団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

小田原城へ地下トンネルを通って人車鉄道で

2014年03月28日 | Weblog

 小田原駅は乗降客が多い。東海道新幹線、東海道本線、小田急線、大雄山線が集まる鉄道拠点である。特に箱根の玄関口として駅には外国人観光客の姿が目立つ.私は小田原駅が持つ雰囲気を気に入っている。

 その小田原駅の西口の地下に小田原市が管理する地下街があった。JRが駅ビル“ルミネ”を開業させると客足が奪われ、ついに廃業にいたった。

 以前この地下街に国際フードコートをつくり、いろいろな国の食べ物を食べられる場所にすることを提案した。日本人が海外へ行っても日本食を恋しがるように海外からの観光客もたまには自分の国の食べ物を食べたくなるに違いない。多くの交通路線が集まる小田原駅と同じように多くの国の人々の集まるフードコートを創る提案だった。進展なし。

 地下街を改装して再開するらしい。小田原市はこの地下街の名前を募集すると発表した。名前だけで一度閉鎖した施設を行政の力で甦らせると考えているのだろうか。箱根、富士山、小田原城、新幹線、小田急線のロマンスカー。日本でも有数の観光地伊豆半島、熱海、湯河原などへの中継地としての有利な立地。これだけの可能性を持つ観光地への起点になっている小田原がこの程度では先が思いやられる。

 私は地下街のフードコート設置に加えてもう一つの提案をしたい。それは地下街を起点に小田原城までの続く地下トンネル道の建設である。この地下トンネル道に明治時代に小田原―熱海間にあった人車鉄道の車両を走らせる。地下街の一画に人車鉄道の駅を設ける。地下トンネルを小田原城に直結させるのが理想である。建設費次第だが小田原城公園内は地上を走ってもよい。人車鉄道は人が押す線路の上の人力車のようなものである。運転者は海外からの観光客に小田原城を外国語で案内するガイドする。これこそオモテナシとなる。雇用の推進にもなる。2020年の東京五輪で日本を訪れる人々を呼び込むこともできる。

  現在の小田原駅前地下街の閉鎖に至った衰退は、入り口があってもその先にワクワクドキドキがないことだと私は考える。ただ地下に潜って、また地上に戻るだけでは面白くない。地下に潜って、さらにそこから、が重要だ。現代人は面倒くさがりである。無駄な動きをしたがらない。ただの地下街は水が流れ込んでも排水ができず、たまった水がよどみ濁り、やがて腐るのと同じ状態である。地下街が終点でなくあくまでも通過点にすることだ。地下街を通って小田原城へ行く人の流れをつくるのである。

  海外からの観光客の多くが、日本の城やサムライ文化に興味を持っている。忍者に対する関心も高い。私の生まれ故郷には真田幸村の上田城がある。その一角に井戸がある。観光看板には「城が敵に包囲された時の秘密通路」と書いてあった。実際そうだったとは思わなかったが、子供が持つ想像力は深い底の見えない井戸の中に吸い込まれた。海外からの観光客は、自分の国では経験できないこと、自分の国では見ることができない景色を求める。

  小田原駅で乗降するたびに多くの外国人観光客を目にする。そして地下街の入り口を見る。これだけの数の観光客が来てくれるのにも関わらず、まったく生かされていないこの巨大施設をモッタイナイと思う。私の思い付きでしかない提案であるが、小田原地下街のまわりによどむ停滞、後退、衰退、あきらめムードがさらさらと流れ始めることを期待している。


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割烹着のSTAP細胞博士

2014年03月26日 | Weblog

  割烹の割は裂くとか切る意味と捉えられる。割烹の烹は熱を使って調理することを意味する。

  現代のベートーベンと称された全聾の作曲家の次は、世紀の大発見と言われたSTAP細胞のリケジョの博士の出現だった。研究の成果にお墨付きを与える英国の権威ある科学誌「ネイチャー」誌に論文が掲載された後、一躍時の人となった。マスコミの取材にさらされ、国中で大騒ぎとなった。私も彼女の快挙に疑うことなくミーハーらしく喜んだ。

  私は彼女が割烹着で実験している姿をテレビで観た。この割烹着には違和感を持った。主夫として料理が好きで20年以上“男子厨房に入らず”の掟を劣等感にさいなまれつつ破ってきた。日夜、安くて糖尿病にも優しく、かつ美味しく栄養価の高いものを調理する努力も重ねた。材料集めもマメに行ってきた。そういう私だからこそ彼女の割烹着に抵抗を持った。

  あの歓喜が嘘のようにSTAP細胞の論文に疑惑が浮上した。喝采が怒号に変わり、いつものようにマスコミは、猛烈な個人攻撃を展開している。STAP細胞にチンプンカンプンな私は、自分が批判の矢面に立たされたように黙り込む。

  ただ今回の彼女の論文が他の論文からのコピペ(パソコンでコピーしたい資料をその部分だけを特定して、自分が作成するレポートなどにペースト“貼り付け”する行為。作家がこれをすると盗作と言われる)であったり、掲載された写真も彼女自身の早稲田大学に提出したものや他の論文からの流用であったらしい。彼女が所属する理化学研究所では調査委員会が立ち上げられた。3月14日東京でこの調査委員会の調査報告が発表された。ノーベル化学賞の受賞者である野依良治理化学研究所理事長は、冒頭で謝意を述べた。4時間にわたる記者会見で疑惑は解明されなかった。

  私はやっと彼女と割烹着とのつながりを見つけた気がした。最先端科学を研究する実験室で割烹着は、どう考えても腑に落ちなかった。彼女は自分の論文作成にコピペや写真の使いまわしを悪いことだとは思わなかったと調査委員会の調査で証言したそうだ。「これだ」と私は考えた。料理の世界と同じではないか。彼女は研究室での自身の研究と割烹着の本来の居場所であるキッチンでの調理を同レベルに捉えていたのではないだろうか。レシピと日本では呼ばれる“調理手順”とか“料理方法”には、特許も著作権もない。だから日本に多く存在する料理研究家と呼ばれる人々は、あちこちのすでに出版されているレシピから良いとこ取りした料理をあたかも自分で創り出した料理であるかのように披露する。カリスマなどとマスコミにヨイショされていれば、どんなコピペ料理も賞賛される。料理は本来、人類の食の歴史の集大成であって、料理研究家と自称する人々がすべて創造自作したものではない。すべての料理は真似であって、味を決めるのがその料理人の腕と経験と気概である。

  野依理事長は彼女のことを「未熟な研究者」と厳しく指摘した。つまり倫理的にも神の領域に踏み込むほどの先端科学の研究を台所で寄せ集めのレシピで料理することと同一視していたことになる。こう考えれば、彼女が割烹着姿で研究をしていたことは理解できる。研究論文に於いては、他の文献や論文からの引用は正確にその出所を記載するのが約束事である。

   今でも私は彼女のSTAP細胞発見が晴れて正々堂々と実証されることを信じたい。未熟な研究者としての落ち度があったとしても、STAP細胞の存在を証明して、彼女が宣言したように女性を少しでも楽にする研究を形にしてほしい。

  今度彼女がテレビに映る時は、割烹着でなく普通の研究者のように普通の白衣で堂々と登場することを願う。未熟は成熟への過程である。


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こぐ、押し戻される。こぐ。

2014年03月24日 | Weblog

  3月18日火曜日。妻に頼まれた洗濯物をクリーニング店へ自転車で持って行った。隣の市まで買い物に行くついでだった。私が住む町は駐車場が少ない。クリーニング店がある通りは、以前この町の商店街のメインストリートと言われた。いまではシャッター街である。5,6百メートルにわたって道路両脇のアーケードが取り壊され、一見明るく広くなった。しかし相変わらず営業している店は減る一方だ。その中でも行きつけのクリーニング店は繁盛していていつも路肩に客の車が非常灯をパッカパカ点灯させて不法駐車している。迷惑だ。だからできるだけ歩くか自転車でクリーニング店へ行くことにしている。

  久しぶりの自転車での外出だった。穏やかで太陽の光にも、春はもうすぐと感じられた。天気予報では関東地方、特に東京や千葉で風速20メートルを超える春一番の強風が吹くと言われていた。その予報が遠い所のことだと思えるほど、私の町は風もなく晴れ渡っていた。クリーニング店で洗濯物を出して、駅の近くにある図書館へ行った。調べ物を1時間あまりした。腹が減った。蕎麦屋へ行き、いつものもり蕎麦を食べた。アシスト付自転車でスイスイと移動。下り坂は私の充分重い体重が幸いして楽々風を切って前進。上り坂はアシスト装置がこぐ負担を軽くして、自転車を降りて押して歩くことはしなくてすんだ。

  腹ごしらえして駅へ向かった。駅前の無料自転車置き場に自転車を入れた。電車からキラキラ光る春の太平洋がきれいに見えた。隣の市の駅に着いた。午後2時を過ぎていた。改札を抜ける時構内放送があった。「強風のため上下線で運転を見合わせます」 私は銀行や買い物の用事を済ませたころには運転を再開しているだろう、と気にもせず外に出た。

  全ての用事を済ませて駅に来た。改札口前は大勢の人で埋まっていた。運転見合わせがまだ続いていた。私の町へは鉄道が一本だけなので電車で帰るには待つしかない。新幹線という手もあるが、たった一駅で降りた駅からまた在来線で一駅戻らなければならない。幸いホームに電車が止まっていたので電車に乗った。満員だった。最近手に入れた落語、浪曲、漫才などの昭和演芸のSDメモリーカード盤をイヤホンで聴きはじめた。亡き父が大好きだった広澤虎造の浪曲2本、父を思い出しながら聴いた。車内放送が始まった。イヤホンを外して聞くと「代替え輸送のバスの準備が整いました。バス乗り場1番でご乗車ください」と言った。それを聞いた人々が一斉に電車を降りて階段に殺到、車内にごくわずかな乗客しか残らなかった。しかし1分も経たないうちに今度は「この電車はまもなく発車します」との車内放送。一旦電車を降りた乗客が今度は逆流して戻ってきた。私はすでにシートに座ることができ今度は古今亭志ん生の落語を聴いていた。

  電車は場所によって強風の影響を受け、ところどころで徐行運転で切り抜けた。さすがに鉄橋の上などは強風に煽られて揺れて怖かった。住む町の駅に2時間かかって到着できた。普段は17分の乗車時間である。家を出たときは晴れていたが、黒い雲が空をおおっていた。雨もパラパラ落ちていた。自転車置き場の自転車はほとんど風で倒されていた。アシストを使って家路の緩やかな上り坂に立ち向かった。普段はアシストさえ使えば難なく自転車を進めることができた。こぐ、押し戻される。桜並木に入った。家までは直線であと300メートル。桜の少し膨らみ始めたつぼみも風で吹き飛ばされそうに揺れていた。こぐ、自転車が進まない。まるで止まっているかのようだ。家へのこの道をあれほど遠いと感じたことはなかった。それでも一度も地面に足をつくことなく地下駐車場に自転車を入れた。体全身の筋肉がガクガクだった。家に入るとすでに6時10分だった。妻の電車は6時28分に駅に着く。車に乗り換え、駅に向かった。間に合った。妻は本来5時台に発車するはずだった電車に乗っていつもより2分早く到着した。

  風に振り回された。台風以外でこれだけ強い風や竜巻、突風による被害は、最近増えている。春一番は毎年人々が春はもうすぐそこに、と楽しみにしている季節の徴である。気象異常、地震、火山爆発の発生ニュースと悪い予想が溢れる。地球が悲鳴をあげて人間に何かを警告しているようにも思える。どんな妄想に振り回されても、春は私たちに大きな喜びを届けてくれる。春はもうすぐそこに。「♪春よ来い♪春よ来い」と歌いたい気持ちに合わせるように裏山でミソサザイが今年初めて美しく鳴くのを聞いた。


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ニセ札っていうこと?

2014年03月20日 | Weblog

  銀行から郵便封書が届いた。あて先は私の名前だった。銀行関係はすべて妻の名義である。私には銀行に対してトラウマがある。事業をしていたころの悪夢がよみがえる。小心者はいつまでたってもドキドキ、ハラハラと心臓に負担をかける。銀行との関係が途絶えて26年以上経つ。不安を抱きつつ封を開けた。薄い黄色の一枚の紙が3つに折られて入っていた。紙の一番上に「外国通貨買取計算書」と書いてある。

  ナアンダ、この前の両替のことか、と一安心。両替に銀行へ行った。女性銀行員に「この5ドル札鑑別機械で判定できないので両替できません。ご希望されれば更に正確に判定する機械がある部署で査定できますが、時間がかかります」と言われた。「ニセ札っていうこと?」「・・・」ということで判定をご希望させていただいた。

  「通貨種類:US$。外貨現金額:$5。真ん中の欄には外貨額5.00、換算相場:×99.20.(ハワイへ行く前に換金した時1ドルは106円だった。1ドルで6円ちょっとの損失だ。だれがこの利益をふところにしたのだろう?) 円貨額:¥496 合計¥496」 

  2月にハワイへ行くために円をドルに換えた。帰国して残ったドルを円に換えた。私は為替を信じていない。不平等な制度この上ない。奴隷制度と両替制度は帝国主義による植民地政策の産物に他ならない。為替には関わりたくない。できるだけ早く自分の使う円に換えたかった。

  地元の町の銀行では両替できないので、わざわざ隣の市の銀行まで出かけて行った。今回のハワイへ行くにあたって円を銀行でドルに換えた。ハワイではほとんどお金を使うことがなく、使い残したドルをまた銀行で円に換えた。ドルを買うとき1ドルは106円だった。2月17日にドルを円に換えると98円48銭になっていた。

  私が十代の後半にカナダの学校へ転校した時、1ドルは360円だった。円から米ドルへの両替には国の認可を申請しなければならなかった。一人年間700ドルまでの制限があった。反面、当時アメリカ人が多額のドルを携えて日本に来れば、本国の何倍もの価値を手に入れることができた。私が英語修行で知り合った軽井沢に住んでいたアメリカ人キリスト教宣教師は終戦後のドサクサ時、軽井沢に広大な不動産を宣教資金のドルで購入した。不動産業者の話では坪1ドルだったそうだ。土地は1万坪以上あった。その後、その一家は日本での布教をあきらめ土地を売却して十億円あまりの金を持ってアメリカへ帰国した。土地は坪数十万円になっていた。宗教法人なので税金はかからなかったそうだ。

  妻の海外勤務に同行して私は12年間で5ヶ国に暮らした。妻の給料はドル、フラン、マルク、ユーロ、ドルと変わった。外貨建ての給料は、為替レートでの変動が激しい。しかし赴任国は開発途上国ばかりだったので、両替した現地通貨はその土地で生産販売されている日用品食品を買っている限り、私には使い出があった。そのことに後ろめたさを感じたのは、軽井沢の宣教師が経験したおいしい立場に、今度は私がいることを自覚したからだ。

  やれグローバル化だ国際化だと騒がれ正当化される現行の為替制度の裏には、どす黒い目には見えない巨大な陰謀がうねりのたうち回っている気がしてならない。貨幣で他国の貨幣をインターネットでワンクリックで売買して利益を得ることが許されるのだろうか。貨幣は、まずまっとうな人々の真面目な労働の対価の絶対基準だけであってほしい。それ以外の付加的要素は私には邪魔に思える。


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それでも夜は明ける 12years

2014年03月18日 | Weblog

  15日映画を観に行こうと家の玄関の鍵をかけた。家は2階にある。外に出るには1階へエレベーターか階段を使う。私は階段を降り始めた。踊場を過ぎて2段下がったところで突然、靴の裏が階段のへりに引っかかった。体のバランスを崩した。段はまだ10数段残っている。体が宙に浮いた。映画『蒲田行進曲』で平田満演じたヤスの階段落ちのように下まで転げ落ちると思った。しかしとっさに右手で左側の壁面を抑え態勢を整えようとした。無理な姿勢であった。

  そんな体操選手のように器用に着地をきめられるはずがない。そもそも足がもつれたのは、老化の1現象である。案の定、壁に激突。左手の肘を強く打った。住む集合住宅の階段周りの壁は、米粒ぐらいの砂がびっしり埋め込んである。右手の中指と薬指の先が壁に強く当たった。この壁を抑え込んだことで何とか転げ落ちることを防げた。砂むき出しの壁にこすられた指2本から血が流れ、左手の肘のあたりに鈍痛が走った。階段を転げ落ち頭や腰を強打しなかっただけでも幸いだった。簡単に薬をつけた。

  映画館へは車で行った。観た映画は日本語で『それでも夜は明ける』 英語で『12years』が題名だった。1800年代自由黒人だったニューヨーク市に住むバイオリニストが家族の留守の間にワシントン市へ内緒でバイトの演奏に出かけ、泥酔して誘拐され奴隷制度が依然として残る南部で奴隷として売られた。12年間自由黒人が奴隷として生き抜き、遂に家族が待つニューヨークに戻った実話をもとに映画化された。重い暗い映画であることは覚悟の上だった。今年のアカデミー作品賞を受賞した作品でもある。

  映画が始まった。半分終わるまでに3人がぽつりぽつりと立ち上がり外へ出て行った。映画を観ている途中で外に出るのは余程観ていられなかったに違いない。トイレに行ったのかもしれないと思ったが3人とも戻ってこなかった。内容はとにかく重い。気分が悪くなるくらい暗い。暴力、強姦、重労働、劣悪な住環境と食事と衣服、不条理がこれでもかと繰り返される。気持ちが沈む。血が流れる場面が多く、そのたびに私の指の擦り傷と体のあちこちの打撲部分が疼いた。奴隷が白人の暴力やムチで痛めつけられたことと比べたら私のケガなど蚊にさされた程度のことだ。

  人間である黒人を奴隷にしてあれほど残虐でいられる白人が、何故クジラやイルカをかわいそうだから捕鯨をやめろイルカ漁をやめろと騒ぐのか不思議に思った。

  映画館から外に出ると指と体の痛みがなくなっていた。自由すぎるほど自由な、奴隷でない自分。春の太陽の光に全身をさらせること、木々や草花の芽吹き直前の様子を何の邪魔もなく目にする私の心に“罰当たり”という反省の言葉が横切った。


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あっ、ない

2014年03月14日 | Weblog

 私は外出するときリュックを使う。都会に住む知人に「いかにもおのぼりさんっていう格好だ」と言われた。かまわない。なぜなら私は忘れっぽい。もう何かを手で持っていることは不可能に近い。たった数秒前のことでさえ忘れてしまう。銀行のATMでの現金引き出しなどでは、必ず現金は取り出したか?カードは?持って行った財布は?カバンは?とパニックとなる。外出時肌身離さず荷物を持っていなければ、どこにでも容易に置いてきてしまう。妻は私が熱中症で、何か他の事に没頭したり気が取られているからだ言う。そうかもしれないが私はただの老化による脳の劣化だと思う。だからリュックを使う。背中に背負っていれば、あとは忘れていられる。必要な時思い出せば事足りる。

 8日の土曜日、妻が靴を修理に出したいので、ショッピングセンターへ行きたいと言った。土日祭日は道路が混む。車を諦め、歩いて駅まで行き電車で行くことにした。おのぼりさんスタイルでリュックに妻の靴2足を入れて出発した。電車の中で二人、窓から道路を見て「やはり渋滞しているね。電車にしてよかった」などとのんびり話し込んだ。ショッピングセンター行きのバスが出る駅で降りた。

  改札口を出た瞬間、背中が寒く感じた。手でリュックをまさぐった。「リュックがない」私は叫んだ。妻の目を見る。しまった、の顔をしていた。電車に乗り込んですぐ、妻は私にリュックを降ろすように促した。そしてリュックを棚に上げた。妻は優しい。俗に言う“世話焼き女房”の面がある。私のことを気にかけてくれるのは嬉しい。ただし度が過ぎると迷惑に感じることもある。私は普段絶対に荷物を棚に上げない。忘れるに決まっているからだ。どんな荷物も身につけておく。妻と一緒という気持ちがスキを作った。

  妻と私はいつものようにどちらが悪いか軽くボクシングのジャブのような応酬をした。私は頼みもしないのにリュックを降ろさせ妻が妻の手で網棚にリュックを置いたと主張。妻は私がリュックを妻に渡したので網棚にのせろという意味に解釈したと主張。妻は駅事務所の窓口へ行き駅員に事情を説明した。何やら用紙に書き込んだりした。手続きに20分くらいかかった。修理する靴はリュックの中である。幸いなことにリュックに財布などの貴重品は入れてなかった。靴がなければショッピングセンターへ行く目的もない。妻に「家に帰ろう」と提案した。妻も自分が悪かったと謝罪して帰宅することを同意した。忘れ物は気分を滅入らせ機嫌を悪くする。電車のシートに二人で並んで見るでもなく海に目線を合わせ、黙って座っていた。

  帰宅して1時間経った頃、妻は駅員に教えてもらった東京駅の番号へ電話した。よく日本に来た外国人が「日本は落とし物が戻る不思議な国だ」と賞賛するのを聞く。本当だった。妻はリュックの特徴、中身を報告すると「7番線のホームの事務所に保管してあるので、今日の午後5時までに来てください。もし来られなければ、12日まで北口のJR東日本忘れ物センターに保管しておきます」と言われた。凄い。システムが見事に機能している。

  土日と妻は休みで10日の月曜日も税務署へ確定申告に行くので休みを取っていた。結局11日の朝出勤前に東京駅の忘れ物センターに寄った。8時からと駅でもらった案内には書いてあったが、8時30分に変更になっていた。メールで「帰りに寄って引き取ります」とあった。私は予定がなかったので私が東京駅へ行くとメールすると「とんでもなく分かりにくい場所にあるので無理。それに本人だけにしか渡さないから、私が帰りに寄るので行かなくていいです」と返ってきた。

  そう言われると余計行きたくなる。東京駅の忘れ物センターに電話すると夫の私でも保険証か免許証を提示すれば問題ないと聞き、東京へ向かった。確かに東京駅のJR東日本の忘れ物センターの場所は分かりにくい。3人並んでいた。窓口の男性係員は不機嫌そうにブッキラボウな応対を繰り返していた。仕事も遅い。3人のうち1人は財布の問い合わせだった。見つからず肩を落として若い女性が帰っていった。私のリュックが私の背中に収まった。

  帰路途中下車してショッピングセンターの靴修理店へ行った。1時間で妻の靴の修理は終わった。

  私が東京へリュックを引き取りに行ったことを妻に知らせると「あなたは私には考えもつかない行動をとれる不思議な人」の返事。帰宅して修理された靴を手に取って「ありがとう。あなたには驚かされてばかり」と言われた。私は金持ちならぬ時間持ちである。人の役に立てるのは無上の喜び。生きてると感じられるひとときである。


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あれから3年、当日と前後日の日記

2014年03月12日 | Weblog

  「2011年3月10日(木) 晴 気温3°~8° 万歩計3593歩 映画『ラッキーセブン』 読書 クライブ・カッスラー『日本海の海賊を撃滅せよ!下巻』

  寒さが居ついている。外に出られないでいた。大事にしているスイスで買ったピールアピールの皮むきがないと食器を洗っていて気が付いた。いったん捨てたゴミ袋を家に戻した。陽ざしで明るいベランダに新聞紙を敷いてゴミを拡げゴミを一つずつチェック。絶対ある、念じながらゴム手袋をしてゴミを仕分け。見つけた。Kにメール。Kの返信メール。さすがと誉められた。K6:30帰宅」 注:Kは日記に書く妻のこと

 「3月11日(金) 晴 気温2°~12° 万歩計4214歩 読書グリニス・リドリー『サイのクララの大旅行』

  ジムで骨盤体操。午後帰宅。ベッドで休んでいると地震。何と3回。両親の位牌、写真楯など飛び散り壊れた。建物がギシギシ音を立てた。2回目が一番ひどく床下から突き上げた。東北太平洋大地震と名がつきMM8.8の記録を取り始めて最大の地震になった。K帰宅できず病院泊まり。Aは日赤。Yは電話つながらず。日本が地球に飲み込まれるのか」 注:Aは長女の名 当時妊娠8ヶ月 Yは長男の名

 「3月12日(土)晴 気温4°~11° 万歩計618歩

  テレビは一日中大地震の事を流している。Kは7時に病院を出て家に向かうとメールしてきた。新幹線は8:56分に出るという。病院から東京駅まで中央快速で来て11:15分に帰宅。再び会えた。安堵。早お昼で冷凍餃子とご飯のみ。午後買い物。夜風呂。きれいなお湯に感動。思わず潜って泣いた。大阪の小林さん、東京の友人たち、長野の伊藤先生から安否を問う電話、メール。A一家Y一家も無事。感謝」

 
  あの日から3年たった。11日の午後2時46分ころ、私は東海道線の電車に乗ろうと駅のホームに立っていた。駅前広場にある街頭スピーカーから町の公共放送が始まった。「黙祷」に合わせて海に向かって頭を垂れた。あの大震災で多くの方々が亡くなった。私のような者がまだ生きていて良いものかと考える。いや生きているべきだ。オマケの命ではあるけれど、だからこそ無意味に無駄にしてはならないのだ。目を開けると私のすぐ近くで制服姿の女子高校生が二人黙祷をささげていた。美しい光景だった。そして私の心に何故か「♪命短し、恋せよ乙女♪」が響いた。


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佐村河内さん、おぬしも役者やのう

2014年03月10日 | Weblog

  佐村河内守さんのCD『交響曲第一番《HIROSHIMA》』(大友直人指揮 東京交響楽団 販売日本コロンビア)を買った。去年の夏だった。知人が私にぜひ聴くようにと熱心に購入を勧めた。他人、特にこの人ならといったん信用した人の言うことは、良く聞きいれるのが私の性向である。諺に“人は信じたいことを信じる” 英語でも“We soon believe what we desire .人間は信じたいことを即信じる)”という。まさに私のことだ。佐村河内という苗字にさえ圧倒され、勝手に何か凄そうな人と思ってしまった。

  以前放映時にNHKの『NHKスペシャル~音を失った作曲家~佐村河内守』を観た。ナレーションで「絶対音感」「作曲家人気投票世界第15位 生存する作曲家ではただ一人」「両耳の聴力がまったくない」と素晴らしい声で語る。東京芸術劇場での演奏会が終わり、佐村河内さんが舞台に登場。会場の観客はスタンディング・オーベーション。天下のNHKがこれだけの特番を制作し放送した。絶対音感に劣等感を持つ絶対音痴である私が信じないわけがない。でもそんな私がその番組の中で違和感を持った。佐村河内さんの妻への態度である。東北の3.11大震災の被災地に行き、両親を失った女の子への気配り優しさとの差があまりにも不自然に感じた。妻にこんな態度がとれる人にあんな作曲ができるのかと。

 結局2013年後半に佐村河内さんの嘘がばれた。ゴーストライターがいたのである。佐村河内さんは、ただの人だった。絶対音痴の私と変わらぬ一般人だった。

  私と決定的に違うのは、彼には抜群の演出才能、企画立案実行能力、そして極めつけは演技力があることだ。スタイリストとしても優秀である。黒の礼服、サングラス、長い髪の毛、ヒゲ、杖、手の包帯、白いワイシャツ。どれをとってもスキがない。白いワイシャツのボタンなどは上から2番目まで外している。完璧である。

  私はNHKに提案したい。ぜひ『NHKスペシャル~音を失った作曲家~佐村河内守』を映画に編集し直して全世界に公開してほしい。法律のことは分からないが、NHKにはきっと番組の著作権があると思う。最近行われた佐村河内さんの都内のホテルでの記者会見の模様も入れれば、映画になる。

  それにしても300人もの記者が集まって佐村河内さんを寄ってたかったいじり倒そうとする記者たちには嫌悪感さえ持った。君たち一人でも佐村河内さんに疑問を感じ怪しみ記者として追っかけ追及した人がいるの。私と変わらず『交響曲第一番HIROSHIMA』のCDを聴き、NHKの特別番組を観て、ある日突然全てが嘘だったと判る。私とちっとも変らない。

  このニュースで詐欺とか偽証とかデータねつ造とか世の中への不信が高まった。私が一番気になっているのがSTAP細胞を発見した研究チームの女性リーダーのことである。彼女の論文に手落ちや不備や手抜きがないこと切に願う。

  浅田次郎の本『君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい』(文芸春秋1470円)をかつて読んだ。本の題名は浅田次郎の学生時代に浅田の作文の才能を見出した教師が浅田を評価する言葉だった。真実のみの社会はきっと味気ない。嘘をつくのは人間の特技であるが、その嘘にも超えてはならない線はある、と今回の騒動をはたから見ていて私は思った。


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娘を守れ

2014年03月06日 | Weblog

  昨年8月25日花火を見に行った帰りに中学3年生の寺輪博美さん(当時15歳)が殺害、遺棄された。半年が過ぎた3月2日強盗殺人の容疑で現場近くに住む高校3年生の男子生徒(18歳)が逮捕された。切ない。わり切れない。怒りに振り回される。

 健康で未来に夢いっぱいの若者、特に女性が犯罪に巻き込まれ命を奪われている。15歳当時の自分を考える。いま、私は66歳である。15歳以後どれほど多くの良いこと、悪いことがあったか。波乱万丈、一生どころか他の人の何生分も生きてきた。カナダへ留学できた。恋をした。失恋した。結婚した。2人の子供を授かった。離婚した。再婚できた。妻の海外勤務について行き主夫になった。狭心症で心臓バイパス手術という最新医療でオマケの命をいただいた。15歳で命を絶たれた寺輪博美さんに申し訳なく恐縮する。

 娘を守る。子を守る。自分の命を守る。嫌な時代になった。娘を守る、で思い出す話が2つある。

  北海道の湧別町で漁師の岡田幹夫さん(当時53歳)が吹雪に巻き込まれ、車の中で長女の夏音さん(当時9歳)を守るために胸に抱え凍死しているのを発見された。長女を守るために父親が自らの命をさしだした。

  私の知人は娘2人を10年間にわたってバス停まで送り迎えした。娘2人を中学から私立学校に入学させ、バスと電車で通学させた。家が高台にありバス停に出るのに危険と思われる公園の脇道を通らなければならなかったからだ。娘なのでもしか公園で事件に巻き込まれてはならない、の一心で通学日はどんなことよりも優先させて必ず送り迎えをしたという。

  親は当たり前のように自分のことをさて置いても子供のために身を粉にして子を守ろうとする。犠牲となり、子供のために踏み石になり子供が幸せになれと助け後援する。ましてや近年、性的事件、通り魔事件、無差別殺人事件、強盗殺人事件が頻繁に起こる。どんなに用心していても、事件事故に遭遇する可能性は否定できない。親としてできるだけ守ろうと思うのは当然である。

  北海道の父親が娘の上に覆いかぶさって娘を凍死から守ったのは、あんな猛吹雪が来るかもしれない日に外出してしまった後悔と責任を感じたのかもしれない。妻を病気で失い、男手ひとつで育てていた父親の娘への思いは、娘のために自分の命にかえても守ることに迷いはなかった。その思いが離婚して私ひとりで子育ての体験がある私の心を締め上げる。

  私の知人がたった数百メートルの公園の脇道の急坂をバス停まで送り迎えしたのは、万が一の危険を感じていたからだという。思うだけでできないことは多い。10年間やり遂げた知人は偉い。

  娘を守る、子を守る、のは、親の役目だ。子を授かり、その子を大人になるまで育て、独り立ちさせる。子育ては、子を授かった親にとっての人生最大の事業である。親は子育ての専門家であるべきだ。危険回避に先手を打つ知恵を絞る。悪との真剣勝負は、いい加減な心掛けでできるものではない。私は離婚して初めて、そのことに気づかされた。子供が大学を卒業するまではと、自分のことは二の次にした。その13年間が私を生まれ変わらせた。

  いま、親の育児放棄、虐待、我が子の殺人が横行する。原因の一つは親が大人になっていないからだ。大人とは、愛する人のために時間を最大限に惜しみなく懸命に使える人である。


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譲り合い車内放送

2014年03月04日 | Weblog

  「お荷物はヒザの上に。一人でも多くの方がかけられるようにご協力ください」 これはつい最近私が利用するバス路線のバスで新しく加えられた車内放送である。

 私は以前バス会社に「バスの二人掛けの席を一人占めしている乗客が多いので、車内に注意を促すポスターを掲示するか、車内放送で注意して、座れるようにしてほしい」と手紙を書いた。2,3年前のことだった。いつまで経っても変化は起こらなかった。バスに乗れば、相変わらず多くの年寄り、それも男性が圧倒的に多い、が荷物を窓側に置いて大股開きで不機嫌この上ないしかめっ面で2人用の席を独占している。小心者の私はノドまで「ここに座ってもいいですか」と出かかる。言えない。内心では(おい、じいさん、一人股を大きく広げて座っているんじゃねえよ。いい歳しているんだからもっと周りのこと考えろよ。荷物をヒザに置いて場所あけろ)と吠える。そう思うだけで口に出せない。小心者の哀しさである。社会道徳は、互いの過ちや勘違いを優しくわかりやすく指摘しあって修正できれば、向上していくに違いない。

 荷物と座席に関する車内放送がされるようになってからバスの中に変化が起こった。荷物をヒザの上に置く人と、窓側に座る人が増えた。それも女性が圧倒的だ。男性には相変わらず2人席を一人で座っている年寄りが多い。放送が聴こえているのか、本当に聴こえないのかはわからない。夫婦で乗っていて前後して2人用の席をそれぞれが占拠している場合もある。そのような夫婦を見ると、何となくその夫婦の家庭での様子を想像できるような気がする。旧態依然の亭主関白なのか、一緒に座るのさえ嫌なほど夫婦関係が冷え切っているのか。

 私は車内放送を過度な介入だと思っている。しかし今回の車内の変化を目の当たりにして、車内放送の影響力を見直した。その放送のたびに、年配女性の多くが素早く反応する姿に感心する。そんな様子を見ていると、日頃の社会への不満も和らぐ。

 駅前でバスを降りる時、いつもより大きな声で運転手に「ありがとうございました」と言った。それほど私の心は清々しくなっていた。

  電車に乗ると今度は「お客様にお願い申し上げます。座席は多くの方が座れるように譲り合ってお座りください」とさっそく車内放送が始まった。電車はすいていた。御座なりの録音による手引き書通りの放送である。

  私を含め多くの人々は、他人との関わりあいに危険を感じている。何かを注意して、ナイフで刺されたり、暴力を受ける事件も多い。そうかと思えば、ただ運悪くその場にいただけで、誰でもいいから殺したかったと車の暴走に巻き込まれたり、ナイフで切りかかられる事件があとを絶たない。人が集まる場所や交通機関では物言えぬ弱者に代わって、私たちが言いたいことを言ってもらえることはありがたい。世知辛いことだが、車内放送によって余計な犯罪が防げるのであれば、執拗に繰り返される放送も我慢できる。家庭や学校で社会道徳の基本が躾けられていれば、いい歳の大人に再教育はいらない。改善にも、やり直しにも遅すぎることはない。いつか車内放送がなくても、2人掛けの席に2人の人が当たり前に座れる日がきっとくる。


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