団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

クイックルワイパー

2020年11月27日 | Weblog

  カナダ留学から帰国して、教員採用試験を受けようとした。しかし日本の大学を出ていないと受験できないことがわかった。帰国する前にきちんと調べておくべきだった。しかたなく英語塾を開くことになった。当時まだ塾はそれほどなかった。あっても定年退職した元教員が自分の家で細々とやっているぐらいだった。地元にあった国立大学の講師がやっていた塾には大勢の生徒が通っていた。そこは集会場を借りていた。

 はじめ自宅でやっていた塾もだんだん生徒が増えたので、教室用に貸事務所を借りた。ある日老婦人が訪ねてきた。生徒は中学生と高校生だけだった。孫のことで来たのかと思ったが、様子が変だった。教室に入って来て、机や椅子や壁の桟を、スーッと指でこするように這わせた。そのたびに指を目に近づけていた。「汚い…」と小さな声で言った。やがて私を睨め付けるように見て、教室から出て行った。あとでこの女性が集会場で塾を開いていた大学講師の妻だとわかった。

 商売敵の私を偵察に来たに違いない。塾は他になく、独占状態だったところに、変な教員免許も持たない者が塾を開いた。当然生徒の奪い合いが始まる。競争の世界である。株の世界で言われるように、儲ける人がいれば、必ず損をする人がその影にいる。無尽蔵に客がいるわけではない。一定数の客の取り合いになる。公務員と違って、自営業者には月給と言う保証がない。生きるためには、自分で稼がなくてはならない。

 突然塾の教室に入って来て、指であちこち触って「汚い…」と言われたことは、大いに参考になった。私は、塾で英語を教えることだけに気が向いていたが、他にも大切なことがあると知った。あの講師の妻の行動は、不可解だったが教室をキレイにしておくことを彼女の謎の訪問から学んだ。

 妻はきれい好きだ。整理整頓も上手。私が散らかす端から、片付けてくれる。時々二人がかりで掃除する。先週の週末も大掃除まがいのことをした。このところ私は、風邪気味で頭痛に悩まされている。ダラダラとしていたかった。妻が「コロナには換気よ」と部屋という部屋の窓を開け放した。従うしかない。大きな掃除機は重い。一人が吸い込み口のある部分で掃除して、もう一人は、モーター部分を持ち、配線が邪魔にならぬよう吸い込み口担当の後をつける。一人でやるよりずっと効率よく掃除できる。

 大きな掃除機では掃除できない場所がある。戸棚の下、テーブルの下の込み入った場所、テレビの裏、物と物の隙間。大きな掃除機の他に我が家には、小さなコードレスの掃除機もある。しかしこの小さな掃除機でもキレイにできない場所がある。

 最後に使うのがクイックルワイパーである。これは凄い。ワイパーのモフモフは、黒いものを買った。これでこんがらがった配線が、ジャングルのようになったテレビの裏でもコスコス。戸棚の下の狭い空間、ソファの下、テーブルの脚の周り、ベッドの脇。スーッと差し込み、カシャカシャと動かす。クイックルを引き出す。黒かった先ちょのモフモフがホコリで灰色になっている。詰まった鼻水が、ひとかみでスッキリしたような、耳掃除で耳垢がきれいに取れたときのような気分。いい気持!

 50年近く前、クイックルワイパーがあったら、あの大学講師の妻に「汚い…」と言われなかったかもしれない。良い時代に生きていることを実感。


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東花道側の溜席

2020年11月25日 | Weblog

  大相撲11月場所が終わった。好きな貴景勝と不死鳥の如く復活した照ノ富士との優勝決定戦は、見ごたえのある相撲だった。

 土日以外、妻が、仕事から戻ってから夕食をとりながら録画で楽しんだ。録画だと早送りができる。もう一度観たければ、巻き戻せばよい。便利である。嫌いな舞の海の解説やちゃんと喋べることができない北の富士以外の解説者の話も、どうしてこう下手で相変わらず上達しないNHKのアナウンサーのとって付けたような間の抜けた情報は、ドンドン早送り。好きな力士の取り組みは、ゆっくり観戦。こうして楽しんだ15日間も終わってしまった。いくら貴景勝が優勝して喜んでも、月曜日は落ち込む。コロナ禍で外出がかなわず、家にこもっている。テレビ番組もラジオ番組もお笑い芸人に占拠され、まともな番組がない。ガチンコ勝負の大相撲は、砂漠のオアシスのように荒漠とした日常を忘れさせてくれた。

 今回の大相撲で相撲以外にも楽しみがあった。東の花道側の溜席に陣取る観客に目が点。NHKテレビの甲子園の高校野球中継では、カメラマンがやたらと望遠レンズを使って、応援席の女子高生をアップにする。今このことがセクハラ行為にあたるのではと、問題視されているそうだ。大相撲では、その点、応援のタオルなどのアップはあるが、人物に焦点を合わせない暗黙の節度のようなものがあるように感じる。東の花道側の溜席には、女性が座る。15日間毎日同じ席にいた。彼女の姿勢がいい。まるで茶道の席にいるかのようだ。坐禅を組む尼僧のようでもある。女性の美しさは、けっして顏やスタイルだけではない。凛とした雰囲気を醸し出すのは、何と言っても姿勢の良さだ。ファッションショーのモデルたちが綺麗に見えるのは、着る服だけでない。姿勢の良さによって来ている服の魅力が引き出される。

 激しくぶつかり合う相撲がとられる土俵のすぐ下に、まるでフランス式の小さな花壇ができたようだ。NHKテレビのカメラは、彼女をアップでとらえるようなハシタナイことをしない。だから彼女がいつ画面にでてくるかを、予測できない。新幹線で時々点検のために走らせるイエロー新幹線車を沿線で待つようなものだ。だから映ると目を凝らす。彼女は大きなマスクをしている。顔の67割が隠されている。いくら目は口ほどに物を言う、といわれても、目だけで顔は想像できない。着ているワンピースが毎日違う。着こなしのセンスも悪くない。妻が言うには、脇に置かれたハンドバッグも相当な物だそうだ。妻もちゃっかり観察していた。良いのは姿勢だけではない。仕草も日本女性らしい。時々取り出す携帯電話の扱い、取り終わった力士への拍手の手の動き。ただ者ではない。漢の世界である相撲。格闘技の荒々しさに、添えられた正反対の存在であった。

 あの席は、公式には14800円だそうな。14800×15日=222000 あの席を手に入れるのは難しいそうだ。席料だけでなく服装装飾品など諸費用を計算したら、大変な出費であろう。謎である。謎は謎のままであるべき。全国放送されるテレビの力をまざまざ見せつけられた。政治屋の子供、芸能界の子供がテレビの世界になだれ込むのもわかる。

 今回あの謎の女性の影響か、大相撲観戦の女性たちの姿勢が、日を追うごとに正されていくようだった。効果抜群。欲を言うと着物姿を拝見したかった。

 


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アリスじゃない、ヤリス!

2020年11月19日 | Weblog

  車を変えた。1300ccを1000ccにした。私が車を使うのは、妻の駅への送迎と買い物だけである。長野県の実家に車で帰ることもない。運転にも寄る年波の影響がでてきている。老人が運転する車で若い人々の命を奪う悲惨な事故が全国で多発している。コロナも恐いが、交通事故も恐い。自分が加害者にならないよう、肝に銘じている。

 とは言え、新車はいい。新車の何とも言えない独特のニオイがいい。徹夜明けに飲むコーヒーの香りのように、気分を良くしてくれる。前の車は、3年間乗った。この3年間で多くの改良と進展が加えられた。私が一番困っていた、後進する際のモニター画面が、より見やすくなった。画面中央に青い線が一本加えられただけだが、この青い線が力強く老人の後進を援護してくれる。

 車の名前は、ヤリスという。以前はヴィッツだったが、欧米でヤリスとして販売していたので、世界統一名称に変えた。私は、旧ユーゴのベオグラードに住んでいた。大使館のスルジャンという現職員と知り合った。私たちは日本からシェパード犬を連れてきていた。ベオグラードでは集合住宅に住んだ。犬に集合住宅は、けっして良い環境ではなかった。ネパールでもセネガルでも一軒家で庭があった。犬は土の上が好き。ベオグラードへ移ってから、元気がなくなった。スルジャンはもと水球の選手。体が大きいだけでなく、特殊な能力を持った人だった。動物と話すが事ができるのでは思えるくらい、すぐ動物と打ち解けた。彼が私たちの犬を彼の家に預かってくれることになった。私は犬に会うために、せっせと彼の家に通った。

  次の妻の任地がチュニジアに決まった頃、彼は車を買った。ヤリスだった。大きな体を小さなヤリスに押し込んでいた。真っ赤なヤリス。彼は日本の車を買えたととても喜んでいた。転勤の日、私たちは車でチュニジアへ向かった。スルジャンは犬と別れるのが辛そうだった。犬も車の中だった。スルジャンが、高速道路の脇道を、真っ赤なヤリスで手を振りながら追って来た。私はその光景が目に焼き付いている。今回車を替えるに当たって、ヤリスという名前が、決め手となった。性能、スタイルから言えば、他の車にどうしても目が行ってしまう。年齢的にもう車の運転を楽しむ年齢でもない。ここはスルジャンが乗っていたヤリスにしようと決めた。

  車の色は、スルジャンと同じ真っ赤にしたかった。販売店の人と話した時、明るい青が一番目立つと言われた。暴走老人になるかもしれない私が、青い目立つ色の車を運転していれば、歩行者、対向車線を走る他の運転手にも認識してもらえそうだ。もう好き嫌いや趣味嗜好を、とやかく言っていられない。加害者にならぬなら、恥ずかしいなどと言っていられない。

  これが最後の車だともう3台前から言っている。その間、アクセルとブレーキの踏み間違いも一度経験した。車庫入れでまっすぐ入れたと思っても、外に出て見てみれば、ずれて曲がっていた。脳と手と目が、それぞれの主張が食い違う。

  妻に「アリスがさあ…」と言った。「アリスってなあに?」 いけね、車の名前もちゃんと言えないとは。


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死に別れより、生き別れ

2020年11月17日 | Weblog

  アメリカ大統領選挙が終わった。民主党のバイデン氏が次期大統領になると正式には発表されていない。トランプ大統領が敗北宣言を拒んでいる。選挙結果がどうであれ、今回の選挙で私はアメリカという国の結婚事情に、改めて関心を持った。トランプ大統領は離婚2回で結婚3回。民主党の大統領候補バイデン氏は、最初に結婚した妻を交通事故で亡くし、現夫人と再婚している。一方ペンス副大統領に離婚経験はない。民主党の副大統領候補ハリス女史は初婚だが、夫は前の妻との間に2人の子供がいる。詳しい事情は分からないが、私の場合と似ているかなと思った。

 日本も離婚率が高くなってきているが、アメリカのそれは日本の比ではない。私がアメリカによく行っていた頃、友人夫婦の動向には気を遣った。夫に「奥さんお元気ですか?」と問うと「実は彼女とは別れて…」と返事がきた。こういうことが、よくあって私は慎重にならざるをえなかった。

 私の父は、最初の妻を5人目の子のお産で亡くした。私が4歳で2歳と1歳の妹がいた。私は東京と直江津の親戚に預けられた。半年後に呼び戻された。亡くなった母の妹が継母として父に嫁いでいた。戸惑った。姉は「あの人は本当のお母ちゃんじゃないから、お母ちゃんって呼んじゃだめ。おばちゃんって呼ぶんだよ」と私に命じた。しばらくおばちゃんと呼んでいた。そう呼ぶたびに継母が悲しそうな顔をした。いつしか「かあちゃん」と呼んでいた。

 父と母は喧嘩が多かった。子供の育て方の意見の違いだった。そのたびに母が、「死に別れより、生き別れ」という言い方で、自分が父に嫁いだことを悔いていた。継母によれば、“死に別れ”は、良いことだけがドンドン美化されて、再婚相手と比較される。“生き別れ”は、憎しみが全てを忘れさせようと働くという。何もわからなかった私でも、そういう継母に同情した。

 私はバツイチである。継母がよく言っていた“生き別れ”だった。二人の子供を引き取り育てた。そして再婚した。29歳で離婚した。44歳で再婚。私は子供達が大学を卒業するまで、自分の事は考えないようにした。13年間、自分の仕事と子育てに専念した。永井隆著『この子を残して』中央出版社 980円を何度も何度も読んで耐えた。永井隆は、長崎で被爆した医者で原爆で妻と二人の子供を亡くし、残された二人の子供を育てていたが、自身も白血病になった。死を意識しながら、子供に書き残した文章である。子供にとって親は、替わりがいない存在だと書いている。

 今回のアメリカ大統領選挙で民主党のハリス女史が副大統領候補に選ばれている。ハリスさんの紹介が私の関心を惹いた。「子どもの時に親が離婚したので、親が誰かとデートするつらさを私はよく知っていた。だからダグとの関係が長く続くとわかるまで、私は家族の生活に深く入り込まないようにしようと心に決めていました。子どもは変わらないものを必要としています。私は彼らのいっときだけの支えにはなりたくなかった。彼らをがっかりさせたくなかったからです。子どもをがっかりさせるほど最悪のことはありません」

 私の妻は「何事もシンプル イズ ベスト」と言ってハリスさんと同じように、一歩引いて、家族に気を遣ってくれている。感謝なことだ。私が尊敬する人々は、妻を含めて、一回の結婚を仲良く全うする人々である。

 


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マスク大尽

2020年11月13日 | Weblog

  テーブルの上にマスクを並べてみた。何かマスク大尽になった気分。日本の物の豊かさを、今更ながら思い知らされている。

  コロナが世界中で猛威をふるっている。日本では、ダイヤモンドプリンセス号の一人の中国人乗船客から始まり、昨日で累計10384名に感染した。死者は1872名に達した。その中には、岡本行夫さんや志村けんさんも含まれている。悔やんでも悔やみきれない。

 日本はアメリカやヨーロッパ諸国と比べると感染者数は少ない。しかしこのところ感染者数が増加傾向になっている。新型コロナウイルスは目に見えない。防ぎようがない。私のような高齢者で糖尿病狭心症の者は、ただただ家にこもっているしかない。でも妻は、仕事で東京の病院に勤務しているので、ウイルスを家の中に持ち込む可能性は、否定できない。この8カ月以上の長い期間、毎日コロナ感染の妄想に振り回されている。生活が一変した。誰も我が家を訪れることはない。

 外出は、散歩と買い物だけ。床屋にももうずっと行ってない。年齢を超える爺ムササ全開である。部分入れ歯も付けない。そうでなくても部分入れ歯は、合っていないのか痛いし違和感が強くて不快だ。でも大丈夫。部分入れ歯をいれてなくても、マスクが隠してくれる。この効用には、感謝している。散歩に出ても、人がいない所では、マスクを外す。私は歩きながら3秒吸って、7秒吐くというロングブレスをする。マスクを着用したままでは、できない。まれに人とすれちがう時は、ロングブレスを中断して、マスクをつける。

 ♪うがい手洗いニンニク卵黄♪は、もう一日に何回歌うことやら。にんにく卵黄は、飲んでいないが、できるだけニンニクは、食べるように料理に多用している。うがい手洗いマスクと歌いたいところだが、マスクは語呂が悪いのでニンニク卵黄のまま。3密の密閉、密集、密接もコキゾウには、密閉だけが懸念されるだけで、密集、密接には、とんとご縁がない。

 私を気遣ってくれる家族や友人知人が、たくさんマスクを送ってくれる。何カ月か前には、日本の内閣総理大臣から大顏連会長の私には、いささか小さめの布マスクさえ送られてきた。

 マスクと言えば、以前は中国製ばかりだったが、最近は日本製のものが多くなってきた。上田からは、上田紬を使ったマスクさえ送られてきた。正直、マスク着用の時には、どれをつけるか迷う。夏は長男の奥さんから、ヒンヤリマスクなる優れものを送ってもらった。これは、夏の暑い日の散歩に役に立った。多くの人から気遣ってもらえて嬉しいと、マスクを手にするたびに感謝している。

 カナダに留学する前、軽井沢の宣教師の子供の学校で英語を学んだ。そこの生徒たちは、日本人が風邪をひいた時つけるマスクをケチョンケチョンに馬鹿にしていた。アメリカでコロナ感染が止まらない。トランプ大統領もマスクが嫌いなようである。あの軽井沢の子供と変わらない公衆衛生観念であろう。衛生より見た目が大事。格好悪い。男はタフガイでいなければ男でない。風邪やコロナウイルスごときにマスクがいるか、の結果が感染拡大の原因でもある。

 日本人は用心深すぎるという人がいる。何を言われてもいい。コロナにやられたら、イチコロだ。自分の身は、自分で守るしかない。マスクを送ってくれた人々は、私がコロナ感染しないよう願って送ってくれた。それに答えたい。もうしばらくマスク大尽でいることにしよう。


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ハーブ ローズメリー

2020年11月11日 | Weblog

  ハーブや香辛料に興味がある。特にローズメリーが好き。子供の頃は、ローズメリーの存在さえ知らなかった。カナダ留学中もローズメリーは、女性の名前だと思っていた。音の響きもいい。ハーブとして、実際に口にしたのは、北アフリカのチュニジアだった。

  チュニジアはイスラム教国なので、人々は豚肉を食べない。羊の肉が多く食べられている。住んでいた首都チュニスから少し離れた村に羊の焼肉で有名な店があった。その店の周りは、ローズメリーが群生している。羊はローズメリーがたいそう好きだそうな。たくさんローズメリーを食べた羊は、すでに身がローズメリーで味付けされているようなものだ。店先で解体された羊を炭火で焼く。味付けは岩塩だけ。美味かった。ローズメリーを好きになった。

  帰国して現在住む集合住宅に入居した。温暖な地なので、ベランダで花やハーブが良く育った。ローズメリーも植えた。ある日猿の群れが、雨宿りのためベランダで1晩過ごした。ベランダの桟には、たくさんの花やハーブが鉢植えされていた。被害はなかった。ただあの数での襲来だったので、マーキングされた柱や床の悪臭がひどかった。落とし物を片付け、床をブラシで洗った。そして花やハーブが喰われていないか調べた。ローズメリーを植えた鉢が無くなっていた。下の駐車場に落とされたのかと、調べたがそうではなかった。「猿が鉢ごと持ち去ったのか!まさか山の中でローズメリーを植えて増やそうとする魂胆ではなかろうか」 ローズメリーのハーブとしての効能に、頭が良くなるがあると聞いたことがある。私にはもう遅いが、猿は本能的にそのことを知っていたのかもしれない。もしそうだとしたら、野生動物もすみに置けない。

  ハーブや香辛料は、おのおのの地域の住民の長い食文化史の結晶だと思う。妻の任地で、いろいろなハーブや香辛料を知ることができた。各地の市場は、まるでハーブと香辛料の博物館だった。ネパールではカレーに使う多くの香辛料、アフリカのセネガルのバオバブの実、真っ赤ビサップ茶、旧ユーゴスラビアのパプリカ、チュニジアのミント茶やローズメリーでマリネした羊の焼肉などなど。

  日本にも昔からたくさんのハーブや香辛料がある。私は、山椒が好きだ。鰻料理にふりかけると最高。ビリピリ感が堪らない。大葉もいい。七味唐辛子は、日本の香辛料の玉手箱さ。調味料として使う醤油や味噌の存在も嬉しい。それを海外からの観光客が喜んでくれるのも嬉しい。60年前、軽井沢の宣教師の子供達に散々馬鹿にされたが、外国人でも最近の観光客は、敬意を持って日本文化に接してくれることが喜ばしい。

  散歩の途中、ある家の前の花壇にたくさんの小さな紫色の花がこぼれるように咲いていた。近づいて見るとローズメリーだった。チュニジアのローズメリーの野原を思い出す。一斉に開花して、紫の絨毯のようだった。

  日本の町には、たくさんの花壇がある。空き地もある。私に提案がある。ハーブの多くは、綺麗な花を咲かせる。ハーブの花壇があってもいい。そして看板。「どうぞ自由にお持ち帰りください」 私の勝手な夢である。


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坂道をコロゲ落ちる

2020年11月09日 | Weblog

  「飲食業をしている友達が、なかなか売り上げが伸びず、悩んでいるのを慰めようとして、マコさまは、何か気の利いたたとえ話をしようと『いい、今は長い上り坂を登っているようなものよ。ね、苦しくてもさ、その坂を登り切れば、あとはコロゲおちるだけだからさ(山梨県 ソラシ堂さんの投稿)』」(11月8日ラジオ ニッポン放送 三宅裕司のサンデーヒットパレード うちのマコさま) 三宅裕司のツッコミ:「ちっとも慰めになっていないよ。」

 このところ散歩には、うってつけの天気が続いている。雨さえ降らなければ、毎日最低5千歩を達成するために外に出る。悪化する脚の動脈硬化をくい止める最後の砦なのだ。何としても脚の切断だけは避けなければならない。とは言いながら、私のズル精神は、衰え知らずに健在している。

 私が在籍した高校では、年一回市内を全校生徒が走るマラソン大会のような催しがあった。私は、走ることが大嫌いだった。短距離も長距離もまったくダメだった。父も姉も脚が早かった。姉は、県記録を出したほどだった。私には何故かその血が入らなかった。走ると必ず脇腹が痛くなった。高校の同じ組に、私と同じように走ることを嫌う者が少数いた。走る会で、先頭からすでに相当遅れた集団にいた私たちは、ここで暗黙の了解のもと、ズルをした。勝手知ったる市内である。抜け道、近道は、しっかり皆の頭に入っていた。コースから離れて、相当な距離を挽回して成功かと思われた。自転車で見回っていた担任に見つかった。酷い言葉で罵倒され、こっぴどく叱られた。ますます走ることが嫌いになった。

 コキゾウになった私は、すでに走るということとは無縁である。散歩でもできるだけ歩きやすい道を頭ではじき出している。最近気に入っている道順は、最初避けている坂道を少し登る。息が荒くなり、心臓が音をあげる。脇を車がスーッと通り抜ける。歩いている人にも抜かれる。中には走って私を抜いてゆく人もいる。心が乱れる。でも我慢。「♪何だ坂こんな坂♪」と唱える。折り返し点と決めた場所に出る。そこからは下りが長く続く。これがたまらない。

 歩きながら、高校の同級生の今は亡きD君を思い出す。D君は、往復4時間かけて通学していた。とても優秀で成績が良かった。難関大学にも合格して進学した。毎日電車の中で予習復習をしたという。それなのに通学時間5分だった私は、彼の10分の1の勉強もしなかった。坂のない平坦なところでノホホンと暮らしていた。彼の話は、面白かった。話し上手だった。家から駅までは、数十分で帰りの坂道は、1時間ほど自転車を押して帰ると、身振り手振りで話した。自転車のブレーキは、1カ月もたないほど急速に減ってしまう。時々ゴムがなくなり、煙と火花が出ると。そのD君も若くして鬼籍に入ってしまった。

 ズルしながらもまだ私は生きている。感謝なことである。散歩しながらいろいろなことを考える。D君をはじめ、私より早く逝った人々が浮かんでは消える。時々坂道をふらつきながら登り、下る。同じことの繰り返しに不平を言い、コロナに悪態つく。私の人生、峠はとっくに過ぎた。あとはコロゲ落ちるだけ。それでも、コロゲながら、身の回りのやり残したあれこれに手を伸ばし、ブレーキのゴムのような人生の残り時間を減らしながら掴もうともがく毎日である。

 


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ワイン新酒

2020年11月05日 | Weblog

日曜日に友人からワインが赤白2本届いた。さっそく礼状を書いた。メールが来た。「素敵なカードでご丁寧な礼状ありがとうございました。このノヴェッロワインは、イタリアのアドリア海の町マルケ州で今年採れた葡萄を使って作った生ワインです。イタリア版ボジョレーヌーボーです!1カ月前から予約して解禁と同時にお届けできるよう依頼していたものです。今年の葡萄の出来具合は分かりませんが、このコロナ禍の中、イタリアのワイン農家を応援する意味も込めて、そしていつも私たちを気遣ってくださるご夫妻への感謝を込めてお贈りいたしました。ボジョレ童謡、旬の爽やかな風味を味わうため早めに飲んでください。この季節限定の数量限定のワインです。特にマルケ州のノヴェッロは、人気です。お口に合うと良いのですが。」

 妻が遅い夏休みを4日間取っていた。何というめぐりあわせ。こんな貴重な新酒が手に入ったのだから、料理もイタリアンにして新酒と楽しむことにした。コロナで設宴ができなくなってから、本格的な料理をずっとしていなかった。妻に手伝ってもらってイタリア風に挑戦した。

  新酒を送ってくれた夫妻の旦那さんはイタリア人、奥さんは日本人でイタリアにずっと住んでいた人。いつも招かれては、本格的なイタリア料理を味わうことができた。至福の時を過ごせた。

  イタリア風料理は、うまくできなかった。でも妻の手伝いもあって、何とか完成した。料理より新酒だと自分を慰めた。私はワイン、何を口にしてもソムリエが言うような感想が出てこない。赤と白の違いが判る程度。コーヒーも同じ。いろいろ説明を受けても、口にするコーヒーは苦いとしか言えない。悲しい。でも私は、ガラスの心の持ち主である。感受性が強い。ワインでもコーヒーでも、それを口にする環境、状況、雰囲気によって敏感に反応する。食卓を囲む人、食卓に並ぶ料理によって、ワインもコーヒーも化学反応を起こす。これが私にはたまらない。新酒を送ってくれた友人夫妻と共に、食卓を囲むことはできなかったが、何度もワインの瓶を傾けるたびに、友の気遣いも一緒にグラスに注いだ。

  新酒といって思い出すのは、オーストリアのウイーンである。経済封鎖を受けていた旧ユーゴスラビアに住んでいた時、買い出しはウイーンへ行った。ウイーンの秋には、楽しみがあった。通りのあちこちでシュトルムやモストというワインになりつつある液体が売られていた。私は甘酒のようなものだと思って飲んだ。ワインよりずっと私向きだった。何かの果汁のようにスーッと飲める。でもこれ結構、後から効いてくる。私が焼酎のお茶割を初めて飲んだ時、グイグイ飲めたがその後、酔って倒れたことがある。シュルムやモストが街に出てくると、ウイーン近郊のホリイゲでのワイン祭りが始まる。葡萄園に囲まれた町が、一斉に酒場に変わる。庭にテーブルが出され、人々が新酒を酌み交わす。

  そのウイーンで先日、テロが起こった。コロナ禍は、再び欧州で感染をしてきた。コロナに脅え、テロに脅える。アメリカの大統領選挙も混迷を深めている。大規模な暴動が危惧されている。世界はいったいどこに向かおうとしているのか。もう新酒を酌み交わして、楽しむことは、許されない邪道なのだろうか。邪道であっても、全身の力を抜いて、仲良くヨパラッテいるほうを私は選びたい。


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