団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

アオスジアゲハ

2008年07月30日 | Weblog
 3日前、散歩に出かける前にカメラを持っていくかどうか迷った。外はカンカン照りだった。歩き出す前から体がだるい。こんな日はさっさと散歩して、あとは家でダラッとしているにかぎる。

 カメラは持たなかった。太陽がギラギラ肌を刺すように照りつけた。川のふちを歩けば少しは涼しいだろうと読む。長い下り坂を川に沿って、太平洋に向かって歩いた。川の水は澄み、水の中のコケや水草がよく見える。鮎が解禁になり、川には、釣り人が何人もいた。広く砂が堆積している場所に来た。目を疑う。30匹。イヤ、40匹はいるだろう。アオスジアゲハの大群である。アオスジアゲハは綺麗な蝶である。独特なすばやい身のこなしというか飛び方は、他の蝶と違う。久々の興奮。心臓がドキドキする。カメラを持ってこなかったことを悔やむ。

 昨日、カメラを持って同じ場所へ行く。数は少なくなっていたが、それでも5,6匹いた。早速写真を撮った。撮りながらあることを思い出していた。

 私は小学生の時、昆虫採集に夢中になった。信州の美ヶ原のまわりは昆虫の宝庫である。夏休み、親戚の家に泊まりこみで、その家の次男坊の昆虫ハカセのタケ兄さんに弟子入りした。彼の風格からか、兄さんと呼ぶことに私は何の躊躇もなかった。この人は後に秋田大学鉱山学科を卒業して石油の発掘の仕事についた。とにかく昆虫や岩石に興味をもち、その行動範囲はあの辺のツキノワグマと負けないぐらいと言われていた。

 タケ兄さんは山に入ると、弟子の私の存在を忘れてしまう。40年後にサハリンで出会うリンさんに似ている。それでも弟子は役に立つことはある。オオムラサキを見かけると、タケ兄さんはカンカラを私に手渡して、「早くここへ小便を」と言う。タケ兄さんの目はオオムラサキを追っている。私は訳がわからない。いくらあけぼのサバの味噌煮の缶詰の空き缶だって汚いよ。タケ兄さん、おしっこをどうするの?飲むの?喉が渇いたなら、僕の水筒に水はあるよ。知ってか知らずか、また声を抑えて怒鳴る。「小便、まだか?」私は崖のそばに近寄って、小さいおチンチンを引っ張り出して缶の中にあふれるまで気持ちよく排泄した。「ハイ」と言ってタケ兄さんに渡す。「ギャア、何でこんなに入れるんだよ。ちょっとでいいんだよ。オオムラサキはアンモニアにつられて缶のまわりに集まるんだから」タケ兄さんは凄い。そんなこと学校の先生は教えてくれなかった。

 タケ兄さんは、リュックから今度は日水のいわしの蒲焼の缶からをだして、そこへ僕のおしっこを大切そうに移した。そしてあけぼののカンカラを道路のみずたまりのそばに置いた。崖の下の草むらにふたりは隠れた。タケ兄さんは3段つなぎの補注網をすぐ使えるようにしっかり握った。待ちかたもハカセは風格がある。

 車も人も通らない山の中の道、ジイジイゼミや名前も知らない虫の音が深い谷の中に響く。やがてオオムラサキが僕のおしっこに群がり始める。一匹二匹三匹、どんどん集まる。あけぼのの缶からが光る。オオムラサキが乱舞する。見とれる私。

 私だったら一度にできるだけ多くの蝶を捕ろうとする。しかしタケ兄さんは、目利きである。プロである。種の保全もちゃんと頭にある。群れの中で一番りっぱなオオムラサキをじっと狙っていた。タケ兄さんはまるで時代劇のヒーロー侍のように補注網をオオムラサキめがけてサッと一振り。入った。補注網の口を上手に閉じて、網の上からオオムラサキの体を羽が痛まないように抑える。道具箱から医者のように注射器を出して防腐剤を注入。三角箱から三角紙を取り、丁寧に蝶を収める。戦後まもないまだみな貧しい暮らしだった。タケ兄さんの家だって決して裕福ではなかった。なのに私には知らない世界がそこにあった。

 帰りに崖で岩石採集用ハンマーを使って、水晶まで掘り出してくれた。凄いものである。今でもその水晶は私の宝である。

 あの時以来きっぱり昆虫採集は辞めた。今回のアオスジアゲハの大群も私は、カメラにおさめるだけである。私はそれで満足である。何事も道を究めるには、並大抵の努力では達成できないとタケ兄さんは教えてくれた。タケ兄さんの部屋で博物館のように整然と特別なガラス箱に並んだ蝶のコレクションを見て度肝を抜かれた。生半可な行動を取るくらいなら、やらないほうが善い。やるなら徹底して打ち込む。遠い遠い夏休みの思い出である。とても大切なことを学んだ貴重な体験だった。
写真:アオスジアゲハ

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蕎麦屋の新人さん

2008年07月25日 | Weblog
 時々お昼に蕎麦を食べる。駅の近くの蕎麦屋に入る。家の近くにある蕎麦屋のように、蕎麦を工場から仕入れるのではなく、自分の店で律儀に毎日蕎麦をうつ店である。蕎麦の味も、つけ汁の塩加減も、蕎麦の喉越しも気に入っている。

 聞いたことのないいつもより若めの「いらっしゃ~い!」の声に迎えられた。私はこの蕎麦屋では席を決めている。座敷の玄関に近いテーブルに靴を脱いで座った。いつもの二人の70歳代の腰の少しまがった、おばあさん接客係がいない。50歳くらいの女性が「どうぞ~」とお茶を持ってきてくれた。初めて見る店の人だった。真っ白い三角巾で頭を被い、エプロンをビシッと締めていた。張り切っている様子がみなぎっていた。

 「お新香は前!」とキツク咎める若主人の声が調理場前からとんだ。ちらっと顔を上げてみた。さっきの新米さんがうなだれていた。うっと両手の握りこぶしに力を込め、カウンターに用意されたランチのお盆を椅子席の夫婦客に運ぶ。3箇所ある椅子席のうちの玄関脇のテーブルが空いた。新米さんが片付けた。お盆に空いた食器や割り箸を乗せ、ふと私のほうを見た。私は食前の糖尿病の薬をお茶で飲もうとしていた。

 新米さんが「お薬のお水お持ちしましょうか?」と言ったその瞬間、お盆のフチが爪楊枝入れに当たった。つま楊枝入れには、ぎゅうぎゅうづめに補充されたばかりだった。きっと新米さんが開店前に詰めたのだろう。空を舞って床に落ち、つま楊枝が床に散らばった。新米さんは床にひざまずきアッという間にかき集めた。それをどうしたかは、書けない。私は(やるじゃん)とほっとする。

 間もなく周りが冷えた水でうっすら曇ったグラスを私に持ってきてくれた。「ありがとう」とだけしか私は言えなかった。

 しばらくすると新米さん、「お待たせしました~。ハイ、カツ丼で~す」と蓋をされたドンブリ、味噌汁、お新香をのせたお盆を私の前に置いた。夢よ覚めるな、と祈った。私は「ざる蕎麦頼んだんですけれど~」と言った。内心はどれほどこのまま食べてしまいたい、と思ったか。

 私は糖尿病で一日の摂取カロリーは1800と制限されている、カツ丼は高カロリーの食べ物なので私はもうこの20年ほとんど食べていない。新人はお盆ごと私の前から取り去り、調理場のカウンターへ注文を確かめに行く。そのままUターンして別のテーブルにその盆を持って向かった。若主人がカウンターの中から鋭い目つきを送っていた。

 私のざる蕎麦がくる。相変わらず旨い。満足する。 新人はモタツキ、間違い、戸惑い、ひっくり返しながらも何とか働いている。だんだん慣れていくことだろう。何歳であろうが新人は新人である。応援したい。

 帰り際、勘定をして「がんばってください」とやっと一言言えた。「は~い。ありがとうございま~す」根が明るい人なのだろう。明るいことは、良い事だ。彼女なら大丈夫と確信できた。「ごちそうさま」

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ホクロ

2008年07月22日 | Weblog
 小学校の美術の授業でモデルになったことがある。

 皆が私をデッサンで描く前に教師がクラスに質問した。「みんなの思うとおりにモデルの特徴をあげてみてください」「顔がでかい」(私もそう思っている)「頭の後ろがまっ平らだと思います」(それを言うな。気にしているんだぞ)「ホクロが多くてゴマ塩のオムスビみたいです」(一生忘れないぞ。よくも一番悩んでいることをいったな!N)クラスがどっと笑った。

 あろうことか教師も笑いをかみ殺していた。『先生、大きな声をだして笑われたほうが、僕はずっと楽です。笑いをかみ殺すということは、あまりにも裏の感情が透けて見えてしまうのです』 数日間私はだれとも口をきかなかった。劣等感のどん底に沈んでいた。前から鏡は好きではなかったが、それ以後意識的に鏡を避けた。

 確かに私はホクロが多い。あまりに多くてホクロ占いができない。歳を取るにつれて、我が一族が共有する左の眉毛のはじまり地点にあるホクロが、膨らんで大きくなってきた。私を含めて4人姉弟だが、会うたびに、同じ位置の等しく大きく膨らむホクロに、最初に目が行ってしまう。血は水よりも濃いとドキリと感じる。

 床屋で顔を剃ってもらう時、きっと邪魔だろうなと謝りたくなる。首にあるホクロは自分で髭剃りするたびに血だらけになっていた。本で知ったのだが、ホクロは皮膚癌になりやすいそうだ。ホクロの癌は、髭剃りなどの刃物による傷つけの繰り返しも原因になると聞いた。ヒゲが濃いほうである。心臓の手術以来妻があまりの血だらけ髭剃りを見かねて、妻が髭剃りをしてくれる。

 ホクロを忌み嫌ったが、ホクロのおかげで今では必要な時、いつでも嫌がらずに妻が髭を剃ってくれる。妻は髭剃りが楽しいという。バスタオルを首の回りに巻き、台所の踏み台を椅子代わりに、にわか床屋ができあがる。

 熱い沸かしたての湯で、髭剃り専用のシャボンを専用ブラシを使い泡を立てる。まだ熱いシャボンをブラシで顔に塗りたくり、熱い湯の中につけておいたジレットの3枚刃のカミソリで、妻はシャッシャッと軽快に上手く剃る。私の至福の時である。おかげでホクロからの出血はこの5年間一度もない。

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シートベルト

2008年07月16日 | Weblog
 日本のシートベルト着用が、今年6月から後部座席でも義務化された。

 今から8年前、チュニジアのチュニス市の郊外の交差点で、私の乗った車が空中を飛んだ。何が起こったかしばらくわからなかった。すべてがスローモーションの世界に浮遊していた。そのふんわり感は、突然フロントガラスが割れ、音とガラスの破片が私を襲った時終わった。空を飛んだ車が縁石に激突したのだ。同時に巨体の運転手が、まるで岩石のように私の上に覆いかぶさってきた。運転手の左肘が私の胸にめり込んだ。私は呼吸困難におちいった。私を打ちのめした運転手は、次の衝動で自分の側のドアに激突し気を失った。

 チュニスにはいたるところにカフェがあり、仕事のない多くの男たちがたむろしている。事故の場所はちょうどそんなカフェがたくさんあるところだった。多くの男たちが車の回りに集まった。アラブ人はただの野次馬ではない。ただちに彼らは救助隊隊員に早代わりした。アラブ人はどんな立場地位にも変身できる鷹揚な気持ちと器用さを持っている。衝突で複雑に喰いこんだドアを男たちは、いとも簡単に引きはいだ。私は5,6人の男にすべて持てるところをつかまれて、ぶる下げられるようにして、平らなところに運びだされ、横たえられた。

 シャツのボタンをはずして首を楽にしてくれた人もいた。一生懸命板をあおいで風を起こしてくれた人もいた。どんなに私が話したくても呼吸困難になっていて声を発することはできなかった。信号無視して交差点につっこんだ私の運転手は気絶したまま、やはり大勢の男たちに車から運び出されて日陰に横たわっていた。

 さっきまで夢見ているようだったスローモーションの世界から、じりじり照りつけるチュニジアの太陽の灼熱と、おそらくは肋骨がおれているであろう胸の息も詰まるような熱い痛み、頭も強打しているのか耳が、音叉器の共鳴のようなバックグランドミュージックを拾っていた。おそらく私の命を救ったのはシートベルトだったのだろう。そのシートベルト接触面がそのままの強烈なしびれを起こしていた。運転手は何度言ってもシートベルトをしなかった。

 アラブ人の多くは、頑固で見栄っ張りでお調子者である。自信過剰というか、物事を甘く見ている。それがこの結果である。運転手はシートベルトで命をひろった私を、今度は自分が岩石のような凶器になってぶつかり殺したかも知れない。いい気に気絶なんてしている場合ではないだろう。だんだん呼吸が普通にできるようになってくると、普通の思いが戻ってきた。

 大使館ではまだ働いている妻がこの事故を知れば何と思い、どれほど心配するだろう。日本に住む二人の子どもたち、もし私がここで死んだならどんなに悲しむだろうか。それにしても何とか離婚後男手ひとつで二人とも大学を卒業させるところまでこれてよかった。

 英語が聞こえた。「もうじき救急車と警察が来る。あなたはどこのだれですか?」 それを聞いて思い出した。事故事件に大使館館員および家族が遭遇した場合、第一になさねばならないことは? 大使館へ連絡をいれること! 私は立ちあがろうとした。何人かの男が支えた。「電話をかけたい!」声がでる。

 でもどうしても自分が話しているように思えない。まるで別の自分がいるような感じだった。チュニジアには公衆電話というものはほとんどない。電話を個人や商店で管理し貸す商売があり、市民の多くがこれを利用している。

 アラブ人はこのような時太っ腹である。私は金を持っていない。車の中のカゴの中にサイフはあるのだろう。電話屋のおやじは手で使えと、指し示した。ところが私のメモ帳がない。「アンバセ ド ジャポン!(日本大使館)」と私はフランス語(?)でつぶやいた。オヤジは受話器を私からひったくった。しばらくしてオヤジは私にやさしく受話器を握らせた。大使館の交換手が出た。「ドクトール  シルブプレ」「はい、医務官です」「事故」「どこ?」「わからない」「電話だれかに代わって」私は電話屋のオヤジに電話を渡した。オヤジが興奮してフランス語でまくしたてる。私は安堵感からか、そこで気を失った。

 結局救急車で運ばれた公立病院で1時間待たされたが、診てもらえず、妻(医務官)の判断で、大使館と契約している私立の病院へ運転手と私は、タクシーで妻付き添いのもと転送された。そこで運転手は軽い脳震盪だけで、私は全治1ヶ月の肋骨1本の骨折と診断された。

 当時チュニジアの日本大使館に勤務していた井ノ上正盛書記官は、警察の取り調べにアラビア語の通訳として長時間私と同席して助けてくれた。その後イラクに転勤して、奥大使と壮絶な殉職をされた。謹んでご冥福をお祈りしたい。彼の気配りある協力を忘れない。

 ケガから回復後、真っ先に私はチュニジア人の友人に頼んで、事故の時助けてくれた現場の人びとへの感謝の手紙をアラビア語の新聞に掲載してくれるよう依頼した。

 事故以後、私はどこであれ、車に乗ればシートベルトを必ずする。私の車に誰か乗せるときは、必ずシートベルトをするように頼む。私は自分でシートベルトの威力を体験できた。あの日シートベルトをしていなかったなら、今頃チュニジアの墓に入って“千の風”を唄っているだろう。みなさん、必ずシートベルトを!

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手渡し

2008年07月11日 | Weblog
 最近、あるスーパーのレジでお釣りをもらう時、レジの女性が私の手を包むようにていねいにお釣りを渡してくれる。感じのよい若い女性である。ほとんど毎日家から出ることのない暮らしをしている私は、妻以外の女性の手に触れることはまずない。

 嬉しくて妻に報告した。きっと鼻の下がずいぶん長くなっていたのだろう。妻は最初聞こえないフリをした。2度目に口を開いた。「あのね、それは最近お店がきっと指導しているのよ」「サービスに男性客の手を握れって!」「黙って聞いて!お年寄りはオツリの小銭をよく落とすのよ。だからあなたも落とさないようにと、レジの女性があなたにしっかりおつりを握らせるためよ」「それって私がオツリをこぼしそうな年寄りだっていうこと」「そういうこと。わかった?」

 そう言われれば確かにあちこちで見る風景である。おとしよりがパラパラ小銭を落としては、這いつくばってさがしている姿。なるほどよく考えたものだ。歳をとるとなかなか一度にいくつのことも同時に片付けることは難しい。もたつきやすくなる。

 昨日、手を握ってオツリを渡してくれないスーパーで買い物をした。レジで私は財布の口を拡げている。おつりをもらえば、札は札を入れるところに、小銭は小銭を入れるところに収めなければならない。どこのスーパーでも札をまず渡す。その後、レシートは、小銭と一緒にくる。ここからがまごつく。レシートはどこへ入れる。財布か?ショッピングバッグか?ポケットか?ポイントカードが戻される。まだおつりはしまっていない。もう手にいろいろありすぎて、どうしていいかわからない。

 客の目、目、目。困ったな。3列しかないレジ。長い行列。私の次のおばちゃんが、私の全身を頭の先から足の先まで、冷たく(あんた何やってんの?馬鹿じゃない!)とにらみつける。レジの女性がレジ袋をカゴに押し込む。いそいで私は「バッグ持っているのでこの袋いりません」レジ袋を返す。カゴにそのためにマイバッグのカード入れたのに。エコも大変だ。

 財布のフックが閉まらない。このままではカゴを持てない。すべてをポケットに押し込める。小銭がひとつ落ちた。コロコロとレジ台の下に転がり込む。まわりがしらけている。私は自信喪失。挙動不審者のように床に平伏し、5円玉を拾う。私の顔はあの状況でも5円玉にニヤついていたに違いない。私は1円でも拾う。そういう性格である。

 やはり私は少し値段が高くても、次から手を握ってオツリを渡してくれるスーパーへ行こうと、その時決めた。もう這いつくばって小銭を探すのは、コリゴリである。年寄りに見られても良い。おそらく店のレジの女性は、オツリの小銭を落としそうな客を選んでいる。選ばれる気遣いを素直に喜びたい。レジの女性のやさしさに感謝しつつ、がっちりオツリをつかませてもらおう。それでみんながハッピーになることができる。

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AT交通

2008年07月08日 | Weblog

 駅に貼ってあった『大人の休日』の吉永小百合さまのポスターに誘われて、3日間JR東日本乗り放題12、000円の旅に出た。ポスターの小百合さまは、白とベージュの大きな旅行カバンに腰をおろして輝いていた。

 私は、安積仰也さんから引越しの時頂いた小さなカバンに、カメラと下着だけ入れて出発した。最初は青森県の弘前へ取材をかねて行く予定だったが、取材を申し込んだ先方の方の体調が思わしくなく、直前に中止した。予定を変更した。以前から福井県立図書館へあることを調べに行こうと思っていた。

 この特別3日間切符はJR西日本傘下の福井駅まで有効である。私の性格上、切符の行き着けるところまで行くことが、“得した”気分の定義である。駅のみどりの窓口へ行く。久しぶりに時刻表と首引きで調べ作りあげた予定表に指を這わせながら、20台後半の女性に上越新幹線の越後湯沢までの切符と越後湯沢から富山までの特急『北越号』の指定席を申し込んだ。「どちらも満席です」と冷たく言い放つ。その女性は機嫌が悪かった。きっと昨夜よく眠られなかったのか、今朝の目覚めがわるかったのだろう。私は自由席で行こうと決めた。

 出発の土曜日、妻は東京で講演会の講師を務めるというので一緒に出かけた。土曜日の夜、妻はひとり暮らしの母親の様子を見に田舎へ行き泊まる。私は福井で一泊して日曜日の午後長野から長野新幹線に乗り、途中で妻と合流して帰宅する相談をした。メモも渡した。

 東京駅で乗り換えの時間が30分ほどあった。それでもと思ってみどりの窓口へ行って、指定席を取れるか聞いてみた。窓口の女性は、笑顔の美しい人だった。「越後湯沢からの特急は満席ですが、長岡まで行くと5分の待ち合わせで金沢行きの特急の指定が取れます」何とやさしい、時刻表にも精通した女性であろう。「それでお願いします。ありがとう」私は深く頭を下げた。こうして私は富山まで快適に日本海を眺めながら旅した。

 富山到着はちょうどお昼だ。総曲輪にある「寿司栄本店」で寿司を食べようと路面電車で向かう。涙がでるほど美味しい寿司の最後のにぎりを口に運んだ。「ガリッ」(嘘!寿司栄のにぎりだよ。異物が入っている筈はない。“以前ウイーンでキジの料理を食べた時、鉄砲の弾がキジの肉に入っていて、歯を欠いたことがある”)誰にも見られないように口の中のものを出した。

 ありゃ!インプラントの2連の合金奥歯がポロッと手の上にずっしり重くのっている。歯をカバンにしまって、会計を済ませ路面電車に乗って富山駅に戻る。大阪行きの特急「サンダーバード」の自由席に座った。落ち着かない。口の中で舌は、右下奥のニョキッと飛び出した2本のボルトの形をていねいになぞる。もう旅行どころではない。いったいこのインプラントにいくら金を払い、どのくらいの期間歯医者に通ったか。

 福井駅に到着。タクシー乗り場に並び、タクシーに乗る。とても感じのよい運転手さんだった。県立図書館は駅からずいぶんと遠いところにあった。運転手さんは「帰りに迎えに来ましょうか?」と名刺をくれた。名刺に個人タクシーAT交通中口敏明とあった。

 閉館までの5時間相談員がつきっきりで協力してくれたが、とうとう資料を探し出せなかった。外に出ると暗かった。携帯でAT交通の中口さんに電話した。「10分で着きます」 9分で玄関横付け。ホテルの名を言った。中口さんと話した。ずっと観光バスの運転手をしていたそうだ。ところがひとり息子が癌で急死し、孫を残した。彼はバス会社を辞めて、個人タクシーを始めた。息子が以前個人タクシーをやるよう薦めたそうだ。息子さんの名前のイニシャルAと中口敏明さんのT、それでAT交通なのだと話してくれた。ホテルに着く。明日帰ることは言ってあった。「電車何時ですか?」「7時22分です」「6時50分にここにいます。ゆっくりおやすみください」と彼は去った。

 次の朝、時間通りに彼は玄関にいた。駅まで900円だった。「孫が息子の子供だったころと生き写しで、孫を見ていると自分が元気なうちにがんばろうと思うのです。だから仕事は選びません」 旅にはいろいろな出会いがある。直江津まで日本海を見ながらどんよりした天気の中、黙って海をずっと見ていた。

 直江津で長野行きの各駅停車の『妙高』、昔の信越線の特急『あさま』の車両に乗った。スイッチバックの二本木駅に着いた時、携帯がなる。デッキに走る。妻が「順調?じゃ電車の中でね!」 長野駅で長野新幹線『あさま456号』の1号車に乗る。しかし約束の駅で妻は乗り込んでこなかった。心配でいろいろな悪い妄想に沈んだ。交通事故?母親が急病?東京駅まで苦しんだ。

 乗り換えた東海道線の電車が川崎駅に着くころ携帯がなった。戸惑った。ドアにへばりついて、聞くだけだった。「ごめんね。電車まちがえちゃった」 妻はいつもこんな感じである。

 次の日、仙台まで日帰りする予定を取りやめて、歯医者へ抜けたインプラントの歯を持って行った。20秒で元に納まった。歯医者「もともとインプラントは掃除できるように外せるようにしてあります」 私(そんなこと聞いていません。初めからそう言うべきでしょう。3日間切符の一日分弁償してよ!) でも結局やはり何も言えない小心者の私。大変な“大人の休日”だった。

 もし福井へ行ってタクシーを使うようだったら、AT交通の中口さんの個人タクシーを呼んであげてください。AT交通 中口敏明 090-2031-6047

 


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老眼鏡

2008年07月03日 | Weblog
 2年前に眼科医へ行って、処方箋を書いてもらった。それをメガネの安売り店へ持ち込み、生まれて初めて老眼鏡を手に入れた。しかし使うことはなかった。多くの人と同じように、慣れない老眼鏡は私にめまいと不愉快さしか与えてくれなかった。裸眼で遠くは良く見える私は、老眼鏡をかけたまま遠くを見ると頭がクラクラした。

 裸眼だと本を読むのが大変である。清、溝などの漢字は、まずサンズイがゴンベンになり請なのか清なのかわからなくなる。ひどい時、青のように横線が多い漢字は、線が消えてしまう。もうそうなると解読不可能となる。それでも老眼鏡をかけずに、前後関係と読めるところだけの拾い読みで読み続けた。ほとんど推理ゲームであった。それでも読書はやめられなかった。

 とうとう降参するときがきた。老眼鏡をひっぱりだしてかける。あれどうしたことか、老眼鏡をかけても、字が読めない。妻は私よりずっと若いのに私より先に老眼鏡を使い始めている。本を読むときは、優雅に老眼鏡をケースから取り出し、おもむろに奥ゆかしく老眼鏡をかける。様になっている。

 先輩の妻に尋ねる。「老眼鏡、ちゃんと見えないんだけれど?」「いつつくったんだっけ?」「2年前」「早い人は1年で老眼がずいぶん悪化するそうよ。あなたの老眼、相当進んでいるんじゃない?メガネ屋さんへ行ったら」老眼鏡を下にずりおろして、裸眼で私を刺すように見ながら、妻は助言をくれた。

 次の日、メガネ屋へ行った。若いお兄ちゃん店員が馬鹿ていねいに対応してくれる。でもほとんど口を動かさないで、まるで腹話術師のように喋る彼の言葉が聞きとれない。店を間違えたのかと思った。私はメガネ屋でなくて補聴器屋へ行くべきだったのかと。ここでも推理ゲームをした。店での会話はこんなものである。検査室を指差されたので移動して、検査を受けた。終わって引き取り証なるものを渡された。彼は取りに来る日を言っているのだろう。最後の「・・とう・・ました~。」は聞き取れた。

 指定された1週間後なんとなくウキウキ気分でメガネ屋に足をはこんだ。おにいさん店員はいず、白いブラウスに黒いジーンズにカウボーイブーツの若い女性が応対してくれた。ケースから老眼鏡を取り出し、ずいぶんでかい印字のパンフレットを私の目の前において、ネイルアートをほどこしたピカピカの爪のついたぽっちゃりした指で、いくつかの字を指した。「メガネ○○」と私が読み上げると「そうですね。大丈夫ですね」とメガネを両手で私の顔からはずしてケースにしまった。「前のレンズどうなさいますか?」「いらないので処分してください」 どうしても(そのレンズどうするのですか?)とは聞けなかった。

 経済制裁を受けていた旧ユーゴスラビアのベオグラードのフリーマーケットや、アフリカの市場で、古いメガネのレンズだけを売っていた人がいたことをふと思い出した。

 私は飛ぶがごとく家に急いで戻った。ソファに横になり、いつもの読書スタイルに体を置き、リー・チャイルドの本を読み始めた。大きな声で「嘘だろう!」と叫んだ。もう何十年も経験したことのない鮮やかな活字の世界がある。サンズイはサンズイに見える。横線がたくさんある漢字もきちんと見える。当たり前の事なのに、昨日までのあのおぼろげな世界に放浪していた自分を哀れんだ。メガネによって今まではっきり読めなかった字が、嘘のように良く読めるようになった。それはそれで30歳に戻ったようで、嬉しいことでもあったが。

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