団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

爽快な季節

2020年09月30日 | Weblog

  秋は良い季節である。冷房も暖房もいらない。家の外も中も快適。

 2001年に心臓バイパス手術を受けた。チュニジアの首都チュニスに住んでいた。手術を受けるために日本に戻った。妻は一人、チュニスに残った。手術を受ける病院の手術室が改装工事で手術が数か月遅れた。チュニスは地中海式気候で冬の数か月以外ずっと過ごしやすい気候だった。日本に戻って長野市の病院へ入院した。乾燥した気候のチュニスと違って、長野は、湿気が高かった。手術が終わって、チュニジアに戻った。過ごしやすい気候が心地よかった。まもなく転勤が決まった。2,3の候補の中から、私の心臓に何か起こった時、すぐに日本へ戻れるようにとロシアのサハリンを選んだ。地図の上では確かに近いが、実際住むととんでもなく日本が遠い国だと感じた。加えて冬の寒さは、零下40度になる極寒の地だった。知らなかったとはいえ、大きな間違いだった。結局、妻は職を辞して、帰国することになった。

  今住む集合住宅を買ったのは、15年ほど前だった。サハリンにいた時、妻が新聞の広告で集合住宅の広告を見つけたのがきっかけだった。先に日本に戻った私が、その集合住宅の販売会社に電話した。すでに完売になっていた。あきらめきれず後日再度電話した。すると一軒キャンセルが出たと言われた。早速サハリンにいた妻に連絡した。そうやって入手した終の棲家である。

  広告には、夏涼しく冬温かいとあった。私の主治医から、心臓のために温かいところに住みなさいと言われていた。住み始めた頃は、確かに冷房を使うことなどなかった。南北の窓を開けると、北側の川風が家の中を通り過ぎた。ところが年を追うごとに、この地の気候も大きく変わっていった。数日留守にして戻ると、私のパソコンが部屋の温度が上がりすぎて、パソコンが壊れ、記憶をすべて失った。地球の気候変動がじわじわと生活を、脅かし始めた。私たち人類は、自分の首を真綿で閉めるように、地球の環境を壊してきた。生活が便利になった反面、それを維持するために環境を犠牲にした。そのツケが、ゲリラ豪雨、猛暑、台風の巨大化となって戻ってきている。

  今年の夏は、暑かった。コロナ感染の危険に熱中症が追い打ちをかけた。冷房を使うと、以前、私は頭が痛くなった。エアコンをダイキンの最新型に買い替えてから、頭痛がなくなった。冷房機能の中に“ドライ”という表示がある。これが私にちょうどいい。日本の暑さは、湿気の高さによって不快なものとなっている。冷房は嫌いな私だが、“ドライ”機能のおかげで、この夏、ほぼ毎日エアコンの厄介になった。熱帯夜でもタイマーで3,4時間セットすれば、快適に眠れた。罪悪感に悩みながらも、地球の環境保全より自分の命を優先させた。

  やっと猛暑だった夏が過ぎて、秋の気配が感じられる。散歩の途中、川の上にトンボが増えた。夜、家の外から、真夏のセミに変わって、草むらの虫の音が聞こえてくる。虫の音を聞こうと窓を開ける。気持ち良い風と虫の音。暑いと家の中でウォーキングマシンだが、散歩で外を歩ける。コロナに勝つには、免疫力を向上させなければならない。この爽やかな季節を迎えて、何より嬉しいのは、自然のままに生活できることである。何かの宣伝で「何もたさない…」というのがあった。わかる、その気持ち。この集合住宅の新聞広告の窓を開けた爽やかさが、当時よりずっと短くなってしまったが、まだ残っていることを嬉しく思う。


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正代のfive o'clock shadow 午後5時の影

2020年09月28日 | Weblog

  27日日曜日、大相撲秋場所の千秋楽だった。週日は妻のために、録画しておき、妻が帰宅後一緒に観戦する。スポーツ観戦は、実況放送が一番である。録画だとどうしても時間差が生じる。贔屓力士の結果が出ていると思うと、カンニングではないが、こっそり結果を知りたくなる。子供の頃、多くの子が夢中になった漫画週刊誌を、誰よりも早く買って読むことが流行った。本屋によっては、1日他の書店より早く店頭に並べる店があった。今考えれば、馬鹿らしい。でも夢中だった。法はいくらでもある。ニュースを観るか聴く。パソコンでネット検索すればいい。そこを我慢して妻の帰りを待つ。妻とまっさらな気持ちで一緒に楽しみたい。

  疲れて帰宅した妻にとって、大相撲の観戦は、良い憂さ晴らしになっている。応援が凄い。批評が辛辣。私も便乗して言いたい放題。関取にだけではない。NHKテレビの相撲実況アナウンサーにも解説者にも厳しい。NHKには、相撲実況がうまいアナウンサーはいないのか、と二人で口をそろえて吠える。皆、力士が懸命に各々の取り組みをしているのに、その日、もしくはこれからの好取組とかで、目の前の取り組みをすっぽかして、そちらの取り組みや人気力士に話題を持っていくのは失礼だ。私は相撲の実況も、マラソンの増田明美さん並みの選手を尊重した、それを伝えようとする熱意と研究心が必要だと思う。できれば増田さんが相撲の解説や実況をしたらどうだろう。解説者も舞の海がやたらに出て来るが、裏で何か大きな力が働いているのではと、勘繰りたくなる。

  27日午前中、村の駅へ野菜を買い出しに行った。午後は2時間かけて二人で買って来た野菜の下ごしらえをした。早めに風呂に入った。千秋楽は、30分繰り上げになるので、夕飯の支度をして、4時半から観戦を開始。本来なら音声を消して、映像だけで見ても良かったのだが、解説者が好きな北の富士だったので消さずに観戦した。妻はジントニック、私はキリンの「一番搾り」250cc。いつもなら135ccの超小缶だが、千秋楽なので特別だ。さすが千秋楽、好取組かつ力士も最後の力を振り絞っての熱戦が続いた。

  2敗で優勝争いの先頭に立っているのが正代。3敗に貴景勝と翔猿。夫婦二人だけの居間。ガラスは全て2重ガラス。音漏れの心配なし。アルコールもまわってきた。言いたい放題に拍車がかかる。そして優勝が決まる、正代と翔猿との一戦。相撲の仕切り、普段は邪魔でも今回のような優勝がかかっていると、いやがおうでも気持ちの高揚に油を注ぐ。小心者の私は観ていられない。妻は凝視。待ったなし。行事の軍配が返った。空白。正代が勝った。翔猿、善戦。私たちも両力士に拍手。翔猿の悔しそうな顔。勝った正代が土俵下に降り、天を仰いだ。テレビカメラのレンズが正代の顏を拡大。正代の口まわりにfive o’clock shadowが浮かんでいた。時刻は5時半になろうとしていた。男性が、朝、髭を剃っても、午後5時くらいになると薄っすらと青っぽい髭の影がでてくる。多くの女性は、働く男性のfive o’clock shadowに魅力を感じるという。

  私は男性だが、それでも正代のfive o’clock shadowを美しいと思った。言葉はいらない。あの髭が正代の全てを物語っていた。正代、おめでとう。


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生ハム

2020年09月24日 | Weblog

  生ハムという名は、すんなりと受け入れられなかった。生という字が、生の豚肉を連想してしまう。豚肉はよく火を通して食べるものと教わった。生の豚肉を連想すると食欲が失せる。

 もちろん子供の頃、生ハムの存在さえ知らなかった。ハムといえば、高級品でなかなか口に入らなかった。大好きなポテトサラダに入っていた魚肉ソーセージが、ハムの代替品だった。丸善魚肉ソーセージのピンク色は、食欲を誘った。後にこの魚肉ソーセージには、発がん物質が多く含まれていたと知った。特にあの独特のピンク色は、有害な発色剤だったそうだ。

 生ハムは一般的に知られた食材ではない。私もイタリアで生ハムの美味しさを知るまで、目の前に生ハムがあっても食べたいと思うものではなかった。生ハムにほれ込んだのは、40代後半になって、ベネッツアのレストラン『トスカーノ』の生ハムを食べてからだった。それからイタリアへ行くたびに『トスカーノ』へ行った。イタリアの肉屋で生ハムを買って住んでいた国へ、運んだ。生ハムの産地は、パルマとサンダニエルが有名だ。私はその両方へ行って、現地のレストランで生ハムを満喫した。特にサンダニエルの生ハムが私に一番合った。

 サンダニエルの小さな村は、イタリアからオーストリアへ抜ける国道から小一時間かかった。村の中心街には、たくさんの生ハムを供するレストランが立ち並ぶ。ローマの肉屋で紹介されたレストランへ入った。ぽっちゃりした女主人が経営するレストランだった。早速冷えた白ワインと女主人が勧めた生ハムの盛り合わせを注文した。出てきた皿を見てびっくり。なんと高知の皿鉢料理のような大皿。皿にはちょうど旬だったイチジクが、びっしり敷き詰められていた。このイチジク、ビオレソリエスという品種で黒イチジクと呼ばれる。女主人が、豚の腿が丸ごと生ハムになっているものが乗っているカートを、押してテーブルの脇に来た。イチジクが並ぶ皿の上に、切った生ハムを並べて行く。生ハムは薄く切れば切るほど良いのだ。見事。芸術である。素人では生ハムは切れない。もちろん包丁も特別な物でなければならない。女主人にあまりに美味しいので、追加の注文をしたいと言った。彼女は私を抱きしめ、「日本から来て、気に入ってくれてありがとう。これは私からのプレゼント」と言ってもう一皿切り分けてくれた。

 生ハムといえば、あのサンダニエルのレストランで食べたものが、最高だ。忘れられない。もう海外旅行には行けない体になってしまったが、サンダニエルの生ハムを、可能ならば、もう一度食べたい。日本でも最近生ハムはやっと知られるようになってきた。腿丸ごとを客の前で切り分けるレストランもあるらしい。私は、成城石井でサンダニエルの生ハムのパック商品を買う。すでに切られて売っているので風味は落ちるが仕方がない。日本の豊富な果物と一緒に食す。柿、梨、メロン本当に良く合う。

 以前アメリカで39年暮らし、日本に戻り、国際基督教大学の教授を勤めた故安積仰也さんを、我が家に招いた。生ハムを供した。安積さんは、手をつけなかった。私が良いと思うものを、人に圧しつけてはいけないと知った。安積さんは、生ハムの生をそのまま受け止め、豚肉を生では、食べられないと、いや食べてはいけないものと判断したと、後で話してくれた。私がきちんと“生”というが、1年近く塩漬けされていて、決して調理してない意味の“生で”と違うことを説明するべきだった。アメリカでの生活が長かった安積さんさえ、生ハムを食べたことがなかった。その安積さんも亡くなってしまった。生ハムを口にするたびに、いろいろな記憶がよみがえる。私は、生ハムを知ることができ、味わうことができ、幸せだと思う。

 コロナ禍、友人たちの誰とも一緒に生ハムを肴にワインを飲むこともなくなった。寂しい。生ハムを今が旬の普通のイチジクと一緒に夫婦で食べた。いつになったら大皿に黒イチジクを並べて、イタリアの友人が贈ってくれた、生ハム専用ナイフで、丸ごと生ハムを切り分けて、皆で楽しむことができるのか。

 


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行ってみなけりゃ、何が買えるかわからない。

2020年09月18日 | Weblog

  3カ月検診で東京へ行ってきた。コロナ騒ぎで、普段家から買い物以外出ていない。恐る恐る電車に乗った。目に見えない新型コロナウイルスに、JRも真剣に取り組んでいるのだろうけれど、不特定多数の乗客が、入れ替わり立ち替わり乗ってきたり降りてゆく。やはり妄想してしまう。なにせ数日前、私自身がコロナに感染した夢を見たばかり。

 コロナ以前は、この3カ月検診が楽しみだった。もしや癌が発見されるのでは、血液検査の結果が悪化しているのでは、脚の血管狭窄検査で、更に狭窄が進んで、脚を切断されるような事態になっているのではと、勝手に妄想する。それを払しょくするために、築地市場やデパ地下へ行く。同時に普段自分が住む近くでは食べられない食事をする。食いしん坊の私は、もろもろの思い煩いを食い気で克服してきた。今はコロナで、それができない。今回も病院からとんぼ返りした。

 今年の2月、ダイアモンドプリンセス号で、新型コロナウイルスの感染が始まってから、私の楽しみは大きな制約を受けるようになった。ほとんど毎週末、祭日に友人を招いての設宴が、なくなった。食の狩人を自負する、私の出番がなくなった。私は調理に関して、たいした腕は持ち合わせていない。しかし食材探しには自信がある。私の献立や誰を招くかを決めるのは、どんな食材を手に入れたかによる。客の好みを知っているからだ。客を誠意を持ってもてなし、喜んでもらえれば、いろいろな話を聞かせてもらえた。

 海外で招いたのは、妻の職場関係者、日本からの駐在員、外国人、現地の人々、など多岐にわたった。私のような立場でも、与えられた職分を一所懸命に勤めれば、認めてくれる人もたくさんいることが私をやる気にさせた。買い出し、調理、設宴に私は、全力投球した。それを妻が後押ししてくれた。

 暮らした海外の国々での経験が生きている。妻の海外勤務に、私は自分の仕事を辞めて同行した。主夫になろうと努力した。私の陰口をきいていた人たちも、家に招いて食事して話しているうちに、仲良くなった例も多々ある。現地では、日本人がなかなか口にできない食材を探した。市場への複数掛け持ちは、日課になった。半日は買い出しで終わった。市場は、魅力ある活気に満ちた場所である。行って、自分の目で見なければ、何が入荷されているかわからない。そこが市場巡りの醍醐味である。私は市場を意気揚々と歩き回った。顔見知りがたくさんできた。良い情報もたくさん手に入った。それはどこの国へ転勤になっても続いた。また当番で担当した海外への買い出しでは、思い切り日本の食材とその国でしか入手できない食材を買い込んで任地に戻った。自分たちの休暇で訪れた国でもそうした。日本に帰国した時は、築地で魚を仕入れて、氷詰にして運んだ。

  私はどこの国へ行っても、まず市場と動物園があれば、必ず行く。現地の人々の生活を知るには、市場と動物園が一番だと思っている。市場では人々の食生活を、動物園では、その国の経済状態を、直接、垣間見られる気がした。実際に住んだ国々では、まず市場を周る。どこの市場で何を探すか目星をつけた。偏見や差別があっても、客と売り手の関係は、金のやり取りで一件落着、即解決できた。それは痛快だった。

  コロナ禍、買い物もままならない。それでも、今住む近くに規模は小さいが、私の好きな市場がある。村の駅という即売場もある。既存の流通機構では、扱わない物が突然出て来るのである。その発見の味をしめたら、食の狩人をもうやめられなくなる。スーパーやデパ地下では、まず経験できない。先日、市場で活きたドウマンガニを買えた。大きな爪が特徴。このハサミなら人の指を難なく切り落とすという。味も良い。でも悲しいかなコロナで友人を招けない。夫婦二人だけではモッタイナイ。あとどのくらい、外出や設宴を我慢すればいいのか。近くに住むイタリア人の友人からメール。「We miss your dinners…」 私の返事「We miss you so much.」


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相撲力士が内閣総理大臣になったなら…

2020年09月16日 | Weblog

 安倍首相の突然の辞任で政界は、大騒ぎ。そんな中、大相撲の秋場所が始まった。応援する朝乃山がなんと3連敗。でも初日、2日目はそれほど悪い相撲ではなかった。3日目の相撲は、何か精神的に迷いがあるような負け方だったので、この先心配だ。

 テレビの大相撲中継が終わった後、ニュースになった。自民党の4役とやらが決まったらしい。平均年齢が71.4歳とか。コキゾウ(古稀+3歳)の私と、さほど違わない。少し前まで観ていた、大相撲の関取との格差に愕然。皆、一様に身長が低く、髪の毛も薄い。表情もどちらかというと強面。さっきまで闘っていた力士たちは、大きな体に大銀杏の髪型、締め込み一本でほぼ裸。激しく体と体をぶつけあう格闘技。なのに厳格な神道の作法や伝統を重んじる。私はふと思った。もし相撲取りのような人が日本の内閣総理大臣、大臣や4役になったら…。

 以前アメリカ人が私に言った。アメリカ大統領になる人は、WASPで身長が6フィート以上で、歯が白くて歯並びが良くなければならないと。WASPとはW(白人)AS(アングロサクソン系)P(プロテスタントのキリスト教徒)。確かに歴代の大統領をみると、その範疇に当てはまる。ただケネディ大統領から変わった。彼は、アイルランド系でカトリックだった。それから、ついにオバマ大統領が、黒人初のアメリカの大統領になった。人種、宗教が相当しなくても、いまだに身長や歯の条件は、残っているようだ。

 日本は、身長も宗教も歯も壁にならない。なるのは、世襲という壁である。よく政治の世界に入るには、3バンが必須であると言われている。地盤・看板(肩書)・鞄(金)。そういうことで言えば、日本はまだ封建時代のままなのだ。私はずいぶん前に日本の政治への関心を失った。選挙と納税は、国民としての義務だと信じて忠実であることを守っている。不満はある。でもどうにもならないと諦めてもいる。

 私は政治に関わる人たちが、テレビに映ると点検する。どんな背広を着ているか。ネクタイの趣味。靴が映れば、靴。ワイシャツ。ベルト。髪の毛の手入れ。歯並び。歯の色。自分の事はさておき、よく他人の評価などできる。私が今一番おしゃれだと思う男性は、NHK・BSのワールドニュースに出てくるフランスの男性アナウンサーだ。彼の服装は、素晴らしい。背広、ネクタイ、ワイシャツ。特にワイシャツの着こなしがいい。センス抜群。残念ながら、日本の政治関係者に、私を感心させる人がほとんどいない。麻生財務大臣の背広とワイシャツは、立派だと思うぐらいである。

 身長や歯並びなどは、決して良い政治家の条件ではない。もっと大事なことがあることは、私だって百も承知している。しかし日本という国が一人の内閣総理大臣によって、どうこうなることはない。日本の政治は、党利党略で動く。であるならば、誰がトップに立っても同じ事しか起こらないのではと思ってしまう。

 好きな朝乃山、貴景勝、正代の相撲を応援して思った。もし内閣総理大臣が彼らのような関取だったら…。まず世界の日本を見る目が大きく変わることは間違いない。羽織袴に大銀杏姿のまま首脳会談でどこの国と対峙しても、並んで写真を撮っても、まず見劣りしない。相手がとんでもない要求やいざこざを起こすような事を言ったら、立ち合いで相手を睨むように目を向ければ、相手はひるむ。会談がうまく行って、握手する時、満面の笑顔は、世界のどんな首脳をも魅了するに違いない。小市民の私は、そんな夢をあと12日間、贔屓の力士を応援しながら、見させてもらうことにする。

 


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消せるボールペン

2020年09月14日 | Weblog

  およそ55年前、私は日本の県立高校からカナダの私立高校へ移った。最初に受けた試験で、すべての科目が0点と記されて戻って来た。日本でも成績は、大したことがなかった。しかしさすがに0点を取ったことはなかった。0点の説明を受けにまず校長に会いに行った。そこでやっと原因がわかった。私のすべての答案用紙が0点にされたのは、私の答案用紙がすべて鉛筆で答えが記入されていたからだった。その高校では、試験を受ける際、鉛筆の使用を禁止していたのである。不正をさせないためだと言われた。私は、カナダの高校の試験で日本の高校にいた時と同じく鉛筆を使った。校長裁量で私の答案用紙は、採点をやり直され、事なきを得た。ところ変われば品変わる。郷に入っては郷に従え。カナダの学校に入って、早速、その洗礼を受けた。

 話がそれるが、そのカナダの高校で、試験やレポートなどすべての採点は、大学部の学生が受け持っていた。各学科の担当教師は、問題作成と採点後の確認をする。教師の負担を軽くして、大学部の学生の学費を軽減できた。各学科の教師が、自分を補助する大学生を選んでいた。優秀で信用できる学生を選考していた。私はとてもよい制度だと感心した。しかし日本では、とても普及しない制度だとも思った。

 試験で0点になった後、私は筆箱から鉛筆を出した。学校の売店で購入したボールペンを使うようになった。不満があった。ボールペンといっても、学校の売店で売っていたのは、あまり質の良いモノではなく、インク漏れがひどかった。鉛筆に慣れていたので、ボールペンに違和感を持った。しかし時間が経つにつれ、鉛筆の存在さえ消えていった。

 時代は進化した。コキゾウでもパソコンを使う。メール機能で切手を貼る手紙を書くことも少なくなった。ボールペンとも縁が遠くなり、手書きをすることがどんどん減った。古希を過ぎた頃から、目が疲れやすく、集中力が落ちた。好きな読書もままならなくなった。テレビも観ているのが億劫になった。ラジオをよく聴くようになった。好きな放送局も『過払い金』と『B型肝炎』の連呼でうっとうしい。私の時間つぶしに、彗星のごとく現れたのが、パズルである。漢字パスルに夢中。これを解いていると、時間が過ぎるが早い。没頭できる。クラシックのCDをかける。至福の時である。

 最初パズルの答えは、鉛筆で書きこんでいた。間違えれば、消しゴムで修正していた。ある時、文房具屋で消せるボールペンを見つけた。どうせ大したことはないだろうと思いつつ購入した。使える。消せる。凄い。ボールペンで書いた字なのに、ボールペンの頭の白い部分で字を擦ると、あら不思議書かれていた字が消える。何という発見!あまりの驚きで、書いては消す、を繰り返した。

 パイロット社の消せるボールペン『フリクション ボール』のおかげで、イライラすることなく遊んでいる。カナダでのボールペンを使わなかった試験の0点を思い出す。このボールペンを、当時の学校関係者が知ったら、どんな顔をするだろう。

 日本の細かい所にまで気を配れる技術は、凄い。優れた商品が、世界に普及することを願う。ただ難点は、このボールペンのインクの減り方が、異常に早いこと。おそらく特殊なインクの製造コストが高いのだろう。それにしても、人生最終章に突入した、団塊世代のコキゾウを名乗る私でも、次々に起こる技術革新の恩恵にあずかれるのは、幸せなことである。望むは、一日も早い、安全なコロナのワクチンの完成である。きっとできる。消えるボールペンさえ作った人間なのだから。

 


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バナナ

2020年09月10日 | Weblog

  妻が叫び声をあげるのは、たいてい虫や猿を見つけた時である。先日私より先に寝床を出た妻が台所で叫んだ。虫か、猿か。でもいつもと何か違っている。「キァーっ」に恐怖が含まれていない。ゼロ。むしろ「…ァ…」に笑いが含まれているように聞こえた。

 妻が「これ見て」と何か手に持ってきた。目を凝らして、妻の手にぶら下がっているモノを見た。長さ20センチ幅2センチくらいの3本のモノのてっぺんを、妻がつかんでいる。ひも状。両端が黒ずんでいるが、黄色。バナナの皮か!でも朝早くからバナナの皮ぐらいで大騒ぎするかと、ぶつくさ言いながら、寝床を出て、妻の後をついて、台所へ行った。調理台の上に3本のバナナが、横たわっている。無惨に上から下まで、一筋皮がペロリと剥けている。おそらく夜中の早いうちに剥け落ちたのだろう。皮の端が黒ずんでいる。バナナは、皮も実も空気に触れると、色が変わる。

 バナナは、大きな房を、だいたい3、4本に切り分けられて、売られている。買って来たバナナは、冷蔵庫に入れない。バナナの連結部分にフックを通して、そのフックを道具掛けに吊るす。ここ十何年間、ずっとバナナをこの方法で保存してきた。春夏秋冬同じだ。一度だって今回のように、束のバナナが全部の皮が剥けて落下した事件は起こらなかった。偶然だろうが、こんなこともあるのだ。妻が声を上げたのも無理はない。

 私が子供の頃、バナナは桃の缶詰と同じで、病人の特権のようなものだった。今のように普通に買えるものではなかった。子供の頃、バナナ一本丸ごと食べた記憶がない。生まれて初めて、上田市のケーキ屋兼甘味喫茶店の『うさぎや』で、フルーツパフェを食べた時の事は、忘れない。この世に、これほど優雅上品洗練された食べ物があるとは。当時、我が家のおやつは、薄焼きやナスのオヤキなど、茶色がかった一色のくすんだ色の物が多かった。フルーツパフェは、色とりどりで、特に薄く切られた黄色い皮つきのバナナに魂を奪われた。

 高校2年の時、カナダへ留学した。カナダへ行けば、バナナをたくさん食べることができると、ビーフステーキに対するのと同じ妄想を抱いていた。学校の食堂でバナナがどんな形ででも出されたことは、一度もない。留学期間中バナナを食べたのは数えるほどだった。スーパーでは、普通に売られていた。日本にいた時と同じくらい、バナナは、縁遠いものだった。

 再婚して妻の海外勤務に同行した。最初の任地のネパール、さぞかし熱帯フルーツであるバナナがたくさんあると思ったが、それほどでもなかった。次の任地のアフリカのセネガルにもバナナは、多くなかった。次の旧ユーゴスラビアは、当時国連による経済封鎖で、多くの物資が密輸でまかなわれていた。市場には、バナナが房でたくさん売られていた。ネパールやセネガルより、はるかに多かった。次のチュニジアへ移ると、バナナをほとんど見かけることがなかった。贅沢品と言われ、輸入がほとんどされていなかった。フランスのスーパー「カルフール」が進出してきて、バナナも並んだ。その後、ロシアのサハリンへ転勤になった。あの厳寒地でも、市場には、バナナがたくさん売られていた。おそらくバナナがどれだけ売られているかは、その国の人々の食文化や気候帯に影響されているのだろう。

 日本に帰国してから、我が家では、毎朝バナナを欠かさない。バナナにはカリウムが多く含まれている。カリウムが不足すると、怒りっぽくなるという。妻は、毎朝、私がバナナを食べるのをじっと見て確かめる。私の別名は、瞬間湯沸かし器。効果はいまだ不明。

 


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ゆで卵

2020年09月08日 | Weblog

  妻が出勤すると私は家に一人になる。コロナ禍以前と変わりない。しかしやろうと思えば、何でも好きなことを自由にできた。もしかコロナに感染したらという妄想はこれぽっちも存在していなかった。コロナウイルスの存在さえ知らなかった。脳裏に癌、脳梗塞、心臓発作、テロ、交通事故、巨大地震、台風、ゲリラ豪雨による死の恐怖が、時々頭をもたげることはあった。しかしそのどれも一過性で、常時私を支配下に置くものではなかった。コロナは違う。コロナの何が恐いって、得体が知れないこと、全世界を巻き込んでいること、治療法もワクチンも薬もないことだ。そんな、コロナに魂を抜かれたような日常の中で、小さな些細なことに喜びを感じることがある。

 週日の昼食は、いつも孤食である。一日2食で済ませられる人がいるという。私はダメ。午前11時を過ぎれば、腹が鳴るほど空腹になる。何しろ我が家は朝食が午前5時半である。たいして運動も仕事もしないのに、食事時が近づいてくると、腹だけは空く。私の孤食ランチは、あまりものをチンすれば済む。先日、無性にゆで卵を食べたくなった。

 ニワトリの卵は、私の人生を語るのに、なくてはならない脇役である。戦後、団塊世代のはしりとして生まれた。誰もかれもが貧しい時代だった。家族6人で生卵1個をそれぞれのご飯にかけた。醤油をたくさん入れて増やした。それを母ちゃんが6人に分ける。父ちゃんには黄身を多くいれた。あと4人の子供は、自分のご飯にどれだけ黄身が来るか目を拡げて見張る。一喜一憂もつかの間、全員、箸で白いご飯と卵をかき混ぜ、万遍なく薄い醤油色に変える。ガツガツと食べる。私は見た。母ちゃんが、5人に配り終わった卵が入っていた茶碗にご飯を入れたのを。生卵かけご飯は、ご馳走だった。1カ月に1度食べられたかどうか。

 卵焼きやゆで卵は、遠足、運動会の時ぐらいしかお目にかかれなかった。なぜか遠足に持って行ったゆで卵の殻は、スルッと剥けた気がする。友達みんなの卵もそうだった。おそらく当時の流通状態から考えて、結構時間が経った卵だったのかもしれない。古いとか新鮮だということより、わいわいがやがや地べたに腰をおろして、緑色の海苔のオムスビとゆで卵は美味かった。つやつやと太陽の光を浴びた、ツルツルな真っ白なゆで卵は、口に入れるのがもったいないと思うほどだった。

 2020年、もう9月になった。今年のほとんどをコロナの自粛巣ごもり生活を続けてきた。戦後の貧しかった時代と違って、今では1パック10個入りの卵をためらいも躊躇もなくスーパーで買える。卵を2個、水を張った鍋に入れ、火にかけた。湯が沸騰すると、鍋の中でコトコト卵が踊っていた。沸騰して4分。タイマーが鳴る。鍋を流しに移す。水を注いで温度を下げる。流しの縁で卵に割れ目を入れ、水道水を流しながら、殻を剥く。ほとんどの場合、卵の殻は上手く剥けない。薄皮が絡んだり、白身がついたまま剥がれたりする。

 その日、何と殻がスルスルと気持ちよく剥けた。最初の卵の殻が、いとも簡単に完璧にするりと剥けた。嬉しくなった。一気に2個のゆで卵の殻を剥いた。これも成功。こんなこともあるのだ。コロナに押しつぶされそうになっていた自分が情けない。ゆで卵とリンゴだけの簡単な昼食が、まるで大手術の後の最初の食事のように私を唸らせた。

 


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誤嚥

2020年09月04日 | Weblog

 最近、お悔やみのニュースに「誤嚥性…」の記述が多い。私には関係ないであろうとずっと思っていた。ところが数年前から私自身、誤嚥するようになった。そうコキイチ(古稀+1歳)を過ぎた頃だった。初めてこれが誤嚥かと認識した。息が止まるかと思った。喉から口に、拳が突き破ってくるようだった。苦しい。嗚咽さえ頭に血が上り、目が充血した。涙が出た。喉から口に、拳が突き破ってくるようだった。自分が後期高齢者だなんてチャンチャラおかしい。その強がりがあの日スーっと消えた。

 正月に老人が餅を喉に痞(つか)えて亡くなる。私は、それも誤嚥だと思っていた。妻に尋ねると、誤嚥は物や液体が気管支から肺に入ることで、餅を痞えるのは、気管支の前方の食道を塞ぎ息ができなくなることだそうだ。私は餅が好きだ。餅を食べる時は、細かくして食べるようにしている。幸い、まだ餅を痞えたことはない。

 体の中がどうなっているかをほとんど知らない。ただ人間の体は、未知の世界で不思議なものとしてしかとらえていない。年齢を重ねるごとに、あちこち不具合が出てきた。若い頃は、感じたこともない、痛みや誤作動が出てきた。誤嚥だけではない。今、難儀しているのは、脚の血管の狭窄によるふくらはぎの痛みと、足裏の神経感覚異常である。両方とも糖尿病による合併症が原因と医師に言われている。歯の、視力の、聴力の衰えなど言い出せばきりがない。

 今年はコロナ禍で自宅待機が続いている。家族にも友人たちとも会えない。家にばかりいると、部分入れ歯は入れない、着る服には無頓着になるので、ますます爺むさくなってしまう。夏の猛暑がやってくる前は、雨ばかり降った。散歩さえままならなかった。コロナと熱中症。これらは老人の天敵である。加えて糖尿病の持病を抱えている。ますます妻以外の誰とも会うことがない。暑さと湿気の高さで家にいる時は、上はランニングシャツ。下はジム通いの時使ったボクサーパンツ。他人の目が無いのをこれ幸いと、まるで無人島での生活のようだ。玄関のチャイムが鳴れば、運動会の借り物競争で慌てふためくように、上着を探し着て走る。朝パジャマを着替えるが、パジャマも着替えた服装も大した違いがない。あれほど服装に気を使っていた見栄坊が、すっかりなりを潜めた。

 熱中症対策で水をたくさん飲む。コロナ対策で外出して帰宅すると、手洗いとうがい。誤嚥の危険が増えた。私はせっかちでおっちょこちょい。加えて、ながら族の酋長になれるであろうほど、一つの事に集中できない人である。いつも妻に叱られる。妻は一極集中の人である。読書は読書だけ。勉強ができたのも、その集中力のせいだったに違いない。私は本を読みながら、ラジオを聴いたりCDを聴く。子供の頃からそうしてきた。成績が良くなるわけがなかった。

  誤嚥は、喉の機能の低下もあるが、食べること飲むことに集中していないから起こると、妻は言う。だからテレビを観ながら夕食をとるも良くないと反対する。できるだけ一度に一つの事だけするように努力している。お陰で誤嚥する頻度が少なくなってきた。私なりの誤嚥を防ぐコツも見つけた。液体を飲み込む時、ちょっと体を前倒しにする。姿勢も誤嚥に関係があるらしい。いろいろ試して、誤嚥しないように気をつけていたい。

 それにしても世界のトップで、いまだに活躍している、またこれからそうしようという人たちに高齢者が多い。あの人たちの体には、私のような老化が存在しないのだろうか。誤嚥とは無縁なのだろうか。きっと彼らは凄い秘薬を見つけたに違いない。


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帰らんちゃよか

2020年09月02日 | Weblog

 我が家では、NHKの7時のニュースを観ながら、夕食をとる。コロナ禍が日本を襲って、この6カ月毎日、テレビのニュースに日本地図が示され、どこどこの都道府県で何人の新規感染者が出たと報告される。それを観て、妻は「しかし東北は少ないね。岩手は頑張ってる。あと山陰と四国と鹿児島かな。」 何かの競技や競争ではないのだから、このような全国高校野球甲子園選手権ではあるまいし、と私は思う。やはり日本は、共同社会の呪縛にとらわれているとしか思えない。

 岩手県が長い間、感染者が出ず、日本中の注目を集めていた。ネットのニュースに興味深い投稿が紹介された。岩手県出身のけいし(@pandafun20)さんが、岩手県に住む父親にLINEで「そろそろ帰っていいかな」と打った。父親から「絶対帰るな。岩手1号はニュースだけではすまされない」と返って来た。ずっと岩手県で感染者が出なかったことが、このようなやり取りになったのであろう。しかしこの事例は、日本が村社会であることを如実表している。親子なのだから、会いたい気持ちは強い。でも他人の目が気になる。私は、島津亜矢の「帰らんちゃよか」の歌詞を思い出した。

【帰らんちゃよか:https://www.uta-net.com/movie/19420/ 作詞作曲 関島秀樹

♪そらぁときどきゃ 俺たちも 寂しか夜ば過ごすこつもあるばってん……ぜいたく言うたらきりんなか……心配せんでよか 心配せんでよか……帰らんちゃよか 帰らんちゃよか……♪】

  熊本弁と東北弁との違いはあるが、親も気持ちに変わりはない。私たち団塊世代の多くは、苦しい生活の中、親が犠牲になって私たちに教育を受ける機会を与えてくれた。地元に残った人もいたが、多くは東京などの都会に出た。そして田舎に帰ることなく都会に留まった。時代は変わって、日本はずっと豊かになった。しかし東京への一極集中に変わりはない。その東京がコロナ禍、まるで閉鎖区域のようになってしまっている。私自身、来る日も来る日も、もう終息するだろうと思いながら、家にこもり暮らしている。東京に住む二人の子供の家族と、すでに半年以上行き来できていない。「うつしたくない、うつされたくない」がお互いの気持ちである。ただ感染して重篤な状態にならぬことを祈りあっている。

  7月29日、とうとう岩手県で初の感染者が出てしまった。やはり岩手県内は大騒ぎになった。県知事が過度に感染者への批判をしないよう異例の通達を出した。加えて報道機関も感染者への誹謗中傷を止めるよう訴えた。田舎は、都会と違って、どこに誰が住んでいるか、多くが知っている社会である。私もそういう田舎が好きでない。室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや … ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかえへらばや」に救いを求めてしまう。

 私の亡き父は、「もうここに帰ってこなくてもいい。お前の好きな道を行け」とカナダ留学に出発する前の晩、私に言ってくれた。私もコキゾウ(古稀+3歳)になった。今度は私が子供達に言う番が来た。伝えたいのは「コロナ禍、会いに来てくれなくもいいから、自分の家庭を大切にして」である。「俺たちも 寂しい夜を過ごすこともあるが、心配しなくていいから」


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