団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

使命

2009年02月26日 | Weblog
 第二次世界大戦が終わり西ドイツの首相になったアデナウアーは「健康的で文化的な住まいを国民に保証することは、国の使命であり義務である。国民の荒廃、社会の緊張対立は、住まいの貧しさに起因する」との使命を持って住宅改善に力を入れた。

 想像を絶する貧困から遂に韓国大統領の座についたイーミョンバクは、自分の生い立ち経験から「家族がひとつの屋根の下で暮らせる、そんな世の中を作ろう」の使命感を持って韓国の大統領になった。最近私が読んだ講談社刊 イーミョンバク著「オモニ」は、あらためて人間の体験が、その人を形成すると教えてくれた。

 アメリカの第44代大統領に1月に就任したオバマは、アフリカのケニアからアメリカに留学した黒人を父に持つ。母親が白人で、オバマはハワイで育った。オバマの母親は、黒人のオバマの父親と離婚して、インドネシア人の男性と再婚して、オバマはインドネシアで少年時代をすごした。人種差別、家庭問題のあらゆる負の経験をしたに違いない。アメリカンドリームを地で行くように、勉強した結果ハーバード大学を卒業して弁護士になった。アメリカの上院議員を4年間しか務めていない黒人議員が、あの激しく長丁場の大統領選挙で勝利した。オバマ大統領はアメリカに“チェンジ(変革)”をもたらすという使命を持って大統領の執務に邁進している。上記の3人には、何より善きにせよ悪しきにせよ実体験がある。ブレない指導者になる素質は、自らの生い立ちと育つ環境に鍛えられるようだ。

 私は、日本の立て続けに、途中で首相職を放棄した2人の2世3世の世襲国会議員、現首相の2世議員に共通する“恵まれすぎるお坊ちゃま”感覚を悲しく思う。今の政府を見ていると、総理大臣だろうが、いかなる大臣であろうが、国民のだれでもがなれると錯覚してしまう。もちろんこの恵まれた環境は、本人の所為ではない。環境が恵まれても、親の子の教育に対する信念があれば、他人の痛みや苦しみや悩みを感じ取り、手助けしようという気持ちは持てる。この現実を許しているのは、『甘えの構造』と日本人の悲しき旧態以前の公(ムラ)意識である。私を含めて、多くの一般日本人が、このような“多くのお坊ちゃま”たちを甘やかし、従属し、媚びへつらって当選させてきた。その実態は、どこの立候補者の選挙事務所に、突然飛び込んでも行っても体験できる。一見(イチゲン)のよそ者に立ち入る隙はない。私は経験済みである。日本のムラ社会は、京都の老舗のお茶や(料亭)と同じで、がっちり柵(しがらみ)の囲いの中にある。

 以前書いたが、裁判員制度が実施できるのであれば、くじ引きで首相、大臣でさえも国民のだれでもが務めることができそうである。現在、実際に国を操作しているのは、まぎれもなく官僚たちである。お坊ちゃま議員たちは、お笑い芸能人と同レベルの“なかよしクラブ”で生き残りを賭けて学芸会の出し物を演じている。今回の中川昭一前財務大臣の金融サミットでの泥酔事件が良い例である。

 この泥酔事件を真っ先に報道しなければならなかったマスコミに物申す。マスコミの使命は何か、ここで胸に手を当て考えて欲しい。マスコミの使命は、人々に真実を報道することである。ところが中川前大臣が酒を飲んだ席に新聞記者が同席していた。最初は体調不良ということで口裏を合わせていた。ところが普段は日本のニュースをあまり取り上げない、海外のマスコミが一斉にこの醜態をこぞって報道した。不測の事態が起こってしまったのである。外圧で初めて日本のマスコミが目を覚まし始めた。この分野のグローバル化は相当進んでいるようだ。以前からこのお坊ちゃま議員の酒癖の悪さは有名だった。にもかかわらず真実は、報道されていない。まあまあなあなあの馴れ合いの世界ができている。同席した新聞記者は、おそらく国家の要職にある人物との交流に、密かに自己陶酔していたのであろう。マスコミも地に堕ちたものである。芸能人、プロスポーツ選手、政治屋、官僚、マスコミ、どの業界も“仲良しクラブ”の社交に溺れている。そこに使命感も正義感も存在していない。在るのは自己権益防衛のためと、お家存続の悪知恵ぐらいである。

 使命感を持つ最上の方法は、自らの手と体と知恵で雨風をしのぐ住処の獲得、そして食料の確保の経験である。次こそ、確固たる使命を持った、生き抜く経験豊かなブレない首相にこの国の舵を任せたいものである。

 “本物の人格は、安楽と平穏からつくられることはない。挑戦と失敗の苦しみの経験を通してのみ、精神は鍛えられ、夢は明確になり、希望が湧き、そして成功が手に入る。こうして初めて本物の人格ができあがるのだ” ヘレン・ケラー

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砕石

2009年02月23日 | Weblog
 ネパールに3年間住んだ。そこで見た事は、私がそれまで生きてきた42年間に、経験したことのないことが多かった。10代後半でカナダに渡り、20代、30代のほとんどを日本で暮らした。海外旅行へ行ったのも所謂観光地と呼ばれるところが主だった。42歳にして海外赴任する妻について海外で暮らし始めた。妻の最初の勤務地ネパールで見たことが私の人生を大きく変えたと思っている。カナダやアメリカのような、まるで人間は、ずっと文化的で豊かな暮らしをしてきた生き物であるかのような錯覚を、若い私はカナダで持ってしまった。確かに学校の社会科の歴史では人類の歴史を学びはしたが、あくまでも教科書の中だけのことだった。私は現実として、人間のいきざまを認識していなかった。

 ネパールの川原で人々が、石を簡単な道具や石を使って、建設用の砂利を作るのを見た。(添付写真参照)ネパールも建築ブームで、海外で国連からの派兵に参加したり、出稼ぎなどで帰国した人々が、家を建てそれを外国人に貸すことが多かった。日本の川原のようにそのまま建設用の砂利になるような小さ目の小石はなかった。ネパールの川の多くは、ヒマラヤの高地から一気に標高差を急流となって駆け下る。ネパールは小さな国なので、川の流域で砂利は採れない。きっとインドに流れ込んでから平地なら建設用の小さなサイズの砂利もあるだろう。日本なら砕石工場で機械が、砂利をつくる。人件費の安いネパールでは、機械を使うより人間が一番安い。一日8~10時間働いても。1ドルの現金さえ稼ぐことはできない。世界の最貧国といわれ、平均個人年収は800ドル近辺だ。それ以下の人々もたくさんいる。失業率は、主たる産業がないのだから高いのは当然である。私には川原で石を割って砂利をつくることが非合理に思えた。一日懸命に働いたところでたいした量はつくれない。それでも人々は、現金収入のために来る日も来る日も川原に集まり、石を割る。ネパールは幸い食料の豊富な国で現金収入が少なくても、飢えるほどの飢餓はないという。貧しい生活の中で、必死に働き生きようとする人々の姿が目に焼きついた。

 ネパールの後、妻はアフリカに転勤した。私はアジアの貧困とアフリカの貧困を自分の目で見た。アフリカの砂漠化は、即、飢餓を意味する。アフリカの貧しさは、アジアのネパールの貧しさとはまた違っていた。ネパールの高温多雨の気候とアフリカの高温で雨の降らない乾燥した気候では、人々の日常生活が違う。アフリカの川原で砂利をつくることは、不可能であろう。紫外線は殺人的でさえある。それでも人々は、生まれた土地で黙々と、束縛されているように生きなければならない。

 日本に帰国して、この国は地上の楽園だと毎日、感謝している。ネパールやアフリカで経験した生活の不便さ、人間としての不合理さの疑問を感じることはない。しかし日本人の中に、かの地の人々の生命力を感じることもない。政治は混迷し、不景気だが、感謝することは多い。今日、散歩中に新築中の家の土台を造るために、コンクリートミキサー車がコンクリートをおろしていた。相当な砂利が入れられているに違いない。ネパールの川原で砂利をつくっていた人々を思い出した。まだあの人々は石を割って砂利をつくっているのだろうか。

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世界らん展

2009年02月18日 | Weblog
 2月14日(土)日帰りバスツアーで妻と東京ドームで開催されている“世界ラン展”に行ってきた。妻はランの花が好きだ。数年前このラン展を観ようと後楽園へ行ったらあまりの入場待ちの行列が長く、入場するのに2時間はかかると聞き、あきらめて帰宅したことがある。バスツアーで参加すれば、混雑を避けることができるかもしれないと考えたが、解決にはならなかった。 世間知らずというのか、勝手な思い込みで、このような失敗は数多い。ずっとラン展の観覧をお預けされていたので、私たちのこの世界ラン展への期待は、高まるばかりだった。

 東京ドームのランの会場に入った途端、期待は失望に変わった。グランドはランと人で埋まっていた。ランの展示があまりにも人工的だった。日本のランの栽培技術はおそらく世界でも最高水準であろう。ランも立派だ。もともとランの花は、完成された造形美を持っている。これでもかと数を並べられるより、私は、ひとつのランの花をじっくり鑑賞するほうが好きである。展示の仕方が、あまりにも不自然だった。たくさんのランの鉢を配置して、まるで一本の樹木のように見せようとする。

 理解できないのは、あまりに多くの人々がランの花の写真をとるのに夢中なことだ。その光景は、皆がランの写真集を作ろうとしているかのようだった。会場をまわっているうちに、このラン展を企画運営している側の手の内が見えてくるように感じた。広い会場の半分以上が、ランなどの販売コーナーになっていた。どう関係つけて良いのかわからない高いワインの試飲コーナーでは、多くの販売員が、客に張り付いてワインを売りつけようと虎視眈々であった。あまりの売らんかなの雰囲気に悲しくなった。

 妻と早々に会場から観客席の休憩所に逃げ込んだ。観客席から会場を見渡した。やはり来なければよかったと妻と二人で反省した。

 呆然と会場を見渡しながら、ネパールに住んでいた家の木に寄生して咲いたランの花(写真参照)を思い出した。自然は凄い。厳しい生活環境の中で、私たちはそのランの花に癒された。その経験が私たち夫婦のランへの思い込みを助長したに違いない。何ごとも過剰であったり、やりすぎることは、悔恨を生むだけの結果となる。

 ラン展に来るよりは、街の花屋でりっぱな胡蝶蘭を観ていたほうが目の保養になったと思う。また失敗を通じて、勉強した。早めにラン展の会場を出て、ドームの脇の小石川後楽園に入った。梅が満開だった。2月だというのに気温は、20度を超えていた。たくさんの人々が、土にしっかり根をおろし、もう何十年も毎年咲き続けている梅の花を愛でていた。匂いも温かい外気に溶け込んで、私たちの傷心を慰めてくれた。

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2軒の家を

2009年02月13日 | Weblog
 100年に一度の経済危機だという。ニュースでは繰り返し非正規雇用者の首切りが伝えられている。職を失った非正規雇用者は8万5千人に達するという。職を失い、住むところを失った人々がいる一方、日本の地方都市には、限界集落と呼ばれる存亡の危機に瀕する過疎地がある。富士通が正社員に副業を認めた。他にも東芝やソニーが副業を認めているが、申請した社員はいないという。

 gooブログ『山の幸、里の幸』の筆者は、1月14日の『6千万人の田舎』と2月10日の『不耕者』で私の日ごろ感じていることを見事に書いてくれた。参照してもらいたい。

 私は大企業が過疎地の農地を一括して借り上げるか、購入して社員に農業を奨励してほしい。社員に自宅待機させ、一時帰休させるのであれば、田舎の農地で普段とはまったく違う農作業をすることで、精神的な再構築を計ったらどうだろう。外国人から働き蜂と揶揄される日本人の評価を変える、良い機会である。私が提案する“2軒の家”とは、一軒は普段働いている所に持つ生活基盤の家である。もう一軒は旧社会主義国に普及した“ダーチャ”と呼ばれる農業用寝泊り小屋である。トイレとシャワー設備にベッドと小さな簡易キッチンだけの宿泊設備兼農作業小屋であり倉庫である。

 例えば、トヨタ自動車は、3月まで工場の稼動を極力止めて、生産調整するという。社員をただ家に留めて置くのではなく、希望の地方の過疎地に移動させることを奨励したらよい。トヨタには住宅部門もある。住宅部門で組み立て式の簡易ダーチャを生産販売する。まずトヨタの社員に販売する。その他にも農機具、家具、備品などの需要も期待できる。トヨタの部課長クラスの社員がトヨタ車を率先購入するとニュースが伝えた。無理して必要のないものを買わせるより(トヨタの部課長クラスがトヨタの車を所有していないわけがない)新規の分野の商品を開拓拡販するべきである。今必要なのは、需要の創設と供給の継続ならば、手をこまねいている時間はない。麻生首相はスイスのダボスで「不況の解決はまず日本から」と演説した。何を策としてあれだけの見えを切ったのかが見えてこない。

 ワークシェアリングという考えでなら、ここで大きく発想の転換を計ってみたらどうだろう。例えば、工場で製品を作るグループと、農地で食料を確保するグループと分ける。一定の期間を定めて、立場を交換すれば、まさにワークシェアリングのひな型になる。食料調達グループは、工場で働くグループの家族全員の米や野菜を生産する。減額されるであろう給料は、できるだけ住宅ローンや子どもの教育費にまわし、食費はできるだけ自社社員による農業グループに頼る。傷みわけの感もあるが、知恵は皆で絞ればでてくるものである。もちろん工場の食堂も無料で食べられるようにする。政府の減反政策などにより滅茶苦茶になってしまった日本農業の回生にもつながる。自宅待機や一時帰休や副業を認めるより、農業で作物を栽培して、作る喜び、収穫する喜び、家族で土に親しむ喜びがもたらすであろう、金には換算できない大きな効果が、従業員にも家族にも、肉体精神的に起こると信ずる。たとえ一企業でもこのような案を緊急に実施してくれることを願う。それこそ日本の底力である。2月11日の朝刊にワークシェアリングに政府が補助金を出す方針と伝えたという記事がのった。これを利用しない手はない。

 かつてトヨタの創業者の豊田佐吉は、事業で限界を感じた時、部屋の障子を開けて「窓を開けて見よ。世界は広いぞ」と言ったという。トヨタは世界にその名を広め、ついに生産台数世界一に登りつめた。景気が悪くなったからと、世界に広げた生産工場や販売体制から首切りで社員を減らすような、どの企業でもできることをするのでなく、ここで知恵を絞り世界を驚かす、社員を切り捨てるだけで生き残りをかけるのではない、さすが日本の企業と言われるような策を打ち出して欲しい。トヨタがここで踏ん張って、世界のトヨタ社員を半分ダーチャに移しても保護し、名実ともに世界一の企業になって欲しい。土を耕しながら、きっといろいろな発想が湧き、結局は会社を救うことになるかもしれない。トヨタに限らず、個人であれ、企業であれ、不景気だからこそ、土から学ぶことは多い。土からは、食料も与えられる。

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XYZ

2009年02月09日 | Weblog
 『朝、チャックを開けたまま、出勤したことのあるビジネスマン37.2%  おはようございます。朝専用「ワンダーモーニングショット」』(JR東日本の車中のポスター)

 電車の中のこのポスターを見て、思い当たる男性は多いことだろう。私自身も『社会の窓』への注意力が欠如していて、ずいぶんな時間と距離をそれと知らずに歩き回り赤面することがある。最近、女性でもジッパーのついたパンツやスラックスを身につけている。女性のジッパーが開いてるのを見たこともあるので、男性だけの問題ではなくなっている。

 アメリカでは人前で社会の窓が開いている人に小声で「XYZ」と教える、(X=examine 調べろ! Y=your お前の Z=zipper ジッパー)と国際基督教大学の安積仰也元教授から聞いた。安積さんは、長くアメリカで社会学の教授としてウイスコンシン大学やコロンビア大学で教えていた。若くして渡米し、英語の世界で研究に没頭していた。日本に帰国し、日本の大学でも教え、退職した。日本語を書く能力を取り戻すためと、このような凄い履歴の持ち主が、ひとりの生徒として、私がサハリンから日本に帰国して、学んだカルチャースクールのクラスにいた。素晴らしい人との出会いは、人生の奇跡であり、喜びの源泉となる。以後ことあるごとに、多くのことを教えてもらい勉強になり、感謝している。

「XYZ」これは何と素晴らしい方法だろう。是非日本でも密かに拡がってほしい。「ほら、前」とか「チャック」とか「開いてるよ、社会の窓」では、言うほうも言われるほうも恥ずかしい。小さな声で「x ・y・z」でささやき教えてあげる。さっとメモに書いて相手に素早く教えてあげるのも良い。日本人の多くの女性は、奥ゆかしいので見ても教えてくれる人はまずいない。だからこそこのxyzの状況は、一刻も早く当事者に着実に伝えなければならない。多くの人々が過去にどうすればいいのか途方にくれたことがあると思う。

 私も若い頃、XYZ状況は、何年に一回あるかないかないかぐらいであったが、歳を取るにつれて頻度が増えてきた。カナダではxyzの経験はなく、xyzを学ぶ機会がなかった。あの頃は、そういう事態になっても、xyzの状況に“スウスウ”したり、何かあそこ近辺が敏感に反応したが、今では何も感じることはない。部屋を移動しただけで、何をするためにここへ来たのか、判らなくなるほどだから、xyz状況など朝飯前のことである。バスの運転手が「左よし、右よし、前よし」と点呼するように、私も家を出発する前に、「火の元よし、スイッチよし、鍵よし、xyzよし!」と点呼して家を出るようにしている。がっかりすることはない。一回でダメなら二回、二回でダメなら三回点呼すればいい。XYZで恥ずかしい思いをするより、ずっと良い。そのうちに、きっと日本中にxyzが密かに拡がるに違いない。あなたも今すぐ「xyz」の点呼を。・・・「大丈夫?」「良かった」 では「いってらっしゃい、御機嫌よう(Have a good day!)」

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映画『禅』

2009年02月04日 | Weblog
 先月22日、東京へ出る用事ができたので、ついでにかねてから観たいと思っていた映画に行くことにした。角川映画の『禅』という映画である。今はインターネットで事前に調べれば、どこの映画館で観ることができるか、簡単に調べられる。用事が新宿だったので、用事を終えてから、角川シネマ新宿映画館で13:15の回の上映に間に合った。

 私は、離婚という人生の最悪の事態に、30年前、ただ為す術もなく翻弄された。二人の子どもを守ろうとすればするほど、燃えるような嫉妬と怨念に囚われた。知人の紹介で家から車で約一時間の禅寺に坐禅に通った。朝3時に起きて、できるだけ毎日2年間通った。よほどの形相だったのだろう。禅寺の和尚に「相手が憎いか?ならば坐禅で相手を殺せ!坐禅で憎み尽くせ!坐禅でだけだぞ!わかるな」と教えられた。この教えによって、私は自分の状況と向き合った。逃げることなく真正面から対峙した。苦しくて悔しくて憎くて、脂汗をかいた。涙も流れた。坐禅とこの教えのおかげで、私は何とか自分を破滅への暴走から救った。

 冬、寺に着くと凍った水場の氷を割って、水を頭から被って、身を清めた。寒さで歯をガジガジ言わせて、坐った。あれほどの寒さが、じわじわと自分の36.5度の体温で温まってきた。その温かさに自分が生きていることの感謝を感じた。自分を愛おしく感じた。自分を大切に生きようと思った。坐禅を続けていると、苦しめるのは自分の体重である。最初教えられた「坐禅で相手を殺せ!坐禅でだけ思い切り相手を憎め!」は坐禅を継続するにつれ、潮が引くように納まってきた。私の問題の全ての原因は自分にあると、体重による体の痛みが教えてくれた。

 『禅』という映画を通して自分の過去を見ていた。坐禅を開拓した道元とは比べるべくもない小さな存在である。現在私は禅寺に行くこともない。離婚という挫折がなければ、坐禅をすることはなかった。道元は最後の最後まで坐禅を続けた。一時の坐禅ではあったが、坐禅が現在の私を作った、と信じている。再びあの荒修行ができるとは、思わない。人間、追い詰められると、信じられないほどの力を発揮できる。坐禅の経験のない人々にとって、この『禅』という映画は、退屈に違いない。そう感じる人は、自分の今までの人生が恵まれていたとあらためて考えて欲しい。普通の幸せな道を外れてしまった者たちは、ああでもせねば立ち直れないと観て欲しい。

 人間は、できるだけいろいろな経験を積んだほうがよい。傷つき、挫折し、打ちのめされた者のみが、それを乗り越えた時、持てる優しさがある。私はキリスト教を学び、坐禅して、ヒンズー教の国に3年住み、イスラム教の国々に都合6年住み、キリスト教の正教の国々に4年住んだ。これだという宗教に出会うことは、できなかった。どの宗教を信じる人々も、理想の人間ではなかった。結局答えを見つけられないまま、私は人生を終えることになると思う。それで良いと思う。坐禅も結局私自身の宗教にならなかったが、道元が「あるがままに生きよ」と言う意味を、私は自分勝手に解釈している。私の生きる指針になっていることは、事実である。

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