団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

詰め放題 そら豆

2013年03月28日 | Weblog

  「詰め放題」「飲み放題」とか「食べ放題」は嫌いである。嫌いである理由は、どれも苦手というだけである。その私が行きつけのスーパーで“そら豆”の「500円詰め放題」に挑戦した。そら豆が好きということもあるが、まず値段に気を魅かれた。そら豆は普段1カップ500円で売られていた。1カップといっても数にして十数本である。大きなサヤの中に平均2,3個のふっくらしたお多福に似た豆が入っている。どれだけの数の豆が取れるかは分らない。本来射幸心の強い私は、サヤを開けてみなければわからない点に魅かれる。サヤごとのそら豆がワゴンの上に山盛りされていたが、詰め放題に挑戦している客は一人もいなかった。

  まわりの影響を受けやすい私なので、ゆっくり静かに詰めれば相当な成果を上げられると踏んだ。当たりもしない宝くじの当落を知る直前の高ぶりに似ている。用意されていたビニール袋は縦35センチ幅21センチだった。普段の値段十数本で500円なら30本を入れることができれば上出来、と捕らぬタヌキの皮算用。

  「お上手ですね。私もやってみようかな」とおばさんが私の反対側に立って袋を手に取った。まずい展開だ。私は一人静かになら何とか自分の欲を押さえ込めるが、ライバルが出てくると俄然闘争心に振り回される。おばさんはビニール袋をまず揉んだ。この人相当場数を踏んでいる。揉んだ袋を今度は、引っ張って大きくした。私はふと思った。「『お上手ね』とおばさんが言ったのは『あんた下手ね。私のやりかたが最高よ』との挑戦宣言だったのか」

  おばさんの作戦は、一見優れているかに思えた。しかし強引に力でギュウギュウと詰め込むだけだった。一方私はゆっくりゆっくり時間をかけた。深さ35センチの袋にそら豆のサヤはすっぽり2段にして入れることはできない。すっぽり収まる1段目の上に重ねる2段目の身半分は袋の外にはみ出す。ビニール袋がパンパンにふくらみ、そら豆のサヤの先が今にも袋を突き破りそうだった。おばさんは「お先に」とスーパーのカゴの底に勢いよく放り込んで魚売り場の方へ行ってしまった。私は1段目を終え、2段目は1段目のサヤの空間を生け花で使う剣山に見立てて、そこにサヤを刺し込む。カニシャボテンの鉢植えのようにサヤが放射状に身をそらして開いた。崩れないように恐る恐るレジに運んで支払いを済ませた。

  帰宅してサヤを数えると52本あった。普段なら2千円。ニヤついた。新聞の折り込みチラシを広げてサヤからそら豆を出し中型のボウルに入れた。サヤごと焼いても旨いが、私はサヤから出して豆だけを茹でて食べるのが一番好きである。帰宅した妻と茹でたてのそら豆をおつまみに晩酌を交わした。

  詰め放題で得したような気がしたが、チュニジアに住んだ時、市場でならキロ単位200円ぐらいで山ほどのそら豆を買えた。値段だけが全てではない。季節ごとに旬の食材を楽しめるのも幸せである。日常生活の何でもないことによって錆びついた創意工夫機能に刺激を受けることができた。どう食べても剥きたての新鮮なそら豆は美味い。


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24時間対応?

2013年03月26日 | Weblog

 妻を駅に車で送って、日課としている午前中のパソコンでの書き物は順調にすすんだ。私の集中力の限界である4時間過ぎると、いったんパソコンをシャットダウンして、用事をすましがてら外出することにした。

 ちょっと気になっていたWBCの準決勝で日本は1対3でプエルトルコに負けた。野球に興味はないが、日本が負けたとなるといい気はしない。これがきっかけだった。次々に自分の思い通りに行かないことが続いた。

 住宅ローンの借り換えで新規にローンを組んだ銀行から今まで借りていた銀行への一括返済されたか預金通帳に記帳して確認するよう妻に頼まれた。車で30分くらいの銀行へ行った。無人預金出し入れ機の前に立ち、いつも通帳を入れているカバンのチャック付きポケットを探った。「ない」 そうだ妻に借り換えの手続きのために通帳を渡して返してもらってなかった。とういうことは家にある。

 家に戻った。通帳はあった。しかし車を使って移動中、やたらに信号が赤になった。わき道からの無理な進入しようとした車に衝突しそうにもなった。道路も普段より渋滞していた。車で銀行に戻るのを諦めて、電車で行くことにした。1時間で済むことに2時間を費やした。

 こういう日は家で静かにしていたほうがいい。パソコンの電源を入れた。初期画面は問題なく表示された。マウスで次の動作を進めた。「Internet Explorerではこのページは表示されません 対処方法  接続の問題を診断 詳細情報」と画面に出た。妻の病院のパソコンも始終問題があり、妻はその度にまず電源を切って再度入れ直すとたいがいの場合復帰すると言っている。私はそうしてみることにした。5回やってみた。状況は変わらなかった。

 パソコンは私にとって便利でなければならないものである。しかし私はその仕組みもなにも知らない。ブラックボックスである。宇宙や生命の起源と同じ神秘でしかない。パソコンを買った店のパソコンに詳しい懇意にしている店員に相談しようと電話した。「○○は本日お休みをいただいております」 残念。自分でできることといえば、配線の差込がゆるくなっていたり、ホコリや汚れで接触が悪くなっていないかを点検することぐらいである。何回も同じことを繰り返したが変化は起こらなかった。

 妻が帰宅した。「メーカーとかプロバイダーの会社に24時間対応の故障相談があるんじゃない」 パソコンの保障期間はとっくに切れていた。それでもと思ってプロバイダーの“故障診断・修理受付24時間サービス”のシールの電話番号に電話した。「申し訳ございません。このサービスは2007年度をもって終了いたしました。平日の~~」 こうしてハシゴはすでに外されていた。意気消沈して寝た。

 次の日、妻を駅に送って帰宅してから再度パソコンに立ち向かった。3時間無心でいろいろ試みた。配線も整理できた。ホコリも片付いた。昼食後プロバイダーから貸与されているルーターとモデムの説明書を大口径の虫眼鏡で読み始めた。すでに24時間経っていた。「電源を切って10秒待って再び電源を入れてください」 ネットにつながらない場合という項目に書いてあった。早速モデムとルーターの電源スイッチを切った。「1,2,3,4,5、・・」と十数えた。電源を入れた。パソコンを起動させた。古い機種なので立ち上がりが遅い。問題なく普段どおりにインターネットがつながった。原因はわからない。とにかくつながった。嬉しくて「ヒャッホー」と声をあげた。コブシを握りしめた。

 パソコンは私にとってなくてはモノである。どんどん劣化する記憶力を保持する外付け記憶装置でもある。実時間で外の世界に接することができる道具装置である。こんな状況に身を置くことは情けない。しかしパソコンの恩恵は、私にとって計り知れない。目が悪くなる、運動不足になる、過度にパソコンを頼るなどの問題もあるが私の役に立っている。

 最後まで私にとって機能仕組みはブラックボックスであるだろう。故障したり一台が使えなくなっても、パニックにならぬよう、手立てを整え、問題が発生しても今回のように、できる限り粘って対応して便利さを活用させてもらうつもりだ。「ついていない」と気落ちしていたが、パソコンが使えるようになったら、元通り能天気な自分に戻ることができた。できれば身分だけはパソコンの手下でなく、親分でいたいのだが。


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箱フィッシュ

2013年03月22日 | Weblog

 今から48年前私はカナダのスーパーで初めて箱フィッシュを見た。箱フィッシュと私が呼ぶ製品は箱詰め冷凍された魚である。頭、皮、骨をきれいに取り除き、長方形の箱に圧縮成型冷凍されている。私が住んだカナダのアルバータ州は内陸にあり海に面していない。人々は肉を好む。キリスト教の宗派によっては金曜日に肉でなく魚を食べる戒律を課す。私が学んだ学校でも金曜日は必ずこの箱フィッシュを調理したものだった。と言っても他の曜日でも肉はほとんどメニューになかったが。

 今日本の子供はあまり魚を食べないそうだ。やれ頭が気持ち悪い。骨が危険。皮が嫌だ。親も自分で魚を捌き調理することをしないそうだ。スーパー、デパートの地下の食料品売り場、魚屋では、魚の販売促進のために「喜んで下処理いたします。一匹でもお気軽に」などと貼り紙をしている。それならば箱フィッシュが売れるのではと思うが、不思議なことに日本では箱フィッシュが普及していない。冷凍の魚、缶詰、下こしらえされたフライなどの冷凍パックなどはある。弁当のおかずなどで売れているらしいが、さらに売り上げが伸びるとは思われない。

 日本人は魚を刺身で食べる。新鮮さが何より大事にされる。冷凍技術がいくら発達したといっても、冷凍と告知されれば、価値が低くみられてしまう。しかし自分で魚を調理する人口は減るばかりだ。とにかく面倒くさいことや汚れることを避けたがる。ウロコ、はらわたの処理、三枚におろしたり、刺身用のさくにしたりするなどを家庭で行う事はまれである。私の知り合いの奥さんは、台所にニオイがこもるのを嫌がってできるだけ調理自体をしない人さえいる。

 食文化は保守的である。日本は実に多種多様の外国からの食文化を受け入れている。一般家庭にも中華、フランス、イタリア、韓国、タイ、インド料理などの影響が深く浸透している。主食である米の需要も減っている。それでも世界大会で活躍しているスキージャンプの高梨沙羅選手やフィギュアスケートの浅田真央選手が帰国して「今何が一番食べたいですか」の質問に二人共「ごはん」と答えたのは理解できる。

 箱フィッシュが日本で普及しなかったのは、日本人の魚への“こだわり”がブレーキになっているのだろう。TPPとかFTAとか貿易に関する協定への参加不参加が大きな議論をよんでいる。どんな協定や規則ができても人々の“こだわり”まで変えることができるとは思わない。何処に住んでも食べることは生活の中の楽しみのひとつである。私は海に近い所に住んで、ニオイを少し気にしながら、ほとんど毎日魚を台所の流しで捌いている。元気で動けるうちは、こうやって美味しい魚を食べたい。どうしても動けなくなって自分でさばけなくなったら、個人輸入してでも、箱フィッシュのお世話になろうかと考えている。今はただ新鮮な魚を“こだわり”をもって食べることができる幸せに感謝する。


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「威張るなよ」

2013年03月18日 | Weblog

  テレビで東日本大震災「あれから2年」の特集番組を観た。震災時、ボランティアで東北に来た20代の青年が、将来自分の船を持って漁師になりたいと、被災した60歳代の漁師に弟子入りしたという。その二人の漁に密着取材した記録だった。流し網漁で仕掛けた網を強力な巻き上げ機を使って60歳台の親方が巻き上げ始めた。青年は無我夢中で巻き上げ機が巻き上げる網の向きを網の上に両足を置いて整えていた。素人の私でさえ巻き上げられる網の上に乗ったら網もろとも機械に巻き込まれるのではと心配した。瞬間親方が「バカヤロー どけ!」と絶叫した。青年はもたつきながら網から離れた。妻が隣りで言った。「バカヤロー以外に言い方がないのかなー。何でもバカヤローで済ましているみたい、可愛くてもバカヤロー、馬鹿にしてもバカヤロー。解るけど相手には伝わらないよね。」

   3月14日、広島県江田島市のカキ養殖加工会社で、社長を含む日本人従業員8人が中国人実習生(30歳)に殺傷されるという事件が起きた。原因は殺された社長が中国人実習生を「バカ」と叱り続け、人使いがあらかったことで逆上した疑いがあると報道された。この事件を知って数日前の東日本大震災「あれから2年」の漁師を目指す青年が「バカヤロー」と怒鳴りまくられる姿が浮かんだ。

  「ちょっと待って、ちょっと座りなさい」「命令調は…、命令調はないでしょう、命令調は」「なにが悪い!」「なんだよ」「なんだよ!」「なんだって」「なにがなんだ!」「威張るなよ!」 「威張っているのは、そっちが威張っているからだろ!」「指名された通りにやってるんだ」「だからちょっと待ってくれって言ってるじゃないか」「いや、だから」「あんたも静かにしろよ!」「さっき声を張り上げるなって言ったのはあんただろうよ」 子供の喧嘩ではない。れっきとした大人、それも日本の国会議事堂の中での会話である。一人は大臣経験者である。「バカヤロー」は発せられなかったが、お互いの心の中ではあわただしく飛び交っていたに違いない。

   カナダ留学で学んだことのひとつは、喧嘩は「Why(なぜ、どうして)?」と「Because(なぜなら)」がもつれて始まるということだった。Becauseを理路整然と相手が納得できるように話せれば、だいたい喧嘩は収まる。しかしWhyとBecauseだけが繰り返されると仕舞いには暴力で相手をやっつけようと手が出す。日本人は理路整然と話すのが苦手である。前述した国会での大臣経験者の二人のやりとりも最後には「外に出ろ」となったが、まわりにたしなめられて断念した。あれで二人が部屋の外に出ていたらどうなったのか。

  同じ日本人同志でも理解しあうのは難しい。ましてや、日本人と外国人が理解しあうのはもっと難しい。人間として必要なのは、いつでもどこでも誰にでも①気配り②目配り③手配りできる教養である。それがないなら、人を雇ってはならない。日本の3チャンや3K産業への海外から安直に実習などというふざけた名で人寄せをするなぞ許されることではない。たとえ「バカヤロウー」が相手に危険を咄嗟に知らせる意味で使われても、相手は相手の理解できる範囲でしか受け止めない。あらゆる人種あらゆる文化は、その数だけ違った視点と感性と反応を持つ。何処の誰でも、自尊心の塊りである。

  47年前、英語にも異文化にも疎い私が、カナダでカナダ人の最低賃金が1時間1ドル25セントの時、その五分の一の25セントで「ジャップ」と蔑まれながらこき使われた。その私からの忠告である。

  ヘミングウェイが言う、「何を言っても(注:原文では“書いても”)いい。真実を語り簡潔で、窮地における勇気と気品肯定する限り


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貼り紙

2013年03月14日 | Weblog

 散歩の途中貼り紙を見つけた。張り紙は、店の入り口にあった。その店が何の店だったのかも知らない。私はじっと貼り紙の前に立って動けなかった。貼り紙の写真を掲載したので内容を読んで戴きたい。

 私の住む町の商店街もほとんどの店のシャッターが閉まっている。常時閉ざされたままのシャッターは、煙霧の中に取り残されたように私の気持ちから前向きな思考をぼかす。また一軒,個人が経営する店が営業を停止しただけなのかもしれない。地方のどこの市町村にでもある社会現象と素直に私は受け止められない。

 去年、町の商工会が主催した手作り作品のフリーマーケットに妻と参加した。私が趣味で作り溜めたマグネットを並べた。冷蔵庫の扉にメモやレシピ、領収書などを貼り付けておく磁石つきの小物である。あちこちで買い集めた箸置き、アメリカの1ドル銀貨や貝殻に磁石を接着剤でくっ付けてある。4,5時間の営業で売れたのは、2個だけだった。それも同じマンションに住む友人が買ってくれただけである。人はたくさん足を止めた。遠慮会釈なく商品をいじり回して平然と通過していった。右隣りの手作りアクセサリーを売る女性は、10分に一個は小さな紙袋に作品を入れ客に渡していた。左隣りの漬物を売る父と息子は「もうじき売れ切れだ」と汗を浮かべて客と冗談を言いながら売りまくった。私たちは2千円の出店料を払い、売り上げは千円だった。

 妻と私は「いい勉強をしたね」と負け惜しみで慰め健闘を称えた。二人がいかに商売に不向きであるか思い知らされた。商売も才能であろう。何を売るか。いくらで売って利益はどれくらい出るか。客にかける声、言葉使い、雰囲気、見た目の印象、服装、顔も重要だ。人にはそれぞれ向き不向きがある。

 貼り紙に思いの一端を書き付けた店の主を思った。商売するには客がいなくてはならない。地方は人口減少が続く。駐車場を完備した大規模商業施設に客を奪われる。デフレによる過度な価格競争に個人経営の店は太刀打ちできない。商品が売れなくては仕入れもままならない。悪循環が追い討ちをかける。それでも人は生活するために収入が必要である。この町だけではないのだろうが、増えているのは老人介護関係の事業所ばかりである。悪いとは言わないが、これで町が活性化するとは思えない.

 引け際を見計らうのは難しい。続けて損失を増大するより、どこかで線を引いて撤退すれば、再起の機会もある。何年か先にこの店が再開するころ、日本の経済が再び力強い成長を始めていることを願わずにはいられない。

 

 


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ウグイス

2013年03月12日 | Weblog

 3月8日朝裏庭にウグイスが来て鳴いた。「ハゥーハゥケキョウ」 でも嬉しくてすでに出勤した妻にメールを送った。「ウグイスが鳴いたよ。今年初めて聴いた。でも鳴き方がまだ下手だよ」

  このところ急に気温が上がった。その日21℃。窓の外を見ると景色が明るい。誘われるように散歩を8日から開始できた。この冬寒さに負け、長く家にこもってしまった。あれこれ理由をつけ歩くことを避け、どうしても外出しなければならない時は自転車を使う。天気が悪ければ車を使った。その日の深夜、私はベッドの中で左脚のフクラハギがこむら返りを起こした。あまりの痛さに大声を出した。妻はプロレスラーのようにベッドに立ち上がり、片手で踵を掴み、もう片方の手で膝を押す。「イテテテッ~」 妻はまったく私の痛みを気にしない。筋肉は伸ばされ、いつものことだが、あっという間にこむら返りはおさまった。妻のこむら返りの治療に助けられる。歩かないので机に座る時間が長い。脚がすっかり弱くなった。体重も増えた。

  11日約2時間散歩した。気温は前日の10日より10℃くらい低かった。勢いである。この3日間散歩が続いたせいか、少し気温が低くても躊躇することなく外に出ることができた。私が住む町には街路樹の種類が多い。しだれ梅は満開、早咲きの桜並木も満開、このところの気温の上昇でコブシの並木も花を咲かせ始めている。木々の芽も大きく膨らみ緑色のサンプルのように各種各様な緑を楽しめる。ソメイヨシノの並木も枝全体に赤みがついてきた。海辺の松並木のてっぺんには、アオサギが十数羽戻ってきていた。一向に温かくならなかった2月下旬にいったん近隣のアオサギが繁殖のために集合したが、再び離散してしまった。おそらく子育てに必要なエサになる魚の量を計算しての鼓動なのだろう。アオサギが大きな翼を開き、長くて細い脚を器用に使って巣に降り立つ様子を観るのが好きだ。そろそろ卵を産みそうだ。

  相模湾を臨む海岸に出た。この海岸線をずっと北上すれば東日本大震災の被災地に通ずる。あの日震源地がずれれば、ここが被災したかもしれない。午後2時46分、私は強風で波立つキラキラ光る海面の向こうの水平線に深く頭をたれて黙祷した。

  最近マスコミ、特にテレビでは、まるで占い師のすべての予見をこれでもかというように「次はここがあそこが危ない」と伝える。数日前にも私が住む町のすぐ沖に南海トラフとは違う危険な活断層があり、大地震が発生する可能性があると放送していた。近くの箱根の大涌谷近辺に地震が続き、それは富士山の爆発を誘発すると煽る。

  私は思う。私がどこに住もうが安全な場所などない。海外でも多くの国々で暮らしたが、それぞれ危険を抱えている。地球上に存在する生き物は、あらゆる天変地異を経てもなお今日まで絶えることなく繁殖し生存してきた。何があっても今を生きているからである。ウグイスもアオサギも梅の花もコブシの花も虫も魚も今を当たり前に生きている。私は11年前、長時間の心臓バイパス手術の麻酔から醒めた時、ひらめいた。「私もひとつの生き物なのだ。息絶えるまで今を生きるよう」


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シェールオイルとサンドオイル

2013年03月08日 | Weblog

  数日前の新聞でちいさな記事を見つけた。

「三菱商事は4日、英蘭系ロイヤル・ダッチ・シェルなど3社とカナダ西部で進めているシェールガスなどから作ったLNGの輸出計画について、カナダ政府から年計2400万トン分の輸出認可を受けたと明らかにした。31年にも日本向け輸出を始める」

 私は48年前カナダの高校に留学した。私の学校のある人口4千人の小さな町から大都市カルガリーへはバスで3時間だった。カルガリーには日本人キリスト教教会がある。私は時々その日本人教会の礼拝に参加した。その中に宮原さんという人がいた。年齢50歳くらいで日本の三菱商事からカナダに派遣されていた。サンドオイルが事業として成立するかの調査をしていた。そういえば私の学校の周りの小麦畑のあちらこちらに地表まで石油臭い黒い泥が滲みだしていた所があった。石油を採掘する櫓もあった。

 宮原さんは単身赴任していた。数人の教会員が礼拝の後、食事に宮原さんと私をセットで招いてくれた。宮原さんは寡黙な人だった。好奇心の固まりのような私の質問にゆっくり専門用語や英語を省いて分りやすくサンドオイルや石油のことを話してくれた。サンドオイルはシェールオイルとも呼ばれる。正式名はタイトサンドオイルだとも教えてくれた。世界に2兆バーレルが埋蔵されていて、カナダにはそのうち40%がある。アルバータ州をはじめカナダのいたるところにサンドオイルがある。しかしこのサンドオイルからガソリン、軽油、重油を精製して製品化するには、経費がかかる。アラブ諸国などで生産される石油の値段には到底太刀打ちできない。将来必ずそういう簡単に精製され商品化される石油は枯渇し、サンドオイルを使わなければならない日がくる。宮原さんはそのための布石をうつために派遣されてきたという。当時の私は、この話を聞いてすぐ忘れた。

 あれから半世紀がすぎる。小さな記事が私に宮原さんを思い出させた。日本向けに輸出が開始されるのにはあと7年かかるという。実現すれば宮原さんと私の出遭いから55年かかったことになる。アメリカの経済はこのところシェールガスやサンドオイルの新しい発掘精製法発見により沸いている。宮原さんが話してくれた通りだ。いつ実現するかも不明な事業を地道に足固めする人々がいるからこそ発展がある。京都大学のiPS細胞を発見した山中教授をはじめ日本には辛抱強い基礎的研究者、産業従事者が多い。日本の強みである。華々しさはないが日本が世界に貢献できる分野のひとつだ。宮原さんとの出遭いを私の人生に役立てることはできなかったが、脈々と基礎を固め地道に生きることの大切さを教えてもらえた。小さな記事が私の貴重な思い出をよみがえらせてくれた。


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父子家庭の父

2013年03月06日 | Weblog

  悲しいニュースが続く。3月3日朝自宅近くの倉庫の前で北海道湧別町の岡田幹夫さん(53歳)と娘の夏音(なつね)さん(9歳)が雪に半分埋ったまま倒れていた。発見された時、岡田さんはすでに凍死していた。夏音さんは10時間以上父親に抱かれていて一命を取り留めた。

 親が自分の子を殺す、子が親を殺す事件は毎日のように起こる。しかし親が犠牲になって子を助けるニュースは滅多にあるものではない。事件は悲しい。それでも夏音さんは10時間以上漁師の父親の頑丈で頼もしい腕に胸に抱かれ、父親の温もりに包まれていて助けられた。9歳の夏音さんは2年前に母親を失っている。3日のひな祭りのために岡田さんは夏音さんと祝うためにケーキを予約していた。ケーキで一緒に祝うこともなく、夏音さんは、たったひとり残されてしまった。

 私の元妻は彼女の実家に二人の子供を置いて駆け落ちした。実家の両親は、そのまま子供を預かると言ってくれた。それを断って3人で暮らした。父子家庭となった。民生委員が時々家に様子を見に来てくれた。子育てと仕事を両立させようと努力した。仕事中毒で育児を放棄していた父親失格の私が、やっとまともな人間性を取り戻そうと生き方を改めた。現実は甘くなかった。よく考えて決断した。息子を全寮制の高校に進学させ、娘をアメリカの知人に預けることにした。同じ市内で母親が新しい家庭を持ち、異父兄弟が産まれた。転地すれば見たり聞けば悲しくさせることから子供を離すことができると考えた。虎はわが子を強くするために千尋の谷に突き落とすという。あのまま一緒にいたら私にも子供にも悪い結果だけしか生じなかったと思う。私は家を出る子供と約束した。息子には一週間に一度、娘には毎日手紙を書くと。息子には高校の3年間、娘には8年間、私は約束を守った。

  新田次郎の『八甲田山 死の彷徨』は雪、低温、風の恐ろしさを教える。私も十代の後半でカナダのアルバータ州に留学してマイナス40℃の冬を知っている。外務省の医務官を勤めた再婚した妻に同行してロシアのサハリン(樺太)で暮らした。冬の地吹雪で幾日も家に閉じ込められた。あまりの陰気で孤立した生活で欝状態になってしまった。厳寒地の人々の忍耐力と保身術を私は尊敬する。2日に北海道を襲った地吹雪を伴った大寒波は10人の犠牲者を出した。岡田さんもそれなりに冬を生き抜く術と策と経験を持っていたに違いない。自然の猛威は、その岡田さんをも目前だった家に辿り着かせることを許さなかった。

  八甲田山中での雪中訓練で総指揮官だった日本帝国陸軍の神成文吉大尉は凍死する前「天は我々を見放した」と言った。岡田幹夫さんが夏音さんを10時間強く抱きながら、叫んだに違いない。「天よ、自分が死んでも夏音を生かしてください」 勝手気ままで人間の個個の願いに聞く耳を持たない天が、岡田さんの願いを聞き入れ夏音さんの命を奪うことをしなかった。どうしようもない父子家庭の父を努めた私は、夏音さんが助かったことを素直に喜ぶ。


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住宅ローン

2013年03月04日 | Weblog

 妻のモットーは「いつもニコニコ現金払い」である。良い心がけだと感心させられる。私はその点アメリカナイズされているとでも言えばよいのか、欲しい物は即どんな形ででも手に入れたがる。それが高じてずいぶん買った後の支払いに苦労した。主夫の身になってからは、そんな無茶からは遠ざかることができた。悪貨は良貨を駆逐する、が私たち夫婦では良貨が悪貨を駆逐したのだろう。

 最近妻がみずほ銀行A支店の住宅ローン担当者にてこずっているようだった。妻はローンに焦げ付きを起こしたわけではない。一度たりとも返済で問題を起こしたことがない、優良な借り手である。妻は毎年税の申告を自分でやっている。毎年申告時期が来ると保険会社、銀行、証券会社などから申告に必要な書類をこちらから頼まなくても送ってきてくれる。妻は1円であろうが、税金を免除減額されるよう大変な努力をしている。

 みずほ銀行の妻の担当者は3人替わった。だんだんひどくなり現在の担当者は最悪である、と妻がぼやいていた。私は最初の担当だったNさんとは会ったことがある。なかなか親切な人で当時まだロシアのサハリンに住んでいた私たちに、ファックスを使って、いろいろ分らないことを教えてくれた。そのNさんが定年退職してしまった。後は若い女性行員が続いた。申告に必要な書類が間違って送られてきたので、妻は電話で3人目の担当者のTさんと話した。書類が間違っているので、申告に必要な正しい書類を送って欲しい旨を伝えるとTさんがキレタらしい。金を借りている側から間違いを指摘されることが面白くなかったらしい。Tさんという行員が「一括返済してもらうようになりますよ」と妻に言ったという。妻は電話でラチがあかず、勤務する病院を休み、直接A支店まで行くことになった。行って状況は悪化した。それ以来妻が相当なストレスになっているらしく、暗く沈んでいた。

 4日の夜5時頃電話が鳴った。「奥様ご在宅ですか?」とトゲのある高ピーな話し方にピーンときた。内心「これがTか」と思った。(週日の5時に片道1時間半かけて東京へ通勤している人が家にいるか?)「みずほ銀行のTと申しますが、お帰りになったら電話をくださるようお伝え下さい」「あなたがTさんですか?私は妻からいろいろ聞いていますが・・・」「私は奥様とお話したいと申しましたが、」「私たちは夫婦です。私にもあなたと話させてください」私は「ローンの一括返済」の件を取り上げ、電話で然様なことを口にするのはいかがなものかと言った。とにかく口の立つ女性だった。私の言葉尻を捕まえては猛然と反撃してくる。裁判所の被告と検察のやり取りのようだった。それを楽しんでいるかにもみえた。デベートのチャンピオンになったことがあるのかも。私にはこの女性の心に顧客に接する時、自分が顧客に対する銀行の顔だという自覚がないと判断した。彼女の上司がどのような教育をしているのか知りたくなった。「上司に替わっていただけますか」「上司に私から説明してそれからこちらから電話差し上げます」

 上司から夜7時過ぎに電話がかかってきた。話したがTさんより更にひどい女性上司だった。役職を口にしなかったので、ただのTさんの同僚だったのかのかも知れない。同僚をかばうために組織ではよく使われる方法だと聞いている。電話を妻に譲って妻も約一時間話した。終わって妻が「日本は終るかもね。大銀行の社員がこんなだもの。彼女ローンを借りたことがないって言ったの。お金持ちなんだね」 これから外国の銀行が障壁を取り除かれ進出してきたら、あっという間に凌駕されてしまうだろう。どこの国の銀行であってもかまわない。客にきちんと対応できる銀行であって欲しい。

  やはり妻が言う通り「いつもニコニコ現金払い」を守り、銀行を私たちの家庭に入れてはいけなかった。妻が言う「金は親から借りても、親子関係がこわれる。誰にお金を借りても弱い立場になる。私はそんな立場に陥りたくない」 借金は恐い。それは個人も国家も同じである。

  どうしてもTさんに納得できなかったので、銀行ローンを違う銀行から借り換えることにした。手続きは面倒だったが、二人で協力してやり遂げた。妻に以前の明るさが戻った。人間関係は難しい。金がからむとなおさらである。


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