団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

カマキリと祈り

2018年10月05日 | Weblog

  10月4日木曜日の午前2時頃、携帯の緊急地震速報を告げる警報音が鳴り響いた。私は、夜中目を覚ますことはほとんどない。朝私たちは午前5時にラジオと目覚まし時計の2つで起きる。ラジオでもない。目覚まし時計のジリジリとも違う。妻がベッドから飛び起きて出て、居間のテーブルに置いてある携帯電話を見る。「千葉で地震だって」 私は身構えて揺れを待つ。何も感じなかった。でも恐かった。

 いつの間にか再び眠りについていた。平常通り5時きっかりにラジオが点き同時に目覚まし時計が鳴った。そして朝食を食べ、支度して妻を駅まで車で送った。駐車場に車を止めて歩き出した。ふと駐車場のコンクリートむき出しの支柱に目がいった。綺麗な黄緑色の物体が張り付いていた。よく見るとゆっくりではあったが動いた。近づいた。カマキリだった。カマキリって英語で何だったけ、と可笑しな疑問を持った。パッと思い出さないこの間が、老化である。思い出した。カマキリ→祈る姿→そうだpraying mantis。正式な学名ではないであろう。確かにまるで祈っているかのような雰囲気だ。

 私たちは、「祈る」を何気なく使っている。広辞苑には「神や仏の名を呼び、幸いを請い願う。祈願する。」とある。私は特定の神や仏の名を呼ぶことはしないが、祈ることはする。私の場合、祈るというより単なる願いかもしれない。子供が誘拐されたと聞けば、無事に発見されますようにと願う。虐待されて殺されれば、殺した親に罰が当たるように願う。日本各地の集中豪雨で、台風で、地震で、インドネシアの地震で亡くなった人々の無念さの鎮魂を願う。台風が自分の住む地を避けるように願う。ただの同情かもしれない。自分勝手な願望でしかないかもしれない。

 アメリカの友人宅を訪れると食事の前に祈る家庭が多い。定例の祈りをささげる家庭、そこにいない家族、親戚、友人のために長く祈る家庭もある。私は、そういう光景を見ている友人が「いつもあなたのために祈っています」と言われると心にズシンと感じるものがある。この地球のどこかで誰かが私の名を口にして祈りをささげてくれている。私の側は、「彼は元気だろうか?彼女は元気でいるだろうか?」と思うだけで祈りではない。思うのと言葉で特定の神や仏の名を呼び、特定の人の名を告げ、その人の無事や幸いを請い願うのとでは、違う。私は特定した人々の写真を飾っている。もうすでに他界した人々も多い。写真を見て過去を思い出す。生死にかかわらず、私はその人に想いを馳せる。貴重な一瞬である。寺院や神社で首を垂れるのと同じ心境になる。

 NHK教育テレビで番組『香川照之の昆虫がすごいぜ』を持つ俳優の香川照之が「自分は単に昆虫の変な生態が好きなんじゃないんです!本能のままにまっすぐに生きる昆虫の姿が最高にいいんです!ケータイまみれで時に自分を偽って生きねばならない子どもたちや、軟弱になったとか草食系とか言われる男子たちにそんな昆虫の姿を見せたい。人間は昆虫から学ぶことがたくさんあるんです!」と言う。

 カマキリといえば、小さなメスが交尾の後大きなオスを食べてしまうことばかりが取り上げられる。私は駐車場で見たカマキリの祈るような姿とあまりにも鮮やかな黄緑色に魅せられた。カマキリもすごいぜ!

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