去年の今頃、1ドルは110円くらいだった。一年後の昨日、144.34円になっている。
私がカナダへ留学した1960年代、1ドルは360円だった。それに加えて外貨持ち出しは、1人年間700ドルの制限があった。外国為替に関して何の知識も持たない父が、私のカナダへの出発前夜、どうやって手に入れたのか、現金で700ドルを手渡してくれた。留学した学校の年間授業料は、寮費を含めて約500ドルだった。その他の経費や小遣いを入れると足りなかった。学校は、学生の学費を軽減させるために1日2時間作業をすることを許可していた。私は、乳牛の乳しぼりとニワトリの世話をした。1時間25セントで計算され、年間にすると250ドルくらいになった。夏休みの3カ月は、1日8時間の作業で次年度の学費が無料になった。明治時代以降、多くの日本人が、アメリカに出稼ぎをするために渡った。貧しい国からアメリカへ来て働けば、自分の国で働くよりずっと多く稼げた。アメリカとカナダの鉄道は、中国人と日本人の労働で作られたと言われている。当時1日の労賃は、25セントだったと聞いた。25セントは、私にとっても特別な響きを持つ。
カナダから帰国して結婚した。2人の子供を授かった。しかし離婚することになり、2人の子供を引き取った。長男は、全寮制の高校に入った。長女は、アメリカの留学時代の先輩夫婦が預かってくれることになった。長女へ学費などを、ドルで仕送りするようになった。その時、私に仕送りしてくれた父の苦労が、身に染みて理解できた。後に長女は、カルフォルニアの大学に進学した。送金は、為替の変動を見ながら、できるだけ有利になるよう送金をした。
縁あって再婚できた。妻の海外赴任に配偶者として同行することになった。離婚してから2人の子供仕送りに明け暮れた。不摂生な食生活とストレスで糖尿病を悪化させていた。海外に出ることによって、日本でのしがらみから解放された気がした。
海外生活にもいろいろな苦労があった。妻の給料は、国によってドルやフランスフランで支払われた。それを赴任国の貨幣に両替した。ネパールでは、ネパール・ルピーに。セネガルでは、セネガル・セイファーに。旧ユーゴスラビアでは、ディナールに。チュニジアでは、チュニジア・ディナールに。サハリンでは、ルーブルに。為替は、変動が激しかった。休暇で赴任国から他の国に行くと、そこでまた両替しなければならなかった。偽札を掴まされたこともある。タクシーに乗って、メーターの金額を自国通貨でなくドルで払えと恐喝され、ナイフを突きつけられたこともある。不便なので、EUのように世界も統一通貨を持てばいいのに、と思った。しかし、そんなことをしたら、悪い連中や国家は、あらゆる手を使ってかすめ取る算段をするだろう。国々によって通貨制度が違うことで、犯罪を防いでいるのも事実だと思う。
多くの国で、通貨によるいろいろな経験をしてきた。今、日本の地方の終の棲家で、静かに暮らしている。ドル円が上下しようが、毎日の生活に影響は少ない。子供たちへの仕送りもない。日本政府や日本銀行がどう動こうが、なるようにしかならないと達観している。世の中のわからない難しいことから距離をとるには、暗いうちから散歩して自然の中に身を置くのが一番である。