団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

タケノコ チョコチョコ グングン

2024年04月25日 | Weblog

  数週間前からエアコンもデロンギのオイルヒーターも使わなくなった。1年で春と秋にくる快適で好きな季節がやってきた。追い打ちをかけるように、裏の竹林のあちこちからタケノコが顔を出し始めた。去年は、タケノコ、ほんの数本しか出なかった。今年は、我が家の前だけで10本以上出て来た。

 15日に毎年タケノコを届けてくれる友人から電話がかかってきた。タケノコの準備ができたので届けてくれる連絡だった。友人にタケノコ採りの名人がいて、早朝に山に入って日が昇る前にタケノコを掘ってくるという。太陽が出てから採るとエグミが強くなるそうだ。名人にはこだわりがあって、タケノコへの思い入れを感じる。友人は、ただタケノコを採ったまま私に渡すのではない。届いたタケノコを夫婦で剥いて、特別な野外のかまどに大きな鍋で茹でる。鍋の中に、米ぬかなどのアク抜き用の家伝の配合物をいれる。茹でてすぐいただけるわけではない。友人は、ゆっくり茹でたタケノコを鍋にいれたまま冷ます。大変な作業である。山菜は、どれも下ごしらえが大変である。頭がさがる。いただいたタケノコは、サシミ、筑前煮、タケノコご飯にした。春を舌でも味わった。

 タケノコは好きだが、竹があちこちで他の樹木の林や森を侵食しているのは心配だ。私の散歩コースの川に竹のジャングルがある。まったく手入れされていない。茂り放題である。密生してしまい、陽を浴びない竹は、枯れてしまう。その荒れた姿を見るたびに、京都や修善寺の手入れされた美しい竹林を思い浮かべる。私が子供の頃、農繁休業があって、農家の子以外の生徒は、割り振られて農家の手伝いに行った。報酬は、お昼ご飯、白いご飯の食べ放題だった。稲刈りでは、鎌で指を何か所も切ったが、それでも良い経験だった。何より白いご飯が嬉しかった。私は、学校教育の一環として、竹林の管理を生徒たちがしたらいいと考えている。生徒たちは、その代償として、毎年整備された竹林の中で、タケノコ採りを楽しむ。今の教育現場で、あのような農家支援をしたら、反対意見続出であろう。経験を伴わない、危険を回避してばかりの教育に未来を期待できない。

 集合住宅の我が家の裏の竹林、我が家は1階にあるので、同じ高さで見ることができる。毎日、妻と「チョコチョコ出てきたね」「グングン伸びるね」と緑色の竹の中に濃い茶色の皮をまとったタケノコを眺めている。その伸び方が気持ちいい。まるで童謡の『せいくらべ』の歌詞のように私は感じる。『せいくらべ』は、人間の背が伸びる喜びを歌う。竹に比べたら人間の成長は遅い。竹は数週間で10メートルにまで達する。ドジャースの大谷選手でさえ192㎝である。竹の成長は、驚異的である。

 今日、雨の中、もうすっかり成長したタケノコは、もはやタケノコとは言えない。竹にもまだ早い。青年という感じである。裏の竹林は、造園業者が管理してくれている。だから安心して竹林の美しさを楽しめる。

 今の政治の世界は、荒れ放題の竹林にみえる。自分たちで良いようにやり放題して、挙句の果てに国民の首を絞める。荒れ放題にさせたのは、間違いなくそういう政治屋をのさばらせることを許す有権者である国民なのだ。荒れたジャングルを整備してスッキリとさせ、次に出てくるタケノコ、もとい若い人材を守り育てたいものである。


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バードウォッチング

2024年04月23日 | Weblog

  妻と散歩中、「あっ、カワセミ!ほら、あそこにカワセミ。そこの赤い葉の木のそば」と指さす。カワセミと聞いただけで、もう興奮してしまう。1年散歩しても、カワセミを見られるのは、1回か2回。この機会を逃してなるものか。目を凝らす。「赤い葉」ってどれよ。わからない。赤い葉の木をみっけ。でもカワセミらしきものが見つからない。妻に問う、「本当にカワセミ」。妻が答える、「間違いないよ。だってカワセミのあの青色だったもの。見間違えじゃない」。結局、私は、カワセミを見ることが叶わなかった。見たかった。なにか大きな損をした気がした。落ち込む。でも数週間前にひとりで散歩中、2羽のカワセミが川の水面を飛んでいたのを見ていた。

 3月の在京同期会で、私と同じ様に毎日散歩をするという人たちがいた。夫婦で歩き、バードウォッチングを楽しんでいると話した。神奈川県海老名市に住む人は、ほぼ毎日、カワセミを見ることができる場所が、近所にあると言った。毎日!羨ましい。確か、鳥図鑑にカワセミは、小魚を餌にするので、小魚がいる場所でないと住まないと書いてあった。海老名の川のカワセミが来るところには、小魚がたくさんいるそうだ。カワセミは、魚を捕らえる名ハンターである。水中にダイブして、上手に魚を捕まえる。私が散歩するコースにある川に小魚はあまりいない。カワセミの数が少ないのは、餌になる小魚が少ないからだのだろう。

 小魚が少ないが、鮎やジンケン(ウグイ)は、いる。それを狙って、アオサギやシロサギ、時たま鵜(う)もいる。毎年春に漁業組合が鮎の稚魚を放流する。魚を餌としないカモもいる。最近増えているのが、カラス。スズメもたくさんいる。セキレイもいる。3月末からツバメが飛来して、川の水面を飛び交っている。ツバメの飛び方は、見事である。他の鳥と比較すると、早さといい急下降急上昇の鋭敏さに、ただただ見惚れてしまう。ぬかるみからあの小さなクチバシに泥を少しずつ運んで巣作りをする姿は、驚嘆以外なにものでもない。人家の軒先にわざわざ巣を作る賢さにも感心しきり。それぞれの鳥が、いろいろ工夫して生きている。

 鳥が飛べるという能力に子供の頃から憧れを持っている。先日、頭上をトンビが滑空していた。私は、グライダーのように羽を大きく広げて、空を滑るように悠々と浮かぶトンビを見ているのが好き。スズメでもカラスでもカモでもアオサギでもモズでもウグイスでも、飛ぶ姿は、それぞれだが、飛べるということが凄いと思う。人間は、鳥の真似をして飛行機を作った。鳥は、その機能を産まれた時から持っている。

 散歩を日課とする私は、毎日、散歩をしながら鳥を見たり、花を見たり、山を見ている。先日、商社マンとして世界中を駆け回っていた友人と食事をした。彼は最近東京へ行って、人混みを見たり、入り込むと気分が悪くなると言った。私が住む町に越してきて、静かな環境に慣れて、これが一番嬉しいと語っていた。

 私が散歩する時間帯がだいたい同じ老女がいる。散歩というより、少し歩いては、川を覗き込み、木に持たれて木と会話しているかのように時間を過ごしたりしている。いつも私と同じくひとりである。先日、初めてすれ違いざまに言葉を交わした。私「カワセミが飛んでいましたね」。「はい、2飛んでいましたね」 ちゃんと見ていたんだ。2匹と言った事が、とても新鮮に感じた。何だかとても嬉しくなった。


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モザンビークからの絵葉書

2024年04月19日 | Weblog

  友人の娘さんは、今、アフリカのモザンビークに住んでいる。夫が国連職員で二人の子供を連れて一家でモザンビークで暮らしている。その彼女から絵葉書が届いた。

 絵葉書の写真に裸足でゴムのタイヤを転がして遊ぶ子供や一緒に走っている子供が写っている。私も妻の任地がセネガルだった時、アフリカに2年間暮らした。セネガルの村の子供たちが遊んでいた風景に似ている。

 私は、子供の頃、“絶壁”というあだ名を近所の子供たちから授けられていた。私の後頭部がまったいらなので、絶壁の崖のようだと称されたのだ。ポコッと後頭部が出っ張っているカッコイイ後頭部の人を見るとコンプレックスを持った。結婚して子供が生まれた時、一番さきに後頭部を見た。あまりポコッとはしていなかった。子供が私と同じく絶壁頭にならないように願った。ドーナッツ型の枕で後頭部の形を矯正する方法を知った。ドーナッツ型の枕を買った。そのせいか長男の後頭部は、それなりにポコッと突き出た。

 アフリカで驚いた。見る子供、どの子の後頭部も見事なポコッとしていてカッコよい。頭蓋骨の形は、人種的に特徴があるのであろう。日本で絶壁とあだ名をつけられた私にとって、なんとも羨ましいほど皆後頭部がかっこよかった。

 You Tubeは、世界のどこの動画も観られる。私は、時々、アフリカの子供たちが踊る『Masaka Kids Africana』を観る。アフリカのセネガルでもよく子供たちが、音楽が流れるとキレッキレに踊っていた。ガソリンスタンドなどで、何かの売り出しなどの催しをすると、音楽をガンガンかけていた。客より近所の子供たちが、ガソリンスタンドの音楽が良く聴こえる空地で踊っていた。その踊りは、まさに『Masaka Kids Africana』で披露されているような見事な踊りだ。

 アフリカのセネガルにいた時、リゾートホテルのプールサイドでランチやディナーのショーに出かけた。子供は出演していなかったが、やはり踊りは、素晴らしかった。音楽と動きが一体化していた。跳んだりバク転したり。特に男性ダンサーも女性ダンサーもお尻に別な生き物が潜んでいるのではと思える程のお尻の動きだった。ダンサーの見事なポコッとした後頭部にも見惚れたものだ。日本人もいろいろなダンスの世界で活躍しているようだが、アフリカで観た踊りとは、何か違う。日本人が得意とするのは、集団で一糸乱れずに踊るタイプ。アフリカのダンスは、踊り手がそれぞれ音楽に合わせて自己表現しているように思える。アフリカの厳しい生活環境の中で、娯楽も少ないから、音楽と踊りに没頭して自己陶酔しているようにも見える。

 友人の娘さんのモザンビークでの生活も厳しいという。郵便事情も悪く、日本からの小包は、送付不可能。郵便局に持ち込んでも受け付けてくれない。モザンビークからの絵葉書も3カ月かかっていた。治安も悪く苦労されている。そんな中、屈託がない元気はつらつな子供たちが遊ぶ写真の絵葉書を送ってくれた。我が家で一緒に食事したり、飲んだり、話したことが懐かしく、また会いたいと書いて来た。地球の反対側で頑張る日本人がいる。帰国したら招いて労をねぎらいたい。返事のメールを送信したが、戻ってきてしまった。歯がゆい。モザンビークは、遠い国だ。


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大谷翔平選手ホームランの打球音

2024年04月17日 | Weblog

   このところ連日、テレビの多くの番組は、水原・大谷事件を取りあげている。観ても、聞いても、しょうもないコメントが多い。

 私は、この事件が発覚した後、元五輪陸上選手の為末大さんのXへの投稿に共感できた。「アスリートが有名になり始める年齢は,18-24歳あたり。…先輩や昔の同級生が保険を売りにきたり、お金を貸して欲しいとお願いされる。…田舎で育った場合のアスリートは、昔と同じ様に素直に生きていると、いいように転がされてしまいます。それで傷ついた人は、今度は、警戒心が強くなり、とにかく知っている数人だけで固めようとしますが、それはそれで身内と近くなりすぎて問題が起きたりします。…」(X 3月21日20:00 為末大)非常にわかりやすい解説だと思った。これは、水原さんの検察の訴追が決定される以前のコメントだった。

 検察の訴追が決まった後、4月14日にコメディアンの萩本欽一さんが取材で大谷翔平選手について聞かれ、次のように答えた。「世間で悪い人に出会ってしまったと言われているが、運という意味で言うと、一平ちゃんはよくやった」 私は、えっ、欽ちゃん、水原の肩もつの?とガッカリした。話は、最後まで聴かないといけない。「良いことがあれば、必ずその分だけ悪いことが来る」と信じてきた。人生はプラスとマイナスでチャラになる。あんなに高いお金で契約して、すてきな奥さんももらい、2つの幸せをつかむと、翔平君の体に具合の悪い部分が出てしまうかもしれない。だから野球には関係ないところで悪い部分が出てほしいと思っていたら、それが出てくれた」 苦労人の欽ちゃんだからこそ言えることだ。

 欽ちゃんは、この日、神奈川県の伊勢原市のお寺に桜の植樹のために来ていた。この寺には、欽ちゃんが大好きだったスミちゃんが埋葬されている。欽ちゃんとスミちゃんのスミちゃんとは、欽ちゃんの奥さんのことである。スミちゃんは、欽ちゃんが有名になって、傍にいると欽ちゃんの人気に影響すると、子供たちと東京を離れて神奈川県に住んでいた。スミちゃんは、2020年に亡くなった。欽ちゃんのスミちゃんへの想いは、『ありがとうだよ スミちゃん 欽ちゃんの愛妻物語』文藝春秋 1980円(税込み)に書かれている。欽ちゃんは、大谷翔平選手を心から応援している。だからこそ一世を風靡したコメディアン萩本欽一として、自分の体験を通して学んだことを伝えたかったのだ。

 私も大谷翔平選手の試合を観戦するのが好きだ。中継が午前1時であろうが、午前11時に始まろうが、できるだけ実況中継で観るようにしている。大谷翔平選手は、ドジャースと10年契約を結んでいる。10年後、私は、86歳になっている。いままであと3年頑張って生きてみようと思って、『3年日記』を使ってきた。『10年日記』に替えたいが、今年新しい『3年日記』にしたばかりである。これから1年また1年と大谷選手の活躍を見守っていたい。

 アメリカやカナダで日本人ということで差別を受けた経験がある者にとって、大谷翔平選手のホームランの「カッギィーン」の打球音は、過去の屈辱を忘れさせてくれるほど心地よい。


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国会の椅子にアレが

2024年04月15日 | Weblog

  国会中継をテレビで観ていた。国会の椅子は、金華山織(毛足のついたジャガード織物で和歌山県高野山口が産地の織物)の豪華なものである。たまたま空いていた椅子が映った。椅子の上に何か異様な物が置いてあった。目を凝らしてそのモノを見た。間違いない。骨盤サポートチェアだ。

 最近私は、行きつけのスーパーマーケットでくれるグリーンスタンプで、この骨盤サポートチェアをもらった。パソコンの前に座っている時間が長い。妻に椅子に座っている姿勢が悪いと言われる。自分では気を付けているつもりだが、自然に猫背になってしまう。そればかりではない。立っているより、座りたい。コメディアンの萩本欽一さん(82歳)が、書いていた。「椅子に座るようになったら終わり。昔テレビで私に椅子を出す人はいなかった。でも今はすぐに出すし、すぐ座る」 76歳の私も、最近どこでも椅子を探すようになった。電車でもバスでも座りたいと思う。更に座る時、「よっこいしょ」「どっこいしょ」と声を出してしまう。

 ある日、行きつけのスーパーでグリーンスタンプの券で商品に交換できる品のポスターが壁にはってあった。今までこのグリーンスタンプの券を交換したことはなかった。ずいぶん貯まっていた。冷蔵庫にマグネットで張り付けてあるだけ。ポスターの中で一番目立っていたのが、骨盤サポートチェアだった。帰宅してネットで骨盤サポートチェアのことを調べてみた。

 もう右脚の痛み痺れが3カ月以上続いている。整形外科へも行った。聴力にも問題があるのか、医師の言っていることがほとんど聞き取れなかった。医師は、小さな声で話す人だった。ただ何となく聞こえたのが、坐骨神経痛という言葉だった。処方してもらった薬もまったく効果がなかった。整形外科での診療を止めた。テレビのYou Tubeで坐骨神経痛の番組を色々観た。坐骨神経痛にマッサージが効くらしい。試しにショッピングセンターにあった店に行った。もともとマッサージを受けると、後に揉み返しのような症状が出る体質なので、マッサージを受けたことがあまりない。マッサージの効果もなかった。妻に相談しても「四十肩やぎっくり腰と同じで、医療で治せない事でも、時間が治してくれることもあるから、待ってみたら」としか言ってくれなかった。でも確かに時間が一番の効果だった。杖なしで歩けなかったが、このところ杖なしでも何とか歩ける。妻が言うように、時間が立つことで快方に向かっていると信じたい。

 国会の骨盤サポートチェアを見た時、議員の中にも腰痛などの問題で、いろいろ試しているのだと、同病相憐れむ感情を持った。しかしあの議員が座る椅子の値段は、200万円くらいするという。200万円の椅子に、4千円から高くても1万円くらいのプラスチック製の骨盤サポートチェアが乗っているのが滑稽。私は、1万円の椅子に骨盤サポートチェアを置いている。時間の経過が効いてきたのか、骨盤サポートチェアが効いているのか分からないが、脚が良くなってきている。散歩を継続するしか、私ができることはない。痛くて歩幅が小さくなったので、同じ距離を歩いても、万歩計の数字がずいぶん増えた。


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イチ静岡県民として

2024年04月11日 | Weblog

  私が住む静岡県の知事が辞職した。知事は1日の新規採用職員への訓示で「野菜を売ったり、牛の世話をしたり、ものをつくったりとかと違って、基本的に皆さま方は頭脳、知性の高い方たち」と発言。報道には、言葉狩りの傾向がある。ある人が言った内容の一部を、記事を発信する人が、その部分だけを取り出していいように加工してしまう。しかし今回の知事の発言は、明らかに差別的である。

 私がまだ中学生だった時、高校受験を前にして受験校を選ばなければならなかった。三者懇談といって、親・生徒・担任教師がどの高校を受験するか話し合った。当時、成績によって普通校、工業校、商業校、農業校という暗黙のランク分けがあった。普通校の中にも県立・私立の区分が存在した。私は、江戸時代の士農工商の制度がこんな形で色濃く残っていると感じた。今回の静岡県知事の頭の中も、まだ江戸時代の士農工商から脱却できていないのではと思った。

 私は、日本の高校からカナダの高校の最終学年へ移った。小さな全寮制の高校だったが、日本のいわゆる総合高校のようだった。選択できる科目が多かった。途中変更も可能だった。私は数学を選択した。最初3人生徒がいた。2学期制だったが、1学期終了した時点で2人が他の科目へ移って私ひとりが残った。日本の高校では、数学はビリで追試の常連だった。しかしカナダの高校3年生の数学は、二次方程式が主だった。教科書に三角関数もあったが、教師が「三角関数は、大学で」と言って省いてしまった。日本の高校で私を教えた教師が、私のカナダでの数学の成績を知ったら、気絶するであろう。所変われば…の実例である。カナダのその高校の選択科目の中には、自動車運転免許、農業、タイプ、料理などがあった。

 私は、日本の衰退の原因の一つに、教育制度があると思っている。辞職した静岡県知事は、もと早稲田大学の教授だった。英国のオックスフォード大学の大学院へ留学もしている。彼が言う「…頭脳、知性の高い」は、自分の事を指しているのであろう。彼の中では、江戸時代の士農工商や私が中学生で高校受験の際の学校選択基準が残っているのかもしれない。私は、鎌倉円覚寺で見た「本当の教養とは、気配り・目配り・手配りである」を思い出す。“頭脳・知性”を教養に置き換えれば、静岡県知事に本当の教養はないと思わざるを得ない。  日本では括り(くくり)が重要な意味を持つ。家柄、出身大学、職業などなど。括り(くくり)は、便利であるが、危険でもある。日本の教育は、括り(くくり)の制度になってしまっている。一度その括り(くくり)に入ってしまうと蟻地獄のように、そこから抜け出すことが難しい。

 私は、終の棲家と決めた地が、たまたま静岡県だった。この前の県知事選挙でも投票している。私が投票した候補者は、当選しなかった。静岡県民は、辞職した知事を選んだ。彼に選択の権限を与えたのである。リニアを延期させようが、県庁をシンクタンク扱いしようが、野菜を売ったり、牛の世話をしたり、ものを作ったりする人の頭脳知能が低いと言おうが、選挙で彼に権限を与えたのだから、文句は言えない。毒を食らわば皿まで、になってしまう。

 日本社会に括り(くくり)が歴然と存在する限り、次の選挙でも括り(くくり)の中の候補者が当選する。日本が再び発展の途に就くには、相当な括り(くくり)の除去が必要だ。面倒くさいこと満載だが、きっとできる日が来る。

 


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バブル期と変わらない銀行

2024年04月09日 | Weblog

  ネットのニュースにタレントの上沼恵美子さんが、最近失礼な態度をとった銀行員に腹を立て、即座にその銀行の預金を解約したとテレビ番組の中で話したことを読んだ。私の妻も、同じような理由で、先週銀行から預金を他の銀行に移したばかりだった。

 私がまだ長野県で塾を経営していた時、世はまさにバブル絶頂期だった。会社を経営していた知人と銀行借り入れの話をしていた時、「ところで、銀行のゴルフに招待されたことある?」と尋ねられた。私は、ゴルフをしたことがなかった。銀行とゴルフに何の関係があるのかと不思議に思った。知人が続けた。「銀行は、貸しても良い客とダメな客を選別していて、ゴルフに招待されるのは、銀行が認めた良い客だけなの」 知人は、もちろんゴルフに招待された銀行に認められた良い客だった。そう言った知人もバブルが弾けると会社が倒産して、家族と夜逃げしてしまった。私は、自転車操業だったが、何とかバブルが弾けた後も塾を存続させることができた。銀行とは決して良い関係ではなかった。

 私は、塾を閉鎖して、再婚した妻の海外赴任に同行した。ゴルフを夫婦で始めた。ゴルフがこれほど楽しいものだと初めて知った。ゴルフと聞くと、バブル期の銀行主催のゴルフを思い浮かべ、良い印象を持たなかった。

 銀行と良い関係を持てなかったのは、私だけではなかった。妻も銀行といろいろと問題があった。最初東京のみずほ銀行に口座を持っていた。住宅ローンのことで、みずほ銀行の女性行員の失礼な態度に腹を立てていた。ちょうどその頃、終の棲家として購入した集合住宅に静岡銀行の行員が勧誘に訪れた。私はいろいろ彼の話を聞いて、この人ならと思って、妻に静岡銀行と取引するよう勧めた。こうして静岡銀行との取引が始まった。しかしそれも長くは続かなかった。勧誘に来た行員の転勤によって、いろいろ面倒が起きるようになった。

 1カ月前、預金の件で、妻が静岡銀行の担当者に電話した。担当者に繋ぐよう交換手に告げると、担当者でない行員が電話口に出て、「〇〇さんは、退職しました」と言われた。それ以前だったら、担当者が交代すると必ず引継ぎがあった。電話に出た女性行員は、何も引継ぎがなされていなかったので、まるで話が通じなかった。

 後日、私は、妻に静岡銀行を勧めた責任を感じたので、静岡銀行へ出向いて、店長と話そうと思った。銀行の受付で「店長いますか?」と尋ねると「はい、おりますが、ご用件は?」と聞かれた。説明した。ブースに通された。出て来たのは、次長だった。店長は、私との面会を拒否したのである。妻と後日、静岡銀行の頭取に手紙を書いた。担当支店の説明を文書で申し込んだ。でも文書は、結局届かなかった。

  銀行に詳しい友人に相談した。友人は、私から見ると資産家である。彼は、「銀行なんて、10億以下の預金者なんて相手にしていないって。何かしてくれると、期待しちゃダメ。」と言いながら、銀行をすぐに代えろと彼の取引している銀行を勧めた。

  最近、テレビで銀行の新規口座開設の宣伝が多い。銀行は、預金を集めて、その金を貸して利ザヤを稼ぐのが仕事。庶民の預金だって一人10億は無理だけれど、百万円ずつ千口なら10億になる。銀行がいつまでこんな高ピーな態度をとっていられるか。政治屋の裏金問題も、銀行の不遜な営業態度も、自分たちを偉い者と勘違いしているからだと思う。やはり人は、目配り・手配り・気配りが基本で、謙虚な気持ちが大切だと思った。預金は、移すことにした。

 


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兄と妹が隣同士のビルで働いている。

2024年04月05日 | Weblog

  4月3日水曜日午後、アメリカからの客人と娘の会社で会うことになった。私は、これまで娘の勤める会社に行ったことはなかった。アメリカからの客人が、娘の勤める会社を見学したいと言ったという。たった2週間の滞在である。はとバスでの東京見物、上野公園の桜、山梨県の新倉山浅間公園(桜と五重塔と富士山で外国人旅行者に有名)、そして関西地方へと日程は、タイトに埋められている。そんな中、半日を娘の会社見学に当てるとは。でもその申し出のお陰で、私も初めて娘の働いている会社に足を踏み入れることができた。

 私は、娘がアメリカのカルフォルニアの大学を卒業した後、てっきり娘は、アメリカで就職すると思っていた。ところが娘は、納豆を毎日でも食べたいという理由で帰国してしまった。時は、まさに就職氷河期だった。特に海外の大学を出た帰国子女の就職は厳しかった。やっと受かったのは、ホテルだった。そのホテルでは、英語ができると言うだけで、酷い苛めに女子社員から受けて、娘は顔にアレルギー反応を起こした。顔一面が赤く腫れ、人前に出られる状態ではなかった。1年でホテルを辞めた。その後は、派遣会社に登録して、働いていた。ドイツの会社で働いていた時、上司から声をかけられてそこの正社員になった。その上司がヘッドハンティングされてアメリカの会社に移った。娘も請われてその会社に移った。その会社で一緒に働いていた人が、やはりヘッドハンティングされて別のアメリカの会社に行き、娘を推薦してくれて、同じ会社に入った。その後は、ずっとその会社に勤めている。

 会社の近くのスターバックスで娘の会議が終える2時半まで待った。アメリカの客人も合流して会社に向かった。入り口に厳重なゲートがあった。娘がひとりひとりに入場許可証を渡した。それを読み取り機にかざして入った。オフィスといってもまるで美術館の展示場のようだった。ビルの2フロアーを借りている。ワンフロア―が広い。あちこちに喫茶店のようなスペースに飲み物やスナックが置かれていた。以前テレビでアメリカのアマゾンやフェイスブックなどの会社の内部を紹介する番組で観た光景だった。就業時間内だったので、廊下にも喫茶コーナーにもあまり人はいなかった。それでも何人かの社員に会った。そのたびに娘が「My father」と紹介した。いろいろな人種の社員がいた。

 娘の人生を決定づけたのは、娘がアメリカでの12年間に渡る生活であることは間違いない。馬鹿な親の離婚で、幼い娘も息子も理解不能な暗闇に落とされた。アメリカで家族の一員として育ててくれたシアトルの家族がいたからこそ、今の娘がある。そのアメリカの家族の一人が今回娘の働く日本支社を見たいと訪ねてくれた。

 娘もいろいろな苦難を乗り越えた。今は男女の賃金にも役職にも差別のない職場で働いて、毎年会社への貢献度によって、毎月自社株の配分まで受けられる。

 見学を終えて許可証を読み取り機に当て、外に出た。隣の大きなビルを見上げると、そこはなんと長男が勤める会社の本社ビルだった。娘にそう言うと「あれ、パパ知らなかったの」と言われた。親の離婚によって、日本とアメリカに分かれた兄と妹が、期せずして東京で隣同士のビルで働いている。

 娘が携帯電話で呼んで、料金まで済ませてくれたウーバータクシーで妻と合流する東京駅に向かった。私が生きたのとは明らかに違う、別の世界に息子も娘も行ってしまったと感じた。それでいいのだ。私はやるだけのことはやった。


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アメリカの恩人

2024年04月03日 | Weblog

  アメリカワシントン州シアトルに私の娘を7歳から預かってくれた家族がいる。両親と5人の子供の家族に、私の長女が加わった。子供は、一男四女でもう一人女の子が増えた。私の長女の年齢が一番下だった。

 4月2日に一男四女の一男が夫人と来日した。3日水曜日の本日東京で再会する。母親と一男四女の内、二人長女と次女が来日していた。私は娘を我が子我が姉妹として育ててくれたこの家族にどう感謝しても感謝しきれない。恩人の家族である。

 両親は、日系2世と3世である。夫の父親は、滋賀県出身でアメリカの鉄道を敷く工事現場で働いた。妻の祖父は、群馬県出身の農家の五男だった。当時アメリカに移民すると一定の土地が与えられた。群馬にいても、五男だと農地がもらえないので、アメリカに移民した。シアトル郊外で養鶏場を始めた。毎日、馬車に鶏卵を積み込んで、シアトルまで売りに行ったという。双方の親は、子供を苦労して大学に行かせた。

 2世の夫と3世の妻は、州立ワシントン大学で知り合い学生結婚した。その後、カナダのキリスト教の聖書大学に3人の子供を連れて入学した。その学校の高校の部へ私が留学していた。ある日、その夫妻から夕食に招かれた。既婚者向けのアパートだった。日系人なのでご飯と野菜炒め(チョップスウエイ)をだしてくれた。毎日、来る日も来る日も、学校の食堂でオートミールかマッシュポテトの食事だった。白いカルフォルニア米と緑濃いサヤエンドウや醤油味に涙がこぼれた。夫妻と長女次女に長男が一緒だった。その時、長男は、まだ2歳になったかならないくらいだった。その長男が今回日本に来て、今日再会する。

 カナダの学校は、冬はマイナス40℃になるほど寒かった。シアトルは、湾に流れ込む暖流のお陰で、冬でも雨が降るくらいだ。夫は、1年在学してシアトルに戻り、ボーイング社の会計部署で働いた。夏休みやクリスマス休みには、招かれてシアトルに行った。こうして交流が進んだ。

 私は、その後、日本に帰国した。そして結婚して二人の子供に恵まれた。結婚は7年で破局。二人の子供を私が育てることになった。シアトルの夫妻にも相談した。夫妻が預かってくれることになった。私の長男は、全寮制の高校へ、長女は、こうしてアメリカへ渡ることになった。私は、二人への仕送りのために、昼間は、専門学校や予備校、夜は、自分で経営していた塾で、その後は、家庭教師をしていた。

 長女は、最初の頃、英語もわからず、泣いて過ごしていたが、1年もしないうちに家族の一員として家族に溶け込んでいた。日本の小学校で、赤い絵を描くと担任教師が、娘の心の状態を心配してくれた。私は、娘に毎日手紙を書いて出した。息子には、週一回手紙を書いた。

 長男は、自分だけ日本に残って留学できなかったと不満げだったが、大学を卒業して自分の家庭を持った。長女もアメリカの大学を卒業して、日本でアメリカの日本支社で働き結婚して子供が生まれた。私も子育てを終え、再婚して穏やかに暮らしている。アメリカの恩人家族のお陰である。今日は、その思いを伝えたい。


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お前もその年が来るんだよ、ばかやろう

2024年04月01日 | Weblog

 次の衆院選への不出馬に関する会見で記者から「このタイミングで次の衆院選の不出馬を決められたっていうのはやはり、政治資金パーティーの問題不記載であったことの責任を取られたと考えていいのか。それとも、(二階氏の)ご年齢の問題なのか」と問われたことに対し、二階氏が「おまえもその年、来るんだよ。ばかやろう」と答えた。

 私は、二階俊博元幹事長(85歳)がテレビに登場するたびに、歩き方や肌の色や髪の毛などに年齢相応の変化を見ていた。今回の会見で言い放った「おまえもその年、来るんだよ。ばかやろう」に私は強く反応した。思い出した。哲学者で文筆家池田晶子の遺稿『週刊新潮』の『墓銘碑』に書かれていたローマの墓銘碑「次はお前だ」。あの会見が映画なら二階さんの演技は、宇野重吉や志村喬なみだった。特に「ばかやろう」には、二階さんの万感が閉じ込められていた。“ばかやろう”は、決して良い言葉ではない。他人に言ってはならない言葉である。あの“ばかやろう”は、二階さんが自分に、どうにもならない人間の老いに苛立ちに発した言葉ではないだろうか。

 私自身、コキロク(古稀+6歳=76歳)で脚は原因不明の痛みと痺れなど年齢による劣化を日々感じている。昨日、住む町でマラソン大会があった。二千人以上の参加者があったらしい。たまたま散歩コースにマラソンコースが一部含まれていた。朝10時のスタートだった。15分前頃マラソンのスタート地点を通った。胸にゼッケン番号をつけた老若男女がウォーミングアップで準備体操したり走っていた。同じ人間には思えない。特に老人と思われる参加者の顔や皮膚は老人でも、脚や筋肉などは、サイボーグのようだった。老人といってもいろいろな年の取り方がある。私は、自分の現状を素直に受け止めようとしている。あきらめていると言った方が、正しい。

 子供の頃、周りに年寄りは、今ほど多くなかった。時に70歳80歳だという人に会うと、絶対に歳をとってあのような姿になりたくないと思った。すでにコキロクになった。子供の頃、絶対なるのが嫌だと思った老人になった。妻はまだ働いているが、私は家にいて、待つのが仕事で散歩が日課。テレビでアメリカ大リーグドジャースの大谷翔平選手の活躍や、選抜高校野球球児たちの躍動、大相撲の力士たちの活躍を楽しんでいる。もう自分にはない若さを静かに傍観している。

 後ろを向けば、若い頃の失敗ばかりがよみがえる。どんない悔やんだところで取り戻すことなどできやしない。今に向き合えば、これもできないあれも無理。将来に向き合えば、拡声器から「次はお前だ」のシュプレヒコール。散歩は、そんな雑音を消してくれる。目が耳が桜の開花を、鳥のさえずりを、ツバメの飛行を、木々の芽吹きをとらえる。杖がなければ歩けないが、それでも小さな歩幅で前に進む。最近、万歩計の数が増えた。歩幅が小さくなってしまったせいかもしれない。万歩計の数字に一喜一憂する。

 二階俊博元幹事長(85歳)を政治家として評価はしない。あのタイプは、好きになれない。でも同じ老いを背負っていることには、共感する。どんな生き方をしても必ず終わりがくる。今年も見事な桜を見ることができた。穏やかに生きて、来年も桜を見られたら嬉しい。


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