団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ニオイ記録器

2008年09月30日 | Weblog
 人間には五感を感じる5つの感覚器官がある。視覚を感じる目。音を感じる耳。味を感じる舌。ニオイを感じる鼻。触覚を感じる皮膚。視覚を記録するために人間はカメラや撮影機を発明した。音を記録するのに録音機を発明した。しかしまだ味覚、ニオイ、触覚を記録できる機器を作り出してはいない。

 私はニオイの記録ができるようになることを望んでいる。先日駅のホームで電車を待っていた。突然さわやかな風、何ともいえない甘い良いニオイが鼻腔をかすめた。香水かなとあたりを見回した。隣りには汗をかいたメタボな中年男性が立っていた。違う、彼ではない。線路の向こうは20メートルくらいの高さの土手が長く続いている。土手はすべて草と樹木とおおわれている。その中に花が満開のクサギ(写真参照)の株がいくつかあって、そのまわりにカラスアゲハが一匹、二匹、三匹・・・七匹も飛び回っている。普通の飛び方ではない。酔ったように気持ちよさそうに飛んでいる。よーく見ると蜂だろうか、咲き誇る白とピンクの花を忙しく飛び交っている。蝶と蜂の競演である。良いニオイは、ほんわか私を幸せな気分にしてくれる。そしていつも思う。このニオイを記録しておいて、妻に「今日、こんな素晴らしい良いニオイを見つけたよ」とプレゼントできたらと思う。

 良いニオイであれへんなニオイであれ言葉だけで伝えるのは、非常に難しいものである。 高校生の頃、ある香料会社の社長に会ったことがある。彼の仕事は、香りを作り出すことだ。鼻が大きく赤かった。いかにも鼻を酷使している感じがした。好きなテレビの番組に日曜日の“がっちりマンデー”で、ある会社の女性社員で数千種類のニオイを嗅ぎ分けるプロが紹介された。彼女の仕事は、いろいろなニオイを嗅ぐことである。自社製品の消臭剤を使った後の効果を調べることにより、どんなニオイにどんな消臭剤を調合すればよいかを研究開発している。

 世の中には本当に多くの種類の仕事があるものだ。日本は豊かな国になり、人びとはニオイに敏感になった。神経質すぎると思うこともある。町の中からバキュームカー、牛舎、豚舎、にわとり小屋が消えた。テレビのコマーシャルには、口臭、体臭関する商品が次から次へと登場する。そんな風潮の中、良いニオイと思うニオイを記録器に保存して他の人と分かち合えたらいいと思う。悪用する人もきっと出てくるだろうが、楽観的に完成を期待している。

 死を迎えるとき、ブルガリアのバラの花の香り、ネパールのジャカランタの香り、スペイン・アンダルシアのオレンジの花の香り、チュニジアで住んだ家の庭にあったジャスミンの花の香り、または好きな料理やワインや香水やいろいろなニオイの中から選んで匂い記録器に録っておいた香りの中で残りの時間を過ごせないだろうか。間に合うといいのだが。

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アフラックとAIG

2008年09月25日 | Weblog
 アメリカの証券会社リーマン・ブラザーズが倒産した。翌日今度はアメリカの保険会社AIGにアメリカ政府が9兆円の資金を投入し救済策を打ち出した。なぜリーマンは捨てられ、AIGは救済されたのか。私には、政治と経済と繋がりは見えてこない。

 9月20日新聞の朝刊に1ページ全面を使ったアメリカ保険業界の最大のライバル同士であるアフラックとAIGが、同じ日に別々に広告を打ち出した。その文面を比較してみるととても面白い。

 かわいいアヒルのテレビ・コマーシャルで有名なアフラックは29面に“アフラックの保険財務は、日本の保険会社で最も高い格付けを取得しています。”と大きな文字で訴える。私が気になったのは“高い格付け”という表現である。その下のぐっと小さな字で“ムーディーズ・インベスターズ・サービスからAa2(Excellent)の評価を取得しています”ときた。これが問題なのである。アメリカのサブプライム問題は、このような格付け会社の評価で世界中の金融機関が大きな損失をこうむったのだ。誰も責任は取らないギャンブルなのである。しかしアフラックは最後に“アフラックは、日米ともに、サブプライムローンへの直接投資及び同ローンを裏付け資産とした関連証券化商品への投資はなく、健全な財務状況を維持しています。”と締めくくる。直接投資はなく、と書いてあるので、では間接投資はあるの?と聞きたい。“投資はなく”とあるから、これは全否定つまりゼロとも取れる。しかしどうしてこうも保険屋さんの書くことは、責任逃れを万端整えたような文章になってしまうのだろう。どうして文字の大きさを変えることによって、書き手の気持ちの高ぶり度合いを強調してしまうのだろう。

 次に20面のAIGの全面広告へいってみよう。特別大きな活字で“「どうぞ、ご安心ください」”ときた。あれだけの騒ぎで“安心”は、たとえどんな寛大で強靭な心臓の持ち主でもこの言葉にカチンと来ない人はいないだろう。そして字をガクンと小さくして、“今般、米国政府の強力な支援のもと、米国連邦準備制度理事会(FRB)が決定した最大850億ドル(約9兆円)の融資により、AIGの事業基盤の強さとその重要性に対する信頼の証です。” いけしゃあしゃあと、よく言うよ、である。まず850億ドルはFRBの金ではなく、アメリカ国民の税金である。私企業が自らの責任で保険を契約し、保険金を保証する会社が、倒産寸前まで追い込まれる事態を招いて、“AIGの事業基盤の強さ”はないだろう。夜郎自大もはなはなだしい。アメリカの企業だからこんな横暴が許されるのか。AIGの会長、社長、エリート社員の給料やボーナスがどれだけの額で、彼らの選民意識すら感じる。肩で風切る今までの強気な姿勢にまったくブレーキがかかっていない。“今般、米国政府の強力な支援のもと”には明らかにリーマンは捨てられたけれど、僕たちはリーマンと格が違うから潰すわけにはいかないのさ、わかるかな?この違い、のニオイがプンプンである。鼻持ちならん。

 騒ぎはまだまだ終わらない。クワバラクワバラである。保険会社の字は小さいほど警戒して読むことを忘れてはいけない。アフラックにしろAIGにしろ、こんな全面広告を出したり、テレビで頻繁にCMをうったり、お金持ちなんだね。私は生命保険をすでに全て子供たちが二人自立した時に解約してある。旅行に出る時だけ、その都度、旅行保険を買うことにしている。

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看護婦を医者に

2008年09月19日 | Weblog
 野口英世は大学の医学部を卒業して医者になったのではない。独学で1897年医師開業試験を突破したのである。

 私は留学したカナダで、大学の看護学科を卒業している看護婦が実務経験を一定期間終了すると医師国家試験に挑戦できると知った。実際カナダの女子学生に大学の看護学科は、もっとも人気のある志望先だった。

 現在日本は小児科、産婦人科の医師の成り手が少なく、東京などの一部の大都市を除いて、日本全土が医療過疎、お産難民の問題で苦しんでいる。この分野での医師不足は深刻である。これから医学部の定員を増やすなどと言う後手後手の策しか、管轄省庁は打ち出せないでいる。

 看護婦の仕事は、尊い。私の父の入院、死亡という経験を通しても、私自身の心臓手術による6箇月あまりの入院経験を通しても、医師への感謝、尊敬よりも優秀で親しみやすい看護婦への気持ちのほうがはるかに大きい。

 最初の私の心臓手術は、常識では考えられない執刀医師がピンセットで血管を摘んだために起こった。10時間におよぶ手術は失敗だった。緊急転院した他の心臓専門病院での2回目の手術で私は救われた。2回目の手術で最初の手術の失敗の原因を突き止めた医師は、あまりの初歩的なミスにあきれ果てていた。

 医者の中には、私を絶望の淵から奇跡的に助けてくれた名医もいるが、あきらかに有能で優秀な看護婦より劣る者もいる。 大学の看護学科を卒業し、小児科や産婦人科や助産婦の経験を10年とか15年したら、小児科、老年科、産婦人科だけに限って小児科外来専門医とか老年科とか産婦人科専門医と制限は設けるけれど、医師としての資格を国が認める特別な国家試験で与える。合格者を1年間大学医学部で再教育し、終了後、研修医として1年実習する。医師資格を取るまでは看護婦として働ける。

 最近の医薬分業で気になることがある。街の薬局へ医者の処方箋を持って薬をもらいに行くと、薬局のオヤジさん風の薬剤師が、病院の医者と同じような質問を、まわりの客にかまわず聞いてくる。薬局によれば、診察まがいの行為と受け取れることまでしている。医者の権威は絶大なものがある。だからこそ薬局のオヤジ風薬剤師が、医者のように振る舞ってみたくなるのだろう。ニセ医者を語る犯罪は、今でもある。だれだって2番手よりは1番手になりたいものである。

 注射なども医者より上手な看護婦さんはいくらでもいる。手術室で医者のサポートをする看護婦で有能、優秀な人はいくらでもいる。医者で看護婦と結婚するケースも多い。お互いの信頼の結果だと思う。看護婦から医者になる道が開ければ、看護婦として日々の過酷な仕事への張り合いもでるだろう。彼女たちの献身的重労働は、何らかの形で報われるべきである。医師会と言う破れそうもない組織が立ちはだかるが、実現できることを心から願う。

 世界に名だたる野口英世が、独学で医師になれた国である。きっと患者が望む理想に近い医者が看護婦から出てくると私は確信している。私の老後は、そんな看護婦から医師に転身した経験豊富な信頼できる医師に診てもらいたいものである。
 (現在看護婦でなくて看護師と言うことは、私もよく知っている。しかし女性看護師だけに限っての話なので、あえて看護婦と記す)

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資源価格

2008年09月16日 | Weblog
 私が17歳で留学したカナダのアルバータ州には、サンドオイルと呼ばれる精製するのに非常に経費がかかる油田があちこちにあった。その油田開発のために日本から派遣されていた三菱商事の宮原さんと親しくなった。彼が「サンドオイルは、将来原油価格が高くなり、精製費用がペイできるようになれば、大変なビジネスになる」と言っていた。あれから40年たつ。このところの原油価格高騰で宮原さんが言っていたことを思い出した。調べてみるとすでに20年前くらいから本格的に大規模に露天掘りされている。現在カナダ原油生産の相当部分を占めるまでになっている。当然日本の商社もビジネスとしてやっと報われ始めていることだろう。40年以上前から、着々と今日のビジネスのために足場を気づいた、宮原さんたち先人の努力に頭がさがる。

 新興国の中には、札束で資源を買いあさっている国もある。人間とは不思議な生き物で、共に苦労し築き上げた事業に費やした長い時間が生む理解共感は、そう簡単に消えてしまうものではない。継続は力なり、という。日本は長い時間をかけて信頼関係を築いてきた。長期の展望と信念を持つ事業は、必ずや良い結果を生むに違いない。栄枯盛衰は世の常であるが、決して事は一瞬に決定してしまうことはない。

 日本は資源を持たない国である。原料を輸入して製品に加工して輸出する。1990年代鉄鉱石は1トン2、000円だった。それを日本に運び製鉄所で鋼材にする。その鋼材は1トン40、000円になった。その鋼材を加工しフレームを製造して、部品エンジンをつけて一台の車を造ると100万円から500万円になった。2008年世界の資源価格は暴騰し始める。9月現在鉄鉱石は1トン80ドル(1ドル=107円で8、560円)鋼材(熱延鋼板)1トン116、000円である。自動車の価格はほとんど変わっていない。これでは日本の自動車産業も製造業もたまったものではない。私にはどうして企業が存続して生産を続けていられるのかわからない。カラクリがあるとはとても思えない。

 日本は加工製造部門で世界のトップクラスになった。これからは発想の転換で生き抜く方法を開拓してほしい。可能性は病院、学校、観光にもある。ただし外国人を受け入れられる体制をもっと真剣に整備しなければならない。外国人観光客に人気のあるデパートもAデパートは英語で接客、Bデパートは中国語、Cデパートはアラブ語とでもまずなれば、面白い。介護ロボット、飲み込み式医学用カメラカプセル、太陽光発電、ハイブリットや水素自動車など、資源を極力使わない分野で躍進をとげてもらいたい。

 近い将来、日本の清潔で美味しい水だって重要な輸出品になる可能性はある。水がこれから益々貴重な資源になるのは、間違いない。日本の美味しい果物だってまだまだ世界に認識されていない。各国の大使館を大いに活用し、宣伝啓蒙するべきだ。大使館は、民間の商業活動に関わらないという旧パラな考えを即刻捨てて、アメリカ、ヨーロッパ諸国の大使館なみの活動を展開するべきだ。日本にだって輸出できる“資源”は、まだまだいろいろある。元気を取り戻せ、日本!

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敬老の日 特別投稿

2008年09月15日 | Weblog
敬老の日 休日特別投稿(明日は平常投稿します) 

 妻が宮城県の病院に勤務していた時、何か病院の記念でいただいた目覚まし時計が、8月27日夜突然止まった。いただいたのが1980年だったので28年間動いていたことになる。そのうち14年間は海外生活だった。毎朝私たち夫婦はどこでも5時には起きる。目覚ましは「午前5時です。東京は○○時です」と現地の時間と東京と時間を教えてくれた。どこの国へ転勤になってもこの調子で、セットさえすれば、現地と東京の時間を知ることができた。この時計はソーラー式なので電池を取り替えれば動くというわけにはいかない。どうしようもない。あきらめて捨てるしかない。それでも苦しい海外生活を共にしたパートナーのような感傷が捨てることに抵抗を示した。捨てるか、捨てないか、幾日も悩んだ。

 そう悩んでいた時、あの人のことを思い出した。 一昨年岩手県北上市に住んでいる100歳になる菊池タカさんという元助産婦さんを訪ねた。タカさんは、知人の菊池祥雅さんの母親である。菊池さんと東北を旅した。温厚な菊池祥雅さんがどうして今のような人物に成ったのかの答えを、タカさんと会って納得した。私は今までに多くの高齢で健康な方にいろいろ話しを聞いてきた。タカさんは娘さん家族と一緒に暮らしている。まず100歳を超える健康な方は、間違いなく仲のよい家族と一緒に暮らしている。温厚な精神的環境は、健康で長生きの必須条件だと信じる。痩せている。食事を規則正しく、調理にも関わる、と同じくらいの条件だと思う。

 「毎日どんなふうにお暮らしですか?」との私の質問に「毎日同じように同じことをしています。押入れを開けて、荷物を片付けよう、整理しようと思います。荷物を出して捨てようかどうか考えます。モノを手にして目で見ると、いろいろなことを思い出します。そうすると時間がどんどん過ぎてしまいます。そうして結局何も捨てられずに、また全部きちんとしまって、元通りにします。そうして毎日が過ぎてゆきます」

 おそらく押入れはきちんときれいに整然と整理されているのは、見なくてもわかる。そしてタカさんの毎日のその行為に何とも言えない親近感を覚えた。私の妻と同じく出産に関わる仕事を40年間もされていたことも、さらにその気持ちに拍車をかけた。今でも体操と家事手伝いをきちんと毎日こなす。新聞も読む。タカさんと一緒に昼食をいただいた。ゼンマイとニンジン、里芋の煮付けを中心にした食事だった。タカさんは「こんなモノばっかし食べております」と言う。間違いなく健康食である。

 私はどの料理も美味しくいただいた。私の義兄の九州に住む母が、104歳でまだ針に糸を自分で通して縫い物をし、毎朝13種類の具を入れた味噌汁を自分で作っている話しをした。とても嬉しそうだった。

 菊池祥雅さんの『菊池タカ 百年の歩み』の66ページに平成三十年 百十歳達成見こみ、としるされている。タカさん、これからも毎日捨てる、捨てない、と押入れの前で一生懸命考えてお元気でいてください。

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あなたとそこが違う

2008年09月10日 | Weblog
 福田首相が在任11箇月で辞職を表明した。9月4日の夜9時30分だった。その会見後の質問で中国新聞の記者の質問に怒りあらわに「私は自分のことは客観的にみることができるんです。あなたとは違うんです」とぶつけた。

 私はそれでも福田首相が好きだ。どこか同級生のひとりと似ている。私はその同級生と気があった。高校で英語を教えていたI先生とそっくりだ。私はI先生を今でも尊敬している。福田首相のどこが好きかと言うと、彼の飄々とした他人を寄せ付けない醒めた感覚と、何でも言いたいことを案外正直に言ってしまうところだ。

 途中で投げ出すのは、責任がないとメディアも野党も厳しく追究する。どんなに首相になりたくても到底なることが不可能な輩が犬の遠吠えのように繰り返す。そうその気落ちが「あなたとは違うんです」という言葉になった違いない。「どんなに君が私のように首相になりたくても、あなたにはなれません。悔しかったら首相になってみなさい。私はあなたとは違うんです。ちゃんと私は11箇月本物の日本国首相をやったじゃないですか。サミットだって成功させたでしょう」

 首相という仕事は、父親の福田赳夫元首相を見ていたのでよく知っているはずだ。そう福田康夫さんは知りすぎて首相ごっこがつまらなくなってしまったに違いない。新鮮味がなかった。「こうなれば、ああなるに違いない。僕には先が見えてわかってしまうんだな。ここが辞め時だな。ハイ、辞めます」

 家系が良すぎる悲劇である。海外貧乏バッグパック旅行も、徴兵制度で軍隊経験も、飢えた経験も、お金に困った経験もない。銀のスプーンが生まれてからずっと彼の口には、入ったままなのである。誰が彼を責められようか?彼は自分でお願いしてこうなったのでは、断じてない、と言いたかったに違いない。

 「ただ日本国内では何とかなってきたのだけれど、どうも外国はわからないことが多すぎる。外遊も政府専用機でたくさんしたけれど、日本が一番いい。首相官邸だってだれが設計したか知らないけれど、人が住むところじゃない。アメリカのホワイトハウスみたいなら住んでもいいと思うけど。サミットの時だって、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語が飛び交い、世界の大統領、首相はどいつもこいつ一癖も二癖もある権力権化ばかり。僕は主催国首相であっても、まるで象徴議長でおひなさまだった。今までの日本の首相は、それでもはしゃいだフリをして時間が過ぎるのを、ハクがつくからという魂胆を持って待っていた。私はあなたがたとは違うんです。みんなが勝手に私の理解不能な言葉で楽しそうに、時にはヒソヒソ秘密めかして話しているので、静かにしろと思い切りワイングラスのフチをキンキン叩いて黙らせた。あれはいい気分だった。自分以外はみな白人なのも気に入らない。外務省の気位ばかり高い私が外国語を話さないことを馬鹿にして見下すような厭味な通訳が癪に障る。通訳介して私が本当に話したいこと=私はあなたがたとは違うんです、私は心底あなたがたが気に入らない、と言えるか!国内では感じたことがない、私の血の中に流れていない劣等感がポコンポコンとできてくるのが、たまらなく嫌だった。あのときも辞めたくなったけれど我慢して内閣改造をやってみた。でも私以外の日本の政治屋はダメなのが多い。余計なことを言っては私を困らせる。連立を組んでいる公明党もいろいろヤカマシイ!定額減税だって。この時期にできることか。やっぱり首相は辞めよう。私はみんなとは違うんだもの」 

 私はまったく福田首相が何を考えているのかわかりません。あくまで想像創作である。だって私は福田首相と違うんです。でも私は好きなんだな、あの醒めた感じが。

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駅前食堂

2008年09月05日 | Weblog
 北京オリンピック女子柔道銀メダリスト塚田真希さん(26歳)の決勝戦で敗れた後のインタビューは涙涙で言葉にならなかった。しかし次の日のインタビューでは持ち前の明るさを発揮して、「日本に帰ったら何をしたいですか?」の質問に「近所の行きつけの食堂へ行ってたらふく食べたい」と答えた。「何が食べたいですか?」に「アジフライ定食」と一発回答した。私は彼女に親近感を抱いた。私も駅前食堂のアジフライ定食が大好きだった。

 私の田舎の駅前に“駅前食堂”という朝早くから夜遅くまで開いている食堂があった。ここは夫婦ふたりで切り盛りされていた。ノミの夫婦と陰で言われるほど、奥さんは背が高く、太っていて、旦那さんは背が低くかった。年齢も奥さんのほうが10歳も上と聞いた。調理場は奥さんが担当して、旦那が客をあつかった。奥さんは無愛想なので良い組み合わせだと思っていた。ポマードで固めてオールバックにした旦那は、いつもテカテカした顔をしていた。酒屋の前掛けを大きくせり出した腹に巻いていた。手持ち無沙汰の時は、いつも両手の親指を前掛けの紐の中にさしていた。客が入ってくると「いらっしゃい」と独特のアクセントを“しゃ”において迎える。「何あげる?」と注文をとる。客の注文を調理場の奥さんに伝える時は、「おかあさん、カツ丼一丁!」と声をかける。調理場からは何の返事も返ってこない。何と言っても凄かったのは、この旦那、ラーメンを客に出す時、お盆を使わずに、直接素手で熱いドンブリを持った。親指がスープに入っても平気だった。「ハイ、お待ち!」と無造作にテーブルにラーメンを置く。なじみの客も初めての客も、どんな旦那の行動も、彼の風采、言動に圧倒されているので、黙って全てを受け入れる。安くて味もそこそこなので客足は途絶えない。朝の納豆定食をはじめアジフライ定食、鯖の焼き魚定食、鯖の味噌煮定食などいつも変わらぬ同じメニューで営業していた。値段も安く繁盛していた。味も悪くはなかった。

 新幹線が開業しても駅前ビルの駅前食堂はノレンを降ろさなかった。その後駅前の再開発事業とやらで、駅前ビルが移転新築されて古いビルは壊された。50メートルほど奥まったところに、以前の古びた4階建てのビルとは、うってかわって7階建てのりっぱなビルが建った。そこのどこを探しても、もう駅前食堂はない。とうとう閉店したらしい。私の田舎が、ひとつまたひとつと消えてゆく。

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本が学校

2008年09月02日 | Weblog
 作家の出久根達郎は15歳で上京して古本屋の住み込み店員になった。ある日彼は古本屋の主人に夜学へ通わせてもらえないだろうかと頼んだ。断られた。主人は言った、「ここは物を売る店だから、昼間だけ働いてもらうわけにはいかない。古本屋には本がある。この本が学校であり、教師と考えればよい。すると本の数だけ学校があって、教師がいるわけだ。君はよりどりみどりである。こんな幸せがあるか。古本屋は学校と教師を売っているんだ」(ベスト・エッセイ2008日本文藝家協会編『不機嫌の椅子』136ページ)

 これを読んだ時、ロゼッタ・ストーンを解読したフランス人シャンポリオンのことを思った。シャンポリオンは本屋を営む家に生まれた。学校では先生から相手にもされない生徒だったが、家でシャンポリオンは本を貪り読んだ。結果多くのの言語をマスターしてしまった。語学の天才であったことは、疑いもないことだが、本屋に生まれ育ったことがシャンポリオンの才能を後押ししたに違いない。彼のように学校でなく、自身で本から学び偉大な業績を残した先人は、数知れない。

 私は古本屋の主人が言うとおりだと納得できる。小学校の時、父親が「本だけはどんなに買ってもいい。山崎書店でなら、言っておいたからツケで買ってきてもいい。但し一回一冊。読み終わったら、その本の内容を俺に話せ。合格したら次の本を買ってもよい」と言った。最初は父親の言っていることが理解できなかった。ツケも好きではなかった。父親に負担をかけまいとして、新聞配達を2年間した。なるべく自分の金で本を買おうと心がけた。この父親の計らいは、私を読書に夢中にさせた。小学校高学年の時、学校の図書館の本の借り出し数コンテストで優勝したこともある。毎年本屋で買った『少年朝日年鑑』の熟読のおかげで、中学3年間社会科の試験は答えらない問題がなかった。まさに“本が学校”の実体験であった。国語も読解力が向上したおかげで成績は良かった。ただ数学は先生が嫌いでまったく中学3年間数学の成績は話しにならなかった。

 本の好き嫌いも激しかった。気に入った著者の本は立て続けに読み、嫌いになった著者の本には見向きもしなかった。今でもその傾向がある。本屋でなら何時間でも過ごせる。図書館も大好きである。本に囲まれていると安心できる。

 再婚した妻が本の虫なのでお互いに情報交換するのも楽しい。妻は時々朗読会を開いてくれる。彼女が学ぶところがあった箇所、感動した箇所、私にどうしても知ってほしいこと、を読んで聞かせてくれる。私たちは、本の学校の同級生だと思っている。これからも本の学校で学び続けたいものである。

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