団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

東京電力OL殺人事件

2012年06月28日 | Weblog

 私がネパールのカトマンズに住んでいたのは、1993年から1995年までの2年5ヶ月間だった。今回東京電力女性社員殺害事件で東京高裁の再審開始決定を受け、釈放されたネパール人、ゴビンダ・プラサド・マイナリ元被告(45歳)が日本に入国したのが1994年だったという。私がネパールに住んでいた時、マイナリさんは日本に向けてネパールを出発したことになる。事件の前、彼は不法滞在を続け、ネパールの家族に3年間仕送りを続けた。事件は1997年3月8日の深夜に起こった。

 マイナリさんが収監されていた15年間、私はその一分一秒全ての時間を自由に生きてきた。ところがマイネリさんは殺人の容疑で逮捕されて以来、その期間ずっと拘束されていた。長い時間である。それは私と妻がネパール、セネガルで住んだ後、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアのサハリンと移り住み、ついには日本に帰国して今日まで暮らした期間に相当する。その間マイネリさんが刑務所で囚われの身でいて、どれほど自由を制限され、故郷のネパールを想ったていたのか想像すらできない。

 ネパールは貧しい国である。人口800万人面積は、日本の本州を除いた九州、四国、北海道の合計面積と同じくらいの国である。この貧しく小さな国は、政治的にも安定せず、またこれといった産業もない。この国の貧しい人々が唯一稼げる方法は外国への出稼ぎである。かつてカナダ出身でハーバード大学教授だった経済学者ガルブレイスは「貧しい国に生まれてしまい、その貧困から逃れる対策のひとつは、先進工業国へ行って働いて稼ぐことだ」と言った。

 マスコミは今までマイナリさんのことなど小さく扱うだけだった。釈放されネパールに帰国することになってから、俄然扱いが変わった。まるで罪人扱いから突然、英雄扱いのようである。テレビのニュースでも帰国してカトマンズの家に到着して母親との再会を劇的なものと放映した。マスコミの変わり身の早さには驚くばかりだ。

 ニュースでテレビに映し出されたマイネリさんの家を見た。ネパールのカトマンズに住んだことがある私が見ても、ネパールの平均的な住居と比べて立派な家である。レポーターは「マイネリさんが日本から3年間にわたって仕送りしたお金で建てた家」と言った。カトマンズで外国人に住居を貸す人々の多くは、グルカ兵や海外で稼いだ人である。そういう点でマイナリさんもガルブレイスが言うように貧困が均衡し停滞しているネパールを飛び出し、日本で不法滞在して稼いだからこそ、あんな家を建てられることができたのだろう。

 しかし不法滞在に対して言い逃れも正当性も主張できない。ましてや東京電力OLを買春して肉体関係を結んでいた事実も言い逃れできない。“君子、危うきに近寄らず”“分別は勇気の大半”と諺は警告するぐらい人は己の誘惑に弱い。いくらネパールを離れ、家族と別れて暮らしていたとしても寂しかったというだけで説明がつく問題ではない。

 今後、無罪が確定されれば、マイナリさんへの補償問題が出てくるのだろうか。国の法律は、その国に合法的に在住する者に適用される筈だ。私は法律に詳しくない。どうなるにせよ自国内だけでも大変な問題がたくさんある。そこへいろいろな国から多くの人々が往来する。ひとたびその人々が関わる犯罪が発生すれば、そこから国際問題となってしまう。この国は、いまだに国際化があらゆる面で遅れている。これから克服しなければならない大きな課題である。

 冤罪は許せない。この事件から学ぶことは、いかなる国に暮らしてもその国の法を遵守しなければならないということである。ある国に入国するには、その国の法に服する覚悟が必要だ。欲望は誰にでもある。性は、個人と個人との誰もが立ち入れない問題である。マイネリさんが正式な査証を得て、品行方正に暮らしネパールの家族のためにせっせと仕送りしていたら、このような事件に関わることもなく、15年間の時間の無駄もなかったはずだ。貧困がマイネリさんの人生を狂わしたとも言える。一方殺された東京電力の女性会社員は、貧困による生きるための売春でなく、物質主義に起因する空虚な豊かさゆえの精神的貧困が産む歪んだ性への依存からのものだった。この対比にこそ日本とネパールの現状を如実に表している。

 この事件の真相は私にはまったく分からない。殺された東電のOLの無念を晴らすためにも、まず真犯人が逮捕されることが殺された女性に対しての供養となり、マイネリさんへの謝罪の第一歩となる。日本の警察、司法が威信をかけて事件を解決してくれることを切に願う。


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もぬけの殻

2012年06月26日 | Weblog

♪ピーチクパーチクスズメの子
  
生まれたときは丸裸
  
耳も聞こえず、目も見えず
  
頭ふりふりピーチクパー♪

 最近妻はよくこの歌を口ずさむ。私はこの歌をまったく知らなかった。理由を尋ねた。裏山の鳥のさえずりが彼女に自然にその歌を口ずさまさせると言った。妻は何かの折にこうして多くの歌、詩、文言を完璧に暗誦する。鳥の名前はミソサザイ。姿を見たことはない。毎朝早くから「ピピスクスケスチルチルヒョロヒョロピリピリリリルリリル」と楽しそうに鳴く。

 22日の午後、シアトルからの日系3世の客人を小田原にある『二宮尊徳記念館』へ案内した。本当は北名古屋市の『歴史民族資料館』へ行こうかと私は考えた。私の体力を考慮した妻が小田原の記念館を提案した。1800年代の日本の農家がどんなであったかを見て欲しかった。尊徳の生家が復元されている。家は萱葺きである。家を見て本館の中に入った。そこには古い農機具、生活用品などが展示されていた。アメリカへ渡った彼女の祖父は群馬県の出身だった。日清戦争が終った後、まだ州にもなっていなかったシアトル近郊へ移住すれば、広大な農地が与えられるとの広報を知って応募した。三男だった彼女の祖父に群馬の農地は兄弟で分けるにはあまりに小規模だった。彼女の祖父がアメリカに渡ったのは1896年だった。当時の農家はきっと二宮尊徳の復元された家とたいして変わりなかったであろう。

 展示品を見ながら彼女が突然「トヨトミヒデヨシ・・・トクガワイエヤス・・・」と日本語でとうとうと語り始めた。(録音してもらったので、後日聞き取り書き写し全文を掲載する)一気に暗誦を終えると、けげんそうな顔の私に言った。「意味は全く分からない。でもこれは大学で外国語に日本語を選択した時、先生から暗記させられた。いまから60何年も前なのにここへ来たらスラスラと出てきた」

 客人は24日成田からシアトルへ帰国した。おそらく最初で最後の訪日であろう。滞在中、私は常にアレモコレモの誘惑に突き動かせられそうになり、その度に妻が注意してくれた。客人が一番希望した私たちとの会話と時間の共有を最優先できた。それでも私は昨日今日と、もぬけの殻のようになっている。

 何か大仕事を終えるたびに、全身全心でもぬけの殻になる。何もない宇宙空間を浮遊しているようだ。
もぬけの殻になれるのは、それだけそうなる前が充実し満たされていた証拠である。感謝の光がきっと私のもぬけになった殻を占領してくれる。私はその時が訪れるのをじっと待つ。


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隠し撮り

2012年06月22日 | Weblog

 6月21日午前7時11分に家を出た。前日に引き続いて再び箱根に向かった。台風一過にすべてを賭けた。ネットで前日調べた箱根近辺の天気予報では、午前9時まで晴れだった。家を出る直前に調べた時は、午前3時まで“晴れ”それ以降は“曇り”か“雨”だった。箱根芦ノ湖近辺に前日のような霧はなかった。期待は高まるばかり。展望台に到着。しかし本来見える筈の方角に雲が厚く立ち込めていた。二人並んで立った。雲の流れは静岡県側から神奈川県側へ速かった。そこに立って数分のことだった。麓から少しずつ、まるで歌舞伎座の緞帳が上がるように雲が切れてきた。何やら黒ずんだ雲とは違う何千年を生き抜いた屋久杉の切り株のようなモノが登場してきた。緞帳が上がりきった。私は車に逃げ込んだ。胸が張り裂けそうだった。フロントグラスからじっとマミーを見ていた。ぼやけて見えた。

 19日に彼女が到着してすぐ聞いた。「カメラとかビデオカメラとか持ってきましたか?」 彼女は言った。「写真は撮らずにすべてを心に遺すことに決めてきました」 その答に彼女の覚悟が込められていた。桜の季節に来日することを勧めた。残念がったが彼女には時期で決めることは不可能だった。そうとも知らずに能天気な私は「何もわざわざ梅雨に来ることはない」と不満だった。そんな馬鹿な自分を呪いたかった。

 フロントガラスはスクリーンのようだった。私は決めた。これだけは、写真に遺そう。彼女は胸の前で腕を組んで微動だにせずに立っていた。デジタルカメラをフラッシュが作動しないようセットした。彼女に気づかれないようシャッターを押した。確認ボタンを押して取れているか見た。(写真参照)

 4,5分して彼女は車に戻った。「魔法」と英語で言った。「奇跡」とは言わなかった。あの方角に私の目を向けた。そこに富士山の姿はなかった。ただ雲海が横たわっていた。


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台風4号

2012年06月20日 | Weblog

 マミーは小田原の新幹線ホームのベンチに私の娘と孫と一緒に座っていた。台風4号の影響でパラパラと雨が降り始めていた。到着は11時37分と娘からメールが10時ころあった。

 私の頭の中は、これからの5日間の食事のメニューで一杯だった。前の晩に数時間かけてメニューと行動表を作った。そして最後に買い物リストを作成した。11時37分到着なら11時30分までに入場券を買ってホームに向かえばいいと計算していた。娘からメールが入った。「パパ、ごめん。31分でなくて37分だった」

 急いで新幹線の下りホームに向かった。内心、娘の間違いに腹が立った。階段を数段飛ばしで駆け上がった。降りた乗客はもうだれもいなかった。7号車に乗っているとのメール情報で前方へ進んだ。ちょうど自販機の陰に3人はいた。

 最後に会ってから4年経った。疲れているようだったが旅の興奮がマミーを支配していた。荷物は宅急便で送ったと言ったが、中くらいのカート式のトランクを二人とも持っていた。まさか抱き合って再会をするとは。私の心にはマミーの骨が鳴るくらい強く抱きしめて歓迎の意を表したい気持ちはあった。遠慮した。ベンチからゆっくり立ち上がったマミーは、自然に腕を大きく広げて私を抱きしめた。もうだめだった。明るく迎えようというのに涙が流れた。マミーのニオイを鼻腔の奥に感じた。しばらく言葉もなく抱き合っていた。

 エレベーターに向かって案内しようと歩き始めた。マミーの歩き方に納得いかない何かを感じた。その疑問はお昼に何を食べたいか尋ねて現実となった。現在マミーは主治医に勧められてある食事療法をしているから、砂糖と肉類と化学調味料など一切口にしないと言う。食べるものを制限している。引っかかった。数回に分けて買って、その都度買った食品を駐車場の車に運んでトランクに入れた。あの食品のほとんどが使えない。事前に言ってくれればの思いがよぎった。しかしそれら全ての私の邪念は、後で私を苦しめることとなった。

 夕飯を早めに切り上げた。台風4号は猛烈な風と雨で住む町を襲った。マミーを寝室に案内して夫婦で後かた付けを始めた。食器を洗いながら、妻が質問した。「今日のお料理いつものあなたの味付けと違ったわね」 私はお昼に何を食べるかマミーに聞いたときの話をした。妻はそれ以上何も言わなかった。

 疲れて私は古雑巾のようになって寝ていた。話し声と家の外の風が吹きつける音で目が醒めた。妻は私に語りかけていた。眠れない時、妻はいつもそうする。独り言のようだが、間違いなく私に話しかけている。質問に答えは返ってこない。ほとんど99%私は意識モウロウの世界にいるのだから。その時は違った。しっかり聞いていた。「あなたはマミーさんが癌のステージ4(癌の進行具合の最大値)って分かったからあんな味付けやメニューにしたのね。私が聞いた範囲では、できる治療はすべてしたので、今は抗癌剤治療も放射線治療もしていない。だから主治医に勧められた食事療法だけなの」

 マミーは日本蕎麦屋で言った。「肉や砂糖を食べるということは、癌細胞にエサを与えることになってしまう」マミーの癌は奇跡的に消えたのでも完治したのでもない。それどころか全身に転移していて、治療の施しようがない状態で日本に来たのだ。孫の世話と孫の泣き叫ぶ声で会話が途切れ途切れになっていた。私の理解も十分でなかった。

 家の外では台風4号はまだ荒れ狂っていた。寝室にマミーを案内する前、私の怖くないかの問いかけに、マミーは台風に何の恐怖も感じないと断言した。「これが台風。いい経験ができた」と窓の外を見ながら言うマミーの胸に亡くなった夫リチャードの結婚指輪がクサリの先で光っていた光景が浮かんだ。午前0時のグランド時計の鐘が鳴り響いた。


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富士山

2012年06月18日 | Weblog

 2012年6月16日の午後成田国際空港で一人のアメリカ人女性が日本の土に初めて足を下ろした。その女性は70歳代後半の日系3世である。3年間に渡る骨の癌の治療から奇跡的に復帰した。離婚後、私は長女をアメリカのシアトルの彼女の家族に預けた。私のカナダ留学時代の先輩家族である。敬虔なキリスト教信者である。

 今までに何回となく夫妻を日本へ招待を繰り返した。そのたびに夫妻は笑って「あなたの気持だけで充分。ありがとう」と首を縦に振らなかった。そして夫は癌で先立った。JR東日本主催のエッセイコンテストで最優秀賞に選ばれて副賞50万円を得た。この賞金は、夫妻の招待に間に合わなかったが彼女だけでも日本招待に使うと決めた。招待を申し出た。彼女の心が動いたかに思えた。「イエス」の答を心待ちにしていた。彼女からの手紙は思いもしなかった癌宣告を受けた報告だった。あれから7年経った。

 今回彼女の来日の決心に彼女の子どもたち5人全員が一番驚いた。彼女は私たちからの招待の申し出を受けず、飛行機の切符も自分で手配した。彼女は日系であっても日本人ではない。それどころか日本に対して拭いがたい影を持つ。彼女が日系人収容所に収監されたのは、彼女がまだ5歳の時だった。両親も祖父母も親戚一同が日系人というだけで全財産を没収され、シアトルから強制的に収容所に入れられた。多感な少女は収容所での過酷な生活で日本に対する愛国心も母国への想いも、どうしようもないトラウマとなって、心の奥深くに終い込んだに違いない。彼女が日本に対しての気持を吐露したことはない。それどころか私の離婚後、自分の5人の子どもとの7人家族に日本から来た私の娘を預かり育ててくれた。トイレが一つしかない家に一時8人で暮らした。

 私の娘は、彼女をマミーと呼び、彼女の夫をダディと呼んだ。私をパパと呼ぶ。そして私の妻をお母さんと呼ぶ。私の娘の英語の話し方は、マミーそっくりである。話す途中、ところどころ語尾に微かな舌打ちのような音が混じる。話し方が似るには相当な時間生活を共にして多くの会話を交わさなければならない。娘がまだ中学生だった時、娘の将来について話したことがある。娘はきっぱりと「マミーのように子どもを大切に育てるお母さんになりたい」と言った。

 結婚した娘には男の子がいる。この7月で1歳になる。1年間の産休を終え、会社には復帰したばかりである。「マミーのように」は、いろいろな面で壁にぶつかっている。20日まで会社を休み、娘の夫とマミーをもてなす。19日から24日まで、マミーは我が家に滞在する。

 私の頭の中は、どう、この日本滞在でマミーへの恩返しをするかでいっぱいだ。何故か、どうしても富士山を見てもらいたい。でも長期天気予報では全期間雨の予報である。20、21日には台風4号の上陸も予報されている。富士山を見られないかもしれない。どうしよう、と悩み、へこむ。それが行動にも出るらしい。この数日「おかしい」と何回も妻に指摘された。あれもこれもと考えてしまう。妻は「普通が一番よ」と言う。

 決めた。マミーは第二次世界大戦を自分だけで受け止めた。私の娘を5人の自分の子どもと同じように受け入れ、育てた。それほどの人に私ごとき者が何の恩返しができるものか。妻が言う通りだ。普通に毎日暮らしている中に、たとえ6日間であっても、マミーを迎えよう。毅然と生きてきたマミーに私は富士山を重ねる。


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面倒で小さなこと

2012年06月14日 | Weblog

「小さなことをしている時は、大きなことを考えなければならない。その小さなことが正しい方向へと進んで行くように」アルビン・トフラー

 フキが野菜コーナーに並び始めた。さっそく調理して食べた。何と美味しいことか。

 子どもの頃、フキはそれほど美味しいと思ったことはない。それはおそらくフキは店で買うモノでなく、自分の家の庭や山で採ってくるか隣人知人からもらうモノだった。食糧不足、貧困、家族の多さ。毎食、全員が腹に何かを入れることが最優先された。当時、食費を抑える手立てとして、自前調達が普通のことだった。

 安い食品ほど食べるまでに手間がかかるものだ。フキは手間がかかるだけではない。アクが強い。アクを抜くのは、簡単なことではない。フキのすべてが食べられれば良いのだが、数分塩茹でしてから皮をむかなくてはならない。この皮むきがやっかいである。切りそろえたフキを両端から指の爪を使ってむく。爪が短いとむきにくい。爪が長すぎてもダメ。爪の中が見る見るうちに黒ずんでくる。これが気にもなる。

 富山県の富山湾にシロエビという珍しい海老がいる。富山の寿司職人はシロエビの旬になると小指の爪を1センチ近くに伸ばすという。寿司屋ではシロエビを軍艦巻きにする。シロエビの軍艦巻きを口にするたびに、私は無上の喜びに浸る。シロエビを一匹一匹小指の爪を使って剥きだす。大変な手間である。こういう手間と面倒が日本から、イヤ世界から消え始めている。世の中便利になるばかりだ。何でも合理化といって機械化されるが、機械にできないこともまだまだ残っている。

 手間と面倒に目覚めたのは、離婚して二人の子どもを男手ひとつで育てるようになってからである。それまでは気がつくこともなかった食事の用意の大変さを知った。食事の準備に手間をかければかけるほど、子どもたちが喜ぶのを体験で学んだ。

 離婚後、知人の銀行借り入れの保証人をエエカッコしいで引き受けてしまった。結局知人は倒産して夜逃げした。背負い込んだ代理弁済は、破滅への追い討ちのようだった。それでも負けなかった。米と味噌だけをなけなしの給料が出ると毎月まず買った。時々訪ねてくれた民生委員に生活保護の申請を勧められた時期もあった。私は意地になってその進言を拒んだ。

 そんなころ、モヤシは我が家の常備野菜だった。モヤシを袋から出してそのまま使うのではなく、一本一本根を切り、ゴミを取りはずす。この作業が私に多くのことを学ばせた。モヤシの下ごしらえしながら考えた。二人の子どもの未来に想いをはせた。我慢できた。耐えられた。それでも時々、一本ずつモヤシを手にして、まだこれからやらねばならないモヤシの山にヘキヘキして投げ出したくなった。いつしか子どもが私を手伝うようになった。そうして時間が過ぎた。

 孫たちが私を年数回訪ねてくれる。私はモヤシラーメンでもてなす。孫たちは何も知らずに小さな手で私を真似てモヤシの作業をする。最後まで投げ出さずにやる。彼らの父親と母親がそれを優しく見守る。

 「子どもは親や教師の「言う通り」にならないが、「する通り」になる」渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』 幻冬舎 952円+税 


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四人組

2012年06月12日 | Weblog

 新聞の週刊誌の刷り込み広告に“民主党の4人組”と大きく書かれていた。4人組といえば、少し前に電車の中で遭遇した女性たちのことを思い出した。

 小田急線で東京へ定期健診に行った時のことだった。奮発してロマンスカーに乗った。小田原の駅前に切符の安売り販売所ができた。そこで株主優待乗車券を650円で買える。正規乗車賃は850円。片道200円安くなる。往復で400円の節約になる。ロマンスカーは特急代が870円かかるが、安売り販売所で70円引きの800円だ。帰りは町田で買い物があるので、行きだけロマンスカーにした。電車で本を読むのが好きだ。さっそくカバンから読みかけの本を出し、読み始めた。

 「お寺が・・・」「お墓が・・・」大きなよく通る女性の声が車内に響き渡る。電車の「ガタンゴトン」は、読書を心地良く進める推進力となる。しかし度を越した馬鹿話や声は、読書の大きな妨げとなる。気に障るので本から目を離し、声のする方をチラッと見た。箱根帰りらしい4人組の女性だ。年齢70代前半。何かのお稽古ごとの仲間とお見受けした。4人が満遍なく平等に喋っては笑った。

 電車は数少ない停車駅のひとつに止まった。車内はほぼ満員。痩せて足どりが重い背広に白いシャツ、今どき珍しくネクタイをきちんと締めている会社員が乗り込んできた。年齢20代後半か。切符を片手に4人組の相向きにされた席の脇でモジモジしている。電車が軽快に発車した。「あの~この席・・」やたら細い声で若者が尋ね始めた。多勢に無勢。「あらやだ~またダブルブッキング」「小田急ってよくこれをやるのよね」「これ箱根14号よ」「あなたの切符は何号なの?」 ま~実に手際よくというか、順番よく女性陣は次々に喋る。通路側の女性が若者の切符をひったくるように奪う。「ほらあなたの10号じゃない」 私は自分の切符を首賭けホルダーから取り出す。私の切符も10号だ。4人組以外の全乗客が自分の切符を確かめている仕草が水紋のように凄いスピードで車内を駆け巡った。そして全員自分の切符が10号であることを確認し終わった視線が、4人組の席に向かってレーザー光線のように収束して注がれた。

 その集中砲火のような視線を感じたのか、ひとりの女性が自分の切符を見て叫んだ。「やだ、小田原発車時刻まだ1時間後じゃない」「ハハハ」「ゲラゲラ」「オホホ」と笑い始めた。照れ隠し?謝ることもなく女性陣は棚からパンパンにふくらんだ荷物を乱暴に落とし真下で次々にキャッチする。席を元に戻すこともなく何故か前方へ足音をたてて移動した。

 一人残された若者は、目一杯後ろに倒された背もたれを戻し、席を回転させて窓側に座った。大きなため息をついたようだ。音は伝わらなかったが、若者の肩が大きく1回上下した。

 前方に移動した女性陣は左右に分かれて空いていた席に陣取った。車内の私を含めた乗客がやっと息を復活させた。あきれ果てた女性たちへの失望から若者への支持を表明する安堵の輪が穏やかに拡がった。

 やがて車掌が4人組が新たに陣取った席に乗客がいてはならないのを見抜いた。どうして前の席に4人が陣取っていた時、発覚しなかったのか。きっと本来乗るべき客が小田原で3人乗り遅れたか、それとも途中駅からの予約があったのか、偶然が重なって4人組が切符の号車座席の数字通りに座れたのだろう。車掌に問われる前に4人組は、順繰りに事情の説明を開始した。車両の後方の私にまで聞こえてきた。車掌は彼女たちに空いた席を指定して無罪放免して間違い切符を受理したらしい。きっとよくあることなのだろう。いまの世の中には不注意が溢れている。再び電車の中に「アハハ」「ウォホホ」「カッカッカ」「ヘラヘラ」が響き始めた。私の後ろの箱根の温泉の旅帰りの夫婦がひそりと「ああはなりたくないわね」「あ~あ」(夫の同意の返事らしい)とつぶやきあった。

 「三人寄れば文殊の知恵」という。ところが日本には、ロマンスカーの4人組のような、ただの「烏合の衆」ばかりが跋扈する。憲法の前文に『日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通して行動し・・・自由をもたらす恵沢を確保し・・・』とある。そんな烏合のような代表を選ぶ選挙民にも問題があるが、多くの国会議員はその能力もなく責任もはたしていない。ただ運よく手に入れた特権だらけの特別仕立てのロマンスカーの座席を死守することに明け暮れている。そのさまは、電車の4人組の女性たちと重なる。一方国民は、あの若者のように普通のロマンスカーの特急指定席券すなわち自由のもたらす恵沢を確保する切符を持っていても、使えないでいる。若者が4人組から席を取り戻したように。次の選挙で正当な代表者を国会に送り、近い将来、安堵のため息を思い切り吐きたいものだ。それには、まず一人ひとりが自身の文殊を高め、ちりも積もれば山となって多勢になることだ。この国難に立ち向かい、元気出して、汗をかいて、被災を分かち合う。必要なら生活を切り詰め、節電してでも金も出す覚悟も多くの国民は持っている。尖閣諸島を東京都が買うための寄付金がよい例だ。特別席にふんぞり返る人たちは、声なき声の国民の実力を見て見ぬふりをして、うまく操作していると思い込んでいるのだろうが、そうは問屋が卸さない。


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接吻

2012年06月08日 | Weblog

 集合住宅の一階にある我が家の窓が、一昨日、一大シネマスコープの画面になった。

 北側の窓は大きく川に向かって開いている。家の前のセコイアの新緑。すでに芽吹きから数ヶ月を経ていまや生い茂る桜並木の桜葉。道路と勢いよく流れ下る川との境に古いコンクリートの欄干がある。道路と川の段差は6,7メートル。欄干の下はそく川である。この欄干、造られてから相当な年月を経ている。苔生す様は、絵になっている。また高さが60センチほどで腰掛けやすい。散歩途中の老人たちがよく腰を降ろして休憩をとっている。

 何気なく窓から外を見た。目を疑った。桜の木の下、欄干に腰を降ろした2人連れ。何かおかしい。二人の頭が重なり合って見える。私の視力は低下するばかりだ。いよいよ私は幻覚までみるほど老化が進んだかと目をこする。

 間違いなかった。男と女が欄干に腰を降ろして接吻中だった。我が家のソファにクッションが置いてある。オーストリアのウィーンで買いもとめたモノだ。クリムトの『接吻』が金色の糸を主体として刺繍されている。(写真参照)男の顔も女の顔も真横になって重なっている。クリムトの『接吻』のような雰囲気はない。第一、他人が住む、それも20家族が住む集合住宅の前である。これではまるでオペラ座のバルコニー席からの観覧である。クリムトの『接吻』はクチビルを重ねていない。しかし桜の木の下の二人は、あきらかにクチビルとクチビルを合わせている。合わせているというよりねじ込んでいる。

 時間が過ぎる。クチビルは離れない。私にはやらなければならいことがある。妻に頼まれていた南側のベランダに干した洗濯物を取り込む時間なのだ。私は出歯亀か。さらに10分が過ぎた。でもまだクチビルが離れない。私は落ち着かない。そわそわベランダに行こうか思案する。「もう、いい加減」と窓の外を気にする。まさかキスの長時間記録でギネスブック挑戦。

 私にだってテストステロン(性欲をも促す男性ホルモン)を制御できず、その軍門に下っていた時代が、短かったが過去にあった。私の中に明らかに好色とそれを抑えようとする2大勢力の葛藤がある。覗きと言われれば、返す言葉がない。しかし異常に興奮するわけでもなく、美術館でクリムトの『接吻』を鑑賞するように二人をチラチラっと見ることを続けた。感心した。見られる二人にも、見る自分にも。忍耐力か。ただ愚かなのか。二人と私は約一時間そうしていた。向こうの二人が立ち上がり歩き始めた。男性が20代後半の白人、女性がアラフォーと呼ばれる40代前半(?)ぐらいの日本人女性(?)だと私はきめつけた。

 年齢構成は問わない。人種構成も問わない。男女かそうでないかの構成も問わない。ただできれば、集合住宅といえども、他人の家の前で長時間この体勢の演出構成行為は、遠慮してもらいたかった。この道の通行者は、ほとんどクリムトの世界とはほど遠く、私の主夫としての家事を妨げるような人も犬も皆無である。この二人が旅人であることをことさら願った。

 二人が立ち去り、やっと洗濯物を家の中に取り入れた。その後私はソファに倒れこんだ。クリムトの『接吻』のクッションを枕に横になった。気になってクッションを頭の下から引き抜いてその絵をじっと見た。芸術作品にはどうしてこう訴えるモノがあるのか。あの二人にこの品性がなかったのはなぜか。

 私はあの二人のような熱い接吻と現在は無縁だが、時々耳をあてて妻の心臓の音を聴く。「ドキン ドキン ドキン」と正確に力強く打つ妻の心臓の音。妻も私も生きている。その音は私に接吻とは違った歓喜をもたらす。そして祈る「心臓さん、どうぞ私にこの女性のあなたの音をできるだけ長く聴かせてください」と。 


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蛇と老婆とその愛犬パピヨン

2012年06月06日 | Weblog

 月曜日の朝6時48分だった。狭い川端の道路、妻を駅に送る途中だった。いつものように老女と白と茶色のぶちの犬が散歩していた。毎朝同じ時間ほぼ同じ場所ですれ違う。

 妻と私が同時に「うっ」と言って体を前に出し目を凝らした。路上に棒状のモノ。動いているようにも見える。妻も私も老眼で近視だ。それが何にせよ私の車で轢きたくなかった。車を止めた。車内の私たちと同じく路上の老女もその棒状のモノに気がついている。犬は綱を放されていて老女より5,6メートル先で車をじっと避けている。時すでに遅し。止まった場所が悪い。ボンネットが邪魔で蛇かどうか確認できない。老女は声なき声を発したようだ。身をすくめ、後ずさりして、両手が顎の下に引き寄せられていた。まるで幼子のような仕草で恐怖を表していた。犬に何か言った。聞こえない。犬が老女に振り向く。犬は吠えもせず立ちすくんだ。恐がる様子もない。ただ老女を心配そうに見つめていた。

 この犬に思い出がある。5,6年前のことである。バス停から歩いて家に戻る途中、川端の道路を家に向かって歩いていた。橋を渡って左に曲がると老婆がうつ伏せに倒れていた。2,3メートル先に犬が立ちすくんでいた。吠えるでもなくただ耳をピンと立てて老婆を見ていた。私は躊躇した。なぜなら犬は飼い主に危険が迫ると必死で飼い主を守ろうとする。私はよく犬に吠えられる。子どもの頃、何度も噛み付かれた。どんな犬も甘く見てはならない。しかし老婆は、顔色がなく、息をしているようにも見えなかった。覚悟して老婆に声をかけた。「どうしましたか?救急車呼びますか?」 動いた。顔をアスファルトにくっ付けたまま「大丈夫です。すみませんが起こしてください」と微かに言った。 声は震えているが、気は確かである。「犬は大丈夫ですか?私を攻撃しませんか?」「大丈夫です。おとなしい犬です」 恐る恐る私は老婆が起きるのを手伝った。小さいのに重かった。老婆のおでこに擦り傷があり血がにじんでいた。老婆は何もなかったように、服を掃うこともなく何度もお辞儀を繰り返して犬との散歩を続けた。犬のことが気なった。家に戻って早速犬図鑑で老婆の犬を調べた。パピヨンという犬種で、非常におとなしく、訓練のしやすいフランスの犬だそうだ。

 その後、何年間も老婆とパピヨンとの散歩を見かけていた。歩いている時、出会ったこともある。しかし老婆は、私を認識している様子はまったくなかった。挨拶してもただ会釈を返すだけだった。ところが数年前から老婆から老女に代わった。推測するに老女は老婆の娘か嫁であろう。世代交代である。老女は推定70代前半、ということは老婆は90歳以上に違いない。見慣れたことに囲まれて安穏としていると、変化を受け入れがたくなってしまう。

 蛇を目の前にして、少女のような仕草で立ちすくむ老女。もし老婆だったら、この場面でどのような反応をしただろう。パピヨンは、あの老婆が倒れた日と同じように、耳を立て騒ぐことも吠えることもなく立ち尽くしていた。パピヨンも歳をとったのだろうが、見かけは以前と変わらない。しばらく車を止めていたが、すでに蛇の横断は済んだだろうと発進させた。妻に蛇を轢いていないか確認するよう頼んだ。後ろを振り向いて妻は「何も轢いてもいないよ。轢かれた蛇もない」と言った。私は「もしや蛇は車体のどこかにへばりついて車庫で私に襲い掛かるのでは」の妄想に取り付かれた。老女はパピヨンに追いついて、何もなかったように並んでサイドミラーの中を私の車が進むのと反対方向に歩いて行った。

 駅に妻を送り、家に戻った。駐車場に車を止め、車から降り、ダッシュして裏口玄関のドアに向かった。後ろを振り返りもせずオートロックのボタンを肩越しに押した。「カシャ カシャ」の音が何だか蛇の笑い声に聞こえた。私の頭に「キモイ」の3文字が一つずつゆっくりと力強く浮かんで消えた。


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ホルムアルデヒト

2012年06月04日 | Weblog

 千葉県の利根川水系から取水している多くの市町村で断水があった。原因は、水道水からホルムアルデヒトが検出され、千葉県の一部市町村が上水道の取水を一時止めたからだ。

 ネパールのカトマンズにかつて3年間住んだ。何軒かの家庭で採集した水道水を日本の検査会社に送って調べてもらったことがある。結果は、どこの水道水からも砒素や有害な重金属類が検出され、飲料水に不適格とされた。私は、3回ろ過の3回煮沸して飲料水としていた。高性能なろ過器が日本の本省から配備されても、ネパールに暮らす間ずっと3回ろ過の3回煮沸を続けた。水は見ただけでは、中に何が含まれているかわからない。やみくもで気休めでしかなかったかも知れないが、赴任中、何とか重大な病気になることはなかった。

 水に不便な生活を14年間5箇国で続けた。どこに住んでも、水は生命線である。電気がなくても、ガソリンがなくても、ガスがなくても、十分な食料がなくても生きられるが、安全な飲める水がなければ生きられないことを思い知った。去年の東日本大震災以来、電力不足や計画停電が続いたが、私たち夫婦は「このくらいどうということはない」と不便を感じなかった。過去の過酷な経験が役に立った。

 過去に私のブログで水道水の取水の方法を提案した。川の中にパイプを通す分水方式のことだ。できるだけ水源に近いところに取水口を造り、下流に送水する仕組みだ。今回の千葉県の断水もこの分水方式があったなら、起こらなかったであろう。

  知らず知らずのうちに私たち人間は、だれもかれもが環境破壊に加担してしまっている。我が家にも入浴剤、化学洗剤、シャンプー、リンス、練り歯磨き、うがい薬、排水管のツマリ除去剤、などの化学合成品があり、毎日大量に使用して、垂れ流している。少しでも環境に悪い影響を与えない製品を探し出し、水資源を守るぞという気持を持ち続けたい。不思議でたまらないのは、いくら高機能で近代的な下水処理場を完備しているといっても、はたして完全にこれらの化学物質を除去できるものなのか。これだけ多くの物質が混じりあって、化学変化を起こして得体の知れない新有害物質が生成されないのか。上流から下流へ、次々に下水処理場で処理された水が追加投入されていく。

 旧ユーゴスラビアのベオグラードの住民は、市内を流れる青きドナウとドイツ人が歌い慕うドナウ河をヨーロッパの下水と呼んでいた。環境問題にうるさいドイツ人でさえ、完全な下水処理はしていない。いやできないのだ。地球上にまだ下水処理施設を持たない国の方が、持つ国よりはるかに多い。川にも海にも自浄作用はあるだろうが、人口増加は、とうにその限界を超えてしまっている。飲める飲めない水以前に水そのものが不足している国が多い中、日本は水資源が豊かな国である。その日本が水を有効に使わず自ら汚染させていては話にならない。

 水も重要な資源である。去年の東日本大震災を教訓として、あらゆる想定にもとづき検証をするべきだ。原子力発電に関しても、水を守る視点で再考して欲しい。外国資本による日本での水資源獲得に対して心配する向きもあるが、それは各国がいかに水資源の将来を案じているかのあらわれである。水源地を売るのでなく水を輸出すればいい。日本人は安全と水がただ同然という悪い伝統的な想いを断ち切る時である。豊かな水資源を有効に活かし、災害、人災に備えるべきである。何度でも言う。水がなければ、人は生きられない。もっと真剣に日本の恵まれたこの清潔でおいしい水資源を活かすことを考え、提案を続けていきたい。


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