団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

階級身分

2009年01月30日 | Weblog
 外交官旅券を持てば外交官か。外交官ナンバーを車につけて走っていれば、外交官か。違うと思う。外交官という定義で今までに私が一番納得できたのは、旧ユーゴスラビアの日本大使館で会った当時臨時代理大使の大羽氏に聞いた定義である。彼曰く「外交官は全権大使ひとりである。他は外交官ではない」 彼が言いたかったのは、外交官は全権大使ひとりで、あとはその全権大使を支えるための要員であり、なにもそういう人たちが、外交官風を吹かせて威張ることはない、であったと思う。

 大使館の医務官として赴任する妻に同行して、8つの大使館総領事館をまわった。大使館の狭い社会は、階級制度でがんじがらめである。大使、公使、参事官、1等2等3等(書記官、理事官)、技官、文官、キャリア、ノンキャリといろいろある。この他に番外で配偶者、家族がいる。

 大使公邸などで開かれるパーティに出席すると、すこし外交の世界を垣間見ることができる。私が正装してパーティ会場にいると、そそかしい外国人外交官が近づいてくる。私の事を知らない外交官は、まず私の階級を聞いてくる。「医務官の夫です」の私の返事が終わらないうちに相手の興味は消える。外交官たるもの、医務官の夫などと時間を無駄にすることはできないのである。それは大変重要なことだ。外交官たるもの、いかに効率よく自分が属する国家に有益な情報を手に入れるかである。適切な情報源の人脈を持ち、常に情報交換している。私はいかなる情報をも持たない。だからどんなパーティでも私はヒマだった。私の妻もどこかの国の医務官でもいれば、少しは時間つぶしができるが、いなければ私と同じようなものだったらしい。

 外交団ではないが、私は自分の家で積極的にいろいろな人びとを食事に招いた。楽しかった。なぜ楽しいかと言うと、私は生活目線で人選するからだ。まったく仕事から離れて、日常生活の中の自由な付き合いである。だれもが緊張することもなく、楽しむためだけの集まりだった。“おもてなし”は料理で決まる。出席者が今までに食べたこともない美味しい珍しい料理は、人々を例外なく喜ばせる。感激は人をリラックスさせ、饒舌にさせ場を盛り上げる。献立をつくり、食材を準備する。私にもできる。私はそういうことに時間も努力も惜しまない。退屈どころか、どんなに時間があっても足りないくらいだった。招くと招かれる機会も増える。こうして私たち夫婦は、海外でのヒマで退屈な時間をいそがしい毎日に変えていた。何事も慣れである。多くの客を招くことによって、料理やマナーや交際術を会得できる。どこの国でもこの作戦で多くの知り合いを得て、そこでの生活を楽しく美味しいものにすることができた。在外で生活する者にとって、生活を楽しくするということは、国内で暮らす時よりももっと重要な意味を持つ。楽しく暮らせていれば身心も安定し、仕事も家庭も順調だ。

 男の社会は、常に出世と権力争いとなる。私はそれらの世界から早い時期にはじき出された。争いの渦中にいる男たちからは、疎まれ蔑まれたがかまわない。人はどんな状況においても生きている価値がある。自分のことを信じて真面目に生きていれば、認めてくれる人々が出てくる。大使館の狭い村社会の中で、男の配偶者として異端児のように扱われた。しかしどんな待遇であっても、みな自分の生活があり時間もある。同じ人間として認め合うのでなく、数字の表す階級にしがみついて、階級差だけを心の支えに生きるのも悲劇である。私は、階級外に身をおいたせいか、他の世界も拡がった。大使閣下だけが外交官と思えば、もっと楽に生きられる。今はもう、まわりに数字の階級を持たない普通の人びとと、ワイワイガヤガヤ楽しく生きている。

 階級は大使館だけにあるわけでなく、あらゆる場面に存在する。階級から逃れることは難しいかもしれないが、階級は人間が作ったものである。作った人間が階級に縛られることはない。場合によっては、階級社会から離れることももちろんできることを、人間である私たちは忘れないようにしたい。

 去年の9月初旬、高校の同窓の北原巌男君が東チモール国へ日本国の全権大使として赴任した。彼は外務省出身ではない。北原君の活躍を心から祈る。


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医療相談

2009年01月27日 | Weblog
 妻が医者ということで、私の親戚、妻の親戚、知人などから家に相談の電話がかかってくる。多くが医療相談である。

 ほとんどの電話は夜だ。妻は疲れていても、真剣にその電話相談に耳を傾け、できる範囲で答えている。私はその内容を一切知らない。知ろうともしない。知っても私に判らないことばかりだからである。妻は口が堅い。一身に他人の苦しみを背負いこむ。私は妻を可哀想だと思う。何故ならほとんどの相談者は、妻が一番知りたいその相談の後の経緯、結果を報告しないからである。

 アメリカの小話ジョークで「医者と弁護士は、パーティが嫌い」というのがある。「パーティで医者と弁護士に話しかけてくるのは、無料の医療相談と法律相談をしようと思う人だけだ」で締めくくられる。 妻は別に無料で相談にのるのが嫌だと言っているのではない。直接患者に相対するのではなくて、電話で患者でなく第三者と間接的に話すことに戸惑うのだ。相談者は妻の答えに一縷の望みと、妻から返ってくる言葉、「それは絶対誤診です」と「絶対大丈夫、助かります」に期待を持っているのだと思う。電話の向こうで聞く人は、妻の声のトーンや響きに全神経を集中している。勝手に妻の話しぶりで判断してしまう。すでに頭の中には、妻から聞きたい言葉がたくさん詰まっている。相談は最低15分、長いと何時間にもわたる。多くの大学病院では、3時間待って診療3分といわれるご時勢である。

 巨人軍の主将阿部慎之介選手が新人選手歓迎会のスピーチで「プロ野球選手、とりわけ巨人に入団すると親戚が急に増えるけれど、そういう人たちとは絶対に接触しないほうが良い」と言ったそうだ。プロ野球選手と巨人軍を医者や弁護士に置き換えても通用する気がする。

 東西を問わず、格言や諺に“親戚もの”が数多く存在する。
○貧乏人の親類縁者は、見つけ出すのに骨が折れる。ギリシャ 
○身内の者はイチジクと同じだ。むいてみると蟻がたかっている。 マダガスカル 
○金銭に不自由しない者は、身内にも不自由しない。 フランス 
 
 私が好きなたとえ話は、『君のためなら千回でも』に出てきた“初対面のアフガニスタン人を二人連れてきて、部屋に入れて10分もすれば、二人は自分たちが親戚だとわかる”である。

 もちろん素晴らしい親戚もたくさんいる。親しき仲にも礼儀あり、は大切にしたい教えである。私の身内が妻に迷惑をかけても、私も妻も、相手に言いたいことを、きちんと訴えることができない。お互い我慢するしかない。いつか言わなければと思っていて、すでに先延ばしばかりしている。政治家の悪口なんて言えたものではない。私の親戚知人からの電話を私が取って、それが妻への医療相談だったら、電話を妻に渡す前に「妻への医療相談なら、きちんと事後報告してください」と言う練習をする今日この頃である。

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防災講演会

2009年01月22日 | Weblog

 先週の日曜日の午後、町の図書館で防災講演会が開かれるということで、妻と参加した。妻が講演会に行きたいと言ったのは初めてである。講師は新潟県山古志村元村長(現衆議院議員)、長島忠美さんだった。

 山古志村は妻が生まれた村である。妻の母親がこの村の出身である。平成十六年十月二十三日、新潟県中越地震が山古志村に壊滅的な被害をもたらした。山古志村は、冬、雪の中に埋もれてしまう。以前、妻の両親が墓参りに行くというので同行したことがある。山深い自然豊かな美しい山村だった。家に2つの玄関があって驚いた。ひとつは夏用でもうひとつは冬用だった。冬は2階の玄関を使う。それほど雪が降るらしい。錦鯉の生産地で棚田に養殖池がたくさんあった。

 妻が生まれたのは12月だった。妻の父親が生まれた娘をひと目見ようと、長野県から山古志村へやって来た。歩いてふもとで出迎えた山古志の妻の祖父は、ガンジキ(雪の上を歩くための特別な履き物)を持ってきて妻の父親にはかせた。山古志の家に着くころ、黒い線を気をつけてまたぐよう指示され「この線は何ですか?」と妻の父親が尋ねると「電線だぁ」と言われ、何のことかしばらく分からなかったそうだ。つまり電柱より上を歩いていたことになる。そのくらい雪深い。

 長島山古志村長が、被害状況を把握した後、復帰に何年もかかると判断し、直ちに全村退避を決断したのは、まさに山古志を熟知していたからである。地震は冬直前に襲った。あのまま村が雪に覆われたら、人々の生活は成り立たない。長島さんの講演を聞きながら、となりで妻は泣きじゃくっていた。私はそっとハンカチを妻に渡さなければならない程、妻は泣いた。

 長島さんの話し方は、坦々としていて、決して話術に長けているわけではない。しかし長島さんには揺るぎない信念があった。その情熱がヒシヒシと伝わってくる。長島さんの村に対する想いが、妻を感動させたのだろう。妻の脳裏に浮かぶ山古志の景色は、長島さんと共有できる。ふるさととはそういうものなのだろう。

 美しいふるさとに必ず戻れる、という長島さんの熱意が村民を説き伏せ、全村避難が可能となった。自衛隊のヘリコプターは、着陸不可能と言われた悪条件な着地問題を操縦技術で遂行して成功させてしまった。2800人いる村民は、救助にたいして村長に平等を求めた。寝食を忘れてヘリコプター部隊は何と一日で村民全員を退避させた。当初長島さんは、山古志村の復興には少なくとも5年、長ければ10年かかると見積もった。仮設住宅を3年2ヶ月で全員が出て、村に帰った。長島さんは、国、県、市、自衛隊の復興に対する誠意ある協力を賞賛し感謝を惜しまない。
多くの問題も長島さんのプラス思考と根っからの忍耐強さが支えた。そして特筆すべきは長島さんの健康である。健康あっての頑張りだったと思う。

 講演の最後に、長島さんが自分の経験から地震防災に対する普段の備えを教えてくれた。参考にしてください。備え有れば憂いなし。
① 被災後、命綱となる携帯電話を肌身離さず持っていること。(長島さんは布団の間に置くことを推奨)
② できるだけ遠く(神奈川県なら北海道や沖縄)の親戚や友人に地震などの災害の際連絡の中継地になってもらうようお願いしておく。
③ 最低ペットボトル一本の水を用意しておく。被災後は水分の補給を心がける。トイレの心配をして水分を控えて、エコノミー
症候群になる人が多い。
④ 避難袋は、車の中に入れておく。家の中だと被災後まず捜す出すことはできない。
⑤ 女性は被災後でもお化粧をどんどんして欲しい。お化粧する人にも見る人にも元気を与える。お化粧することを遠慮することはない。


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陽なたボッコ

2009年01月19日 | Weblog
 我が家は、一応、南を向いているが、冬、陽が当たることはない。南前方に山がある。ちょうど冬は陽が山にさえぎられて、一日中陽が射すことはない。北側は川を挟んで谷間に街並みがあり、そのまた向こうは山になる。我が家の北側の窓から明るく陽に照らされる街や向こうの山が眩しく見える。時々真向かいのマンションの上のほうの階の窓ガラスに反射して陽の光のお裾分けが我が家の窓から飛び込んでくる。そんな日はウキウキそわそわするほど嬉しい。

 陽の光が滅多にこちらに来ようとしないので、冬はこちらから陽のもとに飛び込んでゆく。散歩である。日陰から陽のもとに出ると、寒い日であっても、その温度差にまず驚く。刺すような寒さが引き下がり、陽の当たった後頭部がまずホワっとする。陽の光のやわらかさも数分で、眩しさと熱を感じさせる。着ている防寒下着とゴアテックのアノラックが邪魔になることもある。家から駅まではゆるい下り坂になっていて、歩く易い。

 私は天気の良い日は、わざわざ陽の光を追う様に散歩のコースを決める。コースを決めて、今日は住宅地の中に入り込んで行った。陽当たりの良い家と家の間のほんの狭い小路に、おじいさんがイスに座っていた。「こんにちわ」と私が挨拶すると、おじいさんは顔面の右半分を痙攣させながら、笑顔を作ろうとしてくれる。私はお辞儀して、おじいさんに答えた。おじいさんは太陽のほうを向いている。気持ちよさそうに目を閉じて顔を上げている。イスの上の座布団がふっくらしている。どうもおじいさんは歩けないらしい。なぜならおじいさんはやさしくイスに縛られている。たぶんイスから転げ落ちないようにしてあるのだろう。でも気持ちよさそうにしているおじいさんを見れば、縛られていることなどたいした問題ではない。おじいさんが寝たきりならば、こんなうららかな日は、外にいるほうがいい。

 日光浴ということばより陽なたボッコがいい。昨日の冷たい雨も上がり、今日は気持ちよく晴れ、陽の光が谷の町並み全体を照らし出していた。こんな日の散歩はうれしい。今日の様におじいさんが気持ちよさそうに太陽と仲良くしているのを見ると、ほんわかした気持ちになれる。

 私が子供の頃、日当たり抜群だった廊下で冬、陽なたボッコしながら、本を読むのが好きだった。家の中から親に呼ばれ、立ち上がり急に家の奥に行くと、一瞬、目の前が真っ暗になった。強い日光の中で目の瞳孔が狭まっていた状態で急に暗いところに入ると、瞳孔の調節が狂う。足元がふらつき、よたよた歩きをする。それが楽しくて何度も同じことを繰り返した。

 今住む家で、冬の陽なたボッコを楽しむことは出来ないけれど、川を越えれば、すぐそこに陽の当たる街がある。あのおじいさんにまた会えると嬉しい。いつの時代であれ、やさしい自然に抱かれていると気持ちがいい。穏やかな日、心行くまで陽なたボッコを満喫できた。

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上田の殺人事件

2009年01月14日 | Weblog
 11月21日午前8時ごろ、長野県上田市上丸子の唐木一男さん(82)の家が火災になり、警察が家の中で唐木一男さんが隣家の樋口邦雄さん(45)と倒れているのを発見した。すぐに両名とも病院に搬送されたが、唐木一男さんは死亡を確認された。樋口邦雄さんは意識不明の重体だった。この火災の20分前に近くの道路で、唐木さんの妻博美さん(75)が樋口邦雄さんの車の下で横たわっているのを近くの人の通報で警察が発見し病院へ搬送した。午後に唐木さんの妻は死亡した。

 殺人事件が毎日のように報道されている。ちょうどこの頃、元厚労省の事務次官山口剛彦さん(66)と妻美知子さん(61)が小泉毅容疑者(46)に殺された。そちらのニュースの陰になって上田の事件は、ほとんど報道されなかった。

 上田の事件は唐木さんの家に意識不明で倒れていた樋口邦雄さんが、殺人の容疑で逮捕された。21日の朝、会社へ出勤する樋口容疑者が車で唐木さんの敷地の一部に乗り入れ、公道に出ようとした。その現場を唐木博美さんが使い捨てカメラで撮影した。逆上した樋口容疑者が車を急発進させて博美さんを轢いた。樋口容疑者は博美さんを車で轢いた時点で殺人を意識したのだろう。唐木邦雄さんをも始末しなければならない、と考え、車をそのままにして放置して唐木さんの家に駆け込んだ。そして唐木さんの首を絞め、家に放火した。火の手が強すぎて自分も煙を吸い込み、倒れた。これはあくまでも私の憶測である。

 しかし私は子供の頃、私の家の両隣の盲学校の校長と高校の教師の壮絶な地境争いを数年間目撃している。何回か「殺す」という言葉さえ飛び交った。妻の実家の近所にもそのような争いがあり、休暇で帰省中、偶然その争いを見ている。これは長野県特有の問題ではないと思う。

 日本は古くて小さな国である。人々は古来、土地の所有を廻ってもめてきた。島国根性という言葉がある。こまかい事にこだわり、執拗に感情的になる傾向は、他民族より強くあるのかもしれない。地境、国境など境の問題は、動物的な縄張り本能から出ているから厄介である。

 ヨーロッパの古い都市の住宅が堅固な石でできているのは、恐らく境界でもめるのが嫌で、あのように隙間なくびくともしない、動かすことも不可能な、城のような壁の厚い家を建てたのでは、と私は考える。一方、アメリカやカナダ、オーストラリアなどでは広い住宅地に建つ、一般的個人住宅の周りに囲いや塀や垣根が見られない。私が学んだ人口3000人あまりの小さなカナダの田舎町は、現在でも日本でいう1000坪の土地が、たったの5ドルで買えると聞いた。大陸的という表現は、ものごとの詳細にこだわらない、おおらかな精神のことを表す。公道があり歩道があり前庭があり家がある。前庭を他人が横切っても気にしたり怒ったりすることは、よほどのことがないとない。

 日本人の多くは、公的態度と私的態度を使い分ける。仕事場で“良い人”であっても家に戻ると、以外や“偏屈オヤジ”となることもある。島国という狭小な環境が、人々との関係に余計な軋轢を生み、それが重くストレスになり、長い時間のうちに、問題を根の深い、解決を困難な状況までに、こじらせてしまう。日本の社会に蔓延する見える垣根と見えない垣根が、人々の心を病ませている。

 私が子供の頃見た、盲学校の校長と高校教師の諍いは、高校教師が定年退職した後、ある晩、夜逃げするようにどこかへ引っ越した事によって収まった。古い慣習やこだわりから“転地”することは、解決の一案である。ところが日本人にとって、住む場所を変えることは実に難しい問題である。人を殺して一生を棒に振るより、転地してシガラミから自由になったほうがずっと良い。分かっていても、それができない固執や確執が哀しい。

 日本は、英語でいうFAR EAST(極東)、つまり東の地の果てで、ここが行き止まりなのだろうか。もう逃げるところがない、の潜在意識が人々を犯行に駆り立てるのなら、あまりにも悲しい。亡くなった唐木夫妻も生き返らないし、犯人の樋口邦雄容疑者の人生も終わった。どちらか一方に転地、引越しする気力があったなら、と残念に思う。

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そこが知りたい

2009年01月08日 | Weblog
 マスコミの報道の原則は、5W1Hで、いつ(When)、どこで(Where)、だれが(Who)、何を(What)、なぜ(Why)、どうやって(How)だそうだ。

 最近静岡県三島市のゴミ屋敷の住民のニュースを、いくつものテレビ局が取り上げ報道した。78歳の姉と75歳の妹が住む家のまわりがゴミでおおわれていた。5W1Hで読み解くと、いつ=テレビ放映日12月19日。どこで=静岡県三島市。誰が=78歳と75歳の姉妹。何を=姉妹の家がゴミ屋敷となっている。なぜ=姉妹にインタビューするも誰にも不可解。どうやって=? 調査しなければいけないことが多々ある。私が知りたいのも、次の点である。
1.姉妹は経済的にどうやって暮らしをたてているのか?
2.姉妹の家のトイレはどうなっているのか?使えるのか、使えないのか?
3.姉妹はお風呂にはいっているのか?入らないのならどう体の清潔を保つのか?
4.あの全ての部屋をゴミで占拠してしまった家で、電気、ガス、水道を使っているのか?電気、ガス、水道代を払っているのか?
5.台所も使えない家でどうやって調理して食べているのか?6.ネズミや猫にエサを与え共存しているかのような生活をしていて、どうやって感染症にかかることもなく健康に暮らせるのか?

 1に関しては、二人の年金で生計をたてていると報道された。5は姉がコンビニやスーパーで食料を買っていて、ゴミにふさがれて、家から出て来られない妹に、壁の隙間から2日に一回食料が差し入れられている、という。2、3、4、6に関しては何も報道されていない。私はそこが一番知りたい点である。

 どこのテレビ局でも心理学者に、三島の姉妹がこのような行動をとるのかを尋ねたが、素人の私に理解できる解説ではなかった。

 また“虐待防止法条例”の観点で警察と共に三島市が強制捜査をかけたという。妹が長期間姿を現さないという近隣住民の訴えに基づき、やっと重い腰をあげた。報道陣に囲まれたゴミ屋敷の戸主の名乗る姉は、雄弁に個人のプライバシー、自由、動物と人間の本来の友好関係を説いた。とにかくこの婦人健康状態がすこぶる良好で感心させられた。一方三島市役所の老人長寿介護課担当の女性職員は、この姉に対しての敬語だらけの問いかけは、噴飯ものだった。

 ゴミ屋敷は個人の固有財産であり行政はこれを取り締まる権限を持たないという。ならば以前、イタリアの文化庁が皇居の近くのビルを買収改装して赤いビルにしたとき、日本の行政は何故色の塗り替えを行政指導したのか。東京都内に漫画家が自分の家に赤と白のストライプの塗装デザインをしたことに対して近隣住民が裁判を起こせたのか?家の外見に関しては、ペンキの色も見るに耐えないと言うなら、ゴミも同一問題だと思う。

 私は法律の盲点とも言えることに着目した。それは細菌、ウイルスの問題である。三島のゴミ屋敷、行政が言うように個人の私有財産の所有が法律で守られているならば、あのゴミ屋敷から空中に飛散し放出されているであろう細菌やウイルスや害虫にたいしても法律は手が出せないのだろうか。

 新型インフルエンザが流行したらどう対処するのかを真剣に検討する近代国家日本において行政が、あきらかに近隣住民に不愉快な思いをさせ、迷惑をかけているこの姉妹の好き勝手に生きる自由を、かたくなに保護する真意がわからない。日本人の多くは、質素、清潔、勤勉に生きようとしている。清潔、衛生、健康を守ろうとすれば、だれの自由も制限を受けるのは、当然である。ゴミ屋敷を、自由の砦にしてはならない、と私は思う。

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盲腸手術の真実

2009年01月05日 | Weblog
 私という人間の人となりを知ってもらえる話がある。

 私が小学校5年生だった時、担任のN先生は有名な暴力教師だった。同級のK君は宿題を忘れた。NはK君を階段の最上段に立たせて、後ろから蹴りを入れてK君を階段から落とした。K君は頭を床に強打して片方の耳が聞こえなくなった。Nはまったくこの件に関しても咎められることはなかった。当時の教師は絶大な権力を振るっていた。

 正月休みが終わり明日から登校という前夜、私は日記をまったくつけていなかった。一気に書き込もうとしたが、テレビの番組でどうしても見逃せない番組があった。日記を終わらせることはできなかった。明日、明日と先延ばしてきた罰があたると震えた。翌朝私は仮病をつかって腹が痛いと芝居をうった。心配性の両親は医者に往診を頼んだ。往診してきた医者が私の腹のあちこちを触診した。私はくすぐったがり屋であった。医者の指が私の腹を押すたびに私はゲラゲラ笑ってしまった。医者はあきれてまた帰りに寄ると言って、次の往診に行ってしまった。

 次に医者が往診した時、私は父親に怒られていたので、歯を喰いしばって、触診に耐えた。医者は自信ありげに「盲腸です。今日中に入院させてください。手術します」と両親に言った。私は青くなった。盲腸であるはずがない。私が一番そのことを知っていた。私はどこも悪くなく、ただNの暴力の恐ろしさを回避するための仮病だった。しかし私は決心した。Nの暴力でケガをしたり、視力や聴力を失うより、どうせなんの役にも立たないと他人が言う盲腸を切除したほうがましだ。どうせいつかは盲腸になり切除するなら、早めに切っておいた方が良いと思った。その晩、盲腸の手術を受けた。医者は立ち会った母親に「間に合って良かった。もう少しで手遅れになるところでした」そういって何やら白い盲腸らしきものを見せたそうだ。私は医者の言ったことを信じなかった。とにかくこの手術のおかげで日記の件をお咎めなしにできた。病院入院中にゆっくり友達から休み中の日々の天気情報を集め、休暇中の日記を完成させていた。

 この盲腸事件の後、高校に入学した時、その高校の後援会会長が私の往診をして、盲腸の手術をした医者だった。高校1年の時、今度は本当に腹に激痛があり、同じ医者に診てもらった。症状を話すとその医者は「盲腸だ」と言った。私は「先生に小学校5年生の時とってもらいました」と告げた。医者は「そうか。胃潰瘍だな。レントゲンを撮ろう」と何もなかったように言った。レントゲンを撮った後、医者は私に親を呼ぶように言った。そして親に私の胃を切除しなければならないと告げた。父親も今度は疑った。あの頃セカンドオピニオンを求めることは滅多にあることではなかった。別の町の胃腸科専門医に父親が私を連れて行って診てもらった。その医者に後援会長の医者の診たてを説明した。精密検査をしてもらった。結果はただの胃炎で切除する必要はない。薬で治ると断言した。その通りに治った。

 私はNのおかげで医療の実態を身を持って体験できた。医者の中にはいろいろな医者がいる。世の中肩書きや出身大学でその人物の実力を知ることはできないと痛感した。盲腸だけで済んで本当に救われた。私のような目に合い、実際に手術をされてしまう患者が日本、イヤ世界中にどれほどいるかと思うと恐ろしい。正月が過ぎると思い出す悪夢のようだった私の過去である。

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