団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

青森がお前をkill

2016年02月26日 | Weblog

 「青森県がお前をkill」という表現がインターネット上で話題になっている。Killとは何とも恐ろしい言葉である。私は「kill」「殺す」や「殺人」という言葉に否定的な反応をして敏感に受け止める。実はこの表現、「全国最下位 短命県ツアー 青森県がお前をKILL」という青森県がなぜ平均寿命が低いのかを体験するツアーの募集キャッチコピーなのだ。言いたいことは理解できるが、はたしてkillという言葉はいかがなものか。

 私は長野県で生まれ育った。長野県はいまでは日本一の長寿県として知られている。青森県と同じく以前は塩分の摂取量が多いなどが原因で短命県であった。佐久市の厚生連佐久総合病院から始まった農村医療改革が功を奏して、全県的な運動となり食生活の改善が進んだ。私はその佐久病院で42歳の時、糖尿病の2週間にわたる教育入院をした。これは私の糖尿病に立ち向かう姿勢を徹底的に変えた。男女合わせて20名くらいがこの教育入院プログラムに参加していた。

 教育入院が始まって2日目のプログラムが終了した夜、40歳代の男性が荷物をまとめ病室を出て行った。「ああするな、こうするな。ふざけるなって言うの。俺は酒を飲みたいだけ飲んで、喰いたいものを喰う。それが俺の生き方さ。こんなところにいられるか。あばよ」 世の中の多くの人は、この男性のように生きている。去年の11月に癌で死んだ友がまさにそうだった。ヘビースモーカーでタバコをどんなにまわりがやめるように言ったがとうとう止めなかった。肺癌だった。彼はよく私に言っていた。「人間、どうせ死ぬんだから、やりたいことをやる」

青森県でも塩分摂取を控えようという運動があっても、多くの人々は慣れ親しんだ食生活を変えない。世界のどこでも大事にされている食文化の多くは、体に健康に良い物より悪い物の方が多い。それを知っていても多くの人々は、長く受け継がれてきた食文化の中にどっぷりつかって、楽しんで生きる。

 「青森県がお前をkill」は青森県の食文化はあなたを病気にしてその病気があなたの命を奪うかもしれませんよ、ということなのだろう。「病気があなたをkill」ならもっとわかりやすいが、過激性はない。その青森県の食文化を体験して実態を知り、自分の生き方を考えてみませんかというツアーらしい。あれだけ気をつけて糖尿病と闘ってきたが、53歳で糖尿病の合併症である狭心症で心臓バイパス手術を受けた。どんなに自分では気をつけていると思っても、やはり人は自分には甘い。私も食欲だけは誰にも負けないくらい旺盛だった。揚げ物、特に豚カツが好きだった。

 再婚した妻に出会ったころ、長野県松本市へロバータ・フラッグのコンサートに一緒に行った。もう20数年まえのことである。♪Killing Me Softly With His Song♪とロバータ・フラッグが素晴らしい声で感情こめて唄った。感極まって妻の手を強く握った。

  Killにもいろいろな使い方がある。暇つぶし、退屈しのぎを英語でkilling timeという。平均寿命が長くなった。長生きが良いのかと疑問に思うことがある。Killing timeしてまで生きていたくはない、と思いつつ「さて今日は何をしようか」と68歳は立ち止まる。「小人、閑居して不善をなす」 クワバラクワバラ。


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管理人さん?

2016年02月24日 | Weblog

  妻はいつもこまめに風呂場の掃除をしてくれる。ずぼらな私は細かな事を平気で見過ごす。妻が「プロにお風呂そろそろ掃除してもらおうかな。少しカビが出てきたし、もう10年たったから。高いかな」と言って勤めに出かけた。

 私は早速ネットで調査した。数社調べたがダスキンに電話してみることにした。ダスキンには恨みがある。以前レンタルのモップを使っていた。一箇月に一回、交換に来ることになっていた。用事があって留守の時に限って担当者が来た。数箇月郵便受けに新しいモップが入れられていた。使用済みのモップが目障りになった。私は時々ダスキンの営業所がある町へ買い物に行く。どうせ途中だからとある日私は使用済みのモップをビニール袋に入れ届けることにした。

 他の用事を先に済ませて帰る途中に営業所に寄ることにした。用事を済ませて帰路、右折する交差点に近づいた。信号もあった。そこで右折するのは初めてだった。右折用のレーンはある。ただ一本の標識ポールに3,4枚の標識が付いていた。とろい私はすべてを一瞬のうちに判別できなかった。後で調べたら軽以外右折禁止、トラックなど一般車両右折禁止、軽でも時間制限ありなどでとても一瞬で判別できない。信号は青、対向車なしそちらに気を取られ、右折した。数百メートル進むと後ろから「ウーウーウー前の車左に寄って停車しなさい」と聞こえた。まさか自分とは思わなかった。「右折禁止違反です」 私の純粋なダスキン社へのお節介が数十年間のゴールド免許を一瞬にしてパーにしてしまった。

 ダスキンへの恨みは晴れていない。時間の経過で薄らいできているが、あの交差点を通るたびにメラメラと怒りが湧く。私の苦情が聞き入れられたのか、あの判りにくい標識、いまではスッキリ整理された。ご丁寧に4,50メートル先の電柱から3箇所に「右折禁止」の黄色い地に真赤な字の看板が付けられている。

 それでも2年前にエアコンの掃除をダスキンに頼んだ。いい仕事だった。モップの契約はゴールド免許の仇をと打ち切ってあった。もう忘れよう許してあげなければと思う。いつまでもウジウジしているのは大人気ない。ダスキンに電話した。見積もりに来てくれることになった。2万8千80円で風呂場とブラインドの掃除を契約した。23日の午前9時30分に作業することになった。ダスキンのセールス・マネージャーが帰り際、「当日、車はどこに停めたらよいでしょうか」と尋ねられた。私は「外で待っていて駐車場に案内します」と答えた。

 23日時間正確に2名の女性が軽自動車でやってきた。私は約束通り玄関前で出迎えた。リモコンで駐車場のシャッターを開け中に誘導した。東京駅で手際よく新幹線の掃除をしているクルーのようなピンクの作業着のひとりは40代もう一人は30代らしき女性だった。駐車場から建物内部に入るには鍵がいる。何度も道具などを運ぶのかと思い家のスペアキーを渡した。家に案内した。玄関の鍵を開け、英国紳士のように女性二人を先に入るよう手で示した。40代の女性が「こんにちは。ごめんください」と誰もいない家の中に向かって言った。私が「私しかいませんので、どうぞお入りください」 その女性が「あらやだ。管理人さんかと思った」 私は舌を噛んで「相性が合わないんだ」と我慢した。


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川崎老人ホーム事件と母のホーム入所

2016年02月22日 | Weblog

  川崎市の老人ホームで3人の入居者が連続して不審な転落死が起きた。一時はあの事件は迷宮入りしてしまうのではないかとさえ言われていた。2月16日にその老人ホームで介護士として働いていた元従業員今井隼人容疑者(23歳)が殺人の容疑で逮捕された。

 2001年私は心臓バイパス手術を受けることになった。当時私は妻の赴任地チュニジアに住んでいた。心臓に異変を感じ、日本で精密検査を受けることになった。検査の結果、心臓の冠動脈に狭窄が見つかった。ところが病院の手術室が工事中だったため手術を2箇月待たなければならなかった。家で静養して待機するよう言われたが、私に家はなかった。特例として他の病院に転院して手術を待つことになった。8人しか入院できない小さな医院だった。

 私以外は皆寝たきりの老人の患者だった。当時はまだ病院は老人高齢者の患者を3箇月間という入院期間の制限なく受け入れていた。老人ホームの代用とされていた。特に隣の病室の男性は、よく大声や奇声を上げていた。女性看護士はその男性患者より大きな声で叱りつけた。病室にいるとうるさいので私は日中待合室で過ごした。夜は睡眠薬を飲まないと眠れなかった。老人の大声や奇声以上に看護士による罵声に耐えられなかった。排泄物の処理の時の看護士の荒れようは凄まじかった。現場を見てないが、虐待と言っても過言ではない状況だった。私は男性患者の側からも、看護士の側からもどうすればよいのか考えたが答えは見いだせなかった。

 老人ホームでの介護士の仕事は、私のあの小さな医院での経験からも容易に想像できる。川崎市で3人の入居者を転落死させたと逮捕された今井隼人容疑者は、「静かにせず、いらだっていた」「見えづらい位置に落とした」「ばれない状況を狙った」などと供述している。私があの医院で経験した状況と今井容疑者がどんなふうに川崎の老人ホームで働いていたかを重ね合わせてしまう。

 私は老人介護における大きな障害は、排泄物処理の問題だとみている。どんな偉い人であっても人間は口から食物を入れ、排泄する。生まれてから自分でトイレを使えるようになるまでは、親が排泄物の処理をしてくれた。その親が今度は年老いて排泄さえ困難になれば、順番から言えば子が親の面倒をみるのは当たり前のことのようだが、私にはその覚悟がない。到底出来そうもない。本当に意気地なしだと思う。恥ずかしいとさえ思うが、出来ない。  

 老人介護の分野でもロボットの導入や排泄物処理の方法が研究されているが、いまだ実用化されていない。私が介護を受けるようになっても間に合いそうにない。そこで思い出すのは昔まだ元気な頃の母と話したことである。母はこう言った。「歳とってだんだん脳の働きが弱ってきて、体も思うように動かせなくなって施設に入るようになっても、私はたった一言“ありがとう”だけ自分の中に残しておいて、“ありがとう”“ありがとう”と言い続けて周りの世話をしてくれる人たちから可愛がられるような人でありたい。最後はそんな中で迎えたい」

 今、その母が病院付設の老健施設に入所している。かつて母が言っていたように施設で働く人々に可愛がられていることを願わずにはいられない。

 私もいつどうなるかわからない。記憶を失っても、視力が衰えても、聴力が弱くなっても、体が動かなくても“ありがとう”だけは私に残りますように。


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レシピは誰のモノ

2016年02月18日 | Weblog

  私は男のクセに料理が好きだ。レシピ本をたくさん持っている。

 ネットで『レシピのネット転載、料理研究家ら困惑「モラルの問題」』の記事を見つけた。料理研究家のレシピが、インターネット上のブログなどに無断で転載される。これはレシピが著作権保護を受けないが、「許可なく転載するモラルの無さが問題」と記事が指摘している。

 レシピはあくまで目安であって伝承の手段だと私は思っている。どんな凄い料理人のレシピであっても、書いてある通りに料理しても絶対にレシピを書いた料理人と同じ味の料理はできない。材料、材料のグラム、油の温度、調味料の種類と量。書いてある通りに書いてある順番通りに調理してもダメである。肝腎なことは、レシピを書いた料理人は明かさない。よく『企業秘密』というが、それである。

 日本には料理研究家と持てはやされる女性や男性が数多くいる。熾烈な競争の世界である。“道”と呼ばれる華道、茶道、書道などの伝統的な世界に近い形態を真似てそれに近いものになりつつある。だれそれのレシピ本がベストセラーになった。だれだれはテレビの料理番組に出演している。料理研究家の料理を食べられる人はごく一部である。彼女彼らはレストランを持っているわけではない。持っていたら世間は即、料理に評価を下す。レシピ本の世界は、夢の空間であって現実ではない。多かれ少なかれ料理は、長い年月と多くの人々によって作られてきた。料理人がすべて自分だけで編み出した料理法など存在しない。

 「美味しい食材があれば、調味料はなくてもいい」 東京・神楽坂の日本料理店「虎白」の小泉功二料理長(36)の言葉が好きだ。良い食材を探すことが私の料理の基本としている。食材を見つけたら目安とするレシピを選ぶ。レシピを読む。何より重視するのは、このレシピを書いた料理人は、何を彼の彼女の『企業秘密』としているのかを見つけることである。ほとんど見つけられない。当たり前であろう。料理人は多くの試行錯誤と客の言葉で腕を上げてきたのだから、簡単に教えるわけがない。

 私が多く参考にするレシピはアラン・デュカスの『ナチュールレシピ』(世界文化社 2800円+税)である。彼は「今こそ、原点に帰るときです。体によい、バランスのとれた食事には欠かすことのできない、野菜、シリアル、果物。これらをシンプルに料理する喜びを見直さなければなりません。自然のあらゆるおいしさを再発見してもらうこと、それが料理人であるわたしの役目です。なぜなら、美味しく食べることがよい生き方につながるから」と書いている。

 八百屋で「葉タマネギ」なるものを見つけた。一年のほんの短い間しか店に並ばない。一束340円。『ナチュールレシピ』の索引で「葉タマネギ」を調べる。「黒いんげん豆のブイヨン煮」がある。さっそく料理開始。黒いんげん豆を戻すには12時間水に浸しておかなければならない。料理をしていると時間が早くすぎる。完成した料理は妻がまず食べる。妻が「美味しい」と言えば、友人を招いてお披露目する。食材を見つけ、レシピを目安にして料理する。妻と仲間と美味しく食べる。レシピは人類の共有財産であって誰のものでもない。


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スティーブ・ジョブズと虹

2016年02月16日 | Weblog

  13日土曜日、妻は土曜日出勤ではなかった。以前から観ようと思っていた映画『スティーブ・ジョブズ』に誘ってみた。休みは家にいたい、といつも言っている妻が、行くと同意した。妻なりにスティーブ・ジョブズに関心があるに違いない。土曜日でこの映画を観に来る人が多いと思い、私が映画を観る時、そこに座ると決めている画面に向かって左側一番奥の席を取るために早めに家を出た。希望通りの席を確保できた。11時10分の回なのでそれまでデパートで買い物することにした。

 映画館に入るとガラガラだった。あまりの観客の少なさに拍子抜けした。

 映画が終わった。私は満足した。とても良い映画だった。妻は言った。「ただの変わり者の映画じゃない」 確かにそうとも言える。しかし私は脚本が良く、セリフに引きこまれた。映画としてハラハラドキドキのアクションもスリル、色気も暴力も美しい景色もない。延々と執拗なまでに人間関係を言葉のやり取りだけで話が進む。隣で観ている妻が興味を失くしたのは、妻の姿勢の崩れでわかった。また私たちと同じ列の4席離れたところに座っていた男性が途中から携帯電話ばかり観ているのからも、この映画が万人に受け入れられる映画ではないとわかった。

 妻はオーストラリアと英国に留学した。日本の大学の医学部を卒業して医者になってからだ。私は多感な十代後半でカナダに渡り学んだ。妻は学校というより医学研究所という専門機関で研究を続けた。妻はすでに社会人。私は一般教育を受ける生徒。妻は東洋人ということで研究所の研究者以外からはあからさまな差別を受けた。白人スタッフにとって白人でない私の妻が医者であることが許せなかった。自分より劣る人種の人間が自分より高い地位の研究者であることを認めたくなかった。嫉妬といえば嫉妬だが、人種差別に嫉妬が絡むと事は深刻さを増す。一方私は社会に出て専門職に就く前の段階の横一列に並ぶ生徒の中で学んだ。日本では物事に白黒つけず、まあまあなあなあで済ます。カナダやアメリカのような移民の国では、自己主張ができなければ、個性をちらつかさなければ、生きてゆけない。私はこの映画を観て、カナダでの学生生活を思い出し、映画の中に当時の私自身を置いていた。多くのセリフを私が過去に聞いた言葉として捉えていた。

 妻と私の映画の受け止め方が違うのは、自分たちの経験が異なるからだ。この映画に誘ったことを反省した。それでも映画を観て感想を話し合えることは私には楽しい。夫婦でさえこれだけ感じ方が違う。それでもお互いに魅かれるところがあり、22年間夫婦として生きて来た。

 海辺の道路を走っていた。妻が大きな声で「虹。虹よ。綺麗な大きな虹」と叫んだ。風が強く小さな車はハンドルが取られそうになるほどだった。渋滞した道路でわき見ができない。咄嗟に妻に言った。「カバンのポケットにカメラがあるから写真撮っておいて」

 帰宅して写真を見た。いままで何度も妻に写真を頼んだが今回の写真が一番良く撮れていた。虹は海の上に端から端まで弧を描いていた。人間がつくる映画も凄いが、自然の虹はそれをはるかに超えている。私たちから一瞬で言葉を奪った。


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立春 美術館 ミソサザイ

2016年02月12日 | Weblog

  2月4日は立春だった。春などまだ先の話だと寒さに白旗立てて屈服している。5日、午前中、妻に頼まれた洗濯物を専用のラックに干し南側のベランダに出した。南側といっても私が住む集合住宅の裏は山である。冬は陽が当たらない。

  洗濯物を干した後、ベランダから居間に戻りソファで裏の竹林を眺めていた。時計は11時を指していた。南側はガラス戸になっている。床が陽光を浴びる海の波のようにキラキラ揺れ始めた。今年初めての南側からの陽射しだった。立春の次の日に早速、我が家への春のお出ましである。世の中何があろうと地球は規則正しく自転して宇宙の軌道を回り続ける。寒いの暑いの、政治が悪い経営者がどうのこうの、為替が円高だ円安だ、教育が悪い親の躾がなっていないと毎日、不平不満と怒りに身をまかせている。そんな私を笑うかのように自然の摂理が顔をだす。私には想像もつかないとてつもなく偉大な何かを感じる。私はソファに沈み込む。難しいことは考えずに、ただ春の訪れの光のダンスに見惚れた。

  9日火曜日東京都美術館へ東京都公立学校美術展覧会を観に行った。小学校4年生になった孫の作品が展示されるという。上野駅の公園口から美術館に向かった。上野に来たのは何年ぶりだろう。歳のせいか上野の公園が広く感じた。美術館や博物館がいくつもある。いろいろな催し物があるらしく各館の入り口には長い列ができていた。さすが大都市東京である。たくさんの外国人もいた。団体旅行や買い物に外国人旅行者が押し寄せているのは知っていたが、まさか上野の美術館や博物館にこれほどの個人旅行者が来ているとは驚きだ。東京都美術館にもたくさんの人がいた。孫の作品は事前に展示場所をメールで教えてもらってあったのですぐ見つけることができた。たくさんの作品が展示されていた。私のように孫の作品を観るために祖父母と思われる人が自分たちの孫の作品の前に陣取っていた。写真を撮っている人も多い。

  私が孫たちに会えるのは年に2回あればいい方だ。4年生になる孫には去年の正月に会って以来会ってない。サッカークラブに所属していて忙しくしている。両親も休みのほとんどを試合の遠征に付き添っている。そんな会えない孫の作品を上野の美術館で観る。私の知らないところで孫も成長している。電話が嫌いな私は、孫たちとは手紙かメールでしか連絡を取り合わない。ベタベタの関係ではないが、できることをして陰から応援している。教科では英語しか手伝えないので英語の教科書解説ノートをせっせと作って送っている。

  11日の建国記念日の祭日、妻は祭日出勤だった。書斎で孫のための英語ノートを作っていた。裏山からミソサザイが元気よく鳴いた。今年初めてのお目見えである。私はミソサザイのさえずりが好きだ。小さな鳥らしい(実際の姿を見たことがない)が声は驚くほど良く通る。朝のほんの短い間しか鳴かない。私の応援団だと勝手に決めている。ミソサザイの鳴き声を聴くと元気になる。


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禿げ脱毛仕組み解明と自動運転

2016年02月10日 | Weblog

 風呂に入って洗髪する。上がって脱衣場に出る。そこには洗面台があり壁一面に大きな鏡になっている。ふと目が私の頭部にゆく。髪の毛が寄り集まって筋となっている。地肌は髪の毛の筋より3倍は広く帯状に平行する。「うそ。いよいよここまで来たか」 私はタオルで髪の毛をグシャグシャにかき混ぜ、地肌を見えなくなるよう毛羽立てる。そしてリアップ(大正製薬の第一類医薬品育毛および脱毛の進行予防剤)のビンの口を地肌に押し当てる。グッと力を入れて口の先を地肌に押し当てると液体がにじみ出る。口を肌に押し当てつつ、移動させながら液体を塗りつける。

 妻は無駄な抵抗しないで自然に任せたら、と言う。私もそう思う。性欲も物欲もほとんどの欲や願望が減退している。いろいろ薬が出ているが私は使わない。リアップだけは別である。秘かに期待している。高い薬である。たった60ccで5千円以上する。効果は分からない。

  私はカナダの学校時代、多くの生徒に私の髪の毛を触らせてくれとお願いされた。彼、彼女たちは一様に「針金みたい」と声を上げた。その髪の毛が今は当時のカナダ人生徒の髪の毛のように細くなった。泳ぎに行ってカナダ人が潜って水から頭を上げると彼らの髪の毛は地肌にピタッと貼りつき地肌と一体化していた。私の髪の毛はビーバーやヤマアラシのようにピンとしていた。あの勢いが今はない。リアップ(再び勢いづかせる)という言葉の魔術に捕まっているのかもしれない。

  『高齢化で脱毛、仕組み解明――必須物質も発見・東京医科歯科大学』の記事をみた。医学の進歩は目覚ましい。脱毛は毛を生み出す幹細胞が老化して、毛穴の小器官(毛包)が次第に縮小して消えてしまう、と東京医科歯科大学やニューヨーク大学などの研究チームが解明に成功した。「17型コラーゲン」の分解を防ぐ物質を発見すれば、脱毛は防げるらしい。東京医科歯科大学の西村栄美教授は「5年から10年の間に薬ができれば」と話しているそうだ。

  あと何年でこうなる、ああなるという話をたくさん聞く。素晴らしいことだ。地道な研究を日夜続ける研究者がいる。成功する確率は低い。私はTBSの日曜日午後6時半から放送の『夢の扉』という番組が好きだ。かつてのNHKの『プロジェクトX』に似た番組である。若い頃は進歩を自分の時間に合わせることを当たり前にできた。最近はそのような話を聞くと「自分が生きているうちに間に合うかな」と考える。間に合えば嬉しい。しかしたとえ間に合わなくても、進歩の鼓動を感じることは喜ばしい。嫌な事件事故災害が来る日も来る日も発生する。華々しく世間から注目される高額所得者のテレビタレントや歌手、スポーツ選手、政治屋。やれ不倫だ、お泊まりだ、賄賂だ、覚せい剤だ、解散だの別の世界に、今日も失敗を繰り返しながら研究を続ける人々の存在を知るだけでも何か救われた気分になる。

  駅に送る車の中で妻が私に尋ねた。「自動車の自動運転、どこが一番先に実現するかな。日産?」 私は「どの会社かわからない。でも今日も各社懸命に開発しているだろうね」 人間の凄さは、目に見えない所で着々と進む。その晩、私がいなくなった後、妻が自動運転の車に一人で乗っている夢をみた。


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アマゾン対応と老兵

2016年02月08日 | Weblog

「これから私が言う通りにお手元のリモコンとアマゾン・ファイアー・テレビを操作してみてください。現在操作できる場所におられますか」「いません。移ります」

 居間のテレビの前に陣取る。「はい、移りました」「まずリモコンから乾電池を取り出してください」 私は固定電話の子機を耳に当てている。リモコンを持っているが、空いているのは左手だけである。その左手だけでリモコンの電池のフタを開けようとする。もたつく。焦る。アマゾンの担当者に訴える。「電話を持って操作できないので、置いてやります。しばらく待ってください」

  リモコンといってもテレビやエアコンのリモコンと違ってえらく小さい。釣り竿に使われる矢竹を立てに真二つにして切り口をプラスチックで埋め上下を斜めにスパッと切り落としたような形態である。小さい上に素材の黒いプラスチックがすべすべである。メガネを近眼用から老眼鏡に替える。リモコンの裏、まるで竹のような丸みである。片方の端に直径1.5センチほどの窪みがある。もう一方の端に小さな三角印とその下に線がある。観察するに電池を取り出せるような感じがない。まるで黒曜石を掘って作ったように一体化している。まず窪みを押した。ただ指が滑るだけ。三角印を押す。ウンともスンともない。降参。

 「すみません。開けられません」 無言。その無言は、私の心の中で「あのさ、こんなこともできないの、じいさん」と反響した。焦れば焦るほどリモコンは石のように硬さを増した。諦めかけた瞬間、手品のようにツルツルの丸みを帯びたフタがずれた。

 「開きました」を私は何かのクジの1等賞を引いたように叫んだ。「ではその電池を取り出して新しい電池に取り替えてください」 そんなこと聞いてないよ。電池って急に言われたって買い置きないよ。私は書斎へ行きあちこちの引き出しを開ける。なんとか新しい電池を見つけた。ところが電池が単三なのか単四なのか見分けが付かない。時間が過ぎる。心臓がパクつく。電池の交換はいまだに不得意である。電池が入っているところには+と-の印がある。あるけれど必ずそれは色が周りと同じなので見にくい。加えて老眼の私は細かい字や印が見えない。何とか電池を装填した。

  それで終わりではなかった。「次にアマゾン・ファイアー・テレビを再起動してください。そしたら電源ケーブルをコンセントから抜いてください」 私は言われるとおりに一通りやった。しかし結果は以前の通りの反応でリモコンの操作はできなかった。私は諦めた。

  ファイアー・テレビを勧めてくれた友人にも事前に確かめてもらった。彼もリモコン自体に不具合があるとの判断だった。これ以上不便な態勢で電話による作業は私には無理だ。  「この装置は私にはとても操作できません。あきらめます」 そう言って電話を切った。夜勤務から帰宅した妻に事の一部始終を話した。妻がアマゾンに電話した。2,3分でケリが着いた。「明日新しいリモコンを発送するって」

  妻が交渉上手で、私がダメなのか。機械音痴、その上世渡りが下手。いったい私はどうすればいいのか。日進月歩の世間から取り残されたのは初めからわかっている。老兵は去りゆくのみか。ハードばかり進歩して、人間対応のソフトは決して優しくない。わからない人をわからせられる指導こそこれからの人間の発展の鍵となると、私は思うのだが。

 7日の午後届いたリモコンは、正常だった。不良品を出荷したことになる。以前は商品に検査合格証などが貼ってあったが、最近はそれがない。法的な責任逃れの手段なのか。品質管理の徹底を望む。この数日リモコンに振り回された。こういう時代なのか、アマゾンさん。

 


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忘れ,思い出す快感

2016年02月04日 | Weblog

  生前父は“段取り”の重要性を私に説いた。その影響で私は何か行動を起こす前に“段取り”を心がける。

 朝起床して寝室を出る。その時着替えを持って居間のソファに置く。書斎に入りパソコンを起動させる。オイルヒーターの温度目盛りを1から3に上げる。洗面所に移動。『お口クチュクチュ』のデンタルリンスを口に含む。そのままトイレに直行。クチュクチュしながら用をたす。洗面所に戻り口を空にする。冷たい水道水で手を洗い、手のひらに水をため目を水に当てる。体重計を持って居間に移る。パジャマを脱いで下着2枚だけになり体重を量る。計った数値をメモする。室内着を着る。これを毎朝繰り返している。繰り返しも10年以上続けると物忘れが激しくなっても体が自然に動いてしまう。

  以前、玄関の鍵をしたのかしなかったのか忘れて不安になり家に戻って確かめることが頻繁だった。東京農大の中西載慶名誉教授の講演会で教授がこの対策を話した。それを実践した。鍵するたびに「鍵したぞ」などと声を出すか、鍵をしっかり見て指をさして点検する。これを繰り返すと記憶が残り、途中で「鍵したっけ!」が「うん、したした」となる。モヤモヤがはっきりとした映像で甦る。

  今回の甘利大臣の口利き現金受け渡し事件にしても、裁判が始まった元兵庫県県議の野々村竜太郎さんにしても「記憶がない」とか「覚えていない」を多用する。政治屋の保身の常套手段である。これは老化による記憶障害とは異なる。嘘を隠す、罪を回避するか軽減するための策略に違いない。議員がこのような金銭問題を起こさないようにするには、声出し点検、指差し点検したらどうだろう。虎屋の羊羹の箱に仕込まれた現金や封筒に入れられた現金を指差して「眼の前の現金○○万円、これ大丈夫?警察よし、検察よし、次の選挙よし」と連呼する。これで記憶はバッチリ残る。相手が録音や隠し撮りするなら、倍返しで記録を残す。

  まったく政治や賄賂の世界との関わりはないが、忘れるという現象が私の生活の中で大きな存在となってきた。初めはこの現象は、私を気落ちさせ滅入らせた。だんだんと開き直れるようになってきた。0.1秒前に「そうだ宅急便の不在票。電話しなければ」と思い電話に向かって歩き出す。途中、ネジ巻壁時計の重りが下がっているのでネジを巻く。巻き終わった時点で宅急便の電話のことは忘れている。駅でどこかで会った人だと顔を見て思う。思い出せない。電車に乗る。二駅目で閃いた。「あの女性、いつも行くスーパーのレジの人だ」これはもう快感である。

  今では忘れることに初老時代より抵抗がない。不便で危険なこともあるが、何とか繰り返し点呼指差しメモ書きに助けられて乗り切っている。それよりも忘れたことを思い出せた時の快感を楽しめるようになった。買いたいと思う物が激減している。あらゆる欲が萎えてきた。食事も小食になってきた。目が悪くて本も長時間読めない。毎日同じことを同じ時間に繰り返す。そんな日常妻が出勤している間、ひとりで家にいて、あれを忘れ、これを忘れる。100忘れて思い出すのは3つか4つ。この快感がたまらない。


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幼児虐待

2016年02月02日 | Weblog

  以前フィリピン人女性が我が子を頭に壁に打ち付けて殺した事件の裁判で通訳をしたことがある。証拠として亡くなった子供の写真を何枚も見なければならなかった。その子の無残な顔は私の記憶にコールタールのようにへばりついている。

 1月9日埼玉県の狭山市で3歳の藤本羽月ちゃんが、そして25日には東京都大田区でやはり3歳の新井礼人くんが亡くなった。また幼児虐待の被害者がでた。テレビ画面に映し出された犠牲になった子供の顔写真が私の胸を締め付ける。すでに30年以上前のフィリピン人女性の子供の顔がその子たちの写真と重なる。こういう事件が起こるたびに私のあの裁判での記憶が呼び起こされる。

 子育ては人間として親としての最大事業だと私は思っている。私が再婚した妻は確固たる決意を持って子供を産まなかった。彼女が育った環境がそうさせたという。私は何も考えずに先の結婚で二人の子供をもうけた。妻は熟慮に熟慮を重ねて決心した。大きな違いである。私は成り行きに任せて人生をなめていた。今回の羽月ちゃんや礼人くんの親と変わらない。離婚後男手ひとつで二人の子供を育てた。その結果、私は子育てが親としての最大事業であると身をもって知ることができた。

 子育ては片手間にできることではない。人間の子は自立できるまでに他の動物と違って随分長い時間がかかる。前妻が駆け落ちした時、子供は11歳と7歳だった。私は自分の問題は禅寺での坐禅に於いて対峙するよう心掛けた。そして徐々に子供が大学を卒業するまでは、自分を犠牲にするよう自分を説得した。すべては自分が原因で招いたのだから責任を取ると思えるようになった。そうして10数年が過ぎた。二人の子供は大学を卒業した。私は今の妻と出逢って再婚できた。

 私がくじけそうになった時友人が言った。「50歳前の失敗は何度でもやり直しができる。お前はまだ30歳代だ。絶対にできる」 この言葉を信じた。信じたと言うより賭けたと言ったほうがいい。

 人は弱い。一人になると不安でさみしくなる。羽月ちゃんや礼人くんの母親もそうだったと思う。人は迷う。ましてや先の結婚に破れた離婚者はなおさらである。きっと子育てを本気でやろうと決心して努力していたに違いない。犠牲になった子供たちの名前に親としての期待と夢を読み取る。ひとり親になった女と男には、親としての理性とは別の性がある。その対応に多くのひとり親は失敗する。個人の問題ではあるが、軽はずみに同居したり結婚するよりは、アメリカのシングルズバーのような形態や考え方が日本にもあれば、犠牲になる子供の数は減少するのではないだろうかと私は考える。

 何事においても深く考えることなく生きてきた私だが、痛い目に会うたびに少しずつ成長できた。「50歳前ならやり直しがきく」 この友達の言葉で私は救われた。子育ては親の最大事業であるとともに、子育ては親をも人間として育ててくれる。

 たった3年しか生きることができなかった羽月ちゃん、礼人くん。命を犠牲にして日本の多くの親に子育ての責任の重大さを訴えてくれた。目覚める親がでてくれることを願う。


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