団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

坊ちゃん刈り

2010年05月28日 | Weblog
 私は子供の頃、丸刈りの坊主頭になったことがない。保育園でも小学校でも中学でも高校でもクラスの男の子は、ほとんどが坊主頭だった。そのことが私の人生に大きな影響を与えたと思っている。決して裕福な家庭に育ったのではない。それなのにそれっぽく見せようと父親は、思ったらしい。これが何となく私が自分を仮想“お坊ちゃま”に仕立て上げたのだ。“お坊ちゃま”は大きな屋敷に住んでいなければならない。“お坊ちゃま”の家には、使用人がいなければならない。使用人が皆“お坊ちゃま”と呼ばなければならない。私はそのどの条件にも当てはまらない。

 私の人生の大先輩に本物の“お坊ちゃま”がいる。その人がこんな話しをしてくれた。子供の頃、その先輩の母親のお使いで、元女中さんをしてくれていた女性の家へ行った。その女中さんは長くその先輩の家で住み込みの女中として働いていた。出入りの植木職人に見初められて、その職人さんと結婚することになった。先輩の両親は、親身になってその結婚を援助した。ずっと後、先輩が彼の母親のお使いで、元女中さんの家に行くと、そこの家には先輩より年下のイガグリ頭の男の子供がいた。その男の子の前で元女中さんが“お坊ちゃま”と言うと、その男の子が腹を抱えて大笑いした。先輩は、その時くらい恥ずかしい思いをしたことがない、と言う。先輩のその頃の写真を見せてもらった。見事な、これぞ“坊ちゃん刈り”という頭である。これに比べたら私の“坊ちゃん刈り”など到底およびもしない。

 私は、ずっと坊ちゃん刈りだったことで勘違いをしてしまった。毎日坊主頭のクラスの男の子たちに囲まれ、誤解をしていた。親の思い違いというか、教育方針の間違いで、私が身につけてしまったのは、“ええカッコしい”の自惚れであった。カナダへ高校から留学したこともいけなかった。結局離婚して初めて自分の背伸びしていた生き様に気がつき、打ちのめされた。29歳の時だった。ずいぶん長い時間を無駄にした。どん底まで落ちた。二人の子供を育てることによって、自分もやり直すことができた。自分の子供の年齢に戻ってやり直すしか、彼らと向き合う術がなかった。私の長男には有無を言わせず坊主頭にさせた。私も生まれて初めて坊主頭にした。坊主頭にも平気でなることができた。初めて坊主頭になった時、鏡の前で泣けた。なぜ泣けたかというと坊主頭がとても似合っていたからである。もっと早く外見により、内面を重んじていたならば、と後悔した。日本の現首相も5月31日までに普天間問題に関する約束を果たせなかったら、一度坊主頭になってみたら良い。きっと鏡に中に自分の実像を見ることができる。

 私は、だんだん髪の毛が抜けて、ずいぶん頭のてっぺんがうすくなってきた。時々、鏡を見ても嘆かない。それより途中で生き方の軌道修正ができたおかげで、自滅しなかったことを感謝している。この先、すっかり禿げ上がっても、このままであっても、大手術を経て、この年齢まで生きてこられたことを思えば、取るに足らぬことである。

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英国紳士

2010年05月25日 | Weblog

 丸紅の春名和雄会長があげる英国紳士の条件7か条の7番に「女王陛下からイーストエンドの労働者にまで、挙措(きょそ:立ち振る舞い)を含めて幅広く対応できる素養をもっていること」とある。英国紳士たる者は、女王陛下であろうと、ロンドンで貧しい労働者階級が住むといわれているイーストエンドの人々であろうが、相手に不愉快な思いを与えずに接することができる柔軟かつ礼を欠かない知識教養を持つのである。

 4月28日午前、英国イングランド北西部ロッチデールで英国のブラウン元首相が年金生活者の女性ジリアン・ダフィーさん(65)の質問を受けた。元首相は、この面会のテレビ中継のためにピンマイクという小型のマイクを胸元につけていた。ところがこのマイクのことをすっかり忘れて首相専用車に乗り込んだ。そこまではすべて完璧に英国紳士ぶりを発揮していた。自動車は、密室となる。ドアを閉め、車が動き始めれば、そこは本音の世界である。油断大敵。“壁に耳あり、障子に眼あり”どころでなく高性能集音超小型マイクがつけられたままだった。そのマイクは、こともあろうにBBC放送局の報道班につながったままで、ブラウン元首相の本音「偏屈オンナ」を伝えた。飛んで火にいる夏の虫、これが特ダネでなくして、何が特ダネであろう。BBCは、全英に幾度となくこの録音を繰り返し放送した。総選挙を真じかに控えた労働党党首ブラウン元首相には、たまったものではない。絶体絶命。もちろんジリアン・ダフィーさんの耳にも入った。ブラウン首相は、英国紳士として挙措を持って直にダフィーさんを自宅に訪ね謝罪した。完璧な英国紳士としての謝罪だった。日本の政治屋さんには、できない離れ業であった。時すでに遅し。もうどうつくろっても修正不能である。結果、ブラウン元首相率いる労働党は、選挙で単独過半数を取れず、自民党と民主党の連連合に政権を渡すことになった。

 英国紳士は、私の憧れである。紳士然と振舞っていても、所詮それは建前であって、本音は隠されている。英国紳士は、隠し具合が上手い。私が住んだ海外の地で知り合った多くの英国人を、私はじっくり観察できた。人間がどう振舞おうが、何億年というDNAの連鎖は、原始の人間のままの部分も受け継いでいる。人間は、礼儀の仮面をかむり、どんなに英国紳士を気取って「この世は文明化されている」と胸を張っても、実は野蛮のままの部分もある。私も自身の中に存在する野蛮さに手を焼くことがある。得に思考と言動において、車の中とテレビの前
では制御不能となる。だからこそ私は、英国紳士の礼儀の仮面を手に入れて、できるだけ野蛮さを閉じ込めておきたいと願う。

 テレビに映ったブラウン元首相が家族と首相官邸を去るうしろ姿は、印象的だった。ブラウン元首相がよく口にしたのは、「道徳的な判断基準」である。スコットランドの牧師の息子だったブラウン元首相らしい。懸命にかぶりつづけた紳士としての道徳と礼儀の仮面を官邸に置き、人間を取り戻した瞬間だったのかもしれない。「友愛」を掲げるわが国の現在の首相が官邸を去る時、いったい彼は何を置いていくのだろう。仲良さそうに手をつないで立ち去るであろう首相夫婦のうしろ姿に日本国民は何を感じるだろう。
 1票をおろそかにできない。


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口蹄疫

2010年05月20日 | Weblog
 まだ薄暗い牛舎の重いサガリ戸をかじかむ手で開ける。『サユリ』が私の入って来たのをいち早く嗅ぎ分け「ゥモォーォーオー」と声をあげる。私は『サユリ』に駆け寄り、顔を愛撫する。目ヤニのついた大きな瞳を潤ませる。顎の下のたるみをゆっくり揉み解すように揺する。顔を上にあげ、歓喜のため息を白く吐き出す。同時によだれもたっぷり流れ出て、顔振るので私の作業着にもべっとりふりかかる。『サユリ』が落ち着くと、私は床で湯気をあげる牛糞をスコップで専用一輪車にすくってはのせる。よくまあこんなに大量にと感心する。牛糞を集積場に運び、一輪車を傾けて、下に滑べらせ落とす。一輪車を戻す。

 次に牛舎の入り口にある湯沸し器から頑丈なバケツに熱いお湯を入れ、洗浄布を干し場のヒモからはずし取る。重いバケツを湯をこぼしながら、『サユリ』の区画に運ぶ。洗浄布を熱い湯に浸し、素早く絞る。そして牛乳でパンパンにふくれている『サユリ』の乳房を優しく温湿布とマッサージと洗拭を兼ねて拭き揉み撫でる。『サユリ』は、嬉しい時、尾を私に巻きつけるように水平に振る。振るのはかまわない。しかし尾は洗浄してない。洗浄してないから、たっぷり牛糞がついている。顔を乳房の高さに置いているので、時にはまともに口に尾があたる。口にしまりがあればいいのだが、私の口はどちらかというと少し緩みがちだった。「バシッ」と後頭部を一周した尾の先が口を直撃。朝食前に口にたっぷり牛糞が入る。ポケットのタオルを出し、拭く仕草。急がねば朝食の時間に間に合わない。乳搾り用の小さな椅子に座り、乳絞りを始める。こうして毎朝私は、担当の『サユリ』の乳をバケツ一杯搾った。

 『サユリ』のお産も手伝った。逆子で脚が出てきた。獣医と責任者が「このままだと子も親も危険だ」と言い、ヌルヌルの子の脚を獣医の掛け声で引いた。最後に信じられないくらい簡単にポンと産まれた。子牛が立って鳴いた。皆で手を取り合ってジャンプし抱き合い泣いた。

 豚の世話もした。担当した豚はメスの『ブランケット』だった。『ブランケット』のお産で夜中の12時に8頭子豚が産まれた。皆が引き上げ、私は一人で産後の処理をして『ブランケット』の横のワラの中で寝てしまった。朝、目を醒ますと8頭が12頭になっていた。私が寝てから4頭『ブランケット』は自分だけで産んだ。

 上記の話は、私が10代後半に在籍したカナダの学校で経験したことである。学校の食堂で牛舎や豚舎で働く者は「臭い、臭い」と敬遠された。動物の世話をする私の仲間の学生は、優しい人が多かった。

 今回の宮崎県の口蹄疫の蔓延で後手後手だった政府が非常事態宣言を出した。テレビ画面に地面に掘られた大きな穴に数えられない『サユリ』や『ブランケット』が横たわる。私は切なかった。まるでアウシュビッツである。

 緊急対策本部と名前ばかりの会議に、政府の重鎮が並ぶ。会議が対策のフリをする常套手段。記者会見において、農林水産大臣の「私に反省する点はない」発言を聞いて、私はテレビを消した。現在の大臣でまともな口をきける大臣はいないのか。少なくとも牛や豚を飼う人々が、手塩にかけて面倒をみている家畜を穴に埋める気持ちを理解しているとは思えない。私をカナダの学校で「お前は牛や豚と同じ臭いがする」と敬遠した人々と同じ類の人間としか思えない。目配り、気配り、手配りができない人が増えている。上に立つ人間の真価は、危機に瀕した時に表れる。そこを通過してこそ、尊敬という報酬と名誉が与えられる。熱情と行動力に欠け、言葉に心をこめられない、名前だけの首相と大臣を指導者にいただく日本が情けない。

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尺取虫

2010年05月17日 | Weblog
 妻と散歩中、私は道路のアスファルトの上に異様な動きをする虫を見つけた。カックン、ダーッと小さな細い体を規則正しく、連続してカギテ状に曲げては延ばす。私は歩くのをやめて、屈みこんで観察を始めた。知らずに先を行く妻は、私がすぐ後ろを歩いていると思って、話しかけている。しばらくして気づいたらしく「どうしたの?ケイレン起こしたの」と急坂の12,3メートル上から叫ぶ。誰も歩いていない。家もない。ちょうどお昼時で、車も通らない。私は目の焦点を尺取虫の動きに合わせている。手のひらを波立たせ「おいでおいで」と合図を妻に送った。

 「何なの?」と坂の傾斜に体重移動を助けられスピードをつけた妻が駆けつけた。「何かあるの?」と私の見ている地面を覗き込む。私「尺取虫」 妻「ほんと?どこどこ、どこに」 尺取虫は、私たちのやりとり騒ぎを気に留めることもなく、カックンと体の中央部をカギテ形に折りたたみ、ダーとのばす。いつしか妻も夢中になってじっと見ている。「杓子定規な動き、おもしろいね。ちゃんと間隔測って動いているみたい」私「こんな動きをして地面を這いつくばっていても、そのうちにこの虫は、羽化して飛べるようになる。そう思うと不思議で、また夜も眠れなくなるな」妻「毎晩、良く寝ているわよ」

 私たちが、そんな他愛もない会話をしていても尺取虫は、カクン、カクン、ダーと道路を渡ろうと懸命に全身を縮めては伸ばす。車に轢かれないように、しゃくとり虫を葉っぱに乗せて、道路を渡り、草むらに置いた。出しゃばりかもしれないが、車に轢かせるのは忍びない。

 私は幼い時から、道草を食う天才と呼ばれた。虫、草花、鳥、小動物、魚、イモリ、ヤモリ、好奇心旺盛にじっとどこでも場所を選ばず観察した。そんな子ども時代が戻ってきたように、今住む町でも散歩に出て、道草を食って楽しんでいる。私があちこちで道草を食えるほど、ここの自然が豊かなことが嬉しい。家の中にナメクジやゴキブリがいれば、まるで狂人の如く声を張り上げ、大騒ぎする妻も、散歩で野外に出ると虫にも優しくなる。

 そろそろ家の前の桜並木も葉桜になり、緑のトンネルをなしている。木陰が気持ちよい。この季節になると、そろそろサワガニが道路に出てくる。車に魅かれないよう、見つけては道路横断の手伝いをする。車に轢かれたペチャンコのカニを見ると、落ち込んでしまう。私だけの手助けで、どうにかなることではないが、そうせざるをえない。生きたまま、轢かれる瞬間を想像するのが辛い。

 5月の連休後半に行った沖縄県の西表島では、西表ヤマネコ、ハコガメを守るために、道路の下にヤマネコトンネルを通したり、道路わきの側溝をハコガメが落ちないよう浅い渡りやすい構造に変えていた。天然記念物に指定されているからだろう。西表島出身のガイドの「この島で一番偉いのがヤマネコ、以前二番が人間だったけれど、最近はハコガメがランクアップされて、とうとう人間は三番になりました」の冗談が冗談に聞こえなかった。

 尺取虫の観察をして道草食いながら、私はいろいろなことを考えた。妻ともたくさん話せた。その日も良い出会いがあり、感謝な気持ちで散歩を終えた。
 (写真:道路横断中のしゃくとり虫)

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「さみし~いんだよ」

2010年05月11日 | Weblog
都合により12日投稿分を本日11日に変更します。

 五月の連休3日目、ショウブをお風呂に入れて、ショウブ湯にしようと思いついた。さてどこでショウブが買えるかと考えた。私の住む町にスーパーが7軒ある。まず行きつけのA店に向かった。A店には、時々珍しいモノが店頭に並ぶ。勘を信じて、車をA店の駐車場に入れた。私は常に遠くに駐車する。そうすることによって万歩計に歩数を増やす。一番入り口から遠いところに車を止めて、妻と歩き始めた。

 道路を挟んだこのスーパーの第二駐車場のほうから泣き声が聞こえてきた。私たちは立ち止まって、耳をすませた。駐車場の道路に面した場所に、箱型の軽自動車が止まっていた。その中から泣き声が聞こえた。自動車を密閉して太陽の陽射しの強いところに止めておくと、車内は50℃を超すという。多くの子どもが犠牲になっている。中が見えない。妻の目が心配そうに車内の様子を見ようとしていた。突然後部のスライドドアが開いた。大声で泣く4歳か5歳ぐらいの女の子がステップを降りようとしていた。あの身長では外から見えないはずだ。女の子はまず妻を見据えた。そして泣きじゃくりながら何か言った。ところが妻も私も何を言っているのか聞き取れない。見知らぬ私達に、まるで旧知のように全幅の信頼をおいた表情だった。妻に話しかけているのを見ると、きっとお母さんと一緒に来たのだろう。それかよほどのお母さんっ子なのだろう。寝てしまったのか、お母さんは、急いで買い物して戻ってくるつもりなのだろう。ところが子どもは、目覚めたばかりの時は、過度に不安になっている。目が覚めお母さんがいないので、パニックに陥ったのだろう。危険な状態である。道路に飛び出したら危ない。私にしても妻にしても、最近の世相から言って、小さな子にむやみやたらと声をかけられない。誘拐や変質者による犯罪が多発している。駆け寄ってあげることができない。できることは、ただひとつ。この子が無事、道路を渡れるようにしてあげることだ。私たちは、道路の左右を見て、車が来ないことを確認する。ただそうするしかなかった。

 道路のむこうで、女の子は、妻に助けを求めるように叫んだ。「○○は、さみし~んだよ」 驚いた。この年齢で「さみしい」を使うとは。きっとお話がきちんとできるおませな子なのだろう。道路を安全に渡るのを見守った。駆け寄りはしなかった。一定を距離を置いた。女の子は、私たちの後を追う。店の前にも駐車場がある。私たちはゆっくり後ろの女の子に注意しながら店の入り口に向かった。女の子は、クリーニング店の出店の前でどこかのおばあさんに向かって泣きじゃくりながら何か訴える。おばあさんがそれをしっかり聞きとめる。私たちは、お互いの顔を見合わせた。「良かった。これで大丈夫」とお互いの心を読み取った。胸をなでおろした。きっとあのおばあさんが女の子をお母さんに渡してくれるだろう。まさに適任者だ。それにしても、子どもを育てるということは、本当に大変なことだ。油断ならない。

 店に入ってすぐ、ショウブを見つけた。私の勘はまんざらでもない。店を出て、車に戻る。女の子が降りてきた軽自動車がすでにそこにはなかった。気が軽くなった。 家に戻り、明るいうちからショウブ湯に入り、風呂の中で、女の子の話で盛り上がった。
(写真:我が家のショウブ湯)

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「来た、来た!」

2010年05月05日 | Weblog
 都合により5月6日分を本日投稿いたします。

「来た、来た!」まだ幼かった私は興奮して誰に言うでもなく、踊るように足をジタバタさせて叫ぶ。生まれ育った町を横断して走る信越線。蒸気機関車D51が長野方面から左側から孤を描いて上田駅に向かってくる。列車でどこかに出かけるのは、年に一回あったかどうか。乗車する列車が到着する一時間くらい前から駅で待った。改札を通る前に待合室で待つ時間とホームに立って待つ時間と同じくらい長かった気がする。

 何をするにも待つことが普通の時代だった。正月を指折り数えて待った。

 祝いの食事が、カレーと決まっているのに姉ちゃんの、私の、妹ふたりの誕生日が来るのを年4回首を長くして待った。誰かの誕生日が終わると、次の誕生日を待ち始める。親の誕生日にカレーはなかった。

 一年が長かった。

「もういくつ寝るとお正月」と歌って正月を待ち、「春よこい、春よこい」と歌って春を待った。

 傘を持ったお迎えの母親やじいちゃん、ばあちゃんともうみんな帰ってしまった。ガランとした学校のガランとした玄関の下駄箱の脇に立ち、一人で「雨、雨降れ降れ、母さんが蛇の目の~」と、口ずさんだ。かあちゃんが「ごめんね。お客さんが来て、遅くなちゃった」と長靴と傘を差し出す。歌ったことが待っていると必ず巡りめぐってきた。待つ喜びを歌が教えて、一緒に待ってくれた。待てば何でも大丈夫なんだといつしか思っていた。

 離婚して二人の子どもを自立するまで育てるんだと無理をした。もう破滅だとあれだけ勝手に思い込んで、落ち込んでいたのに、なんとか通過してきた。いつか楽になれる日が来ると、歯を喰いしばった。

 時間は確実に過ぎる。待っていれば、いつも信越線のD51蒸気機関車のように力強く湯気を吐き、大きなシリンダを回して近づいてくる。気が付かないだけだ。見えないけれど人生は、レールの上を進んでいる。人生の終着駅が近づいてくる。その日が来たとき、信越線の上田駅で「来た、来た」とD51を迎い入れたように終わりを受け入れることができればと願っている。

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