大使館の医務官として赴任する妻に同行して、8つの大使館総領事館をまわった。大使館の狭い社会は、階級制度でがんじがらめである。大使、公使、参事官、1等2等3等(書記官、理事官)、技官、文官、キャリア、ノンキャリといろいろある。この他に番外で配偶者、家族がいる。
大使公邸などで開かれるパーティに出席すると、すこし外交の世界を垣間見ることができる。私が正装してパーティ会場にいると、そそかしい外国人外交官が近づいてくる。私の事を知らない外交官は、まず私の階級を聞いてくる。「医務官の夫です」の私の返事が終わらないうちに相手の興味は消える。外交官たるもの、医務官の夫などと時間を無駄にすることはできないのである。それは大変重要なことだ。外交官たるもの、いかに効率よく自分が属する国家に有益な情報を手に入れるかである。適切な情報源の人脈を持ち、常に情報交換している。私はいかなる情報をも持たない。だからどんなパーティでも私はヒマだった。私の妻もどこかの国の医務官でもいれば、少しは時間つぶしができるが、いなければ私と同じようなものだったらしい。
外交団ではないが、私は自分の家で積極的にいろいろな人びとを食事に招いた。楽しかった。なぜ楽しいかと言うと、私は生活目線で人選するからだ。まったく仕事から離れて、日常生活の中の自由な付き合いである。だれもが緊張することもなく、楽しむためだけの集まりだった。“おもてなし”は料理で決まる。出席者が今までに食べたこともない美味しい珍しい料理は、人々を例外なく喜ばせる。感激は人をリラックスさせ、饒舌にさせ場を盛り上げる。献立をつくり、食材を準備する。私にもできる。私はそういうことに時間も努力も惜しまない。退屈どころか、どんなに時間があっても足りないくらいだった。招くと招かれる機会も増える。こうして私たち夫婦は、海外でのヒマで退屈な時間をいそがしい毎日に変えていた。何事も慣れである。多くの客を招くことによって、料理やマナーや交際術を会得できる。どこの国でもこの作戦で多くの知り合いを得て、そこでの生活を楽しく美味しいものにすることができた。在外で生活する者にとって、生活を楽しくするということは、国内で暮らす時よりももっと重要な意味を持つ。楽しく暮らせていれば身心も安定し、仕事も家庭も順調だ。
男の社会は、常に出世と権力争いとなる。私はそれらの世界から早い時期にはじき出された。争いの渦中にいる男たちからは、疎まれ蔑まれたがかまわない。人はどんな状況においても生きている価値がある。自分のことを信じて真面目に生きていれば、認めてくれる人々が出てくる。大使館の狭い村社会の中で、男の配偶者として異端児のように扱われた。しかしどんな待遇であっても、みな自分の生活があり時間もある。同じ人間として認め合うのでなく、数字の表す階級にしがみついて、階級差だけを心の支えに生きるのも悲劇である。私は、階級外に身をおいたせいか、他の世界も拡がった。大使閣下だけが外交官と思えば、もっと楽に生きられる。今はもう、まわりに数字の階級を持たない普通の人びとと、ワイワイガヤガヤ楽しく生きている。
階級は大使館だけにあるわけでなく、あらゆる場面に存在する。階級から逃れることは難しいかもしれないが、階級は人間が作ったものである。作った人間が階級に縛られることはない。場合によっては、階級社会から離れることももちろんできることを、人間である私たちは忘れないようにしたい。
去年の9月初旬、高校の同窓の北原巌男君が東チモール国へ日本国の全権大使として赴任した。彼は外務省出身ではない。北原君の活躍を心から祈る。