団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

桜島噴火

2013年08月30日 | Weblog

 小学校5年生の時だったと思う。授業中に「ドッカーン」という腹に響く音と共に教室のガラスが「ビリビリッ」と震えた。先生が「みんな机の下にもぐれ」と怒鳴った。57名クラス全員と教師1名計58名が机の下に身を隠した。しばらくすると校内放送で教頭先生が「浅間山が噴火しました。こちらから指示があるまで教室から出ないで下さい」と叫んだ。教室の中には、先生に好かれている子嫌われている子、勉強ができる子できない子、健康な子病気がちな子、金持ちの子貧乏な家の子、身長の高い子低い子、みなそれぞれ違う子がいた。私の中の普段のモヤモヤが消え、そこにあったのは生死を分かつことへの恐怖、人智が及ばぬ大自然への畏敬だった。

  私は机の下でその様を愉快に思った。何故なら当時の担任が嫌いで学校が楽しくなかったからだ。エコヒイキが激しく私は教師の目の仇にあっていた。団塊世代のためクラス定員がもともと多かった。そこへ転校生なども加わり、さらに生徒数が増えた。5年生になる前に4組から5組に1組増やした。3,4年と担任だった小宮山先生と別れるのは辛かった。一番学校で評判の悪かった教師の組になった。仲良しだった友達すべてと別々の組になった。あの生徒とは一緒になりたくない、あの教師が担任になって欲しくない、その願いすべてを拒絶された。小学校5,6年だった時の記憶は、無理やりなかった時間として脳から省かれている。しかし浅間山の噴火したあの日のあの瞬間の様子は鮮明に思い出される。8月18日鹿児島県の桜島の昭和火口が噴火した。このニュースが私の小学校5年だったあの浅間山の噴火を思い出させた。

 現在私は富士山に近いところに住んでいる。テレビや新聞雑誌で時々思い出したかのように“富士山大噴火首都東京壊滅”などと不安を煽る。私は地震も噴火も怖い。しかしマスコミがいたずらに煽る天変地異に疑問を持つ。私は自分に言い聞かせる。「たとえ富士山が噴火しても日本全部が滅びるわけではない。運悪く私が死んでも私とて永遠に生きられるわけでもない。私の立つ地面が吹き飛ばされたり、地面が鳴門の渦潮のようにマグマに飲み込まれるのでもない。必ず前兆があり対処する時間があるはずだ。なければ瞬間的に息絶えられるのだから、それはそれで良い」

 桜島の噴火のニュース画面を観ていて私の考え方は間違っていないと思った。毎年いったいどれくらいの長い年月桜島は噴火を続けてきたのか。空をも暗くする何万トンとも言われる火山灰を降らせる。鹿児島の人々は息も出来ないほどの火山灰が舞う時でさえ、外を歩き車を運転する。落ち着けば当たり前のように火山灰を片付ける。その姿を観て、私は人間、災害の多い日本に住む人々の懲りない逞しさと生命力を讃える。

 富士山が噴火しようが、地震があろうが、台風が来ようが、経験したことのない雨量の雨が降ろうが、歴史のはじめから延々と復興を遂げ、命をつなげてきた。むやみにマスコミに弄ばれることはない。日頃からいざという時のために知恵を絞って生き抜く災害を乗り越えてゆく手立てを考えるべきである。桜島の噴火の後始末を観ていて、火山灰を掃除する鍵は、大量の水だと思った。私のような人間でさえ、この程度のことは学べる。マスコミはただ恐怖を煽り立てるのではなく、富士山が噴火したらどう人々が対処するべきか、

  どの程度の被害が予想され、そこから復興するためにどうすればよいのか、現状の備えのレベルはどのくらいなのかを検証するのが勤めだろう。庶民の多くは、遺伝子に自然災害に対する覚悟と乗り越え方もしっかり組み込んでいる。東電もマスコミも政治屋さんも庶民をナメタライカンゼヨ。


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外遊と仮設住宅

2013年08月28日 | Weblog

  夏は国会議員の外遊が多くなる。新聞の見出しに『夏休み 衆院議員100人海外へ』とあった。内容は1人当たり約200万円の予算がつく。延べ42カ国に視察団を送る。国会議員の外遊に年間数十億円の予算がついている。政治屋さんお得意のお手盛り予算である。以前高額所得番付に出てくる議員が「海外旅行を自費でするようじゃ・・」と言うのを聞いたことがある。本人は自慢げだったが、ただの愚か者としか受け取れなかった。議員こそ行きたければ、自費で海外へ出て学ぶべきなのだ。国会議員は特権が大好きである。自分に与えられている特権をシラミ潰しに消化することに余念がない。この件に関しての彼ら彼女たちの熱心さは特筆に価する。さもしい。この外遊によって日本の在外公館がどれほどの便宜供与でてんてこ舞いさせられて、肝心の業務に支障をきたしていることか。

 私が議員の外遊に文句をつけるのには、確かに嫉妬やっかみもある。しかし「海外旅行は偏見と独断をうむ」という。旅行だけだとその日の天気、たまたま出くわした人の良し悪し、食べたものが美味しかった不味かった、盗難にあった親切にされたなどの偶発性に左右されてしまう。特に年齢が増すほど海外旅行は、その人に影響を与えることは少ない。若いうちに海外を旅することは、その後の人生に大いに役立つ。たとえ1週間であっても現地の人々に混じってそこで生活すれば、どれほど勉強になるか。年配者はできるだけ公費での外遊は遠慮するべきである。

 議員の既得権である外遊費用の使い道に関して2者選択を勧める。①外遊するくらいなら福島、宮城、岩手の仮設住宅をはしごして、外遊する期間と同じ日数滞在して避難者の生活を経験する。②外遊予算をもらえる該当議員全員が発展途上国のすべての国々の中から自分の担当国を決め、自分が出て行くのでなく、あちらの国の人を日本へ招待して、議員が滞在期間付きっきりでお世話する。外遊よりずっと多くのことを学べ、国際理解も進展するはずである。

  すでに東日本大震災から2年5ヶ月が過ぎるが、議員が仮設住宅で寝泊りした話は聞かない。数人でもいいから外遊を拒んででも、まっとうなことを実行する、まともな議員がいることを夏が終る前に知りたいものだ。


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ドクロと十字架と女

2013年08月26日 | Weblog

  電車の中で気になる女性を見かけた。ぽっちゃり系で年の頃20歳後半から30歳代前半か。向かい合う7人がけの長いシートの私から向かって右端から2番目に、手荷物と共に1.5人分を占領して座っていた。黒い麦わら帽子、黒いショール、黒いワンピース、厚底で黒皮の編み上げ靴、黒いリュック、脇には黒いショッピングバック、手に黒い携帯電話。黒い身支度だけならどこにでもある。この女性はそれでは済まない。帽子を巻いているリボンは黒い皮でそこに銀色で十字架とドクロが交互にプリントされている。黒いショールとワンピースの裾は一列に数えられないほど多くのドクロと十字架が白く帯状に並ぶ。黒いリュックには絵も文字もないが、銀色の鋲が列をなす。黒い携帯電話には小さなドクロと鳥の羽で作ったカラフルな飾りが不気味に揺れていた。

 私はファッションに詳しくない。こういうのをコーディネートするというのか。それにしてもやりすぎでは。精神分析医が診たらどう解説してくれるだろう。常日頃キリスト教徒でもない日本人がむやみやたらと十字架のアクセサリーを多用しているのに違和感を持つ。十字架以上にドクロはできれば、自分の網膜に映したくないもののひとつである。日本ほど言論の自由、表現の自由が守られている国はないと時々私は思う。特に宗教的な戒律規制に鈍感であり無関心である。電車の中の黒ずくめでドクロと十字架だらけの女性も周りの人々から賛同されたわけでもないが異端視されることもなかった。私は好奇心で彼女にいくつかの質問をしてみたかった。①貴女はキリスト教の信仰をお持ちですか?②ドクロと十字架の組み合わせの意味は?③何が貴女にこのような身支度をさせるのか? 話しかけることができるはずもない小心者の私はいつものごとく妄想の世界に突入した。

 私の心の奥深くにある想いが長く居座っている。自分が死んで火葬される前に3DプリンターとレントゲンかCTを駆使して自分のドクロを見てみたいというものだ。火葬にすると頭蓋骨もほとんど崩れてしまう。火葬場で見た母も父も灰と微かな骨であった形跡しかなかった。人はだれでも頭蓋骨の上に筋肉と皮膚がついている。そのつき加減でやれイケメンだとか美女だと言われる。ドクロになれば皆同じだろうに、の抵抗がうずく。単なる怖いもの見たさなのかもしれない。私も黒一色の地に白いドクロと十字架を散りばめた女性と大して変わらない種類の人間なのかもしれない。

 17分間の乗車時間のほとんどを黒とドクロと十字架の女性のおかげで妄想夢想邪念を駆使して違う世界を浮遊できた。女性のように私が自分の夏の定番である短パンTシャツが真っ黒でそこにプリントされた模様はすべてドクロと十字架ずくめで今夜、夢に登場しないことを願って電車を降りた。


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慰安婦像

2013年08月22日 | Weblog

 アメリカのニューヨーク マンハッタン島に大西洋に向かって松明を高く掲げた自由の女神像があった。10代後半だった私は台座に彫られていた詩を読んで震えるほど感動した。

『汝の疲れたる貧しき

自由の空気を吸わんものと

身をよせあう人々を、

汝の豊かな海辺に集まる

うちひしがれた人々を、

我に与えよ。

かかる家なき嵐に弄(もてあそ)ばれたる人々を、

我に送り届けよ。

我は黄金の門戸のかたわらに

ともしびを高くかかげん。』

エマ=ラザルス 1881年

 この詩を私のブログの最初に掲げたのは、アメリカへ移民し建国を命がけで果たした人々に想いを寄せるからである。アメリカに移民した人々は、国を何らかの理由で捨て、新天地でのやり直しを求めた。貧困、宗教弾圧、思想闘争、犯罪、差別、戦争難民理由はそれぞれであったが、アメリカに移民した目的はひとつであった。過去の束縛から逃れて自由を求めたのである。

 アメリカ建国の礎を宣言する自由の女神が大西洋に向かっているのが腑に落ちない。太平洋側からアメリカに到着した移民の人々、特に韓国からの移民に、このエマ・ラザルスの詩は適用されないのだろうか。アメリカはアフリカからの黒人奴隷を南北戦争を経て解放したのち、深刻な労働力不足におちいった。アジア特にインドや中国から苦力(クーリー)を輸入して、低賃金で過酷な労働を強いて鉄道や道路の工事に当たらせた。呼び方は奴隷ではなかったが、扱いは奴隷の代わりの奴隷と同等であった。現在封切り中のジョニー・ディップ主演の映画『ローンレンジャー』にも鉄道建設で働く大勢の中国人苦力が登場する。私は多くの日本からの出稼ぎや移民が鉄道工事に従事した日系人の話を直接聞いた。太平洋からアメリカに渡った人々も大西洋から渡った人々にもアメリカに渡った理由は皆同じであったはずである。

 第2次世界大戦が始まるとアメリカ市民権を持つ日系移民から財産土地仕事すべてを取り上げられて強制収容所に収容した。この時点で日系移民は日本帰国組とアメリカ残留組とに分けられた。帰国組はかつて日本を捨て、またアメリカを捨て日本へ戻った。アメリカ残留組は強制収容所に収容されながらも日系部隊を編成して戦争にアメリカ人として参戦した。

 アメリカで市民権をとると宣誓をする。「I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.」
(私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います) 移民は自分の国を捨て、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる国アメリカに誓わなければ、アメリカの市民権は与えられない。これは儀式であり理想であり机上のきれいごとと言われるかもしれない。アメリカの存在理由のすべてはここに集約されているのも事実である。残念なことだが、新天地へ自由と正義を求めて移民できる国は、現在の地球上にアメリカ以外にない。ロシアや中国にアメリカの代替を到底期待できない。理想と現実が噛み合っていなくても進む方向は定まっている。

  第2次世界大戦中、敵であるドイツ、イタリア、日本に対して日系人だけを強制収容所に追い込んだ。日本にだけ2種類の原子爆弾を実験するかのように広島と長崎に投下した。人種差別であったことは歴然である。戦争責任は日本にある。敗戦国日本に弁解は許されない。それを承知で押し黙って日本の再興を日本人は果たそうとしてきた。終戦後アメリカでも収容所から開放された日系アメリカ人は最初からやり直してアメリカ社会に溶け込む努力を重ねた。日系アメリカ人がワシントンDCの大統領官邸や国会議事堂の前に強制収容所での怨みをこめた銅像や碑を建立した話は聞かない。

  韓国からの移民団体がアメリカの数都市に慰安婦像を建立した。これからも増やそうとしている。これはアメリカの建国意義と市民としての忠誠に抗う行動である。韓国のどこに慰安婦像を建てても構わない。韓国国民がどれほど日本を日本人を怨み憎んでも構わない。しかし移民の国アメリカに怨念を持ち込むのは御門違いである。そもそも韓国からアメリカへの移民が増加したのは、第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争以後である。ベトナム戦争に参戦した韓国軍兵士に特別な移民枠を設けられたのである。以後急速に韓国からの移民が増加した。すでに日系移民の人口を追い抜いた。アメリカで市民権を取ると2親等までの親族をアメリカへ呼び寄せることができる。韓国からの移民は、過去の移民と趣きが異なるようだ。すでに建国、開墾、インフラ整備、戦争と先人たちが築き上げたアメリカに韓国をそのまま持ち込んでいるとしか思えない。自分の生まれ過ごしてきた国はキレイさっぱり捨てて、新天地でアメリカという人類の夢の希望の地で、捨てた国では実現不可能であった自分の夢と希望を叶えようとする人々が参集する国が本来のアメリカである。

  これからいくつの慰安婦像がアメリカに建立されるのかはしらない。アメリカにこの先長く残される慰安婦像が、後世に於いてアメリカの建国と国家への忠誠という気品と勇気を損なう象徴となるやも知れない。日系アメリカ人が強制収容所に入れられた歴史的事実は忘れられても、なお慰安婦像は残る可能性はある。アメリカの存在価値は、世界中の己の国を捨ててまで自由と勇気を求めて移り住む人々を受け入れることにある。それぞれの当事出身国が抱える恨みツラミ反目憎しみを晴らす復讐の地では絶対にない。


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フランス映画『タイピスト』

2013年08月20日 | Weblog

 タイプライターを買うために私は中学生の時1年半ほど新聞配達をした。新聞販売店に直接雇われるのではなく、販売店で働く女性の下請けだった。当時新聞配達をしたくても買い手市場で中々雇ってもらえなかった。親が知り合いの女性に頼んでやっと実現した。値段は8000円ぐらいだった。ブラザーというミシンや編み機の会社の製品だった。新聞配達の給料は月1500円だった。タイプライターを欲しいと思ったのは、聞いていたNHKラジオの英語講座の講師が英語を習うのにタイプライターで教科書を写していれば、指で英語が習えるというようなことを言った。私は素直に信じた。高校に入学してアメリカ人が教えるバイブル教室で英会話が習えると学校で評判になった。多くの同級生が参加した。しかしキリスト教の布教のために英会話を無料で教えるというやり口に落胆して一人二人三人と止め、結局数人しか残らなかった。私はそのうちの一人だった。

 そのバイブル教室で教えていたネルソン夫人との出逢いが、私のカナダ留学につながった。ネルソン夫人と私を結びつけたのは、新聞配達で買ったブラザーのタイプライターだった。私はバイブル教室の宿題もネルソン夫人への手紙も全てそのタイプライターで打った。両手を使わずに右手左手の人差し指の2本で打った。時間がかかった。それでも当時そんな高校生は珍しかった。ネルソン夫人はアメリカのワシントン州シアトルで日本の商社の秘書を30年以上していた。タイプを打つのはプロである。ネルソン夫人とご主人が身元保証人になってくれたおかげで私はカナダに留学できた。一年間の日本滞在を終えて、すでにアメリカに帰国していたネルソン夫妻と手紙や留学に必要な書類のやり取りにもタイプライターは役立った。指の力配分もできず印字の濃淡がまばらで不統一だった。カナダの高校に留学が決まるとネルソン夫人は私に約束を迫った。「履修科目を選択するとき必ずタイピングのクラスを取りなさい」

 カナダで入学した高校で私はタイピングを選択科目に加えた。女性が4分の3を占めていた。彼女たちの多くが1分間200語から300語をすでに打てた。私は両手で打つことから始めなければならなかった。1分間で50語が私の最高記録だった。この映画の主人公は1958年の世界大会で1分間に520語の世界記録を打ち立てた。

 日本に帰国してはじめた英語塾でも多額の投資をしタイプライターを導入した。多くの生徒がタイプライターを私の塾で練習した。評判が悪く真剣に習う生徒は極わずかだった。数人だがのちにアメリカに留学したり就職した元生徒にタイプライターを私の塾で習っておいて良かったと感謝された。嬉しかった。

 フランス映画『タイピスト』を観ながら他の観客からしたら、なんでこんなところで泣くの、というような場面で泣いた。ネルソン夫人を思い、つらかった新聞配達を思い出し、1年半かかってやっと買えた真っ赤なブラザーのタイプライターの感触とニオイを思い出し、映画の主人公の女性が最初右手と左手の人差し指2本で打つのを観て泣いた。

 私はイタリア映画とフランス映画が好きだ。とにかく出演者の選び方がいい。日本のテレビドラマや映画のように同じ役者を使いまわしするのと違い、その映画のための最適任者を的確に選ぶ。その時点で映画の8割は完成したようなものだ。今回の配役も良かった。

 映画の内容には触れない。お節介と思うが、6つの私なりの観どころを挙げておく。①2本指打法から両手10本の指を使う方法を習う時のタイプライターのキーの色と指の爪の色。人間の手がどれほど凄いことをできるのか。タイピングとピアノ演奏との関係と指の頑丈さの重要性②時々主人公の表情がフイギュア・スケートの安藤美姫に似ている。スケートとタイピングは異なる分野だが一芸に秀でる一つのことに集中する凄さ③登場人物の一人がフランス在住アメリカ人。この人物と主役女性の相手男性との関係。そしてこの男性が喋る英語とフランス語で知る英語とフランス語の音感音調の違い。是非字幕版を観ていただきたい④アメリカのニューヨークで開かれた世界大会に出場する韓国代表の子供と母親の服装⑤最初に出てくる主役女性の父親が営む田舎の雑貨屋で売られていた一台のタイプライターをよ~く見ておいて、世界大会で最後の土壇場で彼女が使うタイプライターに注目⑥タイピングが言葉の勉強、綴りに役立ち、難解語修得などに書籍の丸写しが有効効果的であること。私がNHK英語講座とネルソン夫人に勧められた英語学習法に通ずること。

何はさておき、この映画を映画館に足を運んで楽しんでいただきたい。乞うご鑑賞。


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こまめな水分補給

2013年08月16日 | Weblog

 「こまめに水分補給を」とテレビでもラジオでも頻繁に視聴者に向かって喚起する。私の住む町では役場の鉄塔から拡声器による一斉放送で「本日も35度を超す猛暑日になります。外での運動などを避けこまめに水分を補給してください。クーラーを使ってください」と山肌にこだまさせながら何度も繰り返す。ほとんど言葉というより音叉のようで、扇風機の回っている羽根に向かって喋っている感じで聞き取れない。それがまた私をイライラさせる。勤務先から妻もメールで「汗をかいているようだね。水分の補給と涼しくしていることが大事だよ。クーラーは必須です」と気遣ってくれる。家の窓を全開にして風通しをよくしている。働くでもなく散歩するでもモノを書くでもなく、読書とテレビで高校野球を観戦するだけの毎日である。集中力は元々ない。活字の羅列が瞬間的に眠気を誘う。水だけは一日2リットルを目安に飲むように心掛ける。目の前の2リットル入りの水入れに入った水は私にあの日を思い出させる。

 最近病院で大腸内視鏡検査を受けた。午前9時に検査の受付をして大腸内視鏡検査専用の待合室に入った。80歳くらいの男性が部屋の奥に静かに座っていた。私は2番目だった。学習成績以外、1番好きの私だが仕方がない。看護師が私の家の麦茶を冷蔵庫で冷やすのに使っているプラスティックの容器に似たモノと紙コップを持って来た。「経口腸管洗浄剤が2リットル入っています。1時間で1リットル、2時間かけて2リットルを飲んでください。トイレは行きたい時にどんどん行って腸を空にしてください。排便後の便器の水の色がこのくらいの色になったら看護師を呼んでください。色で腸の中の残渣のないことが確認されたら内視鏡の検査になります」と写真を見せ説明した。早く2リットル飲んで確認をもらい1番早く検査を受けるぞと意気込んだ。

 私の後から4人加わった。男性4名女性2名。最初の500ccぐらいまでは順調に飲めた。昨夜から検査用の病院から支給された簡単な食事しか摂っていない。朝食はもちろん食べてない。猛暑の中、病院までの2時間の電車も負担が大きかった。すきっ腹に薬臭く、スポーツドリンクの出来損ないの味の腸管洗浄剤だけがチャポチャポと胃袋を膨張させた。時間が経つにつれて便意が私を身悶えさせた。回数を増すごとに苦行となった。トイレは5つありいつでも使えた。2時間後3番目に洗浄剤を飲み始めた女性が看護師の確認をもらい、苦しんだ後の達成感に満ちた顔で内視鏡検査室に消えて行った。私はあせり始めた。ピッチを上げて飲む。しかし急ぎすぎ何度か吐き気に襲われた。残った5人は目に見えない順番争いの火花を散らした。4番目だった中年男性が看護師に合格を宣告され、隠せない解放感を体全体で表しながら検査室に案内されて行った。あと4人。1番最初からいた老いた男性も相当苦労しているようだった。2リットルという洗浄剤は彼には多すぎて飲むことができないようだった。ゆっくりゆっくり飲むのだが時間ばかり過ぎ、洗浄剤は減らない。

 私は2リットルを飲み終えたが、色の合格がもらえない。2時間がとうに過ぎた。看護師が7回目の確認の後「もう500cc増やしましょう」と別の洗浄剤入れを持って来た。3人目の合格者は最後に待合室に入ってきた女性だった。ほぼ同じくして5番目に入ってきた男性が合格。残ったのは80歳くらいの男性と私の2人だけだった。杖をついてトイレに行ったり来たりするのも大儀そうな老人も2時間40分で合格。私は敗北感と水攻めの刑で雪隠詰め状態だった。2時間50分後看護師の「ご苦労さまでした」の言葉に涙がこぼれそうになった。

  2リットルという単位は私にトラウマを残した。2時間に2リットルと1日で2リットルでは、ずいぶん受け止め方が違う。どちらにせよ私の健康に関わる大切な2リットルである。大腸内視鏡検査は「異常なし」の診断をもらった。1日に2リットルのこまめな水分補給することで、突然熱中症で命を落とさないで済むなら喜ぶべきことだ。あの日同じ待合室で2時間で2リットルの腸管洗浄剤を飲んで大腸検査を受けた5人の方々も1日2リットルの水をこまめに飲んでこの猛暑に立ち向かっておられることを願う。


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熱中症と火傷

2013年08月14日 | Weblog

 猛暑日と熱帯夜が続いている。普段、汗とは無縁の私でさえ、このところ朝目覚めると首の周り、胸、背中、腋の下がジットリしていて嫌な感じである。もともと寝起きがスッキリはっきりしないのにそれに輪をかけたような目覚めの連続である。ネパール、セネガル、チュニジアで熱帯、亜熱帯での8年間の経験はあまり役にたっていない。猛暑日判定の基準である気温35度などさして高温とは思わない。問題は湿度である。70%~90%が不快さを生み出す。日本の多くの場所はまさに金魚鉢の底状態になっている。かつてアメリカの新聞記者が日本の夏を「青く縁取りされたきれいなヒダヒダのついた金魚鉢の底に小石を敷き水をほんの少し入れ下から火を焚いている中で暮らすような」と喩えた。

  知人が次のような話を教えてくれた。最近の猛暑で61歳の男性が亡くなった。彼は母親の介護のために妻と長年住んだ都会からふるさとへ戻った。健康で病気とは縁のない人だった。母親の介護をするかたわら、市のシルバーセンターに登録していた。猛暑日それも記録的な暑さになった日に最初の仕事の依頼があった。おそらく初めてのシルバーセンターでの仕事に張り切っていたのだろう。依頼のあった室内での片付け仕事は、短時間で終ってしまった。優しい彼は、依頼主の老人にやってほしいことが他にありませんかと尋ねた。すると車庫内の片付けを頼まれた。車庫に行ったまま、彼は20分経っても30分経っても戻って来なかった。彼は車庫の前にとめておいた自分の車のすぐ脇に倒れていた。救急車で病院に運ばれたが、彼の心肺は停止したまま蘇生できなかった。病気上がりだった彼の妻は彼のやさしい助言で観光地へのツアーに参加していた。呼び戻されたが夫の臨終に間に合わなかった。

  彼の優しさが私の胸を締め付ける。奥さんの悲しみに言葉を失う。彼の年齢が61歳という私より若いことにも身につまされる。健康で親の介護ためにふるさとへ戻り、シルバーセンターへ登録して他人のために役立とうとする志し、病気が回復した妻に旅して来いと思い遣る。私にできないことばかりを飄々と日常としていた。

  私は、暑いからと家にこもり、来る日も来る日もソファに寝転がって2リットルの水を横に置き、本ばかり読んでいる。言い訳はいくらでもある。痛風の発作が再発し始めている。強い薬を服用している。大きな心臓の手術を受けている。情けない。情けないけれど私は自分の身の程を知らなければならない。おとなしくしていることが社会に迷惑かけないこととわきまえる。

  亡くなった男性はおそらく車庫での片づけ中、具合が悪くなって水を飲もうと自分の車の中にある水筒をとりに行ったのかもしれない。後になれば、ああしておけば、こうしておいたらと考える。残念である。彼が倒れていた車庫の前はアスファルトで舗装されていた。太陽の強い陽ざしで熱していたアスファルトは彼の接っしている彼の体に火傷をおわしていた。100度1000度という温度での火傷ではなく、35度~40度近辺の温度による火傷である。猛暑という現象の底知れない仮面で変装しているような不気味な猛々しさを知らされた。男性の貴い志しは熱中症に追い討ちをかけるように無惨に火傷まで負わされて事切れた。

  毎日、熱中症で多くの人々が救急車で病院へ搬送されている。熱中症に襲われたひとり一人にそれぞれの物語がある。ニュースでは熱中症で搬送された人の数字だけが報道される。生命と自然現象との闘いは今日も続く。小心者でオタクな私は、犠牲者の無念の物語に想いをはせ、教訓とさせていただき、今年の夏を何とか用心と忍耐と思い遣りをめぐらし乗り切りたい。


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熱闘上田西の甲子園

2013年08月12日 | Weblog

  私は普段テレビでプロ野球観ることはない。しかし甲子園で全国高校野球選手権が始まると時間が許す限りテレビの前に陣取る。甲子園の高校野球に私が魅かれるのは、“真剣”にとことん出会えるからである。

 このところ猛暑日が続いている。わが町でも10日に35度を超した。裏山からはオスの蝉が7日から10日だけの短い地上の生活の最終目的である交尾相手のメスを求める本能のこだまが音波になって押し流されてくる。それは、まるで何千何万の仏教徒が甲子園球場を埋め尽くして読経するかのように響き渡る。家の窓も戸も開け放たれ、網戸にされている。私の体につけるモノは最小最短に抑えられている。熱波が家の南北どちらかから入り込み、結局風力不足で部屋の真ん中あたりに停滞してしまう。扇風機の風が攪拌するのは、こもった熱のうっぷんと戸惑いでしかない。テレビの前のリクライニングチェアを最大限平らにしてだらしなく横たわっているだけなのに汗がしたたり落ちる。

 32インチのテレビ画面の熱が気温より高いらしく勝ち誇ったように顔面に触れる。スピーカーからは熱を震わせて音声が耳に入る。以前長野県の出身高校が甲子園に出場した。急遽結成された卒業生の応援団に参加してバスで応援に出かけた。甲子園に入場して野球を観戦したのは、その1回だけである。その経験が臨場感を加える。泥だらけになった選手のユニホーム、太陽の陽ざし、入道雲、青い空、ブラスバンドの響き、応援団員の力み、応援団の期待、飲食物やグッツ販売の売り子、一般観客のざわめき、校旗、応援旗。

 甲子園の応援席スタンドは4万7千757席を有す。応援スタンドの面積はグランドの2倍である。一方グランドにはたった9選手プラス攻撃側の出塁選手と打者と審判4人とコーチ2人しかいない。1万3千平方メートルの広大な野に散る登場人物は、2万2千平方メートルに陣取る何万人もの観客の視線にさらされる。

 11日第一試合で長野県代表の上田西が千葉県代表の木更津総合と対決した。結果は5:7で惜しくも上田西が負けた。上田西の最後まで喰らいつき諦めずに戦い切った健闘を讃えたい。誰も上田西の甲子園出場を予想だにしていなかった。長野県でも私立高校の運動部は全国から優秀な甲子園出場を夢見る選手候補生を集める。上田西は全員長野県の生徒だけである。その上田西が5:7と大健闘した。創部52年以来、初めての出場だった。私が生まれた上田地方では、4,50年前誰もが県立高校への進学を願った。少子化なんていう社会問題は存在せず、高校入試による不合格者は予備校で1年浪人して翌年再受験を余儀なくされた。その対策のために私立高校が創立された。それが上田西であった。生徒の問題が多い学校だった。長い間、名門とか伝統とか強豪などと呼ばれたことはない。去年の長野県の甲子園出場校だった佐久長聖も私の高校生時代は上田西とさして変わらないレベルの高校だった。今世界で新興国が先進国を追い上げているように、日本の高校でも過去の名門、伝統校、強豪などという過去にすがっていられない。私の出身校の県立上田高校も私が在籍していた頃とはすっかり様変わりしている。私は上田西の躍進と変化が嬉しい。競争があってこそ何事も前進する。新生上田西の“真剣”勝負に明るい変化、改革、進化の兆しをしかと見た。上田西の健闘は、うだる暑さの中、清々しく私の心を吹き抜けた。「残念だった。でもありがとう」


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線と国民性

2013年08月08日 | Weblog

 日本人は線を思う。思いすぎると思われるほど思う。

 12年間日本を出て海外に暮らした。世界にはいろいろな文化がある。私はいつしか線に的を絞って暮らした国々旅した国々を観察するようになっていた。日本に帰国して頼りがいのある各種各様の線にほっとさせられることが多い。

 大きな駐車場で車がどう駐車されているのか観るのは私の楽しみの一つである。整然と線で区切られた枠の中にきちんとおさめられている。車と駐車枠の線も縦横とも平行になっている。10台収容の駐車場だろうが100台収容であろうが変わらない。その光景は美しい。私が暮らした国には線をまったく無視しているかのようなところが多かった。ショッピングセンターの大駐車場でのメチャクチャな駐車の光景は今となっては懐かしい。あれほどの混乱とふぞろいな光景は見たくても日本ではなかなか見ることができない。

 駐車場以外でも道路のセンターライン、道路端の側線も走行車両によってちゃんと守られている。車が入る隙があればとにかく割り込んでくる国はいくらでもあった。峠道の2車線道路で上下線とも割り込み車両が3列4列5列になって通行不能に巻き込まれ、怒号と罵り合う状態もあった。追い越し禁止の黄色い線も運転手には無色にしか見えないようにどこでも追い越す。日本で車を運転していて無謀運転、交通法規無視の運転は年々減少しているように感じる。暴走族などもいまだにいるが人口比からみればわずかなものだ。

 日本人の線への思いは、いつからどこからどう生まれたのだろう。私は田植えの苗をまっすぐ植えようとする段取りの気持ちが相当影響していると推測する。田畑は大陸の広大な農地と比べたら狭い。その狭い農地で効率よく草取り稲刈りができるよう稲の苗は線引きされて植えられる。学校での整列の訓練もそれなりの効果をあげている。北朝鮮の軍事パレードやマスゲームの整然さには到底敵わないが、日本人の日常生活に大きな影響を及ぼしている学校での教育の成果である。学校でモノサシや定規を使って線を引くことが多いこと、習字という線の描き方が芸術とされる授業、生徒が自分たちで掃除して備品机椅子を並べることも関係があるのかもしれない。私が学んだカナダの学校では生徒が掃除することはなかった。

 日本にも改善すべきいろいろな問題がある。運転マナーや駐車場での駐車の仕方などで線に対する反応を観察していれば、日本人の国民性の程度を計れそうな気がする。

  日本は海に囲まれ地上に国境線を持たない国である。国境線という線に関心が薄かった。尖閣諸島、竹島、北方領土問題は深刻な事態である。いままでの国境線に対する甘い認識を反省して、この線も大切にしなければならない。

 

  写真:私の住む町の町道の交差点である。狭い2車線道路に無理やり右折レーンを設けた。2台の普通乗用車が平行駐車できない。2車線のままにしておいたほうがいい。役所仕事はいまだに机上の線引きだけでおこなわれている実例である。役人はまだ自分たちで線を引いた枠に民間人を押し込めておきたいらしい。線にもいい線と悪い線がある。


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ヒラメキとオモイツキ

2013年08月06日 | Weblog

  「ヒラメキは、長い間、準備苦心した者だけに与えられる」とフランス人生化学者であり細菌学者であったパスツールは言った。あるテレビ番組で政治評論家が橋下大阪市長を酷評して「彼は何でもどうやってでも他人に認めてもらいたいという願望が強い典型的な人間だ。だからオモイツキだけで喋ったり行動する」と言った。

 私は間違いなく橋下市長によく似たタイプの人間だと思う。それを知っているから、なるべく人前に出ないようにひっそりと暮らしている。私は「オモイツキは瞬間的に準備され責任も努力も裏づけのない感情でしかない」の生き証人だ。私のような凡人は、ほとんど日常生活をオモイツキの連続と感情的な反応で生きている。専門分野の研究に没頭し、長年努力辛酸を重ねて、遂には立派な業績を残し人類に貢献したパスツールのような天才学者だからこそヒラメキを与えられた。アメリカのエジソンは「1%のヒラメキがなければ、99%の努力は無駄である」と言った。私に当てはめれば「1%のオモイツキが、99%日頃の生き様に反映する」となる。自分の身の程を認めせいぜい他人さまに迷惑を掛けないよう静かに暮らしたい。

 滋賀県の東近江市のグラウンドで4日午前6時40分ごろ自治会主催の消火訓練で事件が起きた。消防団員50歳がオイルパンの火の勢いを増そうとエタノールを追加すると引火して爆発、周りにいた小学生たちに飛散炎上した。2人の女子小学生は全身火傷を負い、消防団員50歳男性も大火傷、他に7人が軽い火傷を負った。

 この事件は消防団員の“オモイツキ”で起こったと、私は推理する。50歳の消防団員は「オイルパンの火が消えていた。自分は消防団員だからその確認はきちんとした」と言っている。真実はオイルパンの火が消えていなかったから注ぎ足したエタノールに引火した。彼が正当な“ヒラメキ”=直射日光の下では火の色は透明に近い、もしや火がまだ消えていないのかも、を持ち合わせていたら、この事件は防ぐことができたはずである。消防関係の人々が普段どれほどの訓練を積んで、いざという災害に備えているかは知っている。パスツールがいう「長い間、準備苦心した者だけ」は、専門家、プロを指す。消火に関するあらゆる訓練、経験を経てこそ、その専門分野における消火活動において瞬間的なヒラメキが役に立つはずであった。それが発揮されなかったのは、ヒラメキでなくてすべてオモイツキであったのだ。

  火の勢いがなくなったから、周りに集った素人の聴衆に燃え盛る火を見せて、かっこよく消火すれば拍手喝采とでも考えたのか、消防団員はエタノールを入れたポリタンクからオイルパンにエタノールを注ぎいれた。もしかしたら投げいれるようにポリタンクからエタノールを注ぎ足したのかもしれない。すべてオモイツキの連鎖であった。全身火ダルマになった小学生を他の消防団員が即消火してあげられなかったのも、燃える人を助けるにはまず体を横たえて消火するが基本であるというヒラメキがなかったからである。全身に火がついた二人の女子小学生は、恐怖で走り回ったそうだ。この逃げ回る時間が火傷を悪化させたのは疑いもない。焼け焦げた髪の毛が走り回った道筋に点々と落ちていた。その光景は私の胸を押しつぶした。近くにいた男性老人の数人が火傷を負いながら必死に手で叩いて火を消そうとしたが効果はなかった。立っている人間についた火は一気に上昇炎上する。体の上部での温度は想像を絶する。この消火訓練は“まさか”の危機管理のための消火用水、濡れた毛布、砂を準備してなかった。消火器の実地訓練ということで水を入れた消火器しか置いてなかった。その消火器さえ使用されなかった。悲しいオモイツキの連鎖で裏づけのある確固たる人命救助に関する専門的なヒラメキに出番はなかった。

 日本のどの分野からも専門家プロが減少している気がしてならない。オモイツキでしか言ったりやったりできない私のような素人並みの専門家やプロが跋扈している。本来本物の専門家やプロを見い出し世に知らしめるのがマスコミの使命である。その任がある地位の秀才と評される人々は、この使命から大きく離脱して日本を混乱におとしめている。

 出でよ、ヒラメキを発揮活用可能に到達したパスツールが太鼓判を捺してくれるような専門家たち。日本の福島原子力発電所の廃炉問題を、日本の20年に及ぶ経済の後退を、日本の成熟できない政治、外交、防衛を、あなた方の確かなヒラメキを発揮して何とか救ってほしい。


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