団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

井ノ上正盛さん命日

2019年11月29日 | Weblog

  「バス停で並んでいる私たちに物売りに来る子どもにも対等に話しかけていた。悪戯をする子には、全く見知らぬ子でも必要であれば叱ってあげ、分け隔てなく、どの子にも接していた。ホームステイ先の子どもたちからも「マサ マサ」と本当の兄のように慕われていた。マサと一緒にいると、気がつけば何故か子どもたちが周りに集まっていた。」シリアでマサ、井ノ上正盛さんと語学研修を受けた同僚談(『奥・井ノ上イラク子ども基金』のページから抜粋)

  2003年11月29日そのマサがイラクで凶弾に倒れた。今日は彼の命日である。

  井ノ上さんとの出会いは、私の妻がチュニジア大使館の医務官として赴任した時だった。妻の赴任する少し前に彼は、シリアから転任して来ていた。チュニジアでの在任期間はほぼ同じだった。妻がロシアのサハリン領事館へ転任した後、彼はヨルダン大使館へ転任した。私たちは彼がイラクで凶弾に倒れ亡くなったことを知ったのはその数カ月後の事だった。私は訃報を知った時、震えが止まらなかった。

  チュニジアに妻が転任して間もなく、私は交通事故に遭った。フォードKaという小さな車に雇った運転手と乗っていた。現地の道路事情は、私のようなとろい運転をする者を受け付けなかった。ラウンドアバウト式(信号のない円形状の交差点に入り、東西南北4方向に分散する方式)の交差点でいすゞの小型トラックがCaの横腹に突っ込んできた。相手が規則を無視しての事故だった。再三に渡って運転手にシートベルトをするよう言っていたが、その日も彼はシートベルトをしていなかった。いすゞのトラックが運転手側のドアに衝突したと同時に運転手は席から投げ出され私にぶつかった。運転手は背が高く体重は100キロを超えていた。Kaは小さな車である。私はドアと運転手に挟まれた。運転手の右腕の肘が私の胸部を強打した。運転手は気絶していた。交差点の周りには、野天の喫茶店があり、そこにいた男性たちがすぐに駆け付け私たちを救助した。救急車で病院に運ばれたが、医師の診察は1時間待っても受けられなかった。妻と領事が病院に来てくれた。あと数時間かかるというので、妻は私たちを私立の病院へ搬送した。妻は私の折れた胸骨が肺に刺さっているか即調べなくては命に関わると判断した。私の骨は折れていたが肺には達していなかった。この事故の件で何回も井ノ上さんには世話になった。一緒に警察の取り調べにも同行して通訳をしてもらった。警察署で井ノ上さんのアラビア語にほれぼれ聞き入ったものだ。

  井ノ上さんの奥さんが出産のために帰国していた時は、少しでも寂しい想いをしないよう我が家にできるだけ多く食事に招いた。ゴルフを始めるようにも勧めた。持ち前の運動神経の良さで、奥さんが赤ちゃんを連れて戻る直前、コンペで優勝したほどだった。話をしていて井ノ上さんのアラブ世界への想いを強く感じた。

  井ノ上さんは、小学生の時から空手を習っていた。中学1年の時少林寺流全国空手選手権大会の中学生型の部で優勝している。チュニジアでチンピラにからまれ、暴行を受け大けがをしたことがある。井ノ上さんが空手を使えば、倒せた相手であった。それでも彼は手を出さなかった。理由は自分がアラブの人を愛する外交官だからと彼は言った。

  2019年5月28日に川崎市の登戸で起こった殺傷事件で外務省の小山智史さんが殺された。この方との面識はない。しかし彼はミャンマー語の専門家だった。外務省といえども英語などの主要言語以外の言語に精通する人は少ない。井ノ上さんも小山さんも国の外交を担う上で貴重な存在であった。その才能熱意がいとも簡単に消し去られてしまった。これがどれほどの損失か彼らを殺した者共にわかるはずもない。それが悔しい。そして日本の何の役にも立たない72歳の私がのうのうと生きながらえているのが申し訳ない。彼が生きていたら…。

 毎年、11月29日に私は線香をあげ、手を合わせる。


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1万4600匹の羊

2019年11月27日 | Weblog

  アフリカのセネガルで暮らしたことがある。雨の少ない乾燥した気候だった。首都ダカールから少し離れると砂漠のような荒涼とした平原が拡がっていた。水不足は深刻な問題だった。水がなければ草も木も育たない。

 そんな中で時々羊や牛の群れを見かけた。みな痩せていた。ところがラマダンやタバスキの前にはダカールの郊外に大規模な羊を売る市がたった。私は不思議でならなかった。私がフランス語を習っていた女性教師が教えてくれた。その羊はオーストラリアから生きたまま輸入されているのだそうだ。私は納得できた。どこを見てもあれだけの羊がまるまる肥えられるほどの草はないのだから。

 11月24日黒海でルーマニアからサウジアラビアへ運ぶ1万4600匹の羊を運ぶ船が沈没した。乗組員21名は全員救助されたが、羊は32匹しか助けられなかったという。このニュースを知って、セネガルで見た市場の風景やチュニジアのラマダン明けのお祝いに現地の友人宅に招かれ、生きた羊を屠って調理されもてなされたことを思い出した。羊は宗教的な儀式のように専門の人がその伝統に従って厳かに屠られた。厳粛さと、その後の宴の華やか賑やかさに強い文化衝撃を受けた。羊の肉は美味かった。

  今回の沈没を受けて、動物愛護団体は生きたままの輸出に反対する声明を出した。つまり生きたままで輸出するのでなく、精肉に処理して冷凍なり冷蔵で輸出するなら、しなさい、というのである。これはイスラム教の信者には受け入れられない。なぜなら羊は生贄なのである。精肉がとって代われるものではない。生きた羊でなければ、生贄にはならぬ。しかしイスラム教徒は、砂漠の国に多い。砂漠で羊は育たない。そこで砂漠の多いイスラム諸国で、羊は、英国やスペインやルーマニア、遠くはオーストラリアやニュージーランドから輸入されるのである。

  日本で海外のニュースが伝えられる時、私は物足りなさを感じることが多い。今回の黒海での船の沈没による羊が多数死んだというだけでは、視聴者は何をどう受け止めたらよいのかわからない。なぜ羊が生きたまま輸出されるのか?なぜサウジアラビアへそれほど多数の羊が輸出されるのか?どうしてこの時期に輸出されるのか?損害はどれほどなのか?輸入をするサウジアラビアの人々は、これほどの羊が入って来なくなれば、どう思い、どう対処するのか?

  報道機関の使命は、視聴者読者に事実を、真実をわかりやすく伝えることである。その基本がすっかり崩れている。今回の桜を見る会の問題にしても、報道は視聴者読者に混乱と諦めしか与えてくれない。報道関係者は秀才で職を得るにも難関を突破してきているはずである。もっと本領発揮してほしいものである。

  ところで羊とヤギの見分け方は、尾でできるとセネガルで現地の人に教えてもらった。垂れているのが羊、上がっているのがヤギ。羊の尾は本来長いが、糞で汚れやすいので人間の都合で、幼いうちに尾を切るそうだ。


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善光寺の甘酒

2019年11月25日 | Weblog

  私は実母を4歳で亡くした。父は母を長野の善光寺の納骨堂に収めたと言っていた。どういうことなのか理解できなかった。でも母が納骨堂に入っているのだと信じた。父は再婚するまで子供4人を連れて必ず命日に善光寺の納骨堂へ行った。納骨堂は善光寺の裏の高台にあった。当時、自家用車などなかった。5人で歩いて坂を登った。お参りしてから善光寺にもお参りした。境内に何軒かの休憩所があり、そこでおでんとか甘酒を売っていた。あの甘酒が美味かった。幼い頃の思い出が原因なのか、甘酒は私にとって特別なものとなった。

 毎年、父親の兄の家で味噌づくりを家族総出の合同で行った。どういう作業だったのかは記憶にない。何をどう手伝ったのかも覚えていない。ただムシロの上に等間隔で並べられた円錐型の味噌玉と大豆を蒸かした青臭いけれど鼻孔を拡げたくなるようなニオイが残っている。作業が一段落すると、叔母さんが全員に甘酒をふるまった。従兄弟たちと日向の縁側に並んで脚をブラブラさせながらアツアツの甘酒を口にした。優しい味だった。

 私の父は毎晩、燗をした日本酒を1合晩酌していた。父だけ箱膳に子供とは違う1品が付いていた。父は尋常小学校に数年通っただけで、宇都宮の羊羹屋へ丁稚に出された。そこで奉公人としての自分と、同じ年ごろのお坊ちゃまやお嬢さまたちが自分とは違う生活をしているのを見た。お坊ちゃまやお嬢さまは、きれいな箱膳で食べ、奉公人は床の上だった。そのことがあってか父は、箱膳にこだわった。晩酌を楽しむ父を見て、酒は何か大人の特別な飲み物だと思った。酒は大人しか口にできないもの、でも甘酒は子供でも許される。その禁断の境を渡るのは、渓谷のつり橋の真ん中に立つような怖さとその向こうにある別世界への好奇心が入り混じった気持ちだった。甘酒の“酒”という漢字、酒のという音の響きは、子供を惑わす。

 日本から離れて海外に住むと、手に入らない物を美化して渇望してしまう。私にとって甘酒もその一つだった。森永が缶入りの甘酒を販売している。ヨーロッパの日本食品を売る店で買うことができた。見つけると嬉しくなる。つい買ってしまう。でも違うのである。善光寺のあの甘酒とも味噌づくりのお手伝いをしたとき飲んだ甘酒とも違う。森永の缶入り甘酒は、甘すぎる。年齢を重ねるうちに、私の舌の感覚が変化してきたのだろうか。それもあるだろう。環境の変化、特に気候の変化は、味覚に関係すると思う。どうであっても「旨い、美味しい」と言える物を望む。

 私の周りに味噌を自分の家で作っている親戚知人友人はいない。だから市販の甘酒を買うしかない。ところが中々自分の気に入った甘酒がない。百貨店の地下の食品売り場で時々甘酒の出張販売に出くわす。喜んで試飲するも何か物足りない。先日新宿高島屋の地下でやっと気に入った甘酒を見つけた。私の求めていた甘酒と一致した。さっそく買い求めた。1本税別760円。大分県のぶんご銘醸という会社のものだった。

 こうして何かをきっかけを与えられる度に、コキジ(古稀+2歳)は、遠い過去を思い出す。これもまた年寄りの特権であろう。善光寺の境内でまだ甘酒は売られているのだろうか。思えば遠くに来たものだ。


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桜を見る会

2019年11月21日 | Weblog

  これから冬を迎えると言うのに、国会では「桜を見る会」で熱くなっている。私は毎年家で「桜を見る会」を開いている。あくまでも個人的な会である。私が招く人を選んで声をかける。会費はなく、招待である。そこが税金で経費が賄われる首相主催の「桜を見る会」とは違う。招く人数は10人くらい。家の前に桜並木があり、家の窓から桜を愛でることができる。飲んで食べて話して笑って、時々桜に目をやって過ごす。窓から見る桜並木は、このところの急激な温度の上がり下がりですっかり葉を落としてしまった。こんな季節外れの国会の議論にウンザリしているようにも見える。

  テレビのニュースで過去の首相主催の「桜を見る会」の映像が出た。首相の周りには、芸能人やスポーツ選手が嬉しそうに映っていた。有名になるには、どれだけテレビに露出するかで決まると言っても過言ではない。庶民にとって「テレビで観たことある」は、有名度の計測基準となった。政治屋と芸能人は、テレビで顔が放送される可能性が高い。その所為か政治屋の子供で芸能界に入る者が多い。政界も芸能界も有名人のおこちゃま達の約束された生活圏のようだ。小泉孝太郎、DAIGO、石原良純などなど。

  自称上級国民の方々は、勲章と肩書と家系とどれだけ有名な人々との交流があるかということを好むようだ。首相主催の「桜を見る会」は、招かれる客にとって箔をつける絶好の機会である。政治屋たちは“国民”をよく使う。彼らにとって“国民”とは自分たちの言うことを聞くであろう人々であって国民全体を指していない。実に曖昧な言葉である。

  「桜を見る会」は、昨日今日に始まったことではない。1958年に公的行事として始まった。すでに慣例となっている。ではなぜ今これほど熱くマスコミも野党も騒ぎ立てるのか。疑問である。テレビ新聞だって批判的に「桜を見る会」を報道したことはない。これだけ有名な誰誰が招待され、首相と親しく言葉を交わしたとお祭りのノリで報道していた。日本にはもう特ダネ記者がいないのかと疑う。各社横並びの記者クラブとして見解は、もう知りたくない。国民の一人である私がマスコミから知りたいのは、常に真実である。真実は、権力によって有耶無耶にされる。森友問題も獣医大学問題も。今回の発端が記者独自の取材によるものであったならば、まず権力との馴れ合いを反省して、自分の社の関係者で招待されたのは誰誰と、参加者の一覧表を発表するのも一案であろう。

  この国には聖域がある。悲しいことに聖域の壁を築き守っているのが役所である。本来なら報道機関がその聖域を打ち破るのが仕事なはずだが、長いものにしっかり巻かれているようだ。

  私が友人たちと催す「桜を見る会」は、来年もやる予定だ。有名ではないが、真面目に税金を言われるままに収め、犯罪にも染まらず、実直に生きて、余生をおくる仲間である。来年もきっと桜は綺麗な花を咲かすであろう。それを楽しみに、来たる冬を越せることを願う。

 

参考ブログ:私の2010年8月23日の『パーティ?』もお読みください。

  

 


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床屋の奥さん

2019年11月19日 | Weblog

  先週の金曜日、妻を駅に送る車中で「髪の毛、伸びたから今日、床屋へ行ってくる」と言った。「ぜんぜん伸びていないよ」と妻。前回床屋へ行ったのは、たしか9月。すでに2ヶ月が過ぎている。若く頭の毛がフサフサだったころは、1カ月ごとに床屋へ行った。2ヶ月経っていても“ぜんぜん”には傷ついた。

 私の行きつけの床屋は、電車を乗り継いで40分くらい離れた駅前にある。私は床屋にうるさい。子供の頃、通った床屋がずっと基準になっている。話しやすく腕が良い床屋。私が通った床屋は、おじいさん、おじさん、奥さん、息子さんの3代4人の布陣だった。誰が刈ってくれるかは、その日によって違う。皆腕が良かった。中でもおじいさんが一番で最後は必ずおじいさんが仕上げのハサミをいれてくれた。家族といえども暗黙の序列が心地よかった。誰が刈ってくれても刈りながらいろいろな話ができた。床屋はさながら町の情報交換所だった。他の客の台での会話に耳を傾けた。町の情報がたくさん聞けた。春夏秋冬、店内に変化があった。冬のストーブが記憶に残っている。冬になると入り口の4人用の待合のすぐそばにストーブがあった。おが屑を焚く珍しい達磨ストーブだった。その熱過ぎず、やわらかな温かさは、いまでも覚えている。

 高校からカナダに渡った。留学した全寮制の高校では、大学部の学生が無料で散髪をしてくれた。無料だった。全生徒に課せられている1日2時間の学校奉仕の時間に大学生が他の生徒の散髪を受け持った。出来上がりは、鏡を見られない程ひどかった。髭剃りや洗髪はもちろんなかった。アメリカの軍人のような髪型になっていた。

 日本に帰国して同じ床屋に再び行った時、これが散髪だと感動した。結婚したが7年で離婚。二人の子供を引き取った。同じ床屋に通った。おじいさんは亡くなり、おじさんが店主になり、息子が結婚して、息子の奥さんも店に出ていた。狭い世間である。私の情報は筒抜けになっていた。それを知っていても、私の家庭状況の話を避けてくれていた。離婚して13年後、再婚。妻の仕事で海外赴任することになり、床屋に行けなくなった。

 ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、サハリンと妻について行き、暮らした。それぞれの国でまた旅行先で床屋や美容院に行った。日本の床屋以上の床屋はなかった。ただローマで入った床屋は、気に入った。衛生上の問題などから床屋に行けなかった国もある。妻が日本から持って行った電動バリカンとハサミで散髪してくれた。結構上手だった。ネパールでは頭全体に湿疹のようなものができ、しばらく丸坊主になった。

 14年に及ぶ海外生活に終止符を打ち、帰国した。温暖な地に終の棲家を構え、住み始めた。やっと新天地での生活に慣れてきたが、行きつけになる床屋が決まらず、散髪のたびにあちこち試した。やっと少し離れた所の駅前で腕もよく話しやすい床屋に出会った。夫婦とその息子の店だった。すでに10年以上通った。奥さんの洗髪と髭剃りは丁寧で特に気に入った。店主は話し上手聞き上手だったが、奥さんは静かでただ微笑むだけ。

 先週、床屋へ行った。入った途端、違和感が襲った。店主が先客と話していた。「カミさんが焼かれて骨に…」 私は「…骨…」に反応。後で店主の口から奥さんが10月に病気で亡くなったと聞いた。享年66歳。あっという間だったという。店に入った時、感じたのは店主の奥さんを失った悲しみだったのだ。私はただの客。訃報の知らせをもらえる関係にはない。でも悲しい。突然消えた存在。店に来ればいると思っていた奥さんが消えてしまった。店主の様子を見ていて、私は私が4歳の時母親が死んだ日の父を思い出した。かける言葉もなかった。いつもの通りに散髪してもらった。髭剃りの時、店主の爪が私の肌に食い込み痛かった。でも黙って耐えた。

 帰宅して妻に「床屋の奥さん死んじゃった」と告げた。考えてはいけないことだけれど、私は頭の中で、妻がいなくなったら、私はどうなるのかと妻を目の前にして思った。人間、いつ何が起こってどうなるかわからない。先の別れを考えるより、“今”を一緒に生きていよう。後悔しないように。

 床屋の奥さんと店主の最後の会話は、「『わんたんや』へもう一度あなたと行きたかった」だったそうだ。


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ニトリ、ユニクロ、ヤフー、Line

2019年11月15日 | Weblog

  私が子供の頃、お使いに行かされた店は、みな個人商店だった。鈴木八百屋、一ノ瀬タバコ菓子店、三好文具店、塩見漬物店、さかい酒屋、しらい魚屋。それ以外に豆腐売り、納豆売り、シジミ売りが町を行き来した。さながら坂野比呂志(浅草の芸人で金魚売りバナナのたたき売りなど物売りのモノマネ芸を広めた)の世界だった。スーパーなんて存在さえ知らなかった。“ほていや”という百貨店があった。今デパ地下と呼ばれるような地下の食品売り場はなかった。

 やがて天秤でシジミ売りをしていたおじさんが店を持ち、あれよあれよと時流に乗り、上田市で大きな食品スーパーを立ち上げた。近郊に何店舗も持ち、破竹の勢いでチェーン展開を始めた。しかし全国展開する大手スーパーチェーンに飲み込まれて消えた。たった一軒しかなかった百貨店も結局合併吸収されショッピングモールになってしまった。私がお使いに行かされた店は、ほとんど店じまいしてしまった。色々な業種で寡占が進んだ。次に「開いてて良かった」のセブンイレブンを先頭にコンビニが進出。残っていた個人経営の店もこれで息の根を止められた。店ばかりではない。下請け工場が多かったせいで、大企業の中国進出により仕事の減少で倒産が相次いだ。同級生の幼いころからお金持ちのお嬢さんで知られていた子がある日突然学校へ来なくなった。町の噂では父親の会社が倒産して夜逃げしたという。このような話は、いくらでもあった。

 今も変わらない。今年に入って家具店の倒産が多くなったという。“お値段以上”のニトリの一人勝ちで家具売り上げの実に44%を占めるそうだ。ニトリももとは北海道の小さな家具店だった。世界へ進出しているユニクロだって山口の小さな洋品店から始まった。通販のジャパネットも長崎のカメラ屋だった。自由経済において衰勢の浮き沈みは、必然である。独占禁止法があるが、果たしてこの法律が、弱小企業や個人経営者を守るとは、思われない。

 私は発展途上国で暮らした。ネパール、セネガル、ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアのサハリン。まだ大企業の寡占にさらされていないので、個人経営がほとんどだった。買い物はスーパーでなく、ゴミゴミした市場へ行った。私は毎日市場へ行った。市場でも買い物が好きだった。売り手と買い手の駆け引きを楽しんだ。品物が少しくらい悪くても、知り合いになった売り手を会いたくて話したくて、その人の常連になった。日本に帰国して、市場の買い物ができなくなった。私は日本での買い物に不満を持っている。合理化された店舗では、売れない商品をどんどん外してゆく。私が買いたい物は、ほとんど近所の店で買えない。だから仕方なく、ネットショップを使う。何でも買える。でもつまらない。

 昨日、ヤフーとLineの統合の話が進んでいるというニュースが流れた。ヤフーはソフトバンクの子会社である。ソフトバンクの孫社長が「業界の1番を狙う」と勝者総取りに出ることを宣言した。これってはたして会社経営者の言葉であろうか。キリスト教、イスラム教、アレキサンダー大王、フビライ・カーンが世界制覇を狙ったのと変わりない。欲は果てしない。とどまることがない。

 一介の買い手でしかない私に物言う資格はない。でも今の現状は日に日に私が求めている買い物と違った形態に変化していってしまう気がしてならない。私は並んで待たされても、気に入った売り手と丁々発止、顔を見て、微笑んで、納得して商品を買いたい。携帯だネットだと余計なものが人間に割り込み過ぎている。人間ってやっぱり個人と個人のつながりが基本だ。人間からその基本が失われれば、あとは「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。 猛き者も遂にはほろびぬ、 偏 ひとへ に風の前の塵におなじ。」が待っている。


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隠居仕事

2019年11月13日 | Weblog

  生活しているとあちこちに汚れが付く。毎日の日課を同じ順番でだいたい同じ時間にこなす。一日中日課で埋め尽くされているわけではない。毎日空き時間というものがある。「さて今日は何をしようか」となる。やらなければならない終活は、おかげさまで山ほどある。飽きやすい性格である。一つ決めて、それを終わるまでやり通すのが苦手。結果、あちこちに手を出して、やりっぱなしとなる。

 昨日は、台所の包丁立に目がいった。ステンレス製で包丁が11本収納できる。包丁を研ぐのが好きなので、包丁は常にキレキレッ。まさか包丁立がこんなに汚れているとは。決めた、今日は包丁立を磨いてピカピカにしよう。

 大事な包丁を1本づつ抜いて、拡げた布の上に丁寧に置く。狭心症や脚の血管が詰まり易いので血液をサラサラにする薬を飲んでいる。その効果を以前指の先を切った時思い知らされた。ちょうど10連休の後半で病院へ行けず、大変な目に遭った。血が止まらず、3日目にやっと病院へ駆け込んだ。包丁は慎重に扱わなければならない。包丁を出し終えると、いよいよ本体の掃除である。やはり台所は、油汚れがどうしても多い。調理台でオリーブ油、バター、サラダ油、ごま油を使って調理する。換気扇を回すが、目に見えない細かな粒子になって台所のあちこちにへばりつく。包丁立も例外でない。全体がジワーっと油が付いている。洗剤をスポンジにつけてまず擦る。それを乾いた雑巾で拭き取る。さらに汚れが落ちていない所を2度洗いする。今度は乾拭き。光るまで磨く。最後は金属磨き用の布で仕上げる。

 包丁立には、包丁を刺す穴が11ある。よく見ると穴もけっこう汚れている。ここで綿棒の出番。綿棒を2種類用意した。太目のものと細めの物。穴の幅が違うので太いものと細いものを使い分ける。綿棒を穴に入れ、グイグイと擦る。取れる、取れる。汚れが綿棒に絡まる。気持ち良い。穴はプラスチックの筒になっていて、一番上が少し盛り上がっている。この段差も汚れている。綿棒で丁寧に汚れを落とす。力は必要ないが、結構時間はかかる。

 先日ダスキンのお掃除サービスで風呂場の掃除を依頼した。女性二人が来て、狭い風呂場に入って二人で3時間掃除してくれた。私は1時間ぐらいで終わると思っていたが、あまりに時間がかかるので、様子を見に行った。狭い空間で特殊な薬品を使ってカビを落とすと聞いていたので、もしやその薬品を吸い込んで二人が倒れ込んでいるのではと心配したからである。二人は黙々と仕事をしていた。あれだけ一生懸命に掃除してくれたにも関わらず、カビは完全に消えていなかった。日頃のこまめな掃除が必要だと痛感した。

 掃除と言えば、旧ユーゴスラビアのマーラさんを思い出す。孫がオーストリアに留学しているので、少しでも孫に仕送りできるようにと、何軒かの家の掃除をしていた。知人の紹介で週2回来てもらっていた。70歳を過ぎていたこの人は掃除の達人だった。どこもかしこも彼女が掃除するとピカピカ。動きも素早く、跳ねるように家の中を移動。水道の蛇口、ドアの取っ手、流し、便器。住んだ国で多くのお手伝いをお願いしたが、マーラさんほどの凄い人はいなかった。

 私は隠居の身である。終活もしなければならないが、日常生活の大事な担い手でもある。妻が出勤した後、一人きりになる。サボろうと思えばいくらでも怠惰に妻の帰りを待てる。毎日、山ほどたまっている終活を先延ばしにして、洗面台の排水口のヌルヌルを洗い、掃除機の中にたまったゴミを捨て、中を除菌シートで拭いたりする。やらなければならないことから逃げるのは、子供の頃の手づくなやお使いの途中の道草や寄り道のようなチョットしたスリルが味わえる。これぞ隠居仕事の醍醐味である。


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赤いシリーズ

2019年11月11日 | Weblog

何故か赤い色、赤は赤でも真っ赤な、赤い色は、私を断崖絶壁に追い詰めるような気がする。まるで禁じられた色のようだ。

 すでに車を何台乗り換えたか。数えたことはない。しかし一台だけ真っ赤な車に乗ったことがある。自分ではとても気に入ったが、まわりからはひんしゅくを買った。毎回車を買い替える時、赤い車にしようと思う。だが結局赤に決められない。今乗る車は、黒。

 赤い色は、私にとって好きだと公言できない色なのかもしれない。だからこそ憧れる。オードリー・ヘップバーン、吉永小百合、山口百恵のような存在である。誰かに「好きな色は何色ですか?」と尋ねられて、「赤です」と答えたことは一度もない。「緑です」か「群青色です」と答えてしまう。そう答えながら、心の中で激しく自分を攻撃する。赤い色はそういう厄介な色になっている。

 還暦を迎えた年、妻と子供たちから赤いチャンチャンコを贈られた。そのすぐ後、私はデパートでパパスの真っ赤なジャケットを密かに買った。そのジャケットを着て、先輩夫妻と新宿の中村屋でカレーを食べた。先輩が「赤いジャケットですか。」ともらすように言った。狐の嫁入りの棘のようにその言葉が私の心に突き刺さった。それ以来、どうしても赤いジャケットに腕を通せないでいる。

 禁断の真っ赤な色も、車や服から離れて食べ物飲み物になると事情が変わる。誰に遠慮もいらない。子供の頃、駄菓子屋で売っていた貝殻に真っ赤なニッキの練り物を入れて固めた菓子、小さな瓢箪型のガラス瓶に入った真っ赤なニッキの液体に魅せられた。舌が赤く染まる。それを鏡で確かめる。保育園の帰り道、恋人のユリちゃんと見つけた蛇イチゴの真っ赤も忘れられない。食べたかったが、ユリちゃんは「ダメ」と言うので止めた。当時二人は結婚を誓っていた。ユリちゃんのほっぺも赤かったが、私の好きな真っ赤とは違う赤色だった。別々の小学校に入るとユリちゃんとは音信不通となった。

 真っ赤なフルーツ、ドラゴンフルーツ、スイカ、イチゴ、リンゴ。真っ赤な野菜、赤いルバーブ、ビーツ、赤かぶ、ピーマン。真っ赤な飲み物、セネガルのビサップ、カンパリ。真っ赤が私を喜ばす。

 大人になり、結婚して7年で離婚した。二人の子供を引き取って育てた。長男が他県の全寮制の高校へ長女がアメリカの友人家族に預かってもらい、一人暮らしになった。二人への毎月の仕送りに追われた。そんな中、テレビドラマ山口百恵の赤のシリーズが始まった。録画機を買って、仕事が終わって帰宅した深夜、録画したドラマを観た。タイトルの『赤…』が私の気持ちを鷲づかみにした。寂しさと切なさを、画面に映る山口百恵と耐えた。

 44歳で二人の子供が大学を卒業するまでと全力投球した子育てが終わり、縁あって再婚できた。妻の仕事の関係で海外赴任に同行した。転地療法のように13年間5ヵ国での海外生活は、私を生まれ変わらせた。各地で真っ赤な出会いがあった。真っ赤なフルーツ、ドラゴンフルーツ、スイカ、イチゴ、リンゴ。真っ赤な野菜、赤いルバーブ、ビーツ、赤かぶ、ピーマン。真っ赤な飲み物、セネガルのビサップ、カンパリ。真っ赤が私を喜ばす。

 妻の誕生日がもうすぐ来る。私は妻に真っ赤なバラを一本、誕生日に贈る。その真っ赤なバラに私は私の言葉にできない想いを託す。真っ赤なバラにしかそれはできない。

 


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同じ時間に同じ事を繰り返す

2019年11月07日 | Weblog

  私はカナダの全寮制の高校へ留学して生活が変わった。長野県に生まれ、育った。教育はお寺が運営する保育園、公立小学校、公立中学校、県立高校へ家から通った。家では母親が炊事洗濯掃除など、すべて面倒をみてくれた。育った家庭は、貧しかったが、待遇は王子様のようだった。日本で高校を出て、どこかの大学に入っていれば、家を出て下宿か、アパート暮らしをしていたであろう。何もかも母ちゃんに頼っていたので、一人暮らしには苦労したに違いない。ことわざにある通り「他人の飯を食わねば親の恩は知れぬ」である。カナダ留学する前、軽井沢でアメリカ人宣教師の家で、しばらく寺男のようなことをしてカナダ留学に備えた。これは今になって考えれば、カナダでの寮生活への良い準備になった。

 カナダでの寮生活は、朝6時起床、6時半朝食、8時半学校始業、12時昼食、1時午後授業開始、4時終業、1時間の学校奉仕、6時夕食 7時~9時自習時間 9時シャワー 10時消灯と日本の家で暮らしていた時とは違う規則正しい生活をした。入院していた病院から病院が作った弁当を持って高校へ通っていた頃とは別人のように健康を取り戻していた。寮生活に慣れてから学校奉仕の1時間の他にもう1時間増やして学費の軽減のための作業を加えた。朝5時に起きて、乳牛の乳しぼりとニワトリの世話を2時間した。勉強するために授業が終わると部屋に戻り夕食まで寝た。夕食後9時まで寝て10時の消灯時間が過ぎてから窓とドアに光が漏れないようにタオルやシーツで目隠しした。皆が寝静まってから3時まで勉強した。

 寮での規則正しい生活が、私を鍛え直してくれた。寮生活の良い点は、食事が3食きちんと摂れることだ。食事をきちんと摂ることは、生活で最も大切なことである。最初の結婚は破たんした。13年間のハチャメチャなヤモメ暮らしをした。44歳で再婚した。生活がまた変わった。妻は朝食をガッツリ食べる。私はやもめ時代朝食を摂ったことがない。二人の子供の面倒をみていた時、朝食を子供のために作ったが、自分は食べたことがない。こんな生活を続けていたら、家族が破滅してしまう。長男は県外の全寮制の高校へ入れ、長女はアメリカの友人一家に預かってもらうことにした。子供達には、食事をきちんと摂れる環境にいて欲しかった。

 我が家の朝食は、妻が支度する。私はいまだに朝が弱い。ラジオがまず5時少し前に入る。5時きっかりにけたたましく目覚まし時計が鳴る。私は渋々ベッドを出る。妻は寝ていたとは思えぬテキパキとした動きで活動を開始する。前の晩、どんなに酔っていても、朝にはピシッとしている。献立は毎朝同じ。同じ時間に起きて同じ朝食を摂る。

 ご飯は、コシヒカリの3分搗き。甘口の紅鮭の塩焼き、納豆、味噌汁、ヨーグルト、バナナ。妻のご飯茶碗はてんこ盛り。私のご飯は、茶碗に半分以下。歳を取るにつれ、小食になってきた。味噌汁も妻はお椀にあふれんばかりに入っている。私はやはり半分。子供の頃、母ちゃんは「味噌汁は体に良いから、汁は飲まなくても実だけでも食べな」を今でも実践。納豆に私はきざみ葱をたっぷり入れる。妻はネギが好きだけれど仕事柄朝は食べない。私は納豆にわさび漬け少々。焼きのり3枚をつける。

 最近思う。毎日同じ時間に同じことをして生活することが快く、楽だと。同じものを毎朝食べるのもいいものだと。以前はあれもこれもと食欲旺盛で、同じものより、もっと美味しく珍しいものを貪欲に求めたものだ。繰り返しが心地よく感じるのは、認知症の初期症状かな。


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身の丈大学入試

2019年11月05日 | Weblog

  カナダへ留学して大学進学前にSATというアメリカの共通試験を在学していた高校で受けた。カナダの大学でもSATと高校からの内申書で合否を決めていた。私は英語と数学の2科目を受けた。英語90分数学70分。数学は日本の高校では、追試ばかりでまるきし成績が悪かったが、SATの数学の結果は良かった。それもそのはず数学は日本の中学3年程度のレベルだった。ただし設問は英語なのでここでも英語力は必要だ。設問は、結構ひっかけのような表現あった。私が主張する“ところ変われば、評価は変わる”の例である。

 11月1日午前、萩生田光一文部科学大臣は英語民間試験の導入を2024年に先延ばしすると発表した。なんと発表した日は、センター試験から新しい共通試験へ移行する試験を受ける資格修得のための申込日だった。高校はもちろん受験生に与える混乱と動揺は、避けようもない。高校3年生になった孫がいる。来年度の受験生だ。孫は、ずっと新テスト目指して勉強してきて、今更延期されて悔しいと言った。

 私はカナダから帰国後、長野県で私塾を開き、英語を教えた。英会話を教えたかったが、次第に高校受験や大学受験のための受験英語を教えるようになった。驚いたことに長野県の公立学校にはある予備校が強い影響力を持っていた。公立中学校や高校の退職教員を予備校の講師にしたり校長を傘下の幼稚園の園長や高校の教師校長に再就職させていた。私が通った県立上田高校の校長の多くが園長や校長になった。予備校の経営する高校は、今では上田高校と争う進学校になっている。東京で毎年開かれる高校の関東同窓会に現役校長が来て挨拶して上田高校の大学合格状況を説明したかと思えば、翌年退職してライバル校である予備校傘下の高校の校長になっていたり、予備校の講師になっていた。今はどうか知らないが、長野県の中学の成績表には、その予備校が主催する模擬試験の結果の欄があるほどだった。私は長野県の教育委員会や新聞社に意見書を提出したが、相手にされなかった。

 受験産業に携わった私は、日本の受験は、抜け駆けと利権の巣窟のように感じた。今回の新共通テストへの移行延期を見ても、何か利権のニオイが漂うのである。どうみても受験生のための改革には思われない。害になっている。日本で挫折した私は、カナダで復活できた。要因は、緩やかな学習進度と、暗記でなく自分の言葉での表現と説得力の履修、教師の添削能力だった。日本の優等生は、抜群の暗記力を有する。カナダの優等生は、抜群の要約力と表現力と説得力を有する。日本は試験で学生を切り捨てる。カナダは試験で学生をより適所へと振り分ける。

 日本の大学入試は戦後何回変えられてきただろう。アメリカやカナダは、いまだにSATを続けている。大学入試で日本の教育の質は向上しただろうか。疑問である。

 将来を憂えるばかりの私に光明が差した。橘玲の『上級国民/下級国民』(小学館新書 902円税込み)に書いてあった。団塊の世代がこの世から消えた後、年金の問題も解決される。勉強もほとんどの事はAIが人間に変わってしてくれる。勉強も試験も変わる。書いてあること全てに共感したわけではない。萩生田大臣は「身の丈に合わせて頑張って」と言った。学生は将来の自分の“身の丈”を良くしようと大学入試に挑む。身の丈を良くしようと努力する学生にまるですでに君の今の身の丈、すなわち君の親の経済状態に合わせなさい、と言っているように聞こえる。

 私は言いたい。受験生諸君、君の日本での評価は絶対ではない。世界また日本の君が住んでいない属していない所にも君をより正当に評価してくれる機会がある。暗記だけが科目の多さだけが成績評価ではない。どんな環境においても「読み、書き、そろばん」を大事にすれば道は開ける。


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