10月24日土曜日のテレビ『TBS朝ズバ』で母子加算満額復活を喜ぶ母子家庭として、神奈川県の50歳の女性と北海道の44歳の女性を紹介した。テレビの司会者、国会議員の同席者も「かわいそう」ばかりが先走り、肝心の要点に踏み込んでいなかった。
私は、先日私のブログ『無利息』で書いたとおり、離婚した後、友人の保証人となり、米と味噌をまず買う生活を余儀なくされた。私は苦しくても生活保護に頼る選択枝を除外した。日本の法律において、定められた年齢に達すれば、結婚は当人同士の意志があり、結婚届けを出しさえすれば成立する。すべては当人同士の責任となる。ところがすべての結婚がうまくいくとは限らない。結婚のかなりが離婚となる。子どもがいれば、妻と夫の当事者だけの問題でなくなる。結婚時と同じ、それ以上に離婚時には、意地と幻想と感情が複雑に作用を起こす。覚悟と責任が欠落してしまう。私は、納得ができないこともあったけれど、母親に捨てられた二人の子どもを大学が終わるまでは、子育てを最優先すると覚悟を決めた。下の娘が大学を卒業するまでの15年間、二人の子どもへの仕送りに明け暮れた。ただただ自分の結婚の決断の責任を全うするためだった。
私は、社会保障を否定するものではない。しかし国民に与えられている自由の代償としての責任と義務を重んじる。好きな者同士が自由に個人の意志で結婚できる。授けられた子どもを成人するまで育てるのは義務であり、責任を負う。ところが『朝ズバ』で紹介された二人の女性に関して、その背景が見えていなかった。夫であり子どもの父親である義務と責任が果たされているのか。北海道の女性には13歳、10歳、1歳2ヶ月の子どもがいる。子どもには必ず父親がいるはずである。結局その父親のことには、触れられることはなかった。弱者への救済は、責任を果たしたが、最後の最後にその報いとして無条件になされて欲しい。離婚後の養育費の支払い状況こそがその国の文化のバラメーターだと私は思う。好き合って結婚して、子どもを授かった。子どもは、親ひとりでは産めない。結婚と同じく二人の人間の合意が必用であり、そうでない場合、法治国家では犯罪となる。忘れてならないのは、妻と夫が熟考の末、あえて子どもを経済不安や社会不安、自分たちの子育てに不向きと判断し、子どもを持たない夫婦も数多くいることである。離婚すれば、すべてが終わるはずがない。残念なことだが男尊女卑と共に人間軽視の風潮が、アジアやアフリカには色濃く残る。
ロシアで“ロシア人アメリカ人日本人がレストランで食事をして、それが原因で腹をこわした。アメリカ人は裁判を起こし、日本人は国の管理指導がいけないと言い、ロシア人はそんなレストランを選んだ自分がいけなかったと反省した”という小話を聞いた。確かに最近の日本人は、国家に依存する世界でも最も社会主義化した国民かもしれない。私が住んだ社会主義を掲げた旧ユーゴスラビアやロシアのサハリンでは、インフレによる年金の目減りと年単位の遅配で国民の生活は、悲惨であった。旧ユーゴスラビアが、あの経済封鎖や貧困にも耐え人々が飢えることもなく生きたのは、その耐久力忍耐力はもちろんのことだが、農業国で食料が十分あったことだ。ロシアのサハリンは厳寒地であっても拙著『サハリン 旅の始まり』の林太煥さんのように自給自足のように暮らす。
アフリカのセネガル、アジアのネパールのような世界最貧国でも暮らした。その貧しさは、日本の比ではない。やはりロシアの小話のような日本人の国家に甘える体質が気になる。 結婚届けの条項の中に子どもの養育費に対する親の責任の確認を宣誓させ、義務化を明確にさせ、最後の砦として母子加算があれば、より効果があると、離婚経験者であり二人の子どもを育てた父子家庭の経験者は考える。