テレビを中心とするメディアと芸能界は怠慢と馴れ合いが支配する世界である、とコメンテーターや専門家が口を開くたびに失望する。
以前、細川隆元さんという評論家が『時事放談』という番組を持っていた。別名『ジジイの放談』と呼ばれていた。いまでもこの番組名前だけは続いている。日曜日の朝6時台に放送される。この時間に起きてテレビを観るなんていうのは、視聴者も私のような年寄りが多いに違いない。細川さんのような毒っ気のまったくない司会者と例のごとく若い女性アシスタントと毎回2人のゲストが登場する。人物登場が老人のオンパレードである。すっかり老人会のお茶飲み話になっている。老人が悪いとは言わない。人選が良くない、と声を上げたい。
映画でもテレビドラマでも舞台劇でも、私は全て配役つまり人選で決まると思っている。4,5年前セキスイハウスの3階建ての家のテレビコマーシャル「♪家に帰れば、セキス~イハウス♪」に剛力彩芽さんが出ていた。当時まったく無名でそのコマーシャルでしか観られなかった。感じのいい一種独特の雰囲気のある、またこのコマーシャル観てみたいなと私にほのかに思わせた。台詞は少ししかなくほとんど黙ったままの演技だった。私は直感で、この人有名になると思った。テレビ芸能界や歌手に限って、私には有名になる、ならない、の占い師的感覚があると自負している。案の定、剛力彩芽さんは今ではどのチャンネルに回しても出てくる。食傷気味である。声も決して美声というか魅力ある声ではない。踊ったり唄ったりもするが、大した才能を感じない。下積みがないのだから才能だけで全てをカバーできるはずもない。じっくり時間をかけて育てたら、大女優になれたかもしれない。潰すのも芽を摘むのもマスコミと視聴者だ。こうして多くの芸能人がつくられ使い古され消えていく。大女優になれる素質容姿才能を持っていても商業主義に壊されてしまう。
多くのテレビ番組にひな壇に並ぶように多くのタレントやコメンテーターが出演する。私は嫌いな人が出ている番組もコマーシャルも観ない。あまりにそういう人が多くてテレビ局の番組を事前に注意深く調査する。その点ラジオは判りやすい。出演する人数が少なく、ひとり当たりの持ち時間がテレビより遙かに長い。コメンテーターの論評がテレビに出演しているコメンテーターの多くがそうであるように支離滅裂であれば、すぐに自滅、轟沈してしまう。
そろそろコメンテーターの人選の方法を変えるべきだ。靴底を磨り減らして、耳をそばだてて、目を皿にして探すのがメディアの仕事である。例えば福島の東京電力原子力発電所の汚染水の海への垂れ流し問題など、どんなに浅井慎平さんやテリー伊藤さんや三屋裕子さんに喋らせても埒が明かない。現場で実際に働く人こそコメンテーターに相応しい。井戸端会議のような雑談めいたマタ聞き茶飲み話など聞きたくない。直前に読んで仕入れた新聞ネタそのままの意見など聞きたくない。こんなコメンテーターばかりが跋扈するようであれば、テレビの時代は終るであろう。