団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

お知らせ

2009年10月31日 | Weblog
 11月1日私の書いた『ニッポン人?!』(写真参照)が発売になります。
発行 青林堂 価格税込み1200円です。
 読んでいただけたら幸いです。もしお近くの書店にない場合は、書店に注文していただければ、数日でお手元に届くと思います。
 その場合、著者山本淳一 発行 青林堂 題名『ニッポン人?!』 価格1143円税込み1200円と注文してください。よろしくお願いいたします。

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母子加算

2009年10月29日 | Weblog
 10月24日土曜日のテレビ『TBS朝ズバ』で母子加算満額復活を喜ぶ母子家庭として、神奈川県の50歳の女性と北海道の44歳の女性を紹介した。テレビの司会者、国会議員の同席者も「かわいそう」ばかりが先走り、肝心の要点に踏み込んでいなかった。

 私は、先日私のブログ『無利息』で書いたとおり、離婚した後、友人の保証人となり、米と味噌をまず買う生活を余儀なくされた。私は苦しくても生活保護に頼る選択枝を除外した。日本の法律において、定められた年齢に達すれば、結婚は当人同士の意志があり、結婚届けを出しさえすれば成立する。すべては当人同士の責任となる。ところがすべての結婚がうまくいくとは限らない。結婚のかなりが離婚となる。子どもがいれば、妻と夫の当事者だけの問題でなくなる。結婚時と同じ、それ以上に離婚時には、意地と幻想と感情が複雑に作用を起こす。覚悟と責任が欠落してしまう。私は、納得ができないこともあったけれど、母親に捨てられた二人の子どもを大学が終わるまでは、子育てを最優先すると覚悟を決めた。下の娘が大学を卒業するまでの15年間、二人の子どもへの仕送りに明け暮れた。ただただ自分の結婚の決断の責任を全うするためだった。

 私は、社会保障を否定するものではない。しかし国民に与えられている自由の代償としての責任と義務を重んじる。好きな者同士が自由に個人の意志で結婚できる。授けられた子どもを成人するまで育てるのは義務であり、責任を負う。ところが『朝ズバ』で紹介された二人の女性に関して、その背景が見えていなかった。夫であり子どもの父親である義務と責任が果たされているのか。北海道の女性には13歳、10歳、1歳2ヶ月の子どもがいる。子どもには必ず父親がいるはずである。結局その父親のことには、触れられることはなかった。弱者への救済は、責任を果たしたが、最後の最後にその報いとして無条件になされて欲しい。離婚後の養育費の支払い状況こそがその国の文化のバラメーターだと私は思う。好き合って結婚して、子どもを授かった。子どもは、親ひとりでは産めない。結婚と同じく二人の人間の合意が必用であり、そうでない場合、法治国家では犯罪となる。忘れてならないのは、妻と夫が熟考の末、あえて子どもを経済不安や社会不安、自分たちの子育てに不向きと判断し、子どもを持たない夫婦も数多くいることである。離婚すれば、すべてが終わるはずがない。残念なことだが男尊女卑と共に人間軽視の風潮が、アジアやアフリカには色濃く残る。

 ロシアで“ロシア人アメリカ人日本人がレストランで食事をして、それが原因で腹をこわした。アメリカ人は裁判を起こし、日本人は国の管理指導がいけないと言い、ロシア人はそんなレストランを選んだ自分がいけなかったと反省した”という小話を聞いた。確かに最近の日本人は、国家に依存する世界でも最も社会主義化した国民かもしれない。私が住んだ社会主義を掲げた旧ユーゴスラビアやロシアのサハリンでは、インフレによる年金の目減りと年単位の遅配で国民の生活は、悲惨であった。旧ユーゴスラビアが、あの経済封鎖や貧困にも耐え人々が飢えることもなく生きたのは、その耐久力忍耐力はもちろんのことだが、農業国で食料が十分あったことだ。ロシアのサハリンは厳寒地であっても拙著『サハリン 旅の始まり』の林太煥さんのように自給自足のように暮らす。

 アフリカのセネガル、アジアのネパールのような世界最貧国でも暮らした。その貧しさは、日本の比ではない。やはりロシアの小話のような日本人の国家に甘える体質が気になる。 結婚届けの条項の中に子どもの養育費に対する親の責任の確認を宣誓させ、義務化を明確にさせ、最後の砦として母子加算があれば、より効果があると、離婚経験者であり二人の子どもを育てた父子家庭の経験者は考える。

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植物学者?

2009年10月26日 | Weblog
 電車に乗ると真向かいの席に男性が座っていた。脇に大きなリュックサック、その網サックにはビール缶が差し込んである。靴は履きこなされた頑丈そうな皮製の登山靴、シャツは長袖のよく登山家が着ているデニム、その下に黒の丸首襟が見えている。ズボンはカーキ色のコットン。どこかの山へハイキングにでも行ってきたのだろう、とそれ以上注意も払うこともなく、カバンから本を取り出して読み出す。

 目の前にコロコロとオレンジ色の小さな果実が転がってきた。小さな柿だった。きっと山柿だろう。男性が立ち上がり柿を拾った。その拾い方をみると、大切そうに扱っていることがよくわかる。車両の先頭で右側の肩、背中に壁を背負う体勢から角に背中をもたせるように斜めに座わり方を直す。そして被っていた作業帽のような野球帽のような色が褪めて色を特定できない帽子の前後ろを逆に被りなおした。子どもが何かに熱中して本気に何かに取り組む時、良く取る行動である。男性は、リュックからビニール袋を丁寧に取り出す。なにやらちょっと萎れた葉や茎が入っている。葉っぱ、茎、蔓。私は、推測する。「彼は植物学者だろう。かの牧野富三郎博士のような」 男性は、腰に巻いたポシェットから虫眼鏡を取り出し、虫眼鏡に取り付けたヒモを首にかけた。その虫眼鏡は、時計屋が使う倍率の高い目に密着させるタイプだ。ますます私の推測に自信を深める。男性は、袋の中から長さ30センチあまりに折りたたまれた、ススキか萱のその端で手が切れるのではと心配するような葉を左手に持ち、右手のルーペを覗き込んだ。「何を見ているのだろう」と私は思う。葉に付着した昆虫の卵?「彼は植物学者ではなくて、昆虫学者だろうか」と気持ちが揺らぐ。

 妻に「歩く好奇心」と揶揄される私は、はやる知りたい願望に気を乱され、本を読み進むことができなくなる。男性は突然葉を袋に戻し、リュックから双眼鏡を取り出した。虫眼鏡と双眼鏡。これは顕微鏡と望遠鏡の違いである。「双眼鏡で植物学者が何をする?」私の頭が混乱し始める。小型で使い古した双眼鏡のつり革を首に回し、男性は、戦艦大和の艦長のように目に双眼鏡をあてる。見ているのは電車の中の後方だった。男性は、「うんっ」とは言わなかったが、グッと顎を引き、双眼鏡を首から外し、つり革を丁寧に巻き、リュックに仕舞う。次にどんな行動をとるのか。私の推測は不可能というより何でもありの展開に心躍らした。

 男性が取り出したのは、別の植物の葉、茎、蔓の入ったビニール袋だった。すでにシートの上に2袋ある。リュックの中に一体何袋あるのか。シャツの胸ポケットから虫眼鏡を取り出す。ケースから虫眼鏡を素早く回し出し、再び葉っぱを拡大観察始めた。私の降りる駅に到着した。男性に降りる気配は見られない。どこまで行くのかわからない。しかし男性がきっとこのままこのような繰り返しだろう。私が植物学者らしきこのような人に電車の中で遭遇したのは始めてであった。そして私は「日本って平和で自由で良い国だ」と思った。いろいろな人がいろいろな事に興味を持って、それぞれの仕度に身を包み、器具道具を携行し使いこなしている。その分野すそ野は広く深い。こうして日本の文化文明が創られ壊され一進一退を繰り返す。かえすがえすも残念なのは、男性と話せなかったことである。尋ねたいことは、たくさんあった。また消化不良のまま、ヘドロのように「!?」が蓄積している。

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君、君、ほら

2009年10月21日 | Weblog
 東海道線の電車に乗った。午後2時を過ぎていた。乗客は、数えるほどしかいなかった。席はボックス型でなく車窓の下に続く長ベンチ型だった。私は、7人掛けの席の真ん中に陣取って腰をおろした。対面に男子高校生が4人座っていた。試験中なのか下校時間にしては早すぎる。皆制服のブレザーに英国のパブリックスクール風のストライプのネクタイをしていた。だらしなく脚を大股開きにしたり、腰を前方に滑らせ窓辺に頭を持たせて4人4様に座っていた。精気がないな、と思いながらカバンから読みかけの『法人類学者デイヴィッド・ハンター』を取り出して読み始めた。

 しばらくして本から目を離し、なげなく床に視線を落とした。床の上を水が筋になって移動している。(写真:当日の現場)電車が揺れたり、傾斜すると合わせて水の筋が床をキャンバスに模様を描いていた。水の出どころを私の視線が辿る。4人の左から2番目の男の右側の靴の下から流れ出ている。「小便!」か「いや、それにしては量が多すぎる。いくら若くてもこの量はないだろう」と詮索を続行する。男子学生の広げた股の間の床に運動バッグが縦に置いてある。座席の下の運動バッグに大きなカバー付きの水筒が倒れていた。そこから水がまだチョロチョロと流れている。これは大変だ、とお節介なオジサンは、席を立ち反対側のベンチ席の前に立つ。4人とも目を閉じている。4人が4人、両側の耳にイヤホンをさしている。4人のうち右端の男子学生が薄目を開ける。

 「何だよ、この変なジジイ」とその目は語っていた。ジジイ、私は「君!」と言った。男子学生は、眉間にしわをよせた。私は再び「君!ほら」と床のバッグの中の水筒を指差した。男子学生の両目がパッと見開き、あわてて耳からイヤホンをかきとるように外し、バッグの持ち主の男子学生をひとり飛び越しゆすり起こした。水の筋、おそらくはスポーツドリンクなのだろう、がすでに電車の床8畳ぐらいに拡がっていた。一条の水筋は、私の足元5センチに迫っていた。 水筒の持ち主の男子学生が、どのような行動をとるか興味津々観察を続けた。「うるせえな~何だよ」言いたげに、男子学生はあくびを繰り返しながら口を曲げ、よだれを手でぬぐった。床に広がる水のいく筋もの流れを見て、気だるげに手をバッグの水筒に伸ばして。キャップを締め直した。最後に革靴の底で自分のまわりの水たまりを引っ掻き回して、また目を閉じた。最初に私が声をかけた男子学生は、私と目を合わせることもなかった。水筒の持ち主の両側の男子学生は、何が起こったのか知ることもなく、イヤホンをかけたまま目を閉じていた。

 これが日本の超一流有名校の学生である。彼らの行く末は見えている。決して希望を託せるとは思えない。将来が明るいとも思えない。私が彼らに取って欲しかった行動は、タオル、なければ自分の着ているシャツや上着でもいいから、床を拭いて元通りにすることだ。電車の床が濡れると滑りやすくなる。誰かが怪我でもしたらどうなることか。自分の責任を取れない、それを叩き込めない教育は、教育であろうか。男子学生に諭すことができない、ジジイの私は、彼らの成れの果てである。

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無利息

2009年10月16日 | Weblog
“なんどでも1週間無利息な、○○ローンが 初回30日間無利息をはじめました。足りないもの、みつけるなら今(原文のまま。○○は伏せた)”だとか“とことんあなたのチカラになりたい”はたまた“10万円を30日借りて500円玉が3つの1500円”電車の中吊りは、まるで借金をしなければ損だよのムードである。ちなみにこの利息は、年利18%である。都市銀行の1年定期預金でさえ利子は、年利0.12%しかつかない。実に150倍になる。500円玉3つが大した金額に思えないほど人々の金銭感覚は麻痺してしまったのか。騙しあいとそれを錯覚する側とのせめぎ合いの様相だ。これら消費者金融は、現在ほとんどが大手都市銀行に買収されてその傘下に収まっている。

 テレビやラジオは、最近“借金でお困りでは有りませんか”だとか“あなたは利息を払いすぎてはいませんか?”はたまた“最近元気ないね。何か心配があるの”と若い女性が前を歩いていて急に私(視聴者)の方に振り向いて問いかける法律事務所や司法書士の宣伝が多い。そしてどの宣伝も“何回相談しても相談料は同じです”テレビの宣伝料が安いはずがない。宣伝料を払っても、利益がでるなら、この商売は、儲けが莫大であるはずだ。これらの宣伝文句は、戯言、甘言である。私は、過剰な反応を示す。理由は、私自身の過去の経験にある。

 「いつもニコニコ現金払い」私を育てた継母も、再婚した妻もなぜかこの格言を頻繁に口にする。二人は信念として覚悟して格言どおりに実践する。私の亡き父は、派手好きで金遣いが荒く、継母はずいぶん苦労した。その分、継母は、質素で忍耐強く家計を守った。少ない収入を毎月、電気代、給食代などと古い封筒に入れて支払いに備えていた。そんな継母に育てられても、私は父の血を色濃く受けついだ。最初の結婚後、平均以上の事業収入を得ていたことで、「自分ならもっとできる」と野心を燃やし虚勢を張り、収入以上の支出を平気でする生活だった。ロータリークラブや青年会議所にも入った。有頂天だった。車、家電品、家とローンを組むのも平気だった。夢を追い、宣伝の甘い言葉に酔い、ローンで買った商品が、あたかも自分を幸せにしてくれると単純に思い込んでいた。事業への借金も夢を追いすぎ膨らんだ。JAL状態に陥った。離婚も結果として当然だった。離婚後、類は類を呼ぶのたぐいの知人の連帯保証人になり、その知人が夜逃げして、彼の借金千五百万円を被った。

 二人の子どもの養育、借金、離婚、どん底だった。そこからが私の出発だった。2年間、朝3時に起きて禅寺へ坐禅に通った。若かった。まだ30代だった。やがて下の女の子は、アメリカの友人の家庭に預かってもらい、上の男の子は、全寮制の高校へ進学させた。一緒に暮らせば、全員が破滅すると感じた。

 私は、ひとり地元に残り、仕送りと借金の返済に明け暮れた。毎月仕送りした後、米と味噌を買った。それでも食べ物を買う金がなくなって、数回消費者金融に手をだしたことがある。困窮生活が13年間続いた。何とか破滅しないで済んだのは、①子ども二人の仕送りに必死で他の事を考える余裕がなかった②自分が50歳以下で若さがあった③消費者金融で数回借りた金も米と味噌と食料以外に使わなかった、からだと思う。二人の子どもが大学を卒業し就職自立した。いまでは結婚して家庭を持った。私には再婚という天からの贈り物が届いた。妻は、結婚式の日「あなたは、これまで子どもや借金に身を捧げてきたのだから、これからのあなたの命を私に下さい」と言った。その気持になれたので受け入れた。長い修行だった。やっとまともな人間への歩みを始めることができた。

 10月10日、再婚してから18回目の結婚記念日を迎えた。「いつもニコニコ現金払い」は、私を現実に引き戻して、救ってくれた格言である。

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外国人

2009年10月13日 | Weblog
 私は長野県で育った。長野県には、ギャンブル施設、競馬、競輪、オートレース、競艇が一切ない。今は関東に住んでいる。今までテレビ放送は、ケーブルテレビ会社から東京のテレビ局の放送をアナログ受信して観ていた。テレビ受像機は、ハイビジョン方式である。アナログ受信していれば、このハイビジョン方式は、宝の持ち腐れだった。ハイビジョンで美しい映像を楽しみたかった。息子一家が遊びに来た時、息子が煩わしいアナログ受信を地デジ受信への切り替えをしてくれた。ハイビジョン方式の画像の美しさに感動した。慣れてくるとだんだん今までとのテレビの放送内容の違いに気が付くようになってきた。特にコマーシャルが東京の放送とだいぶ様子が変わった。地方色が濃くなった。特に競輪などのギャンブル関係が多くなった。

 今までギャンブル関係のコマーシャルを観たことがなかった。私の生活の中にギャンブルとの関わりが存在しない。毎朝ギャンブルの開催日程や出場参加選手などが紹介される。ある朝、選手の出場参加選手の紹介の中に出身県が表示されていた。外国人選手が一人表示されていた。その出身地が“外国人”となっていた。私はこれはおかしいと直感した。大相撲にも外国人力士が増えた。しかしNHKの大相撲中継において横綱白鵬や朝青龍の出身地を“外国人”とは紹介していない。日本人選手を青森県とか長崎県などと紹介し、外国人を“外国人”とはこれいかに。ギャンブルの広告を担当している会社にしても、その広告を放送する放送局も、これは怠慢である。

 日本はいまだに国際社会に門戸を開いていないと、私は感じる。かつて山形県の最上川の川下りの観光に参加した。昼食を取ったレストランで、中国からの団体観光客と一緒になった。私が参加した日本人のツアー客のある人が「中国人だって」といかにも嫌だという顔で言った。300年以上の間鎖国していた後遺症が残っている。そして乗船した船下りの案内嬢は、韓国から国際結婚して最上川の川沿いの村に嫁に来た女性だった。レストランで中国人団体観光客に嫌悪感を示したグループは、「こんなとこまでかい」とヒソヒソ話を始めた。

 案内嬢は完璧な東北弁を駆使し、東北民謡まで美声で披露した。彼女が住む村には多くの韓国人の嫁さんが来ていて、出生率は日本でも上位だという。キムチなどで村の経済も良くなり、活気があるという。自分が韓国から嫁に来たとくったくなく公言し、たくましくガイドとして働く。日本は観光に力を入れ始めた。最上川下りも国際的に人気があるという。彼女のようなガイドがいるからに違いない。

 好むと好まざるに関わらず、現在の日本は、世界の国々と共存していかなければならない。地方の嫁不足も深刻な問題である。出生率も低迷を続け、日本国の存亡が危ぶまれている。“外国人”と毛嫌いされても、力強く日本に溶け込む人々がいる。日本人は、純粋な単一人種だと言い張って壁をめぐらし、線引きして孤立する人々は、一体日本の将来をどのようなしたいというのだろう。最上川の船くだりで一緒だったあのグループの人々との意見交換もできなかった小心者の私自身に失望している。国際化とは、時間をかけて日本人が啓蒙され、また自らを意識改革していく活動だろう。まだまだ時間がかかりそうだ。

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新雇用対策

2009年10月07日 | Weblog
 6日の朝刊は、菅直人副総理と長妻昭厚生労働相が鳩山首相の要請で5日会談して、緊急雇用対策の取りまとめに着手したと伝えた。昨年年末の年越し派遣村を回避しようという、鳩山政権の強い態度が感じられる。私は、早い時期に「緊急雇用対策本部」を立ち上げる計画を支持する。

 しかし若者の就職支援をいまだに介護分野に拘っているのが残念だ。今どきの若者が、老人の下の世話も重要な職務である介護に耐えうるか疑問である。介護は、貴い職業である。相当の覚悟と使命感なくして就業できる職ではない。私の姉は、15年間介護の仕事に就いた。姉の話でどれほど大変な仕事かうかがい知れた。姉にできても経済的に困窮していた妹の一人は、姉の介護士資格を取るようにという勧めに「私には絶対できない」と拒絶した。彼女はきっぱり「他人の下の世話などできない」と言い切った。金銭問題だけの理由でこの職業に就くことはできない。

 私個人の考えでは、介護の仕事は、宗教こそ介入すべき分野だと信じている。明治時代、日本のハンセン病患者を誠心誠意、援助世話してくれたのは、外国人キリスト教の修道女や宣教師であった。現在、日本に新興宗教数々あれど、介護の分野で特筆すべき、かつての外国人キリスト教徒のように献身的活動をしている、と聞いたことはない。

 それに代わる人々は、老人たちの家族である。好むと好まざるに関わらず、血がつながっている、嫁だからと自己を犠牲にしてまで介護に明け暮れている。問題がいろいろ起こっている。その負担たるや大変なものである。50年前まで寿命は50歳ぐらいだった。平成17年女性が85.49歳、男性が78.53と驚異的に伸びた。日本史上、初めての事態である。私たち団塊の世代は、巡り会わせで、親の長寿の支えになっているのも事実である。私のまわりにその苦労話はいくらでもある。

 今、人手不足だからと、介護分野での労働条件改善、賃金をあげることが、緊急雇用対策になるとは、とても思えない。もちろん介護分野での条件改善、賃金アップは、不可避である。介護分野に必用なのは、介護ロボットや排泄介助装置などの研究開発である。若田宇宙飛行士のラジオで話すのを聞いた。宇宙船内での小便は、ろ過されて再利用されている。大便は、長い時間の訓練を必用とするほど、難しいという。尻を便器に密着させて、便器内を真空状態にして、便を掃除機がゴミを吸引するように排泄するそうだ。この方式は、将来介護施設で必ず応用できるという話に、私は感動した。日本の技術力で必ずや、近い将来、この福音は、介護分野の人々の仕事を劇的に変化させると思う。鳩山政権は、この介護分野での研究開発に、CO2の25%削減と同じくらいの力を注いでもらいたい。まだ時間がかかるとは思うが。

 そこで緊急経済対策へ私の提案がある。人口の多い大都市に公共1畳市場を開設することである。これ以上産業界に雇用を要求することは、不可能である。大量生産大量消費によるデフレ的価格国際競争は、日本の製造業に決定的な打撃を与え続けている。そこで発想を変えて、個人に焦点を当てる。国家や地方自治体が所有する一等商業地の建造物や敷地を、派遣村に転用した公園感覚で、市場化する。この分野での官の規制や指導は、有害どころか必要不可欠となる。市場では、ひとりに畳一枚分の売り場を提供する。販売するのは、決してフリーマーケットのような中古品であってはならない。若者が描いた絵、彫刻、彫金、アクセサリー、アニメ原画、詩、小説、漫画、書道、オブジェ、陶芸、ステンドグラス、アイデア、自分で作曲録音したCD,マグネットなどすべて個人で製作企画立案した文化芸術作品、アイデアを販売する。個人の芸術活動を公立教育機関、私立学校が再教育などのプログラムで支援する。

 一方、屋台を一堂に集めて、フードコートにしても良い。この場合、食べ物なので、調理師免許や保健所の営業許可がいる。おそらく日本全国から腕自慢の調理関係の若者たちが、郷土料理を引っさげて大都会に参集するであろう。郷土からの物流、生産販売も活発化する。無理に企業が、仕事もないのに、政府からの雇用調整助成金で失業率を下げるのを防いでも、いつかは、破綻する。もっと50年100年前の発想で、個人の起業に夢を与えるような機会やあ資金援助を考えたほうが、若者の雇用には効果が期待できる。

 日本には、もう十分立派なインフラがある。後は文化芸術性の高い分野を充実させる手もある。うまくすれば、観光立国ニッポンの一助にもなると思うのだが。病院通いで東京都内の開店休業状態の多くの公共施設を見るたびに、時々経由地の小田原駅の閉鎖された広大な地下商店街を通るたびに、そんなことを考えている。

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鮭の遡上

2009年10月02日 | Weblog
 9月26日6時半、毎週土曜日観るのを楽しみにしているテレビ番組が始まる。『満天 星空レストラン』である。最近私は、ほとんど新聞のテレビ欄を見ない。つまらない番組が多くて、テレビを観たくない。だからよほどのことがないとその日の特集が、どこの何なのかは知らないで観る。26日は、北海道のサケの特集だった。北海道の標津(しべつ)である。

 サケ漁船が港を午前2時半に出て、標津川の河口に設置してある定置網に向かう。漁は9月から11月まで続くという。サケは、川上で誕生し、海に戻り、4年間海を回遊して過し、生まれた川に産卵のためにオスもメスも戻ってくる。戻ってくる率は、わずか4%である。サケは、河口に集まり、遡上の時期を調節する。その時期に獲るサケにしか商品価値はない。一旦遡上に入ってしまえば、サケは、オスであろうがメスであろうがボロボロに成り果てる。急流の流れに逆らい、石ころだらけの水の中をただひたすら川上に向かう。多くの河川には、橋、ダム、堤防、堰などの人造物がある。テレビ『満天 星空レストラン』では、その標津川の河口近くの海に設置された定置網を上げる様子が映し出された。りっぱなきれいなサケである。それもそのはずである。これから遡上するというので、栄養もたっぷり蓄えている。サケは本来白身の魚である。けれど成長の過程でだんだんに遡上産卵に備えて、長い時間アスタキサンチンを蓄える。これがサケの身を赤く見せる。このアスタキサンチンは、痴呆防止の効果があるといわれている。

 テレビの受信が地デジになったせいか、画面が実物のようである。獲ったサケのメスの腹を割くと、筋子が出る。その筋子を網の上に置いて、軽く上から押す、筋子がバラバラになり赤く輝くイクラになって下のボールに落ちる。パラパライクラが落ち、テレビを観ている私の目からもポロポロ涙がこぼれる。鼻水がツーッと流れ始める。私は、突然サハリンの原野に戻った。リンさん(『サハリン 旅のはじまり』拙著参照)と行った北サハリンの名も知らぬ川でサケの遡上を見た日に戻っていた。長い時間川端に二人で並んで座り、1匹のメスに5,6匹のオスが迫る光景を見ていた。リンさんが、サケの腹から獲った筋子から見事な手さばきで、ボールにイクラにして溜めた。そこに塩を入れガーゼにいれ素早く攪拌する。一粒一粒がキラキラ光るイクラになった。それを中国や韓国から輸入した米を炊いて、ご飯の上にのせて食べる。ただそれだけのことだが、遡上を観た後のイクラご飯は、正直私の気持を重くしある種の罪悪感を持った。でもリンさんは、「美味しいですか?」と私に尋ね、私は「はい、とても美味しいです」と答えた。リンさんは、嬉しそうに微笑んだ。生きる厳しさを心底知っている者への、自然からの褒美に思えた。私のような軟弱な生き方をしてきた者には、まったく似合わない食事だった。それでもその場にいることを誇らしく思った。『満天星空レストラン』を観ている間、サハリンへタイプスリップしていた。

 番組が終わった後、テレビを消して、サハリンで妻が経験できなかった鮭の遡上の物語を話した。

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