに日本だけの問題ではなくなった。それなのにさきのイタリア・シチリアのタルミナで開かれたG7サミットでも、地球温暖化対策の“パリ協定”は批准されなかった。アメリカのトランプ大統領は、協定からの離脱さえほのめかした。地球上の最先進国を標ぼうするG7がこのありさまである。こんなでは追随する発展途上の国々の環境保全の意識も薄らぎ、地球の温暖化も汚染も益々悪化するであろう。私は、あのたった4,50年前に見られた力強い入道雲をもう2度と見ることができそうにない。

②    ヨーロッパの空を晴れた日に見上げると飛行機雲の筋がたくさん見られる。飛行機雲は自然の雲とは違う。ジェット機のエンジンから噴出された水蒸気である。私が住む町からも一日にけっこうな数の飛行機雲を見ることができる。しかしその数はヨーロッパの空に比べたら微々たるものだ。自然の雲も日本のものとは違う。空が高いと感じる。すじ雲やうろこ雲が多い。その空は航空路に埋め尽くされているようだ。ヨーロッパ諸国から世界中へ空路が広がっている。ヨーロッパ内の空路も多い。飛行機雲がたくさん見られるヨーロッパの空を見上げながら「飛行機の排気ガスって地球に悪影響与えていないのかな」とよく考えた。

③    アフリカのセネガルに2年暮らした。セネガルでの生活において雨の心配がまったくというほどなかった。年に一度数週間で雨季は終わる。年によっては雨季でも雨が降らず干ばつになることもある。セネガルの雨雲はネパールの雲と似ていた。暗く厚く低く雷を伴う。その勢いに圧倒された。

世界にはいろいろな気象がある。その気象がだんだん異常という人知を超えた一つの現象にまとまりつつある気がする。人間の使った後に排出したあらゆる汚染物質が雲の状態になって地球を被う。世界はアメリカファースト、都民ファースト、北朝鮮オンリーとやかましい。地球ファーストと表面で唱えても、裏でやっていることは逆走である。あの入道雲が戻る日は来るのか。

 


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かば・カバ・河馬・hippopotamus

2017年05月29日 | Weblog

①    かば 上野動物園

②    カバ 旧ユーゴスラビア ベオグラード動物園 (写真参照 檻から出られなくなった巨大カバ)

③    Hippopotamus 英国 ロンドンZoo

①    小学生の時、父が私を東京の上野動物園へ連れて行ってくれた。当時東京へは汽車で7時間かかった。私はそこで初めて“かば”を見た。最初かばは檻の中の池の水に潜ったままだった。父はライオン、虎、象、キリンと色々な動物の名前を上げ、私を移動させようとした。私は頑として動こうとしなかった。このまま“かば”がずっと水の中にいられるはずはないと思った。息をするために必ず顔を出す。なぜなら少年朝日年鑑で“かば”の特集を読んだことがあった。父はどうしても動こうとしない私を“かば”の檻の前に置いていった。象を見たいと言い張る姉を連れて行ってしまった。私は一人じっと“かば”が潜む水を見つめていた。少年朝日年鑑には“かば”は1分から5分に1回息継ぎをするために水から顔を上げると書いてあった。“かば”の池は濁っていた。水の中に“かば”がいるという証拠はない。長い、あまりにも長い。でも私は絶対に“かば”を見ると決めていた。いつしか自分も息を止めていた。学校の体育の授業の一環でプールの水に顔を入れて、どれくらい長く息を止めていられるか競ったことがあった。私は1分近く頑張れた。あの授業の時のように頑張って待った。池の濁った水にあぶくがブクブクと出た。それからしばらくすると水が大きく動いた。そして“かば”の大きな鼻の穴だけが水の上に出てきた。穴が大きく開いた。でかい。皮膚はテカテカ。針金のような毛が生えている。目が見えた。その大きな目が私を一瞬見た。その時以来私は“かば”が動物園で一番好きな動物になった。それは今でも変わらない。

②    旧ユーゴスラビアの首都ベオグラードの動物園にカバがいた。当時ユーゴスラビアは孤立し世界から経済封鎖をされていた。動物園の運営は困難を極めていた。どんな状況においても子どもたちとって動物園は、楽しい場所である。ベオグラード動物園のカバは、大きくなりすぎて檻から運動場と池のある外の施設へ移動できなくなっていた。NATOによる空爆が近づいていた。エサ代もままならぬ状態でカバの檻の改修はできない。巨大なカバは狭い檻の中にいた。やがて空爆が開始されることになり、私たちはベオグラードから日本へ一時帰国した。数か月続いた空爆が終わった。私は半年ぶりにベオグラードへ戻ると、最初に動物園へカバの様子を見に行った。カバも虎も動物はすべて空爆を生き抜いた。それからまもなくカバの運動場への出入り口も改修された。平和が近づいてきたと私は感じた。

③    妻の英国留学中、私が妻に会いに行った時、ロンドン動物園へ連れて行ってもらった。ロンドン動物園は、財政難で閉園が決まっていた。そこで初めてカバのフィギャーを買った。これを手始めに私はカバのフィギャーのコレクターになった。世界の行く先々で集めた。大英博物館を妻に案内されて、古代エジプトでカバは神であったことも知った。大いに納得。

 もうカバのフィギャーを集めることはやめた。テレビの動物番組でカバが映ると今でも嬉しい。私の前世はカバかとも思うが、ただのバカであることは疑いもない。

入手地:ハワイ入手地:大英博物館入手地:ネパール入手地:ロンドン動物園


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薬物依存とアルコール依存

2017年05月25日 | Weblog

①    ベイスン 糖尿病薬

②    ジャディアンス 糖尿病薬

③    ロキソニン 頭痛薬

①    ベイスンの服用を開始したのは、アフリカのセネガルに住んでいた時だった。あれから22年。毎日、朝昼晩の食事前に服用した。単純計算でも24、090錠、重さで33,726グラム、金額では626、340円。重さ33キロは、福岡の路上で盗まれた110キロの金塊の3分の1、店頭価格で1億6千万円である。私にとって金塊よりはるかに価値がある。2001年チュニジアで糖尿病の合併症である狭心症の発作を起こして日本で心臓バイパス手術を受けた。食事療法、運動療法、薬事療法、細心の注意をしながら夫婦で協力して糖尿病と闘った。完治は不可能でも進行や合併症を防ごうとした。だから薬を忘れずに毎日服用した。怠ったのはほんの数回である。心臓の手術を受けて17年たった。一番恐れていた人工透析にまで至らなかったのは、ベイスンのおかげだった。眼底検査でも異常は診断されていない。血糖値にも大きな変化はみられない。前回の糖尿病定期健診で主治医から「新しい薬が出たので使ってみませんか」、と提案をされた。薬について詳しい説明も受けた。薬の名前は、ジャディアンス。私は小心者である。その上変に義理堅い。ずっと服用してきたベイスンの服用を止めることに抵抗があった。妻とも相談してジャディアンスの服用を決めた。残っていたベイスン錠が23日で終わった。24日の朝からジャディアンスの服用を開始した。

②    ジャディアンスの服用を開始するにあたって主治医から薬の副作用について説明を受けた。ジャディアンスを服用すると尿の量と回数が多くなる。今年の誕生日で古希を迎える。私がこの歳になっても夜中にトイレへ行くことはない。心配になった。ジャディアンスを服用して、夜中に頻繁にトイレに行くようになったらどうしようと。まず試してみることだ。私はこの歳まで何とか生きてこられたのは、医学の進歩のおかげだと感謝している。心臓バイパス手術を受けられたのも、ベイスンなどの薬で糖尿病の進行を遅らせることができたのも、みな医学分野の日進月歩の研究のおかげである。24日ジャディアンスを服用した後から、排尿の回数と量を測ることにした。やはりジャディアンスの影響が即、数値で現れた。就寝前までに計9回。量は1914㏄。あきらかに普段の3倍を超えている。夜が心配だった。しかしいつもの通り夜中にトイレに起きることはなかった。日中多くの水分補給をしなければならないが、とにかくベイスンと同じように私の糖尿病をこれ以上悪化させないように新薬のジャディアンスにかけてみよう。期待したい。

③    頭痛持ちである。しかしロキソニンを服用すると頭痛が嘘のように消える。半日以上は頭痛から解放される。これほど服用してから効果を体験できる薬は、そうはない。感謝している。

 数日間真夏日が続いたので外出を控えていた。24日温度がそれほど上がらなかったので、買い物に行った。妻のジンが終わっていた。ちょっと最近ピッチが速いのでは。私の痴呆症対策で毎日解くパズルの中に「習慣でなにか服まないと不安」があった。まさに私はそう思っている。即答できなかったが、まわりの答えを埋めていくとヤクブツイゾンとなった。そう私たち夫婦は、夫ヤクブツイゾン、妻アルコール依存なのだ。いいじゃないか幸せなら。1本1150円のジン“ビーフイーター”2本を買い求めた。


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エメラルド・ホタルイカ

2017年05月23日 | Weblog

①    富山湾 ホタルイカ

②    ネパール  ホタルツリー

③    水族館 ネオンのようなクラゲ

①    毎年恒例行事のように5月にどこかしらのテレビ局が富山湾のホタルイカ漁の映像を流す。テレビの画質は改良され年々美しくなる。私はエメラルド色に光り輝く引き上げられた網の中のホタルイカに「こんなではない」と文句を言う。本物は違う。ホタルイカのエメラルドは、実際に自分の目で見なければ。私が初めて滑川の漁港から観光船でホタルイカ漁を見たのは、もう20年以上も前だ。妻の父親と妹、私たち夫婦とアメリカから帰国中だった私の娘の5人で車で行った。旅館に泊まりホタルイカ尽くしの夕飯を取り翌朝3時に起き港へ観光船に乗るために行った。私は何の期待もしていなかった。旅館の夕食に出たホタルイカを美味いとも思わなかった。船が出た。漁場は近かった。集魚灯が消され、あたりが真っ暗になった。網が漁師たちによって引き上げられる気配を感じた。ポッ ポッポ、ポッポッポ。次から次とエメラルド色の光が点り始める。やがてそれが網のたわわな膨らみ全体に拡がる。観光船には40人くらいの観光客がのっていた。静寂。息する人もいない。漁師の一人が網からホタルイカを手でつかみ、客に向かって放り投げた。「キャーッ」と歓声が上がった。目が覚めたように現実の世界に戻った。数分の沈黙がエメラルド色効果を高めた。私は網の中に入って光に包まれたかった。

私は自分が生き物だと自覚している。生き物の自分ができないこと、空を飛ぶ、自分の体の色を変える、光を放てるなどに驚嘆する。そしてもし自分が空を飛べたら。自分の体の色を変えることができたら。光を放つことができたら。・・・と空想することが好きだ。空想をして自分には結局できないのだと自覚する瞬間、それができる生き物に畏敬の念を持つ。

②    我が家の裏庭にもそろそろホタルが飛来する時期である。ホタルといえば思い出すのがネパールで見たホタルツリーだ。ネパールに住んでいた時、日本の製鉄会社に勤める友人が私にぜひ見せたいものがあると誘ってくれた。友人の会社が受注して建造した橋がネパールとインド国境近くの山中にあった。その橋はすでに完成していた。(写真参照: 子供の後ろあるのが橋)友人はすでに帰国寸前だった。見せたいものが何なのか友人は言わなかった。まるでミステリーツアーである。妻は仕事でカトマンズに残った。友人が施工した橋を見学してすでにネパール人に払い下げられていた元宿舎に泊まった。夕食も終わって部屋にいると友人が来た。「さあ、行きましょう」 私は驚いた。なぜなら彼が私に見せたいと言ったのは、彼が関わった橋だと思っていたからである。彼が運転する車で宿舎から20分くらいの森の中へ行った。真っ暗だった。車を止めてライトを消して彼は黙って指さした。私は指された先を見た。嘘だ。木全体が同調して何百万という消えたり点いたりする小さな灯りに被われていた。一本だけの木ではない。並木のように列をなす木がそれぞれ競うように灯りを点滅していた。彼が「どうしてもこれを見てもらいたかった」とポツリと彼が言った。彼の気遣いが嬉しかった。ホタルツリーの点滅がしばらくぼやけた。長い時間二人で黙ってホタルツリーを見た。

③    水族館のクラゲにも光を発するものがいる。照明を消した館内の水槽の中をユラユラ上下するクラゲ。よく見ればヒラヒラさせている傘のようなクラゲの縁がネオンの管が入っているように光りが移動する。青、紫、黄色、白。クラゲが動くたびに揺れ動く。私の目はクラゲそのものよりネオン管を移動する等間隔の色の帯を追う。生き物にこんな装置がついていること自体が不思議である。見とれる。何もかも忘れて。


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涙が止まらない

2017年05月19日 | Weblog

①    虐待死 藤本羽月ちゃんの正座写真

②    ベトナム人レェ・ティ・ニャット・リンの写真

③    川崎の中学1年生上村遼太くんの写真

①    私は子供の頃近所の子どもたちに“準内地マイ”とあだ名をつけられたほど泣き虫だった。準内地米とは戦後の食料難に国産米に準ずる米、つまり外国産の米を指す。準内地米の準の音と私の名前ジュンとをかけてプラス内地米を泣いてしまえとした。あだ名としては名作であろう。私は泣くまで彼らに寄ってたかっていじめられた。私を泣かせることは、彼らのウップンを晴らす手段として定着した。中学生になってやっと泣き虫が影をひそめた。最近また“ジュン泣いちまい”当時のようによく泣く。先日妻と夜の晩酌を楽しみながら、テレビのニュースを観ていた。羽月ちゃんが正座している写真が出た。私は妻に「こういう写真・・・」 話し出しながらすでに私は涙を流し始め、嗚咽で声が消えてしまった。妻も涙もろい。妻は静かにティッシュで目頭を押さえる程度だ。私は声を押さえられても肩の震えまでは封じられない。ニュースで2度羽月ちゃんの正座する姿が映し出された。以前裁判所に頼まれて、外国人女性が自分の5歳の男の子を壁に打ち付けて殺した女性の通訳をした。その時証拠として男の子の遺体の写真があった。何枚もの写真を母親に見せながらの尋問を通訳した。写真は正視できないものだった。羽月ちゃんの虐待によるアザと同じように体中にムラサキの変色があった。それを被告の母親がひとつ一つ供述する。私は機械のように訳した。私にはとてもつらい経験だった。あの裁判で母親が語ったことが羽月ちゃんの映像から蘇る。それにしても親の幼児虐待事件が多すぎる。自分の子を虐待してそれを携帯の写真や動画で配信するなど常軌を逸している。羽月ちゃんが正座する横で実の母親が携帯を操作している。私はたった3歳の羽月ちゃんの正座の姿を見ると胸が痛い。助けてあげられない自分に腹が立つ。羽月ちゃんの遺体と裁判で見なければならなかった証拠写真の5歳の男の子の遺体。そしてあの時の母親の供述した声。私には肩を震わせることしかできない。情けない。

②    千葉県我孫子市で殺されたレェ・ティ・ニャット・リンちゃんの写真。笑顔が可愛らしい。正直40歳過ぎた大人、それも小学校の保護者会の会長を務める者が、自分の性的嗜好を充たすために殺した。逮捕された男は、いまだに黙秘しているという。日本ではこのような性に関わる事件では被害者、被害者家族への配慮から事件の核心に触れることは避けられる。いずれ裁判では詳細が明らかにされるであろうが、真実を正面から受け止める精神力が欠けている気がしてならない。

③    川崎の上村遼太くんの笑顔の写真も辛かった。私の初孫と同い年で顔もよく似ていた。どうしても孫に重ねてあの事件を見てしまう。親の都合で隠岐から川崎に来て、彼の人生が狂ってしまった。私も2人の子どもを翻弄してしまった。深い反省がある。

私はもうじき古希を迎える。自分さえ良ければとは思わない。長生きしたいとも思わない。ただ願わくば、子を授かった親は、子を毎日食べさせ、時々抱きしめ、成人するまで育てる責任と気概を持って欲しい。こんなどうしようもない私にできたのだから、誰にでもできるはずだ。


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渚のドライブ

2017年05月17日 | Weblog

①    ロシア サハリン 幻の高速道路

②    旧ユーゴスラビア 高速道路

③    北海道道106号稚内天塩線

①  テレビで石川県能登半島の千里浜なぎさドライブウェイを車で走行しているのを観た。拙著『ニッポン人?!』の“サハリン高速道” を懐かしく思い出した。  

【舗装道路が切れて、サハリン特有の凸凹道が始まった。とにかくひどい凸凹である。補修されないまま放置された道路のミイラである。運転していたリンさんが、「わたし心配です。この間、北へ行ったときにスプリングが壊れてしまって、前の両側のスプリングを捨ててきました」と、言った。ダットサントラックは、ぎしぎしと音を立てながら、道路の信じられない凸凹をそのまま素直に拾っていた。「昔わたしは、ソ連製の車を持っていました。そのスプリングがうちのガレージに二つあったので、自分でつけました。ちょっと硬いですね」 ふと私は、目を左右非対称のワイパーに向けた。それを察したリンさんが言った。「そう、それ右側韓国製、左側はロシア製。ダットサンの私の日本製ワイパーは二本とも盗まれました。ロシア人はほんと悪いやつらです」

 東の空が少し赤くなって、鉛色の空にも柔らかさが増してきていた。時計を見ると五時だった。オホーツクの海はそろそろ干潮の時間だ。急に、リンさんはハンドルを切って、ちょっとした小高い砂丘を越えて波打ち際に向けて浜を下った。「高速道路で行きましょう」 そういうと、エンジンをふかして走り出した。ガクンとシフトを四駆から二駆に戻した。振動も無くなり、ダットサンは唸りを挙げて快走した。「ここの砂は、干潮になると硬くなります。この道が、サハリンで一番スピードを出せるいい道です」 嬉しそうに六十九歳のリンさんが言った。めったに入れたことがない五速にいれ、さらにアクセルを踏み込んだ。凸凹道に辟易していたわたしも、実に気分がよかった。鼻歌が出そうになるほど、スムースで心地よいドライブになった。

 私は世界いろいろな土地で高速道路を車で走った。サハリン高速道路は最高だった。リンさんが“高速道路”と言った気持ちが良くわかる。たった三キロぐらいの短い距離だったけれど、リンさんと走ったあの明け方のサハリン高速道が忘れられない。リンさんがいろいろな部品を組み合わせ、自分で調整し、すでに百万キロ走ったスーパーダットサンの、あの嬉しそうなエンジン音の唸りを忘れない。】

②    私たち夫婦が旧ユーゴスラビアの首都ベオグラードに住んでいたのは、経済封鎖を受けていた時だった。クロアチア、スロベニアを抜けてイタリアに通じる高速道路があったが、交通量が少なかった。それは、まるで飛行場の滑走路のようだった。ついついスピードを出してしまった。警察の取り締まりもなかった。ただ道路わきに「地雷に注意」の看板が不気味だった。経済封鎖は外国人の私にも大きなストレスを与えた。空いた高速道路を思い切り飛ばすことはストレス解消になると思ったが、一般市民はガソリンさえ買えないのに抜け駆けしているようで、それもまたストレスになった。私が自分で車を運転してあれほどのスピードで走ったのはあの時だけだった。北朝鮮と旧ユーゴスラビアの経済封鎖の違いは、北は核を持ち、旧ユーゴスラビアは持っていなかった違いはあっても、一般市民の困窮は同じであろう。

③    日本に帰国して10年以上たつが、日曜祭日特にゴールデンウイークのような大型連休は外に出ないようにしている。どうにも道路の渋滞に耐えられそうもないからである。ネパールの道路はいつも渋滞が激しかった。セネガルはダカールから出れば道路は空いていた。でも悪路が多かった。チュニジアのチュニスは渋滞も酷かったが、道路交通法が無いかのような運転が怖かった。結局事故に遭い大けがをして車をダメにした。でもチュニスを出て砂漠へ行くと道路はどこも空いていた。ただ砂嵐に出会った時は、もうだめかと思った。サハリンにいた時、休暇でフェリーに乗って稚内へ行き、レンタカーを借りて北海道を回った。ここは日本かと思うほど道路が空いていた。サハリンの悪路に辟易していたので北海道のドライブを心ゆくまで楽しめた。素晴らしい自動車での旅だった。その時寄った天塩で食べたシジミ丼が美味かった。

旅行社から送られたパンフレットに能登半島の千里浜なぎさドライブウェイへ行くツアーを見つけた。妻の夏休みに行こうと思っている。サハリンでリンさんと走ったサハリン高速道路を思い出すために。


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ミサイルと水族館

2017年05月15日 | Weblog

①    クラゲ             

②    マンタ ジンベイザメ 

③    イワシ マグロ

①    クラゲ:母の日の14日日曜日、妻が数日前に「クラゲが見たい」と言った。クラゲと言えば水族館である。近所に水族館はない。家から数時間の水族館へドライブをかねて行くことにした。連休明けのせいか道路も水族館も混んでいなかった。妻はクラゲの水槽の前で目を凝らしてクラゲの動きを見ていた。「綺麗だね。不思議だね」を連発した。クラゲの展示室は照明が落とされ、水槽の中の淡い照明だけ。そしてなにやら音楽が、聴けるような聴けないような音量でかけられていた。ストレスを軽減するアロバランスの香りが出ているとパンフレットに書かれていた。妻は日頃相当なストレスを仕事から受けている。私にそれを訴えても、聞いてあげることしかできない。水族館のクラゲはいとも簡単に妻の願いを叶えてくれている。クラゲには適わない。そう思って私もクラゲに見入った。見れば見るほど神秘である。こんなに小さいのに発光する。生命が地球に発生してから、おそらく人間が誕生す前の生命体は、クラゲのようなものであったのだろう。そう考えるだけで私には追い付くことができない目が回るような生命の神秘に飲み込まれそうになった。私は居た堪れなくなって、クラゲの部屋から出た。普通の魚の展示を見てやっと現実の世界に戻れた。妻の海外赴任地に水族館がある国はひとつもなかった。水族館は日本にはたくさんある。帰国してから数年に一度はこうして水族館へ行く。日本に帰って来たな~と思える瞬間である。

②    マンタ ジンベイザメ:沖縄の美ら海水族館で大きなマンタとジンベイザメが泳いでいる姿を見た。まるで大きなビルの壁が一枚のガラスにされたような水槽の中にたくさんの魚が泳いでいた。中でもマンタとジンベイザメに目を奪われた。沖縄の海はきれいだ。だからと言って海の中で私自身がこれだけたくさんの魚を見ることはできない。水族館といういくら大規模な設備であれ、海洋生物が海にいるのとは違う。自然でない狭い場所に閉じ込められた展示生物には申し訳ない。それでも普段なら見られない世界を見せてもらえることは、喜びである。

③    イワシ マグロ:宮城県の松島にマリンピア松島水族館でイワシの大群を見た。また東京の葛西臨海水族園ではマグロの群れを見た。マリンピア松島水族館は東日本大震災の津波の被害に遭い閉館した。しかしあの水族館で見たイワシの群れが泳ぐ姿には感動した。また葛西臨海水族園のマグロは、マグロが次々に死んでしまい一時展示をやめていた。試験的に再びマグロの飼育を始めたようだが、前の事故の原因は解明されていないらしい。

私は水族館が好きだ。日本という海に囲まれ、水族館がたくさんある国に生まれ良かった。北朝鮮がまたミサイルを発射した。菅官房長官は日本の船舶に被害はなかったと発表した。発表を聞きながら、私はミサイルの落下地点の海でまた多くの生物が殺されたに違いないと見てきたばかりの多くの魚を思い出しながら悲しくなった。


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母の教え

2017年05月11日 | Weblog

①    トイレを綺麗に

②    10という魔法の数字

③    動けば金がかかる。

①    私を産んだ母は私が4歳の時死んだ。記憶はほんのわずかしかない。6歳の時、母の妹が継母となって私たちを育ててくれた。母の姉弟は女5人男4人の9人。貧しい農家だった。母も継母も学校はほとんど行っていない。だから継母(ここからは母と書く)はひらがなとカタカナと少しの漢字しか読み書きできなかった。それでも母として、子育て、料理、裁縫、父の手伝いと身を粉にして働いた。家の中を常にきれいにしていた。特にトイレの掃除は念入りだった。貧しくて汲み取り料がないときは、母は自分で汲み取って畑に運んだ。私にも手伝ってと言ったが、私は正直、臭くて汚い仕事だと聞いただけで、吐き気をもよおした。「臭い」は差別のスタートだとか。サッカーJリーグの森脇選手がこの言葉で相手チームの選手を侮辱して処分を受けた。母は臭かろうが汚かろうが、黙々とブルトーザーのように力強く家族の生活を支えた。ええかっこしいの父親と違い、何事にも実直だった。私が離婚した後も母は母のパートの休みの日に私の住む3キロあまり離れた市営住宅へ自転車で来てくれた。私が仕事で留守でも掃除洗濯をして夕飯を作って置手紙をして帰った。手紙には「どんなに苦しくても二人の子どもを立派に育てなさい。それがお前がしなければならないたった一つのことです」と書いてあった。トイレに入ると白い便器がピカピカだった。簡易水洗の狭いトイレの中で幾度も私は泣いた。本来汚い場所であるトイレでも住む人によりいくらでもきれいな場所であり得るのだ。それがきちんとできない自分を恥じた。母よりずっと教育を受けた。海外の学校にまで行かせてもらった。それでも母の生きざまには勝てない。そんな私が住む家のトイレはTOTOのネオレストという最新式である。流す水量が少なくウォシュレットでマッサージ機能までついていて脱臭して自浄までやってのける。それでも母が掃除してくれた市営住宅のトイレの白い便器の輝きは別格である。

②    母は10という数字は魔法の数字だと言った。私が小学生になると母は私が学校で習った漢字をチラシを綴じて作った練習帳に10回書いて習っていた。アルファベットもそうして覚えた。銀行に10年間定期預金すると預金額が倍になると言った。嫌なことがあったら心の中で10数えれば落ち着くとも言った。江戸っ子を気取って「宵越しの金は持たねえ」と月賦で新製品を買っていた父は貯金がなかった。母は父が亡くなった後も働いて貯金していた。まだバブルがはじける前、母は郵便局と銀行の間で預金の移動を毎月繰り返した。そうして少しでも自分の預金を増やす努力を続けた。倍になった定期預金を何回か嬉しそうに受け取っていた。私は母の教えを実践することなく、抵抗することなく父からのDNAに従った。もう遅い。

③    母は長く生まれ育った地域から出たことがなかった。自分が生まれ育ったところが一番良いが口癖だった。引っ越しも旅行も金がかかると言った。私は引っ越しを繰り返した。確かに引っ越しは金がかかった。

 私は何一つ母の教えを自分の人生に取り入れなかった。取り入れたなら私の人生は違っていただろう。でも再婚した今の妻は、まるで私の母の教えを知っているかのように堅実な人である。今度こそできるだけ妻に習って、最後の日まで私のサガを封じ込めたい。


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足利フラワーパークの藤 上田のカバンの藤 藤の実

2017年05月09日 | Weblog

 

①    栃木県足利市 足利フラワーパークの藤

②    長野県上田市国分寺史跡公園のカバンの藤

③    藤の実

①    5月7日妻と日帰りバスツアーで栃木県足利市にある『足利フラワーパーク』へ行って来た。以前友人から勧められていたが中々機会がなかった。友人の話は誇張ではなかった。行ってよかった。写真やテレビの画面で見るのとは違った。7日はゴールデンウイークの最終日だった。現役で働いている人々が休日や休暇を取る時、私のような毎日が日曜日の老人は遠慮して家にいるべきと思っている。しかし今回は藤の花の見頃を逃すわけにはいかなかった。どれほど渋滞しようが行くと決めた。正しかった。まさに見頃だった。天気も良かった。何度も感嘆のため息をついた。子供の頃から疑問があった。日本の苗字になぜこれほど“藤”という漢字が多いのだろうと。藤沢、藤岡、藤田、藤原、阿藤、加藤。中学生だった時、父親が家紋を商う同級生がいた。仲が良く彼の家に遊びに行った。ある時、彼の父親が紋の話をしてくれた。藤に関する家紋は170ほどあり家紋の中では断然多い。“藤”を含む苗字は、藤原氏から始まるもので、“藤”の家紋が多いのはそれが理由だと聞いた。起源や歴史は学んだことはない。日本人が藤を愛でてきたことは理解できる。日本人ばかりでない。足利フラワーパークには外国人観光客もたくさん押し寄せてきていた。園内は人で大変なにぎわいだった。私は嬉しかった。どこの国の人であろうが、美しいものを見て、笑顔でいることは平和なことである。観光立国に藤の花も大きな貢献をしていくだろう。たった2時間の滞在だったが日頃の憂いは、消えていた。足利フラワーパークは、手入れが良く英国のリージェントパークのバラ園並みだと感心した。そして何より嬉しかったのは、お犬様をシャットアウトしていることである。どんな美しい花園でも乳母車に犬を乗せているのを見れば、私の心は乱れる。ここの後に行った館林のつつじが丘公園は、お犬様がたくさんでツツジどころではなかった。

②    藤は桜と同じく日本全国にある。私が生まれ育った長野県上田市では『カバンの藤』が有名だ。カバンの藤は、1888年(明治13年)、第十九銀行(現:八十二銀行)の役員の方が、故郷の南佐久郡の農家からもらった藤の苗をカバンに入れて持ち帰ったことから、その愛称で親しまれている。銀行員とカバンの組み合わせが幼い私の想像力をかきたてもし、混乱もさせた。それでも130年たった今も多くの市民を楽しませている私が子どもの頃見た藤は、山に自生する藤や民家の小さな藤棚ぐらいだった。還暦を過ぎて静岡県藤枝市の蓮華寺池公園の藤や神奈川県小田原市の小田原城址公園の『御感の藤』も見た。足利フラワーパークの藤にはかなわないが、それはそれで見事である。

③    子どもの頃、藤の花に心奪われたことはない。匂いも特別なものではなかった。藤の実には思い出がある。藤の実は一見、美味しそうである。形や大きさがインゲン豆に似ている。毒があると大人は言っていた。食料難時代であっても子どもは遊びをつくる天才だった。藤の実を武器に戦争ごっこで遊んだ。何度も頭を打たれた。痛かったが今となれば懐かしい。花が終われば、藤の種がサヤの中で膨らみ始める。


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ゴールデンウイーク・田植え・カエルの合唱

2017年05月01日 | Weblog

①    ネパールの田植え

②    小学校の農繁休業の田植え

③    田植えの後のカエルの合唱

①    田植えという農作業は東南アジア独特のものらしい。日本では、いまでこそ機械化され人の手での田植えはほとんど見られなくなった。妻の最初の海外赴任地はネパールだった。収穫時季はどこの国でも農民の喜びの表情があふれる。田植えは希望と祈りの時季である。ネパールでも日本と同じように水田に水を入れ、家族総出で田植えが行われる。高校生の時渡ったカナダの学校は、大平原の真っただ中にあった。学校の名にPrairie(大草原)がついていた。見渡す限りの小麦畑だった。大規模農業なのですべて機械化されていた。そんなカナダで懐かしかったのは、日本のふるさとで、5月田んぼに水が引かれて田植えが始まる頃だった。カナダの大規模農業による切れ目のないどこまでも続く大平原は、私に異郷にいるという思いだけを強くした。ネパールで田植えを見た時、外国に住んでいるのだという思いがスーッと消えた。親近感を持った。貧しい国だが農業は盛んで食料不足ではなかった。田植えや稲刈りで人々が喜々として働いているのが印象に残っている。

②    私が小学生だった頃、年2回農繁休業という1週間ほどの休みがあった。農家の子供はもちろん自分の家の手伝いをする。そうでない子供は、学校が希望する農家へ子供を割り当てた。私の家は農家ではなかったので、学校から言われた農家へ行ってお手伝いをした。私はとても良いことだと思ったが、いつの間にかその派遣がなくなってしまった。農家で田植えと稲刈りをした経験は、私にとって大切な思い出となっている。左手の指3本の爪の下に鎌で切った傷跡が残っている。農家へ稲刈りの手伝いに行って切った跡である。田植えは、道具を使わず手だけで作業するので怪我をすることはなかった。何よりの楽しみは、農家でお昼に白い米の飯をたくさん食べさせてもらえたことだった。おかずだけ持参した。おかずはどうでも良かった。家では白いご飯がたらふく食べることができなかったのでご飯だけで満足できた。

③   30代前半で最初の結婚を解消して 離婚した後、私は家を売り、市営住宅に移った。私が引き取った子ども二人は、一人はアメリカへ一人は全寮制の学校へ入った。私一人が残り二人への仕送りをした。市営住宅は田園地帯のはずれにあった。田植えの季節、仕事を終えて自宅に戻る時、私は窓をいっぱいに開けて運転した。カエルの合唱を聴くために。そして車を止められる場所でカエルの大合唱に聴き入った。時には満天の星のもとでのこともあった。人家もなく暗闇でのカエルの合唱と満天の星。田植えの終わった田んぼは、カエルの楽園だった。

 現在住む町に田んぼがない。カエルの合唱は聴くことができない。電車に乗ると田園地帯へ行くことができる。田は区画整理され農業機械が使いやすくなった。しかし米の栽培方法は変わらない。五月になれば田んぼに水を入れ、田植えの準備が進む。田植えが終われば、カエルの合唱が始まるのだろう。またカエルの合唱の真っただ中に身を置いて空をみたい。


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