団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

天下御免

2010年01月27日 | Weblog
 1月19日富山駅を午後2時50分発特急『はくたか17号』に乗った。『大人の休日3日間12000円切符』の2日目だった。珍しく指定席券をとってあった。「4号車5番D席」と切符を読み上げながら席を探した。窓の上の番号を確かめる。「D窓側C通路側」 切符を見る。確かに「D席」とある。しかしD席には、すでに私より少し年配のオジサンが座っていた。直感的に何か話しかけても危険なひとではなさそうと判断した。オジサンは、じっと窓から景色を見ていた。私は席をこのままにしておいてあげようと気配りしたつもりでいた。

 座って、さっそく読みかけの本を出し、老眼鏡をかけ読み出した。ウィリアム・ディートリッヒの『ピラミッド ロゼッタの鍵』である。夢中になってこの数日読み続けている。展開が速く、面白い。電車が停車したらしい。電車が動いていようが、停まっていようが、私は本の中にいた。「すいません。ここは」と語気鋭い上から下まで企業戦士という出で立ちの50代半ばの男性が切符を突き出した。「4号車5番C席」とある。まさに私が座っている席である。隣席のオジサンも心配になったのか、切符を私に差し出した。服装外見から言ったら企業戦士>オジサン>私という順位は、万人が認めるところだった。企業戦士の目は、「指定席に券なしで乗るのか、この遊び人風情が」と私を睨みつけている。

 読みかけの『ロゼッタの鍵』は二段組みの400ページを越える厚い本である。しおりをはさもうとしたら、書き込み用の鉛筆が床に落ちた。拾わなければと下を向く。体を起こし、鉛筆と本をバッグにしまう。ジッパーが中のマスクのゴムに引っかかる。満員の電車の5番席近辺の客が全員、事の成り行きに耳を澄まし、眼を向けている。私は、首から下げた定期入れに今日の切符を全部入れてある。スイカの下にあるので、引き出そうとしてもきつくてうまく出てこない。企業戦士がイライラしている。今にも企業戦士の両耳から沸騰した怒りの蒸気が、噴き出しそうだった。切符が出た。新幹線MAXときのものだった。越後湯沢からの指定席だった。もう一度定期入れに指を入れ探った。あった。「1月19日特急はくたか17号4号車5番D席」 隣りのおじさんの切符と同じだった。オジサンの切符は、高岡からである。私は、この紛争から身を引くことにした。コンピューターだってこんなモノである。

 私はすくっと立ち上がった。「失礼しました」と頭を下げ通路を自由席に向かって進んだ。乗客の視線が痛かった。企業戦士は、悠然と高そうなコートを脱いで網棚に置こうとしていた。幸い自由席は空いていた。日本海が見える窓側に席を決め、腰を下ろした。しばらく海を見ていた。ほっとした。本当に“自由”を感じた。

 福沢諭吉は英語のfreedom,libertyを日本語に訳すとき、“自由”でなく“天下御免”と訳そうとしたという。私は『はくたか17号』の自由席で日本海の向こうに佐渡島を見ながら、自由でなくて天下御免の訳を受け入れていた。

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電気温水器

2010年01月22日 | Weblog
 今私が住む集合住宅は、オール電化を謳って売り出された。私たちは、老後、火事を出す心配が少しでも減らせると考え、購入を決めた。しかしこのオール電化、不便なことが多い。ガス調理器と違って、火力の微妙な調節も、揚げ物や炒め物には火力が弱すぎる。風呂の追い炊きができない。それでも入居して5年間、さして問題も無く暮らした。

 昨日風呂に入ろうとしてスイッチを入れようとした。制御パネルのデジタル表示が消えていた。ON-OFFの押すだけのスイッチと違い、デジタル表示の総合制御パネルは、電気がついていなければ無用の長物である。

 つい数日前、冷蔵庫などの台所の電気が切れていた。他の電気製品が使えていることから、もしかしたらブレーカーが落ちたのかもしれないと点検した。20いくつかあるブレーカーの『キッチン1』の表示ラベルのついたブレーカーが下がっていた。今回もブレーカーだろうと高を括って調べた。ところがブレーカーは一つも落ちていなかった。『温水器200V』のブレーカーに異常はなかった。

 マンション購入後、販売会社から渡されたマニュアルファイルの温水器に関する項目を即、調べた。TOTOのフリーダイヤルの番号を見つけ、電話してみた。午後8時だった。「点検に明日の午後お伺いします」と言われ、少し安心した。しかしお風呂には入れなかった。 次の日の朝、修理担当の会社から電話があった。どんな状況かの問い合わせだった。午後3時半に買い物から歩いて帰り、集合住宅の玄関前にたどり着いた。一台の見慣れない軽自動車のバンが止まっていた。「もしかしたら修理の人?」とカンが働き、尋ねた。やはりそうだった。「だいぶ待ちました?」の問かけに「いいえ、ほんの少し前に着いたばかりです」と明るく答えてくれた。ちょっと太めの30台後半の作業着に身をつつんだ男性だった。

 さっそく総合玄関の鍵を開け、脚立と工具箱を持った男性を我が家へ案内した。温水器は、玄関脇の納戸の中に設置されている。風呂場と温水器を何度か行き来して、男性は、温水器を格納してあるキャビネットのカバーを外し始めた。私は、好奇心旺盛なので、このような作業を見るのが大好きである。野次馬根性全開。男性が「やっぱりな」と独り言のように言った。私に向かって「焼け切れています。ここです。基盤を新しいのと取り替えなければなりませんね」と言う。すかさず「時間はどのくらいかかりますか?」と私は聞いた。「2,3日かかりますね」 私は、【2,3日。その間、風呂なしかよ。勘弁してくれよ。ここは日本だろう。何を造っているんだよTOTOさんよう】と内心思った。

 男性「電話で状況を伺っていたので、お宅へうかがう前に行った修理で取り替えた基盤を捨てないで持ってきたんです。お宅のより程度が良いので2,3日なら使えるでしょう。新品と取り替えるまで、お宅が了承していただければ、臨時に取り付けていきますが、どうしましょう?」と言った。こういうのを“機転”と言う。私は諸手を上げてこの申し出を受け入れた。おかげで新品に取り替えるまでの3日間、風呂に入ることができた。

 過去に暮らしたよその国なら、今回のような場合、中古の部品であっても、相当な高値を吹っかけられたであろう。私が値段を尋ねると修理会社の社員は、当然のように「無料です」と明るく答えた。帰宅した妻に一部始終を報告した。妻は、「最近見かけない機転のある人ね。おかげで今夜はお風呂に入れるわね」とご機嫌だった。ちょっと太めの社員の姿を思い出しながら、彼の親切と気配り、見事な機転に熱い風呂の中で感謝した。

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幻の魚

2010年01月19日 | Weblog
 王子製紙が北海道猿払村に所有する猿払川流域の社有林2660ヘクタールの河川と周囲の森林をイトウを保護するために「環境保全区」にすると発表した。嬉しいニュースである。

 私はサハリンでイトウを見た。ユジノサハリンスクの市場でイトウが売られていた。もちろんロシアでもイトウは、絶滅危惧種に指定されている。ところが法はあっても遵守されてはいない。取り締まりは穴だらけなのである。

 サハリン自然教室の私の恩師、リンさんは、釣りが人生と言い切る人である。特にイトウの話をさせたら、止まることはない。映画『釣りバカ日誌 ファイナル』で浜ちゃんは北海道で彼の究極の釣りバカの最終の獲物としてイトウをあげている。「イトウを釣ったら死んでも良い」とまで言わしめる。釣り好きだった作家、開高健のイトウに対する思いいれも何冊もの釣り紀行の本に書かれていた。私は、凄い魚だと印象が強く残った。 イトウは体長1~1.5メートル体重25キロから45キロ、寿命が20年といわれる大型の淡水魚である。サケの祖先といわれてもいる。

 確かに立派な魚であった。私は、リンさんとサハリンの河川へ釣りをするために渡り歩いた。リンさんが最後にイトウを釣ったのは、もう10年も前だという。ある日、リンさんと買い物に行った市場でイトウが売られていた。私は、イトウを買って食べてみたいと言ってしまった。リンさんは「山本さん、イトウは買って食べる魚と違います。川でイトウと闘って闘って、勝って釣り上げた人だけが食べてもいい魚の王様です。絶対買ってはいけません。わかりますね」 あの時の自分の愚かさと、恥ずかしさを忘れることはできない。リンさんにして王様と言わしめたイトウの存在感が私を打ちのめした。そしてリンさんの哲学にも圧倒された。今でもあの時のリンさんの目の鋭さを思い出す。

 王子製紙の英断が、いつかイトウが悠悠と猿仏川を絶滅の危機を乗り切り、泳ぐ日につながるよう祈る。

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眼底検査

2010年01月14日 | Weblog
 糖尿病による合併症の波及や進行を診察する検査は、糖尿病患者にとって大切なことである。いくら血糖値を低く保てても、一旦糖尿病と診断されれば、見えないところで、いろいろな糖尿病による弊害が出てくる。私は運動療法、食事療法、薬療法によって、この20年数値的には糖尿病を管理できてきた。それでも2001年に心臓の冠動脈の狭窄による狭心症の発作を起こし、心臓バイパス手術を受けた。

 糖尿病で警戒しなければならないのは、眼底網膜症だといわれている。糖尿病は血管に悪影響を与える。血管内を流れる血液内の高血糖が血管内皮を痛め、損傷を受けた内皮は修復しようとする。結果内皮が厚くなったり、固くなり血管を狭める。その進行度合いを検査できるのが眼底の血管だという。

 この眼底検査は、薬品で瞳孔を開かせなければならない。検査そのものは、痛くもないし短時間で終える。しかし開かれた瞳孔が元にもどるには、数時間かかる。今回検査を受けたのは、家に近くに最近開業した眼科医院だった。40歳半ばの男性医師だった。話し方が単純明快で歯切れ良く、感じの良い信頼できそうな医師だった。「右の眼底は問題なく綺麗です。左側に糖尿病による網膜症が診られ、進行しています。こちら側に注意して半年ごとに検査していきましょう」で検査が終わった。1年前に東京の眼科医の検査を受けた時と同じ所見にちょっぴり安心した。

 ついでに最近の疲れ目のことを訴えた。2日前に映画『2012』を東京で人に会う時間調整のため観た時、チケットが最前列しか残っていなかった。無理して大画面のすぐ前で、無理な姿勢でつまらない映画を観た。案の定、右の白目に赤い筋がでるほど眼に負担をかけた。そのことも説明して診てもらった。「右目は処方する目薬ですぐによくなります。疲れ目は効くという患者さんもいれば、効かないという患者さんもいますが、一応目薬をだすので、しばらくそれを使ってみてください。お大事に」で終わった。

 医院から外に出て、晴れた眩しい道を開いたままの瞳孔にとまどいながら、歩いて家に戻った。瞳孔の絶妙な調節によって普段どれほどの恩恵に助けられているかと感謝した。医師の言ったとおり、右目は次の日きれいに治っていた。疲れ目は、一週間過ぎても、どういう変化も無かった。こんどの眼科医は、私の信頼をがっちり掴んだようだ。

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『打ちのめされるようなすごい本』

2010年01月08日 | Weblog
 米原万理著『打ちのめされるようなすごい本』文春文庫781円+税を読んだ。本の題に失望することが多い。しかし今回は違った。電車の中で読んでいて、久しぶりに降りる駅を通り過ぎてしまったほど“打ちのめされた”。米原万理には何故か親近感を抱いている。米原の肩書きが通訳ということと、米原が清流出版で本を出版したことに勝手に私が親近感を持っている。私もかつて数社の企業で英語の通訳として働いていた。私の最初の本も清流出版からだった。

 米原は、2006年に他界した。題名は、本の出版を企画した誰かがつけたのだろうが、本を実際に読んで、あまりの米原の存在感に私は打ちのめされた。この本は、米原が1995年から2005年までの10年間に読んだ本の書評である。その多くがベストセラーや有名出版社とは無縁の本である。私の興味を引かない本も多い。それでも打ちのめされるように読み続けられるのは、米原の書評が面白いからに違いない。書評と同時に米原のガンとの壮絶な闘病日記でもある。ガンを告知されてから、米原は、ガンに関する本を数多く読破し、その書評には米原の生への気迫さえ感じる。病院や医師との必死の駆け引き、やり取り、会話と治療法の記録は、貴重な証拠、証言である。私がガンだと知ったら、まずこの本を参考にしようと思っている。

 米原は、一日に7冊の本を20年間読み続けたという。バーニス・ルーペンス著『顔のない女』YMS創流社339ページを一時間足らずで読み終えたとある。速読という本の読み方がこの世にあるのは、私も知っている。米原の読書量と読む速さ尋常ではない。私は読むのが遅い。賢くないことが原因であろうが、とにかく遅い。メモを取りながら、考えながら読む。

 私の妻は読むのが早い。妻に米原の読む早さと量を話すと「私は2,3日で1冊ね」と言う。「それも私が面白いと思う本、でも最近つまらない本が多いから、途中で投げ出したくなるけど、私ケチだから仕方なく最後まで読むの」とも言った。私は1ヵ月5~7冊が精一杯である。

 米原は、忙しく世界を飛び回っていた。日本でも数々の要職に就き、通訳の仕事もこなしていた。いったいいつ米原が本を読んでいたのだろう。そこから浮かび上がる米原の日常生活は、一見孤独に感じる。だが米原は、本を通じて人間としての知の宇宙を超高速で飛び回っていたのだろう。そして米原の生活にテレビ、社交、ファッション、宗教がまったく出てこない。それは私を大いに喜ばした。その上、米原が猫5匹、犬3頭、金魚2匹を飼っていたことだ。そんな米原の生き方に共感を覚えるのである。

 私の読書の醍醐味は、本の中で私が日頃感じていること、考えていること、思っていることを、著者の適切な言葉で私をいたく納得させてくれることである。そのような箇所を見つけることは実に少ない。だからこそそういう箇所を求めて本の宇宙を彷徨うのである。

 以前から米原の本は、私を裏切ることなく大いに満足させてくれた。その米原がガンと闘い、果てた。ロシア語の同時通訳者としても優秀だった。私は、語学に優れた人が亡くなると、もの凄い喪失感に沈む。語学の天才とはほど遠いが、私は英語をチョッピリ学んだ。日本語以外の自分の言葉を持てることがどれほど素晴らしいかだけは、経験したつもりだ。だからこそ米原万理のロシア語の知識が米原の死と共に消えたことに、何ともいえないむなしさを抱く。数学者で作家新田次郎の息子、数学者藤原正彦が週刊誌のコラム『管見妄語』で「親父が死んだ時、親父ほどの知性、知識が死んで消えたという喪失感にとらわれた。最近息子に同じことを言われて、嬉しくも哀しかった」と書いていた米原の死を悼む。米原は多くの本を残してくれた。これからは本の中で米原万理とじっくりゆっくり向き合おうと思っている。

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古封筒

2010年01月05日 | Weblog
 母は、毎月の支払いに備えて一円単位でそろえて、古封筒に仕分けしていた。4人の子どもの給食費、電気代、汲み取り代、水道代、などなど。東京生まれでもないのに、金使いに江戸っ子的だらしなさがあった父親は、母のこの仕分けを面白く思っていなかった。金のことでよく夫婦喧嘩をしていた。

 私の金の使い方は、父親に似ていた。だからこそ母親の用意周到さに、地道に質素に生きる母を尊敬する。父も母も貧しい農家の生まれだった。学校も満足に行っていない。父は、貧乏から脱出しようと野心を持ち、ええかっこしいの夢見る見得坊だった。母は、貧乏は懲り懲りと収入の範囲内で質素節約の現実の生活を守った。母の口癖は「支出を収入りより多くしない」「お金は10年で倍になる」だった。母は忠実にこの信条を守り、退職後も年金と貯金で見事に生きている。

 父親は、享年72歳膵臓癌で資産を残すことなく一生を終えた。父は、働き者で子どもをかわいがり、金を惜しまず教育にかけてくれた。父は、自分の財産は、子どもだと言っていた。私の知る限り、ギャンブルにも酒にも女にも縁がなかった。

 子は親の背中を見て育つ、と言う。私の生き様を子どもたちが、いったいどうみているのか。興味はあるが、きっとそれを私が生きているうちに知ることはないだろう。

 私も母に習って、古封筒で孫たちのお年玉の袋を作った。古封筒を手に、はるか昔の正月を想った。古封筒から母がどれほど毎日のやりくりに緊張していたが伝わるようだった。今、毎月ほとんどの支払いは、銀行口座から自動引き落としになる。緊張感のない生活は、人間を退化させている気がしてならない。

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