団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

国連総会の空席

2012年09月27日 | Weblog

  以前佐藤栄作内閣で防衛庁長官だった西村直己さんは「国連は田舎の信用組合だ」と言って辞任に追い込まれた。国連に参加することは、田舎の信用組合と同じで加入するのに経費は大して要らず、なればなったで私利私欲に振り回され、ムラ意識丸出しになると言いたかったらしい。私は国連の現行のあり方に疑問や不信を持つが、国連が必要であることは認める。

  野田首相が民主党代表選で圧倒的な支持を得て再選された。その後すぐ24日に国連総会出席のため訪米した。日本時間26日未明、野田首相が国連で演説した。緊張したおももちで英語でなく日本語で演説した。時々原稿に目を落としながら、最後まで微笑むこともなかった。演説の良し悪しは、論旨の明晰さ、声、調子、ユーモア、表情といわれている。さすが駅前で辻説法を何十年も続けてきた野田さんだ。足早に通り過ぎる人々は、立ち止まって野田さんの話を聞く気がないことを、話している本人が一番知っていた。聴き手の反応に対して気にしている様子もなく、耽々と原稿を読み進めた。いまだに日本の最高権威である首相が、国際人でないことは残念なことである。しかし私はそれ以前に国連がまるで日本の多くの大学の大講義室化しているほうが気になる。

  日本の医学会は専門医としての資格維持のために学会出席を義務付ける。学会出席にシールを交付して、年間何枚と決められたシール数を達成すれば、資格は自動延長される。もちろん熱心に研究発表の会場で勉強する医師もいる。しかしその数は少ないと聞いている。形骸化はあらゆる組織に世界中で蔓延する。

  国連が世界の仲良しクラブの連帯の場であることは疑いがない。民主主義は、多数決である。矛盾もあるが、それでも首の皮一枚で、最後の抑止力であることは間違いない。国連の中に各種のつながりつまり派閥が存在する。人種、宗教、政治思想、宗主国と植民地などの切っても切れないしがらみが票に結びつく。正義はそこにない。あるのは義理と人情だ。

 前回野田首相と時を同じくして、パレスチナのアッバス議長が国連に加盟国としての参加を認めるよう国連総会に出席して、加盟の採決を求めて演説した。このアッバス議長の演説に議場はほとんど満席となった。単純にアッパス議長と野田首相を出席度合いで比較することは、無意味かもしれない。しかしあの年の日本は未曾有の大地震とツナミと原子力発電所事故で世界から注目された。そして多くの国々から支援と同情を得た。その国の首相が国連で演説したのだ。あれだけの被害を受けた国の総責任者が国連議場で、世界に向かってお礼を述べる絶好の機会だった。にも関わらず、議場に姿を現した各国代表はほとんどいなかった。これが現実である。いままでの海外での日本のODAなどの援助は、役に立っていないようだ。日本には宗教、イデオロギー、宗主国と植民地などの強い結びつきがない。国連では孤高な前科者の扱いである。日本の国会も腐っているが、国連とてやはりその理想的な活動とはほど遠い。その国連に対して、日本は最大の拠出金出資国である。存在感が示されていない。むなしい。

 今日本はロシア、韓国、中国との領土紛争に直面している。国連での日本は、第二次世界大戦が始まる直前の孤立無援状態のようだ。その様は、日本の小中学校の学級崩壊の中にポツンとたたずむイジメられっ子である。昨日の自民党の総裁選では安倍元首相が総裁に返り咲いた。世界の目を日本に向かせ国難を乗り切るには、日本の首相は関取か女性になってもらうのも次の手かもしれない。旧態依然を断ち切り、変化進展が見られる日が来るのか。英語を話せず演説の内容も仕方も洗練されていないなら、見た目や民族衣装で“信用組合”並みの総会で真摯に組合員いや他国の気を引くしかないのなら、あまりにも哀しい。


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小さな秋みっけ

2012年09月25日 | Weblog

  (お知らせ:拙著『サハリン 旅のはじまり』と『ニッポン人?!』が電子書店「inko」から電子書籍化されました。電子書店「inko」のアプリはApp StoreかGoogle playのいずれかでダウンロードして購入できます。価格は各250円です。)

 

  妻が遅い夏休みを1週間取れた。家でゆっくり溜まった疲れを取りたいと言っていたが、19日(水)に伊豆へドライブに出かけることになった。家を出た午前6時ごろは、雨が強く降っていた。お昼までには晴れ間が出るという天気予報を信じて、伊豆半島ドライブを決行した。時間が経つにつれて、雨が小降りになってきた。

 修善寺を過ぎて湯ヶ島方面の山の中へ入った。道路は狭く、対向車が来たら、どうすれば違うことができるかとハラハラしながら進んだ。普通の人々の夏休みも終わり、その上雨の所為なのか、対向車とすれ違うことがなかった。狭い道でのすれ違い恐怖症の私には助かった。雨にけむる伊豆山中はまだ緑が色濃く覆っていた。ススキの群生地で車を停めた。猛暑が続いた後での雨は、湿気を不愉快なほど高め、車から外に出ると眼鏡が曇って何も見えなくなるほどだった。

  雨が止んだので、林の中に入って歩いてみた。林の中の落ち葉がしっとりして濡れていた。しばらくするとキノコがあちこちに顔を出していた。私はキノコ採りを師匠と呼べるほどの人と一緒でないとしないことにしている。過去にベニテングダケを故郷のスナックで供され、あわや命を落としたかもしれない目に遭った。それ以来、野生のキノコに必要以上に警戒している。たとえ食べるためのキノコ採りでなく、キノコがあちこちで生えているのを見ているだけで満足できる。妻はまったくキノコに対して食べる以外興味がない。私が喜んでキノコを覗き込んでいていても、スタコラさっさと先に進んでしまう。「イノシシ注意」の立て看板にもお構いない。

  二人で林の道を進んだ。私の目は地べたを、妻は森林浴をするように深呼吸しながら視線を常に上へ向けている。私はイガ栗二つとキノコが5、6本生えているのを見つけた。キノコ採りの師匠たちから菌輪(きんりん:キノコが輪になって生える状態。英語ではフェアリー・リング:妖精の輪)の話を何度も聞いている。それは菌輪ではないが、たとえ5、6本の群生でもフェアリー・リングに匹敵するほど私を喜ばせた。一人で山の中を歩き回って夢中でキノコを探していて、もしもキノコが大きな輪になって群生していたら、食用だろうが毒キノコだろうと、幻想の世界に入り込んだ気になるだろう。ムラサキシメジや真っ赤の地に丸くて白い斑点などの入ったキノコだったら尚更だ。舞茸という名前は、見つけると踊りだすからと聞いた。キノコの魅力は、妖しさにある。

  いよいよ秋か。いい構図である。カメラを向けて注意深く撮った。(写真参照)妻を追いかけて写真を見せた。デジタルカメラは便利である。即撮った写真を観ることができる。妻は「いい写真だね」と褒めてくれた。雨が再び強く降り出した。急いで車に戻った。猛暑がやっと途切れた日、伊豆半島の山中で道草をくったお陰で「小さな秋みっけ」と気が滅入ることの多い現世を離れることができた。森の妖精たちの魔法かな。

                                       

 


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キノコの教え

2012年09月21日 | Weblog

 世の中の喧噪から逃れようという魂胆で読み出した『キノコの教え』(小川眞著 岩波新書 800円+税)にこう書いてあった。

  「相手の成長を抑えたり、殺したりしていたのでは、共生は成り立たない。パートナーが死ねば、自分の生存も危うくなるというのが、本当の共生であり、双方がお互いに譲り合って、暮らすほかないのである」(215ページ) まるで人間社会のことのようだが、実はキノコの共生について書いているのである。そして続く。今度は人間社会のこと。「共生は、まず相手を対等と認めるところから始まる。もし、自分のほうがより優れていると思えば、相手を軽んじて抑圧することになり、劣っていると思えば、卑屈になって妬ましく思うようになる。『優越感と劣等感』『嫉妬と羨望』は、個人から国家社会の段階にレベルが上がるにつれて、強烈な破壊エネルギーを生み出し、戦争へのきっかけとなってきた。現実問題として、完全に対等、もしくは平等ということはありえないかもしれないが、自分を知り、相手の長所を認めれば、折れ合う機会を見つけることができるはずである」(217ページ)

 尖閣問題が緊迫した状況になってから、テレビのニュースやニュース番組の視聴率が上がったという。それほど日本国民がことの成り行きを固唾を呑んで見守っていることになる。しかしどのニュースに登場するテレビ局が選んだ解説者の分析や意見も私を納得させない。ならばラジオならとまともな話が聴けるかとラジオを聴く。テレビよりずっとましだ。解説者に割り振られる時間も長い。だが問題が大きすぎ複雑すぎて20分30分の解説では、聴いている私は消化不良を起こしてしまう。私の精神的緊張が増すばかりだった。私はまったく違う世界に逃げようと考えた。

  前回は『植物はすごい』(田中修著 中公新書)で脱出に成功した。今回は植物よりはるかに原始的な菌類なら更に逃避向きかもと本を探した。見つけたのが『キノコの教え』だった。

  キノコと云えば、私の人生に大きな影響を与えた三人は、キノコとの関わりが深い。一人はカナダ留学中、当時カルガリー大学の菌類学の平塚教授、二人目はキノコ採りが本職と言ってはばからない妻の高校の恩師でgooブログ『新山の恵み里の恵み』先生、そして三人目は拙著『サハリン 旅のはじまり』のサハリンのリンさんである。特にサハリンでリンさんとたった二人、ヒグマが歩き回る山中原野でキノコを求めて過した時間は、私の極めつけのキノコ人生だった。私の魚釣りとキノコ採りは、サハリンで幕を降ろした。

  嫌な問題から逃げようと読み出した『キノコの教え』だった。読み始めた日、用事で東京へ行き、新宿高島屋の地下の紀伊國屋で私の一番好きなキノコ、イタリアの生のポルチーニを見つけ、迷うことなく買った。ひとカゴ1670円だった。(写真参照)日本ではヤマドリダケと呼ぶキノコである。夕食に料理して妻と食べた。美味かった。夜再び読み出した『キノコの教え』にもヤマドリダケは登場する。いやがうえにも私の気分は高揚した。

  逃避するために読み出した『キノコの教え』だったが、結局第8章の217ページで現実に引き戻された。でもテレビでもラジオでも与えられなかった希望がふつふつと湧いてきた。私もキノコに教えられた。

  更に今年のキノコはどうかとあれこれ気を揉むGooブログ『新山の恵み里の恵み』の9月17日付けブログで身につまされつつも大いに励まされた。人にも国にも当てはまる。元気出せ、ニッポン。

  「『人間五十年』。賞味期限を20年も超えちゃった。60を過ぎた頃から、徐々に静かに衰えはじめ72を目前に、突然昏倒。破局!『カタストロフィー理論』。40年ほど前、ある数学者の講演で耳にしたことば。拡大にせよ縮小にせよ、変化は徐々に進行するが、極大もしくは極小(つまりゼロ)に達する直前、必ずプッツン、破局を迎える。んだってさ。いいねえ、理論通り。数学的に証明された(かどうかは知らないけれど)からには、何も心配いらない。これからは「落穂ひろい」、明るく気楽に元気にいきませう」


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「ニッポン人か?」

2012年09月19日 | Weblog

  反日デモが中国全土に拡がり、中国各地に住む日本人や日本人観光客にまで被害が及んでいる。日本中が固唾を呑み戦争の悪夢に脅えつつ事態を見守っている。

 拙著『ニッポン人?!』(青林堂 1143円+税)(近日グーグルとアップルから電子書籍として発刊決定認可待ち価格250円予定)の巻頭にこう書いた。「はじめに: 『ニッポン人』と常に意識して生活している人は、少ないだろうと思う。国籍は、多分に外的要因に問われ、意識する場合が多い。日本に生まれて届けを提出すれば、日本人として名前で社会に登録され、認識され、当たり前のように存在している。大方、日本国籍を持っていても、『ニッポン人』を意識できない。異なるものが存在することによって、初めて自分を認識できる。・・・・・・・・いろいろな国で私は、政治思想、宗教、人種、国籍、階級、身分、学歴、貧富の差などに関わらず、ひとりの人間として、『?』『!』を感じた。その経験を伝えたい思いで、この本を書いた。私が『ニッポン人』のひとりとして世界のあちこちで出会った多くの人々。良い思い出あり、嫌な思い出もある。その思い出ひとつひとつが、私を『ニッポン人』として成長させてくれた。心から感謝したい」

 まだ原稿の段階で出版社から「疑問符?と感嘆符!を並べる場合、感嘆符!が先に来て疑問符?が後に来て『!?』となります。訂正してください」と言われた。「やはり、きたな」と内心で思いながら、私は説明した。この本では、まず「ニッポン人?」と尋ねられて、それから話が始まって、最後に「ニッポン人!」で終る骨組みなので、「?!」を替えられないと伝えた。

 今回の中国の反日デモの影響によって中国全土で「ニッポン人か?」が横行してまるで日本人狩りの様相である。中国人も日本人も人種的には類モンゴル人種群(英語:Mongoloid)である。この人種の定義は、広辞苑にこう記されている:「黄色ないし黄褐色の皮膚と、黒ないし黒褐色の直毛状の頭髪とを主な特徴として分類され、眼瞼の皮下脂肪の厚いこと、蒙古襞(ひだ)、乳児に蒙古斑の頻度がきわめて高いことも特徴。日本人・朝鮮人・中国人を含むアジア・モンゴライドのほか、インドネシア・マレー人・ポリネシア人・アメリカ先住民が含まれる」私はこの定義に「メンツに執着し感情的に行動を取りやすく、論理的に言動したり行動することが苦手」を加える。

  合計して20年以上の私の海外生活において、いきなり「ニッポン人?」と尋ねられた経験は少ない。何と言っても一番多かったのは、中国人を指す「シノワ」(フランス語:中国人)である。韓国人、香港人とも尋ねられた。カナダやアメリカではアメリカ先住民に間違われ「あなたの部族は?」と聞かれたこともある。白人や黒人の中にニッポン人がひとり混じれば、三大人種のうちの類モンゴル人種群しか残っていないので分かり易い。しかし日本人が中国や韓国で紛れ込めば、そう簡単に見分けはつかない。日本人の中には「中国人、韓国人と日本人は絶対に違う。自分にはその違いがはっきり分かる。見分けがつく」と言う人もいる。おそらくそういう人は、人類学者としても相当優秀な人なのだろう。

 14年にわたった外務省の医務官の妻に同行して暮らした国々(ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、クロアチア、チュニジア、ロシア)で、私はもっとも安全に歩きまわれる服装基準を学ぶことができた。それは現地の普通の人々の普段着を観察して真似ることだった。どこに住んでも、まずそこの普通の市場や商店で普通の衣類を買った。異人種の中で肌の色や顔立ちはひとり目立っていたが、それでもこの服装が人々に受け入れられ、言葉や小石だけの差別で終ったと信じている。

  類モンゴル人種群の日本人が同じ類モンゴル人種群の中国人や韓国人の反日分子の中に紛れ込めば、白人種、黒人種に混じるよりは、見つけられにくい。現に中国人が日本人に間違われてデモ参加者から集団暴行を受けた事例もある。危険な所に出かけないといっても、生活するには外に出なければならない用事もある。中国の反日も韓国の反日も在住一般日本人への暴力や嫌がらせが心配だ。更に戦争を絶対に避けなければならない。

  俳優高倉健がNHKテレビの番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』で語った。「映画俳優がどんな役を演じてきって映画を撮り終えても、できた映画に役者でない自分個人の気持が赤裸々に映ってしまっている。だから自分の演技は完成することがない。次こそもっと上を目指さなければならないと思う」 言葉や格好仕草や服装で演技しても、最後は気持が全てを決めという。日本人が「ニッポン人?」と尋ねられ、他国民になりすますのは悲しすぎる。「私はニッポン人ですが、あなたたちと平和に暮らしたい」と心の底からの強い気持ちで堂々と言えない、双方の未熟さが辛い。

  平和憲法の気持を前面に出しても理解されることはない。対話さえできない。軍隊を持たずに平和憲法を維持するならば、日本人はとことん平和の気持を他の国々に伝えなければならない。ここまで築き上げた気持を、ここでご破算にして再び暴力には暴力で立ち向う戦前の日本に逆戻りするのか。孤高な現時点に踏みとどまり、世界が日本の気持を理解できるのを何年かかっても待つのかの分かれ目に来ている気がしてならない。荒れ狂う中国や韓国の反日群集の行動があっても、日本国民の大半は、荒れ狂って中国大使館韓国大使館にデモをかけ大使館本来の業務を妨害して国旗を燃やし物を投げることもしないし、中国人韓国人狩りをして復讐することもなく、中国製品韓国製品の不買運動をおこすこともない。弱虫で覚悟がないとの批判もある。戦争を避けることは、決して弱虫でない。それどころか、とても覚悟と勇気がいることだ。私はこういう日本が大好きだ。

  英国で「日本人はジャップリッシュ(ジャップは侮蔑語でも差別語でもなくブリティ
ッシュに似せてリッシュを接尾語として授与された造語である)と呼んでもいいほどマナーの良い国民である」と評された。これは変化である。まだまだ気が遠くなるほど時間はかかるだろうが、少しずつ日本を理解する国々もでてきている。日本人も変わってきた。今になって政府を、政治屋を、官僚を、学者を、教育を、家庭を非難しても始まらない。理性的で品格を持てるまでにやっとたどりついた日本の大方の一般国民の渇望する平和追求の気持が、この国を守ってくれることを期待する。不安と心配に押しつぶされそうだが、日本人の、人類の、知恵と理性を信じたい。


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聴きたい、読みたい、話したい

2012年09月13日 | Weblog

  この東日本大地震、竹島、尖閣問題の後、テレビに出てくる人たちの意見に同調、感心、納得することがない。多くのテレビ番組で何らかの意見を述べるタレント、学者、政治屋たちは、あちこちの出演しすぎている。こんな折、自分の書斎にこもって思索している様子は感じられない。あまりに喋りすぎる所為か、話の内容に切れがない。多くが感情的なだけで耳を傾ける価値がない。私はそんなテレビを観ないようにしている。代わりに本を読んだり、ラジオを聴くようにしている。そこでわかったことは、テレビに出演しない人のほうが、頻繁にあちこちのテレビに出ている人々よりずっとよい意見を持っていることだ。

  このような国難の真っ只中、私が意見を聴きたい、もしくは会って話したいと思う人がいる。その人たちに共通していることがあるのに気がついた。どのひともテレビに出演がほとんどない。人によっては、テレビ出演を明確に否定している。養老猛司さん、佐藤優さん、加地伸行さん、山の恵み里の恵みさんの4人である。

  養老猛司さんは、もともと解剖学の教授だ。『バカの壁』などの著書を読み、共感し学ぶことが多い。養老さんのような著名人と直接会って話すことなど可能なはずがない。しかし彼の本を読むことによって、こんな私の質問にどのように答えてくれるだろうかと、彼の本を読む。私は、彼のテレビ出演が少ないことに好感を持っている。

  佐藤優さんは、妻と同じく外務省にいた。私は、大使館で多くの外務省員と会っている。佐藤さんが書いている外務省員像に共感を持っている。佐藤さんは、キャリアではない。そこにまた私が魅かれる。『週間とりあたまニュース』(新潮社 1100円)のはしがきで「それだから二流以下の表現者であると自分の分をわきまえていつも文を綴っている。ただし、長い間、外務官僚をつとめていたので、複雑なことをわかりやすい言葉で表現することは得意だ」と書いている。これこそ私が求めることである。確かに佐藤さんの本は、理解しやすい。何よりテレビに出ないことがいい。

  加地伸行さんは、産経新聞に『古典個展』というコラムを持つ大学教授である。加地さんもテレビに出ているのを見たことがない。

  山の恵み里の恵みさんは、妻の高校の恩師である。gooブログ『山の恵み里の恵み』を掲載している。私は、彼のブログから多くのことを学んでいる。彼は政治、経済などについて一切ブログでは触れることがない。言いたいことは山ほどあるだろう。しかし彼はただひたすら大好きな山菜採りと定年退職してから始めた畑仕事と読書で得た喜びのことしか書いて載せない。博識で知的な彼が自然の中、土と格闘し、文字に埋もれる。私の目指す生き様である。面と向かって話を聴きたい。

  便利な時代である。ブログで山の恵み里の恵みさんと密会できる。そのブログも投稿頻度が減ってきて心配している。まともな人の話しを聴きたい、読みたい、そして、そういう人と話したい。


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素晴らしい人だった

2012年09月11日 | Weblog

 ザ・ピーナッツの伊藤エミ(本名沢田えみ)さんが亡くなった。享年71歳。私は沢田えみさんを偉い人だと思う。個人的に知っているわけではない。『スターダストを、もう一度』五歩一勇(ごぶいち いさむ)著 出版 日本テレビ放送網 1631円 にこうある。「エミさんの古い友人が、沢田研二さんについて聞いたとき、一瞬の躊躇もなく答えが返ってきた。『素晴らしい人だった!』」  私には信じられなかった。そんなことがありうるだろうか。そんなことを言えるだろうか。疑問に思った。バツイチの私でも、考えられない答えである。離婚の慰謝料が当時話題になるほどの十何億円という高額であったからだろうと邪推した。でもえみさんはきっと大人の美学をわきまえていたのだろう。沢田姓を変えることもなく、再婚することもなく、マスコミに登場することもなく、一人の子供を育てたことで、離婚後の生き方が覗える。

 大人の美学に基づく振る舞い言動に憧れる。憧れるだけで私は大人の美学と関わることなく終りそうな気がしてならない。高倉健に好感を持つようになったのは、江利チエミと離婚した後の行動を知ったからだ。江利チエミが亡くなった時、高倉健は江利チエミの葬儀の日、人知れず少し離れた場所に立ち、手を合わせていたという。たとえ離婚していても何もなかったように葬儀に堂々と参列する人々もいる。その行為を大人とは感じない。やはり一歩も二歩もひいてこそ、大人を感じる。

 高倉健なら元妻の葬儀を離れたところからひとりで合掌していただろうと信じられる理由がある。私が長野の禅寺で離婚の苦しみから逃れようと坐禅して妄想と戦っていた時期が2年間ある。毎朝3時に家を出て5時から6時半までただひたすら座った。坐禅に来ている人から聞いた話である。高倉健が善光寺にひとりで一年に一回深夜に参拝しているのを偶然見たという。その話を聞いた数ヶ月後、高倉健のことを書いた本の中に善光寺参拝の記述を見つけた。

 えみさんを捨てた前夫のことを「素晴らしい人だった」と言ったという沢田えみさんの訃報に私が接し、まず思い出したのが高倉健のことだった。怨んだり復讐をたくらむのは、だれでも思うことでありできることである。

 『ラブ・イズ・オーヴァー』作詞作曲伊藤薫 

 Love is over 若いあやまちと

 笑って言える 時が来るから

 ・・・・・・

 本当の自分をじっと見つめて

 きっとあんたにお似合いの人がいる

 ・・・・・・

 元気でいてね Love is over

 かつて欧陽菲菲が歌っていた。酷かもしれないが伊藤エミさんがザ・ピーナッツとしてあの美しいハーモニーで歌う姿を想像する。

 私は2年間坐禅で“自分をじっと見つめ”た。幸運にも“お似合いの人”と出遭うことができ再婚できた。20年が過ぎた。平穏無事に仲良く生きて「素晴らしい人だった」と最後にお互いに言える別れが私の目標である。


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日本人は馬鹿だから夏休みが短い

2012年09月07日 | Weblog

  小中高の夏休みが終ったようだ。8月30日(木)鎌倉での学習会に出席するために朝早く家を出た。ちょうど通学時間と重なった。バス停から駅までバスで行った。バスは小学生でいっぱいだった。夏休みの宿題や内履き、座布団などで各自大変な荷物である。バス停「小学校前」で乗降口に立っていた私は、一旦降りて小学生がすべて降りるまで車外で待った。

  1960年代アメリカ人のキリスト教宣教師が軽井沢に多く住んでいた。17歳の高校生だった私は、カナダへの留学が決まり、英語と向こうでの生活に慣れるために聖書学院の寮に入り、全員で7人しかいない宣教師の子供の小学校で学んだ。ある日その小学校の生徒が夏休みのことを話しだした。その学校も夏休みは6月初旬から九月初旬までの3箇月だった。あまりの長期間に驚いた。そしてアメリカ人の子供は「日本の高校は夏休みどれくらいあるの」と高校生の私に尋ねた。「4週間くらい」と答えた。するとティミーという子が「日本人は馬鹿だから夏休みが短いのだとお父さんが言っている」と言った。私は腹をたてた。なぜなら休まず遊ばず勤勉であることが日本人の特質だと信じていたからだ。

 留学したカナダの学校は幼稚園から大学まである総合キリスト教学園だった。最初に籍を置いた高校は夏休みが3箇月あった。大学は5箇月だった。大学部の5箇月は納得できた。学生が学費を夏休みにアルバイトして稼げるようにという学校側の配慮だった。私のような外国人学生は就労ビザがなくても、学校でひと夏働けば次年度の学費が免除された。土曜日、日曜日、祭日と感謝祭休暇、クリスマス休暇、復活祭休暇を加えると年間登校日はたった150日ほどになってしまう。私は真剣に悩んだ。日本のあの短い休暇でさえ宿題を先延ばしして最終日に絶体絶命の極限状態となった。私の性格でカナダの長い休暇に放り出されたら何をしでかすかわからない。休暇が終れば、それ以前に学んだことは、全部まっさらさらの白紙になっているだろう。そうでなくてもコツコツと学ぶタイプではない。軽井沢でアメリカ人宣教師の子供に言われたことが思い出された。

 恐れることはなかった。とにかく授業が日本と比べてゆっくりで、履修内容もゆとりある展開だった。おかげで日本の高校よりずっと成績も良くなった。問題は英語だけだった。英語さえ理解できれば、授業も試験も恐れることはなかった。その英語には随分苦労した。休暇が長いことで英語は人々との日常会話を通して上達した。もちろん他の科目の勉強もした。夏休みが長いことで、時間は充分あった。

 断じて、日本人は馬鹿だから夏休みが短い、のではない。それぞれの国や地域の夏休みの長さは、文化や風習や気候風土などの事情で決まる。自分の国が何事に於いても標準と考えてはならない。長いからと優越感を持つことも、短いからと劣等感を持つこともない。世界は広い。「郷に入っては郷に従う」も処世の法であろう。

 次から次とバスから降りてゆく小学生たちは、みな学校へ戻れることに屈託なく嬉々としていた。たった4週間たらずの夏休みでも、彼らの多くには、きっと長く感じたのかもしれない。私は運転手に頭を下げられ、再びバスに乗り込んだ。ドアが閉じ、動き出した。バスの中に残っていたのは、小学生に精気を持ち去られたように深くシートに腰掛けた私を含めて4人の乗客だけだった。


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老人と杖

2012年09月05日 | Weblog

  またギックリ腰になってしまった。9月2日夜日記を書き終えて「今日も終った」と意気揚々と机から立ち上がった。少し体をひねって向きを45度変えて机と椅子の狭い所から出ようとした瞬間だった。「ビビッ」と腰から体の隅と云う隅の全方向に向かってイナビカリのような熱線が走った。一歩前進しようとすると腰砕けになって腰に力が入らない。自分の体が自分のものでなくなった感じがした。妻を呼ぶ。介助してもらって寝室へ移動。ベッドに横になった。週央に1組、週末2組の接待のため、料理に多くの時間を費やした。立ち仕事が多かった。それがギックリ腰の原因かどうか分からない。このところ1年に1回はギックリ腰になる。1週間も経つと忘れたように痛みが消える。ギックリが腰にまとわりつくと、とにかく動きが変になる。中腰とか腰を曲げることができなくなり、動きはいつ襲うか分からない激痛を警戒するロボットのようなぎこちない動きになる。ロボジイ(ロボットのようなおじいさん:ミッキー・カーチスが主演した映画の題名)のようだ。

 住んでいる集合住宅にはエレベーターが設置されている。普段、我が家が1階にあるので人目をはばかってなるべく使わないでいる。しかしギックリ腰になるたびに拝みたくなるほどエレベーターがありがたい。こんな時に限って上階の住人と同時にエレベーターの呼び出しボタンを押すことになる。朝、駅へ出勤する妻を車で送ろうと家を出た。午前6時48分。エレベーターは地下1階にあった。呼び出しボタンを押す。エレベーターが1階に到着するよりも早く4階の住人が階段を4段飛ばしで新聞片手に駆け上がってきた。「おはようございます」と挨拶を交わした。住人の目が「たった1階分でエレベーター使うなよ」と言っているようだった。演技ででもいいから大げさに腰が痛いことを訴えるべき、とも考えた。私は心の中で「ギックリ腰になってしまいました。共益費は何階に住んでいても同額なので許して下さい」と弁解していた。

 車の運転に支障はない。車に入って運転席に腰掛けるのは、さほど困難ではない。車から出るのが大変だ。普通乗用車なので席が低く外に出るのがひと苦労である。まずドアの枠を手で掴んでドア側に体を移動する。右手で枠を掴み、左手をべったとフロントグリルに置き体を押し上げる。股をゆっくり90度開いて右足を地面に、それから左脚を5度ずつゆっくり回転させて車外に出す。これが一番痛くて時間がかかる作業である。知らない人が見たら、私が気が変になって異常な行動を取り出したと思うだろう。

 それにしても便利な世の中になった。自動車、エレベーター、テレビなどのリモコン、洋式トイレ。中でもトイレはウッシュレットつきで時間がかかるが乾燥装置を使えば、ギックリ腰の時一番難易度が高いあの無理な姿勢をしないで済む。

 妻の勧めで杖を全国いたるところにチェーン展開するドラッグストアで2490円で買った。アルミ製で長さ調節ができるしっかりした杖である。杖のおかげで立ち上がるのがずっと楽になった。そればかりでなく創意工夫で応用が効く。手の代わりに便座の上げ下げができる。鉤状の取っ手で押したり引っ掛けたり引き寄せたり、応用が楽しい。

  腰がまがり、前かがみになって杖をたよりに一歩一歩亀より遅く歩く。年齢とは云え、こう頻繁にギックリ腰になると、そのうち腰が曲がったままになってしまうのではと恐くなる。腰が90度以上曲がった老人たちを昔田舎で子どもの頃よく見た。ああなりたくないと子供心に思った。それが現実になりつつある。ギックリ腰にしても老眼、シミ、足腰、白髪、禿げ、全ての老い現象は、じわりじわりと迫る。ある日一気に来ないことがせめても救いである。老いは時間をかけて、時々なれの果てを思い知らさせながら、ゆっくりと受け入れるものらしい。鏡に映った腰が曲がった杖をつく老人は、悲しくもありおかしくもある。


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2012年09月03日 | Weblog

 8月29日水曜日、私の娘の友人一家5人が泊まりで訪ねてくれた。夫婦と3人の子ども長女5歳、長男2歳、次男9ヶ月。年に数回家族で訪ねてくれる。夕食のために数日前から準備を進めていた。水曜日なので妻はいつも通りに夕方6時半に駅に到着する。私は、留守を客人に頼み、車で駅まで迎えに行ってきた。玄関で妻が声を上げた。「すごいね。靴がきちんとそろえてある」 妻は履物をいつもきちんとそろえて並べられる人である。私は妻ほど厳格に履物をそろえられない。履物だけではない。服、本、何でも整理整頓は妻のほうが断然優る。妻ゆえの気がつきである。言われて見れば、確かに見事なそろえ方だった。私が家を出た時から履物はきちんと置かれていたはずである。私はふと私の孫は・・・と考えたが、比べてはいけないと思いを打ち消した。

  写真を撮っておけばよかったのだが、その時は思いつかなかった。まず構成がいい。お父さんと長女長男はクロックス(オランダの木靴のようなふっくらもっくりしたデザインの素足で履くプラスチック製のサンダル)、一番外側のお父さんのは大きくて黒、長女のうすいピンク、長男のあざやかな空色、そして子どもたちのサンダルを優しく包み込むように置かれたお母さんの黒いエナメル系のヒールが中くらいで数箇所に光る飾りがついているサンダル。大きさ、色具合、組み合わせが妻の心をとらえたに違いない。私も妻に言われて確かに感心した。妻はすっかり気分をよくして客人家族と対面した。もともと子どもが苦手な人である。次男はソファですでに静かに眠っている。長女、長男は、すでに夕飯を済ませて客間のテレビでお姉ちゃんが弟の面倒をみながら持参のDVDをおとなしく鑑賞していた。大人だけの静かな夕食を楽しんだ。

  娘の友人は、結婚する前にまず父親を数年後に母親を亡くした。彼女に兄弟姉妹はいない。一人っ子だ。身よりもなく、それでも一人で強く生きていた。母親が亡くなった時、私の娘はアメリカの大学で学んでいた。私たち夫婦はまだ海外にいた。娘からどうしたらいいのかと泣きながら連絡がきた。私はすぐ日本に一時帰国してたとえ一時間でも一緒に居てあげなさいと娘に言った。たった数日葬式の時だけだったが娘は友人に付き添った。アメリカから帰国して娘が就職して会社の寮から出なければならなくなった時、娘の友人は自分のアパートで娘を結婚が決まるまで、住まわせてくれた。娘を東京で一人住まいさせる私の心配も軽減した。恩人である。

  その娘の友人も娘が結婚したすぐ後結婚した。結婚相手も紹介され、家族ぐるみの付き合いが始まった。子どもが生まれるたびに見せに訪ねてくれる。その一家が立派に子どもを育てている。履物のそろえ方から、この一家の日常がうかがい知れる。

  9月1日突然私の長男一家が泊りで来てくれることになった。長男夫婦には、二人の男の子がいる。小学校5年生と小学校1年生だ。学校、サッカー、習い事で忙しく年に数回しか訪ねて来られない。やんちゃ盛りで兄弟げんかも激しい。玄関で4人の履物がきちんとそろえられて並んでいるのを見た。(写真参照)娘の友人一家の4足とは違う構成、色、大きさであったが、胸がジーンとした。

  娘の1歳1箇月の子が突発性発疹で高熱を出し痙攣を起こし救急車で運ばれた。新米ママは、痙攣の激しさに恐れ電話で泣いた。子育ては人間の最大事業である。私が離婚した後、それを思い知らされた。二人の子どもには、償いきれない悲し想いをさせ、家族バラバラの生活だった。貧しくても玄関に家族の履物がきちんとそろえられて並ぶ家庭を私の子どもたちも娘の友人も理想として努力しているのかもしれない。私の二の舞はして欲しくない。それぞれの両親がそれぞれに泣き、笑い、紆余曲折、試行錯誤して子どもたちに一所懸命“躾”を刷り込んで欲しいと願わずにいられない。


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