団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

横綱日馬富士 「暴力行為は犯罪です」

2017年11月29日 | Weblog

思い出深い日本人会

①    カナダ 

②    ネパール 

③    セルビア

①  ② ③ 世界のどの国にも日本人会があると思われる。“同邦”は、響きの良い言葉である。異国ではためく日の丸を見るのと同じ感動がある。しかし“同邦”は、都合の良いこと言葉でもある。同邦というくくりの中にも、異邦のくくりの中にも人間としてのあらゆる問題が内在する。

 日本の大相撲は、モンゴル人力士抜きで、その存在さえ危ぶまれるほどである。4横綱のうちナント3横綱がモンゴル人で占められている。いかなる職業に身をおくモンゴル人であっても、異国である日本に住めば、“同邦” である。大相撲の力士が、同邦を軸に集まるのは、日本人が異国で日本人会を立ち上げるのと同じ理由である。

 私が初めて経験した海外生活は、カナダであった。カナダには移民した日系1世から始まって、今では5世6世と代が進んでいる。日系の日本人会とは別に、日本から派遣された社員家族や私的理由で住む在留邦人が立ち上げた日本人会もある。両者の違いは、国籍と使用言語だと思われる。

 私は、やがて自分が人種では、英語でMongoloidモンゴロイドであるとカナダ人の会話の中で知った。白人の上から目線の人種感には抵抗を感じた。でも同じモンゴロイドであるアジア人には親近感を持った。人種の起源にまつわる好きな話がある。カナダのインディアンの昔話。神様は人間を焼いた土で作った。白人は生焼け。黒人は焼きすぎ。ちょうどよく赤く焼けたのがインディアン。インディアンも人種的には、モンゴロイドである。私は、「自分はモンゴル人と同じなんだ」と驚いた。白人は自分たちをCaucasian(コケイジャン)と言っていた。自分がモンゴロイドであると知ったことは、私の人種という大きなくくりを考える時に強い影響力を与えるようになった。100%ではないが、モンゴロイドの赤ちゃんは、“蒙古斑”が臀部に出る。私も出た。私の子どもにも出た。蒙古という名がついているという事は、あきらかにモンゴロイドの特徴の一つなのであろう。余談であるが、日本人が子どもをヨーロッパに病院に連れて行って診察を受けた。医者が子どもを診察すると臀部に青いアザがあり、幼児虐待だと警察に通報されたという話を聞いたことがある。またハンガリー人の一部の人にもこの蒙古斑が見られると知った。かつてジンギスカンの軍勢がヨーロッパまで侵略してその時の子孫が脈々と続いているらしい。人種の遺伝子に摩訶不思議さを強く感じる。今生きる人々のすべてが優勢遺伝子と劣性遺伝子との絡み合いの繰り返しの結果だと思うと畏敬の対象となる。

 横綱日馬富士が貴ノ岩に暴力をふるったことが連日大騒ぎになっている。事が起こったのが、巡業先の鳥取市の飲み屋だった。モンゴル出身のお相撲さんが集まって飲んでいた。ごくごく普通のことである。アメリカ人、フランス人、何人であれ、“同邦”の者は群れやすい。しかし群れの中には、必ず派閥が発生する。上に立とうとする者が出る。それをヨイショする者も出る。横綱、平幕という階級での差、世間のどこの大学を出た、会社の役職がどう、家柄が良い、男だ女だ、と気にする差と変わりない。

 相撲は世界最強の格闘技とまで言われている。日頃の稽古に加えて、神に奉納する儀式として儀礼規範でがんじがらめにすることによって、ただの闘いとは一線を画している。

 酒は人を変える。酒は人を素に戻す。日馬富士は、酒に酔って横綱という呪縛から解き放たれ素に戻ってしまった。東海道線のある駅にポスターがあった。「暴力行為は犯罪です」(写真参照) その通り。どんな理由があろうと暴力は犯罪なのである。

 


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長寿109歳

2017年11月27日 | Weblog

①    109歳

②    100歳

③    95歳

①    ② ③ 今日までに喪中はがきが7通届いた。109歳100歳95歳が今年届いた喪中はがきの長寿の順であるが、他の4人も皆90歳以上である。平均寿命はゆうに90歳を上回る。私の皺、シミ、ハゲなどの老化現象が進むにつれ、喪中はがきを受け取る枚数が増える。寄せる年波の抗いがたい現実である。一層終活に力を入れなければと思うばかりで、毎日ほとんどの時間を無駄に使っている。

 友人の岩手県に住む母親が109歳で今年1月に亡くなった。友人と岩手へ旅行したのが、彼の母親が100歳になる直前だった。毎日やることは、朝押し入れから柳行李を引きずり出して、中の物の整理を始める。今で言えば、それこそ終活である。しかし手に取ると、それぞれの物が彼女に思い出を語り始める。昼食の時間となり、手を一旦休める。そして作業再開。気を取り直して、整理しようと別の物を手にする。再びみたび、物が語り始める思い出に包まれる。夕方が訪れる。行李の蓋をして押し入れに押し戻す。「私の毎日はこうして過ぎています」と友人の母は優しく微笑んだ。あれから10年が過ぎていた。事あるごとに友人に「お母さんお元気ですか」と尋ねると「相変わらず元気でやっています」と答えが返ってきた。岩手で実際に元気な姿を見ていた。友人と彼の母親のことを話していると、私は不思議な気持ちになった。自分も100歳過ぎてもあのように元気でいられるのではないか、との幻覚のような希望の中に一瞬いる事が出来た。

 私は心臓のバイパス手術を受けた。最初の手術で大きなミスがあり、別の病院で再手術を受けた。危険な手術だった。何とか問題の血管を担当の医師の高い医療技術で修正できた。その医師が言った。「10年前だったら、助からなかったでしょう。良かったですね。これからこの頂いた命大切に生きてくださいね」 私は手術を54歳で受けた。友人の母親の109歳のちょうど半分の年齢だった。あれから16年。色々な体の問題を抱えながらまだ生きている。今年古希を迎える事が出来た。

 私が109歳まで生きられるとは思わない。現代医学がここまで進んでいなかったら、私はきっと心筋梗塞を起こして54歳で死んでいた。実際54歳である人の勧めで『辞世帳』を書いた。今流行りの『エンディングノート』である。まさかこんなに長く“おまけ”の人生を送れるとは。

 来年はもっとたくさんの喪中はがきが来るかもしれない。そうこうしているうちに,やがて私の喪中も来る。岩手の友人の母親の柳行李が私の理想である。私の母も90歳を過ぎ、風呂敷包みひとつにまとめ、「私が死んだらこれを処分して」と言っている。私も、できるだけ早く家中に散らばる私のゴッタクを行李一つくらいにまとめたい。行李ひとつ、風呂敷包みひとつに自分の人生をまとめることがどのくらい大変なことか・・・。今朝もすでに「明日から・・・」の声が大きくなりつつある。


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東京駅駅舎

2017年11月21日 | Weblog

①    東京駅

②    イタリア ヴェネツィア サンタ・ルーチア駅

③    信越線 上田駅

 ①     11月20日月曜日テレビ東京の『世界!ニッポン行きたい人応援団SP』20:00~21:54を観た。泣いた。ブラジルのトメアスから63年ぶりに日本へ戻った日系1世草野恒雄さん69歳が私も大好きな東京駅の駅舎の前に立った。(写真参照:東京駅駅舎と草野さん)

 草野さんは6歳の時、両親と1歳の妹と4人でブラジルへ移民した。4人子供がいて、そのうちの2人が日本に住んでいる。日系移民は、日本に見切りをつけ、夢を追って新天地へ渡った。しかし新天地は、けっして夢の地ばかりではなかった。日本政府の長期展望に基づく政策なしの、単なる口減らしのような移民政策が取られた時期もあった。草野さんの両親が入植した地も“緑の地獄”と呼ばれるような荒れ地で農地には不向きなアマゾン流域の奥地にあった。

 私は高校生でカナダに渡り、多くの日系移民の方々と接した。第二次世界大戦下、敵国人として収容所に入れられ、職業も財産も取り上げられた。それでも戦後、勤勉で努力家の日系人の多くが生活基盤を取り戻した。教育熱心で多くの2世3世達は、医者、弁護士などの職業について活躍している。その日系人たちのほとんどが、人種差別にあっている。市民権を持たない私が差別されるならまだしも、市民権があって国の役に立つ日系人が差別されるのは不当である。そして今、彼らを韓国系、中国系の移民たちが、慰安婦像の設置を推進して苦しめ始めている。このような理不尽に対して、日本政府の無力さが、さらに日系移民をも苦しめる。

 どんな仕打ちを受けても日系人の中に流れる日本人の血は、故郷への想いは消えることがない。草野さんは、カナダアメリカの日系人ほどの直接的な差別や仕打ちは受けていないようだ。しかし日本へ里帰りできるような収入は得られなかった。たった二人で東京ドーム6個分の広大な農園で働いている。月の収入は、年金こみで7万円。日本への里帰りは到底無理な話である。2世である子どものうち、二人は祖父母や父にとって新天地になるはずのブラジルから日本へ出稼ぎに来るはめになった。時代に翻弄され、裏目になってしまう。日系移民に草野さんのような方はおそらくたくさんいることだろう。母国とは、これほど薄情なものなのだろうか。

 東京駅は改築工事が終わり、建設された当時の姿に戻された。草野さんは、近代的高層ビルが林立する東京で、昔の日本の姿を見せる東京駅駅舎を見る姿が私の胸を締め付けた。少しだけだけれども草野さんの心中が察せられる気がした。

②    ヴェネツィアは私が世界で一番好きな場所である。そこの入り口へ鉄道が入江を渡って到着する。駅舎の外は、鉄道ばかりでなく、自動車の終点でもある。ここからヴェネツィアへは、水上交通しかなくなる。こんな駅は他にない。

③    信越線にまだ蒸気機関車が走っていた頃の上田駅。私は小学生の時、時間があれば、駅に行き、改札口から汽車を見ていた。改札口は4,5個あって使われていない改札口が必ずある。そこは台になっていて、普段は駅員が立って仕事をする。新幹線が通った現在の上田駅とは、比べ物にならない小さな駅舎だった。

  カナダ留学へ出発する日、母が自転車の荷台に私のたった一個の小さなスーツケースを縛り付けて家から駅まで送ってくれた。あの日の上田駅の駅舎が目に焼き付けられている。


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鮭 イクラ 樺太

2017年11月17日 | Weblog

①    紅鮭

②    キングサーモン

③    アフリカの鮭

①     デパートで催される「北海道食品展」に行くと臨時食堂でイクラ丼や親子丼(鮭の刺身とイクラ)を食べようと長い列ができる。イクラの販売コーナーも人気がある。糖尿病で痛風持ちの私はイクラは、御法度食品の一つである。今年もサケ漁が始まった。ネットのニュースに『北海道の道南でサケの卵が盗まれる事件が相次いでいる。10月9日には八雲町の捕獲場から25匹の卵(約20キロ=16万円相当)、24日は岩内町の孵化場から173匹(87キロ=69万円)、翌25日は函館市の孵化場から96匹(77キロ=61万円)、さらに26日には上ノ国町の孵化場の池の水が抜かれ、オス・メス24匹が盗まれた。(デイリー新潮)』とあった。イクラ泥棒が横行するほど、イクラの値は高騰しているらしい。先日もテレビのニュースで、世界で鮭の争奪戦が繰り広げられ、鮭の値段も高騰していると伝えた。「日本の食卓から鮭が消える」とも言っていた。

 私は妻の仕事の任地だったサハリン(旧樺太)で生まれて初めて本格的な鮭釣りを経験した。旧日本領を超えてサハリン島の北の端まで車で上がった。人は住んでいなかった。世界で一番広い国土を持つロシア。アラスカをアメリカに売り渡したロシア。日本から樺太をとっても人も開発の資金がないので荒れ放題にしているロシア。持つものもたざるものの違いはどこからと疑問を持ちながら悪路を旅した。川は私たち9人のグループだけしかいなかった。熊の襲撃を恐れながら鮭を釣り、イクラを作った。(写真:野営地で作ったイクラと釣った鮭)

 日本人は、魚もほとんど無駄なく食べつくす。魚資源が減少するなか、その習慣が足かせになってきている。ニシン。数の子を食べ、肥料にして捕りつくした。ウナギ。マグロ。鮭。資源保護の観点からも手を打たなければ、手遅れになる。

 鮭は養殖が成功した例である。しかしそれでも現在世界の需要に追い付かず、鮭の値段が高騰している。世界の小さな国の和食という文化が、いまでは全世界に拡大してしまい需要がウナギ登りに増加している。早晩このままでは、だれの口にも入らなくなる。私は魚資源が回復するまで、何らかの制限を設けるべきだと提案したい。網の目を大きくして一定以上の大きさの魚しか獲れなくする。魚卵や幼魚の捕獲を禁じる。

 毎朝食卓にのる焼いた紅鮭は、私の好物だ。これが食べたくて日本に住んでいると言っても過言ではない。鮭資源の保護が成功することを祈る。

②    カナダのバンクーバーやアメリカのシアトルのレストランでサーモンステーキとビーフステーキのミックスステーキは人気メニューである。もちろん鮭は、キングサーモン。厚さは鮭も肉も3センチはある。もうとてもあれだけの量をたべることはできないが、若かった私は完食できた。

③    アフリカのセネガルで暮らした。アフリカで鮭?それがスーパーに時々入荷したのだ。アフリカで食べる自家製の塩鮭は、旨かった。映画『砂漠でサーモン・フィッシング』を帰国してから観て、なつかしくアフリカで食べた鮭の味を思い出した。


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お尻に優しい 日本のインフラ

2017年11月15日 | Weblog

①    水洗トイレ

②    水道

③    温水器

①     妻が「最近ウォシュレットおかしくない?」と言った。私は異常を感知していなかった。妻が出勤した後、トイレでチェック。リモコンの乾電池を新しいものに取り換えた。不器用な私はリモコンを壁から外すのさえ時間がかかった。電池を取り替える。さあ、これで大丈夫。トイレを使った。洗浄装置が働かない。これは一大事。私が更にウォシュレットの機能を悪化させてしまった。結局ギブアップ。リフォームでお世話になった会社へ連絡。担当者が来てチェック。原因は便座シートだった。外すと今まで通りに作動した。ウォシュレットの洗浄機能は、凄い。この装置なしのトイレに入りたくない。海外旅行を躊躇するのもトイレ問題が大きな理由である。

 先日友人宅に招かれた。私たち夫婦の他にもう一組の夫婦と友人の娘さんの計7人で楽しく過ごした。友人ももう一組の夫婦の旦那も大学教授を定年退職していた。二人は理系である。話しがトイレの話になった。皆、一様に現在のトイレ事情を絶賛した。私も含めて男3人には、若かりし頃トイレの汲み取りの経験がある。あの経験がある者にとって、現代のトイレは夢のトイレである。

 私は海外勤務の妻に同行して外国で暮らした。妻の赴任地は、下水処理場もゴミ処理場もない国が多かった。断水、停電は毎日。雨が降れば、地下浸透式の水洗トイレは、浸透容量オーバーで溢れだした。もう2度とあのような生活はできない。

②     日本に帰国して水道水をそのまま飲めることに感動した。以前は当たり前だと思っていたことが、海外生活で苦労したことで感謝に思えるようになった。そして2011年の東日本大震災。電気は停電や節電で止まることがあったが、水道は止まらなかった。不便だった外国での生活で、電気、ガスが無くても水さえあれば何とか生きることができると経験できた。豊富で清潔な水のおかげで、ウォシュレットも使える。

③     ウォシュレットには洗浄水を温める機能さえある。何という贅沢!そして家中の蛇口からは、温水と冷水が出る。子どもの頃、家の蛇口は、どこのもただ冷水しかでなかった。10代後半でカナダの高校へ移り、寮の蛇口からお湯が出るのに仰天した。今では日本も当時のカナダ並みになった。今住む家には大きなタンク式温水器があり、風呂、台所、洗面所どこにもたっぷりな湯を供給してくれる。夜間電力を利用するので電気代も助かる。

 日本のインフラは、大きく進化した。私の孫たちは、生まれた時からウォシュレットがある生活をして、スマートフォンをおもちゃ代わりに触っている。人間の環境の進化は止まらない。好きな大相撲が始まり、テレビ中継を楽しんでいた。横綱の日馬富士が酔って暴力事件を起こし休場した。相撲界で横綱は、殿上人である。人間は、どれほど環境が改革進化しても、動物であることに変わりはない。トイレに座ると人間が動物だと謙虚に悟る。トイレですることは、太古の時代から変わらない。どんなに環境が改善されても人間はトイレですることから解放されない。私は汲み取りをしたことによって自分が生き物であると思い知らされた。横綱だから内閣総理大臣だから東京都知事だから年収何十億円だと驕ることなかれ。トイレは、自覚と反省と感謝の場としたい。


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寅さんと座間事件

2017年11月13日 | Weblog

①    車虎次郎

②    国安おじさん

③    Poul Koch

①     10月30日に逮捕されてから、座間市9人殺人事件の報道で徐々に白石容疑者の本性が伝えられている。ラジオ、テレビ、ネットなどのニュースでは、なかなか知りたいことに触れられていない。(写真:先週小田急線で新宿へ行くとき事件現場を通過した時撮った写真)やはりこういう事件は、週刊文春、週刊新潮の出番である。私は週刊新潮の11月16日号を買った。白石容疑者の猟奇的快楽殺人の暗闇を知ることは誰にもできやしない。ただ8人の犠牲になった女性が寅さんのような人を求めていたのではないだろうかと私は推測するようになった。

 自殺したいとほのめかす程、自分たちの人生の先行きに不安を抱えたり、自信を失っていたであろう女性たち。白石容疑者は、SNSを駆使して彼女たちに近づいた。いや、彼女たち側から近づいたとも言える。人は誰でも自分の存在を他人に認められたい。褒められたい。寅さんと白石容疑者と比較することは、寅さんの冒涜に値することは、重々承知している。私が寅さんを尊敬するのは、寅さんはどんな人とも面と向かって話ができることだ。私は今現在、見ず知らずの人と話すことはまずできない。小心者のせいもある。他人と関わることで、何か犯罪に巻き込まれるのではという恐怖を常に持っている。先を読み過ぎて、過度に警戒してしまう。臆病すぎてSNSで見ず知らずの人と交流することもできない。寅さんはSNSを知らない。常に自分の半径数メートル以内との会話で寅さんは生きる。本気で笑う、怒る、褒める、助ける、けなす、見放す。SNSの世界では、誰でも寅さんのふりをすることができる。SNSを通して構築された相手の人となりは、架空の存在である。8人の女性たちは、架空の人物と直接対峙したその日に毒牙にかかって殺されたようだ。

 カナダやアメリカで多くの親は、性教育として子どもに次のことを教えるのを見た。部屋のドア、車のドアは、YesかNoの境目だと。二人だけの空間に身を置くことは、自分しか決められないことだと。日本も豊かになり、個室を持つ子供が増えた。しかしまだ精神的にドアの壁を持つまでには至っていない。

 座間の事件でどうしてもわからないことがある。ニオイである。部屋には、何らかのニオイがあったはずである。同じアパートの住民が「異様なニオイがしていた」と証言していた。私は、今の若者はニオイに敏感だと思っている。それとも異臭に気づかれる前に犯行に及んだのだろうか。白石容疑者が、あの部屋で寝起きしていたこと自体、異常だと思われる。

②     子どもの頃映画を観に行って映画館で国安おじさんに会うのが楽しみだった。国安さんは、映画を観ながら画面に向かって声をかけた。「待ってました!」「そこだ、やっちまえ」 映画も楽しかったが、国安おじさんの掛け声は、映画と同調していて私もほとんど同じ気持ちだった。国安さんは、昼間、リヤカーを引いて廃品回収をしていた。

 父は映画好きだったので国安おじさんと気が合ったらしく、時々家で一緒にお茶を飲んで話し込んでいた。私にもよく10円玉をくれて「好きなものを買って食べな」と言った。父が彼はいい人だと言っていたので、私も素直にそう受け止めていた。寅さんに似た人だった。

③     カナダの学校で用務員のPoul Kochさんと会った。たまたま私のスクール・ワーク(毎日2時間学校のための無料奉仕の時間)の上司だった。独身だった。年齢は70歳ぐらいだった。物静かで私をとてもかわいがってくれた。私は日本から来たばかりで英語も話せず毎日が緊張の連続だった。Poulさんも英語は片言だった。働き者で笑顔が素敵だった。1年後彼は突然死んでしまった。前の日まで一緒に働いていた。彼のことは、何一つ知らなかった。でも一緒に働いていて彼の優しさを感じた。

 

誰の心の片隅にも得体のしれない魔物が住んでいる。私にもいる。今日まで事件を起こさずにこられたことは、感謝である。中学生の時、担任でない教師が宿直だった夜、その教師に呼び出され、私は他の男子生徒と宿直室で泊まった。夜中にその教師は、私の布団の中に入って来て、私の上に乗り、ささやくように「気持ちのいいことをしよう」と言った。私は何とか家に逃げ帰った。今なら警察に言えば、教師は逮捕されたかもしれない。しかしこの事以降、私は極端に注意深くなった。災い転じて福となる。あと少し、何とか魔物を封じ込めておきたい。


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柿の思い出  隣の客はよく柿食う客だ

2017年11月09日 | Weblog

①    べちょ柿

②    コーちゃんと渋柿

③    チュニジアの柿

①     私の父親の嗜好は、風変わりであり強いこだわりがあった。餅は粉餅、タバコは「富士」、日本酒は「月吉野」、柿はべちょ柿などなど。私が一番受け入れがたかったのがべちょ柿だった。べちょ柿好きを知る父の知人が、毎年木の箱にきれいに自分の家の庭で採った柿を並べて入れ、届けてくれた。届いたばかりは、まだツヤツヤした普通の柿だった。これを父は大事に保管した。そして正月に食べる。私たち子どもは、父親がべちょべちょの半分腐りかけた柿を美味そうに食べる姿を、まるでドラキュラが生き血を吸う姿を連想しながら気味悪がった。父は本当に破顔の笑みを浮かべて食べつくした。残った皮と種は、ピカピカだった。人それぞれに食べ物には、思い入れがある。

 10月の悪天候の連続で散歩できない、いや正直に言うと逃げる良い口実になっていたのだが、外に出た。日光が気持ちよかった。途中、柿の枝を大胆に地面に置き、柿を収穫している年配男性に出くわした。(写真参照)相当な数だ。できれば声をかけて「べちょ柿にするのですか?それとも干し柿ですか?」と尋ねたかった。一心不乱に柿をもいでいる姿は、亡き父の姿に見えた。頭の禿げ具合もよく似ていた。

②     保育園にコーちゃんと一緒に通った。コーちゃんは知的障害者だった。コーちゃんのおかあさんにコーちゃんと通園するよう頼まれた。行きの保育園まで、帰りの保育園からコーちゃんの自宅までの道のりには、悪ガキが多かった。当時保育園の通う子より、家にいる子の方が多かった。悪ガキの集団に私たちは、待ち伏せされよくいじめられた。一度二人が畑のタメに落とされたことがあった。二人は糞まみれ。畑の所有者に助けられ、コーちゃんの家まで戻った。コーちゃんのお母さんはとても美しい人だった。外の水道で二人を洗ってくれた。コーちゃんはキャッキャッ騒いで喜んだ。コーちゃんのお母さんは私に「いつもありがとうね」と言った。私はコーちゃんをどんな時も守るぞと決意した。

 コーちゃんはいつも私の言う事に素直に従った。いつしか私は傲慢になり、親分風を吹かすようになった。秋、私は渋柿と知っていて、コーちゃんに柿を「美味しいから食べな」と渡した。コーちゃんが顔をしかめた。コーちゃんの頬に涙が流れていた。私は本当に悪い奴だ。タメに落とされてコーちゃんのお母さんに感謝された時、コーちゃんを守ると誓った私は、根っからの根性悪なのだ。もう一度コーちゃんに会いたい。コーちゃんに謝りたい。黒いゴマがいっぱい入った甘い柿を一緒に食べたい。最近、コーちゃんの夢をよく見る。

③     スペインを旅した時、ある宮殿の中庭で緑の葉が茂る中にオレンジ色のミカンがたわわに実っていた。スペインの青い空、葉の緑、ミカンのオレンジ色、宮殿の壁のタイルの色、そのコントラストが美しかった。そしてそれに日本の柿実る秋を思い出した。オレンジ色と緑の組み合わせが私は好きである。チュニジアの市場で柿を見たことがある。アラブ人は渋柿を何かの薬代わりにすると聞いた。渋柿の渋の抜き方を友人のチュニジア人に教えた。とても喜ばれた。

 日本の美味しい柿が世界へ輸出されるようになると良い。早口言葉の「隣の客はよく柿食う客だ」を言いながら柿を食べ、笑いを取った父ちゃん、べちょ柿は世界に受け入れられるかな。


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高層ビル

2017年11月07日 | Weblog

①    東京都庁ビル

②    ニューヨーク 世界貿易センタービル

③    上田 ほていやデパート 

①     子どもの頃から高い所が怖いけれど好きだった。保育園は寺の中にあった。その寺は、小松姫の墓があるほどの名刹である。背の高い松の木がたくさん植えられていた。何とか登ろうとしたが、松の木は登りにくかった。桜の木もあった。桜の木の中に登りやすいものがあり、よく登っていた。家の近くの川の土手に大きなクヌギの木があった。この木はカブトムシとクワガタの宝庫だった。直径数メートルある太い木で、幹が斜めになっていて登りやすかった。小学5年生の時校庭のプラタナスの木に登り、3メートル下の地面に落ち全身を強く打った。まだ体が柔らかだったのか、何もなかった。木登りは、子どもの体の大きさが小さいほど楽なようだ。だんだん年齢があがり、体が大きくなると、今度は高い建物や塔に興味が移った。

 再婚して海外に妻が赴任する前、私は糖尿病と診断された。長野県の佐久病院の糖尿病教育入院に参加して糖尿病とどう向き合って生きていくかの教育を受けた。運動療法で病院の周りを指導看護師と歩いた。それまで歩くことも運動することもない生活だった。妻の海外赴任の直前、東京の桜上水の宿舎に短期間滞在した。妻が研修に出かけた後、ある日、私は一人で桜上水から新宿まで歩いて行ってみた。そして東京都庁のビルの最上階まで階段を歩いて登った。展望室から見た景色が美しかった。もう2度とあのような無理はできない。

②     ニューヨークへ初めて行った時、私は19歳だった。エンパイアステートビルへ知人に案内された。留学した学校がある町で一番高い建造物は、20メートルほどの水道タンクの塔だった。大平原は、まっ平なので水を一旦タワーに揚げて排水しないと2階以上に水が届かなくなる。ニューヨークには摩天楼と呼ばれる高い建物がたくさんあって驚いた。お上りさんは、首を痛めた。

 2度目にニューヨークへ行ったのは、ネパールで知り合ったハーバード大学教授だった友人の結婚式に参加するためにボストンへ行く途中だった。

 3度目は、旧ユーゴスラビアで一緒だった日本人夫婦とニューヨークへ行った。妻は仕事で行く事が出来なかった。3人で世界貿易センターの最上階の展望室へエレベーターで上がった。あの世界貿易センターが9.11のテロの標的になって跡形もなく崩壊した。自分の目で見たビル、自分があのビルの中をエレベーターで最上階まで通過したこと、テロが起きた時、一気に記憶が蘇った。悪夢になった。

③     生まれ育った上田市で一番高い建物は、ほていやデパートだったと思う。山に囲まれた上田盆地の底からそれら山々に負けまいと背伸びするように建つ7階か8階の建物がいじらしかった。屋上からの景色が良かった。今はそのデパートも建物をなくなった。

 高い所が好きなのは、猿とバカという。猿でもバカでもよい。人間が建てた高いビルに登ってあたりを見下ろして偉い者になった気になる。人畜無害の空威張り。権力を握って、2泊3日の訪問で同じ人と4回も堅苦しい食事を共にするより気楽である。


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社長になりたくない、結婚したくない

2017年11月01日 | Weblog

私が逃げてきたこと

①    組織で働くこと

②    結婚斡旋

③    宗教勧誘

①     週刊文春に『それでも社長になりたいあなたへ』という日本で“ソフトブレーン”を創立した中国人の栄文洲のコラムがある。10月12日号に彼はこう書いた。「・・・私は日本の大企業の社長になりたくありません。・・・まあそもそも先方が『お前みたいな中国人に頼むわけがない』とおっしゃるでしょうけど。・・・先日中国人の経営者と会食しました。・・・安いジャンパーを着て社員に酒を注ぐ姿は、百四十以上の会社を持ち、プライベートジェットで世界中を飛び回るグループ統師には見えません。・・・一方日本の大企業のトップには気難しい性格と、周囲の尋常ならざる忖度が付き物です。いつどこにいても『この人は役員だな』とすぐわかります。・・・日本の大企業では、『上司・部下』『先輩・後輩』などのように、『上』『下』、『前』『後』などの位を示す言葉が良く使われています。・・・」

 私は神戸製鋼、日産自動車、スバルの役員がテレビカメラの前で深々とお詫びする姿を見ながら、栄さんのコラムを思い出した。日頃私が感じていることを栄さんは、書いていた。“ものづくり日本”という評価は、けっして会社に与えられたものではなく、職人や会社員個人のものである。多くの日本人は、日本の会社が世界でもトップクラスの製品を作っていると信じている。本来なら会社は組織として、同業他社と生き残りをかけて競い合う。明治維新から百数十年しか経っていない。日本の会社は、封建時代の藩のようなものである。ただ社長の多くは、世襲ではない。それが故に会社内の出世競争は、激しくなる。オリンパス、東芝、神戸製鋼、日産、スバルなどの不祥事は、ほとんどが内部告発だと聞く。ここは、封建時代と違う点である。内部告発などしようものなら、封建時代なら打ち首切腹であったであろう。少しずつではあるが、進歩している。

 内部告発がでるような環境が悪いのであって、内部告発する事自体が悪いこととは思わない。日本の旧態依然のもろもろの制度風習の改善への風穴になると信じる。栄さんは、『それでも社長になりたいあなたへ』のコラムを書くきっかけは、「社長になりたくない若者が増えた」ことだったと言う。それでも社長になりたいと思う若者を応援したい、というのが栄さんの本心なのだ。

②     塾で教えたので、多くの生徒に関わった。授業中バツいちの身でありながら、「将来、結婚できなかったら、相談に来い。良い人紹介するから」と豪語した。のちに私に相談に来た生徒は、一人もいなかった。しかし、結婚していない生徒は、驚くほど多い。私の二人の子どもは、それぞれ家庭を持った。私は子どもの結婚にまったくアドバイスも関与もしていない。親戚でもまだ結婚していない甥や姪も多い。

 離婚して再び独身に14年間戻っていた。寂しく虚しく感じたが、独り身の心地よさも感じた。この時代、食べ住む着ることに不自由はない。洗濯、掃除、調理も家電製品の助けもあって何とかなるものだと体験して知った。

 多くの若者が結婚したくない、と言う。日本の若者は、中学高校のもっとも異性への思いが強まる時に、その思いを削ぐような指導や道徳感や社会慣習に圧迫される。私はカナダの高校へ留学して、かの地の若者の異性への関心の強さと行動力に圧倒された。日本では、ごく一部の生徒しか見られなかった現象である。

③     宗教と政治の話は、不特定多数が集まる場でするな、とよく言われた。私自身は、キリスト教、仏教に自分なりに深く関わった。再婚して妻の海外赴任に同行して、ヒンズー教、イスラム教、セルビア正教、ロシア正教が主なる宗教の国々で暮らした。どの宗教が真実なのかと探し求めた時もあった。しかし私にとっての真実の宗教は、見つからなかった。だから宗教には、関わらないことにしている。

 30日午後、神奈川県座間市で9人の遺体の一部が、白石容疑者のアパートから発見された。おぞましい事件である。まるでアメリカの刑事ドラマに出てくるような猟奇的事件だ。人間の中に存在する計り知れない暗闇に面食う。我が家に最近やたらと出没するムカデを見つけた時、本能的に戦慄をおぼえる。しかしこの事件が私に与えた衝撃は、暗闇に目を背けたくても人間の本性にある残虐で原始的な行動が確かにあることかもしれないと恐れるせいかもしれない。


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