小学校5年生の時だったと思う。授業中に「ドッカーン」という腹に響く音と共に教室のガラスが「ビリビリッ」と震えた。先生が「みんな机の下にもぐれ」と怒鳴った。57名クラス全員と教師1名計58名が机の下に身を隠した。しばらくすると校内放送で教頭先生が「浅間山が噴火しました。こちらから指示があるまで教室から出ないで下さい」と叫んだ。教室の中には、先生に好かれている子嫌われている子、勉強ができる子できない子、健康な子病気がちな子、金持ちの子貧乏な家の子、身長の高い子低い子、みなそれぞれ違う子がいた。私の中の普段のモヤモヤが消え、そこにあったのは生死を分かつことへの恐怖、人智が及ばぬ大自然への畏敬だった。
私は机の下でその様を愉快に思った。何故なら当時の担任が嫌いで学校が楽しくなかったからだ。エコヒイキが激しく私は教師の目の仇にあっていた。団塊世代のためクラス定員がもともと多かった。そこへ転校生なども加わり、さらに生徒数が増えた。5年生になる前に4組から5組に1組増やした。3,4年と担任だった小宮山先生と別れるのは辛かった。一番学校で評判の悪かった教師の組になった。仲良しだった友達すべてと別々の組になった。あの生徒とは一緒になりたくない、あの教師が担任になって欲しくない、その願いすべてを拒絶された。小学校5,6年だった時の記憶は、無理やりなかった時間として脳から省かれている。しかし浅間山の噴火したあの日のあの瞬間の様子は鮮明に思い出される。8月18日鹿児島県の桜島の昭和火口が噴火した。このニュースが私の小学校5年だったあの浅間山の噴火を思い出させた。
現在私は富士山に近いところに住んでいる。テレビや新聞雑誌で時々思い出したかのように“富士山大噴火首都東京壊滅”などと不安を煽る。私は地震も噴火も怖い。しかしマスコミがいたずらに煽る天変地異に疑問を持つ。私は自分に言い聞かせる。「たとえ富士山が噴火しても日本全部が滅びるわけではない。運悪く私が死んでも私とて永遠に生きられるわけでもない。私の立つ地面が吹き飛ばされたり、地面が鳴門の渦潮のようにマグマに飲み込まれるのでもない。必ず前兆があり対処する時間があるはずだ。なければ瞬間的に息絶えられるのだから、それはそれで良い」
桜島の噴火のニュース画面を観ていて私の考え方は間違っていないと思った。毎年いったいどれくらいの長い年月桜島は噴火を続けてきたのか。空をも暗くする何万トンとも言われる火山灰を降らせる。鹿児島の人々は息も出来ないほどの火山灰が舞う時でさえ、外を歩き車を運転する。落ち着けば当たり前のように火山灰を片付ける。その姿を観て、私は人間、災害の多い日本に住む人々の懲りない逞しさと生命力を讃える。
富士山が噴火しようが、地震があろうが、台風が来ようが、経験したことのない雨量の雨が降ろうが、歴史のはじめから延々と復興を遂げ、命をつなげてきた。むやみにマスコミに弄ばれることはない。日頃からいざという時のために知恵を絞って生き抜く災害を乗り越えてゆく手立てを考えるべきである。桜島の噴火の後始末を観ていて、火山灰を掃除する鍵は、大量の水だと思った。私のような人間でさえ、この程度のことは学べる。マスコミはただ恐怖を煽り立てるのではなく、富士山が噴火したらどう人々が対処するべきか、
どの程度の被害が予想され、そこから復興するためにどうすればよいのか、現状の備えのレベルはどのくらいなのかを検証するのが勤めだろう。庶民の多くは、遺伝子に自然災害に対する覚悟と乗り越え方もしっかり組み込んでいる。東電もマスコミも政治屋さんも庶民をナメタライカンゼヨ。