団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

潜水艦⁈

2019年08月29日 | Weblog

  26日車で隣の町へ買い物に行った。買い物を終えて、車をとめた立体駐車場の4階から1階へグルグル回転しながら降りた。料金精算機で支払いを済ませて外に出た。途端にぽつぽつと雨粒がフロントガラスを打ち始めた。ずっと猛暑日が続いたので良いお湿りだと思った。海岸沿いの有料道路に入った。雨が強くなってきた。朝の天気予報で、私が住む地域に雨の予報はなかった。これがゲリラ豪雨。よく“バケツをひっくり返したような”雨というが、その表現さえ適当でない降り方だった。ワイパーを最速にする。ワイパーでは視界を確保できない。前方が白い。私の前に車が走っていたが、運転手は速度を落として慎重に進んでいた。その車が道路上に溜まった水を3,4メートル弾き飛ばす。この有料道路はトンネルが多い。トンネルに入ると先ほどの雨が嘘のよう。トンネルが終わり、外に出るとまだ雨。料金所で窓を開けた。料金所の屋根は雨をさえぎらなかった。雨粒が吹き込んだ。一瞬で右腕とドア内部がビショビショ。料金所の係員も半身ずぶぬれ。住む町に通じる最後のトンネルを抜けた。嘘だ。雨が降っていない。道路も乾いている。猛暑が続いた7月後半から8月後半まで私は外出ができず毎朝出勤する妻に強く不満を訴えた。今の生活は潜水艦の中で暮らしているみたいだと。こんなことを言ったら実際に潜水艦で働いている人たちに失礼だと思う。ましてや私は潜水艦に乗ったこともない。海の観光地で観光用潜水艦もどきに乗って海の中を見たことはある。ただ私の毎日外に出たくても暑さにそれを妨げられる状況を潜水艦の中で暮らしているようだと比喩したかった。

  ロシアのサハリンに妻の赴任で暮らした。妻が次の赴任地の打診を受けた時、サハリンと聞いて私は日本に近いし良い場所だと思いサハリンを推挙した。私はカナダ留学でマイナス47度を経験した。サハリンなら耐えられると思った。まだ心臓バイパス手術をして1年しかたっていなかった。いざ赴任してみると、カナダとの生活と全く違った。違ったのは環境ばかりでなかった。私の精神も肉体もカナダ時代とは大違い。カナダでは勉学という目的があった。まわりに多くの学友がいた。毎日こなせないほどやることがあった。サハリンは違った。それこそ私は潜水艦の中にいるような圧迫感に襲われた。潜水艦の中の生活を表現するのが、映画『ハンターキラー 潜航せよ』の艦長の「人生の大半を水の中で過ごしてきた。~~。この孤独と恐怖できしむ鋼の塊の中で数か月過ごす。だがそれが我々の任務だ」である。それを振り払おうと日本からウォーキングマシーンを持ち込んだ。暖房の効いた部屋で半裸になって黙々と妻が勤務中歩いていた。潜水艦は閉ざされた空間なので乗組員の生活にはいろいろ気が配られているという。私が住んだ集合住宅も金庫のような住居と呼ばれていた。護衛が機関銃を持って警護して、断水なし停電なしで暖房、浴室も申し分なかった。それでも、私はその閉ざされた生活に耐えられず、とうとう途中で逃げ出した。妻が単身残った。身勝手で酷い夫だった。結局、妻は職を辞して日本に帰国した。

  今年の夏の猛暑で長い期間朝夕の妻の駅への車での送り迎え以外ほとんど家から出ることがなかった。散歩のことなど頭に浮かぶこともなかった。27日火曜日、急に気温が下がった。来る日も来る日もギンギラギンと射すような陽の光が飢えた獅子の眼光のようだった。一歩でも陽の射すところに踏み入れたらジジイの干物にしてやるぞと言わんばかりだった。天候の急変した優しさについ散歩することにした。ちょうど妻に学会の年会費の振り込みを頼まれていた。歩いて郵便局まで行くことにした。半そで短パンで出かけた。郵便局まではよかった。振り込みを終えて外に出ると、また陽が射してきた。家の中にいるだけで、陽に焼ける私だ。太陽光の直射が痛い。我慢して歩いた。やっと川沿いの桜並木の木陰に来た。木陰の気持ち良さを久しぶりに思い出した。

  26日の突然の豪雨に車の中で襲われた時、“潜水艦の中でくらしているみたい”と妻に言ったことを思い出した。セネガルの赤道直下のような暑さに暮らそうが、マイナス40度の厳寒のサハリンに暮らそうが私自身に変わりはない。今までは逃げ出すことばかり考えた。潜水艦での生活のようだと否定的に考えるのを肯定的に変えたらと思い始めた。今住む家に不満はない。水道良し、電気良し、食料良し。潜水艦、潜水艦と言いながら、適当に脱走逃避を繰り返している。讃美歌の『Count your blessings』を聴く。罰当たりここに極まれり。


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木べら

2019年08月27日 | Weblog

  台所の調理台の引き出しに、すでに40年以上使ってきた木べらがある。竹製である。先の丸みがいびつにすり減って変形している。(写真参照)見た目もくすんだ色で悪い。現役である。この木べら、魔法の木べらなのだ。

 私はこの木べらを手放せない。なぜなら何を調理しても、最後の味の決め手は、この木べらだと知っているからである。

  縁あって再婚できた。妻の仕事の関係で、私は事業をたたんで、妻の海外赴任に同行して海外で暮らした。妻が勤め私が家事をした。カナダの全寮制の高校で学び経験したことが役立った。家畜の世話、卵や肉の調達処理法、畑仕事、調理、洗い物。特に調理は、興味を持ち好きになった。食材の現地調達は、難しかったが楽しくもあった。治安も衛生状態もよくない中で私にもできることがたくさんあった。海外生活での楽しみの一つは、客を招いて話をすることだった。食べる時、人は心を開いてくれる。だから食材を探し、レシピを探した。初めのうち、台所用品も少なかったが、経験を通して帰国休暇のたびに日本から買って持ち込んだ。日本の台所用品は、優れた物が多い。包丁もその一つ。研ぎ方まで習って大切に使った。

  最初の赴任国に持ち込んだ少ない台所用品の中に、再婚する前にずっと使っていた木べらが含まれていた。その木べらに何の思い入れもなかった。引っ越しのたびに、多くの台所用品などを現地の友人や在留邦人の人にあげてきた。不思議に木べらが残った。だんだん愛着を持つようになった。アフリカのセネガルで、兼松江商の支店長婦人が自宅でフランス料理の教室を開いていた。男性一人だったが私も参加した。夫人はフランスの一つ星レストランで修業した女性シェフだった。この夫人のおかげで私は料理に開眼できた。私は料理に熱中した。フランス料理はソースなど煮込む料理が多い。ここで私の木べらが登場。コトコト煮て木べらで優しく撹拌する。数時間同じ事が続く。

  日本のうなぎ屋で秘伝のタレ、焼き鳥屋でも、ラーメン屋でも、先代先々代から受け継ぎ受け継がれてきたタレが話題になる。漬物でも代々受け継がれているぬか床もあるらしい。外国にそのようなタレがあるかどうかは知らない。しかし100年も前から注ぎ足してきたタレと聞くと黙るしかない。味がどうのこうのというより、時間の渦に飲み込まれてグーの音もでない。ただただ有難く頂戴するしかない。私の木べらにそのようなタレと同じ力があるかと言えば、もちろんない。ネパールの水、肉、大根、ジャガイモ、トマト。セネガルの水、肉、魚。旧ユーゴスラビアの水、肉、魚、パプリカ、もろこし。チュニジアの水、肉、魚、野菜。ロシアの水、魚、カニ。長い時間、世界の各地で調理に使われた木べらは各地の味と思いをしみ込ませている。しみ込ませたばかりではない。木べらの先はすり減って形を変えている。

  職人だった父は「道具は職人の命だ」と言った。道具の手入れに多くの時間を割いていた。他の誰にも道具を触らせなかった。父が大事にしていた道具の多くは、柄も刃も最初の時とはまったくの別物になっていた。私が愛用しているペティナイフは、柄がすり減って中の刃物が見えるようになった。築地の包丁屋に持って行って取り換えてもらった。その時、父の道具に対する気持ちが少しわかった気がした。

  私は自分で料理するようになってから、人間にとって食べることの重要性を知った。今のように誰でも食べられる時代がずっと続くとは思われない。いじめ、虐待の事件を見聞きするたびに思う、あの子たちは、皆でテーブルを囲んで、ワイワイガヤガヤ、まともな食べ物を食べさせてもらっているのだろうかと。私は信じる。食事を作る人が食べてもらう人を喜ばせようと思って調理すれば、それが最高の味となる。

  すり減った木べらは、私の気持ちを木べらを通して調理中の料理に行きわたらせてくれる。そう思い込んでいるから、汚れた食材を洗い、下ごしらえして、調味料を加え、鍋に入れ、スイッチオン。あとは木べら任せである。


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夏休み

2019年08月23日 | Weblog

 日本の高校からカナダの全寮制の高校へ移って驚いたのは、夏休みの長さだった。3カ月あった。まだ雪が降ることもあった6月に始まって、また雪が降り始める9月初めに終わった。正直あまりの長さに戸惑った。長野県の小中学校は夏休みが3週間、春秋の農繁期に農繁休業という1週間ずつの農家を手伝う休みがあった。私のような農家の子供でないと学校があっせんした農家へ手伝いに行った。報酬はなかったがお昼ご飯に白米を腹いっぱい食べさせてもらえた。

 カナダの私が入った学校の生徒は夏休みに何をしていたのか。これだけは言える。塾や予備校で大学受験に向かって勉強していた者は皆無だった。勉強から離れることが夏休みの主題で、学校ではできないことをする。家が農家だと朝から晩まで家畜の世話や麦畑での農作業、都会の生徒はアルバイトで学費稼ぎをする。私のような外国人は、学校の外で働くことはできなかった。学校は私のような生徒に、仕事を提供して2ヶ月間働くと次年度の学費を無料にしてくれた。私は最初の夏休みをそうして過ごした。残った1カ月間、アメリカのカルフォルニアに住んでいた留学にあたって私の身元保証人になってくれたネルソン一家をグレイハウンドバスに乗って会いに行った。長い夏休みを持て余し、また秋に学校へ戻った時、勉強に戻れるか不安にもなった。それは懸念に過ぎなかった。誰も抜け駆けしていないので対等に再び学業を始められた。ここに日本人とカナダ人アメリカ人との教育に関する違いがある。

 私は子供を二人育てた。長男を全寮制の高校に行かせた。3年生の時、長男を予備校の夏季講座へ行かせず、アメリカカナダのバス旅行に行かせた。当時、長女がアメリカの友人に預かってもらっていた。長女と1週間一緒にいてから、2週間私がしたようにグレイハウンドバスでアメリカカナダを周った。大学入試は、国立不合格だったが彼が希望していた私立には合格した。私は彼に1年なら浪人してもよいと言ったが、彼はその私立が幼いころからの志望大学なので行かせてくれと言った。夏休みにアメリカカナダ旅行させたのは、決して無駄ではなかった。むしろ長男を成長させたと思っている。今考えるとこれは親の一方的な押し付けで、もっと長男の気持ちを考えてやるべきだったとも思う。娘は夏休みが長いので毎年、夏だけ日本に戻り私や長男と一緒に過ごした。夏休みは私たち親子が一緒に過ごせる貴重な時間だった。

 そんな私の二人の子供も東京で家庭を持った。孫が3人いる。夏休み、特にお盆になると今年は来てくれるかなと期待してしまう。残念ながら今年もまた来てもらえそうもない。長男の子は二人ともサッカーをしている。夏休みは秋から始まる全国大会の予選に備えて合宿や練習試合が続く。連日の猛暑の炎天下、真っ黒に日焼けして練習に明け暮れているとメールをくれた。長女の子はまだ小学生で両親が共稼ぎ。私の父や妻の父親のように老後、私も孫の世話をみたかった。3人の孫は、みな母親にベッタリである。孫だけで私の所に遊びに来ることはない。世間では実の親の子への虐待が問題になっている。孫たちが自分の家が一番居心地が良いというのは、喜ばしいことと思うことにしている。

 夏休みに提案したい。例えば6週間の夏休みなら、2週間ずつ3つに区分する。1つはスポーツの2週間。合宿、練習試合、大会をこの間に済ます。2つ目は、社会体験に当てる。家業の手伝い、アルバイト、社会奉仕など。3つ目は、遊び娯楽レジャー旅行とする。昔、塾で夏期講習などをやっていた私が言うのも気が引けるが、夏休みは宿題も勉強もしなくてもよい。日本人の国民性から年がら年中働き学ぶより、そろそろ生活を楽しむよう方向転換したほうが良い。確かに私が日本で在籍した高校では、優秀な学生が多く社会で成功している。一方カナダの高校や大学で一緒だった学生もそれなりに成功している。これだけシャカリキに休まず働き学ぶ日本人が世界で抜きんでて優秀かと言えばそうとは言えない。

 変えればもっと良くなることはたくさんある。私は日本のすべての生活基準は国会議員がすでにお手盛りで達成したことにあると思う。夏休みしかり。議員さんたちが日本人全体がその水準に達せられるよう働いてもらいたい。


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隣人

2019年08月21日 | Weblog

 聖書「汝の隣人を愛せよ」マタイによる福音書5章43節

 私がまだ小学生の低学年だった時、私の隣家の仲が悪かった。私の家は国道と市道と鉄道に3方を囲まれていた。残った一辺に2軒の住宅が並んで我が家と隣接していた。西側が盲学校の校長、東側に高校の教師の家だった。小学生の私でさえ聞くに堪えないような中傷合戦だった。ある日片方が「マッチに火をつけて投げ込んだの知ってるぞ」と騒ぎだした。そして次の日、高校教師が奥さんと消えた。夜逃げのようだった。どちらが良い悪いかはわからない。私の両親も喧嘩には関わらなかった。我が家に早くから電話があって、争っていた両方がうちの電話を利用していたのでもめたことはなかった。私はうちにかかってくる電話で両家に呼び出しの伝令に行かされた。私には接する両家の主人はまるで別人のように優しかった。私はこうして幼いうちに、隣人との関係が一筋縄ではいかないことを知った。

 ネパールに住んでいた時、我が家に泥棒が入った。大きな被害ではありませんでしたが、ククリナイフで妻の往診カバンが真っ二つに切られていて、恐怖を感じた。泥棒は隣家の木を登って我が家に侵入したことがわかった。ネパール人を介して隣家に木を切ってくれと頼んだ。以前から隣家とは鉄棒のことで問題を抱えていた。隣家の庭に鉄棒があった。この鉄棒、懸垂して上体を持ち上げると我が家の台所が丸見えだった。隣家の息子たちは、体を鍛えるとともに日本人の台所を覗くことにも興味津々だった。私は主夫である。台所に立つ時間が長い。それがまた彼らを刺激した。鉄棒を移動させてくれと隣家に頼んだ。聞き入れられなかった。やがて飼っていたシェパードが子犬を5匹産んだ。隣家から申し出があった。シェパードの子犬をもらえれば、木も切る鉄棒も移動すると。一頭の子犬が隣家にもらわれていった。話し合いで解決しなかったこじれた問題が、一頭のシェパードの子犬が一気に解決した。

 隣人との関係は、集合住宅や戸建て住宅、どちらに住んでも難しい。何千坪もある大邸宅ならいざ知らず、庶民が住む家は集合にしても戸建てにしても狭く近い。ヨーロッパなどのレンガや石づくりで壁の厚さが30センチ50センチもあるならいいが、日本の住宅の多くは貧弱なものだ。隣人関係で問題になるのが音であろう。幸い今住む家の設計者は、その点に留意して極めて防音効果が高い。窓ガラスも2重ガラスなので外の音はだいぶ遮断されている。それでも振動音は防げないらしく時々上階の振動音が伝わってくることがある。気にならない程度である。完全な無音状態など特別な工事をしなければ無理だ。

 音だけではない。とかく他人には常に批判的となる。ニオイ。ゴミの出し方。洗濯物の干し方。車の止め方。気にしだしたらきりがない。多くの人々、私を含めて心の中では辛辣に反感を持っても、近所づきあいでいさかいを防ぐために口をつぐむ。あおり運転などキレル者がどんどん増えるのは、生活に不便や飢餓がないせいだと思う。あまりに自由自在になり、加えて他人との関りも薄く、自分中心の生活が可能になった。それを勘違いして自分の思い通りにいかないと、簡単に切れて他人を暴力や言葉やネットで攻撃する。江戸時代の音筒抜け、水共同井戸、トイレ共同状態なら、現在の多くの問題は起こりえないはずだ。

 それにしても「隣人を愛せ」は、難しい。聖書を読んで神に祈るキリスト教徒でさえ心からそうしているかは疑問である。カナダのキリスト教の全寮制の学校で学んだ。あの特別な環境の中でさえ、差別、暴力があった。同じキリスト教徒でありながらでも隣人を愛せない。人間の愚かさを見せつけられた。

 人間関係だけではない。国と国との関係も同じ。地政学的に隣合わせれば、問題だらけである。日本と韓国だけではない。私が住んだ国々の多くが程度の差はあるけれど問題を抱えている。それでも関係改善と明るい未来を信じたい。

 「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。私は主である。」レビ記19章18節


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砂を噛む

2019年08月19日 | Weblog

  甲子園球場で行われている全国高校野球選手権もベスト4が出そろった。連日の熱戦に引き込まれるようにテレビの前で観戦している。大相撲は、夕方の数時間で済むが、高校野球は、一日4試合が普通だ。やっている生徒たちも大変だが観る方も体力がいる。

 高校野球の魅力は、高校生選手たちの試合への全身でぶつかってゆく、あの闘志につきる。砂煙を上げてベースに向かってヘッドスライディングするのを観ては感動する。

 私の野球経験は、ヘッドスライディングで終わった。今から30年くらい前、ある知り合いから会社の野球チームが一人足りないので立っているだけでよいから参加してくれと頼まれた。体の衰えを感じていなかった私は喜んで参加した。仕事一筋で運動することはなかった。中学で2年間野球部に所属していた。その時と同じ軟式ボールの野球だった。打順が回ってきて何とかヒットを打ち、出塁した。味方のヒットで1塁から2塁を蹴って3塁に向かった。脚がもつれたが返球が3塁手にされたのを見て、ヘッドスライディングをした。体が宙に浮いた。高校野球の選手のように体はグラウンドの上を滑走しなかった。ズドンと倒れ落ちただけだった。顔が地面に打ち付けられた。顔を上げると3塁のベースが2メートルくらい先にあった。もちろんアウト。口の中は砂だらけだった。それ以来、野球をしたことがない。今でもヘッドスライディングしてベースがずっと向こうにある夢をみる。夢の中で口の中が砂っぽくなる。

 “砂を噛む”を辞書で引くと「物事に味わいや情趣がなく無味乾燥に感じるたとえ」とあった。砂漠がある国に暮らした。毎日、知らず知らずに“砂を噛む”生活だった。休暇で砂漠の国から日本へ帰国した時、妻の実家で義母が「お前たちの服を洗濯したら洗濯機の層の下に砂が溜まってるけど、何したの?」と言われた。砂漠の国では吸っていた空気はもちろん、水道の水にも砂が混じっていた。現地で暮らしていると慣れて気が付かないことでも日本に戻るとわかることの一つの例だった。日本に帰国して暮らすようになって日本が埃っぽくも砂っぽくもないと感じた。

 チュニジアで日本からの親戚家族を砂漠の旅行に案内した。その日は天候が悪くハルマッタンと呼ばれる砂嵐に巻き込まれた。20分間ほど車の中でじっと通り過ぎるのを待った。旅行会社の運転手は「絶対に窓を開けないこと、口をハンカチやタオルなどで覆うこと。時間はかかるけれど必ず通り過ぎる」と言った。エンジンを切ったので暑さと窓の外が暗く不気味さに恐怖がつのった。嵐が通り過ぎた。道路は砂で埋まってしまった。その砂で埋まった道路を“鉄のラクダ”とその国で呼ばれるトヨタのランドクルーザーが何もなかったように再び走り始めた。何より可笑しかったのは、全員の眉毛が薄茶色に変わっていてまるで老人になったようだった。助かった安堵もあって大笑いした。エンジンを切り、窓を閉めていて、いったいどこからあんなに細かい砂が車内入り込み、私たちの眉毛まで砂まみれにしたのか。砂漠の砂恐るべし。砂漠の中のオアシスにあるホテルに無事到着した。映画『イングリッシュペイシャント』の中に出て来るホテルだった。プールの生温い水に潜ると生き返ったようだった。砂嵐とプールは私には、切っても切れない組み合わせである。

 日本に帰国して終の棲家を得て、すでに16年が経った。砂っぽい空気とも砂が混じる時間給水される水道とも無縁である。外出して家に戻っても服や喉に砂が付いていることがない。洗濯機の槽の底に砂が溜まることもない。水道も24時間途切れることなく清潔な水を配水している。私は未だに水を無駄にしないよう水で苦労した国でしたのと同じ水の使い方をする。歯を磨いて口をゆすぐのもコップに水を入れ蛇口から水を流しっぱなしにできない。シャワーで短時間に体を洗うことも特技になったが、今はそうする必要がない。湯船に色がついていない透明の湯を張って「オェー」とつかる。

 高校野球で選手がベースに懸命にヘッドスライディングする。砂ぼこりが立つ。審判が体全体を使って判定を下す。「アウト」 選手は砂だらけ。口に砂が入る選手もいた。小さな砂嵐が、砂漠の国での生活を私に思い出させる。「砂を噛む」は、私には「前進するには成長するには感謝を知るには、通らねばならぬ経験」である。


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似たもの夫婦

2019年08月15日 | Weblog

 先日スーパーへ買い物に行った。レジに並んでいる時だった。妻が小声で「ねえ、私たちって似ている?」と尋ねた。私はイチを聞いて、ジュウを知るものではない。鈍いのである。いつものように言葉が出ない私に妻が「向こうの二人似てるよね」と加えた。目を向けて二人を見た。似てると言えば似てるが、特段そうとも私には思えない。また言葉に詰まる。妻「私たちも似てる?夫婦は似るっていうじゃない」。

 10日茨城県の高速道路で、またあおり運転の果て、暴力事件が起こった。事件事故に備えて、ドライブレコーダーを付けている車が増えた。そういう私もその一人である。このあおり事件の一部始終がテレビのニュースで何度も繰り返し放送された。酷い。野蛮。執拗に繰り返されるあおり運転。危険。いつ後続の車両と接触衝突して大惨事になるやもと。とても高速道路で取る行動ではない。やがて白いBMWから、まず女性が降りてきた。早とちりの私は「運転して他の女性なの」と驚く。BMW=左ハンドルの判断。その女性携帯電話で、止めた相手の車に向かって、動画なのか写真を撮りだす。そしてその後、男が車から降りてきて止めた車の運転手に暴力をふるった。男により、私は女性から目を離せなかった。この女性と男との関係はわからない。いずれにせよ、女性がただの一度も男の行動を制止する身振りがみられなかった。夫婦なら間違いなく“似たもの夫婦”である。

 後にテレビでもネットでも多くの情報が流された。なんとあの白いBMWは試乗車だったという。またあのBMWを運転していた男は、先月23日に愛知県内で、30日には静岡県内でやはりあおり運転で警察に通報されていたのである。これだけドライブレコーダーが発達普及しても、警察は実際に事故事件にならないと動かない。事前に予防して市民を保護することなどしてくれない。私の経験では、警察は、持ち込まれるドライブレコーダーの映像を証拠としてまだ認めていないように思われる。しかし警察は、犯人逮捕など自分たちの毀誉褒貶に関わる件には、積極的に市民から監視カメラやドライブレコーダーの映像を集める。今回のBMWのあおり運転と暴力事件でもBMWが試乗車であれだけ鮮明に殴打する映像があっても警察の動きは遅い。

 今回の茨城県でのあおり運転と暴力事件のあの男女が夫婦かどうかわからい。しかしあの映像を観ていて、故中川昭一さん夫婦を思い出した。中川さんが海外で泥酔して問題を起こした時、記者たちが中川さんの自宅近辺に帰国した彼を取材するために集まった。家を出た中川さんに家から声がかかった。「いよ日本一」「がんばれよ」「大丈夫」 私は正直夫婦っていいな、と思った。その後、中川さんは亡くなって、郁子さんが国会議員になった。彼女も問題を起こして、選挙では落選した。結末には失望落胆したが、一つの夫婦の形を学んだ。

 私は仲の良い夫婦が好きだ。家に客を招く時、夫妻を一緒に招くように心がけている。私が友人と認証する人たちは、みな夫婦仲が良い。仲が良い夫婦を選んでいる。なぜなら勉強になるからだ。バツイチの私は、結婚で一度大きな失敗をした。再婚するまでの15年間のヤモメ生活は、一人の人間としての、再びいつの日かある女性の夫になるための、男性としての再教育機関であった。正直、もう二度と結婚はできないだろう、するべきではないとも思っていた。44歳で再婚した。人生が変わった。私自身も変わった。二人の子供も大学を卒業させた。妻は私の過去を彼女の心の奥深くに封印してくれた。再婚して26年になる。

 気になる文を本で見つけた。「いずれにしても夫婦は、その知能が低い方の水準で暮らすものです」ミッシェル・モーロア 私は医者である妻にはある面で劣等感を持つ。モーロアが言う“知能”は学力でも学歴でも職業でもなく、人間としての知能と私は勝手に解釈する。低い方の水準が人間として常人であれば良い夫婦になれる気がする。

 毎日一緒に寝て、起き、同じ場所に暮らしていれば、嗜好、姿、表情、反応、言葉使いなど似てくるに違いない。私はモーロアの言う“知能”がどういうものであれ、まず妻の“知能”に近づきたい。そういう似たもの夫婦になりたい。


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高校野球と汗

2019年08月13日 | Weblog

  汗と涙に関係があるのだろうか。私は幼いころからあまり汗はかかなかったが、涙は出た。近所の子どもたちが私に付けたあだ名が準内地米(じゅん泣いちまえ)。とにかく、すぐ泣いた。時間は多くの事を解決してくれる。泣き虫だった私の涙もろさも、やっと人並みになってきた。

 古希を2年過ぎた今年の夏、ずっと雨が降り続き、それがやっと終わった。そうしたら、今度は猛暑が続く。サウナでどんなに頑張っても汗をあまりかかなかった私が朝、目を覚ますと寝汗で下着のシャツがビッショリ。そもそも寝汗をこれほどかくことがなかったので驚いている。年齢のせいかもしれないが、今年の猛暑は尋常ではない。

  人間の発汗作用をブリタニカはこう説明している:汗腺の分泌亢進をいう。体温が高まったときに起る体温調節現象で,汗のうちの水分の蒸発によって熱の放散が増大する。発汗は一般に温熱刺激でが 43~46℃になったとき起こる。

  赤道に近いアフリカのセネガルに2年間暮らした。気温が40℃を超すこともあったが、汗をひどくかくことはなかった。湿度が低いせいか日陰はそれほど暑くなかった。日陰は気持ち良い程だった。官舎に住んでいたのだが、床が大理石やコンクリートで、その上にゴザを敷いてする昼寝はヒンヤリして気持ちが良かった。マラリアを媒介するハマダラ蚊には警戒したが、寝汗に悩まされたことはなかった。

  猛暑で外出もままならない私は、夏の高校野球をテレビ観戦している。故郷長野代表の飯山高校は、20対1で大敗した。このところ県代表になるのは、全国から選手を集める私立高校ばかりなので、飯山高校のような公立の地元の選手ばかりの高校をどうしても力を入れて応援してしまう。今回のような負け方だと何故か冷や汗がでる。辞書の“冷や汗” の説明はこうだ。“ひどく恥ずかしかったり、恐ろしかったりしたときなどに出る汗”。長野県を故郷とする私は、あの大敗を我がことのように恥じたのだ。ただ同じ県からの代表だからと応援してしまう。何かにつけて出身校や出身県や出身国という囲いに振り回されるのは、人間の性なのかもしれない。

  私は外出、特にこの炎天下、散歩がままならないので、ウォーキングマシーンを使っている。速度を落として30分間歩く。上半身裸。首の周りにタオルを巻く。テレビ画面には高校野球の熱戦が映し出される。猛暑で球場の温度は連日30℃をはるかに上回っている。画面いっぱいに映し出される選手の顏に汗が流れる。私は冷房の効いた部屋で観戦しながら、極端に速度を抑えられた機械のベルトの上を歩く。

  プロ野球にまったく関心がない。父親が“狂”がつくほどの野球好きだった。父を喜ばそうと私は中学では野球部に入部した。団塊世代である。1年生だけで野球チームが10以上できるほど部員がいた。中学2年生で父に内緒で退部した。これが私と父との間に溝を作った。背は小さいが運動神経が半端でなかった父と違って、私は病弱で走っても跳んでも泳いでも投げても並以下だった。プロ野球の試合の勝敗で機嫌が変わる父が理解できなかった。そんな父に反抗していた。父は汗かきだった。もしかしたら汗と運動神経は、関係があるかもしれない。

  ウォーキングマシーンで30分歩いて運動したと思っている私。悪条件の中、汗を流して躍動する高校野球の球児たち。感心しきり。そして元気をもらえる。応援団しかり。審判や球場関係者。観客。大相撲と同じで観ていると、観客に見覚えある人が出て来る。熱心に応援するガタイの良い、髪を金髪に染め明るい黄色のTシャツに2本の黄色いメガフォンを叩きながら応援する男性。去年も更にその前もいつからか甲子園球場で彼を探すようになった。あの暑い中、最初の試合から最後の試合まで応援している。彼が座っている場所は、中継テレビカメラが捉えやすいのか、ひんぱんに映し出される。よほど高校野球が好きなのだろう。彼がテレビに映るとほっとするのはなぜなのだろう。

  今朝も起きると下着のシャツは、汗でびっしょりだった。汗が出ることで私の体温が下げられているという機能を自覚できる。体を拭いて、新しい下着のシャツを着る。今日も高校野球で逆転、再逆転、再再逆転の好試合で手に汗握らせてもらえそうだ。高校野球は、古稀+2=コキジの私に汗を出させる日本の夏である。


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安物買いの銭失い

2019年08月09日 | Weblog

 またやってしまった。バルミューダの空気清浄機のフィルター交換の警告灯がオレンジ色に点灯した。我が家の台所は仕切りがなく、どうしてもニオイが居間などの他の部屋に出てしまう。友人がバルミューダの空気清浄機を使ったら良くニオイが取れると教えてくれた。さっそく購入。確かに効果抜群だった。本体は3万円くらいだった。フィルターの交換は1年ごとにと説明書に書いてあった。最初の交換は、純正品を使った。本体が3万円で交換用フィルターが約1万円。私にはとても高く感じた。

 今年の夏2回目のフィルター交換を知らせるオレンジ色の灯がついた。通販サイトのアマゾンで調べると代替品が純正品の半額以下で売られていた。値段が私を即決させた。注文して2日目に品物が届いた。早い、便利と口元がゆるんだ。箱を開けて説明書を探した。ない。以前の純正品には付いていなかった、プラスチックの袋に入れられた不織布があった。袋に赤い文字で23か国語の注意書きがあった。日本語はない。英語表示を読んだ。「警告:プラスチックの袋は危険をもたらす可能性があります。窒息を防ぐためにこの袋を赤ちゃんや子供が触れない所に保管してください」 これは恐らく子供が事故を起こした時、責任逃れのための布石であって、このフィルターの説明書ではない。フィルターが入っていた梱包段ボールもいかにも怪しげな質の悪いものだった。箱に大きな文字でMADE IN CHINAとある。バルミューダの純正品も中国で生産しているのであろう。生産を他国の会社に委託すれば、そこから技術や製法が流出するのは必然だ。バッタモンであろう。“二度と安物買いの銭失い”はしまいと誓う。

 以前パソコンにある日本製のプリンターをつないで使っていた。プリンターも本体は、家電量販店で安く買える。本体を安く売って消耗品で稼ぐ。携帯電話会社が最低2年間の契約をすれば、本体を無料にした。それでも電話料金で稼げるからだった。多くの会社がこの形式を真似ている。プリンターのインクは驚くほど高価である。当然純正品でない安いモノが出回る。イタチごっこが始まる。プリンターの会社は純正品でない消耗品を設置するとモニターに警告文を表示。「純正品を使わないと機械の故障の原因となります」 値段は購入の決定的な判断材料である。自分で勝手に、“大丈夫、製造会社はこんなこと言ってるが、ちょっとやそっとで日本のメーカーの製品が壊れるわけがない”と思って、モニターの警告を無視して「使用続行」をクリックした。結果インクが漏れて機械が使えなくなった。

 チュニジアに暮らしていた時、現地の友人に頼んで車のバッテリーを買いに行った。アラブ系の国の買い物は、日本人には難しい。定価というものがない。交渉で値段が決まる。だから大きな買い物は、常に現地の人を頼っていた。無事バッテリーを新品に取り換えた。友人が古い私のバッテリーを欲しいと言った。あげた。すると一緒に来るように誘われた。彼は農場を持っていた。毎年、羊を放牧していた。羊の世話をベルベル人の一家に任せていた。彼らは農場の木陰にテントを張って暮らしていた。契約が終わると期間内に生まれた子羊の1割がベルベル人の取り分だという。友人は私のバッテリーをベルベル人のテントに持って行った。テントの中に古い小さなテレビがあった。画面はいわゆる雪が降っているような状態で、かろうじて映像が観られる状態だった。友人が「あなたのバッテリーでこの家族は1カ月以上テレビが観られるでしょう」と言った。一家の主がテントから出てきて丁寧に礼を述べた。

 私は日本に帰国して、チュニジアのあの羊の世話をしていたベルベル人の家族が想像もできないくらいのモノに囲まれて暮らしている。テレビは4K対応の液晶大画面である。画面はキレイでベルベル人が観ていたテレビのような雪が降る状態からは程遠い。バッテリーもいらない。家はテントではない。鉄筋コンクリート。エアコンは、外が33度の猛暑でも快適に過ごせる室温を保ってくれる。「モノ余って、ヒト劣化する」の1例になりつつあった。

 海外で私は何を見てきたのだろう。成長のあとがみられない。人間的に決して成熟したともいえない。同じ過ちを繰り返す。軌道修正しよう。恵まれた時代に生きることを素直に感謝する。安物買いの銭失いでなく、賢い金の使い方を学ぼう。まだ間に合う。


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姉来訪

2019年08月07日 | Weblog

  8月6日広島で原爆投下から74年の式典で広島市長が短歌を引用した。「おかっぱの  頭から流れる血しぶきに  妹抱きて母は阿修羅に」東京都に住む広島県出身の村山季美枝さん79歳の短歌である。村山さんは、原爆が投下された時、まだ5歳だった。村山さんは、テレビで当時の体験を赤裸々に語った。その鮮明な記憶に驚かされた。それは原爆が村山さんにとって如何に忘れることができないことであったかを物語っている。

 5日の午後、姉夫婦が私を訪ねてくれた。義兄は退職後、畑を借りて野菜を栽培している。義兄の母親は109歳まで生きた。長寿の家系らしく、義兄も健康で78歳になった今でも農作業を続けている。いつも宅急便で野菜を送って来てくれるが今回はわざわざ訪ねてくれた。私の姉は私より4歳年上だ。私の家系の血筋をしっかり受け継いでいる。癌で手術を受け、糖尿病でもある。足腰が弱り、杖なしでは歩けない。畑仕事も以前は、手伝っていたが今は家からあまり出ることもない。

 たくさんの野菜を届けてくれた。姉は糖尿病に効くからとオクラの食用花をどうしても直接私に食べ方を教えたくて来たという。他にもジャガイモ、カボチャ、トマト、ローリエの葉、ナス、タマネギと私たちだけでは食べきれない程だった。義兄は開口一番、「お互いに歳をとったね」と言った。確かに。姉も腰が曲がり、杖でトボトボとしか歩けない。義兄も健康そうだが、髪の毛、しわはやはり年相応になっている。全てを家の中に運び込んでくれた。

 私は何か飲み物を用意しようとすると「ここに来る前に飲んできたから」と遠慮する。言葉通りにお構いしなかった。テーブルを囲んで話が弾んだ。子供の事、孫の事。私は以前から姉に直接尋ねたかったことがある。それは私が生まれた日の私の両親の様子、姉の感想、生まれた間借りしていた親戚の家族の事、その家の環境などなど。思い切って姉に尋ねた。

 姉の答え。「全く覚えていない」「ゴメン。何も覚えていない」 姉は私が生まれた時、4歳だった。私たちの母親が亡くなった時、姉は8歳で私が4歳だった。無理もない。私だって4歳の時の記憶は、母が死んだ時のことを断片的に覚えているが、その時の姉の様子も家の中の様子も記憶がない。小学校や中学校でのことだって覚えていることはそれほどない。

 村山季美枝さんの短歌「おかっぱの  頭から流れる血しぶきに  妹抱きて母は阿修羅に」を私は情景を字面でしか追えない。5歳の時の体験をこれほど鮮明に短歌にするということは、村山さんの悲惨な体験がどれほどのものであったかの証であろう。胸を打たれる。同時に私の姉が私の誕生を覚えていないということは、ある意味幸せであったからに違いない。悲しみや苦しみや憎しみは、忘却するのが難しい。平々凡々な生活でたいして記憶にも残らない日常こそ平和な時間であったと思いたい。長い間、姉に尋ねようと思っていたことは、答えを得られなかった。

  戦争が如何に残酷で愚かなことかを、いまだに人間は学んでいない。地球は人間による環境汚染による破壊が進む。北極の氷が融け、あらゆる地球のバランスが崩れてきている。異常気象は年々悪化する一方である。

  それでも人間世界では、アメリカファースト、英国はEUを合意がなくても離脱する、香港のデモ、日本を抜いたと言い日本製品の不買運動を展開する国、ホルムズ湾ではイランが他国のタンカーを拿捕とか、協調とは程遠い現状である。宗教、人種、国家、これらすべては強欲に覇権を追及する。犠牲になるのは常に民衆である。

  姉も私も「まったく覚えていない」ある時期を共有した。貧しく平凡な過去ではあるが、村山さんのような経験をされた方々を思えば、感謝にたえない。

  姉がどうしても私に食べさせたかったオクラの花は、オヒタシにして食べた。ヌルリ、トロリが何だか私の糖尿病に効きそうな予感がした。


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NHK

2019年08月05日 | Weblog

  「いつでも、どこでも、誰にでも、確かな情報や豊かな文化を全国津々浦々にあまねく伝えていく」 これは7月30日日本放送協会が発表した『受信料と公共放送についてご理解いただくために』の中にあった文章である。

 私が妻と1993年ネパールを皮切りにセネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、最後が2004年ロシアのサハリンまで海外で暮らした。この間、ネパールとセネガルではもっぱらラジオでNHKの国際放送を聴いて、テレビではCNNやBBCでしかニュースを観ることができなかった。旧ユーゴスラビアからNHKテレビの国際放送でニュースを観ることができた。中国や韓国はネパール時代から海外への自国語放送を無料で国策としてテレビ放送を流していた。NHKは衛星放送を始めたが、無料ではなく有料だった。N国党の党首が主張するスクランブル放送化になっていて、NHKテレビを受信できる専用チューナーを設置して期間限定のICカードを購入する必要があった。チュニジアにいた時、英国のロンドンでNHKの営業代理店まで手続きとチューナー購入すために行ったことがある。ロンドンにある日本の大手銀行の支店なみに横柄な態度に驚いた。

 ネパールにいた時、ある日突然隣家の男性が訪ねてきた。彼の家から線をつなげば、私の家でもNHKやCNN、BBCなどの国際テレビ放送が手続きなしで観られると売り込みに来た。あまりに法外な値段だったので断った。彼は近所の外国人が住む家にタコ足配線をめぐらして稼いでいた。私たちが住んだ国々には、いわゆるまがいモノが堂々と売られていた。日本製品など良い餌食で自動車の部品など純正部品より偽物の方がはるかに数多く出回っていた。貧しさから必然的にそうならざるを得ない面があった。私が感心したのは、そのまがい物でちゃんと何度でも修理して純正の日本製品を使いこなしていたことだった。住んだどこの国でも市場や通りに出れば、物売りがテレビ放送受信用のIC-カードを正規のカードよりずっと安く売っていた。生活力というのかずる賢いのか。国家権力や法律より、民衆の経済へのあくなき欲求の方が先行していた。

 私はNHKを支持する。なぜならNHKには、コマーシャルがないからである。民放テレビ局のコマーシャルには、うんざりしている。良い番組に限って、これでもかとしつこく何回にもわたってコマーシャルを繰り返す。その点、NHKはコマーシャルと無縁である。これは視聴者にとってありがたいことである。私はコマーシャルを観なくても済むというだけでNHKに受信料を払っても良いと思っている。

 NHKテレビの番組も良いものが多い。ドキュメンタリーの『プラネットアース』はBBC やナショナルジオグラフィックとの共同制作だが、優れた作品である。『プラネットアース』のような作品を制作するには莫大な費用がかかる。気が遠くなるくらいの長時間、多くの危険が伴う撮影を経て製作される。受診料を払うことで、私もその番組制作を担っているという気になる。素晴らしい作品をコマーシャルで中断されるのは堪らない。

 サッカーに打ち込んでいる孫たちが、来年の東京オリンピックのサッカー決勝戦のチケットが当たったと喜んでいる。私も出来ることならこの目でオリンピックを観たい。しかし今年のこの猛暑で体調を崩していて、外に出られずにいる。こんな体で来年オリンピックを観に行くことなど考えられない。妻と相談した。ならばテレビで観戦しようと。4K放送が始まった。来年はNHKのBS4K放送でオリンピックを中継すると聞いた。会場で観戦できなくてもBS4K放送で綺麗な画面で観ようと決めた。4Kテレビを購入した。購入する時、妻は店員と約束した。もし4Kが観られなかったら返品すると。店員は受け入れた。テレビが設置された。4Kが映らない。店に連絡した。集合住宅の共同アンテナを設置した会社も来た。テレビの製造会社からも技術員が来た。増幅器も試した。まったく映らない。店に返品を申し出た。断られた。

 NHKの「いつでも、どこでも、誰にでも、確かな情報や豊かな文化を全国津々浦々にあまねく伝えていく」は、まだ4Kには適用されていないようだ。亡き父が言った。「お前は何でも他人より10年早まって失敗を繰り返す」


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