カメラは持たなかった。太陽がギラギラ肌を刺すように照りつけた。川のふちを歩けば少しは涼しいだろうと読む。長い下り坂を川に沿って、太平洋に向かって歩いた。川の水は澄み、水の中のコケや水草がよく見える。鮎が解禁になり、川には、釣り人が何人もいた。広く砂が堆積している場所に来た。目を疑う。30匹。イヤ、40匹はいるだろう。アオスジアゲハの大群である。アオスジアゲハは綺麗な蝶である。独特なすばやい身のこなしというか飛び方は、他の蝶と違う。久々の興奮。心臓がドキドキする。カメラを持ってこなかったことを悔やむ。
昨日、カメラを持って同じ場所へ行く。数は少なくなっていたが、それでも5,6匹いた。早速写真を撮った。撮りながらあることを思い出していた。
私は小学生の時、昆虫採集に夢中になった。信州の美ヶ原のまわりは昆虫の宝庫である。夏休み、親戚の家に泊まりこみで、その家の次男坊の昆虫ハカセのタケ兄さんに弟子入りした。彼の風格からか、兄さんと呼ぶことに私は何の躊躇もなかった。この人は後に秋田大学鉱山学科を卒業して石油の発掘の仕事についた。とにかく昆虫や岩石に興味をもち、その行動範囲はあの辺のツキノワグマと負けないぐらいと言われていた。
タケ兄さんは山に入ると、弟子の私の存在を忘れてしまう。40年後にサハリンで出会うリンさんに似ている。それでも弟子は役に立つことはある。オオムラサキを見かけると、タケ兄さんはカンカラを私に手渡して、「早くここへ小便を」と言う。タケ兄さんの目はオオムラサキを追っている。私は訳がわからない。いくらあけぼのサバの味噌煮の缶詰の空き缶だって汚いよ。タケ兄さん、おしっこをどうするの?飲むの?喉が渇いたなら、僕の水筒に水はあるよ。知ってか知らずか、また声を抑えて怒鳴る。「小便、まだか?」私は崖のそばに近寄って、小さいおチンチンを引っ張り出して缶の中にあふれるまで気持ちよく排泄した。「ハイ」と言ってタケ兄さんに渡す。「ギャア、何でこんなに入れるんだよ。ちょっとでいいんだよ。オオムラサキはアンモニアにつられて缶のまわりに集まるんだから」タケ兄さんは凄い。そんなこと学校の先生は教えてくれなかった。
タケ兄さんは、リュックから今度は日水のいわしの蒲焼の缶からをだして、そこへ僕のおしっこを大切そうに移した。そしてあけぼののカンカラを道路のみずたまりのそばに置いた。崖の下の草むらにふたりは隠れた。タケ兄さんは3段つなぎの補注網をすぐ使えるようにしっかり握った。待ちかたもハカセは風格がある。
車も人も通らない山の中の道、ジイジイゼミや名前も知らない虫の音が深い谷の中に響く。やがてオオムラサキが僕のおしっこに群がり始める。一匹二匹三匹、どんどん集まる。あけぼのの缶からが光る。オオムラサキが乱舞する。見とれる私。
私だったら一度にできるだけ多くの蝶を捕ろうとする。しかしタケ兄さんは、目利きである。プロである。種の保全もちゃんと頭にある。群れの中で一番りっぱなオオムラサキをじっと狙っていた。タケ兄さんはまるで時代劇のヒーロー侍のように補注網をオオムラサキめがけてサッと一振り。入った。補注網の口を上手に閉じて、網の上からオオムラサキの体を羽が痛まないように抑える。道具箱から医者のように注射器を出して防腐剤を注入。三角箱から三角紙を取り、丁寧に蝶を収める。戦後まもないまだみな貧しい暮らしだった。タケ兄さんの家だって決して裕福ではなかった。なのに私には知らない世界がそこにあった。
帰りに崖で岩石採集用ハンマーを使って、水晶まで掘り出してくれた。凄いものである。今でもその水晶は私の宝である。
あの時以来きっぱり昆虫採集は辞めた。今回のアオスジアゲハの大群も私は、カメラにおさめるだけである。私はそれで満足である。何事も道を究めるには、並大抵の努力では達成できないとタケ兄さんは教えてくれた。タケ兄さんの部屋で博物館のように整然と特別なガラス箱に並んだ蝶のコレクションを見て度肝を抜かれた。生半可な行動を取るくらいなら、やらないほうが善い。やるなら徹底して打ち込む。遠い遠い夏休みの思い出である。とても大切なことを学んだ貴重な体験だった。
写真:アオスジアゲハ