団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

10連休

2019年04月26日 | Weblog

 毎日が連休のコキイチにとって今度の連休は、いつものように家のテレビで各地の混雑と渋滞を見ているものだと思っていた。違った。まず病院勤めの妻が異例の9連休を取れることになった。大きな誤算。祭日とか関係なかったのに。そこで計画を立てることになった。

 まず連休初日、妻が美容院を予約してある以外予定なし。

  次の日、東京へ行く。高校3年生になった孫が、高校総体のサッカーの試合に出るので応援に行く。孫は27日が18歳の誕生日を迎える。中学3年生の時に難病指定の病気になった。入退院を繰り返した。勉強どころの話ではなかった。それでもサッカー部を退部しなかった。どれほど悔しい思いをしてきたことか。だから水泳の池江瑠璃子さんの病気も他人事ではなかった。孫が在籍するサッカー部はかつて東京代表で全国高等学校サッカー選手権大会に出場したことがある。それに憧れて入学した。家族ぐるみで彼を支えた。その彼が3年生になり公式試合に出場できるまでになった。力いっぱい応援したい。しかし彼には私たちが応援に行くことを知らせない。私は孫の姿をひと目見られれば満足である。

  私が小学校4年生の時、小学校に水泳プールが完成した。その完成を祝い水泳大会が開かれた。私も50メートルの平泳ぎに出場した。結果はビリ。担任が写真を撮って、あとで渡してくれた。その写真を見て驚いた。応援する人たちの中にばあちゃんがいた。ばあちゃんは母方の祖母である。私を応援して大きな口をあけている。私が4歳でばあちゃんの次女だった私の母親がお産で死んだ。そして四女が継母になった。ばあちゃんは私を可愛がった。水泳大会にでると聞き応援に来てくれたのだ。でも誰にも言わず来て応援して帰った。ばあちゃんは、ビリだった私に気を遣ってか水泳の事は何も触れなった。でも私が大好きだった手打ちうどんを作ってくれた。美味かった。それよりなにより水泳でビリでも歩いて学校まで来て私の泳ぎを見てくれていたこと、それを口にも出さず作るのに力がいるうどんで私を喜ばせてくれた。良い結果が出せなくても、私の存在を気にかけてくれる人がいたことが嬉しかった。私はばあちゃんのようなじいさんになりたいと思っている。

  3日目友人夫妻に誘われて昼食に蕎麦を食べに電車で出かける。夕方には名古屋のレゴランドへ行った帰りに娘一家が来て泊まる。

  4日目の夕方から友人の家に泊まりで招待されている。平成最後の夜を過ごし、令和の最初の日を共に迎える。何という嬉しい気遣い。1日は妻がずっと見たがっていたセコイアの森へ友人夫妻と行く。

  次の2日間は予定なし。コキイチには休養日が必要。

  次は夫婦でゴルフ。妻は私たちのゴルフは、ゴルフではなく玉転がしだという。確かに私は、ボールを叩いた数を覚えていられない。打ったボールの行方さえわからない。医師に歩いて運動しないと脚の血管がさらに狭くなると言われている。ゴルフは楽しむというより運動だと思って18ホールを回る。万歩計は1万歩を超すのが何よりに楽しみである。それでも広いゴルフ場を妻と二人だけで過ごす時間は、日常から非日常の別世界となる。

  最後は友人家族を我が家に招き餃子パーティを開く。子供が3人含まれているので、一緒に餃子を包んで焼いて食べようと計画している。餃子を一緒に作ることはネパールの日本人補習学校で教えた時、生徒たちを家に招いて初めてやった。チュニジアでは後にイラクで殉死した井ノ上正盛さんをはじめとして大使館員家族と餃子パーティをした。餃子の皮から自分たちで作った。粉だらけになった。特に子供たちに喜んでもらえた。

  9連休の予定が決まった。この連休に私が歩んだ過去の多くが凝縮されて顔をのぞかせる。私を気遣ってくれる妻、子供、孫、友人。私も精一杯その人たちに気遣いたい。


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満開のシャクナゲと人の出会い

2019年04月24日 | Weblog

  メールが入った。「庭のシャクナゲが満開になり見頃になりました。バーベキューをしたいと思います。20日の4時からです。ご都合はいかがですか。」 私のハレとケはケが多い。こうして日常化したケにハレが飛び込む。お呼ばれは私にとって今最高のハレである。即刻、返事のメールを送った。

 子供の頃、遠足、運動会、誕生日、お盆、正月が楽しみだった。指折り数えてその日が来るのを待った。前日は興奮して眠れなかった。この歳になってもお呼ばれされると、あの子供の頃と変わらぬ気持ちになる。19日の夜、バッタンキューの私の寝つきが遅かった。

 布団の中で人の出会いの素晴らしさを思った。シャクナゲを愛でるバーベキューに招待してくれたSさんに会ったのは、ここへ越してきて間もなくだった。妻が東京の病院へ転職して、ここから通勤するようになった。私は妻を駅まで車で送る。駅には人が集まる。そんな中の一人がSさんだった。映画寅さんに出ていた御前様を演じた笠智衆が若い頃、背広を着て居るような人だった。男の私が見てもカッコ良いと思った。容姿だけでない。着ている服、履いている靴も季節にちゃんと合わせていた。Sさんも奥さんが駅まで車で送ってきていた。時々二人の娘と一緒の時もあった。車の中の奥さんも素敵だった。妻にSさんの事を話すと東京駅までいつも同じ列車に乗っていると言った。妻も彼の服装、特に靴に感心していた。

 今住む町に、時の経過とともに私たちも慣れてきた。ある時、地元の小中学校で地域住民の催しがあった。妻と二人で参加した。そこでSさんと初めて話す機会があった。Sさんは地域の交通安全部門で警察の白バイの展示を担当していた。話しても気さくで笑顔が素敵だった。妻がSさんと同じ電車で東京へ通勤していると言った。話していて、我が家での恒例のワイン会に夫妻を招くことにした。快く参加してくれることになった。こうして私たちのお付き合いが始まった。

 その後Sさんは、退職した。Sさんは戸建の庭のある家に住んでいる。その広い庭にシャクナゲの木がある。毎年、桜が散った後、4月中旬から咲き始める。高さ7,8メートルの立派な木だ。花の色は赤。(写真参照)赤の一文字で表現するのは気が引ける。畏れ多い。どうしても字で表すなら猩々緋(しょうじょうひ)か。太陽の光を浴びた時の美しさは、荒涼としたアフリカの大砂漠に朝日が顔を出す瞬間に匹敵。Sさんはこの季節、初めて訪ねる客人に道順を説明する時は「高台の庭に赤いシャクナゲの咲く木を目指して来てください」と言うそうだ。こんな洒落た案内してみたい。

 バーベキューが始まった。車庫の中にテーブルとイス。テーブルの上には2台の七輪。炭火のバーベキュー。招かれたのは4家族。Sさん家族の3人と合わせて総計14名。あの日私がSさんに声をかけ、ワイン会に招かなかったらこの14名がここに集うこともなかった。偶然の重なり合いかもしれない。そんなことはどうでもいい。こうして知り合い、こんな素敵な時間を一緒に過ごせることが何より感謝なこと。Sさん一家は酒豪。我が妻はさらに超酒豪。どんどんワインのボトルが空く。シャクナゲの木は車庫の向こう。車庫から見えない。主客転倒か。シャクナゲを愛で、写真に収め、肉を焼き、ワインを飲む。こういう時間が持てるから、子供の頃、遠足が楽しみで寝付けなかったように、お呼ばれを待ち焦がれる。無理もない。それ以上だ。

 夕方になり、車庫から家の中に皆で各自のグラスを持って移動。二次会となる。こうして楽しい時間が過ぎた。タクシーを呼んでもらい帰宅した。風呂は妻が酔っていたのでやめようと二人で決めた。しばらくすると妻が風呂に入った。これが酔っぱらい現象である。言ってることとやってることがかみ合わない。しょうがないなと、妻のように全身全霊でどっぷり酔えない私は思った。

 風呂場が静かなので、もしやと思い戸を開けた。浴槽に沈むように浸かって、まるで天使のように眠る妻がいた。Sさんの娘が言っていた。「私はワインの中で死にたい」 妻が眠る浴槽の湯が白ワインに見えた。


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87歳の暴走

2019年04月22日 | Weblog

 「もう少し右」「曲がってる、戻して」私が住む集合住宅の駐車場に妻の声が響く。妻と車で出かけ、駐車場に駐車するときの様子である。今の車には、カメラがついていて後進する際、後ろが運転席の左側のナビの画面に映し出される。若かりし頃、免許を取って自分で車を運転するようになってから、車庫入れなどで車をバックするのが得意だった。狭い空間に車を入れるのも嫌と思わず、かえって面白がっていた。ピッタリ思い通りに車を操作するたびに悦にいっていた。それだけでなく、無茶な運転をして事故寸前の危険な目に何度もあっていた。速度違反も数多く犯した。私は決して模範的な優良運転者ではなかった。

  妻の海外赴任に同行した13年間、運転環境が悪い国では現地の運転手を雇った。チュニジアでは雇った運転手が事故を起こして、私は胸の骨を折った。ネパール、セネガル、チュニジア、ロシアどこも恐ろしくて運転することはなかった。ただ旧ユーゴスラビアでは運転手を雇うことなく自分で運転した。危険を感じることはなかった。オーストリアやイタリアへ800キロ1000キロという長距離を運転して休暇を過ごしたり、買い出しに行ったこともある。経済封鎖されていた旧ユーゴスラビアの高速道路は交通量が少なく、ほとんど車が走っていなかった。そんなところを200キロ以上の速度で走った。車のハンドルを握ると人が変わるというか本性が現れる。間違いなく私にもそいう危険な一面がある。

  帰国して終の棲家として現在住む家を買った。55歳だった。まだまだ速い車、馬力のある車、大きな車に目を奪われていた。遠乗りも平気だった。車を運転することで気分転換になった。速度が早ければ早い程、エンジンの力強さを体感できればできる程、爽快感は増した。警察に捕まらなければいい。そういう愚かな考えさえ持っていた。

  65歳を過ぎたころから、だんだん様子が変わってきた。魔の一瞬でヒヤリとすることが増えた。事故を起こして自分が死んだり車が壊れるのは構わない。しかし絶対に他の人を巻き込みたくない。体の変化、運動神経の反発力や咄嗟の判断力の低下に白旗を上げた。車での遠出をやめ、電車を使うことにした。3500ccから660ccの車に換えた。車は妻の駅への送り迎えと、買い物だけに使う。コキイチになり四つ葉マークにあと4年に迫った。

  19日午後0時25分ごろ、豊島区東池袋4丁目で板橋区弥生町の無職飯塚幸三さん(87)の車が赤信号だった約70メートル先の交差点で男性をはね、速度を上げながら次の交差点にも赤信号で進入。自転車で横断歩道を渡っていた松永真菜さん(31)と長女莉子ちゃん(3)がはねられ死亡した。

 路上に残された麦わら帽子と子供用ヘルメットを見て、 胸が苦しくなった。87歳と31歳。87歳と3歳。理解しがたい。計算が合わない。腑に落ちない。こんな事故がまた起きてしまった。私はいろいろあったが71歳の今日まで生きた。保育園、小学校、中学校、高校、高校の途中からカナダへ留学、帰国後、英語塾で多くの生徒を教えた。結婚。二人の子供、離婚、15年間一人で二人の子供を育て、再婚、妻の海外赴任に同行して13年間外国で暮らし、帰国して余生を送っている。31歳の母親、3歳の娘の命が一瞬で消されてしまった。こんな私でさえ71年間の喜怒哀楽をこれでもかと、その日その日その一瞬一瞬を味合いつつ生きて来ることができた。生きているから、夜、寝ても朝また起きられる。「また朝が来てしまった」などと罰当たりなことを考えることもある。私が生きていても世の中のために何もできないと思うこともある。私にできることといえば、32歳と3歳の母子のような犠牲者を私がつくらないことであろう。そのためにどうしようかと免許を持っていても車をまったく運転しない妻と相談する。結論はまだ出ていない。

  今朝、妻を駅までいつものように車で送った。「ドライブレコーダーって映像だけでなく音声も録音しているんだってね。私たちが話していることも全部録音されているんだ。困ったね」 便利な装置やモノはどんどん発明され実用化される。でも人はそう変わらない。

  妻を駅に送って家に戻る途中、青信号で角を曲がろうとしたら、歩道から急にマラソンの選手のようなランニングに短パンのオジサンが飛び出してきて私の車とぶつかりそうになった。歩道の信号は赤。私は青。でも事故になったら、それを証明すことができるのか。ドライブレコーダーの映像も音声もいいが、妻がいたらきっと「あの人、おかしいよ。信号赤だよ。何考えてるの。危ないったらありゃしない」の実況録音が一番の証拠になるであろう。どんなに気をつけていても、事故はいつでもどこでも誰にでも起こり得る。ハンドルを握るたび、安全を祈ってから出発して、安全に帰宅出来たら感謝している。


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男性トイレに女性清掃員、男性浴場に女性清掃員

2019年04月18日 | Weblog

  去年から糖尿病の薬が医師の勧めで換えた。日本ベーリンガーインゲルハイム社のジャディアンス10mgで一錠当たりの薬価が198.7円の薬だ。この薬には副作用がある。尿を多く排泄させて、同時に糖分を体外に出す。私は以前、用をたすのは、1日に4,5回ほどだった。40歳までやっていた塾の仕事でトイレに行く間もなく連続して働いていたので、体がそれに慣れたようだ。71歳を過ぎた今でも夜間にトイレに起きることはない。ジャディアンスに換えた時、医師が薬の説明をした。頻尿になると聞いて心配した。しかしそれは日中だけで夜は変わらなかった。

 1月にカテーテル手術を受けて、膝から下の血管にも狭窄が見つかった。すでに手術できる段階ではないと言われた。医師は、運動して何とか血管の現状を維持するよう指導を受けた。退院した日から一日5千歩を目標としている。ジャディアンスを服用し始めてから、確かに尿意が頻繁になった。散歩途中でも公衆トイレを使うようになった。散歩の目標地点である駅のトイレは必ず立ち寄る。駅のトイレもデパートのトイレ並みにいつ使っても綺麗で嬉しい。

 昨日、ネットにこんなニュースを見つけた。「男湯に入ってくる“女性清掃員”、男性客は困惑……法的には?」これは4月17日水曜日に『弁護士ドットコム』が配信したものである。スーパー銭湯の男湯に若い女性清掃員が入ってきて非常に不快だと弁護士ドットコムに男性から相談があったという。待てよ、以前から私は駅のトイレなどで女性が清掃しているのに疑問を持っていた。今までに妻以外の他の人とこの件で話したことはなかった。

 10代後半に留学したカナダの全寮制高校は、キリスト教の校則が厳しい学校だった。驚いたのは教室の出入りは、男女別々だった。男女交際は厳しく規制され、発覚すれば即退学だった。何人も学期半ばで学校を去った。寮はもちろん男女別々。シャワー室もトイレも使うのも掃除するのも男子は男子、女子は女子で入り込むすきはなかった。アメリカを旅行しても男女の区分けが明確で社会全体がそれを受け入れていた感があった。

 ジャディアンスを服用するようになって家以外のトイレの使用が増えた。いつも綺麗に清掃されているのは嬉しいが、女性清掃員が仕事中だと気分が滅入る。これだけの設備も清潔度も掃除も行き届いた公衆トイレは世界に誇れる。私が感じるのは、たとえ歳をめした女性であっても女性は女性である。だから公衆トイレで清掃の仕事をする女性が、男性トイレも清掃するのは、その女性に対して失礼だと私は思う。このことに対して日頃やれ人権がどうのこうのとうるさい方々が口をつぐんでいるのはいるが不思議でならない。国会議員にも女性議員がいる。党利党略の政争にただの党員として明け暮れるのもいい加減にして、公衆トイレの清掃を取り上げて欲しい。おそらく国会議事堂の中、議員会館の中のトイレがどうなっているのかの関心もないに違いない。1964年にオリンピックを開催して、あれから54年経ち、2回目のオリンピックを控えている。公衆トイレは、見違えるほど立派で綺麗になったが、女性清掃員が男性トイレも清掃する現実は変わらない。

 50年以上たっても変わらないということは、おそらくこれから50年先でもこのままなら変わらない。私が悲しく思うのは、男性トイレで清掃の仕事をする女性が女性として見られないのではないかという懸念である。まるで透明人間のように、そこにいて、見えていても見ない、そこにいても、いることを無視する。女性が男性トイレにいること自体を何とも思わないこの社会全体の無神経さに驚く。

 日本のテレビがドキュメント番組以外あまりにもつまらないので、ネットフリックスやアマゾンプライムで海外ドラマを多く観る。ヨーロッパ北米中南米どこのドラマもセックスシーンなしでは終わらない。良い悪いというより彼らは性を人間の自然な行為として見ている。私が学んだカナダの全寮制高校がなぜあれほど男女交際に厳しかったのか。あの年齢の若者の性への関心がどれほど強いものであるかを規制する一つの手段であったと思う。日本のテレビドラマを観ていると性はタブー視される。インド映画は、性をダンスに置き換えて表現すると言われている。公衆トイレの男性トイレで女性清掃員が働いていてもスーパー銭湯の男湯で女性清掃員が働いていても問題にならないのは、日本人と性の問題に関連しているのかもしれない。透明化して見て見ぬ振りをするのと本来の日本人の奥ゆかしい色気とは違う。少子化、結婚しない若者問題も突き詰めれば、そこに行きつきそうである。ヤフーニュースで検索した木村正人「失われた20年」のレポートが参考になる。


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レオパレス問題と映画タワリングインフェルノ

2019年04月16日 | Weblog

  今朝、目覚まし時計代わりのラジオの放送が始まると、パリのノートルダム寺院が燃えていると伝えた。火事は恐い。私が4歳の時、お産で母親が亡くなった。その母親の記憶ではっきり覚えていることがある。近所のセメント瓦製造工場が火事になった時のことである。母親が着物をたすき掛けにして一心不乱にバケツに水を入れ運んでいた光景だ。火事の炎、顔を煤で黒くして重いバケツを運んでいた母。当時の事はそれ以外何も覚えていない。どれほどあの火事が恐かったかの証拠であろう。火事と聞くたびにあの記憶がよみがえる。

  火事などの深刻な被害に繋がらなかったが、レオパレスの界壁の違法建築問題に関してテレビ東京の番組『ガイアの夜明け』の3月26日火曜日の放送で新たな証言が明かされた。(界壁とは:界壁とは、共同住宅において、各住戸の間を区切る壁のことをいいます。 相応の防耐火性能や遮音性能が求められます。 建築基準法上、界壁は遮音上問題となるすきまのない構造であり、耐火構造または準耐火構造または防火構造でさらに天井裏に達するように設けなければなりません。)

  昨年5月のレオパレスが会見で会社は、施工業者が界壁番組を観て、あのスティーブ・マックイーン主演の映画『タワリングインフェルノ』(1974年)を思い出した。サンフランシスコに新名所として地上138階建ての超高層ビル「グラス・タワー」が完成し、落成の日を迎えた。設計者ダグとビルのオーナーのジムは、客300名を135階の宴会会場に迎え、盛大な落成パーティを開く。その頃すでに、ビル地下室の発電機が作動せず、予備の発電機を始動させたところ、配電盤のヒューズが発火して床のマットに燃え移った。知らせを受けた設計者は、配線工事が自分の設計通りに行われていないことに怒った。ビル建設の責任者が経費削減のため、手抜きしたのだった。

  私たち一個人がどれほど注意深くしていても、自分以外の他人が悪さを仕掛けてくれば、それを見破ることは、ほとんどできない。ましてや専門業者が施工製造する物で私たちの専門外であり、目に見えない物であれば尚更である。私が子供の頃、近所で家を建てた人たちは、大工さんの仕事を始終見張っていた。決して口には出さなかったが、不正手抜きを見張っていたと聞いた。これは一種の契約が実行されているかの審査行動であったと思う。最近、自動車製造会社のリコール問題が多発しているが、自社内でまあまあ、なあなあの検査方法が機能していないのである。

  4月上旬に私が住む集合住宅の大規模修繕工事がやっと終わった。工事の総監督は一級建築士という資格を持つ人が当たった。いくつか不具合があった。いくら監督をするといっても全てを見張って検査点検をするわけではない。やはり信頼信用にすがるしかない。

  地震雷火事おやじ。厳格でうるさいおやじは、もういない。私自身おやじになったが、生温い。日本は自然災害の多い国である。建築基準も厳しい。しかしいつの時代どこの国であっても利益という欲にかられ悪だくみをする輩はいる。このくらいの手抜きならばれないだろうと高を括って、砂場の砂山を少しずつ切り崩すように手抜きをする。それがどこの業界でもまかり通る。今回のレオパレスにしろ、45年前の映画『タワリングインフェルノ』の不正にしても監督官庁である国家の検査監督機能は見抜いていない。不正や違反が見つかってから、後手後手で自分たちの失態を取り繕うと問題を追及する。自分の安全は自分で守ることには、限界がある。

  私が住む集合住宅は、全電化住宅でガスや石油を使わないで住める。もちろん石油使用は禁止されている。それでも安い便利な石油ストーブを使う人たちがいる。エレベーターの中に残るニオイは騙せない。火事を防ぐために設計者が、少しでも危険を少なくしようとしても、住民自らがあえて危険を冒す。火事が出た場合、どう責任を取るつもりなのか。

  人間誰しも目先の節約や利益に目を奪われやすい。私たちはどうしてもすぐ目の前の事に気を取られてしまう。用心はしすぎることはない。規則があれば、それを守ることと同時に見張ることも私たちの義務である。


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ショーケン

2019年04月12日 | Weblog

  ♪誰が何と言っても 気になんかするな 心配いらないさ 俺がいるからね♪ショーケンが自分で作詞して自分で歌ったDejavuの歌詞。3月26日に消化管間質腫瘍という希少癌のために68歳で亡くなった。荻原健一は、いわゆる不良少年、その後とっぽい若者、更にスキャンダルの多い危ない中年だと決めつけていた。私とは無縁の存在だと思っていた。

 NHKテレビ4月4日木曜日放送の『クローズアップ現代 独自映像“ショーケン”最期の日々』を観た。この番組は、彼が亡くなる少し前にNHKに彼が闘病した8年間全部で56時間に及ぶ記録を手渡したという。主に4番目の妻が撮影した。NHKに対して彼は、その記録を好きなように使って良いと言った。荻原健一をあこがれの芸能人として崇める一ファンではなく、死ぬ前の8年間の闘病を記録した癌患者として番組を観た。時々このような死ぬまでの闘病を記録された番組があった。私も今年の1月に心臓に異変を感じて、病院で検査を受けた。緊急のカテーテル手術を受けて、風船で狭窄を拡げ、ステントを入れた。年齢的にも71歳になり、いつ死んでもおかしくない。今回の番組で私は、もし私ならどう死に向かい合うかを考えた。まさに萩原健一は、私の手本となった。私が彼のように映像を残すことはない。何故ならその映像を観て、誰かの参考や手本になることがないからである。

  荻原健一という人に魅力を感じた。ただの芸能人ではないと思った。私は歌手としてのショーケンをあまり知らない。ただテレビドラマ『課長サンの厄年』や『冠婚葬祭部長』は、好きで録画して観た。ドラマの中で何かを要人に依頼する時、羊羹の下に札束を入れる場所がある箱の話があった。真実性があって喜んで観ていたのを覚えている。中々演技の上手い役者だとは、認めていた。

  その彼が亡くなる前に奥さんと沖縄旅行をした。亡くなる数週間前だった。ホテルのソファに横になってテレビを観ながら言った。「テレビの番組ってのはつまんねーな」「何観てもどうなってんだよ」「つまんねーの」 私も最近のテレビには彼と同じように思っている。でも彼は役者、つまりテレビに出る側の人である。その彼が観ている側の私と同じくテレビ番組に対して感じている。彼曰く、「自分の周りの人が何を言っても気にしない」「画面の向こうで観ている人たちのことだけ気にしている」と。これだ。今のテレビが受け入れらない原因は、番組を作る側のことばかり気にしていて、画面の向こうで観ている視聴者をないがしろにしているからである。だからどこの局でも同じ芸能人ばかりを使う。どこの局でも金太郎飴の似た番組になってしまう。

  8年間撮り貯めた記録の中にどっぷりつかり、番組が進むにつれ、私は彼と一緒に死に向き合う。彼には役者としての仕事が最後まであった。私は無職である。彼は強調した。生きるのは家族のため。自分は3人の女性を幸せにすることができなかった。4人目の妻のために生きる。遅かったがやっと答えにたどり着いたと。見事。あっぱれ。

  番組司会の武田真一が語った、「とっぽくて、陽気で、荒々しく、優しい…」と。紆余曲折、波乱万丈でも最後は立派だった。私も彼に学びたい。


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トーヨー・キッチンと高島屋

2019年04月10日 | Weblog

  イタリア人の友人が以前、イタリアのハタの魚スープが懐かしいと言った。私が住む町は海に近く、良い魚が手に入る。その友人夫妻を招いて魚スープをご馳走した。彼が言っていたハタ、ホウボウ、カサゴの良いモノを手に入れた。どこの魚屋でも売っているという魚ではない。行きつけの小さな魚屋は、朝、親戚の漁師から直接仕入れて持って来る。他にもクロダイを買った。まずオリーブオイルで魚を炒める。そこにたっぷりのイタリアントマトを加える。これを4時間から6時間、湯煎にかけた鍋の中で煮詰める。それをシノワ(西洋こし器)でじっくり濾す。味付けをして皿に入れ、別に食べやすく用意して温めたハタ、牡蠣、カニなどを入れた。友人夫婦は、喜んでくれた。

 魚は家の台所で自分でさばく。ウロコを落として内蔵とエラを外す。ヒレや骨やトゲで怪我もよくする。作業は台所の流しで行う。これが泣き所。ウロコは流しから飛び出してあちこちに飛び散る。魚専用の流しではない。食器を洗ったり、野菜の下ごしらえもする。今住む集合住宅はとても気に入っている。ただ台所があまり調理に優しくない。それは設計者がデザインに重きを置き、調理に興味がなく、台所で働く人、特に女性の事をあまり考慮に入れてなかったからであろう。

 凄い流しを見つけた。TOYO KITCHENという会社の『i-kitchen CUBE』。妻と二人暮らしにはピッタリの大きさ。今の台所をより広く使える。新宿高島屋の10階のリビング・インテリアフロアに実物が展示されているという。早速、見に行った。素晴らしかった。気に入った。魚の処理が流しの中の備え付けのまな板でできる。ウロコ対策もバッチリ。実に使う者の身になって設計されている。細かいところにまで気が行き届いていた。大満足。

  コキイチでシュフの私は、妻が病院で働いている間、多くの時間を台所か買い物で過ごす。下ごしらえには時間がかかる。それはネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアでも同じだった。日本のようにキレイな野菜を売っていなかった。ニワトリは丸ごと売られ、肉も塊、魚もとても刺身で食べられる代物ではなかった。まず食料は流しで下ごしらえしなければならなかった。泥、腐敗を除いた。ただどの国でも借りていた住宅が外国人用だったせいか、流しも大きく2曹でオーブンも大型だった。日本に帰国して困ったのは、流しが1曹で小さく、オーブンがなかったことだ。

  人は、それぞれ価値観が違い、どこにお金をかけるかが違う。15億円もするクルーズ船、自家用ジェット、フェラーリなど車に、海外旅行に、ブランド物の時計やバッグやハンドバッグに、服装にと。今年の1月再び心臓の血管狭窄が見つかりカテーテル手術を受けた。年齢的にも残された時間は少ないと感じた。だから動けるうちは好きな調理を楽しみたい。最後に残された欲は、食べること友人と過ごす時間。ならば私は食材と調理器具設備にお金をかけたい。そこで台所を改装することにした。予算は100万円以内。

  高島屋での対応はひどかった。商品知識がない。そこでTOYO KITCHENの青山の展示場に行くことにした。3月24日日曜日、妻の貴重な休みの日に二人で出かけた。これだけのために往復4時間。行かなければよかった。私たちが行く場所ではなかった。他に数組の客がいた。一組の家族は1千万円もするようなシステムキッチンの商談をしていた。両親と小学生ぐらいの男女二人の子。係は丁寧に対応していた。そのハイソな雰囲気に気持ちが萎えた。店の女性がまるで旅客機のキャビンアテンダントのように飲み物を運んできて差し出した。私たちは、12時を過ぎて喉も乾き、腹も空いていた。対応した係は、やる気が見られなかった。対応はレクサスの販売店へ軽自動車があるかと尋ねたような扱いだった。ならば入り口に看板を出せばよい。「予算500万円以上の方以外入場お断り」 しかし『i-kitchen CUBE』のカタログには日本の狭い台所のために設計されて付帯工事を除く本体価格は44万円からとある。いったいこの会社は、どちらを対象にしたいのかわからない。私は台所の写真、見取り図、どう改装したいのかを箇条書きにしていた。それに対してダラダラと煮えたか沸いたかわからない説明を小一時間聞いた。最後に近日中に見積書を送ると言った。妻の名刺を渡した。

  それから音沙汰がなかった。ついには私と妻が賭けをした。私は見積書を送ってこない派。妻は来る派。妻は勝ったら好きなものを買ってと言う。4月4日高島屋からメールが来た。すでに12日経っていた。私の負け。でも見積書の宛名が違っていた。失礼な。そして見積書を開くにはパスワードがいるという。別のメールでパスワードが送られてきた。入れた。「〇〇は表示されません」の表示。パソコンはブラックボックスである。結局私は違う人の名で送られてきた見積書を開けなかった。商売には気配り目配り手配りが不可欠。

  『i-kitchen CUBE』を買って台所を改装すると決めて人生最後の楽しみを満たそうという計画はこうして途絶えた。どんなに良い商品であっても売る側が、それを買う側に伝えられない熱意のない殿様商売ではダメ。これでは工場でこれほどの素晴らしい製品を作っている人々は浮かばれない。私は今まで通りの流しで魚のウロコを飛ばしながら調理を続けることにした。『i-kitchen CUBE』は夢だったのだと言い聞かせながら。


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新幹線と桜

2019年04月08日 | Weblog

  家の近くを新幹線が通っている。桜はいまだに多くの花をつけている。時速285キロで走り抜ける新幹線の白の車体と桜並木の桃色が良く合う。

  このところずっと快晴が続いている。1月の心臓の血管カテーテル手術以後、飽きやすい何でも途中で投げ出す私が、運動に励んでいる。一日5千歩を目標としてほぼ守り続けている。桜が綺麗なので歩くのも楽である。カメラを持って歩いている。先日から新幹線の先頭車両を構図の真ん中にして、咲き誇る桜と一緒に撮ろうとしている。先日、とても良い撮影場所を見つけた。自分だけではない。やはり同じことを思う人たちがいる。

 土手の桜の木から枝が川面に伸びている。太陽光に銀色に輝く川面。桃色の桜。白い新幹線。芽吹きが始まった薄緑の山々。青い空。鉄橋。高架橋。被写体は申し分ない。新幹線が通る橋からの距離は、数百メートルほど。私の他に本職の写真家らしき若い男性が2人いた。なぜそう思ったかというと装備の用意周到さ。そして服装。更に雰囲気。目つき。以前私の要請で写真家齋藤亮一にサハリンへ私の本のために写真を撮りに行ってもらった。齋藤亮一の写真集『BALKAN』に魅了されたからである。彼の印象が彼らに見て取れた。二人は仲間ではないらしい。二人とも三脚を構え、カメラには、どでかい望遠レンズがついている。調べてみると一本100万円以上する。私のカメラは80倍ズーム付きで3万円くらいのカメラである。二人ともそれぞれが時刻表を見てはカメラを構えている。私は彼らの動きを盗み見する。すると新幹線がもの凄い速度で通過する。構図は最高。しかし私がシャッターを切るとすでに先頭はいない。ただ白い帯状の車両が流れて写っていた。

 コキイチの私は、何もしていない時でも体が揺れている感覚が付きまとう。足元もおぼつかず、ちょっとの段差によくつまずいてこけそうになる。瞬間という動きには、とても追いつけない。若い写真家が超望遠レンズで通過する時間に見当をつけて三脚に固定されたカメラのシャッターを連続して切る。「カシャカシャカシャ」と小気味いい。私は体の揺れているような感覚を抑えて、腕の震え、手のぶれ、指のこわばりと闘いながらモニター画面を見つめる。画面がぼんやりとしか見えない。メガネは二つ。近眼と老眼。その時は近眼を着装。構図は最高。気象条件も良好。「今だ」とシャッターボタンを押す。「パ シャッン」先頭車両がいない。遅いのである。私の現状とよく似ている。身の程。結局、7枚撮ったが、先頭車両の入った桜は撮れなかった。失敗作:

 4月7日日曜日、再び散歩日和。妻と買い物がてら散歩に出た。桜がまだ綺麗に咲いている。構図も条件も良い。買い物を終えて川沿いの桜並木を二人で歩いた。他にも散歩する人たちがいたが、先日のように写真家らしき人はいなかった。今度は良い写真が撮れそうな気がした。写真家を気にすることもない。妻は私を残してどんどん先へ進んでいた。シャッターチャンスをじっと待つ。私は息を止め、新幹線の先頭車両を構図の真ん中に入れ、シャッターを押そうとした。降りない。画面に枠に囲まれた表示。「カードが入っていません」デジタルカメラにフィルムは必要ない。でもSDカードは必要だ。自分にあきれた。妻を追った。追いついて息を弾ませながら報告した。「カメラにSDカード入れてなかった」 妻が声をあげて笑った。私も笑った。思うような写真は撮れないが、順調に老いている。

 被写体の一瞬を絵にする写真家は凄いと思う。写真家だけではない。何であれ、あることを専門にしている人々を尊敬する。職人という言葉が好き。多くの素人がいて、専門家がいる。専門家と呼ばれる人々は、それだけの才能と努力を惜しまない。金もかかる。時間もかかる。素人の私が試みても中々思うような写真が撮れない。その苦労というか難しさを知って、更に写真家が捉えた一瞬を鑑賞、称賛できるようになった。素人というのも良いものだ。


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サクラと花火

2019年04月04日 | Weblog

 「このところの暖かさで、桜のつぼみがふくらんできました」「今年は例年より2週間くらい早く開花するでしょう」「気象庁が今日、東京で桜の開花宣言を出しました」「お花見は今週の週末が見頃となるでしょう」 今年、私はテレビから発信される桜情報に振り回された。

  3月16日土曜日友人を招いて我が家で「桜の会」を催した。もっと大勢招きたかったが、1月にカテーテル手術を受けてから、弱気になっている。無理をしたくない。自分ができるのは、せいぜい6人から8人ぐらいであろうと。桜の会だけではない。細かく分けてこれからも何か理由をつけて客を招きたい。「桜の会」は「今年は例年より2週間くらい早く開花するでしょう」を信じて日にちを決めた。大外れであった。当日、桜の花のつぼみはまだ固く閉じていた。妻が造花の桜を玄関に飾ってくれた。

  我が家の前の川沿いに並ぶ桜が開花し始めたのは、桜の会が終わって10日くらい後だった。やはり桜はいい。待ちに待った。今年もまた桜が見られた。それは古稀を過ぎた私へのご褒美である。1月のカテーテル手術の時、全身のMRI検査を受けた。結果、両脚の膝から下の血管に多くの狭窄が見つかった。医師はカテーテル手術で一時的に改善できても再発する可能性が大きい。運動して現状を維持することを勧められた。それからである。私はあれこれ理由を見つけては、家にこもっていたが、一日最低5千歩歩くことを決めた。退院後すぐ始めた。以前買ったウォーキングマシーンは、雨などで外に出られない日のために使うことにした。あの日から何とか最低5千歩は保ってきた。桜が咲いてから散歩が楽しみになった。

  桜を見る人々を観察するのも好き。老若男女問わず桜を愛でる人々の顏に憂いはない。桜は打ち上げ花火に似ている。今か今かと待つ段階。満開。散った後の余韻。20年前、長野の病院で心臓バイパス手術を受けた。その病院の前の河原で毎年12月の恵比寿講の日に冬花火が揚がった。病院の計らいでその夜、病棟の一番上の階にある花火がよく見える部屋に患者や家族が招かれた。車椅子に乗った人、酸素マスクをつけた人、患者の他にも看護師もいた。花火の打ち上げが始まった。私は自分の辞世帖として大学ノートに思いの丈を書き残してあった。「ドーン」と腹に響く打ちあがった音。私が生まれた瞬間か。スルスル、少しふらつきながら上がる。私の幼少期からの育つ課程か。爆発、花火光る花になる。私は果たしてあのように咲けたのだろうか。そして少し遅れて耳をつんざくような「ドッカッ~~~--ン」。残り火が拡がって落ちる。消える。私の隣のおじいさんが花火に向かって涙を流しながら手を合わせていた。

  芭蕉が『さまざまの事おもひ出す桜かな』と詠った。桜も花火も同じ反応を人に与える。桜が好きだ。誰がそこに桜を植えてくれたのだろう。植えてくれた人たちは、木が成長して今のように見事に桜が咲き誇るのをちゃんと見られたのだろうか。先人たちが自分では、桜の花を楽しむことができなくても、後世の人たちにと遺してくれたなら、なんという奇特な。凡人の一人である私はただ「綺麗だ」「これぞ日本の風景だ」とうそぶくだけ。

  平成の元号が5月の新天皇即位後から「令和」に変わる。いろいろマスコミが取り上げ騒いでいる。私は桜を見て自分の人生を想う。花火を見て自分の人生をかつて芭蕉が詠んだように思い出す。元号も人それぞれの日常を入れる袋のようなものだと思う。人それぞれ、さすがにまったく中身が違う。でも「令和」という同じ時代を括る入れ物に収まる。日本では亡くなると誰でも万人が地域内の同じ火葬場で荼毘にふされる。私に、そのことは愉快なことである。

  先日見知らぬ男性たちが、年金の話をしていた。「わしは企業年金が月70万、国の年金が月10万……」。ニッサンの元会長が会社の金で15億円のクルーザーを購入。フリーになった局アナが年間1億2千万円の契約。私とは縁のない話ばかり。でも桜と花火は教えてくれる。「お前は産まれて、生きて、死んでゆく」 桜を植えたのも、花火をつくって打ち上げてくれるのも人間。それらを見て涙を流すも人間。桜、花火を見るのは裸の人間。 


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海外からの観光客

2019年04月02日 | Weblog

  先日東京駅でのことだった。私は東海道本線の電車をホームで待っていた。私の前に二人の外国人女性がいた。歳の頃私と近い年齢らしかった。私はその女性たちの後ろに並んだ。構内放送で品川行きの特急が入ってくるが、この電車に乗るには特急券がいるので注意してというものだった。電車が入って来て停車した。前の女性たちが乗り込もうとした。余計なことだと思ったが、一応声をかけた。普段、私は英語を話すことはまずない。日本語さえおぼつかなくなってきている。でもとっさに英語が出た。「どこへ行かれるのですか。この電車は品川行きです」 答えは「横浜」。ならばこの次の小田原行きだ。会話がここから始まった。山下公園の桜を見に行くという。行き方を聞かれた。話をしていてこの二人は日本が初めだという。私の知る限り山下公園に桜があったかは定かではなかった。しかし彼女たちがそう言っているのだから山下公園への行き方を教えてあげるべきと思った。私と女性たちが乗るべき電車が来た。3人で乗り込み一緒に座った。彼女たちはJRのレイルパスという外国人観光客だけが買える割引切符を持っていた。山下公園へ行くには、横浜駅で東急に乗り換えて行った方がわかりやすい。でも彼女たちは、JRのレイルパスにこだわっていた。ならば根岸線で石川町まで行って中華街を横切って山下公園はどうかと尋ねた。20分から30分歩くとも説明した。彼女たちは歩くのが好きなのでそうしたいと答えた。私のメモ帳の1ページを破って、行き方をローマ字で書いてあげた。横浜駅に到着した。彼女たちの一人が私に「あなたはどこで英語を習ったのですか?」と尋ねた。「カナダ」 「カナダのどこ?」「アルバータ」「アルバータのどこ?私たちはカルガリーから来たのよ」 他の乗客たちに押し出されるように彼女たちはホームへ出た。私はカルガリーのすぐ近くの小さな町にいた。でも会話は終わった。電車のドアが閉まり、動き出した。二人は私に手を振ってくれた。私も動きを抑えて手を上げて答えた。寄りにもよってカナダのそれもカルガリーの人たちと東京で出会うとは。何か少しカナダの人に恩返ししたような気持になった。

 小田原駅で途中下車して駅の中のスーパーで買い物をした。3階から2階へ降りようとエスカレーターに向かった。エスカレーターの乗り口に5,6歳の外国人の子供が泣いて下に向かって金切り声を上げていた。エスカレーターの下の降り口のそばに、両親と子供が2人。どうやら他の家族が先にエスカレーターで降りてしまい、彼だけが上に残されたらしい。恐くてエスカレーターに足を踏み出せないでいたのだ。英語が通じるかどうかわからなかったが、聞いた。微笑みを添えた。そして下の彼の家族を指さした。老生が考え付くことをすべてやったと思う。「私が一緒に降りて君をあそこにいる両親に届けるけれど、いいかい」 彼はしゃくりながら「はい、おねがい」と言った。私は彼を抱き上げた。ミルクのニオイがした。彼は私にありったけの力でしがみついてきた。抱いたままエスカレーターを下った。たった数十秒のことだった。私は離婚して二人の幼子を男手ひとつで育てていた頃、彼らに言葉で私の気持ちを伝えることができず、よく二人を抱きしめた感覚がよみがえった。私にはそれしかできなかった。頼られる、信頼される、守ってあげられるという親の責任だけを果たそうとした。母親が腕を拡げて私に近づいた。彼も「マミー」と言って今度は安堵と嬉し泣きで母親の腕に乗り移った。父親が他の子供の手を引きながら、嬉しそうに「サンキュー ソゥ マッチ」と私に言った。

 もし英語が通じなかったら、東京駅のあのカナダ人女性が品川行きの特急に乗り込むのをやめさせることができただろうか。小田原の駅ビルのエスカレーターで、あの子は私に抱かれることを受け入れられただろうか。多くの観光客が日本にやって来る。今回のような出来事は毎日起こっているに違いない。中国人だったら、マレーシア人だったら、英語をまったく分からなかったら。来年はオリンピック、パラリンピックが東京で開催される。さらに多くの海外から旅行者が増える。私のような年配者さえ今回のような小さなお手伝いができた。これからも、まわりに目配りして、できる範囲で外国人であろうが日本人であろうがお手伝いできたら幸いである。私が海外で受けた親切の恩返しである。


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