団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

訃報

2013年05月30日 | Weblog

 歌舞伎作者、河竹黙阿弥の曾孫にあたる演劇研究家の河竹登志夫さんが5月6日亡くなった。河竹さんのような知識人が亡くなるたびに故人が蓄積した知の財産の損失を残念に思う。私のような凡人であっても河竹さんからいただいた教えを大切に生かしたい。以前私の書いた本『サハリン旅の始まり』を読み、わざわざ手紙を下さった。人となりが溢れる手書きの便箋3枚の手紙だった。不慣れな出版で精も根もつきていた私を河竹さんの手紙は感涙させた。これがきっかけで『失われた墓標』の著者小林多美男と親交があった河竹さんから小林多美男に関する話や資料をいただいた。私はそれを元に小林多美男をモデルにした小説『マカク』を書き上げた。もう河竹さんの肉体はこの世に存在しないが、多くの著書や教え子が残った。私もいただいた多くの本を学んで、これからにつなげたい。誰にも終わりが来る。私のまわりに居てくれる知の巨人から少しでも多くを直接聴き取り学びたい。ひとり一人が持つ才能知識をほうっておくのは、あまりにモッタイナイ。河竹登志夫先生に敬意をこめて追悼し、深い感謝とともに頭を下げる。

 

 「『サハリン旅のはじまり』を、暫く時を得て完読いたしました。樺太と呼ばれていた頃から地理では知っていたものの、御著で初めてその実際を拝見したように感じ、新鮮な感動を受けました。厳しい自然と社会状況の中で生きる主人公の堂々とした生き方、その有様をみごとにとらえて再現してくれているカメラの的確さと美しさ。御文章も、何の飾り気もなく、しかも明快に彼地の人と生活と、素直に同感し、感謝する著者の真情が、そのままに読者に伝わってきます。日毎に進みすぎる文明に毒されて行く我々よりはるかに人間的な生き方が、ここにあったことを改めて知ることができました。

 そうして何よりこうした貴重な“自然と人間”の姿を、写真と文により記録されようとした著者の熱意と、実行された御努力に、ふかい感銘受けました。これには勿論奥様の一方ならぬ御協力があられたことでしょう。

 以上言葉は足りませんが感じたままを記しました。失礼の段は何卒御許容下さいます様。御健勝祈り上げつつ。

 二〇〇七年十一月十五日

         河竹登志夫」


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軽自動車

2013年05月28日 | Weblog

 生まれてから一度も日本へ来たことがない友人がアメリカから来日した。成田に到着して高速道路を車で東京のホテルに入った。時差で疲れていたのか車窓からの景色に関心を示すゆとりはなかった。東京では電車中心にほとんど歩いて観光した。人の多さ、せまい道にひしめく車、ハデでケバケバしいネオンや看板に異国情緒を楽しんだ。その後新幹線に乗り私の住む相模湾を臨む町に来た。私は観光を兼ねて車であちこち案内した。

 交差点で信号待ちして停車した。右折しようとしていたので助手席の友人の隣りに直進する車が停まっていた。友人が私に尋ねた。「隣りに停まっているのは何ですか?」 私には質問の意味が分らなかった。「普通の乗用車ですよ」「どうしてあんなに小さいのですか?」「あんなに小さければ危険じゃないですか?恐ろしい」 私は説明することはできなかった。

 アメリカ議会や自動車生産会社は日本に対して大きな不満を持っている。日本は車を日本でもアメリカでもじゃんじゃん生産してアメリカで売りまくっている。ところが日本ではドイツやイタリアやフランスなどの車を多く買うがアメリカ製の車を買わない。それどころか軽自動車何ていうどこの国でも生産しない大きさ重さエンジン容量などガンジガラメの規制をかけた車を税制面で優遇してまで売っている。アメリカがどんなに努力して小型化した普通車を生産してもアメリカ製の車を日本はあまり買わない。

 日本で一番売れている車は軽自動車だそうだ。月1回集る鎌倉の勉強会で尊敬する先輩Nさんが「白ナンバーから黄ナンバーにした」と言った。最初鈍感な私はNさんが何を言いたいのか理解できなかった。「いままで乗っていた普通乗用車を車検が来たので軽自動車に変えました」 白ナンバーは普通乗用車で黄ナンバーは軽自動車のことだった。Nさんは奥さんを亡くし一人暮らしである。Nさんは優しく物静かで実直な人である。見栄を張ることがない。エエカッコシイでずっと生きてきた私には眩しい存在である。

 文化は国民性のあらわれだと思う。その国の人がどんな車を好むかも国民性を知る指標となる。軽自動車はNさんのように身の程をわきまえた質実剛健な日本人に支持される。「せまい日本、そんなに急いでどこへ行く」という交通標語を見たことがある。これだけ日本で軽自動車が普及しているのは、軽自動車が日本に適応しているからだろう。アメリカも中国も韓国も人々は大きな車を好むそうだ。潜在的に「小」をバカにする文化である。誰だってポルシェ、フェラーリを格好良い車だと思う。買えるなら乗りたいと思う。多くの動物のオスはメスの気を惹くために大きさや見栄えを競う。本能なのか単なるエエカッコシイなのか。

 最近いま乗る普通乗用車を機械式駐車場にバックで入れることが以前のように簡単にできない。老化による感覚の劣化であろう。車を小さいものに替えようと考え始めている。輸入車で軽自動車に登録されたのは、私の知る限りドイツのベンツ系の『スマート』だけである。イタリアのフィアットとアルファロメオ、ドイツのVW、フランスのシトロエンとプジョーなどが次々と新型の小型車を日本に売りこんでいる。私はこれらのメーカーが日本へ軽自動車で攻勢をかけてきて欲しい。公正な競争はますます製品を向上させる。日本の軽自動車の性能は良いがデザインがイマイチである。オヤオヤ小さな車にしようかとやっとまともなことを考え始めたのに、いまだエエカッコシイが私の心を乱す。Nさんはやっぱり凄い人だ。

 5月28日(火)夜10時からテレビ東京『ガイアの夜明け 人気沸騰・・・・軽自動車』なる特別番組を放送する。録画して勉強したい。


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東京都知事、大阪市長発言

2013年05月24日 | Weblog

 猪瀬東京都知事と橋下徹大阪市長の今回の国際的な失言にはあきれ果てた。もう聞き飽きるぐらい報道されたので、内容には触れない。

  人間すべて多面性を持ち、聖人君子などいないことを私は認める。テレビの前に座れば、私も罵詈雑言と啖呵を繰り返すかティッシュを片手にもらい泣きするオヤジと化す。ある国で日本国大使夫人から「ウチの主人は車を運転すると人が変わったように、とてもここでお話できない言葉でまわりの車の運転手や通行人を罵倒すんですよ。今度録音して聞かせて反省させたいと思っています」と聞いたことがある。その国では私もほぼ毎日、日本では使ったこともない言葉を連発していた。

  私人でしかない私が何をしでかしても言っても“オヤジだから”で片付く。公人は違う。地位が高くなればなるほど公人と私人を区別しなければならない。それができなければ要職に就かなければよい。ところが何故かそれができない者に限って権力の座につきたがる。日本の多くの政治屋さんとテレビタレントに見られるタイプである。どうすれば自分の欠点を補足すればいいのか。人材活用すればいい。

  都知事にも市長にも秘書がつく。日本の大物には、多すぎるくらい身辺警護がつく。ガタイのいい目つきの鋭い男たちである。あれだけの警護が必要だということは、それだけ彼らが誰かに狙われるようなことをしてきたか、しているからであろう。何事も自分の経験則で本能的に自分を前面に押し出して生きてきた人たちである。敵も多いのだろう。

  残念ながら公人で国際的なマナー、センス、品性、語学、教養に秀でている人は見かけない。ならば人材を確保して自分に欠けている点を補充するしかない。世界的に顰蹙を買うくらいなら、それを防ぐための対策を金がかかっても立てなければならない。世界には世界に通用する頭脳が必要だ。秘書とか通訳というと、適当に身内から登用すればよいとでも思っているのであろう。そういうケチな一族郎党主義は生き馬の目を抜く世界に通用しない。お粗末な泥縄対策が身を滅ぼす。

  今回東京都知事にしても大阪市長にしても決定的な過ちは、通訳の起用の仕方である。同行したのか現地調達したのか知らない。まさか相手に通訳を提供されたのではないだろうことを願うばかりである。通訳の選択、採用に気がまわらない程度の人が世界に出てはならない。殿さま気取りの公人の暴言暴走を制御できるのは、秘書と通訳しかいない。特に通訳は最後の砦である。二人にしか通じない合図で失言暴言を防ぐことができる。通訳の言葉ひとつで戦争だって起こりうる。世界の豪腕記者は、鵜の目鷹の目で特ダネを狙う。鴨がネギを背負って自ら飛び込んで来てくれる。取材される本人は、大物扱いされるだけで有頂天になる。ここで油断が生じ、口が軽くなる。豪腕記者は記事の中で明確な物議目標を定めて読者を誘導しようと試みる。だがそういう世界に精通する優秀で賢い用心深い秘書と通訳が“大物”を護ることができる。“大物”は人材発掘、人材育成、人材投資できてこそ“大物”に留まれる。ご苦労なことだ。大した通訳ではなかったが私の通訳経験をふまえての感想提案である。

  公人になったことがない私は、今日も心置きなくオヤジを享受する。終の棲家に越してきてからは公の場所にもまず出ることがない。毎日のほとんどの時間を家で過ごす。時々友人が訪ねてくれるのを何よりの楽しみとする。好きな気の合う人としか会わない。誰がそうなのかの探りあいも愉快ととらえる。料理、酒、忌憚のない会話はご馳走である。

  毎夜寝る前に「これでいいのだ」と独り言。オヤジはバッタンキューで「極楽、極楽」


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ホタルイカ

2013年05月22日 | Weblog

 5月になると思い出す一泊二日の旅がある。20数年前に妻、妻の妹、義父、私の娘、5人と車で富山県滑川へホタルイカ漁を観に行った。子連れ再婚の私側と妻の家族の間には越えたくても超えられない遠慮と警戒の垣根があった。朝3時に起こしてもらい旅館から港へ車で向かった。たくさんの観光客がすでに集り何隻もの観光船に分乗した。妻の妹は船酔いするというので港に残った。

 集魚灯、作業用の灯り全てが消えた。ホタルイカが入った大きな網がクレーンで引き揚げられた。小さな星が青い砂金のように暗闇にこぼれた。網の中は溶鉱炉の中でひしめき点滅する爽やかな青い生命のマグマのようだった。誰も彼もが押し黙って口を開けて見とれていた。

 見たことのない青だった。生きた生物から光が発せられること自体私には理解できないどころか受けいれることさえできない。人間のどこに光る器官、機能があるというのか。たとえ光を放てても、あれだけのものになるのか。ホタルも神秘だが光の質が違う。ネパールタライの原始林で見たホタルが高さ10メートルの樹木にびっしり被いつくし木ごとにシンクロする光景にも度肝を抜かれた。もしもあのホタルの木がホタルイカ並みの光だったら私はどう反応しただろうか。

 灯りが再点灯された。夢から醒めたようだった。ホタルイカは漁師にとって獲物であり商品である。そう見れば、ホタルイカは普通のイカだ。姿形は小さいがイカそのままである。漁船の漁師たちが獲れたての生きたホタルイカをポンポンと投げた。義父が上手に一匹手にした。漁師が身振りで「食べろ」と誘った。義父は器用に右手でホタルイカを上げ、頭を水平にして大きく口を開け、飲み込んだ。味をみるというより肝試しのようだった。

 帰りに砺波のチューリップを観に行った。朝早く起きた所為もあるが、チューリップ畑で全員はふぬけ状態だった。

 義父は6年前に亡くなった。通夜で義父に対面した。私は義父の額に手を置いた。冷たかった。私の手のひらに伝わる冷たさは、なぜか富山のホタルイカの色の世界に私たちを導いた。義父に心で話しかけた。「ホタルイカ奇麗でした。一緒に観たこと宝ですね。さようなら、義父さん」


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セロテープ・ホッチキス・ビニール袋・セロファン

2013年05月20日 | Weblog

 食材を買って家に帰った。買い物袋から商品を出す。下ごしらえが必要なモノと冷蔵庫や戸棚、引き出しに仕舞うモノを分ける。自給自足でなく、必要なモノは全て買わなければならない。好きなスナップエンドウをまず茹でることにした。妻も私もできるだけ素材のまま調理して、調味料を使わないように心掛けている。エンドウは透明なセロファンでできている袋に入れられていた。袋の上部に手の指を入れて持てるように楕円形の穴が開けられていた。幅10センチくらいの袋の両端を両手で持って開らこうとした。開かない。目を凝らして見ると穴の下部がセロテープで留められていた。袋も透明。セロテープも透明。店によっては色をつけたテープを使い、はがしやすいように端を丁寧に折りたたんでくれてある。透明と透明、加えて折り返しがなくピタっとテープがくっ付いている。老眼の所為もあるがテープのはじっこが見つけられない。見えないから、指先で触って端を探す。テープの端を見つける。今度ははがしにかかる。爪を切ったばかりでテープの端が引っかからない。面倒くさいと力まかせに袋の両端を開く。セロテープはしっかり張り付いてはがれまいと抵抗する。テープがはがれず袋が伸びる。切れない。開かない。再びセロテープのはがしにかかる。爪を立て何とかテープを袋からはがし始める。あせるあまり力が入りすぎてテープが裂けるように切れる。細く残った張り付いたままのテープは更に爪で引っ掛けるのが難しい。

 請求も注文もしないのにカタログやパンフレットなどが多く送られてくる。私は、そのほとんどを資源ゴミとして分類して捨てる。ただ捨てるならどんなに楽だろう。私はまず封筒の住所と名前の部分を切り抜く。シュレッダーにそれを入れる。最近の封筒は中の印刷物に印刷されている住所氏名が見えるように封筒にセロファンの窓をつけている。ハサミでセロファン部分を切り取り、ゴミ箱に捨てる。中身の印刷物はそのまま捨てるわけにはいかない。ホッチキスで留めてある。私はホッチキスの針を抜く。特別なホッチキスの針を抜く道具を買ってある。専用道具でも簡単に針を抜くことはできない。ときどき道具の先の金属部分が滑って指を傷める。細い針なのに食い込むようにしっかり紙に食い込んでいる。針を引き抜く専用道具が針の下に潜り込んでもそれで終わりではない。引き抜くにはコツがある。ひねりを道具の取っ手に加える。一回でだめなら左右順番に傾け、抜く。抜けた針は、今度は道具の金属部分の奥に食い込んで抜けなくなることもある。針を抜くには指を使う。読まないカタログや広告にここまで手がかかる。

 セロテープ・ホッチキス・ビニール袋・セロファンどれも私たちの生活に大きな恩恵をもたらした発明である。何事も行き過ぎはよくない。感謝が薄れる。創意工夫は発明だけで終らせてしまったらモッタイナイ。使い方だって“気配り”“目配り”“手配り”に考慮熟慮が加われば、利便性は増す。結果更なる、より良き使用法や商品の発明、適正な価格、汚れない買い物袋の開発などにもつながる。毎日の生活の中で「う~ん、これは凄い」「いいね」と感心させられるのは気分がいい。これ以上私の“こんなもの要らない、こんな使い方おかしいリスト”が増えませんように。


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バックミラー

2013年05月16日 | Weblog

  バスに乗った。二人掛けの座席をひとりで座っていた中年の婦人が「どうぞ」と私が座れるように窓側に体をずらしてくれた。「ありがとう」と私は座らせてもらった。立っていてもいいのだが、座るよう気を遣ってもらえるなんてそうあることではない。気分をよくして遠慮する気持ちを伝えたくて浅く腰をおろした。ふと前方を見た。なんとバスの全面に8枚ものミラーがある。バスには死角が多く、歩行者の巻き込み事故が多いからだろう。その左側の一番大きなミラーに冴えないちょっと精気のない男がボンヤリと映っていた。シケた顔に見える。

 目をこすって見直すと何とその男は私自身だった。驚いた。ずいぶんと老けて見える。ヒゲを剃ってなかった所為もあるだろう。役者やモデルは、撮影時、どの方向から撮られるのか非常に気にするという。普段の生活で私は自分の姿を数メートル離れた左側に映っているのを見ることがない。正直ぞっとした。別にとりわけ自分が他の団塊年代の人たちと比較して若いと思ってはいない。バックミラーに映った自分をすんなり受け入れることができなかった。バックミラーを嫌って目を実世界に移す。バスはほぼ満席。圧倒的に60歳以上の乗客が多い。私は子供の時「自分が老人になったらどんな姿になるだろう」と想像したものである。私自身を含めてあの想像とさして変わらぬ老人たちが静かに座席についていた。

 私は鏡が嫌いである。幼い頃姉妹たちには“馬”と仇名された。近所の子供からは“準内地米”(じゅん泣いちまい)と呼ばれ囃し立てられた。馬も米も面長の典型である。今では想像もできない。とにかく痩せていて顔も細かった。小学校では顔のホクロの多さから“ゴマ塩”とも呼ばれた。

  日本では顔、姿形、雰囲気などが仇名の起源となる。カナダの学校へ入って驚いた。“馬”“準内地米”“ゴマ塩”のような顔や体を直接に揶揄するような仇名はなかった。その替りに人種、宗教、肌の色などの文化的なことを背景とする差別的呼称が多かった。カナダで“ジャップ”“黄色い猿”と呼ばれたことは私を傷つけたが、身体的な仇名が少なくなり鏡を見るのが気にならなくなった。

  私は鏡を避けていた。私の子供の頃はよかった。家に鏡なんてなかった。母の鏡台と父がヒゲを剃るときの手のひらほどの鏡ぐらいしか記憶がない。カナダの学校の寮では鏡が多く驚いた。身だしなみを大切にする文化に加えて、教会への一張羅での礼拝出席が鏡の必要性を高めていた。現在私が住む家は鏡だらけである。なぜか私が住む集合住宅の設計者はトイレの左側にさえ壁一面を鏡にした。私は極力鏡を見ないようしている。

  最近鏡嫌いの心境に少し変化がでてきた。目である。目の老化により焦点に弛みが出てきたのかボヤケがいい効果をあげている。目に映る景色がボヤけることは悪いことばかりではない。若さは詳細に関心が向く。成熟という老いは寛大な全体像をとらえようとしてくれる。


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乾き物

2013年05月14日 | Weblog

  カナダの学校の寮にいた時のことだった。洗濯を終えて乾燥室に干しにいった。40年以上も前のことである。穴だらけのいったいどこから腕や脚を通すのかもわからない下着が部屋に張られたヒモに干さされていた。普段、身なりのよい生徒でも下着はお粗末なものだと大発見をしたように苦笑した。私の真っ白なグンゼの下着を誇らしげに木製の洗濯バサミで留めた。 

 時々その一角のヒモに洗濯ばさみに挟まれた茶色に昆布のようなモノがぶらさがっていた。よく見ると干し肉だった。ビーフジャーキーなどというハイカラな食べ物の名前さえ知らなかった。さすが肉食の国だと感心した。しかし学校の食堂でステーキなどの肉そのものの料理の献立はなかった。グレービーという肉汁ソースをマッシュポテトにかけるものに人気があった。生徒の多くが肉に飢えていた。干し肉が生徒の欲求を少し補充していた。それにしても自分たちで干し肉を作ってしまう生活力はたいしたものだった。

  日本には実に多種多様な乾燥食品がある。食文化の違いであろうカナダのように肉類は少ないが海産物はいくらでもある。以前は見向きもしなかった乾きモノが、いまや私の常備食品である。スルメ、干し鱈、鮭のトバ、貝柱、おしゃぶり昆布、乾燥果物、乾しブドウ、木の実などなど。カバンの中に忍ばせ、小腹が空くと口に入れる。糖尿病患者だって腹は空く。甘い菓子、チョコレート、生クリームなどは天敵と見なし敬遠している。

  もう何十年も前に関東でニセ札事件があった。警察は犯人逮捕に躍起になっていた。新聞に発表された犯人の情報のひとつに干し鱈の関するものがあった。綿密な鑑識検査の結果、ニセ札のインキに干し鱈のウロコが付着していた。警察は犯人がニセ札を印刷するかたわら、干し鱈を口にくわえていたのではないかと推測したというものだった。なぜかこのことが強く記憶に残っている。だからいまでも干し鱈を口にするとニセ札事件を思い出す。私はニセ札を造るような技術をいっさい持ち合わせていない。ただ干し鱈を口にしながら、ニセ札を印刷していた犯人に自分を重ねて妄想に浸るのは嫌いではない。ニセ札と干し鱈が結びついて離れない。

  海外で暮らした。暮らした国のほとんどが貧しい開発途上国だった。食糧不足に苦しむ人々に接した。飽食の国日本出身の私なりに考えた。ひとつは乾き物が飢餓を救うだった。しかし壁を知った。食文化の違いである。慣れた物なじみのある物しか多くの人々は口にしない。そこにプライドという邪魔が入る。よかれと思ってカツオ節を援助物資として贈っても、多くの国々の人々は木っ端を送ってきたと憤慨するだろう。多くの海に自生する海藻だって食べ物と認定されない。

  世界の食料不足を解決するには、まず人間の凝り固まって干物のようになった人々の概念を根気よく学習と人類愛という純粋で清潔な潤いで軟化させてもらうしかない。そうすればまだまだ多くの食料を人類は口にできると私は考える。毎日日本では何百万トンという食べ残し売れ残りの食料がゴミとして捨てられている。腐らせるより乾燥させ保存する。乾き物は飢餓を救うひとつの方法ではないだろうか。


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不審物

2013年05月10日 | Weblog

  家から外に出ると不審なことや不審物に囲まれる。時々不審と思われる人々にも遭遇する。電車に乗れば「車内で、不審物や気がかりなことがございましたら、お近くの車掌または駅係員までお知らせください」と繰り返す。テロップで文字放送する設備でも繰り返される。デパートしかり。ショッピングセンターでも、駅ビルでも同じ。

 しかしこれらは皆警戒している“フリ”に見える。大方の日本人は、能天気である。アメリカでテロがあっても、遠い国の出来事で日本では起こらないと信じきっているとしか私には思えない。

  先日駅ビルの中のトイレに入った。若い頃、私は仕事柄トイレに行く回数が少なかった。年金受給者になった今では頻繁に行かざるを得ない。私一人で無防備で使える家のトイレと違う。大きな建物でしかも人の出入りの多い場所のトイレである。このような場所のトイレに自分以外に誰もいないと私は極度に緊張する。

  1960年代カナダ、アメリカをグレイハウンドのバスで旅行した。食事やバス運転手の休憩交替などで停まるバスターミナルのトイレは、恐かった。(拙著『ニッポン人?!』80ページ「ブラザー」参照)いまで言うホームレスが多くいた。見ず知らずの外国人である私に「金を貸してくれ」と執拗に迫った。カナダ、アメリカどこのバスターミナルでも同じだった。トイレで用をたしていると背後に立ち耳元で「気持ち良いことしよう」と気持ち悪い誘いをかけられた。女性に声をかけられたことはないが、男性からは数え切れないほどあった。大都市に多い有料トイレのように入り口に料金徴収係りがいると少し安心できた。

  トイレは恐い。再婚して外国に暮らした13年間もトイレや人混みで恐ろしい目に何度も遭った。日本に帰国して驚いた。トイレが明るくキレイになった。トイレなどの閉鎖空間でも3人以上がいればさほど恐怖心を持たない。ひとりだけの時は極度に緊張する。家の外でトイレを使わなければ済むことだが、老化による頻尿がそうはさせてくれない。

  数日前、集合商業施設が入る駅ビルのトイレに入った。清潔で明るく香りまで噴霧されている。団塊世代が皆経験した戦後数十年の汚く臭い公衆便所とは雲泥の差である。しかし私は戦慄を覚えた。用を足し終えてふと目をあげると棚に不審な紙袋があった。「圧力鍋爆弾!」 爆弾が破裂して自分がバラバラになって空中に飛散する妄想に見舞われた。急いで身支度を整えて手洗い場に向かう。爆弾が破裂する恐怖が追いかけ、脚がもつれた。いつもは手を洗いゆっくりエアタオルで手を乾かすのだが、カバンからタオルを出して早足で歩きながら拭いた。

  エレベーター付近でガードマンが巡回していた。歩み寄りトイレの方角を指差し「男子トイレの中央付近の小便器の棚に不審物があります」と言った。ガードマンは私を頭のてっぺんからつま先まで点検した。私は反省した。自分から「不審物」と言ったら、彼は絶対に私をまず「不審者」と疑う。あの目が何よりの証拠だ。「チェックしておきます」 結果はわからない。

 私は悲しくなった。あれほど放送までして不審物に対する協力を求めながら、実際に報告すると不審者扱いを受ける。あのガードマンの迷惑顔を忘れない。誰をも信用できない世知辛さが蔓延している。私自身がどう見られようとこれからも私は不審物を見つければ報告したい。テロはどこでも起こりうる。たとえ万が一の可能性でも人々が監視の目を光らせれば防げることもある。

 家の外で「金を貸してくれ」とも「気持ち良いことしよう」とも声をかけられない。治安防犯上は良いことだ。でも警戒しすぎて他人と普通の会話や接触がなくなっていくようだ。反面パソコンやスマートフォンを通すとあけっぴろげに誰とでも話せるようだ。多くの人が現実の生活では鎧兜で身も心も隠し、ネット上ではほとんど裸になってしまうらしい。現実世界と仮想世界が混在してしまっている。私は現実だけに身を置き、五感総動員で余生を楽しみたい。


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焼き鳥“とりはる”

2013年05月08日 | Weblog

  どなたからであっても「どうしても」と付け加えられて私に人、店、本などを紹介したいと言ってもらえるのは、嬉しいものだ。友人夫妻が私たち夫婦を連れて行きたいと誘われた店“とりはる”に行ってきた。店の外の看板には「焼きとり」と書いてあった。私も妻もヤキトリ屋に特別な思いを持つ。二人の最初の出会いは妻の高校の恩師行きつけのヤキトリ屋だった。彼女のオーストラリア留学を翌日に控えて恩師が私に彼女へ海外留学の注意点を伝授してあげてくれと頼まれた。あの事実がなければ、私たちの結婚はなかった。

  ところが店の中は「やきとり」の「や」の字の雰囲気もなかった。第一ヤキトリ屋としておきまりのやきとりの焼き台がない。夫婦で切り盛りするカウンターだけの店である。ヤキトリ屋を他の人から引き継いだのか、ヤキトリから小料理に営業替えをしたのかは聞けなかった。10人の客が座れるか座れないか。店主は身長こそ小柄だが健康そうで顔の血色もよく肌の張りがいい。頭はだいぶ毛が薄かったがキレイに櫛目が入ったオールバック。頭の地肌も光っている。外は寒い日だったが、半袖の糊の利いた和風のいなせなダボシャツ姿だった。

 狭い調理場を店主は、あっちへ行ったり来たりこっちで立ったり屈んだり忙しく動き回った。おまかせコースだった。私は店主を分析しようと試みた。第一に店主は、材料重視である。聞けば食材はすべて築地からの調達だそうだ。入手した食材を客の顔を見てから品書きを頭に作る。金額はおおまかに区切っているが、厳密に計算はしていない。計算していたらこの手の店は経営できない。友人の話では「ここまで」と言えば、料理は止まるという。良心的である。客を喜ばせるのが生きがいであるに違いない。料理にも店主夫妻にも魅かれた。

 私は料理するのが好きである。買い物に出て見つけた食材から夕食の献立を考える。だから買い物が終るまで、何を調理するか決まらない。こういうオサンドンだから20年近く主夫をやってこられた。疲れて職場から帰宅する妻を夕食で喜ばせたい。客を迎えるのも好きである。私のオモテナシの本気度を料理で表したいと常に思う。

 “とりはる”のカウンター越しに店主の動きの観察を楽しみながら次々に出される料理に舌鼓をうった。友人夫妻との会話も弾んだ。嬉しい時間はあっという間に過ぎる。いつものように割り勘で支払いを済ませた。再会を誓い私たちは家路についた。

  横浜駅で東海道線に乗り換えようとした。乗る電車が到着してドアが開いた。ところがホームは大騒ぎになった。私たちが待っていたところから2車両前に人だかりができている。駅員が帽子を手で押さえて何人も全速力で駆けつけてきた。駅の構内放送が「○時○分発の電車は当駅において人身事故発生のため当駅止まりとなります・・・・」 電車の乗客もホームで待っていた人もさーっと波が引くように他のホームへ消えた。私たちはどうしたものかと立ち尽くしていた。見通しがよくなったホームの向こうに数人の駅員が床に這いつくばって電車の下の線路上に声をかけていた。「大丈夫ですか?すぐに救出しますので動かないでください」 周りの駅員は時間が止まったように同じ姿勢で固まっていた。

 電車の重さ、固さ、血、死あらゆるおぞましい妄想を繰り返しつつ新幹線で乗り換え帰宅した。“とりはる”での充たされた時間がはるかかなたに飛んでいってしまった。

後日横浜駅の事故のあった場所を見て驚いた。線路は高床式になっていて普通砂利が入れられているところが空間になっている。あの日の事故も落ちた人はこの空間で救われたのだろう。事故の詳細を知ろうとネットで検索したりテレビのニュースに気をつけて観たが、何も知ることはできなかった。ただ事故に遭った方が無事ならばいい。最近鉄道における事故はすべて“人身事故”で片付けられてしまう。

 頭の中で横浜駅での事故が消え、再び“とりはる”での時間を鮮明に思い出せるようになった。今後横浜駅と“とりはる”は、強烈なツナガリをもって記憶にのこるだろう。記憶力の低下著しい私には好都合としよう。せめて年4回季節の旬を楽しみに“とりはる”に行けたらと願っている。


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認認介護

2013年05月02日 | Weblog

 何ヶ月か前、友人が訪ねてくれた。わざわざ私と話したいと来てくれた。昼食を共にした。多いに語り合った。その会話の中で「認認(にんにん)介護って知っている?」と尋ねられた。相変わらず早とちりの私は、「ニンジン?カイコ?」と聞き返す。 あきれ果てることもなく、馬鹿にすることもなく、とことん優しい友は、「認知症の妻と認知症の夫がお互いに夫婦で介護すること」と教えてくれた。なぜこんな話しになったかというと、彼の妻も私の妻と同様に親の介護のことで悩み、苦労していたからである。

 私たちくらいの年齢の者は、親の介護で悩みを持つ者が多い。特に娘と母親の関係に多くの問題があるようだ。佐野洋子著『シズコさん』信田さよ子著『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』岡田尊司著『母という病』などの老人問題、介護問題、母娘問題の本が多く出版されているのを見ても、いかにこの問題が深刻であるかよくわかる。友人は、「団塊世代の両親は、彼らの両親の平均寿命が今ほど長くなく、あまり介護の経験がない。それで勝手に自分の老後に対して理想を持ち、それを子供に押し付けてくる。その反動であまりに自分たちが親の介護に悩み、自分の老後は子供たちに頼ることはすまい、と団塊世代の多くは考える。結局両親からも子供からもはさまれて苦しんでいる」と話してくれた。確かに言われてみれば、私の妻の母親にも当てはまる。

  先月の土曜日、“御呼ばれ”で高校の同級の友の家に行ってきた。約束した駅の南口に車で迎えに来てくれた。7人乗りの大きな車だった。2列目の左側の席は電動で座ったまま乗り降りできる。友の説明によると月2回会いに行く故郷で介護施設に入っている母親を乗せるためだという。月2回母親に会いに行くだけでも感心する。歩くのが不自由なので車の座ったまま乗り降りできる装置をつける気遣いにも驚いた。親孝行な息子である。彼は成績優秀で常に学年でトップクラスだった。難関大学を卒業し、優良企業で活躍し定年退職した。一貫して農家の両親の農作業手伝いを目いっぱいしながらである。二宮尊徳を彷彿させる。2人の子供を立派に成人させた。そして私たち夫婦がお付き合いの基準とする夫婦の仲の良さも合格点である。私の妻が酔いつぶれても、普段からスポーツジムで100キロをベンチプレスで上げる力持ちは、妻を楽々と背負って助けてくれた。余計な批判もしない。到底私にはできないが、精神だけでも学び真似たい朋である。

  私は親のことを考える時、評論家の故三宅久之さんが言った「愛妻、納税、墓参り」を思う。両親や家族や親戚一族が一番でなく、愛妻が一番に来ている。誰よりも妻を大切にする気概がうかがえる。私は全面的に賛成できる。私の自分勝手な解釈かも知れないが、妻を大事にしていれば、両親、家族にも当然優しい気持ちで接することができる。国民として税金を払うのは大切な義務である。3番目の墓参りというのも三宅さんの人柄をよく表している。親の犠牲になるのではなく、産んで育ててくれた両親それにつながる祖先への尊敬と感謝を忘れるなと私は受け止める。たった三つの言葉であるが生きる指針となる分り易い教訓である。母親のことに悩み苦労する妻に何もしてあげることができない。私の半径2メートルを守るのみ。「愛妻、納税、墓参り」と頭で唱え、妻を作り笑いで慰める今日この頃である。


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